エウトロピウスのラテン語訳を見直していたら、いまさらながらであるが、翻訳仲間からの指摘で妙なことに気がついた。ローマ皇帝たちの治世年月日の表記が基数と序数のごった混ぜが普通に登場することである(詳細は後日予定)。その流れで気になったのは、I.4.1 に2つ初出の「里程標」miliariumである(全10巻中に他に、I.5.2, 8.3, 15.2, 17.1, 19.2, 20.3, II.5, 8.1, 12.1, III.14.1, VI.6.3, 13, VII.15.1, VIII.8.4, IX.2.3)。ちなみにこっちの場合はいずれも序数(第〇〇番目)で表記されているのが特徴なのだが・・・。
アッピウス軍道の第一里程標は、フォロ・ロマーノの基点から1480mのはずのところ、現在、3世紀後半創建のアウレリアヌス城壁に組込まれているPorta Appia(現サン・セバスティアーノ門)を出てすぐの所に設置されていたと想定されているが(但し、現在そこの民家の壁に塡め込まれる形で設置されているのはレプリカで、現物はミケランジェロによってカンピドリオ丘の再整備時に移設されている:ちゃんとレプリカ円柱の右隣の柄付碑銘板tabula ansata にイタリア語で由来が書かれているのを見逃すことなかれ)、ちょっと気になったのでフォルムからの直線距離をGoogleで確認してみたら、2960mもあった。逆に現在アウレリアヌス城壁付近から1ローマ・マイルの距離を遡ってみるとカラカッラ浴場を通り過ぎて大競技場手前止まり、という結果になった。
同様に,北に伸びるフラミニウス軍道はほとんど直線なのでもっと分かりやすいはずだ。ミルウィウス橋は第三里程標とされているが、この橋から直線で4440m遡ってみると、ヴェネツィア広場手前付近で尽きてしまう。要するに、いずれもフォロ・ロマーノには行きつけなかった。あれれ、これは一体どうしたことか。
この数字をみて、フォロ・ロマーノには「黄金の里程標」Miliarium Aureum なる里程標基準点があって(これは俗称で、「帝都里程標(基準点)」Miliarium Urbis が正式名称だった由)、ロストラ(演説台)の左側に位置しているという私のこれまでの常識が揺らいでしまったのだ(なお、対照的にロストラの右側には「帝都ローマ基準点」Umbilicus Urbis Romae があった:これも里程標基準点とよく誤解されているのでご注意ください)。 いったいどういうことなんだと、逆走しての到達点、ヴェネツィア広場と大競技場手前をしばし眺めているうちに ・・・ おおひょっとしたら、と思いついたのがRomaのpomerium、具体的には前6〜4世紀初頭にかけて建築されたセルウィウス王のそれじゃないかと。で、それを地図で重ねてみると、あ〜ら不思議、まさしく合致しちゃったのであった。
フラミニウス軍道だとPorta Fontinalis、アッピウス軍道だとPorta Capenaからに相当するわけだ(但し、両門とも今は姿形もなく消えてしまった)。要するに里程標表示は、フォロの基点からではなくて、セルウィウス城壁・城門から先の距離だったわけで、日本語ウィキペディア掲載の「黄金の里程標」の説明の最後にそういう説もあると付け足しで述べられているが、そのほうが断然正しかったわけである。なお、あとからググって存在を知ったが、以下参照。3年前にすでに正確な情報をアップしていて、書き手のTatsuoさんの慧眼には敬服:http://roman-ruins.com/milestone/ これは私にとって恥かきのとんだ落とし穴だったわけだが、じゃあフォロで見つかったという黄金の里程標って一体なんだったんだ?と。余計な知識があってそのせいで安直に考えて間違っていたわけで。諸説あるものの、どうやらそれは、前20年にアウグストゥスが軍道監理官curator viarumになったことを記念して創建されたもののようで(Dio, LIV.8.4)、大理石を金メッキされた青銅で被い、各々の軍道が始まる城門から重要都市に至る里程が記されたものだったようで、少なくともそこが軍道の基点になっていたわけではなかった、という事情が判明(ここでは一応「基準点」と表記しておくが)。 いずれにせよ、私のように文字情報に踊らされて分かった気になるのではなく、やっぱり具体的に実地に数字化して確認してみるものである、こらお前、これでプロといえるか、と今さらの如く反省した次第。 以下参照:https://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/romanforum/milliariumaureum.html;https://it.wikipedia.org/wiki/Miliario_aureo
【付記1】今読んでいるユウェナリス『サトゥラェ』III.10に「水の滴るカペーナ(の門)の古いアーチのところで」との文言をみつけた。ユウェナリスは後60-120年の人なので、当時すでに古色蒼然としていても不思議ではない。
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