いずれも打刻場所は上パンノニア(現クロアチア)のSiscia造幣所、打刻時期もいずれもコンスタンティヌス大帝時代に属する317-318年と大帝晩年の334-335年にあたるが、となると、317-318年のほうはリキニウス統治時代となる。これらは、大帝(272?-:在位306−337)と父コンスタンティウス1世・クロルス(250?-:在位293-306)、そして大帝が祖先としたとされるクラウディウス・ゴティクス(214?-:在位268-270)を表面に打刻しているので、コンスタンティヌス朝の始祖(伝説上にしろ:SHA, v. Claud. 13.1-3)を含めての3名の揃い踏みなので(但し大帝のコインの表面の像はコンスタンティノポリスであって大帝ではない)、つい (^^ゞ。
Louis Duchesne, Le Liber pontificalis, tom.1, Paris, 1886(https://books.google.co.jp/books/about/Le_Liber_pontificalis.html?id=_gAXCJUWI0UC&redir_esc=y ; https://archive.org/details/duchesne01/page/n429/mode/1up?view=theater#page/n337/mode/1up)
翻訳:
Louise Ropes Loomis, The Book of the Popes, New York, 1916(https://books.google.co.jp/books/about/The_Book_of_the_Popes.html?id=Q3CxAAAAMAAJ&redir_esc=y)
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Nathalie Desgrugillers, Liber Pontificalis 1.Des Origines au pontificat de Sylvestre (30-355), L’Éncyclopédie médiévale, 2012:発注中
参照辞書:
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Mediae Latinitatis lexicon minus, Leiden, 1984.
猊下の聖性の栄光に鑑み、我ら謹んで次のごとく哀願いたします。我らが猊下の聖性のおかげで司られることを知ったところの使徒座の apostolicae sedis(権威)に基づき、これに対し深く頭を垂れて hoc curui、我らは祈ります、祝福された beati 使徒ペトルスの首位権の(時代)から、猊下の(使徒)座の中で行われた猊下たちの諸時代までずっと usque ad 諸事績を、平和の秩序のために、我らに詳述するのを猊下が決心させられますように、と。我ら謹んで、上述の聖座 sanctae sedis の諸司教のうち誰が殉教の冠を得たか、それどころか uel 誰が諸使徒の諸規範に canones 反して逸脱したかさえ知られているのかを、思量することを知る限りにおいて、我らのために祈りたまえ、至福なる beatissimae 教皇(猊下)よ。
首都ローマ司教ダマススが、司祭ヒエロニムスに(与う)。
貴下の(知識の)泉によって満たされた教会は喜び、そしてより多く、諸々の時代の祭司職の sacerdotalis 好奇心は以下を渇望するものである、すなわち、何が価値あるものかが知られ、そして何が無価値であるので退けられるべきかを。さらに tamen 何がなされるのか、我らがみつけえたものが何かを、我らの(聖)座の sedis 研究を、汝の隣人愛において享受することを、我らは(これまでも)導いてきたのである。我らのために(キリストの)聖なる復活のゆえに祈りたまえ、兄弟よ、同僚司祭よ。ご機嫌よう Vale、我らの主、神、キリストにおいて。五月二十三日に与う。十月二十六日に受領、ローマからヒエロソリマに送付(書簡)。
第一章 ペトルス PETRVS [- 64/67年]
1. 祝福された beatus ペトルス、使徒にして使徒たちの筆頭者 princeps、アンティオキアの人、ヨアンネスの息子、ガリラヤ属州のベトサイダ村 vico(出身)で、アンドレアの兄弟が、最初 primum アンティオキア内で司教のカテドラに cathedram 七年の間着座した sedit。このペトルスは帝都ローマに皇帝ネロの時に入って、そこで ibique 司教のカテドラに cathedram 二十五年二か月三日間着座した sedit。それはまた fuit autem 皇帝ティベリウスの、そしてガイウスの、そしてティベリウス・クラウディウスの、そしてネロの諸時代である(後一四-六八年)。
2. 彼は、二つの書簡を epistulas 書いた、それらは公同 catholicae(書簡)と呼ばれている、そしてマルクス(マルコ)の福音書を(書いた)。なぜならマルクスは彼(ペトルス)の聴聞者 auditor であった、そして受洗によって(ペトルスの)息子だったので、その後 post (マルクスの福音書は)四福音書すべての源泉で、それらが吟味された ad interrogationemとき、そして彼の証言によって testimonio、それはペトルスのそれであり、あるものはギリシア語、あるものはヘブライ語、あるものはラテン語で表明されていても consonent、さらに tamen それらは彼の証言によって testimonium 立証されたのである sunt firmatae。
