殉教者と北アフリカ – 2. 生活と文化

元来、小麦生産に適した土壌のアフリカ=プロコンスラーリス州は、帝国政策により小麦の単一栽培を課せられたこともあって、早くも後1世紀後半には都市ローマの重要な穀物供給地に成長し、その必要量の年間8ヶ月分を供給していた(残りの4ヶ月分はエジプトから)(19)【ph19】。これはローマによる経済収奪構造に違いなかったが、北アフリカの多くの穀物販売業者、農民、農地開発業者たちを部分的・間接的にせよ潤わせ富裕化させた。その経済力を背景に、北アフリカでは他と比べて全体として水準の高い生活が営みえた。その後、帝国生産構造に変化が生じる。属州アフリカの西部に新属州Numidia(後37/39年)とMauretania(後40年)が設置され、属州アフリカへの穀物依存度が徐々に低下した。さらに、イタリア本国とりわけウンブリアでぶどうとオリーブ生産に危機的状況が生じたらしい。これが北アフリカ経済の多角化に道を開いた。そして後2世紀になると、非イタリア系でヒスパニア出身の諸皇帝の輩出が属州の自由な活動を促進した。収益率の高い方法で利用可能な土地すべての有効活用が開始された。かつてポエニ時代そうだったように、一旦切り倒されたオリーブ畑とブドウ栽培も組織的な復旧をみた【ph20-1, 2fig12】。こうして後3世紀初期に、カルタゴ周辺の農村部に200もの町がたった10キロメートル内外の距離でひしめき合うようになっていた。そこではカルタゴには及ばないがそれなりに快適な都市的生活が営まれていた。後4世紀にアウグスティヌスは、属州アフリカではオリーブ油を灯火としてふんだんに消費していたが、それにひきかえミラノではオリーブ油が欠乏し、まっ暗な夜を過ごさなければならなかった、と書いている(20)。この液体は、家に灯りを、身体に温もりを、そしてサイフに富をもたらした。


繁栄する都市カルタゴないし周辺が生んだ著名人に、前2世紀前半の奴隷出身の喜劇作家テレンティウスがいた。また後2世紀半ばに活躍した法律家サルウィウス=ユリアヌスは、カルタゴの南南東120キロメートルの海岸都市ハドルメトゥム Hadrumetum 出身だったし、同時期にキリスト教護教家ミヌキウス=フェリックスも出た。キリスト教関係では、後2世紀半ばに生まれたテルトゥリアヌス、後3世紀半ばにカルタゴ司教になったキュプリアヌス、後4世紀初頭に新帝都ニコメディアでラテン語教師をし、晩年にコンスタンティヌス帝の息子クリスプスを教えたラクタンティウスらが列挙できる。また、属州内外から有象無象の若者が引き寄せられた。その一人がアプレイウスで、彼は紀元後125年頃ヌミディア州との境に近いマダウラMadaura(=Madauros. 現在のマダウルーシュMdaourouch)の資産家に生まれ、そこでの初等教育後、カルタゴにやってきた。その後アテナイ、ローマなどにも遊学した後、カルタゴで教鞭をとり教養人として活躍した。カルタゴ市もその労に報い、彫像を設立しアスクレピウス(=フェニキアのエシュムーン)神殿祭司に任命したという。その2世紀後、同地で高等教育を修めようと片田舎から一人の青年がやってきた。アウグスティヌスである【ph21】。彼は故郷タガステThagaste(現在のスーク=アラス Souk-Ahras)で7歳から初等教育を受け、13歳の頃24キロメートル離れた隣町マダウラで文学と雄弁術を学び、一時中断の後、最後に17歳で州都に来た。その後の活躍は周知の通りである【fig13】。カルタゴで教育を受けたこの二人の、前者に近い中間期にペルペトゥアとその家族がそこで生活していたわけである。カルタゴは文化性・芸術性においても秀でていた。そびえ立つ公共建築物それ自体がその雰囲気を醸し出したし、ハドリアヌス帝が建てた劇場では喜劇と悲劇、それに無言劇やパントマイム、はては綱渡りから手品師やダンサーが出演した。文化の半面は享楽と悪徳、放縦と倦怠である。カルタゴはアフリカの汚水溜めでもあった。この事情をアウグスティヌス自身が余すところなく述べている。「私はカルタゴにきた。するとまわりのいたるところに、醜い情事のサルタゴ(大鍋)がぶつぶつと音をたてて燃えていました」(21)。彼はとりわけ悲劇を好みその世界にどっぷりと浸かったようだ。ペルペトゥアとその家族もこういった演劇をよろこんで鑑賞したことだろう。目抜き通りには、50年ほど前にアプレイウスを顕彰して建てられた彫像もあって、それも彼女にはなじみの風景だったはずである。


