米軍海兵隊第5師団所属軍曹のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル Joe O’Donnell氏(1922-2007)が長崎で撮影した私的写真(1989年公開:そもそも第5師団は福岡・佐賀県占領を担当だった由:長崎県は同第2師団管轄)をもとにしたNHK ETV特集「“焼き場に立つ少年”をさがして」をみた。これも昨年の再放送だが、未見の人にはお勧めする。NHKオンデマンド(単品¥220)で見ることできる。
NHKのそこでの追跡の仕方が歴史学研究に通底していて、そっから始めるか、といささか興奮。米軍が北九州で撮影した4000枚の中から、まずオダネル撮影分127枚を摘出。それを時系列的に並べて、彼が担当地福岡・佐賀以外の長崎へ行った可能性(写真のない空白期日)を割り出すと、1945年10月13−17日あたりが該当。夕方でフラッシュを焚いているので曇りの日となり、気象台資料から15、17日にさらに特定【後日談:でも彼の上陸港は佐世保で、大村に師団本部があったという記述もあり・・・。参照、【補遺1】の吉岡、それにオダネル『トランクの中の日本』】。
写真の分析はさらに進み、洋服だと男性は右前のところそうなっていないし、胸の名札は普通左胸に位置していたので、あの写真は左右反転であること(住所や名前は読み取れず:後から考えてみると、意図的に消された可能性あるかも)、さらにはカラー化のプロセスで、少年の鼻の中に布片の詰め物が認められ、また写真の左目の白眼の様子から出血痕が見て取れるとし、そういった白血病(血小板減少)の症状の被爆量(含む、2次被爆)の想定から被爆後2か月あたりまでと判定。
回りの風景からも焼き場の位置を想定する。背景は段々畑風。石柱に刻まれた字は旧字体「縣」と思われるがそれ以上の追求はできなかった由(この石柱は何らかの公的な境界表示と思われるので、その意味で重要証拠のはず。よって私にはあの程度の調査では納得できない)。足元の電線は電車用の通信ケーブルで、その手前の石垣は線路沿いによくあった加工石材と鉄道関係者が証言を寄せる。こういう風景全体から旧国鉄長崎本線の大草・長与駅と道ノ尾駅の間の線路の上側に少年が立ち、被写体までの距離1.8mで撮影、と絞られていく。となると当然、長崎の爆心地(浦上)付近での撮影ではなくなる、はず(すなわち、NHK想定撮影地は爆心地から直線で3.4〜5.1kmと距離がある:少年たち兄弟はもちろんそこで被爆したわけではなく、どこかで被災して移り住んできて暮らしていたにすぎなかったのかもしれない)。
別情報では、少年の名前も実名候補が挙げられているが、どうも間違いだったようだ。上述の想定場所とすると、撮影者オダネル氏がどうして長崎の手前で列車から降りて(ないしは帰り際途中下車して)、高台から見下ろして焼き場を見つけえたのか、そして線路の下側すぐに焼き場があったことになるが、はたしてそんなことあるのだろうか、私には謎である(http://leoap11.sakura.ne.jp/iroiro/new/yakibanitatushounen.pdf)【後から入手した『トランクの中の日本』によって、ジープや馬を使っての撮影行と判明】。また、オダネル氏の手記によると、血が滲むくらいきつく唇を噛みしめていたのなら、なぜその出血(これも口内出血を含め白血病の症状)をカラー復元していないのか、疑問(これはたぶん、出血が認められなかった、すなわちオダネル氏の報告が誇張だった、との判断か)。
以下は、2019/8/10 日テレのもの(ウェブから入手)。
いずれにせよ、オダネル氏のシナリオに従うと、この少年も弟も、おそらく以前紹介した戦災(原爆)孤児だったのでは。敗戦後2か月、とうとう弟は死んだ。そして彼自身も白血病でおそらくは・・・。https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_22.html;http://www.kirishin.com/2019/11/22/39020/;https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2019/08/c06351757f3044e5ff1ed8f8da500642.pdf
【補遺1】2021/8/17:ようやく入手できた吉岡栄二郎『「焼き場に立つ少年」は何処へ』長崎新聞社、2013/8/9、p.28掲載の図版2「オリジナル密着プリント」をスキャンし、反転させ、露出を明るめに加工したもの。
