投稿者: k.toyota

なぜキリスト教は世界伝播しえたのか

  最近改めて思うのは、すべては仮説、ということ。巷間ではいかにも定説視されているが、その実態は都市伝説化した物語にすぎないわけで。まあこんなことはフィクションを旨とする小説や脚本の世界では常識かもしれないが、実証に基づいているはずの学界で忘れ去られている場合がままあるように思える。

 以下のブログを偶然見つけた。

 濱田篤郎・東京医科大学特任教授が「感染症は歴史を動かす」の中で、「キリスト教が世界的飛躍を遂げたのはなぜか:背景にハンセン病と奇跡の“秘薬 ”」を書き込んでいる。   https://mainichi.jp/premier/health/articles/20240122/med/00m/100/005000c?utm_source=article&utm_medium=email&utm_campaign=mailhealth&utm_content=20240127  

 庶民の悩みの大半は健康でないことに起因しているので、宗教と病はたしかに密接に関連している。  ただ、新旧約聖書では「レプラ」lepra と書いてあるが、これは当時重篤な皮膚病を幅広く表現していて、現代的な「ハンセン病」に限定されるものではなかった、という解釈が聖書学者では一般的となっている。  

 とはいうものの、不治の病をイエスは奇跡的に治癒できた、だから彼は神の子なのだ、というのが新約聖書の書き手にとって一番言いたかったことなので、読者はおのずと癩病と短絡的に限定的に解釈するのが普通だったのも事実だろう。  

 ブログに書かれているようなナルドなどの特殊な香油で治癒できたレベルは実際に生じたはずだが、しかしだからキリスト教が世界宗教になったのだ、というのは論理の飛躍がありすぎる。西欧世界が地球上の世界制覇を成し遂げたがゆえに、その裏打ち宗教としてキリスト教が世界宗教となり得たというのがまっとうな考えではなかろうか。同じことはムスリムにも言えるはずだ。

 たとえば、同様に米国の圧倒的影響下にある韓国・台湾・日本ではあるが、人口の半分がキリスト教徒となっている韓国に比べ、台湾と日本でのそれはごく限定的である。日本では新旧併せて人口の1%程度の110万人、台湾では4%の55万人程度に留まっている。それは駐留米軍への軍事的依存度の違いのように私には思える。そして、敗戦後に宗旨替えしてそれなりの信者を獲得した日本のキリスト教もいよいよ二世・三世信者に移行する時期に遭遇し真価が問われ出したところで、新コロナ騒ぎに遭遇したわけで、その影響が今後どう波及するか、私は密かに注目している。

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ローマ軍士官用の腕当てmanica 復元される

http://www.thehistoryblog.com/archives/date/2024/01/22

 1840年の鉄道建設中にイギリスのスコットランド国境付近のトリモンティウム Trimontium のローマ砦遺跡が発見され、1905-1910年の調査で出土していたロリカ・セグメンタ lorica segmenta 式の真鍮製の armguard がこのたび修復されて、大英博物館でのお披露目のあとスコットランド国立博物館で常設展示される。

 トリモンティウム(八ヶ岳ならぬ三ヶ岳)は現在名 Newstead で、後80年代に川に接続する高台に建設された。これはハドリアヌスの長城とアントニヌス・ピウスの長城の中間点の戦略地点に位置し、ハドリアヌス長城にとっては突出した最重要な前線基地であり、アントニヌス・ピウスの長城にとっては兵站補給基地として機能していた。規模も大きく、他の砦の3倍はあり、常備軍は多数の騎兵を含めて1000名、商人その他の民間人は2〜3千人と想定されている。甲冑遺物は発掘時の状況から180年に砦が放棄された時に甲冑の修理工房に残されたものと想像された。

 100程の断片から復元されたのだが、一般軍団兵の鎧は鉄製だったが、真鍮製のアームガードは、新品の時は金のように輝いていたはずで(現況は緑色に錆びている)、高位の将校のものだったに違いない。ガード部分は肩から手首までで、機能的に二分割されていて、楯で防御される左手は下半分がない場合もあった(下写真左側参照)。

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キリスト教関係ニュース

 毎週火曜配信のChristian Today であるが、国内ニュースでは、能登地域での諸教会の支援活動情報がほとんどである。

 国際ニュースの中から今回は「信仰を理由に殺害されたキリスト教徒は1年間で約5千人:最新の迫害報告書発表 」(https://www.christiantoday.co.jp/articles/33212/20240122/world-watch-list-2024.htm)を紹介する。

