月: 2021年12月

ロンギヌスの聖槍の俗説排すべし

 2021/12/30発信のNHK BSプレミアム「ダークサイド・ミステリー」(初回は5/13)で、ロンギヌスの槍をコンスタンティヌス大帝が奉じて異教徒の皇帝(マクセンティウス)に勝利した、と言っていたが、そのような事実を記す同時代史料は皆無である。ウィキペディアにすらそれは確言されていない(そこの叙述は正当にも「要出典」とされている)。解説者の一人に杉崎泰一郎氏が登場していたので、きちんと訂正すべきなのになあ、と思わざるを得ない。

 こういう企画は欧米の制作会社のものの売り込みがあって、それを邦訳し自社制作を装って多少手を加えるくらいのことなので、たぶん著作権の問題とかあって、大筋を変えることはできないのだろうが。我が国の研究者を結果的に愚弄しているという認識がないのが残念である。こういう番組って、かつて現役時代の私をだまくらかしていた「ヒストリーチャンネル」や「ディスカバリーチャンネル」並にセンセイショナルで雑な造りが多いのだが、今日日の手抜きディレクター諸氏には手軽で、重宝しているのだろう。

 上掲写真は、ウィーンのホーフブルク宮殿所蔵のそれであるが、2003年および2004年の調査によると、早くても7世紀、まあ8世紀のものという結論となった。伝説が発生したのが6世紀とかなので、妥当な線であろう。

 ただ、聖槍は世界中に幾つもあって(他の聖遺物も同様で、『黄金伝説』中の「聖十字架の発見」の註記には、ある人の試算では聖十字架の「現存する全断片をあつめると900万立方センチ以上にもなるという[高さ3〜4メートル」の十字架の容積は、5700立方センチ前後である]」、すなわち十字架1579本分になるという。バンガロー1軒分は十分あるだろう。2階建ても可能かもしれない。それほどあるなら私も話題のネタ、いや教材用に断片一つほしくなってしまうというもの)、以下の写真は、アルメニアのエチミアジン大聖堂が保存している聖槍と、右は十字架の下に敷かれている木製部分が、ノアの箱船の断片である。アララト山出土というわけか。

 時節柄、もっと強調してほしかったのは、アルメニア王国の4世紀初頭の改宗がらみでエチミアジン大聖堂が保存している聖槍の奇跡譚として、王の病を癒したという件である(番組ではアルメニアが世界最初のキリスト教改宗国として紹介されていたが、3世紀半ばのエデッサ王国のほうが早かったという説もある)。当時持っていたキリスト教の治癒能力が布教の核心であったわけで、それが新コロナ騒ぎでも立証されたように現在はまったく失われてしまっている、ということはもはやキリスト教は歴史的役割を終えつつある、という証しといわれても仕方ないわけで。

【付記】同様の聖遺物崇敬では、コンスタンティヌス大帝の皇母ヘレナの「聖十字架、聖釘、聖茨棘、聖罪状札」(要するに、ローマのBasilica di Santa Croce in Gerusalemme 保管)の発見譚がある。いずれ触れようと思ってきたが、もう後進に譲りたい(私はモンツァ大聖堂も訪れ、所蔵の鉄王冠Corona Ferrea関係の貴重本も入手している)。まずは聖釘のその後の遍歴が一番興味深いのではないだろうか。聖釘は世界中に30本は残っているようなので、全部本物だったらイエスは体中に打ち込まれて、聖セバスティアヌス並の無残さだったはずだ。

歴代イタリア王に戴冠されてきた「ロンバルディアの鉄王冠」(現在はモンツァ大聖堂所蔵):裏側に聖釘が棒状に打ち伸ばされて張り付けられているのがミソ
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Pontius Pilatus関連の2つの発掘報告

 イエスを死刑にしたことで著名なポンティウス・ピラトゥス(ユダヤ総督在職:c.26-36AD)がらみで、2つの比較的最近の発掘情報がある。

 ひとつが、彼が関わったとされるエルサレムの地下水道渠調査の報告である。ヘブライ大学による調査では、水道渠の漆喰壁から放射性炭素のサンプルを採取して分析した結果、水道渠は紀元前1世紀初頭に建設され、エルサレム神殿が破壊された後の2世紀に改修された可能性が高いことが判明した。さらに研究チームは傍証として、ユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスが、ピラトゥスが神殿の宝物庫からの資金を使ってビエル水道渠を建設したため、街で暴動が起きたと記していることを挙げ(『ユダヤ古代誌』18.60-62)、この水道渠のこととして時代策定したようである。

