古代ローマの感染症:(1)序論

 この御時世に私は何をすべきかなにができるか、を考えると、お勉強の成果の公表しかないので、遅ればせながらちょっと頑張ってみますか(ほんとは、だれか若手にやってほしいところ)。まとめてからアップするのではなく、執筆速度を挙げるため、原稿を随時書き綴っていこうと思う。なので、ところどころメモめいたものになったり、あとから付加したりとなるかもだが、ご寛容のほどを。

 大略は今は昔30年前になるだろうか、全学の1年生対象の西洋古代史概論あたりで言っていた内容の拡大版といった趣である。といってもせいぜい1,2コマでの扱いだったので、その時の受講生たちがどれほどの現実味をもって私の授業を聞いてくれたのかには自信はない。おそらくはるか昔の医学が未開の時代のことで、自分たちの人生にはありえない、無関係、という脳天気なものだったに違いない。しかしこれは研究者においても同様で、疫学的な視点から歴史の転換点を探ろうなどとは、よほどの変わり者として扱われるのがオチで、実際私は変人なのだろうが、さて現況に直面してみなさんどう感じていらっしゃるのだろうか、聞いてみたい気がする。要は、どれほど切迫して該時代の出来事を捉えることが可能か、という再構成能力、想像力の問題だと思うのだが。ただ油断ならないのは、研究者の中にはさすがに変わり者がいて、たとえば、J.Rufus Fears(1945-2012年)などは、ごちゃごちゃ弁解じみたごたくを述べず直球で、166年のローマ帝国を現代のアメリカ合衆国と対比する観点をあっけらかんと主張している(The Plague under Marcus Aurelius and the Decline and Fall of the Roman Empire, in:Infectious Disease Clinics of North America, 18, 2004, pp,65-77)。私としては、彼のローマ帝国に関するギボン的超楽観的論述は脳天気すぎてありえないと思うが、この比較というより、国際化した現代社会における感染症の猛威については、彼はさながら予言者であった、と思う。何しろ彼は、この疫病がキリスト教興隆の決定的要因であったことを指摘するだけでなく、現代のバイオテロの脅威までもそこで見ているからである。彼にはそれがより鮮明な表題の、以下もある:The Lessons of the Roman Empire for America Today, Heritage Lectures, No.917, 2005, Pp.8.

J.Rufus Fears(1945-2012年)

 地中海世界は他の文明圏同様、幾度となく外来の疫病の脅威にさらされてきた(内在していたそれらや寄生虫とは、宿主と寄生側の長年の付き合いの中で風土病として折り合うようになっていて、だがそれに慣れていない外来者には劇症に発症してしまうわけ:https://digital.asahi.com/articles/ASN3B52ZMN3BUCVL00G.html?iref=pc_rellink_02)。古代において著名な疫病として、紀元前430年頃のペリクレス時代のアテナイを襲った疫病がある。ローマ帝国史に名の残るものとしては、直ちに、紀元後2世紀後半の「マルクス・アウレリウスの疫病」(3世紀中葉の「キュプリアヌスの疫病」もその延長線上か)、6世紀半ばから60年流行した「ユスティニアヌスの疫病」が挙げられるであろう。今回は私の守備範囲で「マルクス・アウレリウスの疫病」について触れてみたい。

 前もって確認しておきたいのは、当時の医療水準のことである。細菌はもとよりウイルスに関する知識もなかったかの時代、病気の原因は、インドを淵源とするギリシア的四体液説に基づき、四体液のバランスが崩れたためとされていた。特に感染症は「悪い空気」=瘴気を体内に取り込んでしまったことに求められ(イタリアの風土病マラリアも、イタリア語の「悪い空気」mal ariaに由来している)、したがってその予防策は瘴気から極力隔離すること、そしてもっとも効果的な治療は体内からの毒素の排出によるバランスの回復(基本的には自然治癒能力を信頼)、すなわち瀉血と考えられていた。日常的経験則から導かれたこの医療観は19世紀に至るまで広く支持され続けていくのである(逆にいうと、我々に身近な医療は19ないし20世紀以降のものとなる:実際、森林太郎陸軍省医務局長の誤った脚気説に代表されるような、多くの試行錯誤があったことを忘れてはならない)。古代ローマの医学を論ずる場合、ヒッポクラテス学派、ガレノス学派が主流で、ともっともらしく述べられるのが普通だが、もちろんそのレベルでさえ当時の一般庶民にとっては間遠く、実際には、病因を呪いや悪霊の祟りとする民間療法をはじめ多種雑多な俗説と有象無象の医療従事者が存在し、活動していたことを失念してはならない(もう一つのアスクレピオス医療団は、さてどのあたりに位置していたのやら)。それを実感したければ、図書館でケルソスやガレノスの当時の医学書や、大プリニウス『博物誌』をちょっと繙くだけでいい。たとえばガレノスは、痛風の治療に腐ったチーズと煮て酢漬けにした豚足を膏薬に混ぜ込んで塗る、といった類いのことを大まじめに書いている。今の我々には読むに耐えない稚拙かつ荒唐無稽な内容の羅列であり、しかもそれが効果的だったとしているのだから、なにをか言わんやである(ガレノス『単体薬の混合と諸力について』10.2.9(12.270-271K):これはS.P.マターン(澤井直訳)『ガレノス:西洋医学を支配したローマ帝国の医師』白水社、2017;Susan P.Mattern, The Prince of Medicine : Galen in the Roman Empire, Oxford UP, 2013、の冒頭のエピソードである)。

