以下の論述は欧文某論文からの抜き書きに私的コメントを加えたものであるが、特に再現画像で著作権問題が生じかねないので、横文字での典拠はここでは公表しない(この判断が正しいかどうかも私には疑問ではあるが)。それを含めて、その情報をご希望の向きは以下宛てにお求めいただければ開示しますので、ご遠慮なく。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp
紀元後79年のウェスウィウス山の噴火で約20mの厚さで泥溶岩流に呑み込まれたエルコラーノは、以前の火山噴火でできた、海面と約15mの落差のある海岸段丘上に位置していて、町の東西を川で囲まれていたとの史料が残っている。街全体が掘り出されたわけではないが(なにしろ南側を除いてまだ現代の家屋が埋没遺跡の上に建っているようなことで)、調査から、町には東西3本のデクマヌス通り、南北には少なくとも5本のカルド通りで規則正しい碁盤目状の町並みだったことが判明している。ここには約4000人の住民が住んでいたと想定されている。ポンペイと違って17年前の地震で大きな影響を受けたように見えない。というか、そんなはずはないので、すでに修復が完了していたと言うべきか。下図はGoogle Earthからの西向き3D画像で、遺跡は現在の海辺から450mほど内陸に位置しているが、当時は海岸線に接していて、船着き場や船舶格納庫も存在していたことは、皆さんすでに御承知かと。
左上はナポリ湾、中央右がエルコラーノ遺跡:現在の地面から10-20m掘り込んで遺跡が出現している。
エルコラーノから東南に直線で13km離れたポンペイは、同時に被害に遭ったが、まず軽石が降り注ぎ、最後に火砕流に襲われ、4−8m内外の埋没だった。これからもエルコラーノとは遺跡の残り方が色々違ってきていることも見当がつくはず。私にとっての新事実、もっぱらプテオリの専売特許として地面の緩慢な上昇・下降のいわゆる「bradisismo」現象が言われてきているが、ここエルコラーノでも1980年代から指摘されていた件については、後日アップ予定。
エルコラーノはじわじわ迫ってきた比較的低温の泥溶岩流に密閉されたので、上階部分も多くが崩壊を免れて残り得たし、木造部分も炭化して残存している箇所が多い。それに海への傾斜がポンペイに比べると急でなかったので、埋没以前にすでに地下下水溝が完備していて、個人宅のトイレの多くはそれに直結していた。逆にポンペイは、大部分の上階部分は軽石の堆積で崩落し、木造部分は蒸し焼き状態で空洞化し、傾斜が急だったので基本的に下水溝は構築されておらず、街路がその役割を果たしていたがゆえのステップ・ストーンの例外的存在だった。その場合、雨水の急激な集中を避けるため止水堤の役割が重要だったはずだ。
実は、エルコラーノ遺跡は現在の地面より10−20mも掘り込んでいるので、雨が降ると水が溜まってせっかくの遺跡を痛めるという問題が発掘開始時から存在した。だから1930-40年代に排水のためかつての下水道が再利用されたのも当然だが、遺跡から海へのトンネルは1920年代にアメデオ・マイウリ時代の作業員が火山岩を、古代さながらに、高さ2.5m、幅1.3m、長さ450mにわたって手掘りしたものだった。その後のメンテナンス不足で再度閉塞した部分が最近補修され、現在は遺跡内のかつての下水溝を使って、そのうえポンプを設置して海への排水が可能となったのである(それで当時の海岸付近の調査が進んだらしい)。
さてこの遺跡にはなかなか隅に置けないトイレが幾つもある。まずは中央浴場付設の公衆トイレ(VI.1)。これを浴場の男子専用とするのがどうやら通例のようだが、下右写真をごらんいただくなら自明のように、そもそも浴場内から直接行ける構造になっていないので(手前に写っているカルド III通りから入るしかない)、私には一般的な公衆トイレとしか思えないのだが、まあ風呂に入る前に済ませておきなさい、ということだろうか。それにしてもこの区画、奥まったトイレ部分に至る空間が不必要に広くて、私は気になっている。このトイレ便座の下を浴場からの排水が滔々と流れ、手前のカルドIII通りの排水路に繫がっていたのだろうが(下図参照)。
右現況写真の、奥の壁際が件のトイレ、中央通路の奥が浴場
