月: 2022年7月

世界トイレ事情3例

 赤池リカ「便器の上に土足で立つ!?外国人に聞いた、日本とは違う「トイレ」事情」(https://tripeditor.com/448921)

 以下は4年前のパリの情報。私も紹介したことあるはず。

「立小便対策のエコ便器がパリ市民に不評、景観損なうとの声」(https://jp.reuters.com/article/paris-urinals-idJPKBN1KZ0FI)

 これは1年前。「ライオン・男性の小用スタイルに関する実態調査2021】実験で判明!座り派のお家トイレは“フチ裏・便座裏”が汚れている」(https://www.lion.co.jp/ja/news/2021/3627

 最後のはPRらしいが、試しに買ってみる気になった。

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アウグスティヌスの内妻だった女

 アウグスティヌスは、親元を離れてのカルタゴでの遊学生活の中で16,7 歳で同棲していた女性がいて、18歳で一子を得ていたが、14年後にミラノで望外の立身出世を果たした彼は母の強い意向で内縁関係を解消した経緯があった。この事情は彼の『告白』(IV.2, VI.13-15)から伝えられてるわけだが、なんとその離別から10年以上経って、ヒッポの司教になっていたアウグスティヌスに、かの女性から書簡が送られてきていたという。それが”Floria Aemilia Aurelio Augustino epistcopo Hipponiensi Salutem”であることを、私はググっていて初めて知ったのである。

 もちろん歴史学的にそんなものが残っているわけではない。ノルウエー人作家Jostein Gaarderの創作小説なのだが、その邦訳が1998年に堂々たる出版社から出されていたことを今頃になって知ったのは、私の不覚である。

 ヨースタイン・ゴルデル(須田朗監修・池田香代子訳)『フローリアの「告白」』日本放送出版協会、1998年、¥1600。

 あまり売れているようには思えず、今でもアマゾンで定価よりも安く売りに出ているので、興味ある人は急いで購入すれば破格の値段で入手できるはず。

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テヴェレ川の戦略地点を探る

 今、法事絡みでちょっと早めに帰省している。ヒマというわけではないが、実家に置いてあるiMacのデスクトップをいじっていると、以前の仕事で集めたけど忘れ果てていた史資料が埋もれていて、なんだかもったいないネタがあれこれ転がっていたりする。研究雑誌には野放図に画像を掲載できない事情があるが、その落ち穂拾いで論文に掲載したかったものを、ひとつ紹介したい。

 以前『軍事史学』第54−2、2018年に、「三一二年のコンスタンティヌス軍」を書いたことがあった。その時の私の論述のキモのひとつは、312年10月28日のミルウィウス橋決戦において、迎え撃つマクセンティウス側にとってテヴェレ川の蛇行が重要な防衛拠点になっていたはず、という着想にあった。私は幾度か現地を訪れ、最終的には歩道のない自動車道をひやひやしながら歩き通して自分なりの確信をえた(せめて自転車で軽快に移動したかったのだが、実際にそんなことしたら車が文字通り疾駆しているので危険きわまりない冒険になっていただろう)。論考では地図でそれを簡単に示しておいたが、今般その時のGoogle Earth画像が出てきたので、それを開示する。ただし2013年段階の画像なので(我ながらこのネタ長く寝せていたんだなあ)、現在のそれとは表示が異なっていることをお断りしておく。どなたでもグーグルで距離も測ったりして追体験できるので、実際に試して頂ければと思う。

 フラミニウス街道Via Flaminia を一路南下してきたコンスタンティヌス軍は、決戦を前に帝都から20キロ直前のMalborghetto付近の丘陵地に数日間滞留していたが、28日早朝に進軍を開始する。直線で約6km緩い坂を下ったところで、かつてのアウグストゥスの皇后リウィアの別荘に至るのだが、ここまでくるとそれまで左手に見え隠れしていたテヴェレの流れをようやく手近に見ることができたはずだ。この別荘は舌状台地の南端に位置していて、そこを下る街道は現在でもやたら狭い切り通しで(だから自動車道は東でトンネルにもぐっている)、その真下がPrima Portaであり(このあたりのことは、このPHでの、「【余滴】コンスタンティヌス大帝1700周年記念関連貨幣・切手資料紹介:今年は何の年?」、p.16-17;上記『軍事史学』の画像補遺、p.7-10に、かつて書いた)、そこにはテヴェレ川に注ぐ支流が西から流れてきていて、現在の鉄道ノルド線のプリマ・ポルタ駅はその上をまたいでいる。実際にはおそらく前日までにそこまで進出してきていたマクセンティウス軍はコンスタンティヌス軍進発に呼応してその台地を急登し、現在の大ローマ市民墓地Cimitero付近で東西に展開して布陣し、コンスタンティヌス軍を待ち受けていたと考えられる。テヴェレ川はこのあたりで大きく東側に蛇行しているので、マクセンティウス軍からみて右には広い空間が開けていたことになる。但し当時は遊水池の河原の不毛の湿地帯だったかもしれないが(当然、往時に川筋が今のままだったと考える必要はないが、今と似たようなものだったと想定しての話である。以下同様)。

