月: 2017年11月

アウレリウス・ウィクトル『ローマ皇帝列伝』翻訳について

【解題、試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにエウトロピウスと教皇列伝もそちらに移管した】

 日進月歩といいたいところですが、そうもいかず・・・(一応の訳了は1年後の予定ですが、さて)。いつまでたっても手直しに切りがないので、ばらばらですが、手を加えたところから、恥ずかしながらたたき台としてアップさせていただきます。(といいつつ、次回がいつになるやら)
 秦剛平氏は、エウセビオス『教会史』や『コンスタンティヌスの生涯』において、意訳箇所に逐一訳註をつけて克明に明記されてます。それは一般読者としては相当にわずらわしいのですが、研究者の翻訳倫理としては本来そうあるべきだ、と私も思います(その彼に細かいことですが私なりにイチャモンつけたい箇所もありますが、それは別の場所で)。ここではできるだけ逐語訳で作業し、最終的に読みやすい「超訳」 (^^ゞを試みたいというのが、私の念願ですが、もとより文才なく、その上先のない身なので、期待しないでお待ちください。
 いずれエウトロピウス『首都創建以来の略史』全10巻でも本来この作業をしなければと思ってますが、そのためにはだいぶ先まで惚けずに頑張らないと。しかしたとえ私がついえても、若い世代で継いでやってくださる方が出てくることを信じています。それが研究というものではないでしょうか。

本翻訳で使用のラテン語テキスト:
 Recensvit Fr.Pichlmayr et R.Grvendel, Sexti Avrelii Victoris Liber de Caesaribvs, in:Bibliotheca Tevbneriana, Leipzig, 1970 =http://www.thelatinlibrary.com/victor.caes.html
現代語訳註(*原文テキストを含まない):
 *by C.E.V.Nixon, An Historiographical Study of the Caesares of Sextus Aurelius Victor, Diss., Michigan, 1971.
 par Pierre Dufraigne, Aurelius Victor Livre des Césars, in:Les Belles Lettres, Paris, 1975.
 par Michel Festy, Sextus Aurelius Victor, Livre des Cesars, Thèse Doct. de l’Université Paul Valéry-Montpellier III, 1991.
 *by H.W.Bird, Aurelius Victor:De Caesaribus, Liverpool UP, 1994.
von Kirsten Groß-Albenhausen u. Manfred Fuhrmann, Die Römischen Kaiser Liber de Caesaribus, in:Tvscvlvm, Darmstadt, 1997.
索引辞書:
 Conscripsit Luca Cardinali, Aurelii Victoris Liber de Caesaribus Concordantiae et Indices, vol.I, in:ALPHA-OMEGA, Hildesheim/Zürich/ New York, 2012.

訳文中での記号、他:
[ ]:テキスト段階の異読・付加等の場合
( ):文脈上の翻訳者の補い
【 】:翻訳者のコメント
ラテン語表示:訳語の統一を図るために、ここでは便宜上入れていますが、形式はふぞろいかもです。
訳注:とりあえず『上智史學』60ー64号(2015ー18年)掲載を参照願います。なお、そのpdf文書は「上智大学学術情報リポジトリ」(http://digital-archives.sophia.ac. jp/repository/)から「アウレリウス・ウィクトル研究会」と検索にかけると、入手可能です。