 2022年10月から23年9月までの1年間を対象にした統計が発表された。それによると、この1年間に信仰を理由に殺害されたキリスト教徒は4998人に上り、平均すると1日に13人が殺害されていることになる。また、教会やキリスト教施設に対する攻撃は、少なくとも1万4766件が発生。これは前年の7倍に昇る由。

 迫害国のランキングでは、北朝鮮が前年に続きワースト1位になった。そもそも北朝鮮は、過去20年以上にわたって世界最悪の迫害国とされている。

 しかし、最も多くの犠牲者は世界6位の迫害国ナイジェリアで、サハラ砂漠以南の国々における死者の9割に相当する4118人が命を奪われた。イスラム過激派によるものである。

 今回はそれよりも、そこから行けて読んだ以下の自死関係が身に浸みた。6年前の記事ではあるが。「「自死は誰のせいでもない」:父・娘を亡くした進藤龍也牧師」(https://www.christiantoday.co.jp/articles/25103/20180124/suicide-pator-tatsuya-shindo.htm)

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かつて原発村、そして今また地震村

 自民党の派閥の解散が報じられているが、どうせ名前を変えてまた出てくるだけなのは、35年前を覚えているド素人の私にでもわかる。ま、ちょっと理屈っぽくいえば、勉強会はまったく問題ないのだが、そこに権力とお金が絡むと派閥といわれちゃうだけのことだ。最近どこかで大臣になるためには4000万円上納(どこへ? 総理大臣の懐かな)しないといけないと聞いた覚えがある。これが事実だとすると売官制度も実はいまだ背後で健在というわけだ。無能な大臣が続々出てきている現実を見るにつけ・・・、パー券の裏金作りも実態はこの売官システム用なのではないかな、と私などつい想像してしまうし。それは特捜も先刻ご承知のようで立件される線引きの額が4000万らしく、この数字の一致は偶然なのだろうか。

 そして福島地震で懲りたはずの原発なのに、10年以上すぎたらやっぱり原発しかないとばかりに、いったん決めていた耐用年限40年を延長しての再稼働とかの連続で、あのとき話題になっていた安全神話を口を揃えて言っていた研究者たちのことを「原爆村の住人たち」と称して、要するに国からの研究費分配に与っていた研究者たちの口車に乗っていたのだというわけだが、まあそれだけではなく地元にこれといった産業もない過疎地にとって大量の補助金はうまい話だったという半面もある。上も下も欲の皮だったわけだが、そうならざるをえない事情があったわけだ。

 そして元旦に生じた能登半島地震がらみで、私は少々ビックリしたのは、ラジコで聞いているニッポン放送「辛坊治郎ズームそこまで言うか!」で地震の発生確率を地図にしたものが毎年出ているのだが、これによると能登での地震発生はありえないことになっていた、実は熊本もそうだった、と言ったのを聞いたからだった(https://www.mag2.com/p/news/591278)。

https://www.j-shis.bosai.go.jp/news-20230718 この地図は昨年7月製作だから、能登半島は薄い黄色になっているが(熊本は2016年発生の地震なのでここでは赤くなってされているけど)、石川の新聞記者に言わせると、それ以前に日常的に地震が多発していたようだ。要するに地元の実体感は、行政や研究者とはまったく乖離していたわけで、まあ過疎地の限界集落は事実上見捨てられてきていたというわけなのだろう。しかもこの地域は原発建設で名前が挙がっている場所でもある。

 それで辛坊先生ご推奨の以下の本をさっそく入手。小沢慧一『南海トラフ地震の真実』東京新聞、2023年、¥1650。来週冒頭のラジオに著者がご出演するらしい。

「はじめに」で結論はもう出ている感じ。「防災行政と表裏一体となって進むことで莫大な予算を得てきた地震学者が、行政側に言われるまま科学的事実を伏せ(させられ)、行政側の主張の根拠になる確率を大甘で算出し、とりわけ南海トラフの発生確率は20%程度だったのに70-80%と決めた(より正確には、決めさせられた)」のだそうだ。それで莫大な国家資金がまっ赤から紫色の地域に投入される段取が整ったわけである。

