月: 2019年3月

ケルト・メモ:(3)ストーン・サークル研究の今

3月23日土曜 BS4K 午後5時30分~ 午後7時30分  奇跡の巨石文明! ストーンヘンジ七不思議

 橋本環奈が“不思議の扉”を開く! イギリス巨石文明のシンボル「ストーンヘンジ」に秘められた七つの謎を最新科学で徹底解明! 誰が何のために? 人類究極のミステリーに迫る橋本環奈が“不思議の扉”を開く! 伝説と神話に彩られたイギリス巨石文明のシンボル「ストーンヘンジ」。大人気の世界遺産に秘められた七つの謎を最新科学で徹底解明! 数千年の時を超えた“驚異のテクノロジー”が判明! 古代人が仕掛けた“視覚トリック”の正体とは!? 誰が何のために築いたのか? 古代文明の存亡を賭けた壮大なドラマに、最新科学が鋭く切り込む。絶景のストーンサークルも続々登場! 人類究極のミステリーに迫る!

【司会】橋本環奈,【ゲスト】サヘル・ローズ,荒俣宏,松木武彦,志村史夫,山田英春,【アナウンサー】魚住優

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 これを私は後半の1時間だけ見ました。BSはなんども再放送しているようなので、運良ければまたみることできるでしょう。充実した2時間番組のように思います。

 古代ブリトン人は石器時代の担い手だった。その際、貴重な資源となったのが、フリントだった。石英で白色に光るサーセン石で造られたストーンヘンジは墓であると同時に儀式の場所だった。その儀式の中心は、冬至における日没で、それを確認することは太陽の再生を確認するために重要だった。そして古代人にとって太陽運行も星座も円環運動だったので、これも最古の世界観として「円」が、再生の象徴だったのである。ストーン・サークルが巨大化したのは前2500年頃で、これは、その頃地球規模の寒冷化が襲い、農業危機が訪れたことに起因して、太陽の再生を願ったためだったのであろう、と。冬至がその中心で、人々は巡礼してここに集合したが、そのときストーンヘンジの向こう側で西に落ちる太陽をみたであろう参道も発掘発見されている。

 DNAの調査で、巨石文明の担い手の古代ブリトン人が、今から4000年前に渡来したビーカー人とあっという間に入れ替わったという現象を、ビーカー人が大陸から疫病を持ち込んだせいと想定していたのは興味深かった(どっかで聞いたことある話だ)。たしか原聖氏の『ケルトの水脈』(講談社、2007)では、武力とか人的移住ではなく文化受容による変化だったとしていたが、疋田隆康氏がそれはありえないだろうと書評で書いていた記憶がある(『西洋史学』229, 2008)。テレビでは、それに加えて青銅や金の金属器を持ち込んだのが決定的と言っていた。これはまあ理解できる。

【後追い1】以下を見つけました。4/20:ストーンヘンジは誰が作ったのか?現代の遺伝子解析がその謎に迫る(英研究)

https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52273377/

【後追い2】6/22:NHKオンデマンドで、上記のビデオを見た。そこで最初あたりで、日本人のゲストの考古学者が、いかにも新しい学説のように喋っていて、私に奇異だったのは、「巨石文明の原点はイギリスだった」という件である。というのは、私は1995年翻訳出版されていた、ヘルムート・トリブッチ(渡辺正訳)『蜃気楼文明:ピラミッド、ナスカ、ストーンヘンジの謎を解く』工作舎(原典:H.Tributsch, Das Rätsel der Götter: Fata Morgana, Ullstein Verlag, Berlin, 1983)で、すでにその説に触れていたからだ(但し、トリブッチの主眼は蜃気楼の話のほうにあったのだが。この本の巨石文明の新説に驚嘆した私は、授業の必読書にしていたのだが、どれくらいの学生が読んでくれたのやら:この本、図書館には入っていた)。

 ま、あの考古学者は日本が専門のはずなので、かの学説が、邦訳で25年前、原著だと35年も前に出ていたことをご存じなくてもしょうがないが。それにしても、なんだかなと思ってしまう。専門家というよりバラエティ番組というべきか。こういう番組が最近多すぎる。

