月: 2019年11月

先達の足跡:(4) 弓削達『ローマはなぜ滅んだか』

 我孫子での読書会で今読んでいるテキストである。一回に50ページくらい進む。前のテキスト(ヨセフス『ユダヤ戦記』)が絶版で高かったり購入できなかったりしたせいで、受講生から「安いのにしてください」と言われ、アマゾンで1円プラス郵送料で購入できるので、これを選んだという裏話もある。

 何せ1989年初版の、30年前の古い本なので、糊が剥がれやすく、少々力を入れてページを開くとベリッと剥がれてばらばらになってしまう消耗品なので、今回のために2冊購入した。読書会2回目の準備ですでに一冊目はばらばらである。この調子だともう一、二冊押さえておいた方がいいかも。

 しかし内容的には、未だ消耗品ではないことを再確認している今日この頃である。弓削先生が一般向けの本書で読者に語りかけている内容の高度さを痛感し、さて私は出版当時、本当に彼を理解していたのであろうかと、つくづく反省する昨今なのだ。もちろん私なりの「えっ、先生それでいいのですか」と突っ込みを入れたくなる箇所がないわけではないが、それを凌駕する質の高さと弁術の冴えに酔いしれていることを正直に告白しておきたい。

 彼の筆法の鋭さは、たとえば以下に示されている。ローマ帝国の経済構造を論じる場面で、商工業に対する農業の優位を論じて、「そのことは農民一般が豊かであったことを意味しなかった。むしろ反対であって、ほとんどの農民は常に飢餓線上を彷徨する貧農であったが、それにもかかわらず、農業という生産部門への関与ということがもつ社会的威信は、商工業者が容易には得られない社会的権威であった。商工業者も一般には農民と同様に、貧窮状態にあるうえ、かりに致富しえても都市支配者層にはなれないという社会的差別の中に置かれていた」(pp.67-8)と,差別社会の実態と矛盾を赤裸々に指摘した後、「それにもかかわらずローマ帝国の経済的繁栄が、広大な帝国内外を通じての商業取引と貿易にあったという印象を与えつづけて来たとすれば、それは、アレクサンドリア、オスティア、エペソス、アクイレーヤ、カルタゴ、アルル、リヨンのような、数えるばかりの少数の港湾都市、河港都市の花やかな経済活動に眩惑されたからにほかならない」(p.68)と、ばっさり都市伝説的な古代ローマ帝国繁栄論を一刀両断してみせる手際の良さは見事というほかないだろう。いわずもがなの駄弁を弄するなら、一,二世代のちの研究者がそのような認識を共有しつつ、たとえばオスティアの繁栄と富を論じているのか、はなはだ疑問なのであ〜る。

 もっとも、貪欲な読書会メンバーの方々は、すでにその後の酒池肉林のほうに目を奪われてお読みになっているようなのであるが (^_^;

 弓削先生の面白いところは、あやしい数字でもとにかく出してくることである。それが臆面もなく発揮されているが第4章「経済大国ローマの実体」で、そこでの数字を私は授業でもカルチャでも使用してきた。これはこれで面白いのだが、それを現代に応用する姿勢が、最近なぜかマスコミで希薄になっていることに気付かされたのは、以下のウェブ情報だった。https://www.mag2.com/p/news/424962

 これだけではない。森本問題、加計問題・・・。必ず権力は腐敗する。権力とはそういうものである。その認識を常民は常に持っていなければならない。

【追伸】毎日新聞に続報が。これはお金を払ってでも読む価値があるだろう:桜を見る会、新たな疑義「首相枠と官邸枠14年3400人→19年2000人に減少」https://mainichi.jp/articles/20191126/k00/00m/010/325000c?fm=mnm&pid=14606

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「教皇」表記の変化:政府の忖度?

