月: 2022年1月

「特別展ポンペイ」を見てきた

 2022/1/21に、めったにないことだが知人から無料鑑賞券を2枚もらったので、某読書会の予習を兼ねて、これもめずらしく妻と2人で東博に「ポンペイ展」を、念のため事前予約して見に行った。会場の平成館は奥にあるので、上野駅公園口からそこまで行くのが寒かったが、駅前の自動車道がなくなっていたり、西洋美術館が改修中とかで、上野は久し振りだったのでその変わりように驚いてしまった。

 14時半予約していたのだが、それ以前に検札を通ろうとしても、入場者はそんなに多くなかったのに、待合室で待たされてしまった(たぶん予約してなければ直に入れたと思う)。今回は、空間構成にかなり余裕があって、鑑賞者もそう多くなかったので、気分的にゆっくり見ることできた。写真が自由に撮れたのもイタリア的でよかったが、これって日本ではいつものように人が多いとはた迷惑になるはず。以下の動画がある。

 「ファウノの邸宅」「キターラ奏者の邸宅」「悲劇詩人の邸宅」に焦点合わしているのはいい試みだった。私的には「Julia Felixの邸宅」関係があちこちに、特にあの有名な「賃貸広告文」があったのも嬉しかった。

 また「Lucius Caecilius Iucundusの邸宅」(V.1.26)関係の4点が出品されていて、これはまさにちょうどその遺跡の出土品を別件で扱っていたので、その偶然が嬉しかった。とりわけ、玄関を入ってアトリウムを直進するとタブリヌム(家長の執務室)に至るが、その両脇に設置されたヘルマ柱の左側のほうには、青銅製胸像が載っていて、柱に「GENIO・L[uci]・NOSTRI ・FELIX・L[ibertus]」(我らのLucius(Caecilius)の守護霊に、Felix L.が[献じた])と刻まれている(本物はナポリ博物館に展示されているし、これまで日本にも来たことあるが、今まで無関心で気付かなかったのだ)。なお、1930年代から1970年代までこの原位置には青銅レプリカを載せたヘルマ柱が設置されていたようだ。また、簡単に往年の様子を想像したい向きには、以下があります。https://www.youtube.com/watch?v=ETd7pszxhnc

 その末尾の刻文「L(ibertus」(=解放奴隷)から、解放奴隷のFelixが、たぶんご主人様のLucius Caeciliusへの敬愛の念から胸像を守護霊に寄進したと考えるのが順当なのだが、研究者たちは必ずしもそのようにとっていない。それはなぜか。今回のカタログではこの家で出土した最古の後15年の書字板にLucius Caecilius Felixが登場しているので、それが解放奴隷Felixと同一人物なのでは、というわけである。こうなると、献呈されたLucius Caeciliusは、このLucius Caecilius Felixと、そして当時の当主Lucius Caecilius Iucundusと、そして解放奴隷Felixは、どういう関係になるのか、これが当然問題になる。もちろん、あくまで解放奴隷Felixは主家と血縁関係なく、解放時に当時の当主Felixの名前を頂戴しただけ、ととることもできるはずだ。

 ところが今般のカタログではそう考えていない(p.106:署名RC=Rosaria Ciardiello)。Iucundusの祖父なり父が解放奴隷Felixであり、胸像そのものもFelixだった可能性を指摘している。かなり入り組んだこの解釈もまんざら無視できはしない。このようにたかだか2行足らずの刻文なのだが、なかなか決着がつきそうもない。問題解決にタブリヌムの右に設置されていたもう一柱は参考にならないのだろうか。Fausto & Felice Niccolini(1816?-1886?)によると、右のヘルマ柱は、噴火後に穴を掘った盗掘者たちによって頭部が破壊されてしまい、発掘時にそのまま見つかった由だが(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2001%2026.htm)、破壊された胸像のほうはともかくとしてヘルマ柱上に何の痕跡(刻文)もないのだろうか、気になるところである。もうひとつ、同家から出土した書字板史料の詳細な検討から何かヒントが見つからないだろうか。いずれにせよ、今後のさらなる検討対象となりそうなテーマではある。

左、東博で撮影;右、写真の左隅のヘルマ柱にレプリカが置かれていた写真もみつけた
携帯で撮ると歪みますね

 もうひとつ興味あったのはこの家から153点出土した書字板のひとつのレプリカだったのだが、これは薄暗い照明の中では真っ黒の炭板としか見えなかったのが残念。実はそれらの中に「円形闘技場の乱闘」のフレスコ画関係の傍証記述を記載したものがあるのだが(H69-82)、それの展示だと連携的でよかったのだが。

 炭化といえば、炭化したパンも展示されていたが、どうせなら刻印stampを押してあるものにしてほしかったのも、一時それを調べていたことあるからだが(これも余談だが、なんでパンに刻印押したのかが問題で諸説ある。私は誰が無料配布したのかを示すため、というのが一番当たっているように思ったのだが、奴隷の名前が多く押されているので、一般化は無理でしょうね。どなたかいい知恵出してください)。