吉岡氏は、オダネル氏の数々の矛盾する証言を(上掲のp.24-5で早くも「一説に、オダネル氏は一九九〇年ごろより認知症の兆候が見られたという記述がある」と紹介:そこまで言わなくても、45年間という歳月は、健康人でも記憶の混濁は生じて不思議はない。但し、1990年ごろというと彼が写真の封印を解いた直後からとなる。彼が国の裏切り者と非難され出し、それらに対する抗弁のあげくの言説の揺れだったのかもしれない)、現地調査や地元の生存者の証言とつき合わせて5年間かけて検証し、結果、場所も個人も特定できず、この写真の意義を「写された特定の場所や人にあるのではなく、時間を超越した”象徴的な含意”にある」と結んでいる(p.104)。私もそれでいいのだろうと思う。そもそも、米軍や日本の撮影隊によって写された被爆者の姿は、ほとんど身元が判明しているが、ことこの写真に限っては、写真集やテレビでも紹介され全国的に反響を呼んだにもかかわらず、少年も場所も未だ特定されていない。彼が地元民ではなく敗戦間際の戦災移住者で、戦後まもなく死亡したかどこかに移動した可能性すらある、はずだ。
結局、2019年のNHKの特集での新味は、場所を旧国鉄長崎本線の道ノ尾駅から大草駅間に想定している点にある。あらかたのことはすでに吉岡氏叙述の中で検討されていた。
現在発注中の以下がまだ未入手だが(ジョー・オダネル著/ジェニファー・オルドリッチ(聞き取り)/平岡豊子訳『トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録』小学館、1995年;ジョー・オダネル写真・坂井貴美子編著『神様のファインダー:元米従軍カメラマンの遺産』いのちのことば社、2017年)、参考までにこれもやばい写真を一時アップしてみる。オダネル氏に同行した通訳が(あるいは、役回りは逆か)釣り竿を持った少年に振り付けしている場面のように思われる。ここでも少年は軍隊式にピシッとみごとなまでに直立不動を決め、素足である。彼の名前は判明し、生存も確認された:西依政光くん。ただ撮影場所は長崎市内ではなくなんと佐世保(長崎県内ではある)のようで、西依くんは6月にそこで空襲を受けずっと防空壕住まいをしていた戦災孤児だった(https://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=KDT0401600)。となると、オダネル氏がたとえ「NAGASAKI」といっていたとしても(日本の現地名にうとい米人による聞き取り調査・編集の場合だと一層)、それは長崎県域の佐世保、大村、諫早などを意味している可能性は十分あったはずだ(それを吉岡氏も指摘している:pp.52-56)。
覚えてるっちゅうより その この人たちが こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに 全然そこまで考えんちゅうか ただ 家が焼けたちゅうことだけですよね
進駐軍が敵ちゅうことなんか ぜんぜん考えんですもんね その時分は この人のために 家が焼けたとなんたちゅう
そしてもう 遠か親戚ば頼って あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっと
とにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね 着替えもなんもなし 下は履くもんもなしですね
もうほんと しかし あの時期がいちばんよかったですよ
今の時分でなく あの時期がいちばんよかったですよ なんも心配しなくてですよね
【補遺2】 以下をみつけた。2006年製作・NHKスペシャル「解かれた封印:米軍カメラマンがみたNAGASAKI」49分(http://kazh.xsrv.jp/?p=9068;https://ameblo.jp/creopatoran/entry-12503687701.html)。この録画も是非みるべきだろう。そこでは、オダネル氏の離婚した最初の妻との間の長男タイグTyge O’Donnell 氏が登場し、1989年以降の写真公表による父の苦悩がより深く描かれている。そこで強調されていたことに、彼が第5師団管轄外の長崎県域(さらには廣島、宮崎)で軍に無断で私的に写真を撮影し、密かに持ち帰っていた(公用写真はすべて軍に提出が義務づけられていたので、有り体に言って,軍規違反)、ということがある。戦場や冷戦下での情報秘匿という意味もあったのだろうが、そういう状況下で彼が撮影した写真はネガ状況で300枚はあったらしいが【『トランクの中の日本』p.4-5】、帰国後母に見せようと点検し、あまりにも悲惨なものは捨て、トランクを封印した【『神様のファインダー』p.43-45】。また、米国内で彼を非難する声もかなりあって彼を精神的に追い込んでもいたし、それが原因で離婚に繫がった由。
【補遺3】コメントで寄せられた高橋様のご指摘に導かれ、私なりにGoogle Earthで想定場所を眺めてみた(3D)。土地勘のまったくない私でも臨場感が味わえる、ありがたい時代になったものだ。
2021/8/19 0時 原爆孤児のことをNHK ETV1「ひまわりの子どもたち:長崎・戦争孤児の記憶」でやってます。例の銭田兄弟たちが出演して、例の向陽寮(長崎市岩屋町666番地)での生活を話しているが、被災孤児の生き抜くための生き様がきれいごと抜きで述べられていて(盗みとか)興味深い。また、出演者たちはある意味勝ち組であり、いずれも男性のみということから、一人も登場しない女性孤児たちのその後の運命の苛酷さをつい想像してしまった。