 研究者委員はその算定に反対したのだそうだが、防災予算獲得の見地から結局は押し切られてしまったのであれば、これは「地震村の住人」と言われてもしかたがないだろう。異論を唱えていると村八分に会って科研など資金源を干されてしまうのが理系の通弊である。

 世界で起きるM6・0以上の大地震の20%は日本で発生するのだそうだ。結局、日本はどこでも大型地震が起こる可能性がある、と諦念して、それに対し個人できる対策をとるしかない、というわけ。私はだいぶ前に災害対策としてあれこれグッズを購入済みだが(妻から言わすと、それを取りに家に入ることが実際できるのだろうか、と宣うわけだが)、あとは本棚などを天井と固定する道具も購入しているが、それをちゃんと設置するには至っていない。人生終わっている我らはいいとして、時々泊まりに来る未来ある孫娘のために、とりあえずそれを頑張って設置するしかないか。

【追記】2024/1/21毎日新聞に以下の記事が。「石川県、M7.0地震想定、四半世紀見直さず:津波は震災後変更」:

 「能登地方では20年12月から群発地震が活発化した。県はこれを機に地震想定の見直しに着手したが、間に合わないまま能登半島地震が起きた。

 地震想定だけ見直しが遅れたことについて、地域防災計画を作る県防災会議・震災対策部会の複数の専門家が取材に応じ、県が、国の地震調査委員会による活断層評価(長期評価)の結果を待っていたと証言した。

 調査委は東日本大震災後、全国をエリアごとに区切った活断層調査を始めたが、能登を含む中部地方は未着手のままだった」らしい。

【追記2】2024/1/22の「辛坊治郎ズームそこまで言うか!」の地震関係の部分は「https://www.youtube.com/watch?v=sAQkWRkSsdk」での27:30あたりから48:20付近まで。

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ドイツの中世の便所から「呪詛板」発見

ラテン語で “defixiones “と呼ばれる呪詛板は、古代ギリシアやローマではキリスト教時代まで広く使われていた。ライバル企業、ライバル・スポーツチーム、恋敵、訴訟の相手、さまざまな悪事を働いた人々を滅ぼすために、悪魔や神の力を呼び出したのだ。また、対象者の愛や情熱を強制したり、過ちを正させたりすることを目的とした、愛や性の呪文もあった。

呪いは柔らかい鉛の小さなシートに書かれ、内側に書かれた文章とともに丸められたり折りたたまれたりして、墓、井戸、神殿など、神々の力の入り口とされる場所に置かれた。古代の呪いの金属板は、考古学的な記録でおよそ1,500枚が確認されており、ある場所が何世紀にもわたって呪いの受け皿として人気があったため、定期的に、時には数十枚単位で新しいものが現れている。

鉛の呪いの金属板の時代は7世紀初頭に終わりを告げた。それ以後の時代にも呪いは見つかっているが、その形式は異なっている。どうやら中世のロストクでは、古代の伝統が少なくとも一度はまだ実践されていたようだ。

https://www.livescience.com/archaeology/medieval-curse-tablet-summoning-the-devil-discovered-at-the-bottom-of-a-latrine-in-germany

December 16, 2023 

ドイツの考古学者が、”ベルゼブブ “またはサタンを呼び出す中世の “呪いの金属板”と思われる、丸められた鉛の破片を発見した。

ドイツ北部の都市、ロストクの建設現場の便所の底から発見されたため、研究者たちは一見したところ、この「目立たない金属片」を単なるスクラップだと思ったという。

しかし、それを広げてみると、考古学者たちはこの15世紀の遺物には、肉眼ではほとんど見えないゴシック体の極小文字で刻まれた暗号のようなメッセージが書かれていることに気づいた。そこには “sathanas taleke belzebuk hinrik berith “と書かれていた。研究者たちはこの文章を、タレケTalekeという女性とヒンリックHinrik(ハインリッヒ)という男性に向けられた呪いの言葉であり、サタン、ベルゼブブ(サタンの別名)、ベリト(別名aka Baʿal Berith、ラビの伝統ではベルゼブブと同一視されるカナン人の神)を召喚するものだと解読した。文字的に二人の男女を悪魔たちが分断しているのである。