 私的に今回一番の収穫は「奴隷の拘束具」だった。この種の拘束具は初見だったので驚いたこともある(ちなみに、2010年の京都・古代学協会主催の横浜美術館の時は、ポンペイ郊外出土の給湯システムが初見で、たいへん興奮したものだ。なにしろ私はそれまでドイツ出土のものを写真でしか見たことなかったので(その経験が、オスティアでも役立った、といってもそこでは金属は回収されたあとの単なる空間が残っていただけだったが)。蛇足だが、このときのグッズ売り場は私にとって実に充実していて、18禁の品々をいっぱい教材用に購入したことを思い出してしまった、もっとも刺激的すぎるそれらは実際には研究室に死蔵してしまったのだが)。

上がピラネージのエッチングを使っての解説文:件の拘束具は大劇場の回廊から出土とのことだが、農業奴隷ではあるまいし、本当にこんな拘束をしていたのだろうか、いささか疑問。農業奴隷だってだいたいは円形の足枷だったはず。新人奴隷の調教ないし懲罰用?
 ところで、全部で158を数える展示物のうち、「東京のみ」が34もあるのは、展示空間の問題だということだが、立像「ビキニのウェヌス」、モザイク画「辻音楽師」、フレスコ画「円形闘技場の乱闘」「賃貸広告文」「サッフォー」「パン屋の店先」などはせっかくの貴重な逸品なのに、東京以外では見られないのは残念なことだ。私だったら他を省いてもこれらをとるのだが。特に私は今般モザイク画で署名を、フレスコ画で落書きを自力で確認できたのも収穫だった。たぶん、ナポリ博物館よりも低く私の目線に設置されていたので、容易に気付けたのだろう。

 上記ギリシア語:ΔΙΟΣΚΟΥΡΙΔΗΣ ΣΑΜΙΟΣ ΕΠΟΙΗΣΕ「サモスのディオスクリデスが[これを]作成す」。だが、といって彼がこのモザイクを実際作成したかどうかは不明、というよりこの署名すら原作品からの模写だろう。

 下記の2つの落書きは、Casa di Anicetus(I.3.23)のペリスタイル(中庭)の後壁に描かれていた壁画「円形闘技場の乱闘」に刻まれていたもの。

  ラテン語:D(ecimo) LVCRETIO FE[L]ICETER「デキムス・ルクレティウスに幸運を」

  ギリシア語:ΣΑΤΡΙΩ / OYΑΛΕΝΤΙ / OΓΟΥΣΤΩ / ΝΗΡ ΦΗΛΙΚΙΤΕΡ「サトリウス・ウァレンス、アウグストゥス・ネロ[の奴隷]に幸運を」(他の読み方もあるので検討中)

 これら2つの落書きに通底する同一意図を想定するとき、後59年のヌケリア市民との乱闘の後始末として、元老院が一旦定めた10年間剣闘士競技禁止令を、皇帝ネロが早くも数年後に解除した件で(この後段は、なぜか誰も触れようとしないのはなぜ)、そのために奔走し関わった人物たちを顕彰してのもの、という仮説もなりたつであろう。ここらにも宝の山が埋もれている予感がする。

 主催者が宣伝している「アレクサンドロス大王のモザイク」については、一時期博物館で舐めるように詳細を観察したり、文献もちょっと調べたことあったし、現地「ファウノの家」でレプリカ再現の作業中に薄い石片を張り付けていた(本式のモザイク埋め込みではなく)のに遭遇した経験もあるので、感激はそうなかった。ただ現在修復中であの周辺の部屋も閉鎖中なのが奏功してか、そこの展示物がたくさん送られて来ていたのは思わぬ僥倖である。

あとは感想:  

 いつも思うのだが、館内で鑑賞できるビデオを編集・販売してくれると、教材とかで大いに役立つのにと。

 各々の展示物の傍に、出土場所を示したカードがあったが、カタログにあるような地図を配布解説文の裏面にでも印刷してくれていると、手軽に参照できてよかったような気がする。 

 部屋が暗いこともあって、音声ガイドのポイント(場所)が分かりにくく、手こずった(ガイドリストには書いてあったにしても)。  

 それと、あろうことか図録に4箇所間違い(ないし、展示物の差し替え?)の修正が挟み込まれていて、これは責任者の芳賀女史の律儀な性格のせいかなと。  

 ミュージアムグッズ売り場で、関係図書の販売を期待していたが、はずれだった。そのくせポンペイと無関係なもの、無意味なものがたくさん売られていたのは、私的にはいかがなものかと(ワイン、菓子、クッション、キャラその他:すでにメルカリに山ほど出品されているじゃないか:本来あるべきガルムがなぜないのだっ)。・・・とはいえ、うちの嫁さん、指輪だっけを嬉々として買っていたようでして (^^ゞ、ったくもう。

 新コロナ下でもあり博物館の推奨見学時間90分となっていたが、ゆっくり見てもその時間内でまずまず見学できる感じかと。

【追記】3/10午前中に2回目の見学を10:30から90分間にした。この時は別件でこれも頂戴した無料鑑賞券で、事前予約していなかったが、検問で予約せよとご指導いただいてしまったので、事前にしておいたほうが面倒がないだろう。とはいえたかだか数分のことだが。

 というのも、前回にくらべて今回は人出がかなり多く、展示物の前に人がいてなかなか前に進めないことが多くなったし、12:30頃、帰り際に見ていると例のごとく並ばされている人数も相当いたからである。

