投稿者: k.toyota

ポンペイ近郊遺跡で、ただよっていた薫香の正体

 2026年3月掲載された研究で、ポンペイとボスコアレの家の 2つのテラコッタの香炉の残留物の分析で香料の化学組成が初めて明らかにされた。ポンペイの工房で製作された香料には、地元の香木や葉の他にブドウ酒が含まれていた。 ボスコアレの別荘の納屋で発見された2つ目は、アフリカや中東から輸入された外来のブルセラ科樹脂(乳香や没薬に似た)の残留物で、現代の教会の匂いに匹敵するほど、豊かで「演劇的」な感覚体験を生み出していた。

左:ポンペイの香炉        右:ボスコアレの香炉

 この発見は、ローマ帝国各地に高級品を流通させていた商業ネットワークの存在を確認し、同時に、ブドウ酒も利用されていたことから、ポンペイ人が地元の農業と神聖な儀式との深い関わりをもっていたことを明らかにしたのである。

 とはいえ、以前触れたことのあるポンペイ、IX.10.1(2024/1/7)で出土した祭壇がらみで、私はこうまとめていた。「なお祭壇の周りからは以前の献げ物の残骸も出てきて、ブドウの果実、魚、哺乳類の肉などが確認されたという。こうして文献史料からつい想像され勝ちなのだが、いつも高価な動物犠牲を奉献していたわけではない庶民層の日常的宗教慣習の具体例をおそらく初めて垣間見ることもできたわけである」。これは厳密にいうと香料とはいえないものの、手近な献げ物もしていた、という点では共通といえるかもしれない。

Filed under: ブログ

コンスタンティヌス巨像(コロッサス)とトイレ建造リール動画

 なんとまあ、イイ時代になったものだ。

 これは、デジタルクリエーターのNeuro Peel氏のリール動画の作品群(https://www.facebook.com/profile.php?id=61583396761975&sk=reels_tab)のひとつである。

 ここで紹介するのは、コンスタンティヌス大帝の巨像の作成プロセスを描いた動画である(https://www.facebook.com/reel/26224116467273961)。実際には、重量を支えるため背景の壁に密着していたはずであるが。

 13mの実物大のそれは、昨年の聖年の期間にカンピドリオ丘に鎮座した。本ブログでは、2024/2/1に関連情報をアップしている。さて、聖年も終わってこの巨像どういう運命をたどったのであろうか。私としてはそのままのこしておいてほしいのだが。

 ついでに、トイレのも。https://www.facebook.com/reel/769822785923940

Filed under: ブログ

古代ローマ死亡乳幼児埋葬情報・新情報

 知人の書き込みあったので眺めていて偶然みつけた。私にとって内容が重要なので全文引用する。翻訳は幾つか試してみたが、今回はDeepLが一番的確な気がする。

Romano Impero 2026年3月26日 16:00 

 フランス北部のリュオクールRuyaulcourtで、INRAP(フランス国立考古学研究所)が紀元1世紀に遡る魅力的な考古学的遺物を発掘した。ガロ・ローマ時代の農村集落において、2歳未満の幼児の墓が発見され、そこには並外れた情感を帯びた副葬品が納められていた。少年の火葬された遺骨や一連のミニチュア壺の傍らで、考古学者たちは、優しく抱き合うカップルを表現した珍しいテラコッタの小像を発見した。両親を象徴すると解釈されるこの作品は、永遠の守護と断ち切ることのできない愛情の絆の象徴として機能しており、古代世界における家族の喪に深い洞察を与えてくれる。

 13ヘクタール以上に及ぶこの遺跡は、紀元前400年から4世紀にかけて活動していた農村共同体の姿を明らかにしている。幼児の埋葬地に加え、小道沿いや農地の囲い付近に配置された複数の埋葬群が確認されており、副葬品は単純な容器から、ガラス質粘土製の首飾りや家庭用火格子といったより貴重な品々まで多岐にわたる。これらの出土品は、アトレバティ族Atrebatiのローマ化の過程を物語っており、そこでは帝国の儀式が地元の伝統と融合し、深い人間愛に満ちた行為を通じて死者の記憶が生き続けた。(https://www.stilearte.it