1. リヌスは、生まれは nationeトゥスキア[エトルリア]街区 regionis Tusciaeのイタルス(イタリキ=イタリア)人 Italusで、父はヘルクラヌス Herculano、(司教座に)十一年三か月十二日間着座した。それはまた autem ネロの諸時代(五四-六八年)、Saturninus とScipioの執政官職(後五六年)から CapitoとRufusが執政官職(後六七年)に至るまでずっとで usque ad、殉教により花冠を受ける。
2. 彼は、祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、女性は教会内では in ecclesia 頭部をヴェールで覆って入るべしと定めた constituit。彼は、二回の叙階式で、司教十五名、司祭十八名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに iuxta corpus beati Petri、ウァティカヌス(の丘)の中に in Vaticano、九月二十三日に埋葬された。
第三章 クレトゥス CLETVS [Anencletus, c.85年]
1. クレトゥスは、生まれはローマ人で、パトリキウス街 vico Patricii 出身で、父はアエミリアヌス Aemiliano、(司教座に)十二年一か月十一日。それはまた autem ウェスパシアヌスとティトゥスの諸時代(六九 〜八一年)、ウェスパシアヌス七回目とドミティアヌス五回目の執政官職(七七年)からドミティアヌス九回目とルフスが執政官職(八三年)に至るまでずっと usque ad だった。(彼は)殉教により花冠を受ける。
2. 彼は祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、司祭二十五名を首都ローマで urbe Roma 叙階した ordinauit。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 四月二六日に埋葬された。そして司教職は二十日間空座だった。
第四章 クレメンス一世 CLEMENS I [c.95年]
1. クレメンスは生まれはローマ人で、ケリオモンティウム(=Caelimontium、下図の第二) 街区 regione (出身)で、父はファウスティヌス、(司教座に)九年二か月一〇日間着座した。
それはまた autem ガルバとウェスパシアヌスの諸時代に(六八〜七九年)、トラカルスとイタリクスの執政官職(六八年)からウェスパシアヌス第九回目とティトゥス[第七回目執政官職](七九年)に至るまでずっと usque adだった。彼はその間 dum 多くの書物を libros キリスト教の信仰の熱意により書き記したが、殉教により花冠を受ける。
3. 彼は二通の書簡を epistulas 書いた。それらは公同 catholicae(書簡)と呼ばれている。彼は祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、教会の司牧職を pontificatum 舵取りすべく授かった。ちょうど sicut 彼(ペトルス)に主イエス・キリストからカテドラが託されていた、それどころか uel 委ねられていたごとく。さらに tamen ヤコブに対して書かれた書簡の中で in epistula、等しく qualiter 彼に祝福されたペトルスによって教会が委ねられたことをあなたはみつけ出すであろう。それゆえに ideo そのために propterea リヌスとクレトゥスが彼(クレメンス)以前に登録されており、こうして eo 使徒たちの筆頭者である彼自身から、交付さるべき聖職的な職務へと ad ministerium sacerdotale、司教たちは叙階されているのである。
4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭一〇名、助祭二名、様々な場所のため司教十五名(の叙階)を執り行った fecit。彼は殉教者としてトラヤヌスの(執政官職)三回目に逝去した(後一〇〇年)。かくして etiam 彼はギリシア人たち(の地)に十一月二四日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。
2. 彼は、祝福されたペトルスの記念碑を memoriam[サン・ピエトロ大聖堂地下から出土したカンポPの祠のことか]建設した、そして、彼は祝福されたペトルスによって司祭にされていた間に dum、あるいは seu 司教たちが安置されるべき他の諸々の埋葬場所を配置した conposuit。そこにさらにとはいえ ubi tamen et、彼自身も埋葬された、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、七月十三日に。
1. エバリストゥスは生まれはギリシア人で、父はユダヤ名でユダス、ベツレヘム市出身で de ciuitate Bethleem、(司教座に)九年十か月二日着座した。それはまた autem ドミティアヌスとネルウァ・トラヤヌスの諸時代(八一〜一一七年)、ウァレンスとウェトゥスの執政官職(九六年)からガルスとブラドゥアに(一〇八年)至るまでずっとusque ad だった。彼は殉教により花冠を受ける。
2. 彼は、首都ローマ内の諸々の名義教会を titulos 司祭たちに割り当て、そして七名の助祭たちを叙階した、彼らが真理の鉄筆のために propter stilum ueritatis 説教する praedicantem 司教に近侍するためだった[司教の説教を速記するためだったのだろうか;それに以下に示される叙階助祭と数が異なっていることにも注目]。
3. 彼は十二月に三回の叙階式で、十七名の司祭、二人の助祭、様々な場所のため十五名の司教たち(の叙階)を執り行った fecit。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum、一〇月二七日に埋葬された。そして司教職は十九日間空座だった。
