投稿者: k.toyota

ローマ、Tuscus通りの邸宅発見

 イタリア在住のFさんから最近の発掘報告が入ってきたので、本人了解のもと、内容を一部付加修正して転写いたします。

                       ↑vicus Tuscus

本日は、パラティーノ丘での共和政末期のドムス発見のニュースが 12日にイタリアを騒がせ、続く13日~15日に開催された「Convegno internazionale di studi | Ninfei antichi e moderni a Roma e nel Lazio – Curia Iulia, 13-15 Dicembre 2023」の2日目(14日)に、さらなるその詳細が Parco archeologico del ColosseoのRoberta Alteri女史によって発表された ことのご報告です。

 13日にローマ・ガラスの大家ルチア・サグイ先生から、この会議について連絡をいただきました( https://roma.corriere.it/notizie/cronaca/23_dicembre_12/archeologia-ricca-domus-romana-scoperta-tra-il-foro-e-il-palatino-sangiuliano-nuovo-tesoro-della-romanita-9dfe2da9-27bf-4b24-81ae-68cda3356xlk.shtml)。皆様にすぐにご連絡をと存じましたが、この会議はYoutubeでストリーミング配信され、Roberta Alteri女史の発表を含む3日間の発表と質疑応答が録画されることがわかりましたので事後報告とさせていただきました。

 なお、Alteri女史の発表につきましては下記のURLの18~49分あたり、その質疑応答は3時間30分以降にあたります(https://www.youtube.com/live/k_iCHG4MD3Y?si=VQBT4LTjR4hf0byx)。 12月14日 9:50-10:10 Roberta Alteri (Parco archeologico del Colosseo) La scoperta della domus tardo repubblicana del vicus Tuscus. Architettura e decorazione a mosaico di un nuovo specus aestivus

概要:ティベリス川沿いの港とフォルム・ロマヌムを結ぶ商業道路Vicus Tuscusに並ぶアグリッパが建造した倉庫群Horrea Agrippianaの背後にあたるフォルムの斜面で、前2世紀後半から前1世紀末にかけて少なくとも3段階に分けて建てられた数階建てのドムスが今年9月に発見された(この区域自体は 2018年から発掘調査が開始)。

 吹き抜けの庭を取り囲むように配置されたドムスは、まだ発掘調査中だが、とりわけ前2世紀の最後の数十年間に建造された 、洞窟を模した夏の宴席用pecus aestivusの部屋がセンセーショナルな発見となっている。すなわち、この部屋の東壁、高さ約5m、幅約5.60mの全面が、 «rustico»(田舎風)と呼ばれるモザイク(貝殻、エジプシャン・ブルーの テッセラ、ガラス、白大理石や様々な石の破片を使用)で覆われ、さらにその壁面から水が流れ落ちたり、吹き出したりしていた可能性が、何本もの水道管が埋め込まれていた痕跡から報告された。田舎風モザイクの装飾主題は、半月状のルネッタにみる景観図と、その下の建築的装飾からなる。景観図では、帆を張った大きな船や小型船2艘が航行し、魚が泳ぐ海を見下ろす城壁に囲まれた都市が、列柱、門、塔(内1つは灯台か)、大きな公共建築物など共に描かれている。また、都市の背後にはトラバーチン(tartari di travertino)で模造された崖(?)が、向かって左端には牧歌的な風景が描かれ、家畜の中に立つ唯一の人物像もみられる(海岸沿いの都市の表現は、ドムスの所有者、元老院議員階級の貴族による戦争的征服を暗示か)。

 開催者の一人であるAlfonsina Russaが「パラティーノ丘は発掘しつくされてもう何も出てこないといわれていましたが、このような素晴らしい、しかも共和政末期のドムスが発見されるんです」とおっしゃっていましたが、本当に今回の発見には全身の血が湧きました。ポンペイをはじめ、水にかかわる壁面に田舎風モザイクが施され、その中にガラスの破片やテッセラが光るのは目にしてきましたが、「モザイク・ガラス」または「大理石を模したガラス製」の円盤(半球?)が模様の一つとして貼られていた事例ははじめて目にしました。 また、カタコンベの壁面に円盤型のVetri doratiやガラスを貼る発想は、共和政末期のこのようなモザイクに遡るのかもしれないと、ぼんやり思いました。 さらに、サグイ先生のコメント(壁面装飾にあわせた形状加工されたガラスのモザイクは近くに工房がないとできない。この事は、一般にストラボンの記述に基づきアウグストゥス帝時代からガラス製造が始まったと言われる都ローマ で、1世紀近くも前にガラス製造が始まっていたことを示す)など、ローマ・ ガラス研究者の端くれとして、まだ高揚した気分がおさまりません。