【補遺4】オダネル氏認知症ないし「妄想虚言癖」疑惑問題
aburaya氏のブログ(2013/10-2015/11)を見つけてしまった。彼は写真資料に興味をお持ちの方のようだ。以下はその最初あたりからの転載:https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11634614592.html?frm=theme
aburaya氏は最初は単に焼き場に立つ少年の子守姿や直立不動を他の写真と比較することから始められたようだが、それからじゃんじゃん思索が深まっていっているのが興味深い。たぶんオダネル氏の写真を求めてググっているうちに米国ウィキペデイアに行きつき、禁断の文言を知ってしまったのだろう(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11647428622.html?frm=theme)。そっからは一気呵成で、日本のメディアが(実は知っていて、だが視聴者を意識して美談仕立てにするために)触れるのを避けてきた問題に容赦なく突入する。いや単に邦訳しただけなのだが,その破壊力たるやメガトン級である(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11666636231.html)。そのへんをオダネル氏の息子や4度目の再婚者坂井紀美子氏がどこまで事実に肉薄して書いているのか、発注中の本が届くのが待ち遠しい・・・【本が届いて読んだのだが、まったく触れていなかった。彼の死後のことなので、後書きとかで触れてほしかったのだが、売れ行きにも関わるので出版社は触れてほしくなかっただろうが】。
実はいつもの悪いクセで、私も弟はただ寝ているだけじゃないか(だって、aburaya氏の写真のように、生きていても背後に首折れて口も開けて寝ているのが普通なんだし)、とか、戦災孤児であれば栄養失調で足がむくんでいても当たり前だろう、といった疑問は思いついていたが、そんな突っ込みをみだりにおこなってオダネル氏を誹謗するのは避けたいとの「忖度」がこれまで働いていたのだが、さてさて。いつもながら事実は残酷である。
現代史ではかくのごとく、否応なく本人にとって知られたくなかったり、痛くもない腹を探られたりして、有象無象の「事実」があぶり出されてくる。なにしろ当事者や利害関係者がまだ生存しているのだから、異論が出てこないはずはない(事実は一つではなく、目撃者の数だけある)。オダネル氏の言動への疑惑が表面化したのは、なんと新聞に彼の訃報が生前の業績とともに掲載されて、それを読んだ読者から、あれは違う、自分が撮った写真だ、おかしい!という投書が寄せられたことが発端だった由)。
2000年前の古代ローマにおいても実情は同じはずなのだが、すでに都市伝説化し俗耳にはいりやすい言説や美談が再生産されている面もあることを失念してはならない。証拠がないのではなく、失われてしまった、ないし抹殺されてしまったに過ぎないのだ。史料が「ない」がゆえに、そんな事実が本当になかったとはいえないのである。むしろ仮説的にではあれ、複数の「あった」可能性を常に念頭に置きつつ、周辺情報を突き合わせて「より」客観的な「事実」をめざすべきなのである。さらにややこしいことをいえば、史料が残っていたとしても、それは意図的偽造ないし意図せざる誤解だった場合もあるのだ。プロの歴史学徒であれば「事実」を暴く勇気を持たねばならない、はずだ。それは同時に自らの足元を崩すことにも繫がりかねない営みなので、凡百の徒は足を踏み入れることなどせず美談に逃げ込んでお茶を濁すのが通例となる、のだが。
【後日談:2022/7/12】なぜかここ数日この記事が読まれているようなので、あれから一年また敗戦記念日が近づいたせいなのかと思ったりもしたが、関係記事を追跡する気になってググってみたら、上記検証でお世話になった高橋さまのブログを見つけることができたので、関心お持ちの方はご一読ください。M高橋「「焼き場に立つ少年」の謎の撮影場所を徹底検証する」2021/8/19(https://nagasaki1945.blog.jp/archives/10658149.html)。新事実を含め執念の論究と拝見しました。高橋さまとの往時のやり取りは「コメント」をご覧ください。2021/8/25あたりでこの問題への私の仮説を提示しています。
私も放送を見ました。
私が放送の中で一番注目したのは
撮影場所の特定の箇所です。
写真に写る背景の周囲の地形をみごとに
再現していました。
私が番組で非常に不満だったのは
この再現した地形と一致する場所を見つけた
という箇所です。
番組では実際の地形と写真を重ねる
場面だけで、その場所がどこなのかもぼかしたような
感じで終わってしまいました。
私はこの取り扱い方に非常に疑問を感じました。
再現した地形と似た地形の場所をみつけた、というのは