Susan P.Mattern:1966-

 そんななか、庶民にとって手に届く医療はとりあえず安価な民間療法しかなかったのが現実だった。そもそも現在のような国家資格での医師は存在していなかったし(それなりの訓練は受けていたにしても)、とりわけ古代ローマ時代の医療従事者はどういうものかギリシア系の奴隷身分ないしせいぜい被解放奴隷だった(小林雅夫「古典古代の奴隷医師」『地中海研究所紀要』6、2008、pp.45-54:http://www.waseda.jp/prj-med_inst/bulletin/bull06/06_07kob.pdf)。ペルガモンの裕福な市民ガレノスは、あくまで例外であったとしておこう。

 キリスト教の教祖イエスも,当時の悩める庶民にとっては安価な病気治しの治癒神に他ならなかった。西欧中世庶民において治癒能力をもつ奇蹟実行者こそ教祖イエスの再演・現身であり、キリスト教信仰の核心であった。いうまでもなく、教会側も治癒行為を宣教の有力な武器と捉えていた。聖人認定に奇蹟が求められたのもその証しであろう(山形孝夫『治癒神イエスの誕生』ちくま学芸文庫、2010年:初版、朝日新聞社、1991年)。

山形孝夫(1932ー):当たり前のことだが、お歳を召された。

 そして当然のことながら、いつの時代も庶民が従来の伝統的神(々)を放棄する契機となったのは、彼らが願った平穏な日常生活が、天変地異、特に気候変動や感染症の大流行で破綻して、従来の権威が失墜したとき、入れ替わりに新たな(自称を含めた)治癒神が登場したときである。いつの世も治世者にとり感染症をどう沈静化するのかは大問題であった。絶望にさらされた民意はまたたく間に統治者や聖職者から離反する。それがまさにローマ帝国でのキリスト教受容の大躍進期、すなわち三世紀で目撃された。その前段階に「マルクス・アウレリウスの疫病」があったのだ。その時点ですでにギリシア・ローマを始めとする旧来の神々は民衆から愛想づかしされていたといっていいのかもしれない(この既成宗教の凋落を、国家宗教であって個人救済とは無関係だったから、などともっともらしくこれまで研究者は説明してきたわけであるが、単なる空想的観念論にすぎない)。

 そして同様に、黒死病が宗教改革の影の主導者となったわけだが、近代医療の幕開けが今度はキリスト教信仰の屋台骨を揺るがす一大転機となったのは偶然ではない。カトリック教会はこういった近代科学主義への対抗措置として、聖母マリア崇敬を称揚し(1854年に、無原罪の御宿りが信仰箇条になった、その4年後にフランスのルルドで聖母出現、そして1913年ポルトガルのファティマでの聖母出現、その各々での奇跡的治癒による聖地化などで)、失地回復を試みてきていたともいえる。もちろん結果的に成功しているとは言いがたいが。

 現代においては、ごく一部の最先端の医療関係者を除くと、すでに新薬開発が救世主の地位にあって、ちまたの医者はその単なる販売促進メンバーといって過言でない(現代版富山の薬売り)。その現代の救世主たる製薬会社が実はガンなど収益性の高い治療薬開発にもっぱら資金を投資し、感染症のワクチン研究をおろそかにしてきた現実もあるらしい:http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52269982.html。そもそもワクチンできた時には疫病が終熄していたりする。否、開発以前に終息してしまったりもしている。サースしかり、マースしかり。そのつけが現在の状況をもたらしているとしたら、どうだろう。以上、閑話休題でした。

 165年末ないしその翌年の初めに、皇帝マルクス・アウレリウスMarcus Aurelius(在位161-180年)の共同統治者でノー天気なルキウス・ウェルスLucius Verus(在位161-169年)を総大将とするパルティア遠征軍が持ち帰った疫病がまたたく間に蔓延したらしい(SHA, Verus, 8:南川高志訳『ローマ皇帝群像1』西洋古典叢書、京都大学学術出版会、2004年、p.216;cf., p.166、172、182:もちろん、この類いには当然のこと別説あり)。結果、多くの死者が出た。この感染症の症状については、当代随一の医師を自認するGalenos(129-199年:小アジアのペルガモン出身)らの記述が残っていて、おそらく天然痘だったらしいとされている。