 この他にもこの会議の詳細につきましては、下記URLをご参照ください。プログラムも掲載されています(Convegno internazionale di studi | Ninfei antichi e moderni a Roma e nel Lazio – Curia Iulia, 13-15 Dicembre 2023 – Parco archeologico del Colosseo)。

 ところで、このNinfei会議を追うことで、10月にH先生やO先生と拝見したエルコラーノの北西小浴場(エルコラーノの調査申請では「パピルス荘の浴場 」と指定しないと、「郊外浴場」と紛らわしいそうですが)の天井部が、洞窟を模した偽鍾乳石装飾が施されていたことから、本当に「浴場」だったのか、むしろ「Ninfeo」の一種ではなかったのか、などと疑問が湧いてきました。もっともNinfeoについてよくご存知のエルコラーノの方々が浴場と解釈されたのですからその通りだと思いますが、いずれにしましてもNinfeoや模倣洞窟への嗜好を知る上でもこの会議の内容は重要だと思いますので、また、アーチ構造を専門とされるO先生には興味深い発表も多いのではと僭越ながら思いましたので、是非お時間のある時にみていただき、ご教授いただけたらと存じます 。   なお、この国際会議は昨年から12月に行うようになったそうで、来年も「ローマ時代の商業・生産空間spazi produttivi e commerciali di epoca romana」をテーマに発表を募るそうです。

【補遺】以下も参照:http://www.thehistoryblog.com/archives/date/2023/12/14

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痘痕つながりで:スターリン

 今でもよく読まれている私の初期のブログに「漱石とあばた(痘痕)」(2020/8/15)がある。

 今回、偶然あのスターリンがご同様に5歳の時天然痘にかかりひどいあばただっただけでなく、なんと身長が163cmくらいしかなかったことを初めて知った。がっしりとした体躯とスッキリした顔面は作られたイメージだったのだ。「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」だった。憲兵の報告書では彼は「あばた」があだ名だった。

左と真ん中は1911年の秘密警察のファイル;右は1932年のあばたが残る写真

https://jp.rbth.com/history/84737-stalin-byou

 身長に関しては以下参照(https://celeby-media.net/I0003525)。

 ところで、スターリンという名は実名ではなく「鋼鉄の人」といういわばペンネームで、「イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ」というグルジア(現在のジョージア)人だった。

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マスコミ的あおりと法的現実

 特捜から報道への意図的リークが今回目に余る印象が強い、自民党のとりわけ安倍派のパーティー券キックバックであるが、昨日(2023/12/18)のBSフジの「プライムニュース」に出演した元特捜検事の高井康行の明確で冷静な発言とキャスターの反町理の落差が面白かった(https://www.youtube.com/watch?v=rnM-IdRPyIo;https://www.youtube.com/watch?v=sMvpopv8oPQ)。法的観点からすると今回の例は単なる不記載にすぎず、議員と秘書の共犯は成り立たず無罪になる可能性が強い、ということらしい。

 だから、今回の場合、起訴に持ち込める可能性がかなり低いので、社会的制裁を期待しての意図的特捜リークという流れになる、というのが私のような屈折者の読みになる。

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博物館・美術館の今後を占う

 先般の国立科学博物館のクラウド・ファウンディングは予定額1億円のところなんと9億2千万円集め素晴らしい大成功だったが、どの施設でもそういうわけにはいかないだろう。

 私は上京して以来首都圏で海外の特別展を含めて参加することが容易になったのは確かだが、いつもとんでもない人出の混雑に辟易、冥土の土産にしたいのだろうけど、今さら見てもどうなるのよ、とつい毒づきたくなったものである(すみません)。とかくするうちに、私自身が冥土目前になっているわけであるが。

