月: 2023年3月

(5) 3/16の徘徊

 まず、その前日のリド・ディ・オスティアの海岸での夕焼けをごらんください。もちろん無修正(念のため)。私はこの鮮明なあかね色が大好きです。白い雲が朱に染まり、徐々に墨色に変わっていく。なぜか日本ではこんな夕焼けに出会ったことがない気がする。我らはこの夕焼けを堪能した後、中華料理屋でチンタオ・ビールと夕食を楽しんだ。

3/16 晴天。

 ドイツ留学中で先般我らと合流したGE君と二人でオスティア関係の遺跡めぐりを企て(OK君より譲られたオスティア遺跡の入場券が8日間通用でオスティア遺跡管理事務所管轄下の諸遺跡[Ostia Antica, C.Giulio II, Museo navi, Porti Claudio e Traiano, Necropoli]共通券18€だったので:なんと今回の訪問で知ったが、オスティア遺跡のみの1日券はなくなっていた! あとの選択肢は年間パスの40€。これってかなり大胆な実質的値上げじゃんかあ・・・。今年中にまた来りゃいいだろ、というわけか)、早めに駅前で郊外線バスのコトラル1.3ユーロを2枚づつ購入してイゾラ・サクラのマウソレオに向かう。乗車場は駅の若干左側。

 例の給水塔が右手前方に見えたところでシェンデのボタン押して無事下車、ところが早く着きすぎて10時だっけの開園まで間が持たないので、まず北の教会跡、その後、西のマウソレオを押さえ、そしてロータリーのところにあるバールでこちらでの朝食、ブリオッシュとカプチーノ。そこからちょっと西に歩いたところのエディコーラでポルトゥスに行く道を店の店主のお爺さんに教えてもらうが、橋が30分歩いた西にしかないので、橋を渡ってそこから川筋をほぼUターンして、計小一時間歩かないといけない、とのこと。

 とぼとぼ歩いてようやくポルトゥス公園の入口につき、2人いたクストーデさんの指示に従い、園内を北に道をとり、かなり歩いてやっと受付にたどり着く(入口に作っておけよ、といいたいところだ)。そこにも3名ほど人がいて、あっちがクラウディウス、こっちがトラヤヌスと説明を受けたあとは、無料の地図をもらって(別途、QRコードで説明を読むこともできる)勝手に自力で歩くシステム。遺跡の各所に説明板はあっても道順なんかの標識はない。野原の気ままな散策という感じ。このところの晴天続きもあって、もう雨期も終盤の趣で野原には可憐な花も咲き乱れ・・・。

トルローニアの館までいって、最近発掘中の皇帝宮殿方面はパスして(後から考えたら、今度はいつになるのか不明だから、こういう判断は実に馬鹿げているのだが)、帰路に移る。入口への帰り際にすれ違った見物人は2組のみ。すでにかなり疲れていたので(約1時間の無駄なUターンがきいていた:あのロータリーあたりに橋があれば、または陸橋の自動車道に歩道があれば、こんな苦労はしなくてすむのに・・・)、ケータイでウーバー方式のタクシー呼んで船舶博物館への道を探ろうと思ったが、まずは途中で見かけた中華料理屋(例の赤い提灯ぶら下げている)で昼食をとひたすら歩いて、そこでビールを飲んで元気になり、GE君のケータイで首尾よくタクシーも来てくれた。それに乗ってケータイでの事前提示料金20ユーロで船舶博物館に到着。

