月: 2019年2月

偶然も強い意志がもたらす必然である:飛耳長目(3)

 先日、NHKスペシャル「平成史」第5回「“ノーベル賞会社員”~科学技術立国の苦闘~」で、田中耕一氏のノーベル賞受賞以降の苦悩と新境地開拓が放映された。https://news.nicovideo.jp/watch/nw4851000

 標記はそこで彼が言った言葉である。ノーベル賞級の発明発見の半分は偶然に見つけられたということで、それの意味することはこれまでもさまざまに表現されてきた(ルイ・パストゥール「幸運は用意された心のみに宿る」le hasard ne favorise que les esprits préparés)。今風に若干格好つけた表現をするなら「セレンディピティ」Serendipityということになろうか。

 我々のような文系の輸入研究分野(紹介史学)にひきつけてみると、まあ欧米の研究成果の横文字を縦にする世界は、多少の和製のこねくり回しをほどこしたところで、所詮猿まね、縮小再生産で終わってしまうこと必定なのだが、そこでセレンディピティ創出をめざすならどうしたらいいのかと考える時、これはもうひたすら原典史料の読破しかない、と私は思わざるをえない。理系の実験は何万通りの組み合わせを一つ一つ潰していって、しかし多くの場合は実験者の事前想定などいとも簡単に覆して、最初の想定だと失敗のはずの試みから偶然に発見されることがあるわけだが、それと同様の苦闘を、我々はギリシア語・ラテン語の原典との対峙の中でしなければならない、はずなのだ。この営みはオリジナルの成果などいつみつかるかわからないのだが(しかし、体験的に必ず新発見があることも確か、なのである:鶴岡一人曰く「グラウンドにゼニが落ちている」)、それが我々にとっての何万通りの実験なのである。上記放映で若手研究者が「研究者生命をかけ」て命じられた実験に向かっている姿があったが、はたして文系の我々はそれほどの覚悟をもってやっているのだろうか。

 とはいえ、人間相手の人文学は理系と違って実験はなかなか難しい。しかも、「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛び立つ」(G.W.F.ヘーゲル『法哲学』序文)とはよく言ったもので、すでに終わってしまった人生でようやく初めて見えてくるものがある、と思うのは私だけであろうか。若手にはそれまでなんとか生き延びてもらいたいと思うと同時に、なぜか職を得た途端に研究を止めてしまうあられもない現実を見るにつけ、なんだかなと思わざるを得ない私である。そっから先がまさしく正念場だろうに。

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はたして歴史的「事実」など存在するのか

 昔も読んだはずだったが忘れ果てていて、最近また読み直していてこんな文章に出会った。

  「私が学部生だった頃、歴史学の教授たちは、客観的な歴史は存在しない、と教えた。フォン・ランケ(Von Ranke)は死んだ。ランケの研究法もまた過去のものとなった。「起こった事をその通りに」見出す方法はない。歴史家たちは彼等自身の目的のために、彼等自身の偏見と立場から記述した。客観性を装っている者によって騙されるよりも、臆面もなく偏向している歴史家を読む方がましである、と教授たちはいった。」(モーリーン・A.ティリー「第39章 ペルペトゥアとフェリシティの受難」『聖典の探索へ:フェミニスト聖書注解』日本キリスト教団出版局、2002[原著1994]、p.621)。

 これでようやく納得したことがある。フェミニズムないしジェンダー史学華やかりし頃、学位を取って売り出し中のアメリカ系女性研究者たちの、私見ではやたら主観に走った論述に辟易した記憶があったからだが、彼女らの理解だとアメリカでは当時「臆面もなく偏向」した歴史が推奨されていたらしいことがようやくわかり、腑に落ちるものがあったからである(誤解なきよう付言しておく。これはティリー女史をあげつらってのことではない。私は彼女の論文を若干読んでいて、かねてその視角や論点に親近感をもっていた[もちろん批判点もあるが]。今回ウェブ検索し直してみると、彼女は1948年生まれで私より1歳若く、そして2016年4月に脾臓ガンですでに死亡していた。合掌)。