 今日のニュースで突如「教皇」が溢れ出している。日本でこれまで「法王」と呼ばれてきたPapaの呼称が、今回の訪問を機に政府によって「教皇」に改正されたらしい。「法王」だと弓削道鏡などマイナス・イメージでの連想があり、カトリック信者にとっては本当に、やっと、という感じではあるが。

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https://www.j-cast.com/2019/11/22373392.html?p=all

「ローマ法王」が「ローマ教皇」に変更 政府発表で割れるメディアの対応

2019年11月22日 17時28分

フランシスコ教皇は、来日を前にビデオメッセージを発表した
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 今は削除されているそうだが、以下の日本カトリック中央協議会のHPでの文言、私も読んだ記憶がある。

 「日本政府に登録した国名は、実際に政変が起きて国名が変わるなどしない限り、変更できないのだそうです。こうしていまでも『法王』と『教皇』が混用されているのです。皆様には、『教皇』を使っていただくよう、お願いする次第です」。

 ただ、巷のウェブ情報では、この表記の「混乱、併存」は戦後からのことのように書かれているが、納得いかない。明治・大正以来の日本・バチカン交渉史の中での考察が必要なはずである。

 教皇庁や大使館からの要請での変更ではないようだが(きっと現政府お得意の「忖度」によるのだろう)、何はともあれ、なかなかの強行軍ゆえ、82歳の高齢、お疲れがでませんように。

【追記】世界キリスト教情報■第1505信で、以下の記事が掲載された。

◎ローマ「法王」の呼称「教皇」に、政府が来日に合わせ変更  
 政府は11月20日、教皇フランシスコの来日に合わせて、今後は呼称を「教皇」に変更すると発表した。外務省は、カトリックの関係者をはじめ一般的に教皇を用いる例が多いことと、法王が国家元首を務めるバチカン側に、教皇という表現の使用について問題がないことが確認できたためと説明した。ただ「『法王』を使用しても間違いではない」としている。(CJC)

【追記2】https://blog.goo.ne.jp/john-1939
 東京ドームでのミサ聖祭の模様。それにしても谷口神父、よくも共同司式司祭にくわることに成功したものだ。日本司教団のお目こぼしなのか、バチカンご指名だったのか。
 パパさん、激務で大丈夫かと私も冗談抜きで心配だった。我と我が身に照らして他人事ではなく、寒かった長崎や夜の広島での老齢の参列者たち、紙パンツを履いてのご参列じゃないのか、私だったらもたない、と密かに観察してました。
 それを透視漫画的に想像すると、不謹慎だが、ほほえましい、かも。





 とまれ、みなさんご苦労様でした。

 ところで我が国ではマスコミが全然触れなかった(ようだ)が、帰途での機内記者会見でかなり深刻な問題でのやり取りがあったらしい。こういうお手盛りの情報操作が、昨今の政府不信のみならず、マスコミ不信に拍車をかけるわけである。http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52262674.html

 しかし不動産投資など、日赤だってUNESCOだって、それ自体はどこだってやっているわけで。現代社会ではそうしないと活動資金の保全はできはしない。問題はその運用時に不正が生じることだろう。現象には陽があれば自ずと陰もある。ここでも際限のないモグラ叩き現象が現出する。

【追記3】2019/12/2 :折も折、偶然見た今朝のNHKの「アサイチ」で、12月は「寄附月間」とかで寄付金の流れのごく簡単な説明があった。期待して聞き耳を立てていた私には不十分な内容だったが、そこで新知識を得た。寄付金には名称的な区分があって、「災害義援金」の場合は、日赤では寄付者の意向に沿って事務経費もさっ引かず全額を寄付者指定の被災地の県に送り、そこで市町村に分配されて、被災者に届く仕組、だと説明していた。となると経常経費を含めて、膨大にかかるであろう事務費はどこから捻出するのか、ということになるのだが、それについての言及はなかった。

 論の赴くところ通常の「募金」や資産運用金などがそれにあてられることになるのだろうが、この区分や運用方法はあくまで大窓口の日赤のそれであって、他の中小の窓口でもそうだとは言い切れない不透明さが、実は常につきまとっている。みなさん、鷹揚に目をつぶっていらっしゃるようだが、「これは経費です」といって、文字通り人の善意を飯の種にして(商売して)生きている連中がうごめいている、かもしれないのだ。

 そういえば、NHKドラマで「これは経費で落ちません!」というのがあったなあ。

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ハドリアヌスの円柱?

