スーザン・P・マターン女史の著作(p.226ff.)を読んでいたら、私的にとんでもない箇所に出くわした。本音ではしめしめと舌なめずりの体ではあるが。
ディオン・カッシオスの言として「彼(マルクス・アウレリウス)は非常に小食で、常に夕食のときに取っていた。日中はテリアカという薬以外は決して口にしなかったからである。・・・その[薬の]おかげで、この[病気の]ことも他のことも耐えられたのだと言われている。」『ローマ史』72[71].6.3
問題は「テリアカ」theriacaである。それについては、ガレノス『解毒剤について』1.1(14.4K)、『テリアカについて、ピソのために』15-16, 14.270-84Kあたりに書かれているらしいが、ずばり「皇帝のテリアカにはアヘン(「ケシの実の液」)も入っていた」由で(p.230f.)、要するにマルクス・アウレリウスはアヘン常用者だったと。この件は最近の文獻だと、Heinrich Schlange-Schöningen, Die römische Gesellschaft bei Galen:Biographie und Sozialgeschichte, Untersuchungen zur antiken Literatur und Geschichte, 65, 2003, Berlin, p.198-204で触れられている由だが、ガレノス処方のそれは3、4%で、マルクスは毎日「エジプト豆の大きさ」分の量を服用していた(『解毒剤について』1.1., 14.3K)、すなわち、一服ごとに33ミリグラムのアヘンが入っていたことになるらしい(Th.Africa, The Opium Addiction of Marcus Aurelius, Journal of the History of Ideas, 22, 1961, pp.97-102=Schlange-Schöningen, op.cit., p.202あたりの算定による)。これは生アヘンとしては少量ながら十分効果がある量だったらしい(p.231)。
というわけで、中毒者までには至らないが、皇帝は常用者だったということにはなりそうだが、これは一日33ミリグラムがどれほどのものかという医学的判定を経なければ結論でないものの、効果の持続のためには徐々に増量していったはずなので、さて実際にはどうだったのか、というところではある。
となると、ストア派の賢人と誉れ高い人物の言説の背後に薬物依存という現実があったことになって(当時別に禁止されていたわけではないものの)、彼が書いていることのレベルを斟酌する上で、人間マルクス・アウレリウスの実像を追究すべき歴史学的にはとても興味あるテーマで、こういう観点からの『自省録』他の諸史料の読み直しが必要なのでは。誰かやらんかいな。
【追記】アヘンに関する簡便な論文を読んだ。最近はウェブからすぐとれる論文も多くなっていて大変有難い。M.H.ツェンク、田端守「アヘン:その薬物史と功罪」『生薬學雑誌』50-2、1996、pp.86-102。それによると、紀元後214年のローマ宮廷在庫品目録に17トンのアヘンの記録があり、312年には独特のアヘン商業組合も存在していた由(H.-G.Behr, Weltmacht Droge, Wien/Düsseldorf, 1980:古書発注中)。アヘンを精製したヘロインの耽溺者は一日に約0.6g(即ち、600ミリグラム)を必要としているとか(p.99)、17世紀の津軽の秘薬「一粒金丹」はアヘンを三倍量の米飯と搗(つ)いて丸薬としたもの(p.90)だとか(参照せよ、松木明知「麻酔の歴史:ケシの渡来と津軽一粒金丹」『日本臨床麻酔学会誌』10-5、1990、p.27によると一粒金丹は「阿芙蓉(アヘン)、膃肭臍の勢(オットセイのペニス)、龍脳、麝香、辰砂、金箔焼酎、三年酒」などで処方されていた由で、上記と内容に食い違いある。ま、混ぜ物も色々なレベルがあり、それによって価格帯もおのずと高低差があったのであろう)。
となると、マルクス・アウレリウスは耽溺者の18分の1の摂取量となる計算になる。これがケルソスの調合で挙げられていた数字だった。
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