研究者たちは、これらの人々が誰であったかを知ることはないかもしれないが、悪縁の背後にある理由についてのいくつかのアイデアを提供した。

「誰かがタレケとハインリッヒの関係を壊したかったのだろうか?」

考古学者たちは、この発見はユニークなものだと述べている。特に、同様の「呪いの金属板」が、紀元前800年から紀元後600年までのギリシア・ローマ地域の古代から実際に知られているからだ、と今回の発掘を率いたドイツのグライフスヴァルト大学の考古学者ヨルグ・アンゾルゲ Jörg Ansorge 博士は声明の中で述べている。例えば、現在のイスラエルで発見された1500年前のギリシア語で刻まれた鉛の金属板は、ライバルのダンサーに危害を加えるよう悪魔に呼びかけており、ギリシアで発見された2400年前の金属板は、冥界の神々に数人の酒場の主人を狙うよう求めている。

「一方、我々の発見は15世紀のものです。これは本当に特別な発見です」。

研究者たちは、呪いの金属板が呪いをかけられた人々によって「見つけにくい、あるいは見つけられない場所に置かれていた」ことを考えれば、この遺物が便所の底から発見されたことに驚きはしなかった、と声明は述べている。

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大理石製ローマ地図 Forma Urbis Romae, 100年の時を経て再び展示

 以前このブログでも触れたことのある後3世紀初頭作成の大理石製「首都ローマ地図」Forma Urbis Romae に新展開があった。といっても新断片が発見されたというわけではなく、再公開されることになったという情報である。

実は、私がローマに住んでいた30年前には上記写真のようなファッショ時代の残滓のローマ帝国版図の古めかしい拡大図がまだ皇帝通りに飾られていた。さて除去されたのはいつの頃だったか。

本情報末尾に、隣接のウェスパシアヌス「平和の神殿」発掘関係記事も掲載する。

左がSanti Cosma e Damiano 教会の現況外壁(右端石作りは教会入り口);右が元来壁に張り付けられた大理石ブロックの配置図

かつての「平和の神殿」の展示部屋内壁想像図:これが今、教会外壁になっているわけ。

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http://www.thehistoryblog.com/archives/69228

2024年1月12日  

紀元203年から211年にかけて作成された大理石製のローマ市街地図「フォルマ・ウルビス・ロマエ」Forma Urbis Romae の現存する断片が、カエリアヌスCaelianus 丘陵の新しい博物館に展示された。新しい「フォルマ・ウルビス博物館」Museum of Forma Urbis は、1748年にGiovanni Battista Nolli が描いたローマの図像計画『Pianta Grande di Roma』と重ね合わせながら、その断片をメインホールの床下に埋め込んでいる。

「フォルマ・ウルビス」については、先月、フォルマ・ウルビスが設置された「平和の神殿」Templum Pacis の内壁の発掘に関連して触れたばかりだ。この地図は240分の1の縮尺で、鉄のピンで壁に固定されていた150枚の大理石の板に、実質的に部屋ごとに細部まで彫られた都市の見取り図である。何世紀にもわたり、大理石は破損し、略奪された。残されたものは1562年に再発見され、その破片は1741年までファルネーゼ宮殿に保管されていたが、責任ある管理者ではなかった。多くの平板が割られ、ファルネーゼ庭園の建設資材として使われた。

1742年、破片はローマ市立カピトリーノ美術館のコレクションとなった。現在では、正体不明の破片からブロック全体を覆う板まで、1,186枚(オリジナルの10~15%)しか残っていない。平和の神殿は、フォロ・ロマーノにあるサンティ・コスマ・エ・ダミアノ教会に組み込まれ、古代の教室の壁は現在バシリカのファサードとなっている。壁に残された痕跡(ピンが差し込まれた穴、平板の外形など)は、考古学者たちが破片をつなぎ合わせるのに役立っている。約200の破片が特定され、Nolli によって作成された現代の地形に配置された。

フォルマ・ウルビス博物館は、コロッセオを見下ろす丘の上にある緑地、カエリアヌス考古学公園内にあり、多数の考古学的、建築学的、碑文学的遺跡が展示されている。これらは、ローマが統一イタリアの首都として建設ラッシュを迎えていた19世紀後半の発掘調査で発掘されたものである。市立アンティクアリウム Municipal Antiquariumは、発掘調査で見つかった大量の考古学資料を保管するために、1884年にカエリアヌス丘に建てられた。1929年から1939年まで博物館として開館していたが、地下鉄建設による構造上の問題で閉館せざるを得なかったらしいのだが、さて20年も前のことだったか、庭園のみならずこの施設内を見学した記憶があるので、完全に閉鎖されていたわけではないように思うのだが、さて。

