本日は、パラティーノ丘での共和政末期のドムス発見のニュースが 12日にイタリアを騒がせ、続く13日~15日に開催された「Convegno internazionale di studi | Ninfei antichi e moderni a Roma e nel Lazio – Curia Iulia, 13-15 Dicembre 2023」の2日目(14日)に、さらなるその詳細が Parco archeologico del ColosseoのRoberta Alteri女史によって発表された ことのご報告です。
なお、Alteri女史の発表につきましては下記のURLの18~49分あたり、その質疑応答は3時間30分以降にあたります(https://www.youtube.com/live/k_iCHG4MD3Y?si=VQBT4LTjR4hf0byx)。 12月14日 9:50-10:10 Roberta Alteri (Parco archeologico del Colosseo) La scoperta della domus tardo repubblicana del vicus Tuscus. Architettura e decorazione a mosaico di un nuovo specus aestivus
この他にもこの会議の詳細につきましては、下記URLをご参照ください。プログラムも掲載されています(Convegno internazionale di studi | Ninfei antichi e moderni a Roma e nel Lazio – Curia Iulia, 13-15 Dicembre 2023 – Parco archeologico del Colosseo)。
ところで、このNinfei会議を追うことで、10月にH先生やO先生と拝見したエルコラーノの北西小浴場(エルコラーノの調査申請では「パピルス荘の浴場 」と指定しないと、「郊外浴場」と紛らわしいそうですが)の天井部が、洞窟を模した偽鍾乳石装飾が施されていたことから、本当に「浴場」だったのか、むしろ「Ninfeo」の一種ではなかったのか、などと疑問が湧いてきました。もっともNinfeoについてよくご存知のエルコラーノの方々が浴場と解釈されたのですからその通りだと思いますが、いずれにしましてもNinfeoや模倣洞窟への嗜好を知る上でもこの会議の内容は重要だと思いますので、また、アーチ構造を専門とされるO先生には興味深い発表も多いのではと僭越ながら思いましたので、是非お時間のある時にみていただき、ご教授いただけたらと存じます 。 なお、この国際会議は昨年から12月に行うようになったそうで、来年も「ローマ時代の商業・生産空間spazi produttivi e commerciali di epoca romana」をテーマに発表を募るそうです。
Roberto Fusco, Le donazioni costantiniane di ambito liturgico nella testimonianza del Liber Pontificalis, Salesianum, 83, 2021, pp.329-351.
Eivind Heldaas Seland, The Liber Pontificalis and Red Sea Trade of the Early to Mid 4th Century AD, in : Ed.by D. A. Agius et al., Navigated Spaces, Connected Places: Proceedings of Red Sea Project V held at the University of Exeter September 2010, Oxford Archaeological Reports Ltd, 2012, pp. 117-126.
第三十四章 シルウェステル SILVESTER 【314-335年】
1. シルウェステルは生まれはローマ人で、父(の名前)はルフィヌスで、(司教座に)二十三年一〇か月十一日間(着座した)。それはまた autem コンスタンティヌスとウォルシアヌスの諸時代、二月一日から、コンスタンティウスとウォルシアヌスの執政官職[この組み合わせの年は存在しない]の一月一日に至るまでずっとであった。
2. 彼はセラクテン(シュラプティム)山に流刑となっていたが、そして間もなく et postmodum、彼は戻って、栄誉とともにコンスタンティヌス正帝に洗礼を授けた[これは事実ではない]。彼(コンスタンティヌス)を主が癩病から癒やし、彼(シルウェステル)はかの迫害を、流刑されたことで、始めから primo 逃れえたことが知られている。