第七章 アレクサンデル ALEXANDER [c.110年]
1.アレクサンデルは生まれはローマ人で、父はアレクサンデル、カプト・タウリ街区の出だったが de regione Caput tauri[教皇レオ八世作成の文書に、「雄牛の頭地区(ティブルティーナ門)」が明記されている]、(司教座に)一〇年七か月二日着座した。それはまた autem トラヤヌスの諸時代から(九八〜一一七年)へリアヌスHelianoとウェトゥスVetere(の執政官職の時:一一六年)に至るまでだった。
3.彼は十二月に三回の叙階式で、六名の司祭、二名の助祭、様々な場所のため五人の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam ヌ[ノ]メンタナ街道 uia Numentana に埋葬された。彼はそこで首をはねられた decollatus est、首都ローマからさほど遠くない第七里程標で、五月三日のことだった。そして司教職は三十五日間空座だった。
第八章 クシュストゥス一世 XYSTVS I [c.120年]
1.クシュストゥスは、生まれはローマ人で、父はパストル、ラタ通り街区[上図のVII]出身で de regione Via Lata、一〇年二か月一日着座した。それはまた autem ハドリアヌスの諸時代(一一七〜一三八年)、ウェルスとアンニクルス(の執政官職:一二六年)に至るまでずっとのことだった。彼は殉教により花冠を受ける。
2.彼は、以下を定めた constituit。諸々の聖具 ministeria sacrata は奉仕者たち ministeris 以外によって触れられてはならない、と。彼は以下を定めた constituit。使徒座へと召喚された司教たちは誰でも、自らの司教区へと parrociam 帰ることは、フォルマータ forumata なる市民宛ての plebi 挨拶の salutationis 使徒座の書状を litteras 携えずには、受け入れがたい non susciperetur、と。
3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十一名、助祭四名、様々な場所のため司教四名を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum、四月三日に埋葬された。そして司教職は二ヶ月間空座だった。
4.彼は以下を定めた constituit。(ミサの)司式中に intra actionem、それを始めている聖職者は sacerdus、会衆に polulo (以下の)聖歌を唱和させるように、と。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主」Sanctus, sanctus, sanctus, Dominus Deus Sabalot[序誦中の文言]、そしてなどなど。
第九章 テレスフォルス TELESPHORVS [c.130年]
1.テレスフォルスは、生まれはギリシア人、隠修士出身で ex anachorita [= ἀναχωρητής]、(司教座に)十一年三か月二十一日着座した。それはまた autem アントニヌスとマルクスの諸時代のことだった(一三八〜一八〇年)。
2.彼は、以下を定めた constituit:復活祭前の七週間に断食が挙行され、そして主の御降誕では natalem Domini 夜間に noctu ミサ聖祭 missas が挙行されるように、と。というのも nam あらゆる時代において、誰も三時課[午前九時]より前に ante horae tertiae cursum ミサ聖祭を missas 挙行することを企図しなかったのだが、(それは)その時間に我らの主が十字架にお登りになったからで ascendit、そしていけにえの前に ante sacrificium 天使の讃歌 hymnus angelicus[栄光頌(グロリア)のことか]、すなわち hoc est:「天のいと高きところに神に光栄あれ」Gloria in excelsis Deo が奉献された diceretur。彼は殉教により花冠を受けた。
3.彼は、たしかに uero 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 一月二日に埋葬された。彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭八名、様々な場所のため司教十三名を(任命した)。そして司教職は七日間空座だった。
第十章 ヒギヌス YGINVS [c.140年]
1.ヒギヌスは、生まれはギリシア人、アテナエ出の哲学者の出で、彼の系譜は判明していない。(司教座)に四年三か月四日着座した。それはまた autem ウェルスとマルクスの諸時代(一六一〜一八〇年)、マグヌス[執政官表ではCanus Iunius Niger]とカメリヌスの執政官職(一三八年)からオルフィトゥスとプリスクス(一四九年)にいたるまでずっとだった[明らかに数字が合わない]。
2.彼は牧者(階級)を clerum 規定し conposuit、諸々の段階を gradus 割り当てた distribuit。彼は、十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十五名、助祭五名、様々な場所のため司教六名を(任命した)。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 一月十一日に埋葬された。そして司教職は三日間空座だった。
1. ピウスは、生まれはイタルス(イタリア)人で、父はルフィウス、バルトルの兄弟で、アクイレギア(アクイレイア)市の出身で de ciulitate Aquilegia、(司教座に)十九年四か月三日、着座した。それはまた autem アントニヌス・ピウスの諸時代(一三八〜一六一年)、クラルスとセウェルスの執政官職(一四六年)からであった。