【追記2】なぜか東京で掲示不可だったものが京都では掲示されているというので、6/2の帰省の折、途中下車して行ってきた(交通費が直行より7000円余分にかかったのはこたえた)。新幹線で降りる人がほとんどいなかったのでしめしめと思っていたが、駅前のバス停では長蛇の列となりびっくり。といっても同胞ばかりだったが。ま、会場の市京セラ美術館での人出はまずまずだった。

 お目当てはカタログのNo.147(2022/6/3のブログ参照)の「キターラ奏者の家」(Casa del Citarista:I.4.5)で、あの背景の山をウェスウィウス山とする説に出会い、かなり急な坂道の果てに平たい頂上が見えるわけだが、おそらくそれがストラボン叙述「山頂以外は非常に美しい畑地が取り巻く。山頂は大半が平らだが全体が不毛の地で」との関係でそう注目されているのだろうが、単にそれを確認するための寄り道であったのだが、残念ながら19世紀半ばのN.La Volpeによる描画のようには明確に認識することはできなかった。それに、天空を飛翔するクピド?は別として、頂上にどっしり根付いた樹木をどう解釈するのかも問題だろう。以下、左が描画、中が今回撮った全景写真、右がその頂上と裾野の部分の拡大合成図である。

現状況では頂上付近に顕著な剥落、右端下図で坂道は明確ではないが、かすかにその痕跡らしきものがあるといえばあるような(^_^;。

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トンガ沖火山爆発に触発されて:後62年の地震とポンペイ

 大型の火山爆発の影響は、直後の被害のみならず、後に尾をひくことはもう常識だろう。たかだか1時間の爆発での噴煙は成層圏に達した(とはいえ今回はそれほどでもないと見積もられているが:https://mainichi.jp/articles/20220125/k00/00m/040/310000c)。

1/15:トンガ沖の海底火山爆発

 たまたま別件で予習をしていたので、イタリアのヴェスヴィオ火山関連のものを紹介しておく。といっても当時は写真があるわけではないが。以下のレリーフは、後62年の地震によりポンペイ市内の建造物が破損した情景を描いたものとされる貴重な証言である。場所は、ポンペイ遺跡のV.1.26「Lucius Caecilius Iucundus の邸宅」の玄関入ってすぐのアトリウム(下2つめの平面図の番号1)左角隅に設置された家庭祭壇 lararium にそれはあった。この家の主人は銀行家で、そのため敷地内から多くの書字板文書も出土したらしい(そのレプリカが今般のポンペイ展に来るそうだ)。祖父ないし父 Lucius Caecilius Felix の青銅胸像はヘルマ柱ともどもナポリ博物館所蔵されている。実は2022/1/5にアップした犬の塑像関係で紹介したモザイク舗床がまさにこの家の玄関を飾っていたのである。

第5区に注目。その西の第6区との境界で城門が途切れている所がヴェスヴィオ門;件の邸宅は第6区と第9区との交点角地(要するに南西端)のブロックの中頃に位置する。この邸宅をヴィジュアルに見たい向きには、以下がある。
https://www.youtube.com/watch?v=ETd7pszxhnc
出典は、Pompeiiinpicturesより

 正面上下それぞれに、上がヴェスヴィオ門付近(左端は配水塔でこれは頑丈で地震でも残った、次が崩壊した門、それの下敷きになった感じの荷馬車と輓獣2頭)、下が forum 周辺の被害状況を描いたものだろう(現在ではこの2枚は取り去られている:上のは盗まれ、下のは国立ナポリ博物館所蔵)。

 それにしてもこんな場面、どういうつもりで家庭祭壇の装飾に採用したのやら。肉親から犠牲者が出たからというわけでもなかろうに。その意味で、この屋敷が第5区第1街区という立地条件を考慮に入れると、ヴェスヴィオ門や配水塔(それに背景となっている城壁)は身近なご近所だった。そしてフォルムはまあどう言っても都市の中心地で公共建築物も集中しているわけで、そこの惨状を記録に残して、日々神々とご先祖様に無事息災を祈っていたということかもしれない。

 上記写真は、下の方のレリーフを彷彿させるフォルムのユピテル神殿を正面から見たもの(https://3dwarehouse.sketchup.com/model/23b4c5433946fdffdfd89dd71a555b12/Pompeii-Temple-of-Jupiter)。こうしてレリーフと現況を眺めてみると、傾きのひどいこの神殿は、現況でも円柱の残りが悪いので、地震で少なくとも柱廊部分は解体されて再建されなかったかも知れない、と思い出した。なお神殿の左側でやや傾いている構造物は、神殿両脇前後に互い違いに設置されていた2つのアーチ門の1つで、右側のそれはなぜか省略されている。そこから右寄りの構造物は、広場の東側の「公設市場」「ウェスパシアヌス神殿」「ラレス神殿」「エウマキア会館」、またはアーチ門を越えて北に1ブロック行った角の「Fortuna Augusta神殿」(VII.4.1)のいずれかだったように思えるが、わざわざ右アーチ門を省略していることを勘案すると、案外最後の「Fortuna Augusta神殿」の蓋然性が高いかもしれない(参照、サルバトーレ・ナッポ(横関裕子訳)『ポンペイ:完全復元2000年前の古代都市』Newton Press、1999年、pp.92-115)。下の方のレリーフの右側はそこで牡牛の犠牲を捧げる様子が描かれているのだろう。
西側から見たフォルム周辺の発掘時模型(http://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/r7/7%2008%2000%20East%20p1.htm):関係建造物が一瞬であるが再現されて登場しているのが、以下:https://www.youtube.com/watch?v=IDCVcuVR5w8;終盤にフォロ周辺が出てくるこっちのほうがより正確でいいかも、https://www.youtube.com/watch?v=IGuIL3gjIbA

