月: 2024年9月

小説から学ぶ:イヴリン・ウォー著『ヘレナ』

 私の人生にとってその最たるものは辻邦生『背教者ユリアヌス』であったが、それはともかくとして、今回速読したのは、イヴリン・ウォー(岡本浜江訳)『ヘレナ』文遊社、2013年で、これは初訳が1977年の『十字架はこうして見つかった:聖女ヘレナの生涯』女子パウロ会、の再版である。今回私は初めて読んだ。

 作者がイギリス人のせいだろうが、そもそもヘレナをブリトン人の王女としていることから、研究史的にいうと後世の伝説に依拠しているので、私にとって初っぱなから眉唾ものなのであるが、そこはそれ、所々における着眼点から学ぶものがあるはずとの思いで読んだわけで、案に違わず色々と。

 読み進めて最初におっ、そう来たかと思ったのは、p.47で、彼女とコンスタンティウスが出会った時、「青い顔のコンスタンティウス」「(馬好きな)馬丁のヘレナ」と互いに愛称を付けあったとしている箇所。この情報アンブロシウスが書き残していて、一種の悪評につながりかねない彼女の出自表現「stabularia」、すなわち馬小屋がらみの厩務員なり宿屋の下働き(ただし、アンブロシウスはそれに形容詞「bona」を付けている:De Ob. Theod. 42)をこうして無難なエピソードとして処理しているのである。こういうのは並の歴史家には到底思いも浮かばない着想である。

 p.70では、おいおいそりゃないよと。私は原典をもっていないが、たぶん原語は「grain」だろうが「穀物」と訳せばよかったのに語学辞書によく載っている「トウモロコシ」を採用している。トウモロコシは穀物に違いないが、それが新大陸からヨーロッパに伝来したのは17世紀である。

 p.74 :夫の任地のニシュに移動中、途中で立ち寄ったRadaspona(現レーゲンスブルク)での、総督夫人との会話の中でのこと:「軍人の奥さんには決して出身地を尋ねないのがよいと思いますよ」「結婚してそれで上手くやっていければそれで充分なのですもの。若い兵士たちはときに何年間もとんでもない土地にやらされて、窮屈な暮らしをするのですものーー自分たちと同じ階級の娘と出会うチャンスもなしに、少々変わった結婚をしても、とがめるわけにはいきませんよ」と。これはなかなか含蓄ある地に足のついた名言である。

 p.91:コンスタンティウスの故郷近くが新任地となってニシュに到着、すると:「さまざまな親族が周囲の山々から訪れてきた。ヘレナはその人々のしゃべるでたらめなラテン語にときどきついていけなかった。彼らは・・・お追従を言い終えると肉体的にほっとするのか、きつ過ぎるベルトのバックルをゆるめるかのように母国語に変わるのだった」。小説の冒頭で、ブリタンニア出身のヘレナは奴隷の家庭教師からラテン語を学んでいたという設定であるが、イリリクムの地元民たちはさもありなんと思わせる巧みな叙述である。同様の帝国内の言語状況に関する付言が他にもちらほら出てきている。彼女が目に一丁字なかった場合、もっとこみ入った状況が想定されよう。ともかく、彼女はこの地で息子コンスタンティヌスを産む。

 p.113:夫の新任地はダルマティアで、息子が三歳になったころ陸路をたどり州都サロナ(現ソリン)に到着。アドリア海は1.5km先の南西にある。そこへ新皇帝カルスがローマからペルシア出陣の途中にコンスタンティウスを訪れる。彼は「長時間、大学式の正確なラテン語をしゃべった」。大学式?

 p.183には誤訳ないし原著者の間違いと思える箇所があった。ローマでの彼女の居住場所のことである:「セソリアン宮殿という城壁沿いの、王家の劇場の近い、大きな庭園のある見事な旧邸に白羽の矢が立てられた」。実際には劇場ではなく、円形闘技場のはずだ。