新しい公園では、これらの出土品がテーマ別に展示され、ローマ社会の様相、葬祭モニュメントにおける社会的地位の表現、控えめな神聖空間 modest sacred spaces(祠堂 shrines、聖域 sanctuaries)と帝政時代の最大規模の神殿との対比、公共建築と私的建築の違い、建築趣味や大理石加工技術の変遷、出土品の再利用や再加工のされ方などを知ることができる。

公園と博物館の一般公開は本日1月12日から。考古学公園は毎日開園しており、ローマ市非居住者は 入場料9 ユーロで見学できる。

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http://www.thehistoryblog.com/archives/69112

「平和の広場」発掘調査で明らかになったローマ千年の歴史

2023年12月26日 

諸皇帝通りと隣接のフォロ・ロマーノ:一番右の水色が「平和の神殿」

ローマの皇帝フォルムにあるウェスパシアヌスによって建てられた「平和の神殿」の発掘調査によって、帝政時代にはまだ至っていないものの、数千年にわたるローマの歴史が明らかになった。

「平和の神殿」は、ウェスパシアヌス帝(西暦69-79年)が第一次ユダヤ・ローマ戦争での勝利を祝して、西暦71年から75年にかけて建設したものである。ウェスパシアヌスは、西暦67年にガリラヤの反乱を鎮圧したローマ軍団を自ら率い、西暦69年に皇帝に昇格してローマに赴いた後、息子のティトゥスをエルサレム包囲のために残した。エルサレム略奪で得た戦利品は、平和の女神パックスを祀るウェスパシアヌスの新しい神殿の建設資金となった。

後にコロッセオとなる場所に面して建つ、大きく重要な神殿である「平和の神殿」は、ウェスパシアヌスの死後長い年月を経て増築されたことで、今日最もよく知られているだろう。それは、150枚の大理石の板に刻まれた幅60フィートの信じられないほど詳細なローマの地図で、240分の1の縮尺で市内のあらゆる建物、記念碑、浴場、通り、階段の見取り図まで記録されていた。3世紀の最初の10年間、セプティミウス・セウェルス帝によって神殿の内壁に飾られた。西暦410年のアラリックによるローマ略奪で損傷を受け、次第に多くの部分が失われていった。多くの古代大理石と同様、中世には石灰を作るために採取された。現在では1,186個(オリジナルの10〜15%)しか残っておらず、いまだに謎解きが続けられている。

これまで考古学的に調査されたことのない神殿東部の発掘調査が2022年6月に始まり、先週終了した。

多くの皇帝の大理石が石灰に変化する運命にあったことが容易に想像できる地下室や大きな窯が発見され、これまで考古学的調査の対象になっていなかったこの地域の非常に複雑な証拠が考古学者たちに明らかになった。さらに、国家復興レジリエンス計画(PNRR)の資金も活用した今後の発掘調査によって、おそらく帝政期のもの、さらにはそれ以前のものにまで到達することが可能になるだろう。現在使われている方法論では十分に調査されていない、この比較的小さな皇帝フォルムの一角が、一見よく知られているだけのこの地域の理解に、新たな興味深いデータをもたらしてくれることを期待している。文献資料、眺望、19世紀の写真、20世紀前半の旧式の発掘(科学的発掘ではない)では、ローマのように何千年もの間、絶え間なく変貌を遂げてきた都市の諸相を理解するのに十分な遺産とは言えない。

 この野外の弱々しい日差しはいかにも冬の地中海ですよね〜

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そろそろ日常復帰:なのに礫川全次を覗く

 年末から年始にかけて、リタイアしてもそれなりにある定例のスケジュールから解放されて、没頭してきたことから(結局まとめきれなかったが)、そろそろ復帰する時期に来ている感じで、今日からと思っていたのだが、ふと過去ログを点検しているうちに、2019/9/3の書き込みで、ほんとうに久々に礫川全次(こいしかわ・ぜんじ)に目がとまり、彼のブログに行ってつまみ読みすることになって日が暮れてしまった。https://blog.goo.ne.jp/514303