 ところで、こういった箱物施設では収蔵物は年を経ることで増加していく。しかし展示スペースは限られているので、要するに普通収蔵品の閲覧はごく一部に限られる。ところが、それをデジタル化してHPに展示する労力を払えば、極端にいうと、すべての収蔵品を見ることができるし、観客に邪魔されることもなく、展示期間に限られることもなく、微細画像を自宅や研究室でじっくり監察することもできる(ミュージアムの「トリアージ」と「終活」 避けるために必要なこと)。

 今後の施設はこういった視野をもって経営されるといいと思う。ウェブではサムネイル画像で見て、必要な画像は有料で入手出来るようにすれば、施設も多少なりとも経済的に潤うことになるだろう。問題はデジタル化の経費捻出と、そのプロセスにかなりの日数を要することだろうが、これはやるしかないとしても、スキャナ技術の日進月歩とどこで妥協するかといった問題も壁となるだろうから、そう生やさしい作業ではないかもしれないが。

 

 

 

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「ニュー・ポープ:悩める新教皇」再放送を見ている

 今日(2023/12/16-17)のスターチャンネルで全9話の再放送をやっているのを偶然知った(2019年製作)。これはシリーズ1「ヤング・ポープ:美しき異端児」全10話(2016年)の続編で、いずれも面白いドラマだった。未見の方にはお勧めする(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0912ZRGMP?&linkCode=ll2&tag=exstar2022-22&linkId=1ea02caa04cba7ae663bd447addbec0c&language=ja_JP&benefitId=starch&ref=dvm_ptm_off_jp_ac_c_starch&_ebx=6uez1ce1s.1611773608.7tl5iop)。

 続編第1回の、教皇選出が難航しているとき、枢機卿たちの独り言が数人分でてくるが、それらが多様な見解や期待を持った枢機卿集団の事実をあぶり出しているようでたいへん秀逸で、その後の展開もコミカルかつシニカルに展開していき、視聴者を飽きさせないのである。しかも人間の哀しみ、人間の業(ごう)への洞察も随所で描かれていて深い:「私は神にうとまれているのだ」。これは脚本・監督のパオロ・ソレンティーノの力量である。

 再放送を見逃しても色んな手段で鑑賞することができる。いうまでもなくフィクションであるが、如何にもありそうな感じの設定で必見のドラマ。

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新シリーズ「日本人とは何者なのか」を見た

 2023/12/6からNHK新BS夜21時に放送開始。それを見て驚いた。古代人のDNAを解析することによって、従来説がものの見事にひっくり返されてゆくのである。面白かった。

 現生人類の「出アフリカ」によって、氷河時代に日本列島が大陸と陸続きになって、最初に日本に渡来した原日本人が縄文時代を、その後、大陸から金属器と稲作を持ってきた弥生人が弥生時代を構成し、これが現代日本人の先祖であった、というような簡単な図式が提示されてきたが、ここ数年の研究で、なんと原日本人のDNAになったのは実は古墳時代のことだった、すなわち、中国での動乱の余波のせいか古墳時代に大量の移民が日本列島に移住してきた(限られた帰化人レベルではない大量の庶民レベルを含む)としか考えられない現象がDNA的に立証された、と。

 来年の12/3までオンデマンドで見ることできる。以下参照。 https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2021/10/story/2021-10-story-story_211005/

 こう考えることで、これまで孤立的だった日本人の起源が地球レベルの中で再検討される契機となりえるわけだ。

 テレビの刑事物の冤罪を見ていると、昔のDNA鑑定の未熟さがよく登場するが、そういったレベルをすでに脱していることを祈らざるをえない。データ数が増えればまた別仮説が登場するのは必定であるが。それが研究だ。https://digital.asahi.com/articles/ASR9V4GJNR9QULZU00Q.html?pn=5&unlock=1#continuehere

