前の書き込みの続き。Mauro Greco氏の叙述内に「2つの大きな石柱」があって未だ直立しているほうにラテン語碑文が刻まれていてと、写真も2葉添えられていた(下の写真)。ただどうやら二つとも同一石柱の写真で、しかもそれから刻字を読み取るのは無理なようだ。立っていないほうの石柱はどうなっているのだろう、といつものない物ねだりで気になるところではある。
最終的にみつけた場所をGoogle Earthで表示しておこう。大通りに面したOstia Antica 遺跡の正面玄関の真ん前に教皇ユリウス二世が枢機卿時代に創建した砦があり(下の写真①だと右下隅の三角形構造物)、そこの白丸を基点として黄色の線を辿って最初の三叉路(白丸)を左折して次の三叉路の交差点中央(白丸)にそれ(ら)があった。基点からの距離は340m ほど。
かのお屋敷(といってもそれほどの豪邸にはみえないが)は、オスティア遺跡だと以前このウェブで扱ったことのある「御者たちの浴場」Terme dei Cisiarii (II.2.I3) の北側真裏になる。今から20年も前そういえば、ミトラエウムを探しあぐねて格子越しにのぞき込んで、境界に設置された頑丈な金属製の柵に寄りすがって「ここにあるんだろう。入りたい」と嘆息したことを思い出してしまった。
これももう数年前のこと、思い立ってテヴェレ川のかつての川筋(Fiume Morto)の痕跡を求めてボルゴの東北地域の畑の中をさ迷ったことがある。遺跡の神様も哀れに思ってくださったのだろう、偶然、一面の畑の真ん中にぽつんと保存された遺跡にひとつだけ行きつくことができた(いずれ触れる予定)。平べったい農地の中の農道をひたすら歩くだけなのだが、そのときは体調思わしくなく、めまいに襲われたこともあり、涼しい午前中に出発しても炎天下なので昼過ぎには体力と同時に気力も奪われてしまう。しかしあきらめず帰り道は西に歩いて現在のテヴェレ川の左岸に至り、川筋沿いに道がある限り下ってみた。そこはちょうどオスティア遺跡の本当にま裏だったが、そっから先は葦の原になっていて、ワンゲルでは普通の昔とった杵柄とはいえ、その時の私にはもはや藪こぎする余力は残っていなかったし、単独行だったので河岸で事故った時が怖かったので、川辺でしばし休憩してからUターンした。川筋のすぐ南側はオスティア遺跡の敷地なのだが、ここも丈夫な柵で閉鎖されているので、目前に慣れ親しんだ遺跡を見ながら大回りせざるを得ないことを呪いながらだったが、その帰り道、何が幸いするかわからないもので、実は今問題の石柱が設置されている交差点で件の石柱にこれも偶然遭遇し、由来もなにも知らないまま念のために写真も撮った記憶がある。今はそれを探す手間を厭って手っ取り早くGoogle Earthのストリートビューを利用しての写真を掲載しておく。有難い時代となったものだ。
ストリートビューは撮影機器が通った道にしか進めないので、今の場合、左の道はAldobrandini家のお屋敷のファサードに導く並木のアプローチ道であり、私有地だから撮影されていない。それで石柱のそっち側や裏側の映像は確認できないのが残念だ。だが、石柱のそばに倒れた切り石が見つかったのは、なにはともあれ収穫だった。但し、重そうだし、ここでひっくり返したりして刻文をチェックしたりしていると(何もないかもだが:じゃあなんなのさ、この切り石)、車で通りすがる地元民のみなさんに怪しまれること請け合いだろう。
さて、その石柱に刻まれている銘文は以下の通りらしい:CIL XIV 4704 = AE 1922, 95(但し、未確認)。不完全だが現段階での試訳も付記しておく。
1 C(aius) Antistius C(ai) f(ilius) C(ai) n(epos) Vetus /
2 C(aius) Valerius L(uci) f(ilius) Flacc(us) Tanur(ianus) /
3 P(ublius) Vergilius M(arci) f(ilius) Pontian(us) /
4 P(ublius) Catienus P(ubli) f(ilius) Sabinus /
5 Ti(berius) Vergilius Ti(beri) f(ilius) Rufus /
6 curatores riparum et alvei /
7 Tiberis ex s(enatus) c(onsulto) terminaver(unt) /
8 r(ecto) r(igore) l(ongum) p(edes) //
9 Sine praeiudic(io) /
10 publico aut /
11 privatorum
1行目のAntistiusのみ祖父まで書いた若干くどい念入りな標記なのは、彼が執政官格の本監督官評議会の筆頭者だからで、後の4名は法務官格だったから、だろう。
6行目から7行目冒頭に出てくる「curatores riparum et alvei / Tiberis」は一般に知られている政務官職名だが、Greco氏が書いている「オスティア・アンティカの」di Ostia anticaが抜けているのが気になるし、その語が di Ostiaと、しかもアンティカと現代表記したイタリア語なのだ。奇妙だとようやく気付いたが、あれはGreco氏の勝手な付加だとすれば、帝都ローマのcuratores (pl.)がこれを建てたことになって、それはそれでリーゾナブルではある。
実は、8行目については別の読み方もあり、最後に欠字もあるようだ(あってほしい)。ちょっと調べてみたら、9-11行目は研究論文などでなぜか省略されている場合が多い。定型表現のようだが、異読もあり、いずれにせよこの銘文いずれきちんと検討・詳述できればと思っているので、ご意見いただければ嬉しい。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp
ところでこの探険、もうひとつの思わぬ副産物にこれも偶然出会った。それは続きで。
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