 ここでは、本文のみをアップします。意味不明の箇所が散在し、現在進行形で訳語もあれこれ思案し、『上智史學』の試訳はすでにかなり修正しておりますので、翻訳についてはこのブログのほうを参照して下さい。
 このところ、いまひとつ著者の語感がつかめなくてどうしたものかと思案しているのは、死亡に関する単語をどう訳し分けるか、です。「亡くなった」「死んだ」「滅びた」「消えた」「殺された」「殺害された」「殺戮された」・・・。絞殺や斬殺など明確な場合はいいのですが、それも他の並行史料でどうあれ、それで見当つけるのは避けなければなりませんし、辞書的にも多義あって思いのほか面倒です。又、違和感にとらわれた例としてはgensがあります。ローマ人のそれには「氏族」と訳すべきなのでしょうが、ウィクトルは国外の野蛮人の場合もそれを使ってます。その場合は最初「部族」と訳し分けていたのですが、ここはウィクトルがローマ人を彼らと区別していなかったのではと思い直して「部族」で統一してみる試みをしています。
 共訳者の林君に言わせると、それはウィクトルが同じ単語を使わないで別の言葉で言い換えようとしているせいだ、ということになります。そういえばエウトロピウスの場合は同じ単語を使う傾向があって、翻訳も簡単だったことを思い出しました。その翻訳の場合、同一単語で訳せばむしろ簡単なのですが、ここではあえてこだわってみて、全巻で1,2度しか登場しない単語には角度のある訳語を付してみました(これは英独仏の近代語訳ではやっていないようです)。
 よろずご意見・ご指摘は遠慮なくお申し出ください。
 その際、本翻訳では、「直訳」「逐語訳」でやっている点だけはあらかじめご了解ください。具体的に言うと、「可能なかぎり単語の順番通りに訳す:勝手に入れ替えない」「複数形はそれがわかるように訳す:単数と明確に区別する」「時制も動詞の形どおりに訳す:歴史的現在は現在形で表記する」「極力同一訳語をつけるようにする:翻訳者の意訳によるニュアンスの変化をできるだけ排する」、といった、まあ当然のことなんですが。
 ただ、これまでこの翻訳作業に対して、共訳者間ではかなり辛辣にやり合っていて(だから先になかなか進みません:欧米現代語訳註も肝腎の箇所で参考にならない場合が多く)、ある場合はそれを押さえ込んで豊田個人訳として公表してきたのが実情ですが、であれば世の専門家の方々はもっと言いたいことがありそうなものですが、これまでわずかお一人のみしかご指摘頂戴してません。批判にも値しないしろものだからなのか、それとも、これが内弁慶な日本の学界の現状なのか、いずれにせよ、いずれまとめて公刊を予定している身からしますと、はなはだ残念なことです。  

【後記】 2019年1月に一応完訳して、現在見直しに入っている(手間取っているのは訳語の統一作業である)。先日いつものことながら偶然、1年前放映の「風雲児たち:蘭学革命篇」の再放送を見て、なんだか我々に似ているなと思わされた。「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せしか如く茫洋として」(杉田玄白(翼)著『蘭学事始』明治23年4月)という彼らと違って、我々には辞書も近代語訳もそしてコンコルダンスさえあるのだが、やっていることはエピソード「フルヘッヘンド」並の試行錯誤の連続である。『解体新書』は語学の完璧主義者前野良沢と、実は蘭語が苦手な、しかし世事に長けた杉田玄白の両様あって陽の目を見たわけだが、両方とも寸足らずの我らにどこまでできるのかごろうじろ、といったところか。いずれにせよ、52年後といわずどなたか全面改訂版をお出しいただけるまでの捨て石になればと、と思う。

【追記】一応の完訳版は2019年7月にアップしております。

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アウレリウス・ウィクトル『ローマ皇帝列伝』解読作業

【解題、試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにエウトロピウスと教皇列伝もそちらに移管した】

 意味不明の箇所が散在し難儀してます。まだ満足いきませんが、一応アップします。
 このところ、いまひとつ著者の語感がつかめなくてどうしたものかと思案しているのは、死亡に関する単語をどう訳し分けるか、です。「亡くなった」「死んだ」「滅びた」「消えた」「殺された」「殺害された」「殺戮された」・・・。絞殺や斬殺など明確な場合はいいのですが、それも他の並行史料でどうあれ、それで見当つけるのは避けなければなりませんし、辞書的にも多義あって思いのほか面倒です。
 共訳者の林君に言わせると、それはウィクトルが同じ単語を使わないで別の言葉で言い換えようとしているせいだ、ということになります。そういえばエウトロピウスの場合は同じ単語を使う傾向があって、翻訳も簡単だったことを思い出しました。その翻訳の場合、類似の同一単語で訳せばむしろ簡単なのですが、ここではあえてこだわってみて、全巻で1,2度しか登場しない単語には角度のある訳語を付してみてます。
 よろずご意見・ご指摘は遠慮なくお申し出ください:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

