オスティア関係でググっていて以下を偶然見つけた。「Ostia at Tulane」(https://ostiaattulane.wordpress.com)。最初はTulaneの正体がわからず、アメリカかどっかのOstiaという別名の町なんだろうと思ってパスしていたが、検索していくうちに、Pinterestがらみでイタリアの我らのOstiaの画像が引っかかりだして、要するにアメリカのルイジアナ州ニューオーリンズにある私立大学で、そこでの2017年度の秋学期の「Roman Ostia」セミナー(Allison Emmerson Assistant Professor指導)の参加学生が調査研究した内容の一部を2017/9-12にかけてウェブ化したものだったこと、が分かってきた。
なんと学生2名づつのたった3グループでの成果のように表記されているが、その内容たるや完全に愛すべき我が国の学部レベルのレポート水準を越えていて、驚嘆ものなのはどうしたことか。
今はその詳細な紹介は省いて、私的にもっともビックリした件にだけここで触れておきたい。そこは第5地区のこれまで私の盲点だった場所である。というのは、そこは東西大通りデクマヌス・マキシムスの東端であるローマ門から西に少し歩いた左手(南)の、Google Earthで見ても未発掘の(あるいは、埋め戻された)単なる野っ原にしか見えず、東西大通りからは樹木でその向こう側(南)を見通せないし、これまで足を踏み入れたことがないからである。次回に訪問の機会があれば実際に現地を訪れてつぶさに確かめてみたいと思う。
彼らのレポートによると、このスペースは元々倉庫だったが、オスティアが衰退していく中でスペースが余ってきたのを利用して、そこに円形闘技場が建設されたと。辛うじて北西に楕円の痕跡が残っている由(cf., https://brewminate.com/store-buildings-of-ancient-ostia/)。縮尺によると長径は80mほどの規模だったようだ。またその存在の傍証に、浴場、特にネプチューンの浴場で発見された舗床モザイクに(下記【付言】の12)、円形闘技場の存在を裏付ける証拠も記されている、と。本当にそう言えるのであろうか。舗床モザイクに多く見受けられるのは、円形闘技場に特化した剣闘士競技ではなく、むしろボクシング、レスリング、それに統合格闘技パンクラティオンといった競技なのだが。ただ、場所的には、真正面の北側には先ほど触れたネプチューンの浴場付設の運動場palaestraや関連モザイクも遺存しているし、さらに西に少し歩けばローマ式劇場も設置されている、という土地柄ではある。
これが本当だとすると、典型的ローマ都市の定番公共施設として、こうしてオスティアに欠けているのは(ないし今現在未発掘なのは)競技場くらいになるわけである。
これまで私はこの地域では、Southampton大学のSimon Keay教授を発掘責任者としてPortusで2007年から3年間で発掘された円形闘技場しか知らなかったので、Ostiaにもそれがあったという想定はまったくの不意打ちであった。ポルトゥスのそれは後2世紀後半から3世紀前半にかけて、皇帝宮殿の東側ファサードと北側の領域に囲まれた、42m×38mの楕円形の空間だった。遺存する土台部分からすると一見半円形で劇場にみえるが、それは後世になって道路が作られて破壊されてしまったせいだとのこと。ポルトゥスのこの闘技場は、皇帝主催で客人を招いて行われる個人的使用のためのもの、とどこかで読んだ記憶がある。
【付言】上記のネプチューンの浴場に私は積年のつのる思いがある。それは下図の2の部屋がらみのことである。その部屋は現地の説明板にも「トイレlatrine」と表記されているのだが、見学に入れない。私も外から覗ける色々の角度で内部観察を試みてきたのだが、かなり床が掘られているようでもあり、倉庫になっているようでもありで、よく分からないのである。なんとも隔靴掻痒状態なのである。ただこの区画にはまったく反対側の角の14に、明々白々な公共トイレが公開されている。同様なことはポンペイでもあって、VII.5の南端にもともとトイレがあったのだが、現在そこは遺跡内レストランと売店となっている。また、II.711、すなわち円形闘技場の西側に隣接した大運動場の南端にひっそりと大型トイレがあるのだが(下記平面図11)、ここも倉庫となっていて公開されていない。どうもトイレはこのように転用の受難を受けやすいようだ。
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