この時期、カルタゴの知識人の中ではギリシア語とラテン語の両方が使用され、アプレイウスなどはどちらにも応じるべく両言語で演説をしていた。彼の25歳ほど年長者で、ヌミディア州キルタCirta出身で後に当代きっての修辞学者となり、マルクス=アウレリウス帝の教師でもあったフロントも同様だった(これがアウグスティヌスの時代になるともっぱらラテン語になる)。ペルペトゥアがギリシア語を話せたのも、カルタゴにおいて別段奇異なことではなかった。彼女の弟の名前もギリシア風のディノクラテスだった(22)。他方、アウグスティヌスが18歳でなした息子の名前はベルベル系のアデオダトゥス(23)だったことは、両者の微妙な文化的背景の差異を彷彿させて興味深い。ペルペトゥアの家族は、たぶんラテン語、ギリシア語、ポエニ語の3カ国語をあやつることができた。北アフリカでのギリシア語の普及はギリシア語文献の入手も容易だったことを意味する。それはおそらくペルペトゥアの読書にも影響を与えただろう。


ペルペトゥアの世界観・人生観に大きな影響を与えた文学ジャンルは、ヘレニズム小説だった、と Salisburyは強調してやまない(24)【fig14】。以下しばらくその論拠を紹介する。セプティミウス=セウェルス帝の妻ユリア=ドムナJulia Domna【ph22】はたぶん彼女の文学サークルの中に、これら小説家たちの少なくとも一人を含めていた。それはいかに彼らがこの皇帝の治世(すなわち、ペルペトゥアと同時代)に人気を得ていたかを示している。これらの小説はヘレニズム世界の思想解明に有効で、最近とみに研究が進んでいる分野でもある。これらの小説の大部分はギリシア語で書かれた。アプレイウスの最も著名な作品『変身物語』(25)はラテン語で書かれたが、明らかにそれ以前のギリシア語小説の影響を受けていた。Salisbury は、ペルペトゥアは間違いなく『変身物語』を読んでいたと断言する。別の小説類をもおそらく読んでいたであろうし、読まなかったとしても少なくとも耳にしていたはずである。我々は、そうした小説のひとつとして『MetiochosとParthenope』(後2世紀のパピルス断片の中からの再発見後、1967年に公刊された恋愛小説。作成は後1世紀初めか)【ph23-1, 2, 3】が定期的に劇場で上演されていたことを知っている。そしてカルタゴの劇場がこの評判の高い出し物を上演しなかったはずはない。この類の一群の小説は、ペルペトゥアのさまざまの言動にその影響が見てとれるので重要である。小説の筋は同音異曲だった。一目惚れで恋に落ちた若い二人が、しかし離ればなれになり、それぞれ試練をくぐり抜け、そして再会を果たし、永遠に幸せに暮らす。この陳腐なヘレニズム小説の筋の中から、どのような教訓をペルペトゥアが引き出していたというのか。第一に、そこでは若さが称賛されている。小説『Ninos』(後1世紀初めの作品。1893年再発見)の断片で、ある若者は「14歳の少女は、結婚し子供を産むのに十分な年齢である」と述べている。実際、未来は常に不確かなので、願望をかなえようとするならば、二人はぐずぐずすべきではない、と。たしかにローマ社会は早婚だったが、それは家父長の庇護のもとに行われるべきであって、若い二人の自主性によるものではない。ところが、これらの小説は十代の若者が自ら欲したことにさっさと旅立つのを称えていた。これはローマ的ではなかったが、まさしく若きペルペトゥアがキリストに従って家庭を否定したときの行動だった。


第二の特徴は、それらが自立した強い女性を描いていることである。これも伝統的ローマ社会で描かれた理想的女性像とはきわめて対照的だった。Parthenope, Antheia, Sinonisといったヒロインたちは、機知に富み、ずばずばと遠慮なくものを言っている。ヘリオドロス作『エチオピア物語』Aithiopika(後3世紀後半)の中のCharicleaのように、ある者は山賊に捕らえられたり他の危険に直面するが、大胆さと機知で自ら切り抜ける。『Ninos』 のヒロインは、男性の服装を身にまといアッシリア人の一団を率いて要塞都市の占拠を指揮している。彼女は負傷するが、象が彼女の部下を踏みつけている間に逃亡に成功する。英雄やヒロインは冒険の中であらゆる試練や苦難に立ち向かい、その後互いを回復しあう。これらの苦難はしばしばローマ権力の中心、すなわち円形闘技場が舞台となっていた。ある若者は彼の価値を証明するためにアレーナで試された。他の若者は最後の試練として競技の中で巨大なエチオピア人と格闘しなければならなかった。これら2つの例が示しているように、彼らが経験した多くの私的な闘いは、しばしば公的審問の中で最高潮に達し、彼らの気概を証明することになる。この結末がまさしくペルペトゥアたちの体験であることを、我々は知っている。


