以前、坂本鉄男先生の「イタリア便り」の件を書いたことがある(2019/7/11)。今年になってお書きになっていないので、ちょっと気になって今回検索したら、うかつにも以下の存在を初めて知って、さっそく「日本の古本屋」で発注し、幸いかろうじてたまたま2冊とも入手できた。
『チャオ!イタリア:イタリア便り』三修社文庫、1986(昭和61)年;『ビバ!イタリア:イタリア便り(2)』三修社文庫、1987年
『チャオ!』の「はしがき」を読んだら、予測通り当時お書きになっていたサンケイ新聞日曜版に手を加えたもので、日付的には両書で1982年春〜1985年冬、すなわち日本が貿易摩擦で国際的な物議を醸していた時代、イタリアは恒常的インフレに悩んでいたリラの時代である。両方とも叢書的には<異文化を知る一冊>の中のもので、さもありなん。筆者は「日本の常識は世界の非常識」を標榜して、日本的価値観を押しつけることを読者に戒めている。出版時期はそろそろバブルに入ろうかという、第3次中曽根内閣の時期。
さて、あれから40年、状況は破竹的に変化したが、人間の心情はどれほど変化したであろうか。
一つだけエピソードを紹介しておきたい。典拠は『チャオ』のp.81-2:
言葉は人間が社会生活を営むうえで必要性に迫られて生じた一種の符丁である。このため社会環境の異なる外国の言語に自分の母国語に相当する言葉がないことがよくある。 例えば日本語では、年上か年下によって「兄・弟」「姉・妹」を完全に区別するが、欧米語ではこれを単に「ブラザー」とか「シスター」のような言葉で済ませてしまうことが多い。このため友人に「これは私のシスターです」と紹介されると、われわれ日本人は、その「シスター」なる女性を何気ないような顔でシゲシゲ観察し「いったい、彼の姉なのか、妹なのか」と憶測をたくましくする。 なにしろ日本語には「姉」でも「妹」でもよい言葉は存在しないので、どちらかに分類をしないと落ち着かないわけだ。
ラテン語の翻訳していると、「兄弟」frater「・姉妹」sororとのみ出てきて、だけど日本語文献だと先回りして「兄」とか「妹」と限定されている事例に直面する。ラテン語を重視するなら漠然と「兄弟」「姉妹」と訳さざるをえないのだが、ここに背景となる彼我の家族関係の違いを感じざるを得ない。我が国は儒教的に長幼の序を重視して長男・長女を他と区別するのだろう。
その伝で、私は孫ができたときに気付いたのだが、日本語で「孫娘」とはいうが「孫息子」とは言わない。古来「孫」といえば男系を意味していたのだろう、と。さて当たっているだろうか。
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