【後記】 2019年1月に一応完訳して、現在見直しに入っている。先日いつものことながら偶然、1年前放映の「風雲児たち:蘭学革命篇」の再放送を見て、なんだか我々に似ているなと思わされた。「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せしか如く茫洋として」(杉田玄白(翼)著『蘭学事始』明治23年4月)という彼らと違って、我々には辞書も近代語訳もそしてコンコルダンスさえあるのだが、やっていることはエピソード「フルヘッヘンド」並の試行錯誤の連続であった。『解体新書』は語学の完璧主義者前野良沢と、実は蘭語が苦手なしかし世事に長けた杉田玄白あって陽の目を見たわけだが(それにしても『蘭学事始』が明治中盤の出版だとはしらなかった)、両方とも寸足らずの我らにどこまでできるのかごろうじろ、といったところか。いずれにせよ、初訳出版後52年後といわずどなたか全面改訂版をお出しいただけるまでの捨て石になれば、と思っている。

【後記2】2019年7月末に、ようやく読書会での見直しが終わった。とはいえ,その後も個人的にコンコルダンスを開いて副詞や名詞の統一を見直しているが、やたら見落とし(というか、不統一)をみつけて、やはり私など翻訳業には向いていない、とつくづく思う。折も折、栗田伸子氏から、サルスティウス『ユグルタ戦争・カティリーナの陰謀』岩波文庫、の恵贈の栄誉を頂いた。ルビを打たれた単語をちらほら見ていると、共和政末期と帝政末期の、ま、大ざっぱにいって400年の差があるにもかかわらず同一単語が使われていて、しかし日本でこの現象を考えてみると、この間隔は夏目漱石や森鴎外どころではなく、現在から徳川幕府の開始ほどの時間差で、正直いってそのころ書かれたものを読める学生が現在どれほどいることやらと、この格差をどうかんがえればいいのか、しばし呆然としてしまう自分がいる。

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Aurelius Victor 試訳掲載について(前口上)

【解題、試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにエウトロピウスと教皇列伝もそちらに移管した】

