アレクサンドロス・モザイクの秘密

 本日、いやもう昨日か。NHK BSプレミアムで、13:30から「古代ローマ・ポンペイ遺跡が日本にやってきた!」(90分)が放映された。その予告では、あのモザイクの秘密を明らかにするといった言い方されていたので、どこまで突っ込んでやってくれるのかとおおいに期待していたのだが、あれ〜?見落としたのか、気付かなかった。よもや楯に写った自分の顔を見ながら死にゆくペルシア兵のことだったのか? あれは秘密でもなんでもない、と私は思っているが。それと、4Kスペシャルの「よみがえるポンペイ」(これ、2/6の13時から再放送あり )での放映映像(再現映像)が使い回されていることに気付いた。これはまあ出来がよいものだったので、再見できて個人的にはよかったのだけど。

 それで若干欲求不満になり、次回の勉強会の予習を兼ねて記憶を呼び起こすことにした。

 昔、ファウノの邸宅(VI.12.2)のエクセドラの床を飾っていたこのモザイクを卒論で取り上げた学生がいたので(テキストは、Ada Cohen, The Alexander Mosaic:Stories of Victory and Defeat, Cambridge UP, 1997;Paolo Moreno, Apelles:The Alexander Mosaic, Skira, 2002)、若干お付き合いして調べた時に、お〜〜〜という驚きを体験したことがあって。

 ところでファウノの邸宅は、優に2軒分の敷地を占めていて、なんとアトリウムとペリステリウムと呼べる空間が2つあるのだ(上の図だと、27と7、54と39)。おそらく右の52から入って7,そしてズスっと奥の広いほう(39)にいたる区画が主として家族用と考えると、今問題のエクセドラExedra(37)はおそらく限られた賓客用だったかもしれない。というのはその豪華さが尋常でないからで、ナイル河畔風景のモザイクもここの敷居に埋め込まれていた。エクセドラとは本来は談話室であるが、私はこれだけのモザイクを使っているので、夏の食堂tricriniumを兼ねていたのではと考えている;ただその場合、部屋の周辺空間をかなり占める食事用寝椅子を置くにはちょっと手狭で、舗床モザイク全体を眺めることができなくなってしまうのが難点だが。実はこの邸宅の舗床モザイクはおおかた剥ぎ取られて国立ナポリ博物館の中二階左翼に展示され、現場にちょっとだけレプリカで復元されているのだが(29など)、このエクセドラでも壁を含めて再現してほしいと思わざるを得ないのだ(3Dであるはずなのだがじっくり再現したものに行き当たっていない):ついでに言っておくと、アレクサンドロス・モザイクの舗床の傷みが左側の大王側に著しく、後79年当時にも補修されていなかったことから、このモザイクの主題は自ずと中央から右にあったということの暗黙の証言、と私には思えるのだが。

 おもわず前口上が長くなってしまったが、まずは全体写真。

このモザイクに限って1cm平方に15-30個のテッセラ(石片)という緻密さで描かれたOpus vermiculatum技法:普通はそれでも5,6個だとか。

 そもそもファウノの家は、ナイル河畔風景や静物画で、Opus vermiculatum技法のモザイクだらけの豪華さなのだが、かのモザイク舗床の来歴とかなんかのご紹介はまあ他にお委せするにして(だいたい単なる画材に歴史事象を重ねてどうのこうのと言いつのるのは、研究者のサガとはいえ、お門違いとも思えるが:あ、本ブログも同罪でした(^^ゞ)、一挙に核心に触れることにする。

 昔ちょっと勉強した時に何に驚いたかというと、画面中央の以下の図の解釈だった。

 それとの関連で大王の背後の以下の図の左にもご注目ください。

大王の後のヘルメットの兵士:銀のボイオティア・ヘルメット、金のリース、白い馬毛の飾りは上級将校を示す(『アレクサンドロス大王の軍隊:東征軍の実像』新紀元社、2001年、p.14より)