2013年のTV出演時

 確かに人は「真実」(truth)を追求しがちである。「真実」とは、「事実」(fact)に直観による信念を加えたものである。究極的な「事実」は一つでも、「真実」は主観的で人の数だけある。なるほど世間にはもっともらしく「客観性を装っている」研究があふれていることも確かである。しかしだからといって私は「事実」追求の矛先を緩めていいとは思わない。いわんや「臆面もなく偏向」していていいわけはない、はずである。それはむしろ歴史小説のジャンルだろう。しかし、歴史研究者にはほとんどの場合、歴史小説を書く文才はない。

 ただ客観的「事実」といえども唯一ではない。たとえばA地点で武力衝突が生じても、2、3ブロック離れたB地点は平穏そのものであれば、事件の評価にA地点とB地点の証言で温度差が生じるのは当たり前で、だが史料的にBしか残っていない場合、それが客観的「事実」になっていいはずはないからである。「事実」の認定には諸状況を勘案しての史料批判が必要で、しかしその検証を経たところで絶対的に正しい「事実」と断定できるわけでもない、と歯切れは悪くとも相対的位置づけに留めることは重要であろう。その意味ではじめて、たとえ真摯な研究者の立論といえども「独断と偏見」にすぎない、といえるのである。

【追伸】後付けではなく、歴史の瞬間瞬間には別の選択の可能性があったということを日本現代史で追体験したい向きは、以下をご一読されることをお勧めする(なに、私も教えてもらったのだが)。半藤一利他『大人のための昭和史入門』文春新書、2015年。こういった検証は現代史だから可能だと思わざるをえないが(しかし多くの人はすでにその可能性の存在を忘却している)、平行史料が消え去ってしまった古代史の場合、その存在を意図的に視野に入れて残存史料を相対化することが必要と考える。だが、どれほどの研究者がそれを行っているか、はなはだ疑問である。

【追記】こういう視点もおもしろい、というか本音だろう。「歴史」はどこまで遡るべきか

2020年01月15日):http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52265903.html

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ケルト・メモ:(2)体感的キリスト教

 これもうろ覚えですが。
 今日、偶然にも途中からBS4で「知られざる古代文明:マヤのピラミッド」をみたら、最後に極めつけの文言が研究者の口から発せられて、脱帽。
 征服者スペイン人がやってきてキリスト教を強要した。マヤ人たちはそれまで多神教だったが、それまで1000の神を信じていたとして、彼らはキリスト教を単に1001番目の神として受け入れたに過ぎなかった、と。
 まあ、ケルト人にとっても、同じことであったのではないか、と私は思う。

 ところで、多神教の中で自分の守護神として一人の神を選び取ることを「一神礼拝」monolatryといいます(実は研究者レベルでは、アブラハムもそうだったとされてます)。キリスト教側では教義的に自分たちは「唯一神礼拝」monotheismだ、と一生懸命主張するわけですが、実際の信者たちの多くにとっては「一神礼拝」にすぎなかったりします。
 信者であれば体感的にこのことは分かっているのですが(特にカトリックでは)、頭で自分はキリスト教を理解できていると思いこんでいる非信者たちは(いや、自分はちゃんと信じていると思っている人でさえも)、この肝腎な部分が分かっていないので、見当外れの言説を飽きもせず再生産しているように思うのは、私だけでしょうか。

 理念追求の神学や哲学はそれでいいとして(正直本音では、いいとはまったく思ってませんが (^^ゞ)、現実を直視すべき歴史やってる人がそれでは、どうも、ね。

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殉教のテンション:遅報(1)