 西部副帝に昇進したコンスタンティウスはヘレナを離絶しガリアに去り、息子はというとニコメディアに取られ、一人になったヘレナはそのままサロナで、元夫の別荘の周りの土地を買い求め農場経営に勤しんで、十三年経ったころ、皇帝ディオクレティアヌスが隠棲場所に近隣のスプレトを選んで宮殿を建設しだす。老帝の衰えが隠せなくなったころ、突然息子コンスタンティヌスが妻ミネルウィナと息子クリスプスを同道して到着する。東部正帝を狙っていたガレリウスから逃れて、ブリタンニアに出陣していた父コンスタンティウスのもとに逃避行中、母も同道しようとやって来たのだ。ヘレナは後から追うといって同行を断る。

 p.152:息子コンスタンティヌスが皇帝位を得てから、ヘレナは、彼女と同様に夫に離絶されたミネルウィナや孫のクリスプスとともに息子の首都トリーアの近辺のイガルで過ごすことになる。この場所は、トリーア中心部からモーゼル河を下ること8.7kmに位置する現Igelのことだと思われるが、そこに彼女たちが三年も滞在した裏付けとなる史資料があるのだろうか。コンスタンティヌスはここにミネルウィナには離縁状を、ヘレナには皇后称号のAugusta(彼女の場合、皇太后というべきか)付与状を送りつけた、とされているのだが。

 ↑ イーゲル               ↑ トリーア

 たしかにトリーアには、コンスタンティヌスの正妻ファウスタがいた。彼女との関係が複雑な様相を帯びていたであろうことは、多産な正妻の子どもたちの存在を含めて想像に難くないが。コンスタンティウスの未亡人テオドラの去就も気になるところではある。このテオドラは夫との間に6人の子をなしている。またファウスタの母エウトロピアが突然エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』III.51-53(とりわけ52)に聖地マムレがらみで出てくるが、彼女はなぜ、そしてどこからコンスタンティヌスに書簡を書いていたのだろうか。

 小説のほうはパレスティナ巡礼へとさらに進むが、今回はこれまでとする。

 

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ローマ時代のテルメのボイラーのこと

 あれからもう14年以上になるのか。この項目を書くためにググって確認した。横浜美術館での「ポンペイ展」、2010年前半の三か月開催だった。私はこの展示会で、そこに当時のボイラーが展示されていたので正直ビックリした。実見は初めての体験だったからでもある。実は、カタログも購入したはずだが、我が家でのその発掘はちょっと手間である(この展覧会のミュージアム・グッズも私好み(^^)が多くて大収穫だった)。それ以前に、以下のドイツ語書籍に掲載されていた図版は見ていたが(Fritz Kretsschmer, Bilddokumente römischer Technik, Dusseldorf, 1958, S.31, Bild 57)、思いがけずその実物とで出会うことができたのだ。本品はポンペイ近郊のBoscorealeのVilla Della Pisanella出土で(https://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/VF/Villa_013%20Boscoreale%20Villa%20della%20Pisanella%20p1.htm)、遺跡は埋め戻され、出土品は大々的に売りに出されてルーヴルなどに分散してしまったが、地元に残ったものは、Villa ReginaのAntiqualium Boscolealeに展示されている(そこには3度行ったことがある)。ボイラーの現所在は国立ナポリ博物館らしいが、コロナ以前に毎年のように訪れていた私は少なくとも15年以上博物館展示で一度も見た記憶がないので、収蔵庫にずっと保存されていたのだろう。こういうものが海外の展覧会に出品されるについては、かねてポンペイ調査・発掘で実績を積んでいた京都の古代学協会の見識と尽力があったであろうことは容易に推測できた。

件のボイラーはL(左側の一番下のモザイク床の右隣)に設置されていた。

 ここではKretsschmerの出典元である以下手元文献から転写しておこう。August Mau(translated by Kelsey F. W.), Pompeii : Its Life and Art, London, 1907, p.362:

で、いまさらなぜかというと、2つ理由がある。第一に見るともなく「Quora」を見ていたらその写真が出て、ちょっと詳しい解説がされていたこと、そしてかつてオスティア遺跡を彷徨していたときに偶然これと同じボイラー設置跡と遭遇したことを思いだしたからだ。まず写真のほうは以下である。