†4. 彼は、祝福されたプラクセデスの要請により、ひとつの教会をノウァトゥス浴場に奉納した dedicauit、それはパトリキウス街に uico(cf., chap.III.1)あり、彼女の姉妹の聖ポテンティアナの名誉のため、そしてそこに ubi et 彼(彼女?)は多くの寄進を提供した dona obtulit[次に出るのは34.19以降]。彼はそこに ubi より煩瑣に sepius 主に捧げる犠牲を sacrificium[ミサ聖祭のことか]奉仕した ministrabat。そしてそれどころか inmo et 洗礼盤を fontem baptismi 組み立てさせて construi fecit、彼自身の両手で manus suas 祝福しbenedixit そして聖別した consecrauit。そして信仰のためにやって来た多くの人々を、三位一体の名において授洗した。
5. 彼は十二月に三回の叙階式で、十九名の司祭、二十一名の助祭、様々な場所のため数にして numero 十二名の司教たち(の叙階を)を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 、七月十一日に埋葬された。そして司教職は十四日間空座だった。
第十二章 アニケトゥス ANICETVS[c.160年]
1.アニキトゥス Anicitus は、生まれはシルス(シリア)人で、父はヨハンネス、フミサ村 uico Humisa[Emesaかもしれない;cf., 第一章第一節]出身で、(司教座に)十一年四か月三日、着座した。それはまた autem セウェルスとマルクスの諸時代(?〜一八〇年)、ガッリカヌスとウェトゥスの執政官職(一五〇年)からプラエセンスとルフィヌスに至るまでずっとであった(一五三年)。
2.彼は、聖職者は clerus 髪を手入れしてはいけないと定めた constituit、使徒(s.)の指示に praeceptum 従ってのことだった。彼は十二月に五回の叙階式で、十九名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にして numero 九名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam 殉教者として逝去し obiit、そしてカリストゥスの Calisti 墓地に cymiterio 四月二十日に埋葬された。そして司教職は十七日間空席だった。
第十三章 ソテル SOTER [c.170年]
1.ソテルは、生まれはカンパニア人で、父はコンコルディウス、フンディ市出身で ciuitate、(司教座に)九年四か月二十一日、着座した。それはまた autem セウェルス[正しくは、ルキウス・ウェルスか]の諸時代(一六一〜一六九年)、ルスティクスとアクイリヌスの執政官職(一六二年)からカテグスとクラルスに至るまで(一七〇年)ずっとであった。
3.彼は十二月に三回の叙階式で、十八名の子細、九名の助祭、様々な場所のため数にして numero 十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道にあるカリストゥスの墓地に、四月二十二日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。
第十四章 エレウテリウス ELEVTHERIVS [c.180年]
1.エレウテルは、生まれはギリシア人で、父はハブンディウス、ニコポリスの町出身で de oppido、(司教座に)十五年三か月二日着座した。彼はまた autem アントニヌス(=マルクス)とコンモドゥスの諸時代(一六一〜一九二年)、パテルヌスとブラドゥスの執政官職(一八五年)に至るまでずっとだった。
2.彼は、ブリタニア人の王 Britanio rege ルキウスから一通の書簡で epistula 、(それはルキウスが)彼(エレウテル)の命令によって mandatum キリスト教徒とされるように(という内容を)受け取った。そして彼は以下を再度 iterum 確認した firmauit、いかなる食物もキリスト教徒たちによって、特に maxime 信心深い者たちによって fidelibus 退けられるべきではない、なぜなら神が創造したものであるから、それはさらに tamen 理にかなっており rationalis、そして人間のためのもの humana だからである、と。
3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十二名、助祭八名、様々な場所のための数にして十五名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内に in Vaticano、五月二十四日に埋葬された。そして司教職は十五日間空座だった。
1. ゼフィリヌスは、生まれはローマ人で、父はハブンディウス、(司教座に)八年七か月十日間(着座した)。それはまた autem アントニヌス(=コンモドゥス)とセウェルス(=カラカッラ)の諸時代(一八〇〜二一七年)、サトゥリヌスとガリカヌスの執政官職(後一九八年)からプラエセンテスとストリカトゥスの執政官職(二一七年)に至るまでずっとだった。
3. 彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭七名、様々な場所のために数にして十三名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam、彼の墓地に cymiterio 埋葬された。[それは]アッピウス街道のカリストゥスの墓地の傍らで iuxta cymiuterium、八月二十五日のことだった。そして司教職は六日間空座だった。