 もうひとつは、これもヘブライ大学の発掘により実は今を遡ること50年以上も前の1968年に、エルサレムから南11Kmにあるヘロデ大王の名を冠した宮殿と彼の要塞兼墳墓からなるヘロディオンで発見されていた指輪をめぐってのもので、シンプルな銅合金製のそれが最近になって徹底的に洗浄され、同時に写真技術の進歩により、興味深い事実が明らかとなった。すなわち指輪の中心には、大きなワイン混酒器であるクラテルが刻まれており、その回りを右回りで、ギリシャ語でΠΙΛΑΤΟ(PILATO)と刻まれていたことが判明したのであるが、これはポンティウス・ピラトゥスの名前である、と。命名法からポンティウスはごくありふれているが、ピラトゥスのほうは稀なので、そう断定されたわけ。

手前が宮殿、背後の巨大な塚が要塞・墳墓

 この指輪の所有者について、研究者は指輪の稚拙な細工からみておそらく総督の下僚だったのではと想像している。そしてこのギリシア語はおそらく、ラテン語のPilatusの与格形(PILATO)をそのままギリシア語表記したものであり、また属州総督は、エルサレムと同様にヘロディオンの砦や宮殿を占拠使用していて、分遣隊も送り込んでいたことは確かなので、そこで総督に(すなわち「ピラトゥスに」=与格)向けて物資を送る職務に就いていた官吏ないし軍人が封印印章として使用していたものではないか、と想定している。なかなか込み入って面白い指摘だ、と私は思う。https://www.biblicalarchaeology.org/daily/biblical-artifacts/inscriptions/pontius-pilate-ring-herodium/

 この新約聖書に登場して悪名名高いユダヤ総督の考古学的実在は、1961年にカエサレイアの劇場ないし闘技場で発見された唯一のラテン語献辞碑文から初めて立証されてきたが、今回の指輪の銘文がどうやら第二の実在証明ということになりそうである。

 

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カエサレイア沖で「善き牧者」を刻んだ指輪発見

 2021/12/22に、イスラエルの考古遺物局が、ローマ時代の難破船からイエス・キリストの最古のシンボルのひとつである「善き牧者」像を刻んだ金の指輪を発見した、と公表した。八角形の金の指輪は後3世紀のもので、緑色の貴石がはめ込まれており、そこに若者が小羊を両肩に担いだ「善き羊飼い」が掘られていたので、研究者はそれをイエスの姿と主張している。

 この遺物は同時に発見されたカエサレイア沖の2隻の沈没船のうち、ローマ時代のほうから発見された遺物(数百枚の銅貨や銀貨、いずれもブロンズの、ローマの支配を象徴する鷲の形をした置物、喜劇の仮面をかぶったローマのパントミマスの置物、悪霊を追い払うための鐘、など)とともに見つかった。

 もう一艘は14世紀のマムルーク朝時代のもので、600枚近くのコインが発見され、2つの沈没船の間には、水深4mほどの浅い海底に散らばって、陶器の容器、鉄製釘、鉛のパイプ、大きな鉄の錨、複雑な彫刻が施された赤い貴石なども発見された。

 研究者は、赤の貴石も指輪にはめられていたもので、緑の指輪と同じ持ち主のものではなかったか、黄金の指輪が小さかったので女性用で、彼女はキリスト教徒だったのだろうと想定しているが、さてはたしてそんな偶然があるだろうか。

 赤の貴石:これもキリスト教的デザインのダビデないしオルフェウスの竪琴を連想させる。

 同時に、悪霊を追い払うための風鈴風の鐘も出てきてことも興味深い。

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「よみがえるポンペイ」をオンデマンドで見た

 今年の1/25放映されたという(私は迂闊にも放映そのものにまったく記憶にない)国際共同制作と銘打 った2019年製作の「よみがえるポンペイ」をNHKオンデマンドで見たが、 これがなかなかすぐれもので、前の遺跡管理所長のマッシモ・オサンナが例のごとくうれしそうに登場して(えらく目立っていたが、これも才能の一種かと) 、当時発掘していた第5区の現場を発掘プロセスからきちんと見せて、続々発見された驚嘆モノの遺物紹介もリアリティあってとてもよかった。盗掘による攪乱層問題も出てきて、ミステリー小説風でもあったし。