在職時に大学院演習で訳し始めたものの、あまりの難解さにてこずってなかなか先に進めません(その箇所は、主としてアウレリウス・ウィクトルが、権力や世間の自堕落さに対し「ごたく」を開陳している場所です)。ま、このあたりが私の能力不足なんですが、幸い同好の士を得て、継続してじわじわやってます。しかし、いっかな完成はおぼつきません(一応の訳了は1年後を想定してますが)。
私事ですが、体調も万全とは言えず(しかし、そもそも人生に万全なんてことはないわけですが)、それでもこれまで経験したことのない異変に直面して(老化現象:たとえば、左膝関節の痛み[こっちはまあ理解できる]とか、右肩から首筋・顎あたりをしびれが襲う[妻によると頸部に何か起こっているのだろうと]ことなんかそうです)、こりゃ先がないかもと自覚せざるをえない今日この頃ですが、まああと5年なんとかもってほしい。
最近になって、田川健三氏の『ヨハネの黙示録:訳・註』が出版されたことを知り、とりあえず「読書案内」読んだのですが、彼って82歳なんだけど相変わらずの毒蝮三太夫で、ちっとも丸くなっていない・・・のがすごい、としかいいようがない (^^ゞ (いや、表現がちょっぴりだけやさしくなってる気がしないでもありませんが)。
『原始キリスト教史の一断面』で学ばせて頂いた編集史的分析という点で、私の研究手法と通じるものがあって(他人にイチャモンつけるクセもでしょ、と影の声が・・・)、まあ心底同感しながら楽しく読ませていただけるのが嬉しいです。彼ほどの語学的才能も知識もない身でとてもマネはできませんが、せいぜい気張って逐語訳を通じて原著者の本意を探っていきたいと思ってます。
試訳はこれまで『上智史學』第60号(2015/11)から第62号(2018/11)に、第1章〜第39章23節までを掲載してきましたが(旧訳は、上智大学図書館のリポジトリで、「上智史學」「アウレリウス ウィクトル ケンキュウカイ」をクリックすれば、pdf版を入手可能ですが、すでに誤訳や訳語選択上の試行錯誤で右往左往の変更箇所がありますので、むしろこのブログをご覧になるほうがいいでしょう)、さりながら完成時の全面修正など先の保証がない身としては、明々白々の空手形としかいいようもなく、よってあくまで「現段階での」試訳ではありますが(そう言いつつ、これが最後になるかも)、このブログを通じて公表していこうかと思い立ちました。
前もって言い添えておきます。最近アウレリウス・ウィクトルの『索引辞書』(Concordantae, 2012)を大枚はたいて入手したのはいいのですが、これを活用して定訳を決め打ちすればより厳密な訳ができるのではと、まあ掲げた狙いはよしとして、実際にいちいち参照してやってみると、これがかなりの難物で、とにかく先に進まない、そのうち集中力が保てず疲れ果て・・・、私の場合寝るしかない。「明日なろ」なんだけど、朝になったら大方前夜の問題は忘れて果てていて・・・。申し訳ないのですが、作業としては中途半端となってることをお詫びしておきます。
第二に、より正確な訳を目指しているといっても、所詮私の恣意的な読解の羅列でしかありません。独英仏の現代語訳・註解も出ており、これまでの諸先輩の採用された翻訳手法は、それらに準拠し、とにかく欧米に依拠して中庸のとれた標準的な訳業を世に問うのが良しとされてきていて、それに一理あることは分かるのですが、本訳において私は、いちいち指摘しないであえて欧米と異なる独自のチャレンジ訳を試みた場合があります(逐一指摘してたら田川氏みたいに膨大になっちゃうわけで、私には彼みたいな尽きせぬエネルギーも、能力も、時間的余裕もありませんのでお許しください)。まあ立場が違えば当然それは「誤訳」と言われかねませんが、私は内在的にそのほうがよりよく理解できると判断して、そうしておりますので、ご理解いただければと存じます。
もちろんだからといって、単純な誤訳や誤読が皆無ということなどありえません。「過ちては改むるに憚ること勿れ」を誠実に実践したいと思ってますので(実は、これも私にはやたらエネルギーと時間かかりますが)、遠慮なくご指摘いただければと存じます。こういう相互討論がともかく表舞台でなされることが我が国で希薄なのは、やっぱり問題ではないでしょうか。

前口上(と言い訳)で思わず長くなりました。これも田川大先生の影響かもしれません。とりあえずこれくらいにしておきましょう。

もし輪読会に参加希望の方いらっしゃったら、大歓迎ですので、メールで連絡ください。当方のアドレスは以下です。ご感想やご意見もお待ちしております:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp
現在は、毎週火曜日午後6時から2時間程度、渋谷の貸事務室(ワンルーム・マンション)を借りてやってます。参加者は社会人3名、それに私です。場所代とお互いの交通費をプールし、その後基本アルコール抜きの軽い夕食を摂って解散してます。「これって、1人ではぜったい読めないよね、みんなで読むからやれるんだよね」といいながら。

【追記】2020年初頭現在は、エウトロピウス『首都創建以来の略史』全十巻、の訳直しをしてます。このブログの2019年10月に掲載中です。

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