 昨晩、上智のコミカレ講義が終わったら、「こんなのみつけたのですが」と受講生の男性があきれ顔で朝日新聞を持って来た。それはどうやら朝日カルチャの宣伝で、なんと首都ローマに「ハドリアヌスの円柱」があると記載され、しかし写真はどうみても「トラヤヌスの円柱」だったのだ。

 なにも新聞だけのことではないが(出版社の編集者さんも、きちんと校正しなくなっている。彼らの仕事って一体なんなんだろうか)、天下の朝日新聞もチェックが甘くなったものだ。

 日本語をちゃんと読解できない中学生・高校生が多くなったという本が売れているようだが、私のような老害からすると、それは彼らだけに限った話ではない気がしてならない。ま、かくいう私自身、誤植大魔神には違いないわけで。

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私にとってのコンスタンティヌス問題

 義弟がこの11/3に63歳で肝臓ガンが肺に転移してあっけなく急逝した。そのせいもあり、いつお迎えが来てもいいように書き置いておく。

 このところ、私はコンスタンティヌス問題に足を踏み入れている。顧みれば20代で弓削達先生のはるか後塵を拝して研究の道を歩み始め、いずれはと思いながら、なかなか端緒を得ることがかなわず、最近になってようやく自分なりの見解を開陳するに至った、ということかと思う。

 さきほどわがHPを見直していて、あれ、と改めて気付いたこと(すなわち、書いた時点ではそういう認識がなかった、というわけ)が2点ある。それについて書いておきたい。

 第一に、コルヌーティの楯の紋章は、見ようによっては十字架に見えないことはない、ということ。コンスタンティヌスのアーチ門に描かれた紋章はまだそういった印象からは遠いが、5世紀初頭作成に遡る「官職要覧」Notitia Dignitatum が掲載しているAuxilia Palatina所属cornutiの楯紋章には、なにげにキー・ロー的な面影が見てとれるようである。最初はタウ・ロー(τ+ρ)だったが、後世キー・ロー(χ+ρ)のほうが優勢となった、という見解も、こう理解するとき納得できる。

 要するに、ラクタンティウスやエウセビオスが記述している十字の旗頭は、やはりコンスタンティヌス足下の警護部隊のそれ、より限定するなら、コンスタンティヌスの皇帝旗だった、という私論の補強となる。

 これに、ラバルムlabarum軍旗に特徴的な車輪が、ケルト系の天空・雷・太陽神タラニスの持物でもあったことや、異教的見解からコンスタンティヌスが同じくケルト系のグラヌス神の聖地(現グラン)で、同様の属性を帯同するアポロ神と勝利の女神ウィクトリアから啓示を受けた、という史実が重ね合わされるとき、なかなか含蓄ある話となるように思われる。

車輪を帯同するタラニス小像     キリスト教の車輪=花綱型ラバルム(中心にキー・ロー)

 第二に、エウセビオス叙述での父帝コンスタンティウスの位置づけの件である。それは『教会史』ではそう明確ではないが、『コンスタンティヌスの生涯』I.27では、コンスタンティヌスがマクセンティウスに対抗するには強い助け手が必要であると認識し、父が信仰していた同じ神に敬意を払い、父がその神を「帝国の救済者、守護者、すべての繁栄の与え手としていたことなど」に思いを馳せ、逆に多神教に依存した諸帝の不幸な末路を熟考し、「彼の父の神は、彼の権力を認める非常に多数の明白な証拠を父に与えられたことなどを考慮」し、「ご自分の父の神だけに敬意を払うべきだ」と考えるに至った、と述べている。