 あと、石器時代の古代ブリトン人は平等だった、金属器時代のビーカー人は階級社会だった、それをよしとしなかった古代ブリトン人は消え去っていった(それは暴力的に激しく劇的な変化だった)、ということを強調していたが、まあケルト人との関連で古代ブリトン人は他と比べて多少は平等の傾向はあったかもしれないが、これは程度問題にすぎず、かなり強力な指導者抜きにストーンヘンジのような大規模は工事はなしえなかったのでは、と私など思わざるを得ないのだが、どうだろう。考古学の仮説にはときどき研究者の希望的観測が封入されているような気がしてならないのだ。

ターナー「ストーンヘンジ、ウィルトシャー」 1827~28年 ソールズベリー博物館 On loan from The Salisbury Museum, England

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新訳の聖書のこと:遅報(2)

 なんと昨年12月に共同訳の新訳が出ていたことを、さっき知った。旧約聖書続編付きで、6000円弱だから決して安くないが、買わざるをえないだろう。

 で、田川建三氏が何か言っていないか気になったので検索してみたが、ご自分の翻訳の後始末でご多忙なようで、とりあえずみあたらないようだ。でも、ついでに彼の獅子吼を久し振りに読ませてもらった。

 面白かったのは、もう昨年の夏頃のことだが、彼が一仕事終わったので眠たくてたまらない、と書いていることだった。この眠たいということに関しては10歳若い私と同じだ。

 それにしても、彼には、『新約聖書概論』を早く書いてほしいと思う。ご長寿を祈っております。

【補遺1】田川訳新約聖書も大小出ていたので、貧乏人の私は安い小を購入したが、失敗した。字があまりにも小さくて、ま、読めないことはないにしてもストレスだ。どうせ携帯するより研究用なので大のほうがいいと思い直している。

【補遺2】大学の紀伊國屋書店で1割引きで両方を購入した。共同訳は、ちょっと印刷が薄い感じがするが、それは、2段組みの真ん中と下部に典拠記載欄が挟まれているせいと、活字が小さいせいなのだろう。なんだか読みにくい感じ。

田川訳の大判のほうはさすがに読みやすかった。しかしこんどは節番号がやたら目立っていて、若干目障りか。マルコを冒頭に置いているのはぜんぜん違和感ないが、今回の新機軸として、ルカのあとに使徒行伝を置き、パウロ書簡も疑似を後に置くなど、あっと驚かされる構成となっていて、いかにも田川大先生らしい。

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先達の足跡:(2) 水川温二

 エウセビオスの叙述について、戦前に以下のものがある。私的には、エウセビオスに対し温かい視線で、中庸を保ち落ち着いた論調で読ませる内容、と感じている(但し、註記によるとNPNF版(1890)の英訳に依拠)。とまれ、これまでエウセビオス関係の個別論文で私が見つけえた我が国最古のものである(それ以前に『教会史』の翻訳、鑓田研一訳『ユウセビウス信仰史』前後篇[賀川豊彦監修『信仰古典叢書』]、警醒社書店、1925年、が出版されてはいるが)。

 水川温二「教会史家ユウゼビウスの『コンスタンティヌス大帝伝』執筆の動機に就いて」京都帝國大學文学部西洋史研究室編『西洋史説苑:時野谷先生獻呈論文集』第1輯、目黒書店、1941年。

 しかし、戦後の研究者で彼のこの文献を引用する人を私はこれまで知らない。後述の弓削氏も引いていないと記憶する。

 ウェブで調べてみると、第八高等学校教授から名古屋大学文学部史学科教授になった人らしい(生没年不明:名古屋大学には彼の情報があるはずだ)。京都大学から1962年2月13日付けで学位が授与されている。ちなみに論題は『ローマの平和とキリスト教との接觸面に関する一考察』。知ることできた論文は以下で列挙しておくが、なんと『警友あいち』71号、1955年にも「イェズス・キリストの刑死」を書いていて(古書店から入手予定)、この表記の癖からひょっとしたらカトリック系だったのかもしれない(聖書の『共同訳』までカトリックは「イエズス」表記だった)。