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組織崩壊への序曲

 最近崩壊を始めている組織がどうしても目につく。

 一番新しい動きは安倍派である。集団指導体制など問題の先送りに過ぎず(利権の温存が当面の課題)、その間に問題は何も解決されてこなかったツケが回って来たわけだが、それは思わぬことからほころび出す。統一教会がらみで派閥内で排除された下村博文の、逆襲の一刺しという見方をすると面白いのだが、どうだろう(https://news.yahoo.co.jp/articles/2482d990e466dbb001639cf2aeb4c64d105eb1a1)。それに表には出ていないが、この問題に火をつけたのは昨年11月の赤旗らしい(https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20231210/pol/00m/010/005000c)。劣化の激しいマスメディアの体たらくがここでも目立つ。

 巨悪が渦巻く中で今回は、氷山の一角としてもしかし額の小ささはいささか気になるところで(ま、安倍の小判鮫どもだから小者には違いないが)、それもあってか特捜はマスコミへのリークで世論を盛り上げようと躍起になっている気配がするが、さてどこまで行きつくことやら。ここでもマスメディアの自主取材能力の劣化を嘆じざるをえない。否、知ってて公表しなかったのかもだが。まあいずれにせよ不甲斐ないわけであるが。

 以下、今回の小ずるそうな小者たちのうち3名の揃い踏み。

 次に集団指導体制問題ではやはり創価学会が俎上に上がらざるをえないだろう。部外者の私には情報が不足しているが、否応なく信者の世代交代がせまっていること、公明党の集票力の低下といった周辺的状況からすでに長期低落は始まっている。ここでも集団指導体制という権力の空洞化がとられてきたわけであるが、中興の人物が出ない中で有効な手当を講じえないままに、池田大作の死亡発表となったとなると、もう先がないわけで。卑近な例では、もといた岡山県の山奥から私の教え子が選挙のたびに上京して私を訪ねてきていた。もちろん公明党候補に投票を、というわけだ。たかが一票にすぎないがおそらく私は投票しないだろうと思いつつのことで、上京しての選挙の手伝いついでのことだったのかもだが、それにしてもせっせと尋ねてきていた。しかし来なくなって久しい。

 ところで、なぜか佐藤優が大甘の見解を述べているのが目につくが(https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20231127/pol/00m/010/013000c)、カリスマの後には凡庸な存在しか許されないので、どんな手立てを講じていても空文にすぎないということが今回は分かっていないようだ。というか、売らんかなと大部の本を書いたせいでもあるまいに(『池田大作研究』朝日新聞出版、2020年)。

 ジャニーズ事務所も宝塚も、日大アメフト部も・・・。だが、浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ、なのだよね。替わりはまたすぐに出てくる。モグラ叩きは終わらない。

【追記】いつもは見るのを避けているテレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」をなぜかチャンネル押して見てしまったのが、豊田真由子の話だった(https://news.yahoo.co.jp/articles/04bd7bcf156454b975aab3fe635cf2ea4b771a75)。門外漢には知りえないなかなかリアルな内容だったが、そのあとコメンテータの玉川某が無内容な発言をしていて、何も知らないのに一丁前に喋っているのは実に滑稽だった。

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チンチンナブルムとはこれいかに?!

 かつての上モエシアの州都にして要塞都市ヴィミナキウムViminaciumは、現在のセルビアに属するが、その首都ベオグラードから直線で63km東の、同様にドナウ川に面して位置して対ゴート族と対峙した文字通り帝国国境の町である。そこでバルカン半島最大の円形闘技場と帝国最大級の墓地が19世紀後半に再発見され定期的に調査が継続されてきたが、2023/11の初頭に、今般調査が始まったばかりのローマ時代の民間居住地の遺跡から古代ローマ風の風鈴が発掘された。これがちょっと曲者で・・・(^^ゞ。

 それは青銅製のティンティンナブルムTintinnabulumとして知られているもので、ご当地では2番目の発見だそうだ(一体目は詳細不明、すなわちオーストリアの個人コレクションの由)。中央に翼のある男根(それに追加の突き出た男根があったりする)と鎖に吊るされた 4 つの風鈴のデザインが施されていて、ご同類はナポリ国立考古学博物館のかつての「秘技の部屋」で、年齢制限と時間制を設定して(例のごとくそれらは有名無実で、実際にはチェックなしで開けっぱなし)、今では自由に多数を見ることができる。そうなる以前の30年前に、私は強く希望して特別許可をえて倉庫然とした雑然とした環境の中で見学したこともあるが(村川堅太郎が嬉しそうに書いていたので是非とも見たかったのだ)、いい時代になったものだ。