 私は18ユーロの入場券で、彼は40ユーロの年間パスで無事入場。20年前と比べて今回内装もすべて改装されたようで明るく(昔のはなんだか薄暗く寒々とした印象の記憶が)、船の展示はいうまでもなく、説明板、関連展示もなかなか体裁よくあか抜けている(一部、フランスの手が入っているようだ)。本物とコピー取り交ぜての展示物の中でひときわ私の注目を引いたのは、船舶繋留装置であった(表示には「Bitta d’ormeggio, marmo, Portus, II secolo d.C.」、すなわち(船の)繫留柱、大理石製、Portus出土、後2世紀、と書かれていた)。私にはトラヴァーチンにしか見えないのだが。その直後、それ関係で予想外の遭遇もあったのだが、その時はそんなこと知るよしもない。我ら以外の入場者はフランス人男性一人のみ。そこになぜか係員5,6名はたむろしていたな。なんとも贅沢というかいたずらに無駄な感じである。

しかしこんな平べったい石の突堤への差し込みで船がちゃんと係留できたのであろうか:土留め装置もないようだし
私がこれに異常接近していたので、お喋りしていた2人の女性監視人の注目を引いてしまった。ぎりぎり何もいわれなかったが、それで計測するのは諦めた。

 そこを出て、我らは博物館の背後の野原にそっと向かった。突堤跡とかつての港の管理者の官舎跡を見るためだ。群れてお喋りに興じていた係員たち、監視カメラ見ていなかったのだろう、警告を受けることなく、そこでなんてことない平凡な写真を撮ることができた。それが以下の写真。実は20年前にこの角度で撮っていたら「ピーッ」と鋭い笛の音がして、なにごとやあらんと周囲を見回したところ空港方向のはるか向こうの建物の影に自動小銃構えた兵隊さんが・・・。要するに飛行場だし軍用地だからこっち側を撮るなという警告だった。わかったわかったと手を振ってあちらに背を向けて写真撮った体験あったので、実は今回もビクビクモノだったが、今回は何も起こらず・・・。

こんもりとした凸が緩い左カーブを描きながら向こうへと続いている

 だけど、そのあと最初に見学を飛ばしたイゾラ・サクラのマウソレオに帰ろうとして、右往左往、この日の徘徊が始まったのであ〜る。まずはバス停をさがすがみつからない(空港内巡回の無料のシャトル・バスのはあったが、郊外線のコトラルのが・・・)、GE君のケータイ情報でそれがあるというちょっと離れた北側に自動車道を歩いて向かう。

 その途中でなんととんでもない遺跡に。それは博物館の裏にあった突堤の延長で、自動車道で切断された向こう側の続きだった。それ自体の存在は平面図で知ってはいたが、それを目の当たりにできたのは、この徘徊の思わぬ副産物であったのだし、しかも博物館の裏のそれには見当たらなかった、私にとってきわめて興味深い痕跡がそこに認められ、俄然興奮も高まったのであ〜る。それは、トラヴァーチンないしトゥーフォ製、ないし大理石製と思しき船舶繋留装置が抜かれた跡、のはずなのだ。文字通り、犬も歩けば棒にあたる、豊田が歩けば遺跡にあたる。だから徘徊はやめられな 〜い。

自動車が疾駆するこんな自動車道をヒヤヒヤしながら歩いていると・・・(右側が博物館区域)
左手の草地に突堤の延長が…
よくよく見ると等間隔で穴が開いているじゃないの、これはひょっとすると・・・

 たぶんひょっとしたわけである。最左付近での穴ぽこ間は平均141-150cm、穴の大きさは横幅30,縦25cm、といった感じで、我が愛すべき米軍御用達のガーミンによる測定高度は−14mと出た。え、なんでぇ?

 この出会いで私は充分満足したのであるが、その遺物を通り過ぎて自動車道から見返すと、おっとっと、

 さらにその偉容が偲ばれることとなった。これは博物館裏の突堤跡ではそれほどの高度差でなかった光景だ。その手前地面にぽつぽつ見えているのは、照明灯。ということは,夜になると闇にこれが浮かび上がるのだろうか。夜、こんなところに誰が来てみるというのか。もっともイタリアのこと、すでに点灯しなくなっていそうなものだが。

