文献的にカエサル『ガリア戦記』VII.69,72の、アレシア包囲戦で書かれていた封鎖施設、逆茂木の木製スパイクの考古学的実物が今回初めて出土確認された。すなわち現段階で唯一無二の実物である(発見はちょうど一年程前)。ということは、現在のアレシア遺跡での復元は実見に基づくものでなかったわけだ。古代史ではえてして未だこんなことだらけである。
この遺物は、ドイツのラインラント=プファルツ州のコブレンツの東10kmに位置するバート・エムスBad Emsの、ブロースコフBlöskopfの丘の水浸しの土壌のV 字型の溝の中にあった。考古学者によって「溝の槍」pila fossata ないし「尖り棒」cippi と呼ばれるそれらはオーク材で作られ、長さ平均65センチメートル、直径平均4.5〜6センチメートルだった 。今日の有刺鉄線に似た装置だったと書かれる場合もあるが、それは砦防御壁斜面に埋め込まれている場合に妥当するように私には思える。
この付近は後世に銀の産出地であったので、下記地図のRömisches Hüttenwerk(ローマ時代の精錬所跡)関連の表示板周辺からそれと知れる(但し、この精錬所遺跡は19世紀末の発掘時に想定された仮説で、現在では否定され、ローマ軍キャンプの監視塔構造物とみなされている由)。銀鉱山の試掘調査と安全確保のための砦防御施設だったのだろうが、後47年頃の開発では有力な鉱脈に行きつく直前で放棄され(後世になって200トンの産出があったとの記述もみつけた)、撤退時に敵に利用されないように逆茂木は穴に放り込まれ、監視塔には火がかけられたらしい。
文献的には偶然にも、タキトゥス『年代記』XI.20-21から、後47 年にクラウディウス帝が銀を採掘するために法務官クルティウス・ルフスCurtius Rufus を、マッティアキ族Mattiaciのこの地域に派遣したことがわかっている。このクルティウス、苛酷な重労働を軍団兵に課して怨嗟の的だったようだが、別説では『アレクサンドルス大王伝』Historiae Alexandri Magniの著者と目されているらしい。
地図の下部のラーンLahn河(ライン河支流)沿いの赤印が著名な温泉町のBad Emsである。
余談になるが、Badとなると私はどうしてもコブレンツを遡ることライン川上流50Kmのヴィンゲンからさらに南下すること15KmのBad Kreuznachで訪れたことのあるMuseum Römerhalle のことを思い出してしまう。伝イエスの父親の墓銘碑がある由で行ったのだが、著名モザイクと遭遇して、これもあれもまだ書いてないことも思い出してしまった。
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