 要するにエウセビオスは、コンスタンティヌスは父帝コンスタンティウスと同じ神(それがキリスト教の神であるとほのめかしながら)を信仰することにした、としているわけだが、ここで改めて考えてみると、父帝は副帝就任以来ガリア・ゲルマニアを根拠地とし、事実トリーアを自らの首都としていた。すなわち父帝の権力基盤はかの地であり、かの地に依存していたわけで、そこでの彼の守護神とはかの地のそれ(ら)以外ではなかったはずで、それをエウセビオスはキリスト教の神と同一視して叙述しているわけだが、さらに一歩踏み込み、エウセビオスは真実の一片を述べているのではないかという立場からするなら、従来流布してきた「エウセビオスは、コンスタンティヌスのキリスト教信仰を父帝に遡及させていたのでは」という見解を、「父帝の培ってきた軍隊の信仰をコンスタンティヌスも引き継いだ」と逆転して捉え直すことも可能となるだろう。否、それこそが事実の核心だったのではなかろうか。エウセビオスはそれを率直かつ端的に、だが多神教を排して一神教的に表現していたわけである。

 これは、従来コンスタンティヌスの守護神選択は、東方渡りのHelios=Sol Invictus経由でのキリスト教と論じられてきたが、事実はまったく逆で*、もともと西方のケルト・ガリア・ゲルマン的な天空神GrannusないしTaranisであった。まずそれを父の影響で受け入れ(というより、それによって父の培ってきた権力基盤=軍隊や領土を安んじて受け取り)、だが彼の支配領域の拡大に伴って、それをギリシア・ローマ的天空神であるアポロ神、さらに東方由来のHelios=Sol Invictusへとずらし重ねることで、他帝との差別化をはかりつつ、帝国全土掌握で守護神群の一画にキリスト教を受け入れた、と理解するわけである。

 *但し、これはあくまでコンスタンティヌス側の公式見解であり、彼が20代に人質然として滞在していた東部において、実はキリスト教と半ば公然、半ば秘密裏のただならぬ接触があった、というのが拙論における根本仮説である。参照、『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年。

 またしても、エウセビオスの叙述から学ぶことができた思いである。

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全拙稿の誤植訂正:痴呆への一里塚(11)

 誤植が、とりわけ最近多くなった気がしていたが、この作業をしているとなんだかそうともいえないような(^^ゞ(以前から多かった、という意味)。いずれにせよ困ったものだ。お気づきの方からのご指摘を歓迎する。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

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1988年「エウセビオス『教会史』叙述の信憑性に関する一考察(一)」『上智史學』第33号

  p.70 左から7行目:三〇三年〜 ーー> 三一三年〜

  p.71左から2行目:折あるごとに ーー> ことあるごとに

  p.72 5行目:αὐ τόθι ーー> αὐτόθι

  p.73 8行目:ついでに、 ーー> さらに、

  p.76左から8行目:師 ーー> 教師

  p.78左から7行目:τῆ ーー> τῇ

  p.79 2-3行目:a ἱρετικῶν ーー> aἱ-ρετικῶν

  p.79左から6行目:ὅ ーー> ὃ

  p.79左から5行目:διδασκαλεîου ーー> διδασκαλεῖου

  p.79左から1行目:この師に ーー> この教師に

  p.85 5行目:司祭 ーー> 司教・司祭

  p.93 7行目:マキシムス ーー> マクシモス

  p.94左から4行目:まずは、 ーー> だがまずは、

  p.99 上段註(7)6行目:大正一四年 ーー> 一九二五年

    下段註(9)12行目:I ーー> Ⅱ

    下段註(10)3行目:永山 ーー> 久山

  p.101上段註(23)3行目:(HE,VI.ii.14: ーー> (史料F:

  p.102下段註(32)2行目:フィリポス ーー> フィリッポス

      註(35)2行目:司祭 ーー> 司教

         3、4行目:アキラス ーー> アキッラス

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1992年「「ディオクレティアヌスのキリスト教迫害」勃発原因をめぐって(一)」『上智史學』第37号