 風景の細部について改めて論じる機会がさて私に残されているかどうか・・・。とりあえず、共に右隅に描かれているものが何を意味しているのか。特に上のレリーフの方がよくわからない。

左(上のレリーフ)は、私には散乱した武器庫に見える。そうだとすると、城壁近くのご近所の未発掘地区にまだ埋まっているかも・・・;右(下のレリーフ)は神殿で犠牲を捧げる時の道具のようだ(たぶんお盆ないし碗と、包丁と、水差しか;右ブロックに patera も)。

 発掘の結果、後79年の大爆発によってポンペイが完全に埋没するまでの足かけ17年をかけて、だがしかし街の修復はさしたる進展も見ないまま打ち過ぎていたことが、そこかしこいまだ工事中で散見され判明している。インフラの復旧すら達成されていないということで、後62年のあとポンペイの有力住民をはじめ逃げ出せる者の多くが街を放棄したので、都市としても復興資金不足となってという事情もあったのだろう。そして行き場のなかった居残り組が79年の犠牲者となったわけだ。それにしても、地震で崩壊したヴェスヴィオ門が17年後に修復されていなかったとすると、最後の第4サージで怒濤の如く迫ってきた火砕流の恰好の城内への突破口となったはずだ。その意味で、現在でもまさしくヴェスヴィオ門周辺が妙に平べったい印象あるのは、示唆的ではなかろうか[後62年の地震とその影響については、以下参照:金子史朗『ポンペイの滅んだ日』原書房、1988年、pp.69-75]。

 うん、こりゃあれこれエピソード豊富でまとめるのにいいテーマだ。なんだかオリジナルの論文書けそうな気がしてきた。しかし私でも思いつくこの程度のことは、目端の利く欧米の研究者がすでに言っていないはずはない。

【追記】上の不明イメージについて複数の美術系知人に問聞きの回状メールを送付したところ、間髪入れずにある人物から返答があった。さすがである。

A cura di Filippo Coarelli, Divus Vespasianus:Il bimillenario del Flavi, Ministero per i beni e le attività culturali, Soprintendenza speciale per i beni archeologici di Roma, Electa, Milano, 2009, pp.484-5 からのスキャンが送られて来た。本書はたぶん展覧会のカタログで、項目執筆者は Fabrizio Pesando。以下、レリーフのイメージ関連部分だけを紹介する。

85:62年の地震の影響を示すレリーフ:フォーラムの建物

ポンペイ、カエキリウス・イクンドゥス家のララリウムより(V.1.23)

ルナー(イタリア・トスカーナ)製大理石

高さ16.5cm、長さ97cm Inv. SANP 20470

86:62年の地震の影響を示すレリーフ:Porta Vesuvio 付近の建物

ポンペイ、カエキリウス・イクンドゥス家のララリウム(?)より(V.1.23)

石膏模型

高さ18cm、長さ86cm、厚さ6cm

ローマ、ローマ文明博物館。 inv.M.C.R.1368

 「フォーラムの建物」を描いたレリーフ(A, cat.85)は、アトリウムの北西隅に位置し、全体が大理石の板で覆われた石積みのララリウムの南側の上部帯を飾っており、一連の動物を描いた2つ目のレリーフがそれに連結されている。

(中略)

 レリーフAには一連の公共および聖なる建物が描かれており、そのうちのいくつかは確実にフォルム地区に位置している。左側には大きな単一アーチがあり、西(見る人の左)に向かって強く傾いている。これは、いわゆるドルスス Drusus のアーチで、79年の噴火後に行われた剥ぎ取りにより、今日では大理石が全くないように見えるが(コーニスの断片とスラブを接着するためのダボがわずかに残っているだけ)、地震の後に南東側の上部を統合する工事で部分的に修復された。アーチの隣には、同じく西に傾いた大きな神殿が描かれている。ここでは四柱式 tetrastilo として描かれているが、フォルムの北側の短い部分を中心に閉じていた都市の Capitolium(実際に前面に6本のコリント式円柱がある)と同一視することができる。この神殿の特徴は、階段の中央にある祭壇と、両端にある2つの彫像の台である。今はもう存在しないこの像は騎馬像で、ユピテルの子孫である騎士の守護者ディオスクリを表していたのかもしれない。ウルセウス urceus=水差しとパテラpatera=供物皿は、フォルムとは限らない別の記念建造物で行われた具象的なシーンを紹介している。右側には他の生け贄の道具(トレイ vassoio、ナイフ coltello、シトゥラ situla=手桶)が並んでおり、犠牲式で使うバイペン bipenne(=諸刃の斧)を持った犠牲執行吏 victimarius が、雄牛の角を引きずって祭壇に向かって押している。祭壇のテーブルにはベールを被った女性の頭が、前面には動物(確実に子豚 porcellino)が描かれている。他の記念建造物とは異なり、このモニュメントは完全に無傷である。このため、このシーンは、地震の後、フォルム地区の聖なる建物の一つ(おそらく、いわゆる「公共のラレスの聖域」Santuario dei Lari Pubblici)で行われたテルスTellusへの贖罪の犠牲式を表していると考えられている。しかし、ポンペイにテルスの儀式を示す証拠がないため、この識別は不確かなものとなっており、シーンの解釈(地震の際にそこで行われていた儀式行為のために、まさに無傷で残った建物のプロディギウム prodigium=瑞祥)や、崇拝されていた神の識別(重要な聖域が捧げられ、非常に権威のある公の神権を持っていたウェヌスVenere[ポンペイの守護女神だった]やケレースCerere[ローマ古来の豊穣地母神]など)など、他の可能性が残されている。

