この箇所は、私からすると突っ込みどころ満載、すなわち素直に読んでいると引っかかる箇所だらけなのである。
① XIX.2-6:自分はどの野獣にやられたいかという、獄中での男どもの与太話は、いかにも獄中での会話でありそうな話で、リアリティ十分で面白かった。その中でHeffernanの指摘で興味深かったのは、サトゥルスが自分は豹の一噛みで死にたいといっていたが、実際にはまず猪、ついで牡熊に向けられたけれど、野獣の都合で闘獣がうまくいかず、結局彼の予言通り豹により瀕死の重症を負ったことを、サトゥルスの予言の成就とみなしている点だった。
② XIX.5:闘獣士がサトゥルスと猪を「しっかり縛りつけ」ようとしたとは、闘わせる人間と野獣、野獣同士を、互いに鎖で繫いでいたことを意味していた。
③ XIX.6:サトゥルスが牡熊と対決させられたとき、彼が「橋の中で縛られ」たsubstrictus esset in ponteという意味が自明でない。熊が檻から出て死刑囚が縛られている台の階段を上っていく装置が「橋」に見えたのだろう。観客が見やすいようにするため、そういう舞台をしつらえたようだから。これについては、以下の論文で、奴隷売買の台catasta、舞台の奈落pegma、演台pulpitumといった装置と同様のものをponsと呼んでいたことが分かった。Jean-François Géraud, «Ad bestias ».Manger des hommes, Journées de l’Antiquité et des Temps anciens 2012-2013, Université de La Réunion, Apr 2012, pp.19-46.
④ XX.1:「娘」に慣習法に反して「雌牛」をあてがったという表現は、表面的には意味不明である。「悪魔は・・・」とか「性にすら嫉妬する・・・」といった、刺激的で大げさな表現が見てとれる、こういう箇所にはだいたいにおいて書き手にとって都合の悪いことが隠されている。裏に表ざたにしたくない事情があり、編纂者はその真意をごまかしたい意図があるからだ。ここでは、出産を経験しているペルペトゥアとフェリキタスをなぜか「娘」とことさら呼んでいることにまず引っかからずにはすまないはず。すなわち編纂者は事実に反して彼女たちを処女とみなしたかったようだ。彼女たちは二人とも出産を経験していることが明言されているので、この表現は読者に違和感を感じさせずにはおれないが、それでもなお編纂者は彼女たちを「娘」と表現したかったわけである(Heffernan、p.346f.は、PolyxenaやIphigeniaといった悲惨な犠牲に捧げられたギリシア神話に登場する女性を援用して解読を試みているが、今の場合まったく見当外れだろう)。その彼女たちが雌牛の前に立たされるのだが、この編纂者いうところの「娘と牝牛」という異例の組み合わせの裏に、どんな異例さがあったのか、私にはこれといった予備知識はないが、おそらく北アフリカの、カルタゴ地方の一般民衆にとって当時自明の慣習的共通認識があり、その意味合いを否定できなくともできるだけ薄めようと編纂者が苦心惨憺していたように思えてならない。私はこの箇所を、彼女たちは不義密通者・姦通者として扱われたと想定する時一番よく理解できると考える。この想定が当たっているなら、彼女たちの妊娠・出産の実際を判定する上で、きわめて重要となるはずだ(すなわち、この箇所は冒頭第2章の編纂者の編集句と連動していることになる)。すなわち、彼女たちの妊娠が当時の社会通念に反していたという認識が世間一般にあり、野獣刑もその線で具体的に実施されたのだろう(それを受難記は削除しているわけだ)。殉教者にふさわしからぬこの不都合な「濡れ衣」に対抗するべく、編纂者はあえて彼女たちを「娘」と呼んでいるのではないか。まあ、キリスト教の神にとっては殉教者は純潔な存在でしょ、なにしろ殉教者はすぐさま天国に行ける存在なのだから、だから処女といっていいんです、という苦しい言いくるめで乗り切ろうというわけだ(そのもくろみは、事情通が生き残っている当座は無理だったにしても、中世聖人伝で見事に定着化して成功するわけである)。だから彼女たちはまず見せしめ的に屈辱的な全裸で網だけかぶせられて登場させられ、それから牛との闘いのため服を着せられ再登場する。この見世物の見せ場は、死刑囚が牛の角ではね飛ばされて宙を舞う瞬間だったろう。その様子を描いたモザイクがある。きっとその瞬間に観衆は「お〜っれっ」といったかけ声を楽しげに唱和したに違いない。
⑤ XX.5:ペルペトゥアがピンをなくして髪が乱れるのを気にしているのは、淑女のたしなみとして当然であったが、編纂者の味付けとして、当時の葬儀の場に雇われてきた泣き女が髪を振り乱して嘆くパフォーマンスをしていたから、そのイメージを排して、あくまで天国に喜んで行く、としたかったのだろう。また霊媒や巫女が霊力を得ようとする場合、神懸かりしていることを示すべく、むしろ意図的に髪を振り乱して狂乱の様相を呈するわけで、そういう印象を排除するということもあったのかもしれない。