「ユダス・マカベウスの叛乱」『史林』18-2、1933年

「セバステに於て殉教せる四十人の軍人に対する崇敬の歴史」『史林』23-1、1938年

「キリスト教迫害と父祖の道(MOS MAJORUM)」『名古屋大学文学部研究論集』2、1952年

「福音史家聖ルカの史観について:ユデア人の納税とイエズスの宗教運動」『名古屋大学文学部研究論集』5、1953

「ローマの支配を諷示する新約聖書の語について」『名古屋大学文学部研究論集』8、1954

「エフェゾ書に関する一考察」『名古屋大学文学部研究論集』14、1956

「小ブリニウスのビティニア総督としての使命について」『名古屋大学文学部研究論集』17、1957

「平和(PAX)と協調(CONCORDEA):キリスト教に於けるローマ的伝統に関する考察」『名古屋大学文学部十周年記念論集』1958年 

 このほかにも、子供向けの古代ギリシアの読み物もあるようだし、長谷川博隆氏が「カエサルの寛恕(clementia Caesaris)」『名古屋大学文学部研究論集』110、1991年、p.97で、「先師」と最大級?の敬意を表して、「ユリウス・カエサルの寛容とキケロ:ローマ帝政初期の仁政思想研究への序説」同『論集』32、 1964年;「カエサルの寛容とその帝国政策」同『論集』41、1966年、を引用されている。このように、きっと他にも業績があるに違いない。ご存知寄りの方からの情報がほしいところである。

 この時期のキリスト教迫害史研究の第1世代には、近山金次(1907-1975:慶應義塾大出身)、半田元夫(1915-1977:東京帝大)、秀村欣二(1912-1997:東京帝大)らがいる。こうした先達・先師の諸業績、忘れないようにしたいものである。

 エウセビオス研究については、彼の後は、25歳で以下を公表した弓削達(1924-2006:東京商科大)氏の破竹の独壇場となる。但し、『教会史』より『コンスタンティヌス大帝伝』のほうに重心がかかっていたが。

「ヘレニズム期アレクサンドリアにおける文獻考證學の性格について:基督教歴史學成立史研究の一部(その序)」『青山経済論集』1-1、1949年、pp.81-98.

 参考までに付言しておく。その後以下が出るが、これでこのテーマは終わってしまい、続稿は出なかった。

 「最近に於けるホメーロス研究の一傾向:『統一性の牧者』によるアレクサンドリア批判学者の断罪」『史学雑誌』60-7, 1951, pp.50-66.

【追補】ウェブで『名古屋大学文学部研究論集』の以下のリストを見つけた。http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/let/publications-contents/1951-2017_publications_contents.pdf

 その44、1967年の巻頭に水川氏の「略歴・主要論文」がみえた。彼の退官がその前年だったのだろう。そして泰斗・長谷川氏の論考が見え始めるのは65、1975年からである。こうした一覧表を眺めていると、著名な研究者の意外な経歴とか、すでに鬼籍に入られた存じ上げのお名前が散見されて、意想外に懐かしく楽しい。そういえば、以下のようないい導きの本もあった。土肥恒之『西洋史学の先駆者たち』中公叢書、2012年。これには、明治から敗戦までの私関係の広島大学、上智大学関係者も登場していて、よくぞ言及して下さったとその目配りに敬服したものである。

【追記1】日本における初期キリスト教史は、キリスト教神学から派生してきたといっていい。その嚆矢は、波多野精一(1877-1950:京都帝大)で、その弟子に東京帝大史学科から哲学科に転じた石原謙(1882-1976)や、京都帝大での後継者に有賀鐵太郞(1899-1977:同志社大)もいた。その後、史学からの人材が出てくるわけであるが、上記以外にも、キリスト教信者ばかりの中で、浄土真宗僧侶という異色の井上智勇(1906-1984:京都帝大)にも『初期キリスト教とローマ帝国』(1973)がある(レベル的にはそう高くないが)。後期ローマ帝国史を切り拓いた長友栄三郎(1911-?:慶應義塾大)も忘れてはならない。その第2世代に前出の弓削の他、その友人のマルキスト土井正興(1924-1993:東京帝大)が、1966年に書いた『イエス・キリスト』も忘れがたい。そして新田一郎(1932-2007:熊本大・京大院)もいた。それにしても、新田氏の没年は南川高志教授に問い聞きしてのことで、長友氏同様、ウェブ検索でヒットしないという、お寒い現実もある。翻って、冒頭の翻訳者鑓田研一については、十分な情報が書き込まれていた。賀川豊彦に師事したせいかもしれない。ちなみに生没年は、1892-1969。

 話は変わるが、最近女性研究者が増えたせいか、奥付著者紹介に生年が記載されないことが多くなっていて、研究世代確認には不便なことだ。出版社の自主規制と想像しているが、こういう誤った女権はやめてほしいと思う。

