私の人生にとってその最たるものは辻邦生『背教者ユリアヌス』であったが、それはともかくとして、今回速読したのは、イヴリン・ウォー(岡本浜江訳)『ヘレナ』文遊社、2013年で、これは初訳が1977年の『十字架はこうして見つかった:聖女ヘレナの生涯』女子パウロ会、の再版である。今回私は初めて読んだ。
作者がイギリス人のせいだろうが、そもそもヘレナをブリトン人の王女としていることから、研究史的にいうと後世の伝説に依拠しているので、私にとって初っぱなから眉唾ものなのであるが、そこはそれ、所々における着眼点から学ぶものがあるはずとの思いで読んだわけで、案に違わず色々と。
読み進めて最初におっ、そう来たかと思ったのは、p.47で、彼女とコンスタンティウスが出会った時、「青い顔のコンスタンティウス」「(馬好きな)馬丁のヘレナ」と互いに愛称を付けあったとしている箇所。この情報アンブロシウスが書き残していて、一種の悪評につながりかねない彼女の出自表現「stabularia」、すなわち馬小屋がらみの厩務員なり宿屋の下働き(ただし、アンブロシウスはそれに形容詞「bona」を付けている:De Ob. Theod. 42)をこうして無難なエピソードとして処理しているのである。こういうのは並の歴史家には到底思いも浮かばない着想である。
p.70では、おいおいそりゃないよと。私は原典をもっていないが、たぶん原語は「grain」だろうが「穀物」と訳せばよかったのに語学辞書によく載っている「トウモロコシ」を採用している。トウモロコシは穀物に違いないが、それが新大陸からヨーロッパに伝来したのは17世紀である。
p.74 :夫の任地のニシュに移動中、途中で立ち寄ったRadaspona(現レーゲンスブルク)での、総督夫人との会話の中でのこと:「軍人の奥さんには決して出身地を尋ねないのがよいと思いますよ」「結婚してそれで上手くやっていければそれで充分なのですもの。若い兵士たちはときに何年間もとんでもない土地にやらされて、窮屈な暮らしをするのですものーー自分たちと同じ階級の娘と出会うチャンスもなしに、少々変わった結婚をしても、とがめるわけにはいきませんよ」と。これはなかなか含蓄ある地に足のついた名言である。
p.91:コンスタンティウスの故郷近くが新任地となってニシュに到着、すると:「さまざまな親族が周囲の山々から訪れてきた。ヘレナはその人々のしゃべるでたらめなラテン語にときどきついていけなかった。彼らは・・・お追従を言い終えると肉体的にほっとするのか、きつ過ぎるベルトのバックルをゆるめるかのように母国語に変わるのだった」。小説の冒頭で、ブリタンニア出身のヘレナは奴隷の家庭教師からラテン語を学んでいたという設定であるが、イリリクムの地元民たちはさもありなんと思わせる巧みな叙述である。同様の帝国内の言語状況に関する付言が他にもちらほら出てきている。彼女が目に一丁字なかった場合、もっとこみ入った状況が想定されよう。ともかく、彼女はこの地で息子コンスタンティヌスを産む。
p.113:夫の新任地はダルマティアで、息子が三歳になったころ陸路をたどり州都サロナ(現ソリン)に到着。アドリア海は1.5km先の南西にある。そこへ新皇帝カルスがローマからペルシア出陣の途中にコンスタンティウスを訪れる。彼は「長時間、大学式の正確なラテン語をしゃべった」。大学式?
p.183には誤訳ないし原著者の間違いと思える箇所があった。ローマでの彼女の居住場所のことである:「セソリアン宮殿という城壁沿いの、王家の劇場の近い、大きな庭園のある見事な旧邸に白羽の矢が立てられた」。実際には劇場ではなく、円形闘技場のはずだ。
西部副帝に昇進したコンスタンティウスはヘレナを離絶しガリアに去り、息子はというとニコメディアに取られ、一人になったヘレナはそのままサロナで、元夫の別荘の周りの土地を買い求め農場経営に勤しんで、十三年経ったころ、皇帝ディオクレティアヌスが隠棲場所に近隣のスプレトを選んで宮殿を建設しだす。老帝の衰えが隠せなくなったころ、突然息子コンスタンティヌスが妻ミネルウィナと息子クリスプスを同道して到着する。東部正帝を狙っていたガレリウスから逃れて、ブリタンニアに出陣していた父コンスタンティウスのもとに逃避行中、母も同道しようとやって来たのだ。ヘレナは後から追うといって同行を断る。
p.152:息子コンスタンティヌスが皇帝位を得てから、ヘレナは、彼女と同様に夫に離絶されたミネルウィナや孫のクリスプスとともに息子の首都トリーアの近辺のイガルで過ごすことになる。この場所は、トリーア中心部からモーゼル河を下ること8.7kmに位置する現Igelのことだと思われるが、そこに彼女たちが三年も滞在した裏付けとなる史資料があるのだろうか。コンスタンティヌスはここにミネルウィナには離縁状を、ヘレナには皇后称号のAugusta(彼女の場合、皇太后というべきか)付与状を送りつけた、とされているのだが。
たしかにトリーアには、コンスタンティヌスの正妻ファウスタがいた。彼女との関係が複雑な様相を帯びていたであろうことは、多産な正妻の子どもたちの存在を含めて想像に難くないが。コンスタンティウスの未亡人テオドラの去就も気になるところではある。このテオドラは夫との間に6人の子をなしている。またファウスタの母エウトロピアが突然エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』III.51-53(とりわけ52)に聖地マムレがらみで出てくるが、彼女はなぜ、そしてどこからコンスタンティヌスに書簡を書いていたのだろうか。
小説のほうはパレスティナ巡礼へとさらに進むが、今回はこれまでとする。