  p.238 5行目:古き人の法 ーー> 古き法

      9行目:おそらくは ーー> おそらくは最初

  p.240 4行目:旧習派 ーー> 旧守派

  p.242 8行目:本告示 ーー> 迫害告示

         彼ら ーー> 司直

     9-10行目:(と彼らは主張する)。 ーー> 、と彼らは主張する。

  p.242 6行目:影 ーー> 闇

  p.244左から1行目、p.245 2行目:「古き人の法」 ーー> 「古き法」

  p.245 2行目:同じ語 ーー> 類似の語

  p.245左から3行目:古き ーー> かの古き

  p.249図表のⅡ.8:Oratio,xxv. ーー> Oratio,xxv.2.

  p.250図表: IX ーー> XI

  p.252上段4,5行目;p.253上段註(7):口答発表 ーー> 口頭発表

  p.253下段(8)4行目:(現イズミット) ーー> (現トルコのイズミット)

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1994年『キリスト教の興隆とローマ帝国』

  113 左から2行目:vgl,.ーー> vgl.,

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1996年「「ディオクレティアヌスのキリスト教迫害」勃発原因をめぐって(三)」『上智史學』第41号

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2001年「殉教者と北アフリカ」『上智史學』第46号

  p.45 8行目:排出 ーー> 輩出

     左から1行目:Hardumetum ーー> Hadrumetum

  p.49 左から、7,9行目:ハッピィー ーー> ハッピー

  p.61下段左から6行目:xii.。 ーー> xii。

  p.62 註(26) 4行目:Apuleuis ーー> Apuleius

  p.62上段左から2行目:文責 ーー> 分析

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2002年「古代末期ユダヤ教図像考」『上智史學』47号

  p.92 図版1の一番下:Samaritan synagogueの印が間違い

  p.93 4行目:二七一)、ーー> 二七一)。

  p.94 5行目:Yodan ーー> Yudan

  p.99 7行目:マレブ ーー> マムレ

  p.100 左から4行目:だからである」 ーー> だから」

  p.105 左から9行目:右上隅 ーー> 左上隅

        3行目:身近かな ーー> 身近な

  p.106 左から3行目:初穂 ーー> 初物

  p.108 4行目:〜二六 ーー> 〜二五

  p.109左から4行目:『ユダヤ古代史』 ーー> 『ユダヤ古代誌』

  p.112 3行目、左から7行目:雄牛 ーー> 牡牛

  p.113 3行目:海の砂 ーー> 海辺の砂

  p.113左から3行目:ヤーヴェ ーー> ヤハウェ

  p.115 6行目:(読みは変更されている) ーー> 削除

  p.115 7行目:以下を ーー> 以下に

  p.118上段1行目、左から3行目:Zeev ーー> Ze’ev

  p.118上段註(9)の1行目:John C. ーー> John D.

  p.118下段4行目:ディオニュシオス ーー> ディオニュソス

  p.119下段註(20)1行目:Zeev ーー> Ze’ev

          6行目、註(22)末尾:Fig. ーー> fig.

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2003年(2012年第2版)「文書史料の落とし穴」『歴史家の工房』

  p.191左から7行目:ゼベダイのヤコブ ーー> ゼベダイの子ヤコブ

  p.194左から3行目、p.195 2行目:物 ーー> もの

  p.204左から7行目:そう ーー> 艘

  p.205 8行目と14行目:資料 ーー> 史料

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2005年「紀元後3世紀初頭のM.Aurelius Prosenesの石棺を見、銘文を読む」『歴史家のパレット』

  p.36 13行目:マクリアヌス ・・・Macrianus ーー> マクリヌス・・・Macrinus

  p.37下から4行目:都市 ーー> 首都

  p.38下から8行目:マクリアヌス  ーー> マクリヌス

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2006年「4世紀初頭、キリスト教迫害推進を希求した常民たち」『西洋史論叢』新輯35号