第十七章 カリストゥス一世 CALISTUS I [217-222年]
1. カリストゥスは、生まれはローマ人で、父はドミティウス、ウルブス・ラウェンナンティウム街区の出身で de regione Urberauennantium[第十四街区のトラステウェレ内で、ラウェンナからの移住者居住にちなんだ地区か]、(司教座に)六年二か月十日間着座した。それはまた autem マクリヌスとテオドリオボッルス Theodoliobolli (=ヒエロガバルス)の諸時代(二一七〜二二二年)、アントニヌス(=ヒエロガバルス)とアレクサンデル(・セウェルス)の執政官職(二二二年)からであった。彼は殉教により花冠を受ける。
2. 彼は断食を ieiunium 安息日(=日曜日のことか)に die sabbati 年三回することを定めた constituit、それは穀物、ワイン、そしてオイル(断ちのこと)で、予言に従ってのことだった。彼はバシリカをティウェレ川の向こう側に建設した[この聖堂はサンタ・マリア・イン・トラステウェレと思われる]。
4. 彼はかくして etiam アウレリウス街道の第三里程標にあるカレポディウスの墓地の中に in cymiterio Calepodi 十月十四日に埋葬された。彼は別の墓地をアッピウス街道に建設した、そこには多くの聖職者たち sacerdotes と殉教者たちが永眠している。そこは qui 今日に至るまで usque in hodiernum カリストゥスの墓地と呼ばれている。そして司教職は十六日間空座だった。
3. 彼はかくして etiam 明確に(信仰)告白者 confessor で、(彼は)ディオクリティアヌスの Dioclitiani 諸時代だった[ディオクレティアヌスの迫害期の告白者ウルバヌスとの混同による時代錯誤表記]。彼は彼の(教えの)授受によって sua traditione 多くの人々を改宗させた conuertit、洗礼と信仰箇条へと(導き)ad baptismum et credulitatem(= XV.2)、かくしてそして etiam et 最も高貴な男性ウァレリアヌス、聖カエキリアの婚約者をも(洗礼に導いた)。彼らを彼はかくして etiam 殉教の棕櫚へと palmam 至るまでずっと導いた;そして彼の諸々の戒めによって per eius monita 多くの者たちが殉教により花冠を受けた。
4. 彼は五回の叙階式を十二月に、(ローマ教会の)司祭十九名、助祭七名、様々な場所のための司教たち数にして八名(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道にあるプラエテクスタトゥスの墓地[XVII.4参照]に埋葬された、彼を祝福されたティブルティウスが五月十九日に埋葬した。そして司教職は三十日間空座だった。
3. この後、司教コルネリウスは、ケントゥムチェッラエ(現在のCivitavecchia)に追い出された pulsus est。そしてそこで ibidem 彼の激励のために書かれ送られた一通の書簡を epistulam キプリアヌスから受け取った。それをキプリアヌスは牢獄の中で書いた。そして読師 lecture ケレリヌスによって(もたらされたのである)。
4. 彼は、彼の諸時代において、ある既婚婦人ルチナによって懇請され、祝福された使徒たちペトルスとパウルスの遺骸を夜間にカタコンベから持ち去った。最初に primum まさに quidem 祝福されたパウルスの遺骸が受け取られ、祝福されたルチナは(それを)オスティエンセ街道にある彼女の地所に praedio suo 供えた posuit。それは(パウルスが)首をはねられた decollatus est そこの場所の傍らで iuxta locum ubi。祝福されたペトルスの遺骸を祝福された司教コルネリウスは受け取り、そして(ペトルスが)磔にされた場所の傍らに供えた。彼(コルネリウス)は、聖なる司教たちの遺骸の間に、ネロの宮殿のアポロ神殿内、ウァティカヌス(丘)の中のアウレウスの丘の中に(埋葬された)[以下参照、第一章6]、六月二十九日のことだった。
5. この後、(コルネリウスは)夜間にケントゥムケラエへ歩いて行った ambulavit。同じ時に、デキウスは聞いた、彼(コルネリウス)について、カルタゴ司教の祝福されたキプリアヌスから一通の書簡を epistolam 受け取っていたことを。(デキウス)はケントゥムケラエに(使者を)送り、そして祝福された司教コルネリウスを(ローマへ)連行した exhibuit。彼がさらに tamen 自分(デキウス)の面前に来るように、と命じた。テッルスで Tellure、夜間にパッラディス Palladis の神殿前で、と。彼へと(デキウスは)たいそう近づいて言う。「神々も、父祖たちの命令も顧みず、我らの脅しも怖れることなく、国家に敵対して書状を litteras 受け取り、そして(そのように)導いたのはお前か」。司教コルネリウスは答えて、言う「私は主の花冠に関して書状を litteras 受け取りましたが、国家に対してではなく、むしろ magis 諸々の魂の贖いへと(導いた)のです」。
6. そのとき tunc、デキウスは怒りで満たされ、祝福されたコルネリウスの口を諸々の鉛玉のついた鞭で打つように命じ、そして彼をマルス神殿へと引っ立てて caedi、そして(彼が)礼拝するように指示した praecipit。だが、もしそのようにしなかったなら、斬首するぞ capite truncari と言って。このことはまた autem 行われた。彼はかくして etiam 上述の場所で首をはねられ decollatus、そして殉教が成し遂げられた。彼の遺骸を夜間に祝福されたルチナが集め、そしてカリストゥスの墓地の傍らの地下礼拝堂に crypta 埋葬した、(その礼拝堂は)アッピウス街道の彼女の地所に in praedio suo あった。九月十四日のことだった。そして司教職は六十六日間空座だった。