 例のウェスウィオ山噴火の日付変更の根拠となる落書きも、再現シナリオとか映像は納得できるものだったが、リタイアして久しい専門家A.ヴァローネも登場させ、しかし木炭で 書いた落書きは1週間ももたないと言っているのには、私は未だ納得できないでいるのである。 たとえば壁のモルタル修復後間もなくに書かれていたから一年間もったということもありえるような気がするのだ。

Massimo Osanna:1963-;Antonio Varome:1952- なんと両人とも私より若かった。特に後者は大先達だと思っていたのだが・・・

 220円で3日間見ることできます。是非みたほうがいいです、これは。誰か録画しないかな。

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ミルウィウス橋コインまた出たけど、さて

 以前紹介したことのある330年打刻のコンスタンティノポリス記念コイン、またCNGのオークションに出ていた。今回は、業者想定価格$200のところ、あと19日間あるのにすでに$225がついている。さてもう、このあたりできまりかな。

 お品書きには「コンスタンティノープル造幣局、第11オフィキナ打刻」、すなわち裏面の数字を「IA」と読んでいるが、しかし、私には「A」としか見えない。https://www.koji007.tokyo/pdf/atelier/constantinus_1700.pdfでの「IA」を見ても両文字の間隔はかなり開いている打刻なので(01、12、17)、ここは素直に「A」、すなわち第一工房ととるべきだろうと思うのだが。

【追記】3日後にみてみると、10 Bidsでなんと$325に高騰していた! この程度の不鮮明で稚拙な刻印のコインだったら私なら購入しないのだが。年を越して覗いて見たら、13 Bidsで$400になっていた。

 

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イギリスで磔刑の証拠が出土!

 2021/12/8 ケンブリッジシャーのHuntingdon近くのFenstanton村で2017年に、新住宅開発地からローマ時代の紀元4世紀の5つの墓地が発見され、そこから大人40人と子供5人の遺体が出てきていたが、遺骨をラボで洗浄していて、一人の遺骨のかかとに釘が刺されていたことが判明した。その遺体は25-35歳の男性で、身長は当時の平均の5フィート7インチだった。放射性炭素年代測定法によると、彼はAD130からAD360の間に死亡した。磔刑=十字架刑に処された遺体とすると、もちろんイギリスでは初出である。

 磔刑の証拠は残りにくい状況にあるが(普通、共同墓地にちゃんとした埋葬はされなかった、等)、今回は一般の墓地に埋葬され、その遺骸は12の釘に囲まれ、13番目の鉄釘が右脚の踵の骨の中に5cm水平に打ち込まれて残っていたので、それと判明したわけ。彼は刑の執行直前に手荒く扱われたようで肋骨は6本折れていたし、脛の骨が細くなっていたので長期間拘束されていたと考えられている。

https://www.bbc.com/news/uk-england-cambridgeshire-59569629

 磔刑の証拠とすると、私が知る4番目の考古学的遺物である。その1番目のものには、以前以下で触れたことがあるが、それは1968年にイスラエルからのものだった。「ローマ時代の落書きが語る人間模様」上智大学文学部史学科編『歴史科の散歩道』上智大学出版、2008年、pp.292-295.。他は、イタリアのガベロGavelloにあるラ・ラルダ La Lardaで発見されたもの、エジプトのメンデスMendesで発見されたもので、これらにも機会があれば触れたいと思っている。

 フェンストンは、趣のある歴史的な街道沿いの村で、ハイストリートはローマ時代の町ケンブリッジとゴッドマンチェスターを結んでいたVia Devanaのルートに沿っている。この集落は、旅人にサービスを提供するための道路沿いの正式な停留所として維持されていた可能性があり、村はその周辺で発展し、十字路で発展したことを示唆するいくつかの証拠がある。

 骨格の古代DNA調査では、多くの人が親戚関係にあると思われる小さな田舎の集落であるにもかかわらず、2つの家族グループしか確認できなかった。磔刑の彼のDNAはそのいずれとも無関係だった。

