オスティア・アンティカ遺跡にはとても優れたHPがある。それが「OSTIA:Harbour City of Ancient Rome」(https://www.ostia-antica.org/)である。私など目的の箇所をチェックしようとすると、まず「Topographical Dictionary of Osita」をクリックして、さらに該当地区をクリック、出てきた画面でもっぱら「Plans」の方をクリックして目的の場所にアクセスするのが常だった。どうやら私は画像のほうを好むらしい。
ところが、その「Plans」に表示されていない遺跡について、だが実際には解説や写真が掲載されていることは、著名なSinagoga(IV.xvii.1)を扱ったときの体験で知っていた。実際には、https://www.ostia-antica.org/regio4/17/17-1.htm が存在しているのである。今回運動競技関係を調べていて、やはり地図では示されていない場所(上記と同じくIVに)にとんでもないモザイクがあるらしいことを、論文(Zahra Newby, Greek Athletics as Roman Spectacle:The Mosaics from Ostia and Rome, Papers of the British School at Rome, 70, 2002, p.195, FIG.8)掲載のピンぼけの白黒写真で知った。え〜なにこれ、とビックリ仰天、市街地からSinagoga へと行くVia Severiana 沿いの北側は中途半端に発掘されていて、それがどうやら浴場らしいことは実地に目撃していたので知っていたが、そこにこんなモザイクあったなんて知らないよ〜、と疑心暗鬼でググってみたら、いとも簡単にSinagogaと同様、上記HPに記載されてることも判明した。それが、「Terme di Musiciolus」(IV.xv.2: https://www.ostia-antica.org/regio4/15/15-2.htm)である。結局それは「Plans」ではなくその上の「Text menu」を子細に眺めればあったのだ。どうやら「Plans」の原図が古いままで、その後の新発掘を反映していなかったようなのだ!
写真の周囲がどうなっているのか、このモザイクの全貌を知りたいところだが、HP掲載の写真のほとんどすべては、Floriani Squarciapino女史の 1987年の論文掲載のものらしいので、現在コピー発注中。たぶん年を越さないとこないだろう。HPの解説によると、浴場名となったのは一番上に残存している男性「MVSICIOLVS」に依る。彼一人だけ衣を着て左手に棒をもっていることから、トレーナーないし審判と想定されたからのようだ。あと4名の肖像と名前(といってもニックネームだが)が残っているが(「FAVSTVS」「(V)RSVS」「LVXSVRIV[S] 」「PASCEN[TI]VS」)、いずれも裸であることから競技者たちである。ちなみに、この選手たち、アレクサンデルやヘリックスのような著名人ではなくて、他では名前が知られていないそうだ(Newby, p.195 は、拳闘士などでよく見ることある名前、としているが)。この画像では、競技の種類を判定する材料もみあたらない。Cf., Eds. par M.Cébellillac-Gervasoni, M.Letizia Caldelli, F. Zevi, Epigrafia Latina Ostia:Cento Iscrizioni in Contesto, Roma, 2006( 2010), pp.291-92, no.87:Mosaico con nomi d’atleti.
我ながら思いがけない展開になったきた。だから面白くて止められない。ただし、この墓銘碑情報、大昔どこかで目にしていたような気がしている。なにせ必読文献には、19世紀末のW.M.Ramsay,The Cities and Bishoprics of Phrygia, Oxford, UP, 1895 (この本、我が書棚を見てもみつからないし、我が図書館にもないのはおかしい。ひょっとして数年前に消火スプリンクラー装置の誤動作で9階が濡れたとき処分されたのか。私が寄贈した美術関係が見るも哀れな状況となっていて、これにはまったくもってやりきれない思いだ)や、20世紀初頭のW.M.Calder ら記憶に残るおなじみの研究者が名を連ねているからだ。今、関係文献を急いで収集している。昔も集めたはずだが、それを探すよりも今やググって入手した方が早いからので(すみません、コピー類の保管は乱雑なんです)。しかし肝心の墓碑銘の写真が見つからない。それもそのはず、どうやら1922年に宗教対立の中でイスラム教徒に破壊されたらしい。幸い2通の読み取りは残っていてということなのだ(Calder,Bulletin of the John Rylands Library, 13-2, 1929,p.257)。「はやぶさ2」ではないが、オスティアが奇縁で40年振りに私の念頭に舞い戻ってきたわけである。
そんな中で、見つけたのが以下の写真。別々に掲載されていたのを合成してみた。E.H.Buckler, W.M.Calder & C.W.M.Cox, Asia Minor, 1924.III: Monuments from Central Phrygia, JRS, 16, 1926, 204(p.80-82), PL.XII,204b, c. これについてはいずれゆっくりと(死んでからかぁ(^^ゞ)。
なお、エウテュケスつながりで、こんな写真もヒットした。元写真は、W.M.Caldar, Early-Christian Epitaphs from Phrygia, Anatolian Studies, 5, 1955, p.33-35, No.2(=B.W.Longenecket, The Cross before Constantine:The Early Life of a Christian Symbol, Minneapolis, 2015, p.115)。出土場所はGediz近くのCeltikcide(現在、といっても65年も前だがKutahiaの倉庫に保管、と)。なるほど、隠れキリシタンのマリア観音よろしく、さりげなく(といっていいのだろうか (^^ゞ)右手のひらに十字が(これはパンの切れ目を示している)、左手下にはブドウの房が見えているので、パンとワイン、聖餐式を示しているわけだ。我らのエウテュケスよりは1世紀半も先輩である。