古代ローマ史のイタリア語論稿を読んでいて、幾分唐突に出会った箴言である。ヒッポクラテスも言っている、la nostra vita è breve ma le ricerche continuano, la conoscenza acquisita è ingannevole, il giudizio è difficile. だから私はもう述べますまい、という箇所での引用だった。
前半はどこかで聞いたことある、なかなかしゃれた文言だなというわけで、典拠を知りたくてググってみたら、ヒッポクラテス『全集』の冒頭に書かれているらしいことがわかった。「人生は短く、術のみちは長い」。これはどこかで聞いたことある。しかしその次に以下が続いていることは知らなかった。イタリア語訳だと「得られた知識は欺瞞的で、判断はむつかしい」となる。私が惹かれたのは「得られた知識は欺瞞的で」という箇所で、これを私は「現段階の研究は将来乗り越えられるそんな存在に過ぎないのだ」と読解し、こりゃ研究者たる者常に頭に刻み込むべきだと感じたのである。しかし原文だと「機会は逸しやすく、診断はむつかしい」、すなわち、彼は医者だから、この箴言の本来の意味は「短い人生の間に、医術の道を究めるには時間がかかる。しかも患者に適切な処置を施す機会は逃しやすく(失敗することも多く)、実に診断はむつかしい」といった意味になるはずだ。翻訳が重なっていくうちに、原意が微妙に曲げられていくわけである。
世に流布している前半についても、ゲーテによって順序を逆転させて「芸術は長く、人生は短い」などと言われる場合が多く、芸術至上主義の表明と明らかに意味が変化してしまっている。問題は、ヒッポクラテスは芸術なんて意図していなかったにもかかわらず、なのだ。これはそもそもギリシア語原文でのtechneが、セネカによってラテン語でarsと訳され、それが英語のartを経て、日本語では「芸術」に変じたからである。これについては泌尿器を専門とする医学部教授による論稿をみつけた。斉藤博「ヒポクラテスの箴言「人生は短く,術のみちは長い」について」『埼玉医科大学医学基礎部門紀要』10、2004,61-75ページ。
換骨奪胎、誤訳文化ニッポンの面目躍如である。もちろん立派なグリーク・ラテンの諸先生たちはさすがに読み誤ってはいないようだが、なにせ大多数の常民にとっては世に膾炙している俗論(俗事)のほうが耳に快いわけで(だからこそ流布する)、いくら「本当はこうなんですが」と指摘したとしても蟷螂の斧なのである。げに刷り込みは恐ろしい。いや、知名度の差というべきか。
余談だが、上記論文には孔子『論語』の例の有名な文言も出てきている。だけど十五歳から六十歳までの格言、私にはこれまで少しも納得いかなかったのだが(私の場合、そんなに思い切りよく、どれも断念できなかったので)、今回「七十にして心の欲する所に従って、矩をこえず」にいささか思うところあった。76歳目前の私の場合、矩をこえるエネルギーが既に失われちゃっていて、もはやこえようにもこえることができないというわけなのである。
コメント 0 件