Filed under: ブログ

今月の『図書』巻頭言につくづく思うこと

 本日届いた『図書』2026/4 月号ネコ特集の巻頭言でネコの撮影で著名な岩合光昭がいいことを書いていた。

 一芸に秀でた人だけにいい文章である。

 私も及ばずながら「半世紀以上」やってきて、世間的には専門分野についての「知識は一応持っている」と思われているかもだが、「思惑は見事にはずれる」ことばかり多くて・・・、まだまだだなと言ってる場合ではなく、もう先がないわけで。

Filed under: ブログ

誤報だったあのモザイク情報

 2025/7/15のブログで「第二次世界大戦中にドイツ国防軍大尉が盗んだモザイク画、ポンペイに返還」の情報を報告した。すなわち第二次世界大戦中にイタリアでナチス将校によって略奪され、返還者に寄贈されたとされていたが、ところがその後、モザイク画の真の起源が、研究者によって発見された(https://www.thehistoryblog.com/archives/75534)。このモザイク画はポンペイとその周辺地域とは全く関係がなかった、らしい。おそらく件の大尉が盗品を入手する際売人にそう吹き込まれたのだろう。

 その決定的な手がかりとなったのは、2025年に返還されたモザイクが報道陣に公開された際の偶然の出会いだった。その発表会に出席した考古学者の一人、ジュリア・ダンジェロ Giulia D’Angelo はマルケ州出身で、彼女の地元での知見が謎の解明に結びついた。

 このモザイクは、マルケ州フォリニャーノ Folignano 郊外のロッカ・ディ・モッロ Rocca di Morro 村にあるローマ時代の別荘から出土していた。最初の記録は1790年、バルダッサーレ・オルシーニ Baldassare Orsini がアスコリ・ピチェーノ Ascoli Piceno にあるフェデリコ・マラスピーナ Federico Malaspina 侯爵の宮殿の古代遺物の中にこのモザイクを記述したものがあった。それから80年後の1868年頃、画家で考古学者のジュリオ・ガブリエッリGiulio Gabrielli(1832-1910)は、このモザイク画のスケッチを描き、主題と発見場所についてメモを残していた。それが以下である。

ただスケッチは実物を見たものではなく記憶に基づいて描かれたため、いくつか誤りがある。彼は、男性が女性に性的サービスの見返りとして金銭の入った袋を差し出している場面だと解釈し、盛り上がった覆いを金袋と誤解した。

 ガブリエッリはまた、モザイク画の所有者歴も記録していた。彼は、モザイク画がロッカ・ディ・モーロにあるマラスピーナ家の邸宅で発見され、マラスピーナ家はこのモザイク画をオークションで売却し、その後「詐欺師」の手に渡り、さらにアスコリ・ピチェーノ出身の蚕業を営むジョヴァンニ・トランキッリ Giovanni Tranquilli という人物の手に渡った、と。そしてシルヴェストリ Silvestri 家が最終的な所有者だったことにも触れている。この最後の記述は、ミラノ国立考古学博物館の調査部門のアーカイブにあった。そこには、ルチア・シルヴェストリ Lucia Silvestri という女性がモザイクを彼らに売り込もうとしていた記録が残されていた。

 「素晴らしいチームワークです」と、ポンペイ考古学公園のガブリエル・ズフトリーゲル Gabriel Zuchtriegel 園長は述べる。「最新の研究のおかげで、ラツィオ州には貴重なモザイクを専門的に生産する生産者がおり、おそらく相当な量をマルケ州、カンパニア州、プーリア州などの地域に輸出していたことが明らかになりました。これはローマ美術史だけでなく、ローマ世界の経済史にとっても非常に興味深い発見です。」

 あらぬ冤罪がそそがれたドイツナチスにとっても朗報である。私の推測だが、売人が外国人に盗品を売る場合の常套句だったのだろう。それにしても購入しなかった美術品に関しても記録を残しているなんて、美術品がらみで問題多いお国柄のせいだろうが、さすが北イタリアだなあと感じ入ってしまった。

Filed under: ブログ

ここ一ヶ月の発掘・発見情報

◎ 3/29 :Exceptional Roman cargo shipwreck found in Lake Neuchâtel

  http://www.thehistoryblog.com/archives/75705

◎ 3/21:Asparagus foraging mission yields Roman tombstone

 http://www.thehistoryblog.com/archives/75650

◎ 3/17:Only image of Gallo-Roman god found in Burgundy sanctuary

 http://www.thehistoryblog.com/archives/75624

◎ 3/14:Mosaics from early Christian churches found in Albania

  http://www.thehistoryblog.com/archives/75598

◎ 3/8:Two rare Roman lead ingots found in Wales

  http://www.thehistoryblog.com/archives/75549

◎ 3/4:Roman shield umbo, Greek inscription found in necropolis in Romania

  http://www.thehistoryblog.com/archives/75516

Filed under: ブログ

TACOの期限延長の真意がみえた感じ?

