– 『ペルペトゥアとフェリキタス殉教者行伝』を読み解くために(1) –
平成10~13年度文部科学省科学研究費基盤研究
(C)(2)「古代ローマ史・初代キリスト教史研究におけるパソコン利用の試行的研究」
研究成果報告
標記科研は、ラテン金石碑文史料のデータベース化等の基礎的ノウ・ハウの構築を主眼にしたものである。以下の論文はそのプロセスにおいて作成された成果の一端である。そこでのパソコン利用は、レベル的にデジタル化された図・画像の蒐集という初歩的なものにすぎない。とはいえ、玉石混合ながら膨大なデータの集積先であるウエッブ・サイトの活用は、専門研究においてもそれなりに有効であることは言をまたない。
以下の論文は『上智史学』第46号(2001年11月)掲載に若干の加筆訂正を加え、若干の地図・図版、写真関係情報を付加したもの。ホームページ上での掲載には、印刷著作物以上に知的所有権上の種々の制約を考慮に入れざるをえず、この程度に止めざるをえないが、実験的試みとしてあえて公表する。
知的所有権に関する本ホームページでの原則:
- 印刷物掲載の図・画像は、原則として、著作権者の了解を得たものに限り掲載する。それ以外は、その所在の典拠を明記するに止める。
- インターネット上の図・画像等は、管理者の了解を得たものに限り掲載する。それ以外は、その所在を明記するに止める(サイト確認は、2002年3月2日)。
なお、大学の授業で使用する教材版として、別途CD-R版(約26MB)を作製する。これには上記の図・画像の全データを収録する。そして、研究・教育用での使用目的が明確な場合のみに配布する。
はじめに
歴史史料としてペルペトゥアとその仲間たちの『殉教者行伝』から学びとるべき事柄は多い。中でも我々を悩ます疑問の一つに「あのような言動をすれば確実に死刑になることは分かっていて、なぜそれを選択したのか」という、人間行動の原点に関わる問題がある。
それを熱烈な信仰心ないし使命観によるとか、あるいは異端的な狂信的問題行動であると言い切るのは簡単であるが、本稿では彼女の生きざまの深層を再検証してみたい。
彼女は「殉教」という形であれ、とにかく「死」を希求していた。それははたしてキリスト教によって触発され動機づけられていたといえるのか。これが本稿の主題である。
手順として、まずローマ支配下という時代枠、ないし彼女が生育した北アフリカという土壌=地域枠を押さえつつ、彼女の生育歴とか血縁・遺伝的要素=個性枠を確認することになろうか。後3世紀初頭がローマ帝国にとって危機的状況で、それが彼女たちの殉教を生んだ遠因だったなどと「こと」を大上段に構えず、たとえ後付け的にそう集約できるにせよ、彼女および彼女の周辺は実際のところどうだったのか、さらに外枠のカルタゴ住民にとってはどうだったのか、というミクロの視点を大切にしたいのである。
かの『殉教者行伝』を読み解こうとする場合、自分はこう生きるしか、いや死ぬしかない、といった個人レベルでの激しい選択行動を射程に入れる必要性を強く感じるからである。社会的日常性と個人的危機感を意識的に峻別することで、「彼女(たち)はなぜそう感じ、同じ時代・地域に生きていた圧倒的大多数はなぜそう感じなかったのか」という疑問に少しでも迫りたいからである。
彼女(たち)はあえて死を強く望んだが、それが社会常識からの逸脱者による奇異な言動として忘れ去られることなく、今日まで一種の共感を呼びつつ連綿と読みつがれてきた魅力はまた別の検討課題であって、それについては若干私見を述べる機会があった(1)。本稿では、ペルペトゥアの意識・感性をはぐくみ育てた背景を、可能な限り彼女の目線で探りたい。それは同時にこれまで見落とされていた幾つかの視点を提供するであろう。その際、Joyce E. Salisbury女史の立論(2)を批判的に考察していることをお断りしておく。