 浮き彫りBは、浮き彫りAとのテーマ的・様式的な類似性から、ララリウムの装飾そのものを指すと考えられているが、帝政期のポンペイの有名な建物も描かれている。配水塔 castellum aquae とヴェスヴィオ門は、実際に左手に完全に識別できる。前者は、都市に面した正面を示す3つのブラインド・ブリック・アーチ tre archi ciechi が、細部に至るまでごくわずかな誤差で再現されており、レリーフAの祭壇と同様、建物は無傷のようで、現存する遺構にも大きな損傷や修復の跡は見られない。それとは全く異なる運命を辿ったのが、近くにあるヴェスヴィオ門 Porta Vesuvio である。Porta Vesuvio は現在ではほとんど消滅しており、西側の角柱 piedritto だけが残っている。レリーフでは、ほぼ完全に右(東)に傾いており、巨大な両扉は開け放たれている。そう離れていないところに、牛かロバ buoi o asini[複数表記]のような動物が2匹で引っ張っている荷車があり、揺れで身動きが取れなくなりそうになりながら、町に向かっているようだ。その後ろには、盛り土 agger と城壁の上部が見える。城壁は整然とブロックを積み上げ、一連の狭間胸壁 merlature(CIL X,937の碑文に記されているように、スッラの植民都市 colonia sillana の初期に再建された plumae)で覆われている。Aのレリーフと同様に、右端には祭壇が置かれているが、ここでも完全な形で現わされている。構図の最後にある大きな木(樫)や、テーブルの上に置かれた供物(花輪corona vegetale、灌奠用のパテラ patera per le libagioni、初物を詰めた[豊穣の]角 corni riempiti di primizie)から、この祭礼の素朴さがうかがえる。 祭壇の前には、諸々の祭具 oggetti cultuali(おそらくリトゥウスlituus = ラッパ)のほか、動物が大きな杯 coppa = 酒杯をひっくり返している。なんの動物かは不明だが、上を向いた長い尻尾があることから、子羊は除外される。鼻の形や長い耳は、齧歯科やイタチ科の動物を表現するのに適している。後者の場合、イタチの可能性がある。イタチは、古代ローマの豊穣の神 Mutunus Titinus と結びついた、繁殖能力の高い動物である。

  また、地震で破壊された建物と免れた建物が交互に現れるのは、こうした自然災害には必ず prodigia = 諸々の瑞祥が現れることを暗示しているのかもしれない(上記「Pesando」参照)。」

 繰り返す、さすがである。私見では部分的に言いたいことあるけれど、この学的厚みと説得力に極東の老書生は太刀打ちできない。

【追記】なんと盗まれたほうが50年振りに発見された。本ブログ2024/1/3をご覧下さい。

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中世ヨーロッパの軍馬は意外と小型

 1/10発の表記を考古学新情報の書き込みを見て、だったらローマ時代だって同様のはず、というわけで、紹介しようと思ったのですが・・・。念のためウィキペディアの「中世の馬」の項目に行ってみたら、案に相違して冒頭に「中世ヨーロッパの馬は、大きさ、骨格、品種が現代のとは異なり、平均して小型だった」とあっけらかんに書いてあって、脱力。だがまあ新事実あるかもと転載します。

 ま、ナチスドイツの戦車が全部ティーゲルだと思っちゃうのと同じ思い込みというものだろう。新しい研究で、現代の基準ではポニーサイズにも満たないものが多かったことが明らかになった。この時代の馬の体高は14.2ハンズ(=144cm超)以下が大部分だったが、実際、馬の価値とは馬体の大きさがすべてではないことは明らかで、むしろ種々様々な戦闘場面に適合的な繁殖・飼育・訓練が試みられていたことのほうに注目すべきなのだ。

これまで軍馬の代表みたいに言われてきた大型のデストリエdestriers種

 今般、研究者たちはイギリスの171の遺跡で発見された後300年から1650年までの馬の骨格データを分析した(International Journal of Osteoarchaeology, 31-6, 2021, pp.1247-1257)。その結果は、記録に残っている最も背の高いノルマン馬はウィルトシャー州のトロウブリッジ城で発見されたもので、約15ハンズと推定され、現代の小型軽乗用馬の大きさに近い。中世後期(西暦1200年〜1350年)になると、初めて16ハンズ前後の馬が登場するが、中世後期(西暦1500年〜1650年)になると、馬の平均体高が大幅に高くなり、ようやく現代の軍馬や輓馬のサイズに近づいてくる。こうして、中世の時代を通じて、戦場での戦術や文化的な好みの変化に応じて、さまざまな形態の馬が望ましいとされていた可能性の方がはるかに高い事が判明した。