 まあ、事前に「アレクサンドロス・モザイク」という予備知識を吹き込まれて普通に鑑賞すれば、おのずと構図的に主役の大王とダレイオス3世に目が引かれてしまうし、左3分の1が剥落しているし、背景となっている群像などそれでなくとも乱戦の中にまぎれているので、いちいち見ているわけではない(否、一応見ているのだがぼ〜と見ているだけの「ちこちゃん状況」にすぎないわけな)ので、つい見落としがちになるのだが、中央から右はペルシア軍兵士の群像が描かれているのだが、その中の異質な存在に気付いた研究者がいた。それがギリシア・マケドニア系ヘルメットを着用した兵士である。上の部分図では正面に目線を流している者ともう一人ヘルメットの羽根飾りが見えている。さて下の部分図にも同様のギリシア的ヘルメットが。剥落が目立つモザイク左側はギリシア・マケドニア系兵士が描かれている区画なので、下のほうの部分図のそれは大王麾下の騎兵と考えていいのだが(実際そのように後世において修復再現されている)、じゃあ中央の彼らは何だという件で、画面上部に林立する長槍の実にダイナミックな動きから、前進していたダレイオス3世軍(画面中央)が動揺して逃走に移っている(画面右)様子が歴然で、その研究者は、中央の二名、それとその左のペルシア兵が右向きであることに注目して、その三名を敗走を始めたペルシア側兵士で、あのヘルメット着用の二名をペルシア軍に傭兵として参加していたギリシア人たちとしたのであ〜る。これには私は本当に驚いてしまった。観察眼と構想力の勝利である。

 それでじっくり考えてみたら、あの画面上部に林立する長槍であるが、あれこそギリシア・マケドニア系のファランクスの特徴とするなら(長さ4-6mのSarissa)、ギリシア系とペルシア系の闘いなのに、ダリウス3世軍にファランクスが見えるのは一見奇異で、しかしそれがギリシア傭兵の歩兵だとすると納得できるわけである。ちなみにペルシア軍の主力は弓兵や騎兵で、1万人の重装兵「不死隊」(歩兵と騎兵がいた)は有名だったが、大きな楯と2mの槍で武装した歩兵の基幹部隊Sparabaraは決して決戦兵器ではなかった。下図参照。

A、Sparabara;B、弓兵;C、不死隊;D、旗手:大王の東征をまとめたYouTubeを参照(https://www.youtube.com/watch?v=K7lb6KWBanI)

 ただし、イッソスの敗北後に、ダレイオス3世は自軍に長槍部隊を創設してきたるべき決戦に備えていた、という情報もあって、となると事態はまた複雑になるが。

 ところで1831年に発見されたモザイクを、その直後に剥落部分を含めて油絵に描ききったものが、モザイクが展示されいる国立ナポリ博物館中二階のモザイクの左壁に掲示されていることはご存知だろうか。それが下図である。かつて私はこの復元想像図を舐めるようにながめ、写真に収めたものだ。

この画像、実は明度をだいぶあげている
モザイク修復中のNHKの映像に、展示されている件の油絵が写っている

 今日では色々な復元画像もウェブ上で得ることできる。以下はその一例。

 さて今回ググっていたら、またまた驚くべき説を唱えている人物に行き当たった。Werner Kruckの英語版ウェブ「Reconstruction of the mosaic」(http://alexandermosaik.de/en/interpretation_of_the_mosaic.html)に寄せられた、Justin Woodのコメントである(2015/02/05)。中央から右の背後に見える長槍をギリシア系と見るところまでは同じなのだが、それをアレクサンドロス大王麾下のファランクスとみなす。即ち、ペルシア軍本陣はこの絵での背後からギリシア歩兵に追い立てられ、左からは突撃してくる大王の騎兵隊に不意を突かれ、この時点でダレイオス3世は大王軍に包囲されつつあった。それでダレイオス3世がまさに逃走を図った瞬間を描いているのだ(戦車の前の尻を見せている馬は王の逃走用だったと、もっともらしく言われている)、と。

 客人を前に主人が蘊蓄と謎解きを披露している光景が目に浮かぶ。それを我々がどう読み解くか、おそらく正解などありようもないが、深読みの楽しさがここにある。

【付記】最近このモザイクの研究書というか写真集が出ていたことにようやく気付いた(なんと、Fausto Zevi御大が寄稿者の一人としてご登場だ!:Photography by Luigi Spina et als., The Alexander Mosaic, 5 Continents Editions Srl, 2021)。しかしさて2021年開始で今年中には終わる修復結果とどう整合するか見ものである。なにしろこれまで塗られていたニスを取り除くというので、光沢など変わる可能性が高い。逆にいうと、未だにほかにそんなに専門研究書がないので、ねらい目のテーマではある。

【追記】上記の本が届いた。ちょっとビックリしたのだが、この本にはページ数が打ち込まれていない。100ページの画像と、10ページの概説・文献目録だけなのである。だから写真集という感じかと。

【追記2】ぐうぜんみつけた論文に面白い「秘密」が暴露されているような予感が。興味ある向きは、2023/2/22掲載のブログ「アレクサンドロス・モザイク再論」をご覧下さい。

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