もう一つはフェリキタスで、University of Dayton所蔵の160を数える聖遺物の中にあった。大学だからもちろんちゃんとした鑑定書付きである。以下いずれもアメリカ合衆国の事例。
他に大学関係では、University of Notre Dameにもペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物がある由(http://faith.nd.edu/s/1210/faith/interior.aspx?sid=1210&gid=609&pgid=13647&cid=28385&ecid=28385&crid=0)。
ペルペトゥアの夢の中に出てくる「天に向かう(ヤコブの)梯子」La scala del cielo(di Giacobbe)に関して、以下の文獻から首尾よくフレスコ画の出版当時の残存状況のカラー画が入手できたので衆知します。
Joseph Wilpert, Roma Sotterranea : Le pitture delle Catacombe romane, Roma, 1903, tavole, Tav.153 ; testo, p.445, Fig.43.
残存フレスコ画(カラー)はTav.153、復元線描画はFig.43、です。後者で、左右の図柄が同じなのはなぜ、と思っていたが、この原画をみたらWilpertの想像ということが今回判明。中央のイエス像も光輪はなかったのでは。出土場所は、Henri Leclercqによると( par Le R.P.dom Fernand Cabrol, Dictionnaire d’Archéologie Chrétienne et de Liturgie, Paris, II/1, 1910, col.151-2)、cimetière de Balbineとなっているが、Wilpertでは、arcosolio dei Santi Marco e Marcelliano。製作年代は四世紀末となっているよう。
実は上智大学には、なぜか以下が所蔵されてます。20年ほど前にそれを見つけたとき狂喜しました。でも・・・ドイツ語とはいえ、出版年など書籍データがイタリア語版とかなり重複しているので、ひょっとして同内容? 明日調べてみましょう。 Joseph Wilpert, Die Malereien der Katakomben Roms ; Textband, Tafelband, Freiburg, 1903.
場所はI.x.11の、Casa degli Amanti。1980年の地震による修復がようやく終わって、この火曜日(2/18)からの公開らしい。確かに以下の写真ではぼろぼろであった。https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R1/1%2010%2011.htm
この家の名称は、以下の落書きに依っている(上図の部屋13の入り口南側に面した、列柱廊10東側の壁):“Amantes ut apes vitam mellita exigent.” :「恋人たちは、蜜蜂のように、蜜の(甘い)生活を営む」[CIL IV 8408a];この落書きの下に以下も見える。”Velle”:「そうあれかし」[CIL IV 8408b]
アヒルの下にも落書きがある。”・・・ Amantes cureges” [CIL IV 8408cでは、”Amantes Amantes cureges”と読んでいて、最後の単語は‘scil.curae egentes, vel egeni sunt’と注釈つき].「恋人たちは恋人たちの世話を焼きたがるものだ」といった類いの意味か。
このフレスコ画の近くに、以下もあるらしい。”C(aius) Ann(a)eus / Capito / eq(ues) coh(ortis) X pr(aetoriae) / c(enturia) Grati” [CIL IV 8405]:ガイウス・アンナエウス・カピト、第10近衛歩兵連隊騎士、グラトゥス中隊出身
彼女たちの裁判官は「財務管理官procurator ヒラリアヌスHilarianus」だった。元老院管轄属州で最高の格式を誇っていたアフリカ州には当然執政官格の元老院身分が派遣されるのが常だった。ヒラリアヌスは「そのとき属州総督proconsulで死去したミヌキウス・ティミニアヌスMinucius Timinianusの座にいて死刑執行権ius gladiiを拝命していた」、要するに現職の総督が在任中に死亡したので、後任総督が派遣されるまで(ないし、次年時になるまで)、臨時に勅命によりおそらくカルタゴないしその近辺で皇帝直轄領の財務管理官だったヒラリアヌスが任命されたのであろう。Rives, 1996, p.5は、その線で年給金が10万セステルス級のprocurator provinciae Africae tractus Karthaginiensisと、20万級のProcurator IV publicorum Africaeの二つの候補を挙げ,後者と想定している。それが騎士身分の最高位であり、アフリカ属州のproconsulの代理にふさわしいとの判断からである。
1968年に公表された2つの碑文史料(A.Garcia y Bellido, Lapidas votivas a deidades exoticas halladas recientemente en Astorga y Leon, in : Boletín de la Real Academia de la Historia, 163, 1968, pp.203-204, figs.4 & 5 ≒ AE, 1968, 227, 228)を投入して、新たな知見が展開されるようになった。出土場所はスペインのレオン県のアストルガ。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、こんな碑文のことなど知りもしなかった。
T.D.Barnes, Tertullian, Oxford, 1971, p.163 ; W.Eck, Miscellanea prosopographica, ZPE 42, 1981, p.235f. ;J.B.Rives, The Piety of a Persecutor, in: Journal of Early Christian Studies, 4-1, 1996, pp.1-25(idem, Religion and Authority in Roman Carthage from Augustus to Constantine, Oxford, 1995, p.244);Barnes, Early Christian Hagiography and Roman History, Tübingen, 2010, pp.304-7.
名前が削り取られた皇帝(たぶんコンモドゥス帝:在位180-192年)の治世下にスペインのアストルガで、Publius Aelius Hilarianusが財務管理官として奉職中に、子供たちと共に皇帝の安寧を願って2つの奉献を行った。ここでのヒラリアヌスが、203年ごろに北アフリカ属州カルタゴ付近に派遣されていた者と同一人物、と考えるわけである。それを、H.-G.Pflaum, Les Carrières procuratoriennes équestres sous le Haut-empire romain, Suppl., Paris, 1982, p.117 や、W.Eck, RE Suppl., XV, 1978, p.3, 69a)は、彼の職名を同じく20万級のprocurator Hispaniae Citerioris per Asturiam et Gallaeciam、ないしprocurator Hispaniae Taraconensisであると結論している。そして彼の父の名前もPubliusだったことが分かる。
簡単な原文を邦文のほうはだいぶふくらまして書いているが、それも事情を十分知らない日本の読者に向けて、親切というべきであろう。ただガラス質が見つかったのはただ一体のみ、それもcollegium Augustalium(Ins.VI.21-24)からの出土である。遺体の出土場所は、おそらく(a)から玄関に入って右隅の部屋(e)であろう。ここは最近中を覗けないようになってしまったが、これまでアウグストゥス礼賛会の管理人部屋とされていて、ベッドもあって、1961年にそのベッド上で25歳ぐらいの男性の遺骸が見つかった。オリジナル情報は、以下。『New England Journal of Medicine』