オスティアは海が近かったにもかかわらず井戸から良質な地下水が容易に得れたので、それが利用されるのが通常であったとされているが(但し、私は実際に飲んで試したわけではない;遺跡内の水道水はたしかに美味しくなかったが、あれの水源はどうなんだろう。駅から遺跡への途中にある水道蛇口nasoneのそれはまずまずだったが、一昨年に行ってみたら壊れていた。自動車がぶつかったて破壊された感じだった)、公衆浴場のような大量消費に対しては、オスティアからまず9km北上してAciliaに至り、そこから東にMalafede方向を越えて8kmのTrigoriaが水源と想定されている(具体的ポイントがどこか私は知らない)。水はそこから水道渠ないし暗渠でAciliaで発見された貯水槽を経由して(それはLido線Acilia駅から下流に400mほど帰った場所。その年の調査期間に滞在したレジデンスのご主人が車で連れて行って下さった。ありがたいことだ。その時の雑談で、現在路上に設置されている垂れ流しのローマ水道の蛇口nasoneは,実はムッソリーニが作ったものだ、と聞いてなるほどと感心したが、それは庶民にありがちな都市伝説だったようで、実際には19世紀末から設置がされていたらしい:https://en.wikipedia.org/wiki/Nasone)、そこから水道渠がオスティエンセ街道に並行して現Borgo di Ostiaにまで伸び、さらに当時の川筋の湾曲に即応して南方向に曲がり(その痕跡は現在の住居や司教館の外壁に残されている:参照、黒田泰介「ボルゴ・ディ・オスティアにおける古代ローマ水道橋遺構の転用による中世都市組織の形成」坂口明・豊田編著『古代ローマの港町:オスティア・アンティカ研究の最前線』勉誠出版、pp.321-299、口絵)、さらにOstia Antica遺跡の正門Porta Romana東のやや高台に設置された貯水槽(標高8mの由)に貯められたあと、都市内に流され、また一部さらに城壁上を走っていたとのこと(cf., https://www.ostia-antica.org/regio5/aqueduct/aqueduct.htm)。貯水槽探索で猛暑の中で黒田氏と茨をかき分けながらさ迷ったこともいい思い出である。
これをGoogle Earth計測による等高線的に確認してみると、テヴェレ川中流域の標高は6m、ドラゴンチェッロ丘がせいぜい21m、アチリアの貯水槽跡が34m、マラフェデ地区が60m、その東のクリストフォロ・コロンボ通り東の丘が70m以上となった。水源と想定されているTrigoriaあたりは80m級ある場所もある。ついでに触れておくと、ボルゴの北端道路面が5m、遺跡内の貯水槽が5-6m、ウィクトリア広場の噴水・貯水池が3m、スカヴィ通り(昔のDecumanus maximus)が2m(但し、遺跡付近でのテヴェレ川の水面が-1mと表示されているが、それはありえないので、以上の数字には1mほど誤差があるとみるべきかも:堀教授情報では、Google EarthはGPSデータなのでかなりの誤差がある由)。
都市オスティアの正門のローマ門Porta Romanaを入ってすぐに、かなり広い空間の女神ウィクトリア広場Piazzale della Vittoriaがある(現在、その広場の左奥に女神ウィクトリアのレプリカ像が設置されているが、本来は城門上に立っていた由で、出土現物は遺跡内博物館所蔵)。そしてこの広場の東側には一見不必要なほど大きなニンフェウム(泉水:長さ23m;前面に貯水池あり)があって、私には長らくなぜこんなに巨大なのだろうと疑問に思ってきていたのだが、今回面白い叙述に出会って、なるほどと腑に落ちたのである。
それは、私などには思いもつかぬ意表を突いた観察から導き出された考察からだった。遺跡の東西中央通りのDecumanus maximusの石畳には多くの車輪の轍が見られるが、劇場より向こう側では見られない。それはオスティアでの物資輸送が、そこから先は陸上輸送において荷馬車ではなく、荷役奴隷や荷駄によって行われたからだというもので、この点は、ポンペイ(北東最高標高のウェスヴィオ門Porta Vesuvioが集積場だった:よってそこに分水施設もある)やローマ(トラヤヌスのメルカート:ここも一番上から下へ荷下ろしされていた)の状況と似た側面がある。この伝から推察するに、広場がそれなりの広さをもっていた理由も、そこが荷物輸送の集積場であると同時に、積み荷の交換場所だったからだったこと、よってそこは多数の荷駄や当時のタクシーにあたる無蓋の軽装馬車が集合する、現在の高速道路のサービス・エリアないしパーキング・エリアに相当し、ニンフフェウムの前の貯水池も馬やラバ・ロバの荷駄獣にとっての水場、ガソリン・スタンドを兼ねていたに違いない。