第二十三章 ルキウス LVCIVS [253-254年]
1. ルキウスは、生まれはローマ人で、父はプルフリウスで、(司教座に)三年三か月三日間(着座した)。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem ガッルス(執政官職第二回目)とウォルシアヌス(が執政官職の年:二五二年)の諸時代から、ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(Gellienusの誤記:二五五年)に至るまでずっとusque ad であった。
2. 彼は追放された in exilio fuit;その後 postea 神のご意向によって nutu Dei、無傷で incolumis 教会へと帰還した reuersus est。
3. 彼は、司祭二人と助祭三人はいかなる場所であっても司教を見放してはならない、と指示した praecepit、それは聖教会の証言のためだった propter testimonium ecclesiasticum。彼はかくして etiam ウァレリアヌスによって三月五日に斬首された capite truncatus est。
4. 彼は(ローマの)凡ての教会への omni ecclesiae 権能を彼の助祭長 archidiacono ステファヌスに与えた dedit、彼(ルキウス)が受難へと進んでいる間に。
5. 彼は十二月に二回の叙階式で、四名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にして七名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地に八月二十五日に埋葬された。そして司教職は三十五日間空座だった。
第二十四章 ステファヌス一世 STEPHANVS I[254-257年]
1. ステファヌスは、生まれはローマ人で、父はヨビウス、(司教座に)七年五か月二日間(着座した)。それはまた autem ウァレリアヌスとガッリカヌスとマクシムスの諸時代から[二五四年と、二五三ないし二五六年]ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(執政官職)第二回目[二五五年:この章での年代表記は混乱している]に至るまでずっとであった。
†2. その諸時代に、彼は追放されたが exilio est deportatus、その後 postea 神のご意向によって、教会へと無傷で incolomis 帰還した。そして三十四日目後に、彼はマクシミアヌスによって捕らえられ tentus、牢獄へと送られたのだが missus est、それは九名の司祭たち、二名の司教、ホノリウスとカストゥス[この両名はなぜか対格表示]、そして三名の助祭クシュストゥス、デイオニシウス、ガイウスを[ここでも対格表示]伴ってのことだった。ちょうどその時 ibidem 彼は牢獄の中で、(そこは)ステラ門 ad arcum Setllae そばだったが、(そこで)会議を synodo おこない、そして教会のすべての用具について uasa 彼の助祭長クシュストゥスに、権限を与えたばかりか uel dedit、金庫についても arcam pecuniae そうしたのだった。そしてその四日後に、彼自身は監視下で sub custodia 軟禁状態から sig 出ていって exiens、斬首された capite truncatus est[cf., XXII.6 ; XXIII.3]。
4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭六名、助祭五名、様々な場所のために数にして三名の司教たちの(叙階を)執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地に八月二日に埋葬された。そして司教職は二十二日間空座だった。
第二十五章 クシュストゥス二世 XYSTVS II [257-258年]
1. クシュストゥス(シクストゥス二世)は、生まれはギリシア人、哲学者の出で、(司教座に)一年一〇か月二十三日間(着座していた)。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem ウァレリアヌスとデキウスの諸時代で、この(デキウスの)時代に最大の迫害があった。[ここでは奇妙なことに、在位二五三-二六〇年のウァレリアヌスと在位二四九-二五一年のデキウス(21.1に初出)を逆転して記述している]
2. 同時に、彼はウァレリアヌスによって捕らえられ tentus、そして諸悪霊へ犠牲を捧げるべく連れて行かれた ductus。彼はウァレリアヌスの諸指示を praecepta 無視した;彼は斬首され capite truncatus est、そして彼とともに他に六名の助祭たち、フェリキッシムスとアガピウス、ヤヌアリウス、マグヌス、ウィンチェンティウス、そしてステファヌスが八月六日に(斬首された)。そして司祭たちは、マクシムスとグラウィオの第二回目(の執政官職:二五六年だとすると、執政官職第二回目はマクシムスのほう)から、トゥスクスとバッスス(二五八年)に至るまで、トゥスクスとバッススの執政官職から七月二十日に至るまでずっと、(教会を)管理した。この時代に最も厳しい迫害がデキウス下で苦しめた[記述が再度デキウス時代にさかのぼっていて、不可解]。
3. 彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭六名、様々な地のために数にして八名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地内に十二月二十七日に埋葬された。そして司教職は五日間空座だった。