なんといってもパイプ、バブルといった付属品一式がすべて揃ったものとしては世界で唯一の残存する逸品なのだ。1894年の再調査時に発見されたらしい。なお、バルブは青銅製で、鉛パイプへの接続はおそらく松ヤニを使ったはんだ付けで行われた。

 オスティア遺跡でのボイラー旧設置場所は、Regio I – Insula XVII – Terme del Mitra (I,XVII,2)である。私は、Nielsen I.- Schioler T. 1980, “The Water System in the Baths of Mithras in Ostia”, AnalRom 9, 149-159に導かれて、2017年夏の現地調査で、裏の西側からもぐり込みその場所を確認することができた。ここの半地下作業場はカギ関係なしに(すなわち、監視人custodeの手を煩わさないで)侵入できる、文字通り穴場だった。この遺跡に関しては、2021/3/8の本ブログで立ちション・トイレがらみでそれなりに詳しく報告している。

左図が北からの透視断面図で中央の黒い窪み部分がボイラー設置場所;その左に立ちション・トイレ区画の構造が示されている。右図はその窪み付近の「焚き口」の図示。私は右側に描かれているアーチ型焚き口(その向こう側がcaldarium)をくぐってこの空間に侵入を果たすことができた。

この付近は、上部には貯水槽があったりして、コンパクトなのにたいへん複雑な構造で、私にとっても希有な体験となり、小一時間ゆっくり滞在した思い入れ深い場所である。いうまでもなく、鉛製のボイラーとパイプはこの浴場が放棄された時に持ち去られ溶解・再利用されたのだろう、現在は影も形もない。

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ブルガリア出土の銀板アムレットに十字架の印

http://www.thehistoryblog.com/archives/70755  2024/7/22

 2023年夏、ブルガリア南東部のDebelt 村近郊の、かつてのローマ植民都市 Deultum の墓地の、若者の遺骸の頭部近くに置かれた銀製の筒状のものが発掘された。https://www.youtube.com/watch?v=uwDrwNlukx0&t=126s

 考古学者が堅く丸められたそれを広げて見ると、ギリシア語が刻まれていて、その内容から、紀元後2世紀後半または3世紀初頭のもので、キリストに言及した最古のお守りということがわかった。おそらく革や布の袋に入れてペンダントとして身に着けたり、衣服の中に隠したりしていたと思われる。当時のキリスト教徒の埋葬風習どおり他に副葬品は見られなかった。

 広げられた銀の薄板は以下である。4/5行の文字列が見てとれる。

 読み取られたギリシア語は以下の左、中央がローマ字変換したもの、右端が日本語訳。

  ΓΑΒΡΙΗΛ    GABRIEL   ガブリエル

  ΜΙΧΑΗΛ    MICHAEL   ミカエル

  ΦΥΛΑΞ     PHYLAX    守護者

  ♰ΡΕΙΣΤΟ/Σ   XREISTO/S   クレイスト/ス

4/5行目の拡大部分図

最初の2行は大天使二人の名前、3行目のφύλαξは、使徒行伝5.23に出てきていて新共同訳では監獄の「番兵」と訳されている。最後に4/5行目はちょっとだけ複雑で、冒頭は十字形だがこれはX が 45 度回転しているとする。ある意味でキリストのギリシア語「χριστος」とギリシア十字「♰」の組み合わせである。そして通常の「χριστος」ではなく「χρειστος」と「ε」が付加されている。

 この問題は、たとえばスエトニウス『ローマ皇帝伝』の「クラウディウス伝」25出典の「Chresto」問題とも絡んでくる可能性があるが、まあここは常識的に我らのキリストの意味にとればいいだろう。要するにこのアムレットは、冒頭の二大天使を挙げることでユダヤ教の伝統を引きつつ、新たにイエス・キリストをも持主の守り神(守護者)として招来させているわけである(キリストの名は異教魔術書や後世のムスリムでも登場する)。このお守り独自の新機軸として、キリストの冒頭を十字型に変形させていることで、現段階でもっとも古い事例となりえる。