次に某邸宅の台所トイレ(「2つのアトリウムの家」:VI.29)。壁に沿った逆L字型調理台の角っこに小型のオーブンが設置されているのが珍しい。私は2019年にもこの邸宅を見学したはずなのだが、他の写真はあってもなぜかこの台所トイレの写真がない。謎である。それにググって入手した写真だとオーブンの天井が崩壊しているようなので、以下左の写真は発掘後かなり初期のものと見た。
現段階で私はまだ詳細を検討できていないが、以下のような数字が提示されているので参考までに列挙しておく。これまで発掘されたエルコラーノ遺跡で、合計88の便所が確認されている。ということは、エルコラーノのほぼすべての邸宅に1つ以上の便所があったことになり、いかに便所が都市全体に広がっていたかがわかろうというもの。(邸宅)41戸のうち28戸に1つ以上の便所があり、合計39の便所が確認された。このうち、玄関脇にあるのは一箇所だけで、14が台所に隣接しており、24は邸宅の奥にある、ということは使用人の部屋やサービスエリアに設置されているのが通例ということになる。後述との関連で付言しておく。ここでのトイレは固定設置型を意味している。
現段階でこの図のすべてを解読できていないが、たった1つしかない緑のマルが公共トイレ(先に触れたVI.1)、赤マルが固定トイレを示しているのだろう。その中には上階トイレも含まれているが、これについては詳しく個別事例に触れる機会があることを念じている(別情報から、左右の青線が調査済みの下水溝、中央の緑線がカルドIVの未調査下水溝、上部に見える黄土色がデクマヌス・マクシムスの両側を走る下水溝、を示していることが判明)。
邸宅で未だトイレが確認できていないのは、以下の四戸のみの由。Casa dell’ Apollo Citaredo(V.11)、Casa del Sacello di legno(V.31)、Casa del Mobilio carbonizzato(V.5)、Casa dell’ Erma di Bronzo(III.16)。そこでは、上階(の特に階段踊り場隅)にその設備があった可能性は否定しがたいとしても、とりあえず地階での可動式トイレの使用が考えられるはずだ。
左端は可動式便座トイレ。その中に、右側のような容器が入っていた:直接容器に座る女性用オマルもあった。詳しくは、以下参照。https://www.koji007.tokyo/atelier/column_roma_toilette1/
とまれ、邸宅でのトイレはいずれもサービスエリアに位置していることから、それらの使用は主として奴隷用であったと断定してよい(よって犬ころ同様プライバシーも、臭気を考慮する必要もなかったにしても、可能性としてカーテンや扉の設置が付言されている場合もあるが、私見では望み薄かと)。そもそも地階は基本的に奴隷の活動エリアであった、というのは私の確信である(もちろんアトリウム周辺の接客部分を除いての話だが)。主人の家族はおそらく上階の自分の部屋に箱形の可動式便座(sella pertusa)を持ち込んで、箱の中に容器を置いて用を足し、それを奴隷が毎日処理していたと思われる(上図参照)。
商業・製造業の家屋68の内、27は入り口近くにトイレがあって、これは従業員(基本、奴隷・解放奴隷のことかと)のみならず緊急事態の顧客にとっても利用可能だったはずである(こらえ性のなくなった老人の私もコンビニのトイレをちょくちょく利用させていただいている。ありがたいことだ)。
また公共建造物はエルコラーノにおいて未だ部分的にしか発掘されていないが、11の公共建造物から9の便所が発掘されている(「中央浴場」VI.1,4-10に4、以下に各1:南東テラスの「郊外浴場」Terme suburbane と「聖所」Area sacra、いわゆる「Augustales礼拝所」Sede degli Augustali VI.21-24、「製パン業者の家」Ins. Or. II.1a)。
さて、いよいよ上階トイレである。私の参考にした文献にはあちら風に「地階」「一階」「二階」と表記されているが、以下これを我が国の表記に準じて「一階」「二階」「三階」とすることにする。次の復元画像はアメデオ・マイウリによるインスラ・オリエンタリスIIのもので、表記では赤い矢印が「三階のトイレへの道を示している」とされているが、私見では日本語で普通「中二階」と訳されるmezzanino の上の階なのでこれをどう表記すればいいのかちょっと迷うが、いずれにせよ、これが古代ローマ時代の現存する最も高いトイレ事例となるらしい(もちろんもっと上階では可動式が使用されていたはず)。
