2001年の発掘をもとに当初は、後2世紀末のセプティミウス・セウェルス帝関係の戦勝記念物と想定されたが、2009年の発掘結果により、ディオクレティアヌス時代がらみ(後284-330年の間)の戦勝記念物で、ただ、幾つかのレリーフはより以前の建造物の再利用や奪取spoliaによるせいで、より以前の表現形式が見られる、と分析された。注目すべきは、幾つかのレリーフがテトラルキア時代の芸術で基本となるモチーフが表現されていることで、その代表例が以下である。これは2009年に発見されたレリーフで、中央にひときわ大きく二名の人物が描かれており、彼らは、玉座が設えられた4頭立4輪馬車carrucaから降りて歩み寄り抱擁しているので、この二人をディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝と特定して同定することも可能であろう。ならば、テトラルキア以前の二皇帝diarchia時代(後293年以前)の場面を表していることになる。となると、コンスタンティヌスのアーチ門(315年落成)に先立つこと20数年前、テッサロニカのガレリウス凱旋門(303年落成)に先行することわずか10年ほどの作ということになり、必然的にそれらとの比較が可能となるはずである。とりわけ風雪で摩滅が甚だしいガレリウス凱旋門上のレリーフの復元の参考になるであろう(ここでは詳しく触れないが、同時代の画像として、エジプトのLuxor神殿内のフレスコ画、スペインはCentcellesの天井モザイク画、シシリー島のVilla Romana del Casaleの床モザイク等との比較研究は心躍るものがある。これらのいずれについても現地訪問も果たしているのだが。問題は私に残された時間である・・・)。
管理局はいつものように正確な番地を公表していないが(まだ未定なのかも)、「剣闘士たちの宿舎」 Caserma dei Gladiatori(V.v.3) 近く(?)の居酒屋(タベルナ)の二階への階段下で発見された(私には中二階にみえる。だったらそこは倉庫だった可能性もある:なお、ある記事で地下室とされているが誤訳:たぶんground floorがらみ?)。写真右側で勝負あった瞬間が描かれている。左側に下半身だけ一人描かれているが、その服装からすると審判員のようにみえるがどうだろう。このタベルナについて詳細な紹介が「PompeiiinPictures」のHPですでにアップされているのは、さすがだ。これをみただけで、誰もがおびただしい新発見に目を見張るはず(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2008%2000%20gladiatori.htm)。そこでは出土場所は「Termopolio con Gladiatori Combattenti : Bar with fresco of gladiatorial contest at crossroads between Vicolo delle Nozze d’Argento and Vicolo dei Balconi」と名付け、表現されている。
だが、我々が知りたい感染症関係の証拠はほとんどない。かろうじてこれまでそう主張されてきたものについて列挙し、だが判定にきわめて慎重なのが以下の論考である。M.Grmek e D.Gourevitch, Les Maladies dans l’art antique, Fayard,1998, pp.341-347. なにしろそもそも該当テーマでの彼らの章立てが「錯覚の病理学 Les Patrologies illusoires」となっていて、従来の諸見解は妄想であると概ね斥けている。彼らが列挙するもののうち、マルクス・アウレリウスの疫病に直接関係するのは、②、③、⑤の3つだけで、しかも著者たちはいずれに対しても天然痘を表現したものでないと結論づけている。これをめぐって若干の論争があるがここでは深入りしない。