 彼は私と同世代で「団塊の世代の在野史家。年金生活者。趣味で原稿を書き、たまに稿料、印税をいただくことがある。南方熊楠、尾佐竹猛、中山太郎といった在野系の研究者に惹かれる」と自己紹介している。私も年金生活者だが怠け者で、「たまに稿料、印税をいただ」けるなんていいご身分でうらやましい。今回目についたのはこの新年の1/6に書かれた「大野晋(すすむ)さんの話は素人受けしやすい」。内容は、田中克彦『ことばは国家を超える』(ちくま新書、2021)の引用で、まあウィキペディアなどに書かれていない大野への同業者によるそれなりに角度のある洞察である。ここでは自分への自戒を含めて引用する。

 「大野さんの著書にはよくあることだが、その説の提唱者、発明者のことにふれることは一言もなく、まるで全部がご自身の発明かのようにしてどんどん話が進められるのである。だから大野さんの話はしろうと受けしやすいのである。ことばについてしろうとという点で最たる人たちは作家である。たぶんこれは大野さんが親しくつきあわれたらしい作家たちのよくない習慣に学んだものではないかと思う。作家という名を帯びる人たちは研究者たちの仕事から多くのヒントを得ながらも、決してそれには言及しないという文芸世界特有の流儀が身についているらしいのである。
 それからまた大野さんには、単に「著者」という立場を超えた、一種「エディター(編集者)気質」のようなものが感じられる。それは自分の手で研究し開発したというよりも、近隣の畑から気に入った野菜を集めてきて、楽しい料理を作ってしまうわざにたとえられよう。その気軽な気質が、自分のとは異なるいろいろな専門の研究室を渡り歩いて必要な知識を集めるという作業に向いているのであろう。」

 前半と後半は実は通底している。前半は研究者としてはどうかなと思うわけだが、論旨をすっきりさせるにはくどくど学説史や注釈をいれていないほうがいいのは確かである。普通は個別論文で細々書いて、一般向け著書では「拙稿○○参照」としたらスミなのだが、彼はそれをしない人だったのだろうか。後半はこれは一種の才能ともいえるので、私的には無碍に否定しようとは思わないが、まあ本家取りされた側からすると「勝手ないいとこ取りも、いいかげんにせーよ」ということになる。本人にとっては身を削っての乾坤一擲の研究成果を横から易々と盗まれてはたまらないのだが、これは被害者側にしかわからないことだし、節度をわきまえた?研究者が声を上げることはほとんどないし、たとえあげたにせよ無名なので、めったに表ざたにならないわけだが。

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再放送「徹底解明!コロッセオの秘密」をみた

 2023/5/20にNHK BSプレミアムで放映されたものの再放送を、2024/1/7にみた。フランス製作のものだったが(このところNHKのこの手の編集者はもっぱらフランス製作のものを使っている印象がある:製作費削減のせいか)、これまで見た記憶がうかつにも私にはなかったものだ。私からすると時々おかしなことを言っていたのだが、最新の考古学的調査の成果公表としては意味あると考える。間違ってはいけないのは、それでもわかってきたことはほんの一部にすぎないということだ。要するに、研究レベルでは本当のことは何もわかっていないのに、これまでいい加減な仮説を思い込まされていたという認識をこそ持つべきなのだ。

 たとえば、コロッセオの地下からアレーナへの昇降システム、我が国の歌舞伎で言う「奈落」は船への荷の積み下ろしから学んでの仕組みであるとしていたが、これは話が逆のように思えるし、その再現映像も幾つか言いたいことがある。

 第一に、船が波止場に横付けに表現されていること、さらに波止場から海に突き出ている上向きの装置の解釈として船舶係留装置を採用してロープを巻き付ける丸太をそこに入れ込んでいるようだが、荷の上げ下ろしのクレーンがらみかもしれないという件は、最近の拙稿「ポンペイ遺跡の謎を探る:(1)船舶係留装置考」(『西洋史学』50、2023、pp.193-211)で触れていて、しかしそこではわざと図示しなかったのだが、時に奴隷を動力源とする人力クレーンとの組み合わせとして描かれる場合があるが(下図の下の方参照)、文書史料や絵画資料に指摘・描かれているわけではないので、簡単に是認するわけにはいかないのである。