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小型パン焼き窯の所在:Ostia謎めぐり(18)

 これは謎ではないが、オスティア遺跡を他と比べての特徴の一つとして、私は奴隷用の雑穀パンの大量生産用の大型窯をあげておいたが、遺跡内には後世のものと思しき小型の釜(ピザ屋レベル)が幾つか存在していたようである。

 ここではさしあたり、それらしき痕跡を提示しておこう。まず第一に、場所は、III.14.1で、アントニヌス・ピウスの時代に建てられ住居兼商業施設と想定されているが、後世の改造後の用途は明らかでない。その中に小型のオーブンらしき遺物が残っている。以下がその写真である。

 もうひとつは写真はないが、Caserma dei Vigili (II,V,1-2) で、Ostia:Harbour City of Ancient Romeのホームページでの説明では、後の段階においてこの兵舎の北東部に小さなオーブン(単数)を備えた部屋(複数)が作られた(In a late phase some rooms with a small oven were created in the north-east part of the building (52-54))とあるが、その文章の意味が不分明で、平面図見てもそれらしき痕跡は見当たらず、知らずに現地を歩いたとき何も気がつかなかったので、さてどう理解したらいいものか。55は水槽である。念のため。

 さらにもう一つは、Terme della Trinacria (III,XVI,7) で、これには写真があるが、Ostia:Harbour City of Ancient Romeのホームページでの説明では(https://www.ostia-antica.org/regio3/16/16-7.htm)単なる炉furnaceという表示である。何の炉だったというのだろうか。

                 平面図の番号「11」

 最後に、Sinagoga (IV,XVII,1)付設のもの。このユダヤ教会堂は後1世紀中頃建てられて、後4世紀に大規模改修されているが、その台所に小型オーブンが設置されている。これはおそらくユダヤ教の清浄食物規定がらみの宗教目的専用だったのでは、と私は考えている。

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古代の騎乗獣の実像を探りたい

 古代ローマ時代に、街中の街路をどんな輓獣・駄獣が往き来していたのかということで、いまちょっと調べている。J.クラットン=ブロック(増井久代訳)『図説動物文化史事典:人間と家畜の歴史』原書房、1989年(原著1981年)では、当時のスキタイやロシアのステップあたりにいた馬の肩高は145cmたらずだった(現代のサラブレッドは160-170m)。それとは別のイギリス、西部ヨーロッパ、ギリシアには小型のケルト・ポニー系もいて、こちらは図像から判断するに古代ギリシアでさえ大半は125cm以下だった、と。

 後4世紀初頭に中国ないし満州で開発された鐙(あぶみ)は、後7世紀ごろにヨーロッパに伝播したので、それまでアレクサンドロス大王もカエサルも騎乗はあぶみなしだった、という常識はもう一般に周知されているのだろうか。私はこれを学部生時代の竹内正三先生の演習で、だから1968年ごろのことだが、Lynn White, Medieval Technology and Social Change, Oxford UP, 1962を読んだとき知って、文字通り目からうろこの衝撃だったのだが(その本はかなり経って邦訳が出た:リン・ホワイト[内田星美訳]『中世の技術と社会変動』思索社、1985年)。

 手っ取り早く、写実性という観点から若干問題あるが美術関係でどのように描かれているか見てみるとそれなりに面白い。

 ダレイオス大王(前6-5世紀)時代の円筒印章:軽戦車を牽引するのは小型の馬(ポニー系)のように表現されている。西アジアでは軽戦車の輓馬としてはこのようなミニチュア・アラブ種の系統が、同様に古代ギリシアや西欧ではポニー系が投入されたとのこと。当然のようにサラブレッドが疾駆するハリウッド映画なんかで植え付けられた先入観からは到底受け入れられないのだが。

 騎兵の場合はどうだっただろうか。以下はスキタイの事例だが(前4世紀)、騎兵の足が地面につきそうに描かれていて、そのダイナミックさからかえってリアリティがあり写実性を感じさせる。