こう考えることで、これも私の積年の漠然とした疑問だった、なぜ城門近くにわざわざ浴場(Terme dei Cisiarii:すなわち「御者たちの浴場」II.ii.3)が存在するのか(も少し先に巨大な「ネプチューンの浴場」があるではないか)、も同時に氷解した。無蓋の軽装馬車でローマから到着した乗客や御者がここで埃や汗を洗い流すことができたわけだ。そのつもりでこの浴場の冷浴室frigidarium(下図でのA)の舗床白黒モザイクを読み解いてみるとたいへん興味深い。すなわち、描かれている中心テーマは、無蓋の軽装馬車と御者・乗客、それを牽引するラバなのである(周辺には海に生息する海獣たちと泳者も見えるが)。部屋の真ん中の排水口を囲む城壁と四隅の塔(それをアトランテス、ないしテラモネスが支えている)はおそらくオスティアを意味し、この部屋の壁沿いをぐるりと取り囲んだ城壁には数多くの城門が描かれているので、帝都ローマとも絵解きできるわけである(cf., https://www.ostia-antica.org/regio2/2/2-3.htm)。また、この浴場には2つのバールも付属していたので、一風呂浴びるだけでなく、一息入れて軽食をとることもできる仕組みだった。たぶん御者たちのたまり場だったに違いない。ところで、御者ってやっぱり奴隷・解放奴隷の職種だったのだろうか。
上図左は二頭立てを御者が乗客2名を乗せ、右は一頭立てで御者が客寄せしている場面だろうか。下の2つには荷駄獣(たぶんラバ)の名前が記載されていて貴重である。左のPudes(はにかみ屋)とPodagrosus(痛風持ち)は並んで水を武者振り飲んでいる様子から、オスティアに到着直後で、御者は足台のはしごから客を下ろしているところだろうか、右のPotiscus(がぶ飲み)とBarosus(腰抜け)は御者に手綱をとられている;ちなみに彼ら4頭はその名前が明記された最古のラバらしい(cf., J.M.C.Toynbee, Beasts and Their Names in the Roman Empire, Papers of the British School at Rome, 16, 1948, 24-37)。
と、ここまで書くとついでに触れたくなる。この浴場の東に隣接した建物(II.i.1)にはやはりモザイクで犬が描かれていて、犬の名前も「MONNVS」(日本風に言うとポチ?)と埋め込まれている(モザイクは3世紀初頭作)。愛犬の名前として最古かどうかは、残念ながら確かめていないが(周知のように、名付けられた猟犬のモザイク事例は数多い:cf., Toynbee, op.cit.)。
【付論1】個人的関心から、ここまで詮索していて妙な関連が明るみに。それは以前扱った「アレクサンデルとヘリックスの居酒屋」(IV.vii.4)のモザイク師(工房)がこの「犬のMONNVSの集合住宅」、および「落雷(封じ)の邸宅」(III.vii.3-4)のモザイク製作者だったとの指摘がある(https://www.ostia-foundation.org/want-to-uncover-the-cane-monnus-mosaic/)。その正否について私はそう判断する根拠を知らないが。
【付論2】なお、現地でつい見落としやすいが、この浴場には地下貯水槽からの人力揚水装置が備わっていた。デクマヌス通りに近い区画の赤茶けたトタン下がそれであるので、是非覗いてみてほしい。コマネズミよろしく奴隷が中に入ってくるくる回す木造ホイールの断片がそこから出土しているらしい(どこに保存されているのか私は知らない)。
【追記】我孫子の読書会でこれ関係の発表したら、ヴェネツィアは雨水に依存していたようだがとの例を出しての質問があった。それに対して、私に確たる根拠・確信があったわけではないが、ヴェネツァでも日々の飲料水は本土側から船で運んでいたのでは、とお答えした(緊急状況下では、しょうがなく貯蔵雨水を飲んだかもだが;貯水槽の防水が完璧だったとは思えない上に、今みたいに海水面が上昇したら貯水槽に海水が入るわけだし、ほんとどうしていたのやら)。私は地下貯水槽に備蓄しての雨水って飲料水にならないだろうという認識が強く(正直、如何に濾過していたとしても、そんな生水飲みたくない)、あれだけ水源からの直接取水にこだわっていたローマ人がそれで満足していたとは到底思えないので、家に帰ってちょっと調べてみたら、やはりというべきか、「水売り業者」の存在が出てきた。それが、必ずしも上水に恵まれなかった当時の一部庶民にとって水道渠よりはよほど身近だったかもしれない。というのも、夏の渇水期においては現在でも取水制限が課せられる場合があるように、さしもの水道渠も張り子の虎になる事態を想起すればいいだけのことである。