中央やや左に見える眼鏡状の自動車道の立体交差(その北の先ですぐにトンネルにもぐっていることにも注意)のすぐ左上が別荘、その左にPrima Portaのアーチ遺跡がある。

 その後テヴェレ川の川筋は西に動き、フラミニア街道に接してくる。そして、街道と川筋が最も接近する箇所が下図付近。現在は両脇を自動車道で挟まれて鉄道線路も平行しているが、昔の街道筋がどちらにあったのかは不分明だが、いずれにせよ、西側はちょっとした崖なので、川筋と街道はかなり接近していたことは確か。そこで私はマクセンティウス軍の防御線がここに置かれたと想定した。崖から川まで最短で40mほどしかない。そしてその手前(南)にはやはり蛇行しての若干の空き地があるので、そこにそれなりの軍勢を待機させることも可能だったはず。

右の写真の自動車道は2車線ずつ左右に見えるが、その左にさらに鉄道線路ともう一つ道路が平行して走っている

 この防御線から南に直線で約270mの地点でテヴェル川はまたもや右に急激に蛇行し始め、現況では約110mを経てまた戻って来る。この北側の隘路を採るか南側を採るかが問題だが、私は背後の空き地に部隊を配置することできるので、北側に防御線を張ったのではないかと想定してみたが(川まで260m)、どうだろう。南側も場所によっては西を塞ぐ丘もあって北側に比べると60mは幅が短くなっているのだが。

 ところで、Aurelius Victor,40.23には以下のようなくだりがある。マクセンティウスは「首都からサクサ・ルブラへと9ローマ・マイルほど辛うじて進んだところで、戦列がacie 粉砕され caesa」た、と。ここでのSaxa Rubraとは元来このあたりを示す地名と考えられているので(現在のノルド線の駅名と合致しているわけではない。また上記【余滴】で触れたピウス10世による顕彰ラテン語碑文設置場所はプリマ・ポルタ駅近くなのだ)、一説にはマクセンティウスはこのあたりで敗北を喫したとされる場合もあるが、地形的に決定的戦場とは思われない。

 その防御線を突破されたとき、帝都ローマの城壁以前の最後の守りはいうまでもなくテヴェレ川を渡河するミルウィウス橋ということになるが、そこに至るまでにテヴェル川はまたもや大きく東側に蛇行して、ローマ・オリンピックの時に陸上競技場などが設置された広大な平地を提供している。ここは現在Tor di Quito公園となっていて、古来幾度か戦場となった場所である。コンスタンティヌス軍とマクセンティウス軍が激突した主戦場がここだったと考える研究者もいるほどなのだが、私はむしろマクセンティウス軍壊滅の場所だったのではと考えている。その後のミルウィウス橋の戦闘とは、潰走するマクセンティウス軍を追撃するコンスタンティヌス軍の掃討戦にすぎない。とはいえ敵将マクセンティウスをそこで溺れ死にさせたという記念すべき戦場ではあった。

