みなさんは、これ↓を見てなにを想像しますか。
私は一目見て「水筒」と思った。しかし説明文を読んで混乱する。水筒ではなく、携帯食糧の容器だ、というのである。まだ完全に納得させられてはいないが(下に表示されているスケールは全体で10cmを表示:江添誠氏ご教示による。最初一目盛りが10cmと誤認していたので汗顔の至り)。
スイス国境に近いフランスのSeynodの古代ローマ時代の神域から、例外的に良好な状態で、後4世紀前半のlaguncula(私は最初「水筒」と訳していた)が出土した。そこはショッピング・センター建設予定地での、緊急発掘だった。第一層からは1世紀末に神殿の最初の痕跡、次いで42の土葬墓が出土し、それらから貨幣、土器、小立像が見つかった。こういった奉納品の中から、金属製の容器が出てきたのである(大きさは、本体直径12,3cm、幅7cm程度)。鉄製円板2枚を、月桂樹の葉状の丸い突起のアウトラインの青銅製平板で接合し、把手とフタも青銅製で、フタはかつて銅製の鎖で本体に結ばれていた痕跡が残っている。フタと底は同心円状の輪型で装飾されている。
私的には、この器の使用目的に短い把手と底の輪型の存在が、ヒントになるように思う。火中に立てるなり横倒しにして温めていたのでないか、と。
軍隊用水筒は一般には19世紀後半にさかのぼるとされてきた。すでに水筒型の容器が古代ローマ時代にあったことはこれまでも出土例が2、3例あって知られていたらしいが、今回は完品に近い出土で改めて注目されている次第。そもそもローマ兵が日々の軍用糧食の貯蔵用に帯同していたもので、おそらく、8人からなる分隊contubernium個々人の常備品だったのだろう。まあ確かに、行軍中ラバが曳く荷車もあったらしく、石臼・鍋・釜・その他の共同装備品がそれで運ばれていた。当時ローマ軍の食糧供給は、一軍団(約5000名)で一日当たり1.2トンの穀物を必要としていた由。ならば単純計算で一人当たり240g/日か(兵士は行軍中通常3日分の食糧配給されていた由)。この水筒型容器の容量がどれほどになるのか、計算すれば出るはずなので、算数得意な人はチャレンジしてください(後述の【追記】の復元品は、水筒を前提とし、本出土品よりも、直径で1.5倍、幅で2倍の大きさで、容量は1.5リットルとなっている)。
容器内の底から残留有機物が検出された。キビ粒(Panicum miliaceum)、ブラックベリー、乳製品の痕跡もあった。そしてオリーブ酸も確認されたのでオリーブも入っていたようだ(別説だと、それら動物性・植物性材料は加熱され、料理されていた、と想定されている)。かくしてこの容器、固形食物を入れることができたので、一種の実験台apprenticeshipだった、のかもしれない。
なぜそれが墓地から出てきたのか。記事では、推察するに、死者の同僚兵士、友人、ないし兄弟による究極の敬意からだった、とされている。
実際には、ローマ兵たちは水筒として山羊皮製の水袋を使っていた。これだと落としてもこすっても破れないし、素焼きの土器と同じで、外側の表面が濡れて気化熱で冷やされるという利点もあった。だからその皮製水筒は第1次世界大戦時まで使用され、「ghirba」と呼ばれていた(cf., http://new.alpitrek.com/Equipaggiamento-Acqua.html)。
【補遺】ghirbaをググっていたら、第1次世界大戦のイタリア兵墓銘碑に好んで刻まれていたらしい文言が出てきた。
【追記】こんなものも出てきた。ローマ時代の複製品と銘打って、1.5リットルの水筒として販売されているらしい(販売価格30ユーロ:Lenght : 19 cm ; width : 14 cm ; weight : 855 gr.)。
余談だが、よく兵士たちがこういった日常携帯品を十字架状の棒forcaにくくりつけて(背嚢:sarcina)担いで行軍していたように描かれているが(重量20〜50kgに及んだとも)、あんな棒きれでその重さを支えるなど、ワンゲル出身の私としては考えられない。錬成訓練では30kgをリュックに詰めて仰向けに成って背中に密着させて背負うが、立ちあがるのがやっとで、よろよろ歩きだ(別途持参の武器・防具の重さも考えてみよ)。こんなこと、実際体験すればすぐ分かるのだが、手抜きの紙上研究では平気で間違ってしまう(これを「紙上談兵」「机上の空論」という)。文献的には、兵士が背負って行軍しているかのような記述が残っているが(Appianos, HR, Hisp. 86:Josephos, JW, III.4-5:Vegetius, Epitoma rei militaris, II, ;画像的にはトラヤヌス円柱上)、訓練ならともかく、実戦においては行軍速度を稼ぐためにも、ちょっと考えられないことで、この矛盾をどう解釈すればいいのか、思案のしどころである。上記でも触れたが、普段は荷車使用が普通だったのでは。道なき道に直面して、それが不可能な場合の各自、ないしは従者の下僕の携行だったのではないか、と想像している。
ところでforcaのことを「十字架状の棒」と書いたが、考えてみれば、ローマ兵が揃いもそろってそれを背負っていたとすると、行軍とはまさにイエスの「道行き」Via Dolorosaではないか。であればキリスト教護教家たちの言説にそれが見えても不思議はないが、なぜか私にそれの記憶がない。御存じ寄りからの情報をお待ちしている。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp
【追補】エウトロピウス、Ⅳ.27の事情を知るために、栗田伸子訳で、サルスティウス『ユグルタ戦争』(岩波文庫、2019年)を読んでいたら、第43-45章(p.76-79)で以下の箇所に出会った。前109年の新執政官メテッルスは任地のヌミディアで前任執政官アルビーヌスから無気力な軍隊を引き渡されたが、賢明にも父祖伝来の軍律が回復されるまでは出陣しないことにし、「陣営内でも戦列においても奴隷や荷役獣を所有してはならない」等を命じ、「兵士が食糧と武器とを自ら運ぶようにさせ」、こうして「処罰よりもむしろ過ちから遠ざけることによって、短期間に軍を立て直した」と。換言すると,平時にはそういったことが容認されていた、おそらく非常時にでも、ということでもある。
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