古代史をやる意味:古気候学から学ぶこと

 このところおとなしめだった田中宇氏が、彼の持論「気候危機の捏造」をまた本日アップした(https://tanakanews.com/)。

 人によってはあまりに世間に流布した常識となっている「仮説」と違うので忌避する向きもあるかもだが、地球創成から宇宙創成にまで射程を伸ばす古代史的視点からは、無碍に否定できないのである。彼もちゃんと言っている。気候温暖化「人為説は気候変動の仮説の一つであり、全否定できない」と。この「仮説の一つ」という視点はきわめて重要である。それのみではなく、それも視野に入れて一呼吸おいて考えるべきなのだ。

 統計は、えてして自説に都合のいい時間的切り取り方をされるわけだが、温暖化論争もまさしくその典型的事例である。視野が短期なのだ。恐竜時代や氷河期まで射程に入れるとまったく異なった結論となる。

 私のようなド素人にとって、最近の電気自動車問題なんかは、極東のトヨタ風情に負けてしまった先進欧米諸国や後進中国が新技術でもって現状をひっくり返そうという企みの、理念的先触れでやっていることのように思えるのだが、その決着の帰趨はもう少し先になれば見えてくるだろう。ま、その時はまたごまかしの論理が大手を振って鳴り物入りで喧伝されるのだろうが。

 考えてみると、歴史などそれの連続である。自分が育ててきたテロ組織を今度は正義ヅラをして叩くというアメリカの際限の無い政策連鎖になぜ気づかないのだろうか。民主主義のご本家を標榜しつつ、その実、援助先は汚職にまみれた独裁政権ばかりなのだから笑止千万なのである。

 とはいえ、アメリカにおける軍需産業の拡がりと販売実績は無視しがたく、文字通り獅子身中の虫として殺さずに活かしていかなければならないわけで、その舵取りはホント大変だなあと同情せずにはおられない。

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