 ちなみに我が愛すべきガーミンによるこちら側の測定高度は40m! ものの10分でのこのでたらめさにはもはや苦笑いも浮かばない。

 その後、その先のロータリーまでいくが、停留所が見つからないので、タクシーを呼ぼうとしてこれもうまくいかない、たぶんあまりにも飛行場に近いせいだろうとのことで、来た道を博物館までまた引っ返すが、そこでもタクシーはなぜかイタリア語をまくし立てて,待てど暮らせど来てくれない(キャンセル3回)。しょうがないので明るいうちに飛行場のターミナルまで歩こうということになって、それは自動車道をあれこれいくつも強制横断するということを意味するのだが、無事成功し、私は初めて徒歩でローマ空港にたどり着くという快挙を達成することができたのであ〜る。これを得がたい体験といわずして・・・、なにをか言わんや。

 なつかしのターミナル3のタクシー乗り場で乗車(差配していた係員に「荷物は」と問われて「ない」と答え、怪訝な表情されてしまった:おれたちは無一文の難民か)、運ちゃんにはトゥット・トレンタと連呼して(全部で30ユーロ、のつもり:ローマの雲助運転手、下車時に一人30だと言いかねないので)、運ちゃんもメーター倒さず動きだすが、どうやらオスティア橋での事故のせいで渋滞に巻き込まれさんざ時間とられながらもリド・チェントロ駅に到着。運ちゃんお約束の30ユーロ以外に渋滞にこと寄せてチップを要求し出す。面倒なので金満日本人の端くれとして5ユーロ札を出すと喜んで引ったくる。

 18時過ぎてのご帰還に、心やさしいOK氏はわれらのためにビールを残してくれていた。夕食は米を炊いて、ふりかけに湯を注いで軽くすませ、早く寝る。28580歩。これって今回最高歩数だ。

【追記】この突堤等については、以下参照。http://www.ostia-antica.org/portus/plan-claudius.htm

 ところで、帰国後1か月過ぎて興奮が醒めて見直していて、気がついてしまった。ポンペイの係留装置の計測は、横23cm、縦44cmだった。これだとフイミチーノのアナポコよりは微妙に縦が大きくなる・・・。ということは、フイミチーノのはポンペイと規格が違っていた可能性もある。やっぱり船舶博物館で計測すべきだったなあ。

【追記2:2023/5/17】あれこれ調べていると、現地研究者たちはあの穴を係留装置の抜けた跡とは考えておらず、ウィトルウィウス『建築書』叙述に依拠して、堰堤構築工法における横木の露頭部分と捉えているようだ。まあ、このあたりの発想の工学的知識の欠如は私のような素人の哀しさであるが、丸太にしては穴の断面が大きすぎる気がするし、背面の北側に見当たらないのはおかしいな、と思うのだがどうだろう。いずれにせよ、この問題は継続検討したい。

Filed under: ブログ

(4) 移動日

 3/11早朝に起きて、それなりに住みよかったポンペイのコンドミニオを後にする。私には未だよくわからない現金の宿泊税(ポンペイでは1泊2ユーロ)と鍵を室内において扉をしめれば、はいサヨウナラという仕儀。駅で巨大な荷物を持参するOG君と合流してからしばし、めずらしく周遊鉄道が定刻通りやってきた。

周遊鉄道は、相も変わらず落書きだらけの車体だらけ:一部きれいなのもみかけたが

 ナポリ駅で荷物を預け、地下鉄に乗り換えてカヴール駅経由で国立博物館へ。ビザンツ関係とかの展示会をしていたが、大枠展示に変わりばえなし。ここも、高校生とおぼしき集団がガイドないし引率教員に誘導されて多数群れていたが、その大多数の疲れ果てて無関心な顔つきを見ていると、どこも同じで、学校教育の限界について、久々に思い巡らされてしまったことだ。しかし思い起こせば、けっしていい生徒でなかった私が未だこんなことしているのは何故なのだろう。