少年探しでのかなり有力な手掛かりなはずです。
私ならその地域の役所や図書館、地元の住民などに
呼びかけて、昔のその地域の風景が写っている写真
を徹底的に探します。
それらの写真のいずれかには、少年が
立っていたと思われる辺りが写っている写真がみつかる
可能性は非常に高いと思います。
縣の石やワイヤーが写りこんでいる(少年写真とは離れた場所でも)写真がみつかる可能性も高いと思います。
特に、あの写真と似た地形の街は、戦後に一気に開発された
東京とかとは違い、昭和40~50年頃でも少年の写真が撮影された
昭和20年代の地形が多く残されていた場所だと思います。
探す写真も昭和20年代だけでなく昭和50年代まで幅を広げれば
かなり鮮明な写真が残っているはずです。
また、少年の写真のトリミング前の写真はかなり
背後の樹木が写っているので、それらの樹木の種類や特徴
を調べて、現在のその場所の樹木とてらし合わせたり、
少年写真に写るワイヤーの元である鉄道や踏切のあった
箇所、その箇所の近くにあった焼場の
正確な場所を徹底的にしらべます。
少年が立っていたと思われる箇所から、少年の視線の
先に焼場があり、ワイヤーが通っていたと思われる
先に鉄道があり、写真の樹木と似た樹木が今もあり、
縣の石もその場所の周囲にあった写真もみつけて・・・
と状況証拠をどんどん積み上げていけば
その場所が写真の場所であると断定できる可能性が
非常に高いと思います。
あの番組のプロデューサーもそのことぐらい
わかっているはずです。
どうしてあの番組のように途中で腰砕けたような作りに
なっているのか・・・?
本当に残念で不満だし、不可解ですね。
高橋様:豊田@練馬です。
お書きになっているように、調査が中途半端な印象を私も持ちました。製作者もそれなりの意気込みで臨んだのでしょうが、たぶん途中で当初描いていたシナリオから想定外の方向に向かう事になったので、あの番組としては中途半端で終えざるをえなかったのでは、と想像します。
ご存知かと思いますが、この少年については、以下の本があります。吉岡栄二郎『焼き場に立つ少年は何処へ』長崎新聞社、2017年。私は発注中でまだ読んでませんが、そこでは少年個人を具体的に同定しているようですし、別説を唱えている人もいるようです。またやらせ写真とする説さえあるようです。
製作者はそれを視野に入れて調査を始めたのでしょう、たぶん。しかしそういった結論を出すには問題が多い,と判断してああいう出来になったのではないか、と想像します。
私的にも、写真の二人が原爆孤児としてはこざっぱりした感じの服装で違和感ありますし、オダネルの手記と写真の細部が相違しているようにも感じました(ま、後年記憶に頼って書くと、まま起こる現象に違いありませんが)。
私としても、個人は無理としても、場所の確定はさらに調査してほしいと思っております。
>>豊田@練馬さま
本の方は既に読んでいます。
TVでは本には書かれていなかった
「写真の反転」「少年の目の出血・鼻の詰め物・兄弟の足の浮腫み」
「背景の立体化」まで踏み込んでいました。
確かにこの写真には異論がある事は承知しています。
特に「やらせ説」についてですが、やらせといっても
ありもしない事を捏造するレベルから演出レベルまで
多岐にわたると思います。
私的にはこの写真は演出されていると思います。
少年は焼場で順番を待っていたことになっていますが、
順番を待つのなら、何も段差の上でなく撮影者の立っている
下で待っていて良いとおもいます。
また、順番を待っている他の人などが写りこんでいません。
他に待っている人がいないようなのに、わざわざ段差の縁で
起立をしているのも不思議です。
なにより写真の構図的に非常にまとまっています。
私の推測では、撮影者は少年の写真を撮影するために
少年に段差の縁に立ってもらい、起立の姿勢をとらせて
撮影した可能でが高いと考えています。
しかし私はこれは単によりよく撮影するための演出であり
少年は本当に焼場に来たのだと思います。
なぜなら目の出血・兄弟の足の浮腫みまでは演出できない
からです。
幕末や明治の古写真見るとよくこのような演出は見受けられます。
TVの製作者は、製作開始時にどのような結果を想定して
調査を始めたのか、本当に疑問に感じます。
考古学でも例えばある場所から土器がでてきた場合、
その土器の由来については様々な意見にわかれます。
しかし研究者が間違いなく行うのは、その土器そのものから
読み取れる情報は徹底的に洗い出します。
この件で言うならば、あの写真が土器に相当すると思います。
写真に写ったものは動かしようがないものなのだから
そこに写っているものは徹底的に調査するべきなのです。
特に「写真の背景の立体化」は、撮影場所特定において
最大の手掛かりとなります。
そして撮影場所が特定できたら、そこから
写真をめぐる様々な異論に対して検証していけば
いいのだと思います。
TV製作者も普通そのような手法で取り組むことを
想定して制作を始めたと思うので、
