「『石に刻まれた江戸時代』(関根達人著):危機の歴史に学ぶ」(https://mainichi.jp/articles/20200622/dde/014/040/013000c)
今日、「戦後75年に学ぶ戦訓」(飛耳長目(72)掲載)を読んだとき、その一ヶ月前のこの記事が目にとまった。
私も東日本大震災で先人たちが残してきた「津波碑」「災害碑」の存在を初めて知ったくちである。標記の記事は、江戸時代に災害を報告している藩文書(紙)では被害を軽く報告しており、事実はむしろ村落共同体で建立した「供養塔」(石)に刻まれているほうにあったのでは、というのが趣旨である。お役人の報告書の軽さと、身近な肉親を失った庶民の血を吐くような思いが、素材の「紙」と「石」に象徴されているようで、胸を打つ。村落共同体は、次の瞬間には隠匿・抹殺もされやすい「紙」などはなから信じておらず、手間がかかる「石」という素材に永遠の遺言を刻み込んでいたわけである。
ただ、ここでもお上のやることを信じてはいけない。「石」は同時に支配者のプロパガンダの道具にもなるからだ。
古代ローマ史研究において、私はこれまで二大史料群として当然のようにこの「紙」(文書史料)と「石」(碑文史料)を使ってきたが、庶民の「石」に寄せてきていた思いの深さに今まで気づくことはなかった。改めて考えてみると、古代メディア素材としては、前提条件として文字が読め、その格納場所を探知できるノウ・ハウが必要な「紙」よりも、公の場所で否応なしに視覚的に目に入る「石」や「青銅」製の立像や、その台座の「石」に刻まれた銘文のほうが優れた媒体であったわけである。もちろん、支配者側も当然それを見抜いておりおおいに利用していたわけだが、遅ればせながらこのことに今回気づくことができて、本当によかったと思う。
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