 後3世紀のササン朝のアルダシール1世(左)、シャープール1世(右)時代も変わらなかったようだ:いずれもナクシュ・イ・ルスタム磨崖彫刻。

 それが、ありがちな復元想像図だとこんなふうに肩高が高くかっこよく描かれちゃうわけ(左、スキタイ;右、ササン朝)。モデルの馬が現代のサラブレッドなんだろうな。

 以下は、ローマ国立博物館分館(マダマ宮)所蔵の、赤、青、白、緑組のfactioを代表する戦車競技の騎手と馬のモザイク。騎手の身長を仮に170cmとすると、馬の肩高は120cmないことになって、たぶん騎乗したら騎手は間抜けにみえたかも、だ。あ、戦車でしたね、失礼。

 それが以下のようにミニチュアによって復元されると、皇帝の身長を175cmとして換算すると、肩高130cmあたりとなるはず。

 しかし、考古学的にはどうなるのか、出土骨格で判断するのがもっとも正確なはずなのだが。詳論には未だ出会えていないが、ローマの大型軍用馬はスキタイ系で肩高が145cmを越えるものもいて、ローマ帝国各地から見つかっている由である。

 ちなみに、平成元年7月に甲府の武田氏館跡から10歳前後の雄馬の完全骨格が出土した。この肩高は120cmで、だが当時としては中型以上の大きさの、しかるべき大将クラスの騎乗用だったとされている(https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/kamejii/012.html)。

 ところでカルチャでは言ったのだが、映画「ベン・ハー」の戦車競技の場面、実はフィルムを早回ししているのであの迫力が出ているのだけど(今度、じっくり見て確認してください)、実際はもっと牧歌的だったはずなのだ。しかしそれだと迫力は出ないわけで、絵にならない。

 これまで知らなかったが以下の本を知らずして馬道は論じ得ないらしい。幸いにも古書で入手できそうだ。田中秀央・吉田一次訳『クセノホーンの馬術』恒星社厚生閣、1995年。

 だがそれにしても、すでにF.ブローデルも触れていたように、地中海世界は古来なにはともあれ馬よりもロバdonkeyとラバmuleの世界だった。古代ローマ時代で馬を論じて由とするのは、あたかも古代ローマ史をカエサルやアウグストゥスですまして、庶民の日々の営みを軽んじる振る舞いと言ってもいいかもなのである。アプレイウス『メタモルフォーゼス』(変容=黄金のロバ)を読むべしなのだ。

 それを主役において論じているのは以下であるが、それは別稿を期すしかない。とりあえずは馬と同時にロバやラバを扱った、J.クラットン=ブロック(清水雄次郎訳)『図説馬と人の文化史』東洋書林、1997年(原著1992)や、ブライアン・フェイガン(東郷えりか訳)『人類と家畜の世界史』河出書房新社、2016年(原著2015)が、そして大枚はたいて発注した以下が役立つに違いない。Peter Mitchell, The Donkey in Human History : An Archaeological Perspective, Oxford UP, 2018. しかしこれは若い人がやってほしいこれからの仕事なのであるが。いずれ図書館の欠本は寄贈するつもりである。

 ところで、四谷3丁目に時々いっていた老舗のイタリア・リストランテがあるが、あるときメニューに「ロバ肉のなんたら」が二の皿にあって、驚いた。イタリアでもこんなメニューにはお目にかかったことはない。しかし当時ロバはいっぱいいたから、死んだら貧乏人に供されて食べられたに違いない。古代ローマを研究対象にしているからには、今日はロバ肉だっ、と決して、食してみたら案に相違して柔らかくて良質の牛肉と変わらなかった(和牛みたいに脂だらけではなく、むしろ抜けていた)。おそらく当時の使役獣とちがって、食肉用に育てられたものだったのだろう。とまれ、得がたい体験には違いなかった。さてさて、古代ローマ史やっている人でロバ肉を食したことある人がどれほどいるだろうか。塩野大先生いかがでしょう。これは私の密やかな自慢なのである。

 以下のモザイクは、ブドウ畑で働く人に手綱を引かれたロバが、ブドウの入ったカゴを運んでいる様子で、2002年にトルコのアンタキヤの北東50マイルに位置するハッサ地区のマズマンルで、盗掘によって初めて発見された。5〜6世紀に建てられた教会の床を飾っていたこのモザイクは、その後の発掘調査で64平方フィートの大きさで発見され、このたびようやく修復がなり、ハタイ考古学博物館で展示されることになった。

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