いったいどうして途中で放り投げたような番組で
終わらせたのか非常に疑問です。
仮にですがローマ法王がこの写真を取り上げて、
万が一その番組で写真に演出があった可能性が
高い・・・という結果となったら非常に
まずい・・・という忖度があったのだとしたら、
それは無用だと思います。
なぜなら兄弟の足の浮腫みは演出できないし、
原爆によってたくさんの孤児がうまれたことは
事実なので、この写真の演出によってそれらが
変わることにはならないからです。
なんとか続編でさらなる追求をしてほしいです
豊田@練馬です。
その後、以下を見つけました。
https://www.jacom.or.jp/column/2020/08/200815-45787.php
私が聞き逃し見逃した情報が忠実にまとめられています。それに、三年がかりの取材だったとありました。
>>豊田@練馬さま
JAのコラムの内容はTV番組のナレーターが伝えていた
ことがそのまま記されていますね。
このコラム記事だと、道ノ尾駅が番組側が最終的に写真を撮影
した場所であると読み取れます。
しかし実際の番組では3D化された地形と一致した場所の映像が映りますが、そこが道ノ尾駅であるとは明言していませんでした。
また番組では3D地形と一致した場所の近くに焼場があったと
言っていましたが、その焼場が具体的にどこの場所にあったのかということには
まったく言及していませんでした。
3D地形から道ノ尾駅が判明したのがつい最近なのだとしたら
、現在道ノ尾駅の取材を継続中であることを願いたいと思いますね
高橋様:豊田@練馬です。
あのコラムは、たぶん録画して何度も見返して書かれているのでしょうね。
今日再放送が予定されていたはずですが、消えていたので、NHKオンデマンドで見直しました。
道ノ尾駅近くに2年後に県立孤児院・向陽寮が創建された(のち移動)という状況証拠で終わっているわけですが、その向陽寮についての記事を見つけました。
https://nordot.app/699482943778686049
https://nordot.app/699840836729144417
https://nordot.app/700185473359447137
https://nordot.app/700535659573462113
https://nordot.app/700929876622443617
https://nordot.app/701324139795399777
>>豊田@練馬さま
TVでは3D地形と一致した場所は
「道ノ尾駅から大草駅の間」という表現でした。
道ノ尾駅であるという表現はみられません。
孤児院と焼き場があった場所についても
「地域」という言い方で、
その「地域」とはあくまでも
「道ノ尾駅から大草駅の間」のことを指している
表現にしていました。
こういう曖昧なナレーションと曖昧な画面で
視聴者に勝手に推測させるような表現方法は
映画やドラマにはよく見られますが、
検証が目的のこの番組で、このような曖昧な
表現をする意味が理解に苦しみます。
コラムの筆者は番組の流れで
3D地形と一致した場所が道ノ尾駅だと
推測したのだと思います。
向陽寮は昭和23年に出来たのですが、少年が
写真を撮影したと思われる昭和20年10月とは
おおよそ2年後なので、写真撮影後に2年間も
この地にいるとはおもえず、またTVでも
紹介されていた向陽寮の銭田さんも少年には
見覚えがないようなので、孤児院と少年は
あまり関係がなさそうに思います。
3D地形と一致した場所の調査は、
他の方が撮影した写真を探すことは
もちろんですが、通信用の銅線と焼き場の
正確な位置の調査を集中的にするべき
だと思います。
なおこの番組を制作したNHKには、番組制作で
協力をした長崎県保険医協会から
番組中の情報の取り扱い方に対して意見書が
提出されていたそうです
豊田@練馬です。
最後にご指摘の「意見書」(令和元年8月7日付)とは、私が本文の最後に掲載したデータ(https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2019/08/c06351757f3044e5ff1ed8f8da500642.pdf)のことだと思います。私も読みましたが、少年の姓名に関してかなり踏み込んだ指摘が随所にあるので、記載内容がどうも今般のもの(全国版?:2020/8/8放送)とはかなり違っている印象を持ちました。2019年にまず地方版で放送したものを、「意見書」が出たので、内容修正しての全国版ではなかったか、と私は考えています。
また、あれこれググっているうちに,以下をみつけましたが、そこでも当時よくあったこととして「リテイク」(演出)の痕跡が指摘されていて(https://ima.goo.ne.jp/column/article/3442.html)、今般の映像の中の彼の別の写真からも、竹竿を持った少年に振り付けしている感じのそれが想像されるものがありましたし。
