今、以下を読み直している。河合潤『西暦536年の謎の大噴火と地球寒冷期の到来 』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年。この本は、表題以上に研究者たちの立ち振る舞いとか、研究手法への言及が多くて、それなりに読ませる。私にも思い当たることが多い。その中でいわく「研究とは地味なもので、ある程度頭が鈍くなければ、粘り強く継続できるものではありません」と(p.157)。
そして思い出したのが、運・鈍・根、だった。私が大学一年時代、教養の英語読解を担当したのがなぜか文学部英文学科教授の田辺昌美先生だった。普通は教養部の語学教師がするのだが。ディケンズの『デビッド・カッパーフィールド』がテキストだったが、授業中時々妙なことを仰る人で、今でも覚えているのは、文字通りではないが、こんな調子だった。「君ら、川に橋が架かっているのはなぜだと思う。あれは人が渡りたいと願うから橋が架かるんだ」。まあ、逆転の発想とでもいうべきか。
その彼のご自宅はたまたま私の実家の近くだった。一度だけ夕刻お邪魔したことがあった(そうなった子細は今は述べない)。すでに晩酌をかなり召されていた先生は、赤ら顔で、それがクセだったが目をつむり首を左右に振りながら「なあ豊田、研究者は運鈍根なんだ、知ってるかい」。18歳で知るわけはない。運が必要、鈍感でなければならない、根を詰める性格でないとだめ、というわけ。「お前の所の高山(一十先生:古代ギリシア史)、あれはかまぼこと呼ばれていたんだぞ」。板(机)に張り付いた肉塊、今風にいうとガリ勉という意味だったのだろう。その時思ったのは、自分は鈍ではあるが、もとより運はなし、性格的に軽佻浮薄で持続力もない、かまぼこなんて無理、こりゃだめだ、と。
齢73にして思うのは、鈍ではあるし、尻軽も直っていないが、多少は運はあったようだし、年取ってきたらかまぼこみたいにパソコンの前に座っていて飽きないなあ、と。
運で思い出すのは、津山の女子大で何かの時、学生の前で話す機会があったとき、これも英文の若手教師が「誰でも人生で大きなチャンスは3回はある、それを見逃したり、間違った道を選ぶと、それっきり。だから賢くあれ」と。なんだか職場朝礼での部長さんの訓辞めいていたけど、これもあとからなるほどなと。
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