3. 彼(シルウェステル)は首都ローマの中でひとつの教会を ecclesiam とある cuiusdam 司祭の地所の中に in praedium 建てた、その(司祭の)名前はエクイティウスであった。それを彼はローマの名義(教会)と titulum 定めた constituit。それはドミティアヌスの浴場の傍らにあり、今日に至るまでずっと usque in hodiernum diem、エクイティウスの名義(教会)と呼ばれていて*1)、そしてこのとき ubi et 彼は以下の諸寄進を定めた constituit:
銀製パテナ*2) 一皿、重さ二〇リブラ*3)、正帝コンスタンティヌスの寄進による。また autem 彼が寄進した(のは以下のごとし):
4. 彼は、全教会に関する de omni ecclesia 規定をおこなった fecit constitutum[11.3参照]。かくして etiam 彼の諸時代に、彼の指示で cum eius praeceptum ビティニアのニケアの中で公会議をおこなうことを factum concilium (定め)、そして三一八名の公同的な catholici 司教たちが召集された。彼らは、不謬で、公同的で catholicam、穢れない信仰を説き exposuerunt、そしてアッリウスと、フォティヌスと、サベッリヌスとそれどころかuel 彼らの信奉者たちをも断罪した damnauerunt。
5. そして、首都ローマの中に彼自身が正帝の助言で consilio 二六七人(の司教たち)を集めた、そして彼は再度 iterum カリストゥスもアッリウスもフォティヌスもサベッリウスも断罪した damnauit。
彼は定めた、牧者の誰も nullus clericus、いかなる理由によっても法廷内に in curia 入らないよう、また、肩帯(着装の)裁判官の前で ante iudicem cinctum、教会内以外で nisi in ecclesia 訴訟を争ってはならない、と。彼は定めた、祭壇の犠牲[ミサ聖祭のことか]は絹や染色された布の上で挙行されては celebraretur ならない、ただ tantum 大地が生み出した亜麻はその限りでなく、(それは)いわば sicut 我らの主イエスス・クリストゥスの遺体が清潔な亜麻のモスリンで sindonem (くるまれて)埋葬されたように:このような条件で諸々のミサが挙行されるべきである caelebrarentur、と。
* この教会については以下参照:Ed.by L.Bosman, et al., The Basilica of Saint John Lateran to 1600, British School of Rome Studies, Cambridge UP, 2020, 表紙、p.149, 153, 154, 163, 166, 193. ここでは表紙の復元想像図を掲載しておく。
** 下図参照:Dimitri CASCIANELLI, Ancora sul fastigium lateranense: riflessioni alla luce del recente dibattito, Vetera Christianorum, 56, 2019, p.95, 94, Fig.2,1.
10. 同様に item[なんと初出!]、(fastidiumの)裏側に a tergo、アプス内に面して、玉座に座した救世主(の像)、高さ五ペース、最高純度の銀製で、重さ一四〇リブラ、そして銀製の四天使(の像)、彼らは各高さ五ペース、一〇五リブラ、両目にはアラヴァンダ製の alabandenis 貴石とともに、槍を持つ;
ファスティディウム自体の重さは二〇二五リブラ、銀製艶出し加工 ex argento dolaticio。純金製の丸天井 camara、そして純銀製の farum(一灯)、それは(qui)ファスティディウムの下に五〇頭の純金製のイルカ delfinos、重さ五〇リブラを、重さ二十五リブラの鎖とともに吊り下げている;
珊瑚の金属製の ex metallo coralli 特別のスキュフォス(一客)、それは、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.)で至るところ ex undique gemmis prasinis et yaquintis 装飾され、金で縁取りされ auro interclusum[ここと次節のみに登場]、それは(qui)全部の重さ二〇リブラと十二分の三リブラ;
最高純度の金製香料容器 thymiamateria (Du Cangeによると、thymiamaterium = thuribulum : vas, in quo thymiama sevatus[香料を入れる容器])二器、重さ(各)三〇リブラ;
諸祭壇の御前に ante altaria お香の奉納 donum aromaticum、毎年一五〇リブラ。