また今般の写真の撮影場所に関してですが、確かに場所を明確に断言はしてませんが、ディレクター的にはそれらしい場所をちゃんと同定している画像が出てきています。映像の48分10秒から49分にかけての箇所です。作成された3Dもその場所を前提にしているようです。本文のほうに暫時転載しておきますので、ご覧下さい。
>>豊田@練馬さま
本文に転載されたTVでの3D地形の画像を見ました。
(著作権については、掲載の趣旨からすれば
画像下に出典元を記載すれば大丈夫だと思います。)
TVの3D地形と一致した場所に関してですが、
TV製作側が意図的なのかわかりませんが
説明・検証が曖昧な箇所があります。
① 3D地形と一致した場所がどこなのかの
説明がはっきりとされていない。
② 少年写真にはその段差には河川の護岸に見られる石が
あります。
TVでの3D地形と一致した場所にも段差が見られるが
その石の痕跡があったのかの説明がない。
また段差の先には河川がある可能性が高いのであるが、
番組ではその説明もない。
③ 段差に引かれていた通信線は近くに鉄道施設があった
可能性が高い。
3D地形と一致した場所の周囲の鉄道路線の位置と、通信線
を引く必要がある施設が昭和20年当時どこにあったのかを
調べていない。
当時の鉄道技師などに聞けば、3D地形の段差の境に
通信線を引く必要性があったのかを検証できる。
そして必要性があるとなれば重要な客観的証拠となるのに
それをしていない。
④ 3D地形と一致した場所の周辺のどこに焼き場があったのかの
説明がされていない。
その場所がわかれば、少年が3D地形と一致した場所と
通る必然性がわかるし、少年がどの方角から来たのかの
推測が出来る可能性もあるのに、そこまで調べた
形跡がない。
⑤ 3D地形と一致した場所の段差からさらに上のほうに
比較的新しい青い屋根の家が見える。
こういう場所では戦前から住まわれれている家が多い。
自宅周辺の写真を数多く所有している可能性もある。
この場所周辺の家に聞き込み調査をしているのだろうか?
私は、少年の写真の調査で写真の少年顔に見覚えのある方からの
情報による調査は、時間の経過による記憶のすり替わりなども
考えられ難しいと思っています。
やはり少年写真から読み取れる情報から調査するべきだと思っています。
私はもともと少年写真には演出が入っていると考えています。
オダネルは軍の報道官ではありますが、写真を撮影する際には
写真家としての構図を考えると思います。
当時の少年たちは教育によってあの直立姿勢が出来ました。
オダネルはあの段差付近にた少年を撮影する際に、
直立姿勢によって、より写真が鮮烈になると直感して
少年にその姿勢をとるようにお願いしたのだと思います。
少年写真の撮影地を探る意義についてですが、
演出が入った写真と判明したとしても、あの写真がもつ意味は
かわらないと思います。
なぜならあの少年と背中の子供は演出ではないのですから。
写真の撮影地を特定することから、さらにあの写真が撮影された時の
オダネルや少年の背景などが新たに判明することはたくさんあります。
ただ単にあの少年が誰なのか?という事も重要ですが、
どうしてオダネルがその場所にいたのか?
どうして少年がそこにいたのか?
を撮影地を徹底して探ることで判明させることが
オダネルが撮影したこれらの写真達の意味を
考える上で非常に重要だと思います。
TV製作側はその点をもう一度再認識して
不要な忖度・配慮などは出来るだけ
しないようにしていただきたいと思います。
>>豊田@練馬さま
TVの3D地形と一致した場所が判明しました。
場所は長崎本線の長与駅の次の高田駅から近い場所です。
踏み切りのすぐ横なので、当時通信線が段差のふちに
通っていてもおかしくないです。
線路の直ぐわきなので、少年写真に写る段差の石が
線路脇にあるものなら、位置的にピッタリです。
また車が通れる道のすぐ脇なので、
懸の石柱が道路から見えるように、当時道路の直ぐ脇に
石柱を設置していたということがわかれば、
場所的にぴたりと整合性があります。
もしこの場所が少年の写真の場所だとすると
少年は線路側を見ていたことになり、
もしそこに焼き場があったとすると、
線路と段差の少しのスペースに焼き場があった事に
なります。
オダネルの回想だと、焼き場は穴を掘っていた
形だったそうです。
またオダネルの記憶の「丘にたっていると・・・」
という記憶と比較すると、この場所は高い丘に
ある場所ではないので、オダネルの記憶は
当時の他の場所の記憶と混同している可能性が
ありますね。
https://www.google.co.jp/maps/@32.8170625,129.8632894,3a,75y,286.35h,87.27t/data=!3m6!1e1!3m4!1sFxNa354d-A7kiW6IgtDomQ!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja
高橋様:豊田@練馬です。
これはこれは。おめでとうございます!