【追記2】『警友あいち』71号、1955年が届いた。それによると、その冒頭で水川温二は旧制高等学校の生徒だった時、キリスト教の洗礼を受けたと書いているが、それ以上のことは分からなかった。

【追記3】エウセビオス研究としては、迂闊にもこれまで射程に入ってこなかったものに、石本東生氏の以下がある。

「エウセビオスの『教会史』における自然環境」『奈良大地理』8, 2002, pp.1-11;「エウセビオスの『教会史』における宗教的環境とその特徴」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』35, 2002, pp.123-185;「エウセビオスの『教会史』に見る歴史観と環境観:コンスタンティノス1世を通しての一考察」『國學院雑誌』103-4, 2002, pp.17-29;「«Ουράνιες δυνάμεις» και «Φώς» στα Τρία Τελευταία Βιβλία της Εκκλησιαστικής Ιστορίας τον Ευσεβίου Καισαρείας:エウセビオスの『教会史』における《天の諸力》と《光》の意味」『プロピレア』(日本ギリシア語ギリシア文学会:広島大学)15, 2003, pp.1-14;「ヨセフスとエウセビオスの環境観と歴史観の相違:『ユダヤ戦記』と『教会史』における一比較研究」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』36, 2004, pp.75-144 . なお、同著者の以下は残念ながら未入手。「エウセビオスとフィロストルギオス:『教会史』における環境観の相違」『エーゲ海学会誌』15, 2001, pp.84-99. この一連の論文はおそらく後述の学位論文からの抜粋と思われる。『エウセビオス(カイザリア)の『教会史』(Ⅷ巻からⅩ巻)における自然・人間的・宗教的環境』(アテネ大学博士論文,ギリシャ語,単著)1999年11月。ちなみに2004年以降は観光学の分野に研究対象を移動されたようである。

ここで一言蕪辞を述べるとすれば、エウセビオスには『オノマスティコン』というパレスティナの地誌をまとめた一書がある。氏のような関心であれば、それを射程に入れて扱うのが常道と思われるのだが。

【追記4】2019/11/05に、なんと水川氏のお孫さんの淳さんからメールをいただいた。それで以下、付加訂正しておく。まずお名前だが「みずかわ」と読む(以下、敬称略)。

 温二は、岡山出身の水川復太の次男として、明治36年10月4日に生まれた。父・復太は、明治28年東京帝国大学法学部卒業生の一人で、「二八会」(https://ja.wikipedia.org/wiki/二八会)というその後の著名人が並ぶ同窓会の一員だったり、岡山県人会の学生会館である「精義塾(http://www.seigijuku.org/history.php)」の創始者でもあった。

 温二は、前述のごとく学生時代にカトリックの洗礼を受けていて(奥さまも息子さんも洗礼を受けていた由)、昭和41年頃名古屋大学を退官、昭和43年10月19日に亡くなられ、名古屋市天白区八事の墓地に十字架が刻んである墓に眠っておられるとのこと。わざわざ情報をお寄せいただいたお孫さんの水川淳氏には、深く感謝したい。

 戦前はもとより戦後の初期キリスト教史研究でもプロテスタント史家が主流であった中で、文面からそれとはひと味違うニュアンスを感じていた私の直感は、今回は当たっていたようだ。

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ペルペトゥア・メモ(1):鞭打ちと磔刑

VI.3:滅多にないことだが、他で読んでいる文献から関連記事がみつかった。フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』II.9.308:翻訳第一分冊、p.325。

   その日フルロスはかつて誰もしたことのない大胆な所業、つまり、騎士階級に属する者たちを審判の座の前で鞭打ちし、十字架に釘打ちするという所業をやってのけたからである。たとえ生まれがユダヤ人だったとしても、少なくともローマ人としての地位のある者たちをである。