 タコにとって、すっかり恒例になっている猶予期限延長であるが、こんたびも「48時間」から「5日間」に延長した。それで世間は和平への道が開けた、水面下で交渉しているのだといった楽観論も出ているようだが、私には疑問であった。一方の当事者のイランがそういった交渉をしていないと断言しているわけで、タコが交渉中などといっても信じられないからである。いや、タコが交渉中といっていても、これまでそれを裏切る行動をとるのが常だったからだ。

 私の疑問は、辛坊治郎がこの火曜のラジオで言っていたことで、納得がいった。すでに沖縄の海兵隊が出発した、というのがミソなのかも、と。彼らが現地に到着し、参戦するのに最低5日間が必要なのだ、ろう。種々雑多な情報収集の必要を感じてしまった。

 なのに、我が国のいわゆる公共放送は油(断)の話ばかりで、まったくそのような観測すらしていないように見えるのはどうしたことか。

 タコのやり口はいつも不意打ち、騙し討ちである。彼の商いの仕方(ディール)をそのまま政治・外交に持ちこんでいるのだろう。私は商売に関わったことはないが、そこでは恫喝による値引き要求など日常茶飯なのだろう。和平を求めているスタンスを表面でとっていても、真珠湾攻撃を地でやってるわけだ。座学の軟弱エリートとは出発点から違う思考方法である。

 イランも地上戦への対応を十分準備していると思いたいが、実際にはどうなんだろうか。もちろん、地上戦が起こってほしいのではないが、イランの覚悟の程は想像できても、彼らの軍事力の実力がどれほどのものなのか、私は知らない。イラクのように一方的な敗走になるのか、持久戦に持ち込めるのか。そうこうしていたら、しびれをきらしてイスラエルが戦術核兵器を使用しないとも限らない。押さえをきかす存在がいない現状では悲観的にならざるを得ない。

Filed under: ブログ

これからの歴史教育はAI活用でこうなる?!

 皇帝Diocletianusの首都ニコメディア(現トルコのIzmit)関係を調べていてみつけた。https://www.youtube.com/watch?v=m0CS0aMRhgg

 AIを使ってもうこんなことも可能になっているのですね。今後、歴史の教育環境が劇的に変化しそうな予感がしている。

 登場人物が喋っているのはトルコ語です。ちなみに解説文は以下。Google翻訳を使ったが、一切手を加えていない。
**********************
 イズミットの歴史を形作った人物たちに初めて出会うかもしれません。この街に最初の集落を築いた人々、イズミット生まれでヨーロッパ中に名を馳せた医師、敵の占領から街を解放した際に叙事詩を著した人々など、彼らは決断、貢献、そして英雄的行為によって街の歴史に名を刻みました。
 AIを活用した新たな都市史プロジェクト「クロノバイザー・イズミット」は、2700年にわたるイズミットの歴史を巡る特別な旅へとあなたを誘います。

*********************

YouTubeでアクセスすると「〇〇をAIで再現してみました」という作品がすでに日本史を含めて目白押し。

私的にはYouTubeでの情報なんてろくなものでないと心の中のどこかで思ってきたのだが、今や場合によっては研究者レベルの優れた見解を提示している例もあることが今回わかった。それは次の例に触れたからだ。

「西暦330年のコンスタンティノープルであなたは何を見たか?」https://www.youtube.com/watch?v=1ER4wJpd3N4&t=32s

 私がそうじゃないかなと思っていた内容「コンスタンティノポリスはエウセビオスの叙述にもかかわらず、最初からキリスト教的都市であったわけではなく、実際には異教的色彩が根強く生き残っていた」が、そこで当然のように語られていたのである。