第二十七章 フェリクス FELIX [269-274年]
1. フェリクスは生まれはローマ人で、父はコンスタンティウスで、(司教座に)四年三か月二十五日着座した。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem クラウディウスとアウレリアヌスの諸時代、つまりクラウディウスとパテルニウスの執政官職(二六九年)からアウレリアヌスとカピトゥリヌスの執政官職(二七四年)までずっとだった。
2. 彼は、先に supra 殉教者たちの諸記念ミサを memorias martyrum missas 挙行することを定めた constituit。彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭九名、助祭五名、様々な地のために数にして五名の司教たち(の叙階)を執り行った。
3. 彼はアウレリウス街道に in uia Aurelia ひとつのバシリカを basilicam 造り、そしてそこに五月三十日に埋葬された。それは首都ローマから二里程標(の所)にあった。そして司教座は五日間空座であった。
第二十八章 エウティキアヌス EVTYCHIANVS [275-283年]
1. エウティキアヌスは生まれはトゥスキアで、父はマリヌスで、(司教座に)一年一か月一日着座した。それはまたアウレリアヌスの諸時代、アウレリアヌス三回目とマルケリヌスの執政官職(二七五年)からカルス二回目とカリヌスが執政官職(二八三年)の十二月十三日までずっとだった。彼は、祭壇上で super altare 祝福される benedici 諸生産物は fruges(pl.) 豆とブドウに限る tantum fabae et uuae、と定めた constituit。
2. 彼は彼の諸時代に様々な地の三四二人の殉教者たちを彼手ずから埋葬した。そして彼は以下を定めた constituit、信者たちのうちだれでも(s.) quicumque de fidelium 殉教者を埋葬したとき、(華やかな)ダルマティカ dalmaticam(助祭用の祭服:下図左)や、紫で染めたコロビウムを colobium(希:κολόβιον = kolobion = short-sleeved tunic:下図右) 着せることなしに、理由なく埋葬していたら、そのことをさらに tamen 情報として彼(エウティキアヌス)に告知されるべきである、と。
3. 彼は、十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭五名、様々な地のために数にして九名の司教たち(の叙階)を執り行った。そして彼は殉教により花冠を受ける。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地の中に七月二十五日に埋葬された。そして司教職は八日間空座だった。
第二十九章 ガイウス GAIVS [283-296年]
1. ガイウス、生まれはダルマティア人で、(そこは)皇帝ディオクレティアヌスの一族の出であるが、父はガイウス、(司教座に)十一年四か月十二日間(着座した)。それはまた fuit autem、カリヌスの諸時代、十二月十七日、カルスの第二回(執政官職)とカリヌス(二八三年)から、四月二十二日のディオクレティアヌス第四回(執政官職)とコンスタンティウス第二回目(二九六年)に至るまでずっとであった。
1. マルケリッヌスは、生まれはローマ人で、父はプロイェクトゥス、(司教座に)九年四か月十六日間(着座した)。それはまた fuit autem、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの諸時代、六月一日のディオクレティアヌスの執政官職第六回目とコンスタンティウス第二回目(二九六年)から、ディオクレティアヌスの第九回目とマクシミアヌスの第八回目(三〇四年)に至るまでずっとであった。
2. その時代には以下のごとき大迫害が persecutio magna あった。三十日間で一万七千名の男女が promiscui sexus 様々な属州においてキリスト教徒たちとして、殉教により花冠を受けた。このことによって、そしてマルケリッヌス自身が、香を捧げるべく犠牲へと導かれ ductus est、それをやってしまった。
3. そして数日後に、改悛へと導かれ paenitentiam ductus、同じくディオクレティアヌスによってキリスト教信仰のために、クラウディウス、キュリヌス、アントニヌスと共に首を切り落とされ capite sunt truncati、そして彼らは殉教の花冠を受ける。
4. そしてそれが行われた後、聖なる諸遺体は路上に in platen キリスト教徒たちへの見せしめに exemplum 二十五日間、ディオクレティアヌスの布告により iussu、放置された iacuerunt。そして続いて exinde 司祭マルケッルスは、夜間に諸遺体を司祭たちや助祭たちと共に、諸々の賛美歌と共に集め、そしてサラリア街道にあるプリスキッラの墓地[冒頭地図1参照]の中に、今日もなお hodiedum ずっと公開されているクビクルムの中に in cubiculum 埋葬した。(それは彼が)殺害へと連れて行かれていた traheretur 間に、改悛した彼自身が(そうするようにと)命じたとおりに、聖クリスセンティオの遺体のすぐ近くの地下礼拝堂内に in crypta (司祭マルケッルスが埋葬した)、四月二十五日のことだった。彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)四名の司祭、二名の助祭、様々な場所のために五名の司教たち(の叙階)を執り行った。その同じ日から、司教職は七年六か月二十五日間空座だった。ディオクレティアヌスがキリスト教徒たちを迫害したからである。