* massae (large estates composed of a series of fundi ) https://www.jstor.org/stable/41933702 p.9 (ANNA LEONE, “Bishops and Territory: The Case of Late Roman and Byzantine North Africa”, Dumbarton Oaks Papers , 2011-2012, Vol. 65/66 (2011-2012), pp. 5-27):農地で構成された「大所領」。
** cf., Edward Champlin, Saint Gallicanus (Consul 317), Phoenix, 36-1, 1982, pp.71-76;Anthony Alcock, Liber Pontificalis Silvester 1 (314-335), ?, ?, Pp.27 : オスティアがらみでもあるので、この人物についてはいずれ触れてみたいものだ。
泉水の真ん中には、赤紫色斑岩製の一本の柱があり、それには蝋燭が立てられる金製の(一つの)平皿がfiala (= φιάλη)設置されていて、最高純度の金で、重さ五十二リブラ、そこで ubi 復活祭の日々に二〇〇リブラのバルサム(油)が焚かれる、まさしく uero 純粋な麻屑を用いて nixum uero ex stippa amianti (Du Cangeによると、mixum vero ex stupa amianta:amianthus = Ἀμίαντος) 。洗礼堂の泉水の縁には in labio fontis baptisterii、水を注ぐ金製の(一頭の)小羊、重さ三〇リブラ;
小羊の右側には最高純度の銀製の救世主(の立像)、(高さ)五ペース、重さ一七〇リブラ;
小羊の左側には、銀製の洗礼者聖ヨハネ(の立像)、(高さ)五ペース、(それには)以下の碑銘が刻まれ保有されていた:「見よ、世の罪を取り除く神の子羊を」ECCE AGNUVS DEI, ECCEQV I TOLLIT PECCATGA MVNDI(ヨハネ福音書、1.29)、重さ一二五リブラ;
水を注ぐ七頭の銀製の雄鹿、重さ各八〇リブラ;
最高純度の金製の(一つの)香料容器 tymiamaterium、四十九個のネギ色の貴石付き cum gemmis prasinis、重さ一五リブラ。
* これはどうやら現在のマルタ諸島のことらしい。有り体に言えば、マルタ本島(=Melite)とGozo島(= Gaulos)の両島表示か。cf., Mario Buhagiar, Gozo in Late Roman, Byzantine and Muslim Times, Melita Historica, 12(2), 1997, pp.113-129(https://www.um.edu.mt/library/oar/handle/123456789/42390). CIL, X, 7492 : Chrestion, proc(urator) Melite et Gaul ;Louis J. Scerri, Medieval Malta in the Vatican archives,The Sunday Times, 2005/10/16, pp.22-24(http://ofm.org.mt/downloads/ahbar/ahbar2005/ahbarnov05.pdf). ちなみに新約聖書「使徒行伝」28.1-10に登場する ‘Μελίτη’ は通常マルタ(島)と訳されている。
こうして sic 彼は祝福された使徒ペトルスの遺骸を閉じ込め、そして安置した[要するに296cmの青銅の立方体で囲われたという記述になるが、20世紀前半の発掘では青銅は確認されていない]。そして上部には赤紫色(斑岩)の柱(pl.) そして別の蔓巻状の柱(pl.) で装飾した、それらを彼はギリシア(各地)から運んだのだ[東部のギリシア世界からのスポリアとしている言及は、cf., Jaś Elsner, From the Culture of Spolia to the Cult of Relics: The Arch of Constantine and the Genesis of Late Antique Forms, Papers of the British School at Rome, Vol. 68 (2000), p.154, n.15。このように物的証拠と発掘報告があるが、それらは必ずしも LP の記述の正確さを立証してはいない:参照、P.ザンデル『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』上智大学出版、2011年]。
