東大出版会から月刊『UP』608、2023/6月号が届いた。毎月真っ先に開くのは山口晃氏の「スゞシロ日記」であるが(私はなにせ練馬に住んでいるし)、今回次いで表題にひかれて池上俊一氏の「歴史における嘘と真(まこと)」を読んで、いささか考えることがあった。その後半末尾の要旨が以下である。
中世において、「真の過去とは、神の意志に合致したものであるべきだった。だから断片的な記録しか手元になくて大きな隙間が空いているときには、あったかもしれない、否あるべきだったーーそのほうが、神の思召にかなうーー記録を創って、その隙間を埋めたのである。偽造は、修道士や聖職者にとっては、より大きな善、神の栄光のための聖なる欺瞞行為であった」(p.7)。
最後の一文はイエズス会のモットー「神のより大いなる栄光のために」(A.M.D.G=Ad Majorem Dei Gloriam)を私につい思い出させてしまった。池上氏は具体的に、メロヴィング朝の証書の約60%、カロリング朝カール大帝下での約40%が贋作と判明している、等々と数字を挙げている。中世においてこういう事実があったことはそれとなく知ってはいたのだが、ここまで高率だったら、今回つい時代をさかのぼって、我々がこれまでローマ史で「史料」として珍重してきた文書史料、はたして大丈夫なのかと思ってしまったのである。
というのも、おりしもある読書会でテキストにしているキース・ホプキンズ『神々にあふれる世界』岩波書店、2003(原著1999)年の下巻をまとめていて、初代キリスト教の信者たちが、自分たちの信仰によかれと、自分たちに都合のいい筋書きで次々とイエスの物語を紡いできた挙げ句がキリスト教の正典『新約聖書』や外典・偽典なのである、とあっけらかんに述べている箇所にぶつかってしまっていたからである。
これまで研究者によって新約関係の文書には考えられる限りの精緻な史料精査が加えられてきていて、そのあたりの事情は水準以上に知っていると思ってきた私であるが、自分の信念にとってよかれと思っての捏造創作意欲、という視点は今さらながらちょっとした落とし穴だったなあ、とそんな思いに捕らわれてしまったのだ。文字を操れる立場にあれば、なにも修道士や聖職者だけにその傾向があったわけではなかろうし、と。なにしろ人間は平気で嘘をつける、すべて善意というわけではない、そういう存在なのだから。
文書史料を扱う上で、著者の著述意図を踏み誤ることなく、事実をあぶり出すことの困難さを改めて感じてしまった。たとえば、書き手の主観が入り込みやすい叙述史料に較べて、比較的手堅い史料と考えられている法律文書にしたところで捏造とはいわないまでも写字生による誤記はもとより、編纂者による意図的ないし意図せざる改竄も当然予想されてしかるべきで(ここまではどの研究者も同意するはず)、ならばもう一歩進んで何らかの理由での捏造挿入も想定されるべきかもしれないのである。私はそれをかつて扱ったことのあるディオクレティアヌス帝による「マニ教禁令」での諸矛盾を含んだ文言をどう解釈すべきかで直面したことがあった。当時は、捏造の可能性などはまったく思いつきもせず、当然のように真正文書との前提で扱ったのだが、はたしてそれでよかったのであろうかと今は思うことしきりである。写本の発見が後世であればあるほどその可能性が紛れ込む余地は大になるはずだし。
それにしても、はたして事実は奈辺に存在しているのであろうか。かくして、より客観的な証拠を求めようとするならば、私などどうしても、考古学をはじめとする学際的な諸研究を視野に入れたくなってくる。そうしたところで最終的に結論が出るとは限らないのだけれど。
【補遺:2023/6/26】関連で田川建三がらみで補遺を書いたのだが、更新を忘れて終了してしまったので、あたり前だが原稿が消えてしまった(この耄碌振り、なんともまあ困ったものだ)。今、再度書く気力はない。いずれ改めて書くかもだが、彼の『ヨハネの黙示録』(作品社、2017年)で、古代ローマ史関連で面白い記述を見つけた。まずはp.534-、ローマ皇帝崇拝をめぐってである。それに関して研究の真似事やった記憶のある身には痛い内容だったが、参照してきた先達の國原も弓削も写本レベルの問題にそんなに触れていないのだからどうしようもないが(弓削は第一〇巻は真正文書と気安く請け負ってさえいる:日本基督教団出版局、1984年)、しかしだからといって安直な孫引きの言い訳にならないわけだ。日本に限らずこういったレベルは紹介であっても研究とならないわけで。突っ込めば即国際レベルの論文になりそうな気配なのだが、新約聖書学者の田川に教えられてしまった。慚愧。(ただ、小プリニウスによるウェスウィオ火山噴火日時問題については、ちょっと言いたいことある:8/24-25と小プリニウスがつい書いてしまった彼の頭の構造にかかわることで、まだ誰も言及していないようなので、これもいつか触れたいテーマではある)
蛇足として面白かったのはp.523-で、そこで田川は日本有数のマルキスト高坂逸郎(田川は名前を挙げてはいないが九州大学としているので明々白日)のドイツ語読解が誤訳であると書いているだけなのだが、私がウィキペディアでちょっと調べたら面白いエピソードに出会ってしまったのである。それが向坂逸郎と岡崎次郎の、岩波版マルクス『資本論』の翻訳と印税がらみのちょっと陰湿な話である。著名人の名前で翻訳を出しているけど、その実、下訳に手も加えず、印税はちゃっかりともらっちゃうという、(今に通じる!)出版界の恥ずべき内幕に私には思えてならない。社会的に清廉潔白を装っても、研究者の堕落した実態の一端が暴露されていて興味深いが、それはともかくとして、誤訳についての田川の指摘は、自虐志向の私などには痛快でさえある。要するに、〇〇の専門家といっても、ネイティブでない外国語について、すみずみまでニュアンスをとれるほど堪能でない研究者は(圧倒的大部分のはずだ)、たいした根拠もない○和辞書掲載の訳語をあてはめてお茶を濁しちゃうわけで、今も昔もこんなものであって(私自身若干真似事しているのでよくわかる:戦々恐々、実に苦痛に満ちた苦々しい営みである)、それを出版社の権威のもとお金払って誤訳だらけの難解な文章を読まされる読者こそいい面の皮である。翻訳天国の日本文化は同時に誤訳天国なのだ。
ま、来世など信じないマルキストにとって、死後での失態暴露などどうでもいいことかもしれないが。来世を信じているはずのキリスト教徒もご同様ではお話にならないだろう。
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