 それは当時邪視を避け、魔除けのお守りとして戸口や軒下にぶらさげられた男根形が基本で、その形状は、悪や不運を回避する神格fascinus 神、ないし fascinus神をあらわし、ぶら下がっている風鈴は、その音が悪霊を怖がらせると信じられていた、からだそうだ。ま、いかにも即物的な地中海世界なのである。

 かつて古代ギリシア・ローマにおいては街の至る所に男根が見られ、男根=男性優位文化の一端を端的に示しているものとされるが(エヴァ・C.クールズ (中務哲郎他訳)『ファロスの王国:古代ギリシアの性の政治学』岩波書店、1989年:ところでこの”奇書”がこともあろうに岩波から出版されたのは、私には驚嘆ものだったのだが、それが初版で絶版になっているのは解せない、というか覚悟が足りない。強く再版を願っている)、そんなに大仰に言いつのらなくてもいいような気がしないでもない。まあ辻つじの道祖神みたいなものだったのでは。

 ところで、なんと時代は下って、カトリック教会でミサ聖祭中に使用する鈴もtintinnabulumと称する由で、これも魔除けの延長に位置づけられているようだが、さてどうだろう(これも古代ローマ的伝統を内在していて一向に平気なローマ・カトリック教会の体質の一端を示しているようで興味深い、といっておこう)。馬や羊の首につけられた鈴も魔除け目的を兼ねていたとされているのは納得できるが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%A0)。

 これも30年ほど前に、F 修道会の日本人の神父さんから聞いた話だが、イタリアでは乾杯のときに「チンチン」という(場合もある)のだが、彼が「日本ではチンチンは●●のこと」と修道会の食事のときに言ったら大受けだったと。おいしいワインと料理が出ないと修道士たちから不満が出るという、いかにもF会らしい話であった。

 私事であるが、私はかつて横浜で開催されたポンペイ関係の展覧会のグッズ売り場で首からぶら下げる魔除けのそれを教材用に購入したし(さすがにこの類いが売られていたのはこの時だけだったと記憶する)、漫画「テルマエ・ロマエ」の有料付録で手に入れたことさえある(いずれも以下写真のようなもの)。しかし、実際には一般学生対象の授業で見せるには至らず、よほど気心が知れたゼミ生に開陳したことがあるくらいだ(私の収集品にはこういう危ないものも色々含まれていた:いびつな性的瞥見の今日日の大学教室で見せていたらセクハラと訴えられかねないかも。無事に停年を迎えられたのがウソみたいだ)。不自由な時代になったものだ。

 私が最近の展覧会のグッズ売り場に不満なのは、えてして古代ローマ時代と無関係なもの(食材とか抱き枕とか)を販売していることで、せめて装飾品売り場にまあこういった教材になるようなものも置いてほしいと思っているのである。実際に購入する人は少ないだろうけど。

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『ローマ教皇列伝』Liber Pontificalis 解読:第34章〜

 【解題、第1章からの試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにエウトロピウスとアウレリウス・ウィクトルの訳もそちらに移管した】

 地名や数字にみられる不統一表記はいずれ再検討の予定。

 最近以下の論文を見つけた。いずれもかなり参考になりそうな内容で、おいおいその見解を加味していかなければならないだろう。

 Roberto Fusco, Le donazioni costantiniane di ambito liturgico nella testimonianza del Liber Pontificalis, Salesianum, 83, 2021, pp.329-351.

Eivind Heldaas Seland, The Liber Pontificalis and Red Sea Trade of the Early to Mid 4th Century AD,  in : Ed.by D. A. Agius et al., Navigated Spaces, Connected Places: Proceedings of Red Sea Project V held at the University of Exeter September 2010, Oxford Archaeological Reports Ltd, 2012, pp. 117-126.

