2024/8/30 読書会各位:
世間的には台風で翻弄されてますが、いかがお過ごしでしょうか。
偶然ウェブ情報(COURRiER)で見つけたので、紹介します。「奈良時代の詩歌を研究するフランス人に聞く」第2回 8/30(https://courrier.jp/news/archives/374337/?utm_source=daily+item+announce&utm_medium=email&utm_content=post-374337&utm_campaign=2024-08-30-13791&courrier_mail_session_id=13791)
私的には冒頭で触れられた質問内容にまず驚かされました:「奈良時代の日本の人口は500万~600万人ほどと推定されています。その頃の日本の言語事情は、どれくらいわかっているのですか。」
人口600万程度というと、現在だとシンガポール、デンマークあたりに相当しますが、こんなに少人数の中での奈良時代だったわけです。私にはこういった日本の当時の数的実態把握の認識が完全に欠落してました(言われてみれば当然なのですが)。
質問にアルチュール・デフランスArthur Defrance氏は以下のように答えています。
「これは難しい話です。いまの日本語には関西弁や東北弁などがちょっと残っているけれども、かなりの統一性があります。それに比べると、奈良時代の日本語は全然そうではなかったと考えられます。
いま私たちのもとにある当時の日本語の痕跡は、あくまでも文学的な言葉で書かれた歌集です。『万葉集』に出てくる日本語が当時、本当にそのまま話されていたかというと、おそらくそうではないんですね。書き言葉と話し言葉のあいだに完全な断絶があったとは考えられませんが、隔たりはかなりあったはずです。
当時の日本語には統一性がなく、複数のものがあったわけですが、大雑把にいえばふたつに分けられました。ひとつは西の日本語、すなわち奈良の日本語であり、もうひとつは東歌、すなわち東日本の和歌に出てくる東言葉です。
そのほかにもアイヌ語が話されていた事実の痕跡も残っていますし、九州には隼人(はやと)という民族もいて、その言語も違っていたという証拠が残っています。
それから当時の日本に住んでいた帰化人の言葉も飛び交っていたと推測できます。奈良に行けば、おそらく朝鮮語の一種を耳にする可能性があり、漢文ではなくて話し言葉としての中国語も当時、話されていました。
大安寺というお寺では、話し言葉の中国語でお経について講義がなされていたという史料が残っています。だから、奈良時代の言語事情は、かなり多様性があったと強調しておきたいです。
──そういった奈良時代の言語事情と古代ローマの言語事情を比較しておられますよね?
どうしてそのような比較を試みたのか、簡単に申し上げます。
共和政時代のローマ人は、ラテン語以外の言語にあまり興味を持っていなかった。ほかの言語があるとはわかっていたのですが、そういった言語を記録しようとはしていません。だからラテン語以外で、当時の地中海沿岸地域の言語の痕跡というと、土器に書かれた文字など考古学的に見つけられるものしかありません。
いまのフランスに当たる地域に住んでいたゴール[ガリア]人の言葉についても、ローマ人はまったく記録していません。むしろ、ローマ人はゴール人など征服した国の人たちに、ラテン語をちゃんと学んでもらおうという考え方だったのです。
例外がひとつだけあります。ギリシャ語です。古典ギリシャ語は、当時のローマ人にとっても長い歴史を持つ文化的な言葉でしたから、尊重されていました。
ローマの貴族は、必ずと言っていいほど、子供のときからギリシャ語を話すことを学びました。成人するとギリシャのさまざまな都市を遍歴し、それぞれの都市の弁論術の先生から授業を受けて、最も純粋なギリシャ語を身につけるといった習慣もローマの貴族にはありました。キケロもそうしたという記録が残っています。
ですから、その意味で、共和政ローマにおける古典ギリシャ語と奈良時代における漢文の位置づけがちょっと似ているんじゃないかなという主張がしたくて比較をしてみました。
奈良時代の日本人は、アイヌ語や隼人語に必ずしも興味を持ってはいなかったのですが、漢文はちょっと別格でした。漢文はやはり身につけねばならない言語だという意識が当時はあったわけです。」
昨晩、NHKBSで再放送されていた「フロンティア」「日本人とは何者なのか」(初回2023/12/6」は、大変面白かったので再視聴しました。 日本列島への最初の到達人類は陸続きの氷河期に1000名程度にすぎず、彼らの子孫が温暖化によって大陸と切り離されて長らく独自の文化を育んでいたが、その後弥生人が到来したのだが、最近成功した古日本人のDNA解析によると、これまで定説だった縄文人・弥生人の二重構造ではなく、古墳時代に大量の大陸からの移住者が来た三重構造であることが判明した由で、これが現代日本人のルーツだと。
その時代は日本の歴史にはめずらしく多民族・多言語状況だったというわけです。漢文なんかの渡来支配者言語はおそらく一握りの教養人がそれに対応できていて、庶民層はてんでに出身言語を話していたのでしょう。その中から奈良・平安時代が生まれてくるわけです。
【追記】しかしこれも仮説の一つにすぎないかもである。以下のような説もある。まあ従来説というべきか。