 その後どうなっていたか気になっていたアレクサンドロス・モザイクはまだ修復中で、その場所には合成布製?の複写がぶらさげられていた。

 2時間の見学を終え、足の都合というわけではないが、地下鉄で博物館前から大回りしてナポリ駅(ガリバルディ)に移動。そのとき車内で面白いものを見つけた。ちなみにポンペイでは全く見かけなかったマスク姿をナポリではちらほら目撃していたが。

車中でも距離を取りましょう、という表示が地下鉄車両の床に貼られていて:これいつまで残ってるんだろうか

ナポリ駅2階で慌ただしく昼食をとり、イタロという別会社に乗るOG君と別れて、我らはFSに。と、まるで我ら二人の専用列車のおもむき。どうしてこんなに乗客いないのだろうと思っていると、ときどき停車もするし、それで行きのFrecciarossa(1時間強) と違って2時間ちょっとのIntercityであることを知る(あとから家族連れ数名が乗ってきて、よりによって我らの横列に座るんだなあ、これが)。

 テルミニからピラミデ経由でリド線に乗るが、3年前の未使用の乗車券が使えたことはダメ元だったので、ありがたさと同時に意外感あった。車内にはナポリと比べ一段とマスク姿の、特に老人がぼつぼ目に付いた。通い慣れたオスティア・アンティカ駅を通り過ぎ、チェントロ駅で下車すると、予約したOK君は今回の宿舎は駅の直ぐ裏ですと簡単にいうが(実際に裏の線路脇なんだけど)、そこをめざして重いスーツケースを引きずって線路の陸橋を超えてまた下るのは、今の私には一苦労で、彼に助けてもらうしまつ。75歳、老残である。

 着いた場所はコンドミニオ群といったほうがいいような、規格化された新しめの4階建ての建物群で、その前で待っていることしばし、OK君から連絡受けてやって来たのは、まれに見る上品な初老のご婦人だった。古代ローマ史でマトロナと呼ばれる「既婚婦人」もかくやという印象。しゃ、写真を撮ればよかったなあ。その彼女が手に持った携帯を我らに差し出す。見れば日本語で「身分証明書をみせていただけますか」とか「それを写真にとっていいですか」の文章が。ここまでグーグルの翻訳が活用されているとわ!  ローマの宿泊税は一人3.5ユーロ/日。ここはそれが前払いだった。ただ契約したOK様いわく、ここの借り上げ費は安く、日本円で一日一人当たり4000円ちょっとなのだ、と大いばりなのである。とまれ内装も小綺麗で清潔感にあふれ、年金生活者にやさしいので感謝です。簡易ベッドを含めれば4-5名は宿泊可能とみた。

よくみると一部5階もあるが、エレベーターはない、はず。われらの住居は3階。

 チェントロ駅の前には大型のスーパーがあるのは知っているが、疲れているので、こちら側の街を歩き、アリメンタリイと小さな売店をみつけ、とりあえず前者でパンとトイレ紙、宿舎に近い後者で水・ビール等を買う。後者はモロッコさん風の店員が、いちいち電話で値段をボスに聞いていたようで、察するににわか仕立ての店番か。

 そのあと、これまで中華料理を連呼してきたOK君に引きづられるように、陸橋を越えてチェントロに出る。以前滞在していたことのある宿舎への道だったので見覚えある通りで、繁盛している寿司屋を横目に、たどり着いた店でまず見せられたのがやたら大きく拡大されたバーコードで、なぜかメニューと一緒に持ってこられる。OK君が聞き取った説明はバーコードが英語版のよし。しかしここでも注文は口頭。あと、支払いもクレジットが主流とみたが、我らは現金。

 家に帰れば、シャワーを浴びる気力もなく私は爆睡するのであった。

【追記】今回の2箇所のコンドミニオの台所で気になったのは、電化製品の普及である。今滞在中の台所の写真をみよ。

手前がコーヒーメーカー、中が電動ヤカン、右はこれまでもみたことある電子ヒーター?