ルキウス・ウェルス貨幣:裏側で共同統治者マルクス・アウレリウスと握手している

 この件と関連して、だがあまり触れられることはないようだが、マルクス・アウレリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫、初版1956年、改訂版2007年:他にも翻訳はある。導きの書として、荻野弘之『マルクス・アウレリウス『自省録』:精神の城壁』岩波書店、2009年)の著作年代がまさしくこの感染症の時期と重なるので、そういう視点で読み直してみる意味があるのではないかと思う。彼自身の死も疫病だった可能性があるし、私のような門外漢にもその紙背に抜きがたく「死」の影がまとわりついているのを感じざるを得ないからだ。その中には、同時代のキリスト教への言及箇所もある:11.3(最近またまた後世竄入説は後退している。これは後世の善帝評価の忖度によるもので、彼だからあの立派なキリスト教に対してそんなことを言うはずはない、とするのではなく、彼自身の手とみていいのではと私も思う:参照、エピクテトス『語録』4.7.6)。

 いみじくも、その疫病と同時代を北アフリカで生きていたキリスト教徒テルトゥリアヌス(160年頃ー220年頃)が彼一流の皮肉を交えながら喝破したように、天変地異はキリスト教迫害のきっかけとなった。「もしティベリス河が増水して水が堤防を越えたならば、もしナイル河が増水しないで田畑に水を引くことができなかったならば、もし天候がいつまでも変わらなかったならば、もし飢饉が起こったならば、もし疫病が発生したならば、彼らはたちまち、《キリスト教徒たちをライオン(単数)へ:Christianos ad leone》と叫ぶ。いったいどのようにして、これほど多数のキリスト教徒を一頭のライオンに食わせることができるのか」(Tertullianus, Apologeticum, 40:金井寿男訳『護教論』水府出版、1984、p.121)。

 この文脈から考えてみると、不運なことにマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの登位は、まさしく飢饉と洪水で迎えられた。そしてその後も疫病や蛮族の侵入の連続である。これでは悪帝とされても仕方ない仕儀で、民衆の怨嗟の的になってもおかしくなかった。事実、諸々の皇帝伝(但し、いずれも4世紀後半の作:アウレリウス・ウィクトル『皇帝列伝』、エウトロピウス『首都創建以来の略史』、『ローマ皇帝群像』など)での叙述からは、彼の学識や施策を高く評価しつつも、なにかしら奥歯にもののはさまったようなくぐもった表現が読み取れるし、共同統治者ウェルス、妻の小ファウスティナそして息子のコンモドゥスはより直接的な非難の対象とされていて、これはとりもなおさず間接的にではあれ、マルクス・アウレリウスのあるべき上長ないし家長としての威厳のなさが公言されているわけである。このあたり単純に読解力の問題だと思うのだが、それをきちんと指摘している研究者にどうしたことかこれまで私は出会ったことがない。完璧な人間など存在しない。だから、不必要なよいしょなど不用のはずなのに、と私など思ってしまうのだが。マルクス・アウレリウスも言っているではないか、「お前は老人だ。これ以上理性を奴隷の状態におくな」(『自省録』Ⅱ.ii.3)。研究者たるもの率先してそうあるべきであろう。

 ところで、「ピンチはチャンス」とばかり、この感染症を利して勢力を拡大したのが、キリスト教だった。今次感染症騒ぎの真の勝者は誰(何)であろうか。見届けたい気になってきた。

 なお、ウェブで以下の簡便な世界医学史叙述をみつけた。一般的な事情を手軽に得るには有効であるが、こういう叙述を読む場合、書かれているような訓練された医者による医療を享受できた社会層を限定的にとらえるという視点が必要のように思う。また後者の場合、「ギリシア人医師」と標記してギリシアをあがめ奉った叙述が目障りだが、より正確には「ヘレニズム医師」とすべきだろう。もちろんだからといって皆がみな科学的だったはずもない。http://nico-wisdom.com/newfolder1/worldmedical.html;https://anc-rome.info/medicus/

【付論】感染症を論じる場合、細菌やウイルスの撲滅はありえない。それはすでにマクニールも指摘していることである。統計的に3割から6割が感染すれば集団的に抗体を保有して収束ないし終熄するとされている。1875年のフィジー諸島でのはしか(麻疹)流行での死者数は示唆的である。人口15万人のうち4万が死亡した。免疫獲得による生存率として、中世ヨーロッパの黒死病の被害もこの割合だったのではなかろうか。https://www.huffingtonpost.jp/entry/shingatakoronauirusu-jinruitonokyoseinimukete_jp_5e6f1770c5b6dda30fcc321d;https://ml.asahi.com/p/000004c215/6398/body/pc.html

 実はこのところ「はしか」が流行していて、2018年に14万人が死亡していたのだが、マスコミは少しも関心を持とうとしなかった。その大多数が5歳未満の(声をあげれない)子供だった。コロナ・ウイルスでは現在死者数6万台で大騒ぎしているが、それも自分たちの頭上に火の粉が降りかかってきているからにすぎない。私を含めつくづく身勝手なことだ。ちなみに2019年にはしか汚染者は25万人以上、その45%を占めるのは、コンゴ、リベリア、マダガスカル、ソマリア、ウクライナ、の由。先進国の我々にはますます他人事だったわけ。https://www.unicef.or.jp/news/2019/0175.html

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