  p.173 9行目:10.1.2 ーー> 9.1.2

  p.179 下から5行目:符号 ーー> 符合

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2007年「初期キリスト教考古学とイエズス会」『ソフィア』219号、第55-3

  p.98左から5行目:教皇庁立教会 ーー> 教皇庁立キリスト教

  p.105左から3行目:アッポロンジ ーー> アッポローニ

           ヨジ ーー> ホシ

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2008年『神は細部に宿り給う』

  p.134 図3キャプチャ:パラティヌス丘 ーー> パラティーノ丘

  p.136 註1) の文献に付加:浅香正「ローマ都市の起源と王政」角田文衞・上田正昭監修『古代王権の誕生 IV ヨーロッパ編』角川書店、2003年、pp.121-144.

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2011年『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』

  ii 10行目:”「マタイ ーー> ”(「マタイ

  vii 下から15行目:Basilia ーー> Basilica

  p.6 左欄1行目:(在位58 ーー> (在位54

  p.26 左欄下から5行目:ジョバンノーニ ーー> ジョヴァンノーニ

  p.29 右欄5行目:ノベナ ーー> ノヴェナ

  p.37 12行目:マイデナス ーー> マイナデス

  p.69 左欄下から15行目:asecco ーー> a secco

  p.73 原典レベルで、図版関係の番号が3箇所欠如

  p.114 図206中で:使徒の記念碑 ーー> 使徒の記念物

  p.132 図243のキャプチャ末尾「ロクルス」の後に以下を付加:[で、本来は壁に塗り込められていた]

     左欄6行目:され病んでいた ーー> されていた

     右欄の7行目:置かれた。 ーー> 置かれた[図243参照]。

  p.133 右欄8行目:「ENI」の後に[図242]を付加

  「付録:用語解説」1頁13行目末尾に付加:図74,92。

           2頁14行目:安置所 ーー> 礼拝堂

           4頁下から2行目:何段 ーー> 幾段

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2013年「歴史研究は刷り込みとの闘い」『歴史家の窓辺』

  p.214 9行目:註(6) ーー> 註(7)

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2016年『モノとヒトの新史料学』

  p.74 下段5行目:サン・ゴレゴリオ通り ーー> サン・グレゴリオ通り

  p.75 下段3行目:保坂氏 ーー> 保坂高殿氏

  p.77 上段図版キャプチャ:「右手1」と「右手2」の表示が逆

  p.81 上段12行目:おくもの ーー> おくのも

  p.83 下段5行目:(ここ ーー> 削除

  p.87 下段左から8行目:四四三/四四三 ーー> 四四三/四八四

  p.89 上段左から9行目:二〇〇六年 ーー> 2006年

  p.92 上段4行目:もの ーー> のも

  p.92 下段4行目:一四頁) ーー> 一四頁)。

  p.132 下段図8:ギリシア半島の テッサロエカ ーー> テッサロニカ

  p.133 下段12行目:伺える。 ーー> 窺える。

  p.141 下段11行目:割合はが ーー> 割合が

  p.172 上段4行目:後述するが。 ーー> 後述するが、

  p.205 下段左から6行目:一端 ーー> 一旦

  p.233 上段図2;同下段6行目;p.241 上段左から2行目:ターレス ーー> タレス

  p.255 左から5行目:砂岩 ーー> 石灰岩

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2018年『軍事史学』54-2

  p.8 上段3行目:二一一年 ーー> 二一二年

  p.8 下段左から2行目:ライン ーー> ドナウ

  p.9 下段【付録】:クラウディス ーー> クラウディウス

           アウレリアヌ ーー> アウレリアヌス

  p.104 図3上部欄外:Marborghetto ーー> Malborghetto

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2019年「人間アウグスティヌスを『告白』から探る」『歴史家の調弦』

  p.221 図1:出典末尾 Bari,2001. ーー> Bari,2001.

  p.229 左から2行目:多用しつつ ーー> 多用し

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