私の研究の出発点は、キリスト教迫害史だった。駆け出しの最初の20代の時はともかく、研究に年期が入ってくると、「殉教者になる人たちのメンタリティー」「殉教伝記者のメンタリティー」が気になりだした。どういう連中が殉教するのか、そしてその記録を残した殉教伝記録者たちはいかなる選択基準で叙述しているのか、といったことである。端的にいえば、「〇〇と××の受難記」のなかに、表題に挙げられた以外の殉教者・告白者が、多くの場合無名で登場していて、そういう彼らは殉教者だったりするのに、とりあえず記録者の主要叙述対象にはなっていない。これをどう考えるべきか。こういったことを含めて原点回帰で研究の最終仕上げでいずれ触れたいと思っているが、ここでは冒頭の件に限っての現段階での私の結論を述べれば、さあ殺せと自爆テロ的な意気込みで(もちろん、皆が皆そうであるというわけではないが)官憲に出頭する確信犯的な「自発的殉教者」以外の場合、「逃げ遅れた愚直な信者」がたまたま探索に引っかかってしまった、という印象が強い。かわいそうなくらい要領が悪いのだ。
研究者にもご多分に漏れず立場とか忖度とか色々ある。そこで、研究者の手垢がついていない原史料レベルを細かく読み解いていくと(もちろん、原史料といえどもそれを書いた記者・編纂者の傾向性の検証は必要)、司教・司祭・助祭といった高位聖職者は、危険を察知すると敵前逃亡的に、真っ先に避難・逃亡・潜伏し、あるいは背教する。そして嵐が収まると、否、収まりそうだと見当つけると、ちょっと弁解を述べて現職復帰する(そのまま棄教する御仁も多かったはずとはいえ)。こういった要領のよさで生きてゆくへたれ連中の名前は、該時代において侮蔑すべき存在なので、当然記録として残存しない(あっても例外的だ)から残らない、誰かが義憤を感じて書き残していても抹殺される、ときにどっかの国と同じで、制度教会ぐるみで。その挙げ句の残存伝承作品が「受難記」なのだ。
いや、受難記には殉教した司教や司祭も登場していると反論されるかもしれない。そう、彼らはごく少数の実に貴重な存在だったからこそ、記録に残されたのだ。もちろん一般信徒とて同じだ。殉教者は信者のごく一部に過ぎない。それでも色んな意味で著名人だからこそ名が残ったわけだ。3世紀中盤以降の大量棄教に直面し、彼らの存在を免罪符にし、否、かの殉教者たちを称揚することが自らの弱さへの言い訳となるという計算あってのことだ。そしておそらく官憲側からすると、彼らは見せしめのために検挙・処刑された。逆に言うと、それで沈黙してしまうはずの広範な層が存在していて、そのもくろみ通りの結果となるのもいつもの通り。
ここまでお読みいただいた皆様の中で既視感にとらわれる人がいるかもしれない。殉教者問題はまるで、モリカケ問題・サクラ問題、そして最近の「ガースー」総理現象とそっくりだなあ、と。本来、粛々と法規を守るべき立場の者が、権力におもねって真っ当な対応をしないのが、残念ながら世間の、いや日本の現状なのである(決して今だけのことでもない)。当事者にとっていいわけの材料はいくらでもある。学術会議問題だって、権力側がもう一歩強く出た場合、さてどうなるか、これは「みもの」だと私は思っている。
だからこのままでいいのだ、と私は言いたいのではない。要領の輩が跡形もなく四散逃走したあと、居残ってしまった不器用で愚直な存在が引っ立てられていくわけだ。キリスト教的にいうとそれが殉教者の大方の姿である。彼らは転ぶという選択肢すら頭に浮かびはしないほど愚直なのである。彼らへの処断は権力側からすれば単なる見せしめに過ぎないが、彼らをこそ我らは注目しなければならない。だから赤木俊夫氏の自(恥)死を黙視してはならないのだ(https://www.tokyo-np.co.jp/article/61894)。
【追記】2021/1/21深夜にスターチャンネルの「見逃し」で以下の映画を見た。テレンス・マリック監督「名もなき生涯」”A Hidden Life“(2019年:アメリカ・ドイツ)。第2次大戦中に、ナチス・ドイツに併合されたオーストリアを舞台に、良心的兵役拒否の立場から、度重なる従軍命令とナチスの軍門に降った教会の指示に従わず、ひたすらに自分の信念と妻や娘への愛に生き、36歳で処刑された実在の農夫フランツ・イェーガーシュテッターの生涯を描く。
大自然の中でひっそり生きてきた山村の一介の農夫が「無実の人を殺せない」という一点で徴兵の忌避を表明する。そのため彼、彼の家族は周囲から孤立していく。彼はフランシスコ第三会に入り、地元教会の聖具係でもあった。だが、村の司祭も司教も助けてくれない。信念を貫こうとすることで皆が不幸になっていく。五度目の召集令状が来て、苦悩は頂点に達する。1943/3/1に出頭して宣誓拒否し逮捕勾留。同年8/9(おお、私の誕生日だ)にギロチンで処刑死。その中で家族は村八分の目に会い、彼の死後もそれは続く。ウィキペディア情報によると、彼には生い立ちに問題があったようで、若い頃は荒れていたが、妻との出会いで変わったらしい。
世間的にまったく忘れ去られていた彼は、1964年以降になって研究者たちに見いだされ、2007年にベネディクト16世教皇により列福。しかし、これではたして遺された家族が受けてきた悲しみは癒されたのであろうか。彼も幸福だったのだろうか。「私に力を」「神はなにもなされない」。
こういった視点で「受難記」は読まれれなければならない、と思う。
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