私のメールソフトに表題の疑問が飛び込んできた。私もなんでかなと思っていたので、開いてみた。
「 (前略)
。。たまたま私の専門分野が絡む話でした。
判別材料となる情報をきちんと持っていらっしゃらず、完全に的外れな解釈で、どの学者も言わないような、事実とは異なることを話していて、私は唖然としました。
それ以来、 彼の話を聞くときに感じる違和感は、そういうことなんだなぁ。と気づきました。真実の一部や自己体験を交えながら、日本人が聞いたら信じるような、それっぽく聞こえるように話をしているだけと気づきました。
彼は自分の専門だけに絞って話した方が良いと思います。
(後略) 」
この回答がいつも正鵠を射ているとは思わないが、テレビに毎日のように出演しているコメンテータの輩たちがあらゆる分野を熟知しているといわんばかりに、駄弁を弄している状況をおかしいなと思っているのと一緒なのかもしれない。
だから解答者の「自分の専門だけに絞って話すべき」という指摘はよくわかる。
しかしいわゆる「専門分野」の常識がいつも正しいとは限らないので、実際話は簡単ではないのである。人の生死を分かつはずの原子力村の常識が「想定外」という一言で全然ずれていた事例や、輪島付近が地震多発地帯から外されていたという事例からも明らかだろう(私は、人口密集地を相手にしたほうが予算獲得に有利という現実判断から、過疎地ゆえに研究者たちの視野から消えていたせいでは、と密かに思っているが、この「素人談議」は熊本地震の場合に、果たして適合しているのだろうか、自分ながら確信はない)。いわば、意図したないし意図せぬ誤報・偽報が当然のように蔓延するのが常態の、SNSレベルでいつも問題となる庶民感覚に訴える手法の問題点は確かにあるが、時に素人談議が核心を突いていて、パンドラの箱の蓋を開ける場合もないわけではないのが、問題をややこしくしている。
私など「専門分野」の常識を疑うのが習いとなっている者にとって、事実と思われる核心を突いた発言・着眼点は大切にしたいのだが、いわゆる学界人の常識・偏狭さには辟易しつつ、彼らから見たらきっと私のほうが偏屈なのであろう。最近以下を読んで改めて思い知らされた。
山田望「ペラギウス派と古代東方神学:具体的自由のとしての思想」『福音宣教』79−1、2(2025年1月号:pp.55-61、2月号:pp.55-61)。
この連載、22回を予定しているそうだ。彼がそれを全うできることを祈らざるをえない。もう30年近く昔の1997年発行の彼の主著を読書会でテキストにできないかと、発売元の教文館に在庫を尋ねたら、なんと50冊は残っているとの返答があって、売れていない(そしておそらく図書館所蔵でも読まれていない)という現実と、未だ読書会でテキストにできるという僥倖の狭間で、私は微妙な心境であった。
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研究がAI的なレベルでいいのか、という解決されざる疑問をこれからもしばらく自問してゆかねばならない。いや、紙媒体の限界を破りたいとこのブログに時間を割いて書いているわけなのだが、はたしてその効果はあるのだろうか。紙媒体が後世に残る確率は確かに高い(たとえ読まれなくとも)。その点ブログの消滅は一瞬である。その危うさはやはり問題である。
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