17. 彼はまたそして autem et バシリカの basilicae 光り輝く丸天井を金箔で trimma(cf., 10 = trimia)作った、そして祝福されたペトルスの遺骸の上部、それを囲った青銅の上部に、純金製の十字架を作った、重さにして一五〇リブラで、寸法に合わせて in mensurae locus、そこに ubi この文章がある:「コンスタンティヌス正帝そしてヘレナ・アウグスタが、この王者にふさわしい家を同じ輝きによってきらめく広間で取り囲んでいる」CONSTANTINVS AVGVSTVS ET HELENA AVGVSTA HANC DOMVM REGALEM SIMILI FVLGORE CORVSCANS AVLA CIRCVMDAT と、黒っぽい諸文字によって十字架そのものの中に刻まれていた[文法的におかしな文章]。
18. (彼は)また autem 一〇ペースの燭台を candelabra 数にして四灯設置した、(それは)銀で覆われており conclusa、銀製の「使徒行伝」の諸小像 sigillis (pl.)*、重さ各三〇〇リブラを伴っている;
金製パテナ(一皿)、一羽の鳩付きの純金製鳩小屋(s.) 付き、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.) で装飾され、それらは数にして二一五個の真珠付き、重さ三〇リブラ[Michek Fixot, Turris et reliques, in:C.Carozzi, H.Taviani-Carozi, Le pouvoir au Moyen Âge, PU PROVENCE, 2005, pp.31-50, n.59 付近では、この教会をラテラノとしているが受け入れがたい];
21. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは一つのバシリカを basilicam 祝福された使徒パウルスへ、司教シルウェステルの提案で作ったが(San Paulo fuori le mura大聖堂のこと)、彼(コンスタンティヌス)は、彼(パウルス)の遺骸を以下の如く ita 青銅の中に in aere 密封しrecondit、そして封印したconclusit、ちょうど sicut 祝福されたペトルス(の遺骸)のように。そのバシリカに basilicae 彼(コンスタンティヌス)は以下の寄進を提供した obtulit:
キリキアのタルスス近郊:ゴ(コ)ルディアノン島、収益八〇〇ソリドゥス
すなわち enim すべての神聖なる諸々の器(pl.)、金製もしくは銀製、または青銅製のものを、以下のごとく ita 供し posuit、祝福された使徒ペトルスのバシリカ内に in basilica 置いたのと同様に sicut 、祝福された使徒パウルスの(バシリカ)にも彼(コンスタンティヌス)は整えた ordinauit。そしてしかし、金製の十字架を祝福された使徒パウルスの場所の上に置いた、重さ一五〇リブラ。
22. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは(一つの)バシリカを basilicam セッソリアヌム宮殿内に建てたが、そこには ubi かくして etiam、我らの主イエスス・クリストゥスの聖十字架の木(片)のために de ligno、金と貴石で(彼は)密封し recondit、そしてそこに ubi et 教会の ecclesiae 名前を奉献した、それは以来今日もなお usuque in hodiernum diem ヒエルサレムと添え名されてきている[Santa Croce in Gerusalemme 教会のこと];
そして、宮殿自体に隣接する土地凡てを教会の寄進に ecclesiae dono 彼は与えたdedit;
同様に item 所領スポンサス、ラビカナ街道、収益二六三ソリドゥス;
都市ラウレントゥム近郊、所領ファトラス、収益一二〇ソリドゥス;
都市ネペシナ近郊、所領アンジェレシス、収益一五〇ソリドゥス;
上述の都市近郊、所領テラガ、その収益一六〇ソリドゥス;
都市ファリスカ近郊、所領ニュンファス、収益一一五ソリドゥス;
同様に item 都市ファリスカ近郊、ヘルクリウスの所領、そこを彼は正帝に寄進し donauit 、そして正帝がエルサレム教会に ecclesiae 提供した obtulit 、収益一四〇ソリドゥス;
都市テュデル近郊、所領アングラス、収益一五三ソリドゥス。
23. 同じ頃 Eodem tempore、彼(コンスタンティヌス帝)は、聖なる殉教者アグネスのバシリカを basilicam 彼の娘の懇願によって建て[Sant’Agnese fuori le mura のこと]、そして同じ場所に洗礼堂を baptisterium(建て)、そしてそこで ubi et 彼の姉妹のコンスタンティアが正帝の娘と共に、司教シルウェステルによって洗礼を授けられ、そしてそこで ubi et 彼は以下の寄進を donum 定めた:
24. 同じ頃 Eodem tempore、彼は一つの聖堂を basilicam 祝福された殉教者ラウレンティウスのためにティブルティーナ街道の所領ヴェラヌスの、砂岩製の地下礼拝所の上に supra arenario ctyptae 建てた[San Lorenzo fuori le Mura 教会のこと]。そして、聖なる殉教者ラウレンティウスの遺骸まで、上がり降りするための階段(pl.) を作った。その(聖堂の)場所に、彼はひとつのアプスを建設し、そして赤紫色の大理石[斑岩]で装飾し、そして上方からその場所を銀で覆い conclusit、そして、複数の柵を純銀で装飾した、それらは重さ一千リブラ;
26. 同じ頃 Eodem tempore 、正帝コンスタンティヌスはひとつの聖堂を basilicam 祝福された殉教者たちの司祭マルケッリヌスと祓魔師ペトルスのため建てた、そこは「二本の月桂樹の中」 Inter Duos Lauros(という地名)の地域で[通称は以下の表記:Chiesa dei Santi Marcellino e Pietro ad Duas Lauros]、そしてひとつのmysileum(=mausoleum:初出でここのみだが語義典拠は不明)を、そこには彼自身の母アウグスタ・ヘレナが埋葬されていて、ラビカナ街道で第三里程標である。
28. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは(ひとつの)バシリカを basilicam 首都ローマの Portus に隣接する都市オスティアの中に建てた。(それが)祝福された使徒たちペトルスとパウルスそして洗礼者ヨハネで、そしてそこに ubi et 彼は以下の諸寄進を提供した obtulit[offero]:
銀製パテナ、重さ三〇リブラ;
銀製カリックス一〇客、重さ各二ブラ;
銀製ハマ(手桶)二個、重さ各一〇リブラ;
銀製シャンデリア fara cantara 三〇灯、重さ各五リブラ;
銀製スキュフォス二客、重さ各八リブラ;
一皿の銀製の特別な聖油用パテナ、重さ一〇リブラ;
洗礼用の銀製小鉢、重さ二〇リブラ;
アッシスと呼ばれる島 insulam、それはポルトゥスとオスティアの間にあり、Digitum Solis に至るまでの凡ての海岸の omnes maritimas 諸所領、収益六五五ソリドゥス;
2. 彼(リベリウス)はコンスタンティウスによって追放刑に処された、そうなったのは、彼がアッリアヌスの異端に合意するのを consentire 拒んだからで、そして彼は追放刑に三年間服した。そして聖職者たちを集合させて congregans 彼らの協議で consilio リベリウスは[追放中の]彼の代わりに in loco eius、尊者で uenerabilem uirum 司祭のフェリックスを司教に任命した。そしてフェリックスは教会会議を concilium 行い、そして二人の司祭を見つけた。彼らはアッリアヌス派の正帝コンスタンティウスに合意する consentientes 者たちで、ウルサキウスとウァレンスという名前だった。そして彼は四十八名の司教たちの教会会議の中で in concilio 彼らを弾劾した damnauit。
3. 数日後にまた autem 、嫉妬心でウルサキウスとウァレンスは駆り立てられて、正帝コンスタンティウスに以下を懇願した:リベリウスを追放から呼び戻し reuocauit、彼が一度だけ unam tantum 聖餐を共にするように、(ただ)第二の洗礼はなしとする。それから tunc 決議が auctoritate 急使 agens in rebus のカトゥリヌスによって送付され、そして同時にウルサキウスとウァレンスがリベリウスのもとへとやって来た。とにもかくにも qui リベリウスは正帝の以下の諸指示に合意した consensit、一度だけ unam tantum 聖餐を共にするため異端者たちと会合するように conueniret(=convenio)、ただ tantum 彼らは再洗礼はしない(という条件で)。それから tunc 彼らはリベリウスを追放から呼び戻した reuocauit。
4. また autem リベリウスは追放から戻ると、聖アグネス(Basilica di Sant’Agnese fuori le mura)の墓地の中で in cymiterio 正帝コンスタンティウスの姉妹のそばに留まり、あたかも quasi 彼女の保証、あるいは auto 懇願によって、リベリウスは都市内に戻ろうとした。それから tunc コンスタンティア・アウグスタは、主イエス・キリストへの信心が深いのだが、彼女は彼女の兄弟の正帝コンスタンティウスに懇願するのを拒んだ、なぜなら、彼女は(彼らの)協議に consilium 感づいていたからである。