 その意義として、碑文学者 Nikolay Sharankov博士は述べる:「一般の目に見える碑文では、初期キリスト教徒の宗教的忠誠心が公然と明らかにされることはほとんどありませんでした」「彼らはしばしば、鳥や魚などの無害なシンボルや、疑惑を招かない「神」などの隠された表現を使用していました。イエス・キリストへの明確な言及はまれで、3 世紀初頭に遡る古代フィリッポポリスPhilippopolis(ブルガリアの現プロヴディフPlovdiv)の墓碑文に 1 つの初期の例が見つかりました。しかし、その場合、「イエス」という名前は、おそらくキリスト教徒だけが理解できる数字の 888 という暗号で伝えられました。対照的に、デウルトゥムのお守りは詮索好きな目から隠されていたため、キリストについて曖昧さや秘密を持たずに直接言及することができました。」

 紀元 70 年頃、将軍ウェスパシアヌスの皇帝位獲得を後押しした第 8 軍団アウグスタの退役軍人のための植民地として設立されたデウルトゥムは、バルカン半島で 2 番目のローマ植民都市であり、現在のブルガリアにある最初のローマ都市で、ブルガリアで設立された唯一のローマ市民の植民都市だった。スレデツカSredetska川沿いの港町で、黒海に直接アクセスでき、貿易と銅の採掘で繁栄し、この地域で最も豊かな都市になった。 2 世紀後半から 3 世紀初頭にかけてのセウェルス朝時代に繁栄、人口増加、都市化のピークを迎えた。

 デウルトゥムは、ブルガリアでキリスト教の司教がいた最初の町としても知られている。デベルトス教区は 2 世紀に設立され、歴史資料に名前が挙がる最初の司教であるAelius Publius Juliusは、エウセビオス『教会史』V.19で、170 年代にモンタノス派の異端と積極的に戦った人物として登場している。

このお守りは現在、デウルトゥム デベルト国立考古学保護区の博物館に展示されている由。

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コンスタンティヌス帝の銀塊、摘発・没収

 久々に、The History Blogを覗いてビックリ。

 本論に入る前に、注目すべき他の情報を。

27th Roman rostrum found off coast of Sicily  

Update: Museum acquires Roman gold bracelet found by 11-year-old boy  

Roman wood wells found at Iron Age settlement site  

Aquatic mosaic found at Wroxeter Roman City  

Roman urn of Attii family seized from farmhouse garden  

Contents of sarcophagus in Tomb of Cerberus revealed  

Silver amulet is Bulgaria’s earliest Christian artifact  

 個人的にはこの最後の事例と銀塊の話題に惹かれた。今回は銀塊について触れる。

http://www.thehistoryblog.com/archives/70905  August 18, 2024

 ウクライナ西部のトランスカルパティアTranscarpathia在住のある男性が、曽祖母が何年も前に庭で見つけたというローマ時代の希少な銀塊1つを違法にインターネットで売ろうとして、博物館職員の目に触れ警察に摘発された。警察の家宅捜査でもう2本見つかった。

  ↑ウクライナの西端のTranscarpathia
3つの銀塊と、コンスタンティヌス帝貨幣肖像の打刻印拡大図

 ウクライナ国立歴史博物館の声明によると、この両頭斧型インゴットは、ほぼ完全な純銀製でそれぞれ12オンス(342グラム)以上あり、両面にコンスタンティヌス帝(在位:西暦306-337年)のコイン(金貨の由)の刻印がある。それは、310年から313年の間に帝の当時の首都アウグスタ・トレヴェロルム(現トリーア)で発行されたソリドゥス金貨の図柄と同一らしい(私はまだそれを確認できていない)。このインゴットは、シリクアsiliqua(e)銀貨(24分の1 Solidus金貨)用に帝国造幣所で鋳造された純度保証品だった思われる。かつてこれらは薄い銀のリボンでまとめられていたが、その後リボンは紛失したという。