 ただ、出土骨格で軍馬かどうかを判定することはできないこと、どうやら馬は死後に解体されて皮や肉は利用されたので完体での出土はまれ、といった分析上の根本的な問題が残っているようである。

 ちなみに、以下の古代ローマのコインの裏面には副帝ドミティアヌスの騎馬像が打刻されているが、騎手の足がほとんど地面につきそうに描かれている。ただし貨幣に写実性を求めすぎるのも問題だが。

 先日NHK総合で大河ドラマ「鎌倉殿の13名」第1回を偶然見たとき、北條義時役の小栗旬が伊東から帰る場面で騎乗していたのが小型の馬でとことこと走っていたので(彼が185cmと長身のせいではないと思う)、おや、やるなと思ったが、他は普通のサラブレッドとみた。

要は、馬脚の長さの違いのように思えるがどうだろう

【追記】以下の本が届いた。送料込みで¥12012かかった。これからはロバdonkeyとラバmuleだ。

 Peter Mitchell, The Donkey in Human History: An Archaeological Perspective,‎ Oxford UP, 2018, Pp.360.

 1ページ当たり33.4円か。かなりのものだ。

【追記2】2022/1/14発:こんな情報も。「馬以前に、家畜のロバdomestic donkeysと野生のロバwild assesを掛け合わせたスーパー・ロバ「クンガ」kungaが、戦車に使われていた」(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2022/01/before-horses-ass-hybrids-were-bred-for.html)。

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後6世紀に被解放奴隷がいた

 2022/1/10公表。2007年にトルコ南部ハタイHatay県アルスーズArsuz地区で、自宅のオレンジ畑に苗木を植えていて遺跡が見つかり(たぶんそれ以前に見つけていたが、今回届け出たということかも)、発掘調査されてきていたが、今回の発掘シーズンにそこから6世紀の聖使徒教会の舗床モザイクが出土した。その銘文から奴隷が解放された後、神に感謝するためにその舗床なり建造物を寄進したことも判明。

シリアとの国境近くに位置する著名なアンタルキア(Antiocheia)の北西海岸線にArsuzがある

 以下、発掘者の言。「ここでは3廊式のバジリカ教会が出土していて、舗床にモザイクが施され、その碑文から、この教会が3人の使徒教会と名付けられたことが分かった。今年行われた発掘では、別のモザイク部分が出土し、孔雀と碑文が描かれていた。モザイクには天国が描かれ、銘文から奴隷が解放された後、神に感謝するために寄進したことが判明した」(https://arkeonews.net/a-mosaic-made-by-the-freed-slave-to-thank-god-was-found-in-the-church-excavation/)。

中央に教会遺跡。今回の出土モザイク場所は右上隅

 明快なギリシア語残存文字なので読解を試みたくなる。いずれにせよ、後6世紀段階でも奴隷や被解放奴隷が存在していたわけだ、それもキリスト教信者に。

【追記】こう書いたら、某君が速攻で銘文を解読して送ってくれた。私は目前に急ぎの仕事あるので、後日検討させていただくが、ざっとみて私見とは読みが違う箇所もあるようだ。ご意見ある人は遠慮なく。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

原文:

某君試訳:

我らの最も神聖な監督 Zosimianos と我らの敬虔な長老 Christianos の下で、最も高貴で、 彼の力で解放となった Ioulitta が、自身とその子孫の救いのために、Kosmas と Timotheos によるこのモザイク舗装の仕事の世話をした。

【追記】これに限らず、トルコからはあれこれ興味深い碑文が出土しているようだが、ウェブでの情報は発掘関係者のインタビュー記事レベルに留まり、碑文の具体的内容に触れることがまれなので、私は欲求不満である。以下はほんの一部:1/10掲載も参照。

 2015年8月:トルコのラオディキアで1900年前の大理石板に、水道管理法文が書かれていた(https://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/marble-slab-inscribed-1900-year-old-water-law-unearthed-turkey-003682)。

 2016年10月:トルコのイズミル県内の古代都市Teosで発掘された2200年前の碑文に、58行からなる古代の契約書が書かれていた。それには、土地のリースやレンタル奴隷をどう扱うべきかについて書かれていたとのことだが(http://arstechnica.com/science/2016/10/2200-years-ago-in-turkey-this-insane-rental-agreement-was-inscribed-in-stone/)、レンタル奴隷の件への銘文の言及はない・・・。

石碑洗浄中

 2019年9月:トルコ西部カラジャスの古代都市アフロディシアス発見の、これまでになく多くの断片からなるディオクレティアヌス最高価格令勅令(https://call-of-history.com/archives/21846)。これはイギリス隊なので早晩公表予定とされているが。

これだけで勅令全文とは思えないのだが・・・
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名誉除隊証明板diploma出土をめぐって

 前年年末にトルコ南東部のアドゥヤマン県にある古代都市ペッレPerre(ないし、Perrhe / Pirin)から1898年前の青銅製の「名誉除隊証明板」 diploma 発見の報告がなされた。

