ガザ問題に触れて

以下の新聞ブログ記事(一部有料)でこんな文言に出会った。アメリカ国内のことである。

https://digital.asahi.com/articles/ASS863DG5S86ULLI00DM.html?pn=27&unlock=1#continuehere

「ウクライナ侵攻の時にロシアに対しては批判的な声明文を出していた大学が、イスラエルによるパレスチナ攻撃では「パ」の字も言わないとか、実際に起きているムスリム系の学生への差別や暴力には触れないとか。まるで抗議運動がないかのように隠そうとしたり、迷惑や問題行為として扱われたりしてしまうんです。保守的な地域にあるわけでもない、リベラルだと思われている大学でも、意外とそういう雰囲気がある。普段は環境問題やその他の人権問題に関しては「どんどんプロテスト(抗議)してくれ、それが大学の誇りだ」くらいのスタンスを取るのに、パレスチナに関しては全く態度が違います。」

 民族抹殺のポグロム、ホロコーストに遭遇したから断固生き抜く道をとるという決意が現在のイスラエルの表向きの国是だが(本音はネタニヤフ政権の維持という些末で身勝手な現実があるが)、そのあげくの現実政治がパレスチナ人の国内抹殺という現状は、どう考えても論理矛盾であるし不条理である。

「物事の本質は、イスラエルによる植民地主義の問題で、そこをうまく描き出せていない。パレスチナ側の要求は一貫して「植民地主義をやめて」という願いだったわけですよね。シオニズムは多くの場合、植民地主義を伴って現地の人々の声を奪った状態で入植を進めてきたわけです。で、パレスチナ人は、支配者は変われど、住んでいる自治権をずっと奪われてきた状態。そこはずっと変わらなくて現在まで続いている問題なんです。」

 要するに自己生存のみが目的で、そこに普遍的視野はもとからない、そもそも旧約聖書(トーラ)自体がそういう世界観なのだから、というのであれば、ポグロム、ホロコーストへの同情や憐憫でごまかされてはならない、と強く思うのだ。そんな自己都合のごり押し集団は社会的に抹殺されても仕方なかろう、と。

 そしてこうとも述べられている。

「アメリカやヨーロッパだと運動が「反イスラエル」とか「反ユダヤ主義」のレッテルをすぐに貼られるわけです。元々の主張はそうではなかったはずなのに「差別者」としてのレッテルを貼られる事態が起きている、というのは言論の空間としては異常な状況。」

 こういう正邪のレッテル貼りで、素朴な違和感を封殺していく動きには気をつけたい。それは、物事には表ヅラもあれば裏もあることはきちんと認識したうえでのことだ。私の身近でも、秦剛平氏のエウセビオス批判に、なんだかなと違和感感じてきたその正体に今回ようやく思い至った気がする。

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