そろそろ日常復帰:なのに礫川全次を覗く

 年末から年始にかけて、リタイアしてもそれなりにある定例のスケジュールから解放されて、没頭してきたことから(結局まとめきれなかったが)、そろそろ復帰する時期に来ている感じで、今日からと思っていたのだが、ふと過去ログを点検しているうちに、2019/9/3の書き込みで、ほんとうに久々に礫川全次(こいしかわ・ぜんじ)に目がとまり、彼のブログに行ってつまみ読みすることになって日が暮れてしまった。https://blog.goo.ne.jp/514303

 彼は私と同世代で「団塊の世代の在野史家。年金生活者。趣味で原稿を書き、たまに稿料、印税をいただくことがある。南方熊楠、尾佐竹猛、中山太郎といった在野系の研究者に惹かれる」と自己紹介している。私も年金生活者だが怠け者で、「たまに稿料、印税をいただ」けるなんていいご身分でうらやましい。今回目についたのはこの新年の1/6に書かれた「大野晋(すすむ)さんの話は素人受けしやすい」。内容は、田中克彦『ことばは国家を超える』(ちくま新書、2021)の引用で、まあウィキペディアなどに書かれていない大野への同業者によるそれなりに角度のある洞察である。ここでは自分への自戒を含めて引用する。

 「大野さんの著書にはよくあることだが、その説の提唱者、発明者のことにふれることは一言もなく、まるで全部がご自身の発明かのようにしてどんどん話が進められるのである。だから大野さんの話はしろうと受けしやすいのである。ことばについてしろうとという点で最たる人たちは作家である。たぶんこれは大野さんが親しくつきあわれたらしい作家たちのよくない習慣に学んだものではないかと思う。作家という名を帯びる人たちは研究者たちの仕事から多くのヒントを得ながらも、決してそれには言及しないという文芸世界特有の流儀が身についているらしいのである。
 それからまた大野さんには、単に「著者」という立場を超えた、一種「エディター(編集者)気質」のようなものが感じられる。それは自分の手で研究し開発したというよりも、近隣の畑から気に入った野菜を集めてきて、楽しい料理を作ってしまうわざにたとえられよう。その気軽な気質が、自分のとは異なるいろいろな専門の研究室を渡り歩いて必要な知識を集めるという作業に向いているのであろう。」

 前半と後半は実は通底している。前半は研究者としてはどうかなと思うわけだが、論旨をすっきりさせるにはくどくど学説史や注釈をいれていないほうがいいのは確かである。普通は個別論文で細々書いて、一般向け著書では「拙稿○○参照」としたらスミなのだが、彼はそれをしない人だったのだろうか。後半はこれは一種の才能ともいえるので、私的には無碍に否定しようとは思わないが、まあ本家取りされた側からすると「勝手ないいとこ取りも、いいかげんにせーよ」ということになる。本人にとっては身を削っての乾坤一擲の研究成果を横から易々と盗まれてはたまらないのだが、これは被害者側にしかわからないことだし、節度をわきまえた?研究者が声を上げることはほとんどないし、たとえあげたにせよ無名なので、めったに表ざたにならないわけだが。

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