考えてみれば近代的な上水道が整備されるまでは、古今東西に「水売り」が存在していた(し、今だってそうだ、特にローマでは観光客相手にボトルで売っているじゃないか)。空気と水はタダのわが日本でさえも「水屋」「水船」があったではないか(以下、江戸の話ではありますが:https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/kaisetsu3.html;https://www.jdpa.gr.jp/siryou_html/14html/14_essay1.pdf)。置かれていた状況と場合によっての、地下(井戸)水、雨水、上水、湧き水の利用という、その多様性にこそ注目して、これまで巨大水道渠にばかり目が向いてきた都市伝説は修正されるべきだろう。
反論が予想されるのであらかじめ付け加えておく。現代ではこの水売屋、観光客相手とはいえ、さらには薄めたジュースであるとはいえ。
【補遺】2021/4/19:在イタリアの藤井さんに問い合わせたら、彼女も最近井戸の井桁putealeの浮彫装飾に関心を持っていた由で、大略以下のブログを訳して送ってくれた。感謝。
結論をいうと、最初は井戸を掘ってそれで水を確保していたらしい。それ が可能な場所に住んでいた、というわけ。「マラモッコMalamoccoに飲み 水があったからこそ、最初の大規模なラグーン集落が生まれたのです。」 「リアルト地区でのヴェネツィアの誕生は、雨水を集める貯水槽なしにはあ り得なかった。」(図版1参照) だが人口の増加で公共・民間の井戸の数が増えても、雨水の供給も不足する ようになる。 そのうえ、貯水槽は冠水したり、穴があいたりして海水(より正確にはラグーンだから、汽水)が入ると、修理が大変で、だから修理せず放棄されるのが普通だったらしい。 1318年以来、平底の水船が本土のブレンタ川の河口で新鮮な水を汲み、8バ ケツ1ペニーで売っていた(1493年の価格)。小売りは「bigolanti」と呼ばれる 女性たちが、湾曲した棒の両端にバケツをぶらさげ肩にかけて、「aqua mo」というかけ声を呼びながら街を歩いたそうだ(図版2参照)。 人口が増えていくと雨水の貯水槽には、potabile(飲料可)とnon potabile (飲料不可)があり、16世紀初頭で、前者(100の公共貯水槽と2700の個人貯 水槽)と、1300の後者があった由。 1884年に本土からの水道橋の開通式がおこなわれ、新時代が到来したわけで す。 ということで、私の山勘はそう間違っていなかったようです。掘り抜き井戸、雨水、本土からの輸送、の組み合わせ。
なお、このブログ(Vanzan Marchini, I puteali veneziani. Storia di ieri e ignoranza di oggi – TIMER magazine )は、Elena Vanzan Marchini, Venezia Civiltà Anfibia, Sommacampagna, CIERRE Edizioni 2009、を参照しているそうなので、探したらまだ入手可能。早速発注しました(例のごとく、本代より郵送料のほうが・・・(^_^;)。
ところで、私なんかヴェネツィアはそのほとんどが浮き島みたいに思い込んできたが、今回坂本鉄男氏の『ビバ!』を新幹線の中で読んでいたら、以下の箇所が。p.96:「ベネチア本島の石畳の小路を歩いているかぎり、この町が118の小島を400以上の橋でつなぎ合わせたものとは想像がつかない」と。小島だったらそこで井戸は掘ることできるわけだ。となると雨水の件ばかりを強調するのもおかしくなる。これも一種の観光案内的誇張のような気がする。
また、藤井さんの在所の中部イタリアの「アラートリAlatriでは、つい70年ほど前まで、街の各所にある噴水?から水を汲んで、各家庭に持ち帰っていたそうで、頭に載せて運んだ銅製の両把手付きの水入れが町のシンボルにもなっています。我が屋から最も近いところで歩いて40分のところに、かつての水くみ場の痕跡があります」とのこと。40分! ま、渇水のアフリカの現状よりはましだが。
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