第三十四章 シルウェステル SILVESTER 【314-335年】

 1. シルウェステルは生まれはローマ人で、父(の名前)はルフィヌスで、(司教座に)二十三年一〇か月十一日間(着座した)。それはまた autem コンスタンティヌスとウォルシアヌスの諸時代、二月一日から、コンスタンティウスとウォルシアヌスの執政官職[この組み合わせの年は存在しない]の一月一日に至るまでずっとであった。

 2. 彼はセラクテン(シュラプティム)山に流刑となっていたが、そして間もなく et postmodum、彼は戻って、栄誉とともにコンスタンティヌス正帝に洗礼を授けた[これは事実ではない]。彼(コンスタンティヌス)を主が癩病から癒やし、彼(シルウェステル)はかの迫害を、流刑されたことで、始めから primo 逃れえたことが知られている。

 3. 彼(シルウェステル)は首都ローマの中でひとつの教会を ecclesiam とある cuiusdam 司祭の地所の中に in praedium 建てた、その(司祭の)名前はエクイティウスであった。それを彼はローマの名義(教会)と titulum 定めた constituit。それはドミティアヌスの浴場の傍らにあり、今日に至るまでずっと usque in hodiernum diem、エクイティウスの名義(教会)と呼ばれていて*1)、そしてこのとき ubi et 彼は以下の諸寄進を定めた constituit:

銀製パテナ*2) 一皿、重さ二〇リブラ*3)、正帝コンスタンティヌスの寄進による。また autem 彼が寄進した(のは以下のごとし):

銀製スキュフォス*4)、二客、重さ各一〇リブラ;

金製カリックス(カリス)*5)、一客、重さ二リブラ;

奉仕者 ministerriales 用カリックス*6)、五客、重さ各二リブラ;

銀製ハマ(手おけ)*7)、 二つ、重さ各一〇リブラ;

金メッキの auroclusam 銀製パテナ、一皿、塗油用、重さ五リブラ;

王冠型のファルム(シャンデリア)*8)、一〇灯、重さ各八リブラ;

銅製ファルム、二〇灯、重さ各一〇リブラ;

銅製蝋燭用カンターラ(燭台)*9)、十二灯、重さ各三〇リブラ;

ウァレリアヌス農場 fundum、サビーニ地域 territurio*10)、(年間?)収益八〇ソリドゥス;

スタティアヌス農場、サビーニ地域、収益五十五ソリドゥス;

デュア・カーサ農場、サビーニ地域、収益四〇ソリドゥス;

ぺルキリアヌス農場、サビーニ地域、収益二〇ソリドゥス;

コルビアヌス農場、コラヌス地域、収益六〇ソリドゥス;

邸宅 domum 一棟、首都内 in urbe、風呂付き cum balneum、シチニヌス街区内に in Sicinini regione*11)、収益八十五ソリドゥス;

庭園一か所、首都ローマ内部 intra urbem Romam、アド・デュオ・アマンテス街区内に in regione、収益十五ソリドゥス;

邸宅一棟、オルフェウス街区内、首都内、収益八十五ソリドゥスと一トレミッシス*12)。

  *1) 上記名義教会は、現在の San Martino ai Monti で、トラヤヌス浴場公園のすぐ北にあったので、この浴場はトラヤヌスの浴場を意味していた[XXXV.]。

                      ↓ 

  *2) patena:平たく浅い皿で、ここではミサ聖祭で聖体をのせるために用いる聖体皿のこと。ご聖体が触れる内側表面は少なくとも金メッキ加工されている。初代キリスト教はギリシア語圏で発生・成長したので、祭具名にギリシア語起源が多い(ローマ教会においてすら三世紀までギリシア系司教が多く、典礼もギリシア語で行われていた)。以下、分かる範囲での註記である。

  *3) libra:古代ローマ時代の重量単位。1 libra=327.45g

  *4) scyphos:古代ギリシアで取っ手が二つついた深めの本来は酒器だが、ミサ聖祭では水とワインの混酒器というよりは、おそらく司祭が両手を洗うのに使用したのかもしれない。

  *5) calix:ミサ聖祭でワインを入れる金属製の杯。金製以外は金メッキされている。普通は「カリス」と呼称。

  *6) 陪席司祭用の意味か

  *7) (h)ama:ミサ聖祭で大きなカリスにブドウ酒を注ぐとき使用する器具、のようだ。

  *8) farum:

  *9) cantara:

  *10) territorium:首都ローマ城壁外の「領域」を示している?