Google画像、説得力ありました。
お手柄ではないでしょうか。映像内でも近くに踏切があったのでは、とか言ってましたね。あの画像がやはりディレクター的には撮影場所だったわけで、よかったです。
よくよく考えるとオダネル氏は米軍のジープで通訳を同乗させて移動していたと思われるので、あの山の手の自動車道から見ると踏切付近を見下ろす感じにはなり得るようにも思いますし、そばには浦上川の支流もあった感じなので、状況証拠的に彼の記憶とも合致しているといえるかも知れません。
>>豊田@練馬さま
aburaya氏のブログについてみました。
非常に興味深い内容ですね・・・
私も実はローマ法王が感銘を受けた
という一件も加わって
かなり撮影者に対してバイアスが
かかっていた事は事実です。
もう少し冷静に客観性をもって調べなければ
いけないと思いました。
実は私も
https://nagasaki1945.blog.jp/
において稚拙ではありますが
独自に調査をしております。
まだ内容は加筆中ですが、
実はオダネル氏が語った
撮影地の証言と、
私が見つけた高田駅の西の踏み切りの箇所が、
ちょっと違うということに違和感を覚えていました。
私の現在の印象としては
少年写真の撮影場所は
高田駅の西の踏み切りで
ほぼ間違いないと思うのですが、
そうすると、オダネル氏の証言とは
大きく違ってきます。
このあたりを私はこれから
調べていこうと思った矢先に
豊田さんのブログでaburaya氏
について紹介していたので
考えさせられましたね・・・
高橋様:豊田@練馬です。
高橋様のブログ拝見しました。きわめて冷静な分析だと思います。今後の追求進展を期待しております。
私的にはとりわけ石柱の件が興味深かったです。ああいう標識は必ず公的機関が絡んでいるので、調査すれば判明するはずなのですが。
その筋では「境界杭」「境界標」とかいうらしい。
「界」という文字ですが、念のため旧字体での調査をされたらどうかと思います(私もちょっとググって見たのですが、畍 →界くらいでダメでした)。
また、旧国鉄関係者だったら知っているはずなんですが(http://www.hotetu.net/kyoukaigui/kyoukaigui.html:それによると「エ」旧工部省、「内」旧内務省、「テ」旧逓信省,といったところが普通で)、残念ながらググって見てもそれらしいものは見つけえてません。・・・ひょっとしたら旧国鉄以外かも。
>>豊田@練馬様
しばらくです
少年写真とオダネル氏について
調べていくとやはりおかしいことが多いです。
○ どうしてオダネル氏は裏焼きしたのか?
間違って裏焼きすることはないと思われます・・・
○ オダネル氏が語った少年のいた場所の記述と
高田郷があまりにも違いすぎる・・・などなど
一応性善説に沿って調べていますが
不可解な事が調べるほど出てきます・・・
TVが言っていた向陽寮は高田郷から距離がありすぎて
関係ないと思います。
またTVが言っていた
「この地域には焼き場がありました・・・」の
焼き場は高田郷ではなく、かなり離れた場所の事を
さしていると思われます。
爆心地から高田郷はかなり離れているので
原爆による死者の焼き場が高田郷あったとすると
ちょっと不思議ですね・・・もう少し調査が
必要と思われます。
標石についてですが、サイトで境界抗や石柱を
専門に調べている管理者の方2名にメールでお話を
聞けました。
最初の方は、
○ 「縣」という境界抗はみたことがない
○ 写真の標石は形状から鉄道関係の境界抗ではない
次の方は、
○ 「縣」という境界抗は見た事がない
○ 写真の標石はかなり珍しい形である。
○ 畑の境目にあることから、その土地の所属を
明らかにするために設置された可能性もある。
○ 高田郷の写真が撮影された畑のどこかに
墓地があるかもしれない。
その墓地に関係している可能性もある。
以上でした。
高橋
高橋様:豊田@練馬です。
ご苦労様です。
私も鉄道愛好家に聞いてみましたが、鉄ちゃんとしては運転手から見える記号しか知らないということでした。
私も石柱の文字をじっくり見てみた感想としては、「縣」では複雑すぎ、「界」よりはちょっとだけ余分の筆跡が見える感じです(参照、吉岡、p.32-34)。
とにかく戦時中なので、軍とかの徴用もあったでしょうし、いずれにせよ、私的には決定打となりえると考えてますので、もっと追求すべき事例です。
まあどんなに好意的に見ても、オダネル氏の記憶の混濁は確かですが、届いた『トランクの中の日本』p.72-106では、彼は最初はジープで移動していたが、長崎の瓦礫の中を探索するには不便だったので、なんと農家から馬を買ってそれに荷物も載せて撮影移動した、とありました。ジープだとガソリンの入手が大変で、その点馬は草があればいいので助かった、とも。たぶんその農家までジープでいき、馬を受け取り、福岡に帰るときには、その農家にまた預けていたのじゃないか。帰国直前の3月にその馬と別れた、と書いてますので(p.106)、馬は借りていただけかもしれません。