 2/5に偶然見た、NHK BS4K「知られざる古代文明 発見! ナスカ;大地に隠された未知なる地上絵」。2年以上前の再放送のようだ。俳優の佐藤健がレポーター。 
 新しい考古学的成果でいい加減な従来説が崩壊し、なかなかいい線いっている気がしました。私はこれまでそれに触れている著述家たちは現地に入っていると思ってきたが、どうも違うらしい(現地に入るためには特別な許可がいるらしいし)。ひょっとして航空写真しか見ないであれこれもっともらしいことを言ってきたのだろうか。今回現地に入っての調査団は山形大学チーム。やっぱり現地に立ってみて初めて分かることがある、という当たり前のことを地で行っている好例。あの線が実は足幅しかなくて、おそらく片足を引きずって描かれたものということなど、聞いて驚くことばかり。
 たしか、あれを用水路だといった説もあったよな。赤面ものだ。
 南アメリカでの人身犠牲についても、ここでも自ら自発的に提供した者もいたらしい。キーワードはやっぱり水資源。雨乞いなのだ。研究者が「命は大切、だからそれを守るために大切な命を捧げる」という視点で述べて、それに対して佐藤が「どういうテンションでやったのでしょうかねえ」と反問すると、研究者のほうが「あっ、テンションっていう表現はなかなかいいですね」と返す場面があって、面白かった。
 私的には、殉教の場面で、このテンションを考えてみたいと思ってます。

[後日補遺]このシリーズのマヤ文化もみることできた。そこでも水資源がかの文明の衰退と関連していたらしいとされ、ただしナスカとは逆に干魃ではなくて、雨量が多くてそのためだったと。この真逆な発想には学ぶべきものがある。

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ケルト・メモ:(1)鹿の奇蹟譚とキリスト教

 読書会で読んでいる、ヤン・ブレキリアン『ケルト神話の世界』上、138-142ページに出てきている聖エダーンSt.Edern(聖ユベールSt.Hubert)の牡鹿の角の間に十字架を見たという幻視に関連して、ローマ市内のSant’Eustathio教会の正面屋根上にも枝角をもった鹿が飾られているが、関連は、という質問が〇〇さんからありました。そういえばそうだよね、というわけで、家に帰って調べてみたのですが、Eustathiusの伝説のほうが時代的にかなり古いので直接の関係はないけれど、類似伝承としては知られていたようです(普通だと、古い方が先行伝承なので、翻訳者もそのように想定してます。p.141)。

 以下、ウキペディア情報。エウスタティウスは、ローマ皇帝トラヤヌスに奉職していた将軍で、元々の名前はPlacidusだった。彼はティヴォリで牡鹿の狩りをしていた時、鹿の角の間に十字架を幻視したので、すぐに家族ともども改宗し、名前をEustathius(堅固)と変えた。彼はヨブと同様の数々の試練を受けたが、信仰を堅持した。だが、118年に異教犠牲を拒否して、妻子ともども青銅製の牛像の中に入れられあぶり殺された、のだそうです。 
 たぶん伝説上の人物だったせいでしょうが、カトリック教会は、1970年に聖人暦から彼を削除しましたが、地方的崇敬は存続しているそうです(これがカトリックでは普通の対応である)。未だ英国国教会や正教会では聖人で9月20日が祭日だそうです(手元にある光明社版の『カトリック聖人傳』下巻、1938年、p.282には、その日付の[共祝]欄に以下のように書かれている:ローマにおいては聖エウスタキオ将軍、その妻聖女テオピスチス、その子聖アガピトおよび聖テオピスト各殉教者ーー猛獣の餌食にされようとしたがなんの危害もこうむらず、最後に鉄牛の内部に押しこまれて焼きころされた)。 この教会、パンテオンのすぐ西南にあります。

 その広場の一画にあるカフェがくだんの「サンテスタッチオ・イル・カフェ」で、エスプレッソが絶品(黙っているとズッケロ入りとなる)。ローマ1、と私は思ってます。ローマに行くと必ず行き、お土産に豆を買います。今度いったら、この御縁で,鹿と十字架の図案付きカップも買おうかな(ウェブでも購入可能のようだけど,送料とかかかりそうだし)。でも我が家にはカップがもういっぱいあって、すでに断捨離趣味の嫁さんの標的にされてる気配があって、苦悶 (^^ゞ

【後日談】今回(2019年5月)の渡伊で首尾よく購入! 帰国して勇んで開けてみると・・・カップは壊れていた・・・。こんなことは初めてだっ、とほほ。嫁さんはにこやかに笑ってました。

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