 視聴者の【コメント】も結構優れていて一見に値する意見があって油断できない。「当時、明確なキリスト教建築は存在しなかったので、都市が「異教的」に見えたのも不思議ではない。キリスト教徒はローマのバシリカを模した教会を建てていた」とか、「Timothy Barnes, Constantine を読むことをお勧めする。彼は、この都市はセプティミウス・セウェルスによって大部分が破壊され、リキニウスによってようやく再建が始まったため、活動していた異教の神殿はなく、コンスタンティヌスはまっさらな状態から新しいキリスト教の首都を建設できた、と主張している」とか。私の感触と180度異なるこのBarnesの2011年の所説など、p.111ff.あたりのことであろうが、状況を相対的に眺めるのに役立つだろう。

 ところで、このYouTubeは幸いなことに以下のようにすると日本語音声で聞くことができる:YouTubeを起動すると、画面の右下に幾つかのボタンが並んでいるが、右から4つめの「設定」をクリックする →「音声トラック」で、日本語を選ぶ。

            ↑

この日本語訳、ときどき変な誤訳をしているが(例えば、Sol Invictusを「魂のインヴィクトゥス」と)、おおむね良好である。

Filed under: ブログ

イエズス会の日本布教は失敗だったのか

偶然見つけました。是非一度ご覧下さい。
 
 【軌跡特集】日本にキリスト教が普及しなかった理由│ザビエル “論破されて逃げた説” の真相(1549-1551)
 https://www.youtube.com/watch?v=vB2VRKVfXMI

紹介した読書会メンバーから以下の反応あり、それに私は以下のように答えました。

>当時の人々にとっては、先祖が救われない、と言う不安や恐怖が強かったと聞いた事があって、作り話だと思っていましたが、本当だったのですね。

このエピソードはザビエルの書簡集で、当時のカトリック神学にしたがって洗礼受けてないと救われないと回答したら、ご先祖様が救われず自分だけが救済されるのは受け入れられない、とキリスト教から離れた人が多くいたと報告されてます。現代ではこの教義は放棄されてます。

>論破されて逃げた、と言うか、出直さなきゃダメになって、そのまま亡くなってしまったと言う事ですかね。

 そもそもイエズス会の日本布教の目的は、当時鎖国政策だった巨大人口を有する中国布教を可能にするためという位置づけだったので、一概に失敗というわけではありません。イエズス会日本管区はいまだそのために存在している、と私は考えてます。

>じゃあ、仏教は外来宗教なのに何故定着したのでしょう? 唯一絶対、ではないところが受け入れやすかった?

 仏教思想の根幹はどうすれば解脱できるのかという哲学だったので、そもそもインドでも仏教は一般に普及しませんでした(庶民はヒンズー教;ちなみに中国では庶民はもっぱら道教)。日本には最初、鎮護国家思想として入ってきて、鎌倉時代になって日本的風土に組み替えられて初めて庶民層にも受容され出した、といわれているはずです。現世で苦しんでいる庶民にとって、極楽浄土に救済されるという信仰にすがってたわけ。

 あの映像でちょっと出てきたのですが、言葉の問題って実は重要です。ま、仏教でもお経は大多数の庶民には不可解ですが、この呪文性が民衆宗教には必要で、だからカトリックでもミサがラテン語から日本語になったら、ありがたみが失われてしまったわけです。宗教には必ずこのダブルスタンダードが存在します。
 映像では農民に説く姿がかなり頻繁に出てましたが、上からの改宗を目論んで、支配層(武士階層)への布教を追究していたのがイエズス会の方針だったはずなので、ちょっと違和感が。ま、このあたりが後発のフランシスコ会あたりの布教方針とのごたごたの一原因だったのでは、と私は推察してますが。
Filed under: ブログ

TACOの現実

  ここでのタコは「蛸」ではない。「Trump Always Chickens Out」の略称であることはみなさん先刻ご承知であろう。そのタコがやたら好き勝手をやっていて、世界中が右往左往させられているが、その秘密は案外イスラエルの情報網に彼が絡みとられているのでは(エプスタイン文書をはじめとするスキャンダル情報で唯々諾々とさせる手法は、彼のみならず叩けば埃が出るアメリカ政財界人を屈服させる手段になっている、のかも)、と素人の私などは単純に思ってしまうのだが、どうだろう。所詮まともに税金も払っていない守銭奴である。

 もちろん露骨に恫喝なんかしてないだろうが。チクチクとほのめかして。そういえば、学名Octopodaの軟体動物も、危うくなるとすぐに目くらましのスミを吐いて逃げ出す習性の輩であった。

我が国においてのみ、このカリカチュアは意味を持つ。

Filed under: ブログ