思い立ってこのところ粗大ゴミの断捨離が続いている。これまでは、使用不可となっていたプリンタや大学から持ち帰っていた大型スキャナの断捨離だったが、ずっと和机でやって来た老妻が、足がしびれ立ちあがるのも億劫になってきたので(机に両手をついてよいしょとかけ声かけないと立ちあがれない)、椅子にすわる洋机にしたいと言いだし、津山で家を新築して以来40年近く使ってきたそれなりに重厚なヤマハ家具製の座机を捨てることにし、組立ても簡便な安価な勉強机を購入した。しっかりした勉強机用の椅子は何本も出ている足がじゃまといって、部屋の隅に転がっていた補助的丸椅子でいいのだという。つくづくお金のかからない人だ。
昨夜その入れ替えをおこなったのだが、その後に机横に置いてあるゴミ箱を空にしようと持ち上げたらやたら重い。断捨離趣味の妻らしく、この機会にあれこれたまっていた雑品を一掃しただけでなく、なんと本を数冊ゴミ箱にぶち込んでいたせいだ(医学関係もあった)。これが私にはできない技なのである。
そして、その入れ替え作業で痛感したのが、老人の断捨離って意外と難儀だなということだった。当たり前のことだがもう若くはないわけで、和机の足を分解し、やたら重たい上板を玄関外に運び出すだけの作業で若いときはなんてことないはずなのに、腰に負担がかかっている感覚のせいで、否、そういった肉体的以上に精神的にそれに触発されて動きが緩慢になりタイギイのである。
私にとってより喫緊の課題は書籍の整理で、実はこの一週間、イタリアから届いたばかりの薄いパンフ形式の本が行方不明となっていて、積みあげている書籍の山の中をあれこれ探したけど未だ発見できていない(上のほうにあるはずなのにない、だから引っかき回す、だけどない,否、目にとまらない)。時間はあっという間に過ぎていってバカにならないし、そのプロセスで不要な書籍がまたえらくたまっているな感に捕らわれたのだが、家具の時もそうだったが、それなりに思い入れもあるモノを捨てるという営みは、私のように昔から脳外記憶保存型の(要するに生来記憶力が弱いからそうなる)、周辺にそれに代わるモノを置いておかないと安心できないわけで(記憶力がよければこんなこと不用だろうが)、はなはだ苦手な作業なのだ。だがしかしどうにかしなきゃと重い腰をあげる気になっているのも、死後に迷惑かけたくないということよりも、空間的にもう限界こえている思いが最近とみに出てきているからだろう。だけど妻のようにゴミにして出す思い切りのよさは私にはないので、そのためかかるであろう時間・手間が意識に先走るから厄介なのだ。
実際には再び広げて参考にすることもないだろうコピーの山も厄介だ。いつかまた見るかもとか、必要出てくるだろうからと、ファイルボックスの中にそれなりに項目別にいれている書類の山が場所を塞いで増殖していて、これまた老妻の怨嗟の的となっているのだが、あと○年で終わりの私の研究人生を死亡時から見返してみるなら、もうすでに不用品のはずといっていいのだが。
そう、この発想がようやく芽生え出したというべきか。
ああ、ベランダ隅のゴミと化した藤製戸棚の分解もしなきゃならんが(ハリーポッターが始まって豊島園にカラスがもどってきて、てきめん姿を消していたハトがまたなぜか出没し出し、そこでくうくう鳴いているし)、この暑さである。一日延ばしにしてきたが、夕方になって陽が落ちたらやるかのう。
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