やらせ問題についてあえて現段階での私見を述べますと、弟の死体を背負って長崎市内の焼き場に来た少年はいたでしょう。オダネル氏はそれを目撃したのは確かでしょう。原爆被災児童だったので服装もひどく、飢餓にも直面していたので痩せこけていたと思います。ただ、それがあの写真の少年ではなかった可能性があります。オダネル氏はあの目撃した悲惨な情景を、あとから思い返してなんとか残したいと思い、高田郷で見かけた子守の少年を呼び止めて(いつものようにチョコレートでつって)、演出画像を撮ったのかもしれません。写真の少年の服装は、吉岡氏の聞き取りでは、むしろいいとこのお坊ちゃん風でもありますし(吉岡、p.96)。
実は私も遺跡の写真などあそこをあのとき撮っておけばよかった、なぜ撮らなかったのだろうと思い起こして地団駄踏んで、でもイタリアなのですぐには撮り直せず、1年後の訪問時に撮り直すことはよくある事態なので、そう想像してみたわけです。それがらみの文章を書くときは、一年前の流れの文章の中に新たに撮影した写真をはめ込み、それで別段「やらせ」してるという認識はないわけでして。ですから、それなりのカメラマンだとまあやっちゃうことではないかな、と。
>>豊田@練馬様
返信ありがとうどざいます。
写真の取り直しで後日撮影するお話、
よくわかります。
私も今回の少年に加えて全く違うテーマも
いろいろ追っていますが、気になるポイントの
写真とかは一年たっても二年たっても再び
撮り直しにいきます。
このお話は一般・・・?の方に話しても
なかなか理解してもらえませんよね 笑
「そんなことどうでもいいでしょ」って
片付けられるだけです 笑
オダネル氏も昭和20年に長崎を
歩いている時、軍隊の写真の記憶係ではありましたが、
カメラマンというものは一枚一枚に作品的に
完成されたものを求めものなので、
長崎の爆心地で見た少年の構図が忘れられず、
後日高田郷でその場にいた少年で撮影しなおす
という可能性は考えられますね。
そうするとこれは私の仮説の仮説ですが・・・
わざわざ裏焼きしたというのも
撮影場所を特定されたくないという気持ちの
表れかなぁ~ なんて事もありえるかもしれません。
私もオダネル氏には敬意を払いながら
調べていくつもりですが
ただこの辺は一歩取り違えられると
中傷しているようにも受け取られるので
非常に取り扱いが難しいですよね。
あとオダネル氏が車ではなくて馬で
移動していたというお話は興味深いですね。
私は高田郷の踏み切り付近ということで長崎本線も
使って移動していたのかと思っていました。
(長崎本線は被爆後いち早く復旧した・・・)
馬を使って移動していたとなると
馬をあずけたり世話する農家が
高田郷だった・・・なんてことが
わかると、どうしてオダネル氏が
高田郷に立ち寄ったのか・・・?
というあたりも推測できるかもしれません。
石柱の文字ですが、ブログで石柱の
文字を正面から見た感じを再現して
みましたが、私の見方では「縣」では
ないと思います。
では「界」かというと似てはいますけど
これも決め手には少しかけます。
別の漢字二文字かもしれないし
神代文字かもしれません。
実は境界抗の専門家の方から追加で連絡があり、
「土地の所有を示す境界石は一基だけおく事は
ない。 その周辺に同型のものが複数あった
はずである」
ということでした。
私もこれには同感です
ただ私の居住地と長崎はかなり遠いので
現地で調査できないのが歯がゆいですね・・・笑
豊田@広島です。
火星人みたいな首相が何言おうと、しびれを切らして帰省中です。
小学館の写真を見ていると、あの写真の原板、かなり鮮明に映っているようで、福岡の小学校での左端の女子の左胸の文字、きわめて明確に認識できます。原板見てみたいですね。
あの石柱の文字、段々「墓」に見えてきました。
豊田@広島さま
小学館の書籍とは何でしょうか・・・?
たしかに墓にもみえますね
昇という見方もあります・・・
豊田@広島です。
ジョー・オダネル著/ジェニファー・オルドリッチ(聞き取り)/平岡豊子訳『トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録』小学館、1995年
ちなみに、ジョー・オダネル写真・坂井貴美子編著『神様のファインダー:元米従軍カメラマンの遺産』いのちのことば社、2017年、は写真的にはほとんど小学館のものの再録で、しかも画質は落ちていて、その意味でも期待はおおいに裏切られました。