 このかつてのコンマゲネ王国の5大都市のひとつは、2001年以降断続的に発掘調査がおこなわれ、ローマ時代の水道や噴水、155平方メートルの床モザイク、それに岩をくり抜いた様々な建築物が出土している(https://www.youtube.com/watch?v=kFzflnFUXEU)。この町はMelitene (Malatya) と主都 Samosata (Samsat)を結ぶ街道筋に位置していたし、325年のニカイア公会議に当地の司教も参加しているので、地政学的にも宗教的にも重要でそれなりに栄えたが、ビザンツ時代になると重要性を失い、再び興隆することはなかった。

小アジア半島の根本にコンマゲネ地方、中央のADIYAMANの直ぐ北の赤字のPerreがそれ

 「名誉除隊証明板」diplomaとは、元首政下(後52-3世紀末)で非ローマ市民が補助軍Auxilia、海軍、皇帝特別警護騎兵連隊equites singulares Augusti、帝都治安維持大隊cohortes urbanaeに採用されて、25(海軍は26)年間の兵役を終えて満期除隊したことを証明するもので、ラテン語で書かれており、ローマ市民権を保証するもの。ローマ正規軍の軍団兵たちlegionesはローマ市民が採用されていたので基本発行されていないし、212年のカラカラッラ帝発布「アントニニアーナ勅令」で全帝国の自由身分にローマ市民権付与されて後は不要となったが(現段階で知られる補助軍の最後のそれは203年発行;但し帝国居住民以外が採用された海軍、皇帝特別警護騎兵連隊、帝都治安維持大隊には3世紀末まで発行され続けた)、今回のものは皇帝ハドリアヌス時代の後123年にシリアで軍務に従事したCalcilius Antiquusに付与されたもの(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/12/1898-year-old-bronze-military-diploma.html)。

 銘文の読み下しが公表されていないようで内容は確かめることできない。発掘者の言として、この種の証明板は10万部は作成されたと思われるが(cf., Wikipedia:私的にはもっとだろうと納得いかない)、大部分は最終的には炉で溶かされてしまい(所有者の没後にだろうが)、現在800部しか発見されておらず、うち650部が研究されてきた、などと紹介されている。

https://arkeonews.net/a-2000-year-old-bronze-military-diploma-was-discovered-in-turkeys-perre-ancient-city/

 ディプロマには、発行日の皇帝護民官職権回数、執政官名、属州総督名、同時に一括発行された補助軍名(4−25記載の例あり)が記載されているので、当時の各州の補助軍配備を知る重要なデータだった。受領兵士個人の記録としては、所属連隊名、連隊長名、受領兵士の階級、姓名、出身地、妻の名前とその父の名前と出身地、市民権を得た子供の名前が書かれていた(基本本来現役中に持てなかったはずの妻や子をめぐっての詳細については、とりあえず以下参照:http://www.romancoins.info/MilitaryDiploma1a.html)。

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ローマでテラコッタ製の犬の置物出土

 タイムリー的に今年が戌年でないのが残念である。今回の置物を年賀状に利用するにはあと8年待たねばならないが、果たして生きているだろうか。無理だろう。

 2022/1/1発信:ローマではよくあることだが、アウレリアヌス城壁のポルタ・ラティーナ門から南に1マイルのルイジ・トスティ通りVia Luigi Tostiで、電力会社Acea社のパイプ敷設工事中に、地表からたった50cm掘ったところから、2,000年前に建てられた葬祭施設に属する3つの構造物が発見され、考古学調査がおこなわれた。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2022/01/work-on-romes-water-system-uncovers.html

 これらの墓は、紀元前1世紀から紀元後100年の間に、ローマ最古の道路の1つであるラティーナ通りVia Latinaに沿って建てられていたが、現代の遺跡保存の法律が登場する前の地下公共工事によって損傷を受けていた由。

Via Luigi TostiとVia Latinaの交差点付近にある発掘現場

 3つの墓はいずれもコンクリートの土台の上に建てられている。1つは黄色凝灰岩の壁、2つ目は網目状opus reticulatum(菱形の凝灰岩のレンガ)の構造で、3つ目の墓は火災の痕跡がある基部だけが残っていたという。

 また興味深い出土品として、骨片と犬の頭のテラコッタの置物が入った無傷の陶器の骨壷を発見した。手のひらに収まるほどの小さな犬の胸像は、ドムスのアトリウムの天井部分のcompluviumに設置された吐水口の装飾部品に似ているが、水を通す穴が開いていないので、純粋に美的な目的のために作られたものだと思われる。なにぶん小型なので、犬種を特定するには至らなかったようだが、ローマ人はペットとして、また財産や家畜を守るために犬を飼っており、人気のある犬種の一つに古代ギリシアから来た大型犬のモロシアンハウンドがある。また、アイリッシュ・ウルフハウンド、グレイハウンド、ラーチャー、マルチーズなど、現代の犬に似た外見の犬も飼っていたらしい。

これが今回出土の塑像
吐水口に使用された場合はこんな感じ:後1世紀初期

 その他に、大量の色のついた石膏の破片や、近くから地面に埋まっていたと思われる若い男性の遺体も発見されたとのこと。都市郊外の街道沿いといえば墓地群なのに、墓地に埋葬されていないとすればなぜなのか、否応なしに想像力が刺激される。犯罪の被害者か、それとも奴隷だったのか。