⑥ XX.7:ここで「生者門」をporta Sanavivariaとしているが、一般的にはporta Sanivivariaと表記していたようだ。だが、本来は「入場門」とでもしたほうが正確と考えたい。というのは、今回の場合ペルペトゥアたちは死刑囚なので、見世物への再登場までに一旦アレーナから退場したのがそこであったからだ。通常の円形闘技場には、「入場門」と、勝者の剣闘士が退場する「凱旋門」porta triumphalisと、逆に敗者が引きずられて出ていく「死者門」porta libitinensis(そこに付設の「剥ぎ取り部屋」spoliariumがあって、死者は武具や衣服を剥ぎ取られたり、敗者にまだ息がある場合はそこで喉を切られた)、があったようだ。施設によっては「入場門」と「凱旋門」が同一の場合もあったようで、今回のカルタゴの場合も、受難記叙述に依る限りそのようだったが(cf., X.13)、しかしペルペトゥアたちは死刑囚だったので「凱旋門」が受難記に登場する機会がなかっただけのこと、だったのかもしれない。
また円形闘技場は長径と短径があるので、東西南北で十字で区切られるアレーナのどちら側にそれらの門が設置されるかは、その規模によってさまざまだったようだ。例えばポンペイでは、東西の長径の西側に「入場門」、東側に「凱旋門」が、短径の南側に「死者門」が設置されていた(ちなみに北側は貴賓席:東西門の内側に付設されている部屋carcerは剣闘士たちが出演を待つ部屋だったのだろうか)。
試みに、イタリア半島のアドリア海側の小都市Larinoのそれを見てみると、やはり門は3箇所で、しかし「剥ぎ取り部屋」は長径の南北にそれぞれ2箇所づつ割り当てられているが、ポンペイと同様の待合室だった可能性もあるはずだ(その場所の詳細画像は以下参照:https://www.pinomiscione.it/historica/vita/anfiteatro/)。
⑦ XX.8:ここで初めて登場する洗礼志願者のルスティクスとは何者か。おそらく彼はアレーナ内でのペルペトゥアの受難にずっと付き添っていたわけではなく、彼女が一旦退場したとき門で待ち受けて抱きかかえるようにして支えたのであろう。誰憚ることなくこのような場所に自由に出入りできるのは、ウィビウス家当主の指示のもと、官憲の許可を受けた上で、ペルペトゥア付きの家内奴隷だったからとしか考えられない。農夫を意味する名前も彼の奴隷の素性を傍証しているようだ(但し、Heffernan, p.58によると、北アフリカで一般的な名前ではなかった由)。ひょっとすると、彼は彼女が幼少のころから身の回りの世話をしてきた彼女専属の、たとえば養育係奴隷paedagogusだったのかもしれない。その彼が洗礼志願者であった(この事実は当然官憲には伏せられていた、ないしは官憲が問題にしていなかったわけである)とすると、ウィビウス家にキリスト教が入り込みつつあったことになる。というのは、奴隷に信仰の自由があったわけではなく、ご主人様のお目こぼしというよりもおこぼれに与る形で同じ信仰なら持ち得た可能性があるからである。ペルペトゥアにしても外出時に監視係を手なずけておいたほうが都合よかったはずである。
関連でちょっと想像を膨らますなら、ペルペトゥアの兄弟の一人が洗礼志願者だったのが事実だとするなら(II.2)、彼はたぶん次男だったのではなかろうか。家督を継ぐはずの長男は将来の社会的立場を考えてキリスト教改宗には慎重だったはずだからである。1世紀半ほど後のヌミディア山間部のアウグスティヌスでさえ、洗礼は先延ばしにされていた。V.6での叙述を真に受けるなら、おそらくペルペトゥアの母も秘密裏の洗礼志願者だった可能性が強いが、実際にはどうだったのだろうか。
⑧ XX.10:「呼び寄せられた彼女の兄弟(sg.) そしてかの洗礼志願者(sg.) 」という表現は、文脈にそってそのまま素直にとるなら、II.1に登場している血縁上の兄弟と直前に登場しているルスティクスの二人だと、読者は理解するのが普通で、よもや兄弟と洗礼志願者が同一人物を示しているわけではないだろう(そっちのほうがよほどわかりやすいのだが)。上述の理由で後者はともかくとして、前者はペルペトゥアのご指名でわざわざ呼び出されているわけだが、処刑の場で、死刑囚が親族を呼ぶなどということが当時は可能であったということか。
⑨ XXI.1:その時、サトゥルスは「別の門」の所にいた、と書かれている。彼は野獣刑が不成立で一旦退場したのだが、それがどこかXIX.5-6で明記されていない。ペルペトゥアたちがいた生者門(XX.7)ではなく、まだ生きていたので死者門も除外されるからには(別に除外しなくてもいいかもしれないが)、すなわちたぶん凱旋門にいたのであろうか。
⑩ XXI.6-8:死刑囚が最終的にとどめを刺される場所とは、そのための設えられているはずの「剥ぎ取り部屋」のはずだが、ここの叙述からはアレーナの一隅であったように思われる。いずれにせよ、今回の彼らは見物人の要望に応じて、おそらくアレーナの中央(橋の上だったかも)に自発的に移動し、そこでとどめを受けた。下記のモザイクは、野獣狩りの見世物がまだ行われている最中で、その負傷者や死者がたぶんアレーナ内の端に集められている様子を描いた希有の事例。野獣狩りといえどもかなりの犠牲者が出た様子がわかる。服装から彼らはよもや死刑囚ではあるまい。
⑪ XXI.9:ペルペトゥアの死:剣闘士のとどめは、左鎖骨の上から心臓に向けて刃を刺すやり方もあったようだが(1993年エフェソス発見の剣闘士の墓場発見による出土遺骨への刃物傷から)、ここでは肋骨の間から心臓を貫こうとして失敗したので、ペルペトゥアは刃を左頸動脈に導いたのであろう。
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