フラミニウス街道はローマ市内から北上し、左隅でミルウィウス橋(赤丸1つのほう)を渡り、一旦北上したあと右折して川筋にいたる

 というのは、これは論文に書いていないのだが、コンスタンティヌスはプリマ・ポルタ攻防戦のあと、自軍の出血を避ける手立てとして、マクセンティウス軍がフラミニウス街道に幾重も仕掛けた防御線を迂回すべく、軽騎兵連隊を放って西側の間道を疾駆させ敵の背後をついて、一挙にこのTor di Quito地区に殺到させ、いち早くミルウィウス橋を渡河して対岸に達しせしめたのではと密かに思っているからだ(それをうかがわせる文書史料など一切ないが、マクセンティウス側の内通者の存在は別途指摘しておいた:たぶん彼らが詳細な間道情報をコンスタンティヌス側に漏らしたのでは:「裏切り者は誰だ!――コンスタンティヌス勝利のゲスな真実――」『地中海学会月報』389, 2016/4)。こんな突飛とも思われかねない仮説を本気で考えざるを得なかったのは、コンスタンティヌスのアーチ門の南面右のレリーフ右端で、合図のラッパを吹いているあの二人の兵士をどう解釈すべきか、に関わっての想定なのである。あれはどう見てもコンスタンティヌス側の進軍ラッパである。それが橋を潰走するマクセンティウス軍より先に渡河しているのだから、奇妙なわけなのである。

 このような私の間道仮説の当否は別にして、テヴェレ川の複雑な蛇行を利してのマクセンティウス軍の防御線構築論は納得頂けたであろうか。

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金子史朗を読む

 といっても私はそんなに熱心な読者ではない。かつて旧約や新約に出てくる大災害に触れた聖書関係や、専門に関わる『ポンペイの滅んだ日』(1988)や『レバノン杉のたどった道』(1990)をざっと読んだことあるくらいで、まあ内容が内容だけに、天変地異をテーマにした一種のきわものを扱う理系の人、といった印象だった。

 最近になって、ポンペイがらみでウェスウィウス火山についてちょっと知りたくなって文献検索していたら、氏の『火山大災害』古今書院、2000年、がヒットし、我が図書館の所蔵を借り出したかったけど、返却日失念しての罰則期間だったりして(最近これ多くなってまして (^^ゞ:連絡ないので一ヶ月も放り投げてた)、関係箇所(第1,2章)だけコピーしてこのところ読んでいる。そして、誠に遅ればせながら、おやっと思ったのである。

 改めて著者紹介を眺めた。1929年東京都生まれ、東京文理科大学地学科卒業、都立高校教師の後、科学ジャーナリストに転身、これまで実に多くの著作を書いている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%8F%B2%E6%9C%97)。

 ご存命とすれば93歳、書かれた最近のものは2004年のようだ。そしてHP「金子史朗の足跡」(http://wwwc.dcns.ne.jp/~dende/top.html)もみつけたが、表紙だけの作成でおわってしまったようで、残念至極。その更新履歴は2009/1/19となっている。80歳でHP作成を思い立ったその気概には敬服する。出版社が本を出してくれなくなった(これまでの編集者もリタイアするし)、本が売れなくなったというような事情もあったのかもしれない。

 HP掲載のお写真

 氏が東京教育大学出身というのはなんとなく記憶があったのだが(実は何を隠そう、はるか昔そこの受験を考えたこともあったりしまして)、卒業学科が地学科というのはまったく失念していた。今回業績一覧を拝見すると、30台半ばからの論考類はあたりまえのことだが地理や地質学的な内容で、最初の著作も『構造地形学』(古今書院、1967)であった。業績リストに「1962 北海道大学提出学位請求論文」とあったので、気になって北海道大学で調べたら「理学博士(旧制)、学位授与年度1961」とあって(主査はたぶん火山学の大家・横山泉氏だったのだろう)、だけど彼は著作の履歴にそれを全然書いていない。体制順応型の私など、そこから氏の在野研究者としての反骨気質を感じてしまう。提出したらくれるというから出しただけで、だからどうなのさ、というような。

 それはともあれ、『火山大災害』を読んでいると彼の専門分野が遺憾なく発揮され、歴史系の私にとって重箱の隅で若干引っかかる箇所がなきにしもあらずとはいえ(p.71以降で、ポッツオリの遺跡を「セラピス神殿」としているが、あれは正確には神殿ではなく「市場」macellumとすべき;p.73の「ベスゼオ」って誤植?)、たいへん勉強になった。というよりも、第2章でカムピ・フレグレイに関して邦語でこれほど紹介しているのは、彼が初めてではないか。後進としてはあらかた書かれてしまった感じで、今後、火山学・地質学的な知見では隅の親石と定めざるをえないだろう(ま、年月経ているので研究の進展はあるだろうが)。