  *11) regio:首都ローマ城壁内の「街区」名を示している?

  *12) tremissis:三分の一ソリドゥス

 4. 彼は、全教会に関する de omni ecclesia 規定をおこなった fecit constitutum[11.3参照]。かくして etiam 彼の諸時代に、彼の指示で cum eius praeceptum ビティニアのニケアの中で公会議をおこなうことを factum concilium (定め)、そして三一八名の公同的な catholici 司教たちが召集された。彼らは、不謬で、公同的で catholicam、穢れない信仰を説き exposuerunt、そしてアッリウスと、フォティヌスと、サベッリヌスとそれどころかuel 彼らの信奉者たちをも断罪した damnauerunt。

 5. そして、首都ローマの中に彼自身が正帝の助言で consilio 二六七人(の司教たち)を集めた、そして彼は再度 iterum カリストゥスもアッリウスもフォティヌスもサベッリウスも断罪した damnauit。

 6. そして彼は定めた、司祭は悔い改めたアッリアヌス派を受け入れては susciperet ならない、(それができるのは)その地に選任された司教以外にいない、と。そして油の聖別は司教によってなされるべきでconfici、そして司教たちに episcopis 特権は、受洗が異端の説得を suasionem 理由に保証されるべきである[上記の意味は不明である:異端回心者の受け入れは司教に属するという意味か、また堅信礼での塗油なのか]。そして彼は以下を定めた、洗礼を受けていて水から持ち上げられた者に司祭は聖油を塗るべきである、死への移行の場合(臨終の受洗の場合のことか)。彼は定めた、いかなる平信徒も laicus 牧者に clerico 罪を帰してはならない、と。

 7. 彼は定めた、助祭たちはダルマティカを教会内で用いるべきである、そして linostima 製(亜麻と羊毛で織られた)パッレアで pallea 彼らの左(肩)が覆われるべきである、と[後述のXXXV.2 から想起されるように、下図右のような現在の管区大司教用に変化したpallium「肩衣」ではなく、下図左側の古代のパッリウムのことのように思われる]。

 彼は定めた、牧者の誰も nullus clericus、いかなる理由によっても法廷内に in curia 入らないよう、また、肩帯(着装の)裁判官の前で ante iudicem cinctum、教会内以外で nisi in ecclesia 訴訟を争ってはならない、と。彼は定めた、祭壇の犠牲[ミサ聖祭のことか]は絹や染色された布の上で挙行されては celebraretur ならない、ただ tantum 大地が生み出した亜麻はその限りでなく、(それは)いわば sicut 我らの主イエスス・クリストゥスの遺体が清潔な亜麻のモスリンで sindonem (くるまれて)埋葬されたように:このような条件で諸々のミサが挙行されるべきである caelebrarentur、と。

 8. 彼は定めた、もし誰かが教会内での服務またはaut 昇進を望むのであれば、読師 lector 三十年、祓魔師 exorcista 三十日、侍者 acolitus 五年、副助祭 subdiaconus 五年、殉教者たちの番人 custus martyrum(カタコンベ担当のことか)五年、助祭 diaconus 七年、司祭 presbiter 三年を、あらゆるサイドから、そしてかくしてetiam et [これ以降、34.22まで出てこない]外部からも、良き証言を持ち、ひとりの妻の夫で、聖職者からa sacerdote 褒められる妻を持つこと。そしてこうしてsic 位階へと司教は近づかねばならぬ:誰であっても、より主要な、それどころか uel より優れた地位に locum 入り込まないこと、その時々の位階を慎みをもって 経験することなしに、凡ての牧者たちの omnium clericorum 誓願により uotiua gratia、まったくomnino 誰も反対する牧者 clericum なしであること、と。彼は司祭たちと助祭たちの位階(叙階式)を ordines 十二月に六回執り行い、司祭四十二名、助祭二十七名、様々な時に首都ローマで;様々な場所のために司教たちを数にして六十五名(の叙階を)執り行った。

