パラティヌス丘南麓の伝奏者屋敷、一般公開始まる!

 私の研究対象でペンディングにしていた遺跡が、公開されたらしい。それが「Domus Praeconum」ないし「Schola Praeconum」で、数年前に書いた「ローマ時代の落書きが語る人間模様:いじめ、パワハラ、それともセクハラ」上智大学文学部史学科編『歴史家の散歩道』上智大学出版、2008年、pp.283-300では、「伝奏者屋敷」と訳していたが、そこではいわゆる「小姓養成所」Paedagogiumの落書きが主題だったので、いずれ別稿を期してそこでは詳しくは触れていなかった(むしろ、拙稿「パラティーノ丘「冒瀆の落書き序説:トポグラフィー的知見を中心に」」『神は細部に宿り給う』南窓社、2008年、pp.129-145のほうというべきか)。

 そのころはパラティヌス丘の中段段丘には立入できなかったので、すべて丘の上から下の様子を想像するだけだったのだが、その後段丘をぐるりと回る散歩道が解放されて、落書きの現場の見学を果たすことができたが(その後また閉鎖されてしまったようだ)、そこから階段を降りて地下通路をたどって「伝奏者屋敷」がある下段段丘に行くことはできず、階段部屋の閉鎖された鉄条扉を恨めしく眺めたものだ。それがいよいよ見学可能となったようなので、・・・私としてはまた行かなければならないのであ〜る。あ〜あ、切りがない。ただそこに入るには例の「スーペル・パス」が必要なわけで、パラティヌス博物館の裏から入る地下の大トイレ遺跡ともども、もはや次回に空振りは許されない。

養成所と伝奏者屋敷の関係平面図

 それはともかく、「Domus Praeconum」である。この区画は、アウグストゥスの建物、次いでフラウィウス朝の宮殿と同時にペダゴギウムも建設され、最後にセウェルス朝時代に浴場施設、セプティゾディウムの噴水、そして「伝奏者屋敷」を追加した全体的改修が行われた。

左:矢印右が「伝奏者屋敷」        右:その平面図

 その場所は19世紀末に発掘され、伝奏者の協同組合、praecones、つまり大競技場でのパレード (pompa circensis) を告げる人々の本拠地と解釈された。大競技場の北を東西に走るチェルキ通りに沿って構造物が建てられ、そのためパラティヌス丘の軸線に沿っていた「小姓養成所」とは微妙にずれて、しかし前者が一階で、後者が上階として組み合わされて建てられたのである。チェルキ通りから入ると、柱廊玄関間を通って広場に出るが、ここはもとは列柱で囲まれていた中庭だった。その奧に中央が両側方よりも大きいアーチ型天井の部屋が3室ある。発掘当初、北に向かって東側の部屋の地下から壁画が見つかった。そこを見学者が外から覗ける仕組みになっている。

左:上から、宮殿を支える擁壁、「小姓養成所」の段丘、その手前下に「伝奏者屋敷」
右:昔はパラティヌス丘の上からはこんな風景しか見えなかった。肝心の場所はもっと手前なのだが

 その地下室は、最初壁面に200ー240年代の絵画装飾がなされ、それには、つつましやかな服装の立像の男性が数名等身大で(1.60~1.80メートル)描かれており、彼らはなぜか食堂の給仕奴隷たち tricliniarii と解釈されている。ただ彼らの持物は、杖、地図、花輪、箱といった類いらしいので、私にはいささか腑に落ちないのであるが。むしろ皇帝お気に入りの近侍使用人 apparitores といった感じに見えてしまう。

Ed by A.Carandini, The Atlas of Ancient Rome, Princeton UP, 2012, vol.I, 69.

 その後この壁はチポリーノ・グリーン大理石の板で覆われてしまったらしい。また床も建物の名前の由来となった大きなモザイク床で覆われた。このユニークな白と黒のモザイク模様には、両側に4人ずつ2つのグループに編成された厳粛な行列の姿勢で登場人物を描いている。彼らは短いチュニックと靴を着用し、カドゥケウス caduceus(使者神メルクリウスの紋章)、旗や杖を持っている。まさにこれらの物体こそが、チルコでの見世物に関連した伝令の使者であることを示している。この床は 4 世紀初頭、つまりマクセンティウス帝がパラティヌスの南斜面の改修に着手した時代に遡る可能性がある。

各グループの中央2名がもっているのが、caduceusの笏杖
左:カドゥケウス捧持者  右:戦車チーム旗などの見世物関係の旗捧持者だろうか

これらの人物はさまざまに解釈されてきた。ある者は伝令使 caduceus 、または触れ役 praeco、国家に奉仕するアッパーリトル apparitor と呼ばれる下級公務員、また戦車御者などと。確かなことは、建物とそこに「住んでいた」人々が競技場や関連イベントと密接に関連した機能を果たしていたということであろう。複数官職を兼務していた可能性も高いのでは。

この建物の 二階は戦車競技のための皇帝御座所(貴賓席) Pulvinarとして使用されていたという説さえあるようだ。ここでの「二階」は我が国での三階を意味するので(あちらでは我々の一階を「地階」、二階を「一階」と称する)、となると高度的に「小姓養成所」の前庭部分と連結した土地のさらにその上階があったことになる。大競技場の観客席の高さを超えていなければならないのだが、その構造物は、マクシミヌス以降の地震災害で跡形もなく崩壊してしまったのだろうか。私にはそうは思えない。むしろ再現図では以下のようにパラティヌス丘寄りの観客席に御座所が設定されている例が多い(私は2008年には、御座所は東方向にあったと想定していた。cf., Ed by A.Carandini, The Atlas of Ancient Rome, Princeton UP, 2012, vol.II, table a.t.25:いずれにせよ、人目を避けるため地下道が利用されたはず)。見世物の主催者として、競技者や民衆との一体感・親密感を醸成する意味からもそのほうが妥当と思うのだが、どうだろう。

皇帝たち一行は、パラティヌス丘から「小姓養成所」裏の坂道を降り地下道を伝って「伝奏者屋敷」を経由し、人目に触れることなく観客席の御座所に直接移動していたと想像したいところ

 この遺跡は、2025 年 2 月 3 日から日曜日と月曜日のみにオープンされ、75 分間続くガイド付きツアー (英語では午前 10 時と午後 12 時 15 分、イタリア語では午前 10 時 30 分と午後 12 時 45 分) で最大 20 人までのアクセスが許可される。日曜日の午前 11 時からのみ無料で入場できるらしい。チケットは、オンラインまたはパーク入口で購入でき、訪問には「特別な」Forum Pass SUPERが必要である。

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