 専門家によるとこのインゴットを約8万5千ドルの価値があると見積もっているが、博物館学芸員はそれ以上に歴史的に「特別な文化的価値」を有していると主張している:ローマ時代の銀塊は90個ほどしか知られておらず、そのうち11個にのみ造幣所の刻印がある。今回のものはウクライナで初めて発見され、ローマ帝国の境界外で発見された唯一のものである。また、表裏両方に造幣局の刻印がある唯一の銀塊でもある。

 コンスタンティヌスは310年から313年にかけて内外において多忙であったが(対フランク族戦争、義父マクシミヌス反乱鎮圧、義弟マクセンティウス戦、東部正帝リキニウスと同盟)、その時期に寄贈品、つまり皇帝即位記念・戦勝記念等を口実に上級廷臣あるいは内外の重要人物への贈答品、あるいは収賄・調略目的で活用された類いのものだった可能性がある。この銀塊が南ドイツからウクライナまでどのように流転してきたのか、これはもう一幅の物語であろう。

【追記】2024/9/12におりしもCNGのオークションで、打刻金型と類似のそれらしき金貨と遭遇。ちなみに出品者評価価格は1000ドル、現在入札数4で700ドル。打刻場所と時期(312-313年)はちょうど符合する。

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Pompeii「メナンドロスの邸宅」のテルメ・モザイクの解釈

  さきほど、Quora Digestを見るともなく見ていて、表記の記事に気づいた。以下のモザイクはこの家のテルメの calidarium入り口床に埋め込まれた衆知のものである。私はこれを今まで単純に黒人奴隷が尿瓶を運んでいる図柄と捉えていたが、今回の説明によるとまったく違っているという(https://wondersofthepast.quora.com/THE-ROMANS-AND-THE-ETHIOPIANS-their-faces-burned-Pompeii-House-of-Menander-Mosaic-at-the-entrance-to-the-calidar)。

 第一に、この奴隷は、エチオピア人で、その民族名はギリシア語で語源学的に、「日焼けした顔」:(aithō =’I burn’ と ópsis =’I look’)から来ているそうだ。

 第二に、彼の足下の図柄は(これはこれまで私には不明だった)、垢こすりのstrigilisで囲まれたオイル容器が描かれていて、よって上下の図柄を統合的に捉えるなら、彼が両手に持っている容器は、尿瓶ではなく、垢取り用のオイル入れ (askos, pl.askoi:原意は「ワインの革袋」)、ということになる。もっともオイル入れはもっと小型で洒落たものが多かったが。それは携帯用と業務用の違いなのであろうか。

 第三に、このエチオピア人の巨根の先が剥けていることから、彼は割礼を受けているとされる。割礼は元来がエジプト人の風習で、ギリシア・ローマでは一種の嘲笑の対象であったような。

 いや、ともかくなかなか明快な解釈で、おかげで積年の疑問が解消されて爽快である。

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「愛された貧者の神父」の不都合な事実露見

https://wien2006.livedoor.blog/archives/52395858.html

バチカンニュースは18日、フランスのローマ・カトリック教会の著名な聖職者で社会的慈善活動を通じて‘貧者の神父’として知られたピエール神父(1912~2007年)が生前、複数の女性に対して性的虐待を繰り返していたと告発された、と報道した。このニュースは欧州の代表的なカトリック教国フランスの国民に大きな衝撃を与えている。

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最近のクリスチャン・トゥデイ情報:荒井献死亡,他

荒井献氏死去、新約聖書学者・グノーシス主義研究者:8/16老衰にて死亡。(https://www.christiantoday.co.jp/articles/33947/20240821/sasagu-arai-dies-at-94.htm

他に、以下も:2024/8/27(https://www.christiantoday.co.jp/articles/33965/20240827/uccj-reprimands-former-pastor-of-wakuya-church.htm

「日本基督教団、涌谷教会元牧師を戒告 関連保育園で職員がパワハラ訴え大量退職」

日本基督教団は24日、同教団の正教師(牧師)で、同教団涌谷(わくや)教会(宮城県涌谷町)の主任担任教師を務めていた瀧澤雅洋氏に対し、戒告の戒規を適用したことを機関紙「教団新報」で発表した。戒規の適用は5日付。

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