偶然だろうが、ヤカンはポンペイもまったく同じ銘柄だった(そこには電子ヒーターはなく、ガスだったが)。後から気付いたのだが、下には自動食器洗浄器と、レンジ・オーブンも付いていた。しかしこの家にはマッキネッタがないのには、畏れ入った。カプセル買わないとカフェも飲めないとは。ちなみにこの機械(LAVAZZA A MODO MIO)、後から調べたら、どうやら日本では未発売のようで、ちゃちな作りの割には1万7千円はするしろもの。泡立ちがよくてバール並みのコクなのでついほしくなるのだが、日本の水でははたしてどうだろうか。練馬の自宅ではわざわざデロンギのを買って使っているが、味は全然駄目なのである。犯人は軟水のせいというのが私の見立てだ。

Filed under: ブログ

(3) ポンペイでの追加訪問地:Morgine発掘地点

 そういえば、今回是非とも訪れておきたい場所があったのを思い出し、大荒れとの天気予報が大外れの曇天下、遺跡から南に700mを午前中に往復しました(これ書いている午後1時半、しっかりと雨が降り出したようですが、しばらくしたらまた太陽が・・・:こちらの雨期はこんなのとか、夜のうちに降っているとかが多い感じです)。iPhone計測で往復5600歩程度で、驚いたことに7日にねじった右膝がかなり回復していて、普通に歩けるようになっていることでした。

 さて、件の場所とは、ポンペイ遺跡の大体操場内にこのところ豪華なフレスコ壁画が掲示されてきた「Morgine=argo Murecine」遺跡のことです(今回、以前の展示よりだいぶ縮小されてしまった印象あります。奥のほうには別の新展示が開陳してあって油断ができません)。

 足の不安があったので、あらかじめiPhoneの地図で道順を見極め、それを頼りにとぼとぼと行ってきました。確かにあれ便利ですね。  

 国鉄の線路を高架で通り抜け、着いた先はネギなど植えられた農地や草ぼうぼうの空き地で、そこを東西に高速道路が横切っています。その工事中に発見された古代遺跡からめぼしいものを保存切り取って、道路建設が優先され、今や高速道路の下になっているようです。表示くらいあるだろうと期待したのですが、それらしいものは見当たりませんでした。作業中の農婦さんに発掘現場(スカーヴィ)はこのあたりですか、と聞いたけど、そう、だけどもう自動車道の下になったり、埋め戻してたいらになってるよ、という感じのやり取りでした。そのとき横を車ですれ違った主婦さんも運転しながら「ああ、スカーヴィね」と言って、直ぐ近くの住宅に入って行かれてたので、ご近所からすると、物好きな輩がまた来たわ、という感じでありました。

奥に壁のように見えるのが高速自動車道:発掘地点はたぶんこの道の行き止まり、というかトンネル付近

 ガーミン計測での海抜は59mで、ちなみにこのあと昼食にポモドーロのパスタを食したFS国鉄駅ポンペイのレストランあたりは63m、例の引き算すればそれぞれ、標高5m、9mとなるのですが、さてどんなものでしょうか。

 このそばを、往年のサルノ川の本流が流れていたはずですが、なにかで読んだブログでは、近年著名な公害垂れ流しのドブ川となり、暗渠化されてしまったとされてたはず。でもグーグル・マップなんかみても3、400m南をちゃんと流れているようですが、今回そこまでは行きませんでした。

Filed under: ブログ

(1) 3年振りのイタリア調査旅行

 3/1に羽田を発って、21日までイタリアにいます。前半はナポリ経由でポンペイに行き、エルコラーノにも足を伸ばします。後半はリド・ディ・オスティアに滞在し、主としてオスティア・アンティカ遺跡に通う予定。