 ヨセフスは、ここでのユダヤ総督フロルスGessius Florus (在職64-66年)を第一次ユダヤ戦争勃発を目論んだ張本人として描いている。

http://jewishencyclopedia.com/articles/12376-procurators

 その140年後、場所は北アフリカで、ペルペトゥアの父はアフリカ総督代理のHilarianusによって鞭打たれている。この総督代理の臨時職は、正規のアフリカ執政官格属州総督proconsul(アシア州と同格で元老院選出属州総督の筆頭ランク)のMinucius Timinianus(ギリシア語訳での表記のほうがより正しいとされているが、さてどうだろうか:「Mινουκίου Ὀππιανοῦ」= Oppianus ≒ Opimianus = PIR5 M 622,1983:ca.186 consul)の在任中の死亡によるもので、北アフリカのいずこか(おそらく州都カルタゴ周辺)の皇帝直轄所領の財務管理官procuratorだったヒラリアヌスは、後継の正規の総督が派遣されるまでのつなぎだったと思われる。こういった財務管理官の出自は、身分的には元老院身分に次ぐ騎士身分にランクされてはいても、おおよそ皇帝の宮廷における私的雇用人(奴隷、解放奴隷)であったから、姓名表記もここでのように個人名のみとなることが多い(ローマ市民が2つの姓名で表示される場合は、個人名・家系名で、今の場合、ミヌキウス・ティミニアヌスは、ca.123のアフリカ総督のT.Salvius Rufinus Minicius Opimianus,[PIR5 M623]が祖先と考えられるので、Minucius Opimianusと修正されているが、さて)。

 何が言いたいかというと、ペルペトゥアの父は笞打ちされているからには、元老院身分や騎士身分等いった特権身分ではなかった、ということ。ヨセフスがご1世紀半ばの例外事例を書き残しているものの、そしてカラカッラ帝の全自由民への市民権付与が目前の時期だったにせよ(それは、本来の市民権の内実の凋落を意味していたはずだ)。

【追伸】まったく別の話題ですが、磔刑つながりで。以前学生向けの論文集に磔刑がらみの事を書いた(「ローマ時代の落書きが語る人間模様」『歴史家の散歩道』上智大学出版、2008)。そこで十字架刑を体験した唯一の出土物を紹介したことがあったが、二番目ないし三番目の例として2000年前のイタリア出土の骨が2018年に公表されていた。いずれ再検討したいテーマであるが、なにせ先のない身なので、ここに明記しておきます。志ある人を求めています。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/extremely-rare-evidence-of-roman.html#EKZb2MUx2dCPG5RE.97

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『ペルペトゥア殉教伝』読書会参加者募集中!

 2019年度春季の上智大学公開学習センターで以下を開講予定で、現在募集中です。10名の受講者があれば開催されますが、苦戦中です。これが本当に最後かな。連絡先は、03−3238−3552。

 「女性史からみたキリスト教殉教:『ペルペトゥア殉教者伝』をめぐって」

 水曜日 午後7時10分〜8時40分

 開催日:4/24、5/15、5/22、6/5、6/12、6/26、7/3、7/10 の8回

 ジョイス・E・ソールズベリ『ペルペトゥアの殉教:ローマ帝国に生きた若き女性の死とその記憶』白水社、2018年、¥5200+税

【後記】締め切り日までの申込み人数2名につき、開催不能となりました。別途、読書会を開催しますので、そちらにご連絡ください。

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ピュイ・デュ・フー:もうひとつのフランス革命論:飛耳長目(4)

 またまた偶然だが、BS4Kで、「体感世界最大級のスペクタクル劇」の再放送をみた。フランスの西端でナントに近いPuy du Fouでのテーマ・パークの紹介で、フランスではディズニーランド以上に好評を博している由。ヨーロッパの歴史を再現するという触れ込みで、古代ローマの戦車競技の再現など、見所が多いようで、全部見るなら3日間は必要らしい。

 実は、それ以上に私の興味を引いたのは、多数の地元民ボランティア出演による1793年の「ヴァンデ戦争」再現劇のほうだった。フランス革命で宗教弾圧に反対して決起した民衆・農民の反乱に対して、革命政府軍が無差別殺戮をした。革命とは、いわれているほど理想的でも立派なことでもない、という当たり前のことを堂々とイベントにして、自説を主張する心意気に感じるものがあったからである。

 かつて「フランス革命」を理想化する言説が世の中に溢れていた昭和30年代に高校世界史を学んだ私は、わが名物教師(故)西尾先生が「今でも革命記念日にブルボン王家の白百合旗を掲げるフランス人がいるんだ、そもそも三色旗だって白が真ん中にちゃんとあるでしょ」と時流と相容れない、刺激的な情報をさりげなく告げられたことがあって、ある意味強引に、世の中を相対的に見ることの大切さを学んだ気がする。本当にそうなのか、確かめてみたい、これが私の道を決めたと今でもそう思っている。

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