 ところでカンピ・フレグレイをググっていたら、以下の記事をみつけた。「超巨大火山に噴火の兆候、イタリア:イタリア国立地球物理学研究所が発表」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/122700499/)。この記事の発信は2016年12月28日である。あれから5年半。何も起こっていない(Solfataraで家族3名が転落事故死したのは翌年の9月だったが)。火山学にはこのような間尺が長く時間的偏差がつきもので、となると非科学的とのレッテルも貼られやすくなる。一方で気を緩めていると福島原発みたいに「想定内」だった津波に襲われて大惨事となるわけで、万一をおもんばかって警告は発しないといけないし、狼少年になりかねないし、難しいところだ。

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古代ローマ史最新情報

 久々に気持ち的に余裕が生じたので「The History Blog」に行ってみたら面白いニュースがてんこ盛りだった。色々ありすぎて時間をかなりとられてしまった。

ここでは、ポンペイ遺跡から発掘された亀と、ローマでの新たな観光バスの話を紹介しておく。

 まず、2022/6/24発信の亀の死骸。これまでもポンペイからは亀は発見されてきたが、それらは金持ちの家や庭からで、後79年での死亡だった。今回紹介する亀は後62年の地震と後79年の破壊までの間に自然死し、スタビア浴場の発掘で出土したものである。これはどういう意味を持つのか。

 発掘場所は、地震で倒壊した建物が整地され浴場付属の店舗として再建された、その店の南西の角で、地震にも耐えた四角い水盤の奥から、考古学者が雌の遺骨を発見した。彼女は卵を産むために安全な場所を探して、トンネルを掘って部屋に侵入したのだが、難産になり、そこで死んでしまったのだろう。卵を産み落とさない限り(あるいは人の手で取り除かない限り)、動物は死んでしまう。成体の甲羅は8〜10センチ程度であるが、この個体の甲羅の長さはわずか5.5インチで、まだ未熟であることがわかる。この若さが卵を産めなかった一因かもしれない。卵は甲羅と一緒に取り出された。

 この亀の発見は、震災で瓦礫と化した街の中心部の家屋が、すぐに再建されたわけではないことを示すという意味で重要だ。今の福島と同じく、人影のない廃墟と化し、野生動物が住み着くようになった。そして店舗が再建されたとき、その隅にいた亀の死骸に誰も気づかず、床を高くする工事の盛り土の中に埋もれてしまった、というわけ。

 次に、6/23発信の「VRバスで古代ローマにタイムスリップ」

 ローマで、バーチャル・リアリティ・バスがデビューした。トラヤヌスの円柱からフォーラム、コロッセオ、パラティーノ、チルコ・マッシモ、マルケルス劇場まで、古代ローマの最も重要な場所を最大14人の乗客で30分かけて周遊する小型完全電気バス。車で移動中、VRの魔法で乗客はタイムスリップし、遺跡が遺跡である以前の街の様子を見ることができる。

 各窓の前には透明な4K有機ELスクリーンが、スクリーンと窓の間には電動カーテンが設置されている。乗客は、古代ローマのモニュメントを見たいときはカーテンを上げ、現在の姿を見たいときはカーテンを下げる。

 遺跡に同期しての画像はもちろん、香りを放出する「フレグランスデリバリーシステム」も予定されている由。すなわちバスが神殿や広場、コロッセオ、チルコ・マッシモのそばを通るとき、古代ローマの香りを呼び起こすため、神々に捧げられた供物や乳香、没薬などの香料、闘技場で使われた様々な香料など、その場所に合った香りが通過するたびに放たれる、と。

 バスは午後4時20分から午後7時40分まで40分間隔で運行。英語での案内は5:00、6:20、7:40のバスのみで、他はすべてイタリア語。通常チケットは16ユーロで、オンラインまたはトラヤヌスの円柱のチケット売り場で購入できる。 6歳以下のお子様は無料でご乗車いただけます、とのこと。

 私が毎年通っていたころは「アルケオ・ブス」が走っていた。これはアッピア街道あたりの要所を走っていて、途中下車・乗車が可能だったので、遺跡めぐりには大変便利だったのでよく使ったのだが、間引き運転もよくあったりして、このあたりはいかにもイタリアだなと。それがいつの間にかなくなってしまい、大変がっかりしたものだ。だから、今回の試みはかなり複雑な構造なので、さていつまで続くのかはなはだ疑問だが、なくなるまでに一度は乗ってみたいものだ。来年までもってほしいものだ。