 私的には、海水がローマ・コンクリートをより強固にしていたというメカニズムの説明(真水と違い海水だとアルミナ・トバモライトという物質が成長して水の浸入を防いで強度が増す)は面白かった(この件はしかし、放映中のイタリア人の発見というよりも、すでに5年以上前にアメリカの研究チームが指摘していたのだが:https://wired.jp/2017/07/30/roman-concrete/)。そしてポッツォラーナでコンクリートを作る場合、海水を使用していたのではというのは面白い仮説だと思う。

 またたとえば、私のテーマであるコロッセオのトイレについては何も触れてくれていなかった。あの場で見世物をみながら持ちこんだ弁当なんか食べていた、とは言っていたが、排泄のほうには気付きもしないわけだ。ついでにいうと、コロッセオで殺された動物をその場で食べていたかのような誤解を生じさせかねない説明をしていたのは(おそらく翻訳レベルの誤訳)、いささか問題ありだろう。

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Pompeii,IX.10.1の製粉・製パン場について:新情報

2023/10/20に掲載済みの件だが、ここで新情報を付加して再掲載する。

●ポンペイで、邸宅内で選挙広告がみつかる  2023/10/3

 http://www.thehistoryblog.com/archives/68418

 ポンペイの通りや外壁には1500以上の選挙広告やスローガンが書かれている。今般、IX.10.1の製粉兼製パン業者の遺跡発掘から興味深い出土があった(隣りの2は縮絨工房の由)。

そこはポンペイの一番北を東西に走るノラ大通りに面していて、今年のつい数ヶ月前に発掘されたのだが、なんと邸宅内の家の守り神を祀った祭壇 lararium付近から選挙広告の文字断片がでてきたのである。この普通ではない状況を勘案して、おそらくその家が候補者の親戚か、庇護民か友人の邸宅で、選挙運動がらみの宴会がそこで行われたその残り香がその選挙広告だったのだろうと、研究者によって想像されている。ただその文字全体の確定はいまだきちんとなされていないようなので(一説には「「Aulus Rustiusを国家にふさわしい真のaedileにしてくださるようお願いします」と読めるらしい)、今は造営官aedilisに立候補していた人物名が他からもその存在が確認されるAulus Rustius Verusだったこと以上にここで触れないでおく(彼は、のち二人官duovir候補者として後73年に、それもネロがらみで前回触れたIX.13.1-3のあのC.Iulius Polibiusとペアで登場していた。よって造営官候補だったのは後73年以前ということになるし、おそらく二人官に立候補していることから、このとき造営官に選出されたのだろう)。下記写真にしても、どの場所に文字が書かれているのか、部分拡大写真はあるものの、そもそも私には未確認であることを付言しておく(下の右写真の左端中央隅のアーチがもしオーブンであるとすると、オーブンは平面図の7a、となると祭壇は4の西壁にあって、よって写真は左右を合成したものなのか)。

 左平面図:左1番地が製粉・製パン所、右2番地が縮絨工房  右写真:ララリウムの周辺壁面? あるいは合成写真?

 その他に2つの注目すべき出土が確認された。そのひとつは「ARV」と刻まれた石臼が出土したことで、こうなるとこの製粉・パン製造所は「Aulus Rustius Verus」の援助を得ていたということになって、当時の選挙活動の実態があからさまに見てとれると発掘者たちは指摘している(しかしたとえば、彼の投資設備を使って営業していた解放自由人だったとか、Verusは石臼製造業者だった、といった別の至極穏当な解釈もありそうだが、こういうマスコミ受けしそうな穿った解釈はポンペイ関係でよく見受けられる)。普通の写真では刻印部分が不分明なので文字部分をなぞったものを掲載しておく。

 もう一つは、ララリウムの祭壇からかつての献げ物の遺物が収集できたことで、分析によると、噴火前の最後の献げ物はナツメヤシとイチジクで、オリーブの実と松ぼっくりを燃料として祭壇で燃やしていたことが判明した。ある報告者が乾燥オリーブの実を暖炉で燃やしたことがあるのだそうだが、素晴らしい香りがしたらしい。そして、燃やした供え物の上にはひとつの卵を丸ごとのせ、祭壇を一枚のタイルで上から覆って儀式を終えていたらしい。なお祭壇の周りからは以前の献げ物の残骸も出てきて、ブドウの果実、魚、哺乳類の肉などが確認されたという。こうして文献史料からつい想像され勝ちなのだが、いつも高価な動物犠牲を奉献していたわけではない庶民層の日常的宗教慣習の具体例をおそらく初めて垣間見ることもできたわけである。