ちなみにこの区画、残りがよくてその上階(3階というべきか4階というべきか)もあったことが確認されているので、一世紀半ばに帝都ローマ風な高層集合住宅らしきものが、ここエルコラーノではすでに存在していたことになる(https://donovanimages.co.nz/proxima-veritati/Herculaneum/Insula_Orientalis_II/HTML5_panos/F02-05/F02-05.html)。こうしてみると、ポンペイではそういった高層建築物が見当たらないのをどう考えたらいいのか、いささか気になるところではある。現段階の私見として、ポンペイはおそらく62年の地震の後、都市パトロンだった有力者層の流出で再建が遅々として進まず、もちろん商業活動も停滞し、要するに発掘されて数的には隆盛を誇っていたように見えるバールや商店街も、現代の我が国地方都市のように、あらかた閉店のシャッター街となっていたのではないだろうか。それに比してエルコラーノは小ぶりながら順調に復興・成長していた地方都市だった、のかもしれない。
左、現状:左から9,8,右端7番地;中央、アメデオ・マイウリの模式図;右、いわゆる8番地の3階トイレ
エルコラーノには、2階には24箇所、3階には3箇所のトイレが発見され、テラコッタのパイプで地下の下水溝へと接続されている由で、となると汚水枡を介すことなく直接垂れ流ししていたということになる。
上記インスラ・オリエンタリスIIの事例でみると、9番地1階の入り口右隅にトイレが設置されているが(以下のview 360°画像で辛うじて確認できる:https://donovanimages.co.nz/proxima-veritati/Herculaneum/Insula_Orientalis_II/HTML5_panos/F02-01/F02-01.html)、8番地の3階のそれ(以下同様:https://donovanimages.co.nz/proxima-veritati/Herculaneum/Insula_Orientalis_II/HTML5_panos/F01-08/F01-08.html)とはテラコッタ製パイプで繋がって両方の排泄物が下水溝に流れ込むという構造になっている。これは以前ポンペイでの事例で指摘したのと同じ計画的設計である(その時はV.1.30-31で、1階と2階だったが:https://www.koji007.tokyo/atelier/column_roma_toilette1/)。ということは、現在まで残りえなかったにせよ、計画性ある集合住宅では建築段階でこのような共有設備は、少なくともナポリ湾地区では常識だったとも想定可能のはずだ。
念のため再言しておく。とりわけ大の事後処理としては、バケツ代わりの土器に入れてある台所などでの使用済みの汚水を、ばしゃっとぶちまけて洗い流す。このとき台所トイレなどでは、野菜くずその他のゴミも一緒に流し込んでいたはずなので、となると、かつて目詰まりして水はけが極度に悪かったイタリアの安ホテル(しか私は宿泊したことがなかったのでよく遭遇した)同様の現象が生じたであろう、たぶん。定期的な煙突掃除ならぬトイレ掃除が必要だったろうが、それも奴隷のお仕事のはず。
左、9番地1階のトイレ跡を上階から見た写真;中央、構造模式図(1階と2階で表記されているが);右、8番地3階のトイレ(上記写真と90度角度を変えている)
まだまだエルコラーノのトイレ噺は続くのだが(それだけこの遺跡のトイレの残り方がすばらしい、というわけだ)、今回はこれまでとしておこう。
【追記】mezzanino であるが、私はこれをあちら風には「中階」と呼称することにする。よってあちら風には「地階」「中階」「一階」・・・、我が国風には「一階」「中階」「二階」・・・、となる。我が国では「中階」ってそう見かけないけど。となると表記はあちら風に統一した方が無難かもしれんなあ、とうろうろ。
ちなみに、九大堀研究室の小川助教への問い聞きでは「中二階で大事なのは、 ①付随する階の、床と天井の間に作られていること ②中二階の床面積が、付随する階の床面積の1/2以下であること」、だそうです。