 以下、余りに豊富な情報なので、題目をリストアップするだけにとどめる。興味ある人は「The History Blog」に行ってみてください。

7/5:「カラカラ浴場地下に埋没していたドムスのフレスコ画が公開」

7/1:「トルコ出土のローマ時代石棺から切り落とされたエロス頭部をイギリスが返還」

6/22:「アンティキティラ島のヘラクレスの頭部が胴体から120年後に発見された」

6/21:「オランダで1世紀のローマ時代の聖域が発見」:ファルスも出ている

6/19:「ポンペイ、「ケレスの家」と出土馬骨格が再公開」

6/10:「ガロ・ローマ時代の聖域でブロンズの鷲と稲妻のカップが発見」:把手のユピテルのアトリビュートの雷鳴が興味深い

6/6:「フランスのル・マンのローマ時代の城壁」

6/4:「出土品の再生鋳造工場Fonderia Chiurazziのコレクション1650以上がポンペイ遺跡公園に寄贈さる」

6/1:「イギリスのケント付近からファルス出土」

5/23:「サルデーニャのPorto Torres出土のローマ後期夫婦の葬祭用モザイク画が復元展示」

5/21:「2018年コモ出土の水差し内からちょうど1000枚の金貨、その他出土」:これの重要性は、金貨の発行年代が後395−476年であり、うち744枚が455年以降(西部帝国滅亡末期)の打刻、という点にある。

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ポンペイの遺骨からゲノム解析に成功

 ポンペイ遺跡の中でも保存状態の良い建物の一つであるCasa del Fabbro(鍛冶屋の家:I.10.7)で、1932-33年にかけて行われたAmedeo Maiuriによる調査で発見されていた2名の骨格を、あらためて生物考古学と古生物学の学際的アプローチで分析したらしい。一人目は死亡時35歳から40歳の男性で、身長は約164.3cm。二人目は女性で、死亡時50歳以上、身長153.1cmだった。この身長はいずれも当時のローマ人の平均的な身長と一致するが、保存がよかった男性のほうからのみ全ゲノム配列を決定することができた。5/26にScientific Reportsで公開。

2遺体は、平面図の9から出土した。右写真は発掘直後のもの。左が男性

これまでは高熱に曝された遺骨ではDNAは破壊されていて調査不能とされていたが、最近の調査方法の進歩により解析が可能となった、らしい。

 男性のDNAを他の古代人1,030人および現代の西ユーラシア人471人から得られたDNAと比較したところ、現代の中央イタリア人およびローマ帝国時代にイタリアに住んでいた他の人々と最も類似していること、この男性のミトコンドリアとY染色体DNAを分析からは、サルデーニャ島出身者に共通する遺伝子群も確認された。これはローマ帝国時代にイタリア半島全体で住民の移動がなされていたことを示唆しているが、かの男性の場合はイタリア半島的特徴が強いので外国からの奴隷ではなかったと考えられている。

 また、この男性個体の骨格とDNAを追加解析したところ、脊椎骨のひとつに病変があり、結核の原因菌であるマイコバクテリウムが属する細菌群によく見られるDNA配列が確認された。このことは、この人物が生前に結核に罹患していた可能性を示唆している。この病気は、Celsus、Galen、Caius Aurelianus、Areteus of Cappadociaの著作で報告されているように、ローマ時代には風土病であったが、ごく一部の人にしか骨格変化が起こらないため、考古学的記録ではまれな病気であった。こうして、人間の移動にともなっての結核の蔓延も同時に立証されたわけである。

 こういう科学的調査を徹底的に行うことで、古代ローマ帝国のライフ・スタイルの実際が再構築されてゆくのが期待できそうである。

【余談】

ここの玄関の外に落書きがあった(CIL, IV.8364).

Secundus

Prim(a)e suae ubi-

que i<p=S>se salute(m) Rogo domina

ut me ames         

Secundusは、彼のPrimaに、彼女がどこにいようが、挨拶します。願わくば、女ご主人様よ、私を愛してちょ。

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遅ればせですが:水中考古学の本

 以前、山舩晃太郎氏の本とサイトを紹介したが、今年の2月になんと別の若者?が同種の著作を公表していたことを最近知った。

佐々木ランディ『水中考古学:地球最後のフロンティア』エクスナレッジ、2022/2。

 山舩君よりは8歳年上で、今から12年前にすでに一書『沈没船が教える世界史』メディアファクトリー、2010(ここでの著者名は「ランドール・ササキ」となっている:ちなみに彼は母親がアメリカ人のハーフ)をものにしている。テキサスA&M大学でも同門のようだが、お互いに面識はないらしい(そんなはずはないような気がするのだが、ま、いいか)。

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