 今日は3/4。昨日までのメモをアップしておきます。

 今、イタリアは雨期ですので、毎日のように曇天・降雨です。コロナの影響でしょうか、3年前にはあったなじみの中華料理屋がローマのテルミニ駅前でもポンペイでも消えていたり、やっぱり影響が出ている感じです。ちなみに羽田発の直行便は、乗客は4割程度でがらがらで、皆さん席を占領して横に寝てらっしゃいました。ローマからナポリの特急列車もがらがら。イタリア人でマスクしている人は例外的存在です。私も顔をさらしているので、帰国してからがこわいなあ、と。
 3/2 ポンペイ行く途中でいつも寄るナポリ駅前のリストランテ・ミミで待望の海の幸のパスタと白ワインをおいしく食したのですが(チップを含めて一人あたり40€)、日本語メニューは消えていて、イタリア語だけという地元民主体の体制になってました。その後のポンペイ行きのウェスウィオ周遊鉄道はさすが地元民で混雑していましたが。

 以下は、事務連絡で送ったメールの一部ですが、転送します。

 実はもうポンペイ初日にして得がたい体験をすることができ、我ら参加者一同は大感激、ちょっとすぐには消化しきれないほどの体験をする事できました。

 昨日(3月3日)のポンペイ調査では、通訳のイザベラさんのねばり強い交渉とお人柄なのでしょうが、クストーデ(現場の番人)との関係が上手な感じで、特にCasa di Maius Castriciusの見学ではクストーデのドミニコ氏の裁量で我々の現場での飛び入り要望に次々と応じていただけ(申請場所はそこそこに、隣接しているM.Fabius Rufusの大邸宅の迷路めぐりとなりましたが、これが本当に圧倒的な体験で)、挙げ句なんと修復工事現場でのゆらゆらゆれる簡易エレベータに乗せられて(私は本当に怖かった!)11mの最上階と地面を往復するなど、得がたい体験と見学(とりわけ,迷路のような多階層で豪華絢爛な3階立ての大邸宅を上から下まで見せていただき、その途中に現場保存の遺体とも遭遇、その上、その南に面した切石造りの城壁の観察(上記邸宅はそれ以前にできていた城壁裏を利用して建築されたもの)、地上の中庭西壁のナイル川風景のフレスコ画などを見学することができまして、大感激の呈でした。私がポンペイに通い出して以来ずっと閉鎖されてきた邸宅なので、許可見学そのものが感激ものなのですが、全く期待を裏切らない偉容でした。興味ある方は以下をご覧下さい。https://sites.google.com/site/ad79eruption/pompeii/regio-vii/reg-vii-ins-16/house-of-m-fabius-rufus?tmpl=%2Fsystem%2Fapp%2Ftemplates%2Fprint%2F&showPrintDialog=1

 午前が終わり、これもコロナの影響なのでしょうか、見物人が激減したせいなのでしょう、ここもバールだけ営業の営業休止の遺跡内レストランで、いつもと違い混雑していないのでゆっくり昼食休憩したあと、3人でポルタ・マリーナ門の従業員出入口から港湾跡への侵入を試み、番人たちの目をぬすんで部分的に裏側からの接近に成功しましたが、正式の入構許可証もありますので、正面突破は後日を期す予定です。

 かくして、初日から若い二人に引きずられて2万3千歩歩かされ疲れ果てました(円形闘技場門からポルタ・マリーナ門まで片道30分の遺跡外道路の往復がこたえました)。みんな中華を食べるのを楽しみにしていたのですが、店は消えてました。イタリアに来て、日本では感じなかったコロナの影響とおぼしき現象を散見し、改めてその傷跡に触れている思いです。
 
 しかして期せずして、本日4日は休養日とあいなりました。
見学場所の前で:右から、通訳のイザベラさん、クストーデのドミニコ氏、調査隊の2名
小部屋の中の遺体。これ未公開じゃないの?:頭蓋からは歯がみえていた。足には布のひだが確認できた
南地面から見学箇所を見る。正面が城壁、その上にせり上がっている邸宅群
西端から郊外浴場方向をのぞき見る:中央を横切っている段丘に船舶繋留装置の列が見えている
Filed under: ブログ