上の写真左が発掘途中で祭壇上部が露出したとき、右が発掘完了時の姿を示している

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【追記】2023/12/9付で大略以下のような情報が掲載された(http://www.thehistoryblog.com/archives/68977):「ポンペイのパン屋/製粉場では、奴隷にされた人々や動物の重労働が見られる」

 若干、イタリア、否むしろポンペイ遺跡特有のマスコミに媚びを売るような内容でどうかなと思う最初の出だしの色づけであるが。「Pompeii, IX, 10,1では、奴隷や家畜の悲惨な状況が見てとれる。発掘された生産エリアには外界との連絡ができないようになっている。 唯一の出口は家のアトリウムに通じており、家畜小屋ですら道路に直接アクセスすることはできず、いくつかの窓が鉄格子で固定されている。言い換えれば、それは、所有者が移動の自由を制限する必要があると感じていたことを示している。奴隷には解放の希望も感じられなかったし、ロバ・ラバの作業場である石臼間の間隔は狭く、目隠しをされた二頭はすれ違うためには歩調を合わさないといけなかった。」

 これは実際には外から侵入してくる泥棒への対策だったり、石臼の稼働を交互にして粉を劣化させる熱を持つのを防ぐ工夫と捉えればいいことであって、奴隷の逃亡を防ぎ、ロバ・ラバにいらぬ負担をかけているわけではない、とついイチャモンをつけたくなる口上部分である。

 しかしその後の叙述は、私には新鮮であった。「動物の歩みをガイドするために、玄武岩の舗装に半円形の切り欠き semi-circular cutouts が作られていて、それは同時に、動物が滑らかな玄武岩の平石の上で滑らないようにするという利点もあった」。

 以下の2枚の写真がそれを実証しているというわけである。たしかに玄武岩の床は滑りやすいが、その上を365日ロバやラバが歩くのだから丈夫な玄武岩が敷かれているのは当然でもある。この切れ込みに私は不覚にもこれまでまったく気づかなかった。この「半円形の切り欠き」がどこでも見受けられるのかどうか、今後注目して監察してみようと思う。

ここでロバやラバはこんなふうに働かされていた。

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映画「Perfect Days」を見てきた

 豊島園駅のそばには「ユナイテッド・シネマとしまえん」があって、そこで上演していたので、妻に声をかけていっしょに見てきた。予備知識としては役所広司が主人公ということだけ知っていて、しかし麻生裕未や三浦友和、そして田中泯の出演はまあ想定内といっていいだろうが、さりげなく石川さゆりが登場したのにはいささか虚を突かれた。あの声量はやはり常人ではない。

 そしてなによりも主人公が作業車に乗ったときに古いカセットテープから流れ出る音楽の鮮明さは印象的だった。それは監督が欧米人だからの感性なのであろうが、それに映像として「羅生門」以来の日本人の感性とされるようになった木漏れ日がくり返し映し出されるしかけだ(だが、やたら白黒のコントラストを強調させた映画「羅生門」と違って自然光で撮っているので、そうインパクトを感じることができない恨みが残ったなあ)。

 そして私が観賞する気になった渋谷区のトイレの数々。世界に誇る日本のトイレ水準と、それを日常的に維持している掃除員の手作業の対照、それに銭湯でこれもさりげなく見せる主人公のもう若くない肉体による、先行きの不透明さ。そんな平穏な彼の日常的ルーティーンを破るのが、他ならぬ肉親の闖入と仕事上のシフトの混乱というのもなかなかリアルな設定ではあった。

 ま、しかし、これが人生さ、それでいい、といわんばかりのエンディング。無口な彼が発した唯一の意味ある言語「今度は今度、今は今」もそれに通底しているようだ。

 ところで1100円だっけで購入したパンフレットの表紙、「PERFECT DAY」となってたぞ。そこに書いてあったロケハンの日数たった16日には驚いた。ドキュメンタリー方式だからできた技にしても、それ以前の緻密な事前調査なしにはありえなかったはずだ。スカイツリーや隅田川や桜橋の円錐形オブジェ、それに浅草の地下街とか、外国人(観光客)を意識した映像も各所にちりばめられていて、私は聖地巡礼したくなった、しないだろうが。

 

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