第三に、小説の場合、ありとあらゆる試練に立ち向かった英雄とヒロインには、ハッピー・エンドが約束されていた。これは、恋人たちは再会しその後幸せな生活を送る、という現代の恋愛小説の筋書きにも通じるものがある。しかしヘレニズム小説では、しばしば彼らのハッピー・エンドに精神的な次元を提供した。エチオピア人との格闘のあと、物語の英雄は予言能力が得られたと主張する。それは古代世界においては精神性の印だった。この物語では、二人の恋人は結婚するだけでなく祭司職に就任する。


これらの物語の教訓は以下である。もしあなたが若くて勇敢で忍耐強ければ、あなたの世俗的な願望は達成されるだろう。また、あなたは神々からも精神的恩恵でもって報われるだろう。『変身物語』の中でアプレイウスは冒険物語と精神的成果の完全な融合例、クピドとプシケの魅力的な物語を述べている(IV.xxviii-VI.xxiv)【ph24】。プシケは美しく若い女性で、愛の神であるクピドの心を捕らえた。彼らはすばらしい秘密の宮殿の中で幸せに暮らし、愛し合っていたが、プシケの妬み深い姉妹たちと彼女自身の悲劇的な好奇心のために、二人は別れ別れになる。クピドは若い女性を失ったかのように見える。しかし、彼女は彼を捜し出す決心をし、その探求の中で多くの試練に立ち向かう。ヴェヌスの怒り、不可能な仕事を成し遂げねばならないとか、冥界に行って死に直面するなどなど。彼女の努力は神々の目にとまり、ユピテルは彼女を天国に連れ戻す。彼女は不死になるためにアンブロシアを飲み、クピドと天上の結婚をし、「よろこび」なる子供をもうける。


この物語は離ればなれになった恋人たちが最終的に再会するという定式にまさしくあてはまっている。他方で、クピド自身を恋人たちの一人にすることによって、物語は寓意的様相を帯び、神へのプシケの切望となっている。このような寓意的な形の中で、物語は精神的切望にあふれた異教徒たちの間で評判になり、そしてのちになって、神を探し求めるキリスト教徒たちにうけないはずはなかった(26)。精神的探求と空想的ヘレニズム小説の密接な関係は、『変身物語』の結末でさらに明確になる。アプレイウスは二人の幸せな結婚で終わらせずに、自伝的なイシス教入信儀式の体験、つまり神聖なるものを切望する彼自身の魂の最高点で終えている(XI.i-xxx)。


こうしてSalisburyは畳みかける。ペルペトゥアがアプレイウスや他の恋愛小説の演劇的な描写を読んだり見たりした可能性は高い。厳密な立証は不可能だが、小説が殉教へと向かいやすくする、ある特定の役割モデルを提供することで、彼女に影響を与えたと考えるわけである。思うに、最初になすべきことをイメージできないと、行動を起こすのはむつかしい。たとえ空想にしろイメージすることで前進も可能となる。空想的な冒険物語も、ペルペトゥアが、ハッピー・エンドを期待しながら試練に立ち向かう、行動力にあふれた若いヒロインとして自分を想像することの助けになったはずである。我々は、知的な若い女性へのこの文学的影響を確言することはできないが、次のようにいうことはできるだろう。それはカルタゴにおける彼女の世界観・人生観を形成した文化的遺産の一部であった、と。はたしてSalisburyのいう通りだろうか。たしかに、ペルペトゥア受難の語り手が簡潔に「(彼女は)自由教養諸学科の教育を受けており」(ii.1)と書いたとき、その記述はカルタゴを特徴づけていた多様な文化装置が彼女の価値観を育てていたことを意味していた。その中には、ローマ・ギリシア的、北アフリカ的、キリスト教的なものが含まれていた。この多重性をペルペトゥアの中に見いだしつつ、彼女の言動を主導していたのは何であったのか、次にそれが問われなければならない。