月: 2020年8月

現代スケスケ・トイレと古代ローマの木造トイレ:トイレ噺(16)

① 渋谷の公園に最近オープンした透明トイレ:施錠をすると見えなくなる仕組みとのこと(https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2008/21/news120.html)。夜だと街灯がわりにもなる、と書いてあるが、でも変な見物人や路上生活者が集まってきそうで、どうかな。ちょっと心配。

【追記】最近こんな体験ブログをみつけた。「検証 スケスケの公衆トイレ 用を済まして確かめてやる」(https://www.youtube.com/watch?v=VoROw7wVdss):参照、2021/8/16

② オランダ内陸のネイメーヘンでの発掘されたトイレの模式図が,地域柄木造でおもしろかったので、とりあえず掲載しておきます。構造的に汚水枡まで考慮されていてリッパ。そのあとどうなるのか気になったが、くみ出しなのであろうか。Harry Van Enckevort et Elly N. A. Heirbaut,Nijmegen, from Oppidum Batavorum to Ulpia Noviomaguscivitas of the Batavi: two successive civitas-capitals, Gallia, 72.11, 2015, 285-298.

https://journals.openedition.org/gallia/1577Gall
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漱石とあばた(痘痕):遅報(49)

 感染症でググっていたら、以下で、夏目漱石(1867-1916:49歳で死亡)が3、4歳頃の種痘の失敗であばた面の持ち主だったことを初めて知った。2020/5/24:小森陽一「夏目漱石と感染症の時代:『吾輩』の主人・苦沙弥先生はなぜ「あばた面」だったか」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020052200006.html);佐藤博「生誕150年・夏目漱石は病気のデパートだった・・・PTSD、パニック障害、糖尿病、胃潰瘍」https://biz-journal.jp/2017/04/post_18711.html

 これはけっこう有名な話だったらしく、彼のイギリスでの3大劣等感のひとつとされている(他の2つは、英文学者なのに英会話はきわめて苦手、イギリスでは短躯:158cm 52kg:「倫敦に住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり」『文学論』序:但しこの一文、ド田舎の第五高等学校から東京への就職運動がらみでの彼の小ずるい偽装だった可能性もあるようだ)。昔読んだとき、そんな箇所私はすっ飛ばしていたのだろう、全然記憶にない。しかしそれにこだわって彼の書いたものを読むと、当時のイギリスにおける人種差別にまで考察が至ることができるわけだ。

は晩年、が大学予備門時代、写真の傷のように見えるが、両者でその位置が共通しているし、彼の写真はだいたい左側を正面に見せているのも、右側がよりひどくそれを意識していたからなのだろうか。

 それはともかく、彼の写真はあばたがきれいに修正されているのだということも、当たり前といえば当たり前のことだが、今回初めて知った(見合い写真は言うまでもなく、切手や昔の千円札でも)。ちょっとウェブ検索しても明確にそれらしい素顔の写真はみつからなかったが、ロンドンでもじろじろ見られたというからにはかなりのあばた面だったに違いない。とはいえ日本ではそのころこんな感じ↓の人は珍しくはなかったのだろうが。

幕末の通弁御用役・塩田三郎(1864年撮影)

 そういえば「あばたもえくぼ」っていうことわざもあったっけ。当時鉛をいれたおしろい(鉛白粉)が女性の化粧に使われていたが、それだとあばたがきれいに隠せたそうだ。ただし「引きずり痘痕」になるとそれも無理だったが、とのこと(https://www.isehanhonten.co.jp/wp-content/uploads/2019/10/vol47.pdf)。どんな傷だったのか見てみたい気がするが、ぐぐっても出てこない。

この宣伝ってどう考えても嘘くさい。光のあて方も違うし、右に細工しての左だろう、ぜったい

【補記】こんな漱石観もあるようだ(2021/6/15):筒井清忠「初めて「漱石神話」を解明した書:夏目漱石と帝国大学」(https://wedge.ismedia.jp/articles/-/23099)。とにかく脱神話化はけっこうなことだ。立身出世主義とか蓄財とか、明治人なら当然のことではあろうし、なにしろ病弱だった彼は49歳で死亡しているのだから、残される家族のこと思っていたのはよくわかる(それにしても未亡人の散財癖には畏れ入る)。とはいえ、若い時私なども感激した「則天去私」と異なる実像を知ることはいいことだ。一筋縄ではいかない多重的な赤裸々な人間性を白日の下に曝しているのだから。

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コインから引退皇帝の表情をうかがう

 面白いコインが売りに出ていた(PEGASI NUMISMATICS SALE 158 Hosted by Agora Auctions)。周知のように、四分治帝tetrarchの東西両正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは305年5月1日に同時に引退した。それを記念した銀5%程度含有の青銅貨AE FOLLIS、よって発行年は一応305-6年とされている。出品業者の説明では、左がディオクレティアヌスで造幣場所はロンドン、右がマクシミアヌスでトリーア製、裏面はいずれも同じで,右側のProvidentia(「神意」の擬人化)が手に持った枝を左のQuies「静寂」に差し出しているデザイン。両方ともマクシミアヌスの後継西部正帝コンスタンティウス・クロルス領域での打刻であるが、今回の政権禅譲で帝国が平静であれかしとの思いが伝わってくるような気がする。マクシミアヌスのほうの表情によりリアリティを感じることができるのも、これまで彼の副帝で女婿コンスタンティウスによるものだからかも知れない。落札希望価格も同じで$335。$250からのオークションとなっているが、すでにマクシミアヌスのほうは「SOLD」表示が。開始直後に言い値で落札されたわけだ。収集家がほしくなるような個性をマクシミアヌスに感じることができたからだろうと納得。ちなみに、ディオクレティアヌスは引退時60歳で、マクシミアヌスは4、5歳年下だったと想定されている。

 彼らが二分治体制dyarchyを敷いた286年では、ディオクレティアヌスが41歳、マクシミアヌスが36, 7歳で、その頃の少壮期の両帝の表情と比較してみるのも一興であろう。それが以下のローマ造幣所打刻の記念金貨*。両者ともに精悍さに満ちた顔つきであるが、多少くずれているとはいえ20年後もほぼまだその線を維持しているかのように見えるマクシミアヌスに比べ、ディオクレティアヌスの衰えは著しい。精気がまったく感じられないのである。よもや病み上がりが反映されていたとも思えないが。それでもディオクレティアヌスは隠居地Split(現クロアチアのダルマチア海岸の町)で引退後8年間生き続けた。他方、マクシミアヌスは帝位復活を目論んで再三策謀をめぐらし、ために実子マクセンティウス、女婿コンスタンティヌスに疎(うと)まれ、後者によって5年後に死に追いやられてしまった。いずれが武人としての生涯を全うしたというべきか、微妙である。

裏面は、象のクワドリガに両名が乗っての架空の執政官就任行列か
  • J.P.C.Kent,photo.by Max & Albert Firmer, Roman Coins, London, 1978, p.323によると、本コインは287年の両帝執政官就任行列を描いたもの。その根拠は、裏面銘文「IMPP DIOCLETIANO III ET MAXIMIANO CCSS」だが、両帝同道の行列そのものは架空のものか。これはAureus金貨5枚分に相当する記念金貨として軍高官や高級官僚に送られた一品で(すなわち流通貨幣を意図していない:cf., S.Williams, Diocletian and the Roman Recovery, London, 1981, p.49)、現品はAboukir遺跡(エジプトのアレクサンドリア北東端の岬)から出土の由。
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