 ところで、ポンペイ遺跡からは番犬のモザイクが出土し、そこに「cave canem」(猛犬注意)というキャプションが埋め込まれていたりするが、この警告は、実際には訪問者のため(あるいは歓迎されない者への抑止力として)ではなく、足元で危険にさらされる可能性のあるデリケートな小型犬を守るためのものだったのではないかと主張する学者もいる由だが、下図のような獰猛そうなモザイクを見る限り、私を納得させることはできそうもない。

しかし、ポンペイのCaecilius Iucundusの家(V.1.26)の犬ならありかも:「cave canem」の警告はないが暗黙の内に「おとなしい犬がいますのでご注意くださいね」という表示にはなっていたかも。

https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-10364395/Archaeology-Funerary-complex-dating-2-000-years-dug-Rome-included-dog-statue.html

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Meta Sudansの3D

 他をググっていたら、もっともらしい復元想像図を見つけてしまったので、紛れて失念しないうちにアップしておきます。新味は噴水として水の流れがちゃんと表現されていることで、3Dも年々もっともらしくなりますね。

https://gigazine.net/gsc_news/en/20210203-rome-in-3d/

 以下、参照。「太陽神としてのネロ貨幣」(2020年4月11日)

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古代ローマ船着き場の秘密・係留装置:オスティア謎めぐり(19)

 厳密にはオスティアでは未だ見つかっていないのだが、忘れないうちに。

 現在、ローマのカピトリーニ博物館で修復完了展示会がおこなわれている「トルロニア大理石」展であるが、以下はトルロニア博物館所蔵の「Portus 風景のレリーフ」。色々と謎に包まれた意味深な作品であるが(たとえば、今まさに港内に到着した左の大きな船と、うり二つの右の接岸して帆を下ろしたやや小ぶりな船は遠近表現による同一の船と考えられる、等々など:これもいずれ触れたかったテーマだ)、今はその右下隅にご注目いただきたい。

左のレリーフの欠損部分を付加補正した図が右画像である。

  右隅に四角の石(補正図では平たい丸石に変じているが)に丸い穴がみえるだろう。今日はこれが課題である。実は同様のものがポンペイやPortusで見つかっているのだ。

が、ポンペイのマリーナ門外浴場の西に広がる風景、はポルトゥスからの出土物

 レリーフの石も、これら長方形に丸穴のものも同一で、特にポンペイの段丘状の構造物はずらりと並んでいて、そこがかつての船着き場で、そこまで海が接してきていたわけである。で、あの石と穴は要するに接岸した船の係留装置ということになる。私は他に、帝都ローマのテヴェレ川左岸のEmporiumやリビアのLeptis Magnaで同様のものを目撃している。

Roma, Emporium ここを歩く時は女性は一人を避けたほうがいい:https://exhibits.stanford.edu/nash/catalog/ry842qz2076
Libya, Leptis Magna こっちは珍しくたて穴だ:https://www.ancientportsantiques.com/a-few-ports/leptis-magna/

  ポンペイのようにずらりと並んでいる様子から、当時の船の接岸方法は現在のように横付けではなく、船の先端部で係留されていたと想像するのが自然かと。その場合、船尾からは錨が海に投げ落とされたはずである(もちろん横付けしてその近くの係留装置にロープで固定する可能性も否定できはしないが)。

Leptis Magnaの港の想像図:船舶は船首か船尾かはともかく、横付けされていない

 従って埠頭に横付けした以下のような復元図は一般論としては疑問となる。この図では、右端にみえる件の係留装置はもっともらしく小舟用として描かれているが、これでは小舟からの人員や物資の荷揚げなどどうしていたというのだろうか。かくのごとく二次元だとなんでも可能となるが。

THROCKMORTON, P. (1987). The Sea Remembers: From Homer’s Greece to the Rediscovery of the Titanic. London.

 この接岸について実際にはどうかというと、当時の画像諸資料ではどうやら船首での接岸だったようで、そこに移動式と思しきタラップが描かれている。次のヴァティカン博物館所蔵のフレスコ画では船首からの荷揚げ作業を描いている。

 以下は、Portus出土のレリーフで、これまたTorlonia博物館所蔵。左に見えている帆の形から、コビタ船の船首部分のフォアマスト(アーテモン)と想定していいと判断してなのだが、いかが。

https://www.ostia-antica.org/vmuseum/marble_reliefs.htm

 他にも、トラヤヌス円柱のレリーフとかシケリアのウィッラ・アドリアーナのモザイクとかで同様の描写を得ることができるだろう(もちろん、船尾からと描かれている事例も混じっているが)。この悉皆調査ももう若い人にお任せせざるを得ないが。

【補論】ポンペイのPorta Marina近くの係留石群については、最近の研究であそこが港ではない、という見解も出ていることを知った。じゃあ、なんなんだあれは。後日より詳しく触れることできればと思う。cf., Descoeudres, J.P, The  so-called quay wall north-west of Pompeii’s Porta Marina, Rivista di Studi Pompeiani, 9, 1998, pp.210-217.

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