第三十一章 マルケッルス MARCELLVS [308-309年]
1. マルケッルスは生まれはローマ人で、父はベネディクトゥス、ラタ通り街区(出身)で regione 、(司教座に)五年七か月二十一日着座した。それはまた fuit autem マクセンティウスの諸時代、マクセンティウス第四回目そしてマクシムスの執政官職から(その)執政官職後までずっとだった usque post consulatum[この表現は意味不明]。
2. 彼はノヴェッラの墓地をサラリア街道に建設し、そして首都ローマ内に in urbe Roma 二十五の名義教会を定めた constituit。(これらは)管区 dioceses に準じるもので、異教徒たちから改宗させられる多くの人々の洗礼と改悛のために、そして殉教者たちの埋葬のためである propter sepulturas martyrum。彼は、首都ローマの in urbe Roma 司祭二十五名、そして助祭二名を十二月に叙階し、諸々の地のために二十一名の司教たちを叙階した。
*https://romanchurches.fandom.com/wiki/San_Marcello_al_Corso:カタブルム (紀元前 一 世紀にアウグストゥスの下で建設された) は、ローマが建設し、維持した道路の複合体全体または公用馬車 cursus publicus の世話を目的としたオフィスを含む構造の複合体。 ローマから始まり、さまざまな地域や州につながるすべての道路、すべての馬の交換所、休憩を可能にするすべての農場、それらの道路に沿って建設され設立されたすべての町、この巨大で基本的な側面ローマの生活と政治は、サン・マルチェロ・アル・コルソ教会のほぼ下にあるヴィア・ラタ(今日の私たちにとってはヴィア・デル・コルソ)にある「オフィス」で管理されていた。
4. また autem 九か月目に夜間にすべての彼の牧者が clerus eius omnisやって来て、そして彼をカタブルムから夜間に引っ張り出した eruerunt。ある既婚婦人、ルチナという名の未亡人が、彼女は彼女の夫と共に十五年間おり、そして未亡人状態で十八年過ごしたのであるが、祝福された人を引き受けた。彼女は自身の家を祝福されたマルケッルスの名のもとに、名義教会として奉納した。そこで彼女は昼夜を分かたず諸々の讃歌をそして祈祷によって主イエス・キリストに対して信仰告白していた。
5. このことを聞いて、マクセンティウスは(人を)送り、そして祝福されたマルケッルスを再逮捕し、そして命じた、同教会の中に、(囲いのための)外壁の板(pl.) そしてそこに ibidem カタブルムの動物たち[たぶん馬やラバ]を集めておき、そしてそれらに対して祝福されたマルケッルスが熱心に仕えるように、と。彼はまた autem 、山羊の毛で作られた衣服を裸でまとって動物たちの世話をしている時に(生命を)全うした[cf.,洗礼者ヨハネは「ラクダの毛衣」を着ていた(マルコ1.6;マタイ3.4)]。彼の遺骸を祝福されたルチナが引き取り、そしてサラリア街道にあるプリスキッラの墓地に一月十六日に埋葬した。
6. そして司教座は二十日間空座だった。そして一方で vero ルチナは令状により有罪とされた。
第三十二章 エウセビウス EVSEBIVS [308年]
1. エウセビウスは、生まれはギリシア人で、医者出身、(司教座に)六年一か月三日着座した。それはまた fuit autem コンスタンスの諸時代であった[この時代表記は間違っている]。
昔、ファウノの邸宅(VI.12.2)のエクセドラの床を飾っていたこのモザイクを卒論で取り上げた学生がいたので(テキストは、Ada Cohen, The Alexander Mosaic:Stories of Victory and Defeat, Cambridge UP, 1997;Paolo Moreno, Apelles:The Alexander Mosaic, Skira, 2002)、若干お付き合いして調べた時に、お〜〜〜という驚きを体験したことがあって。
さて今回ググっていたら、またまた驚くべき説を唱えている人物に行き当たった。Werner Kruckの英語版ウェブ「Reconstruction of the mosaic」(http://alexandermosaik.de/en/interpretation_of_the_mosaic.html)に寄せられた、Justin Woodのコメントである(2015/02/05)。中央から右の背後に見える長槍をギリシア系と見るところまでは同じなのだが、それをアレクサンドロス大王麾下のファランクスとみなす。即ち、ペルシア軍本陣はこの絵での背後からギリシア歩兵に追い立てられ、左からは突撃してくる大王の騎兵隊に不意を突かれ、この時点でダレイオス3世は大王軍に包囲されつつあった。それでダレイオス3世がまさに逃走を図った瞬間を描いているのだ(戦車の前の尻を見せている馬は王の逃走用だったと、もっともらしく言われている)、と。
【付記】最近このモザイクの研究書というか写真集が出ていたことにようやく気付いた(なんと、Fausto Zevi御大が寄稿者の一人としてご登場だ!:Photography by Luigi Spina et als., The Alexander Mosaic, 5 Continents Editions Srl, 2021)。しかしさて2021年開始で今年中には終わる修復結果とどう整合するか見ものである。なにしろこれまで塗られていたニスを取り除くというので、光沢など変わる可能性が高い。逆にいうと、未だにほかにそんなに専門研究書がないので、ねらい目のテーマではある。