 9. 彼の諸時代にコンスタンティヌス正帝は以下の諸バシリカ basilicas を建て、そしてそれらを装飾した:

コンスタンティヌスのバシリカ basilicam Constantinianam(サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂* のこと)、そこに以下の諸々の寄進を供したposuit dona:

 銀製の打出し加工された argenteum battutilem 破風 fastidium (= fastigium:以下の図参照**)、それは正面に in fronte、高官椅子に sella 座した救世主(の像)を持つ、高さ五ペース、重さ一二○リブラ、そして十二使徒たち(の像)、各五ペースで重さ九〇リブラ、最高純度の銀を用いた冠(型シャンデリア)付き;

 * この教会については以下参照:Ed.by L.Bosman, et al., The Basilica of Saint John Lateran to 1600, British School of Rome Studies, Cambridge UP, 2020, 表紙、p.149, 153, 154, 163, 166, 193. ここでは表紙の復元想像図を掲載しておく。

 ** 下図参照:Dimitri CASCIANELLI, Ancora sul fastigium lateranense: riflessioni alla luce del recente dibattito, Vetera Christianorum, 56, 2019, p.95, 94, Fig.2,1.

 10. 同様に item[なんと初出!]、(fastidiumの)裏側に a tergo、アプス内に面して、玉座に座した救世主(の像)、高さ五ペース、最高純度の銀製で、重さ一四〇リブラ、そして銀製の四天使(の像)、彼らは各高さ五ペース、一〇五リブラ、両目にはアラヴァンダ製の alabandenis 貴石とともに、槍を持つ;

ファスティディウム自体の重さは二〇二五リブラ、銀製艶出し加工 ex argento dolaticio。純金製の丸天井 camara、そして純銀製の farum(一灯)、それは(qui)ファスティディウムの下に五〇頭の純金製のイルカ delfinos、重さ五〇リブラを、重さ二十五リブラの鎖とともに吊り下げている;

純金製の冠(型シャンデリア)四、二〇頭のイルカ付き、各々重さ十五リブラ;

バシリカの basilicae(アプスの)丸天井 camera(=camara)、長さと幅の中で 金箔で trimita(cf., 17 = trimma)、五〇〇リブラ;

純銀製の祭壇七基,重さ各二〇〇リブラ;

金のパテナ七皿、重さ各三〇リブラ;

銀のパテナ十六皿、重さ各三〇リブラ、純金製のスキュフォス七客、重さ各一〇リブラ;

珊瑚の金属製の ex metallo coralli 特別のスキュフォス(一客)、それは、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.)で至るところ ex undique gemmis prasinis et yaquintis 装飾され、金で縁取りされ auro interclusum[ここと次節のみに登場]、それは(qui)全部の重さ二〇リブラと十二分の三リブラ;

銀製のスキュフォス二〇客、重さ各十五リブラ;

純金製のハマ(手桶)二つ、重さ各五〇リブラで、容量各三モディウス;

純金の小カリックス四〇客、重さ各一リブラ;

陪席司祭用の ministeriales 小カリックス五〇客、重さ各二リブラ。

 11. 聖堂内部の装飾:

 最高純度の金製の(ひとつの)fanum cantharum、それは祭壇の前にあって、その中で純度の高いナルドの香油が燃焼するのだが、イルカ八〇頭つきで、重さ三〇リブラ;

銀製の(ひとつの)fanum cantharum、それにはイルカ二〇頭つきで、重さ五〇リブラで、そこでは純度の高いナルドの香油が燃焼する;

バシリカ中央部には銀製シャンデリア canthara(pl.)四十五灯、重さ各三〇リブラ、上述の油が燃焼する;

バシリカ右手の部分には、銀製シャンデリア(pl.)四〇灯、重さ各二〇リブラ;

バシリカ左手には、銀製シャンデリア(pl.)二十五灯、重さ各二〇リブラ;

バシリカ中央部の銀製燭台五〇灯、重さ各二〇リブラ;

最高純度の銀製メトレテス μετρητής[古代ギリシア・ローマ時代のワインやオイル用の大型容器:38.88リットル] 三つ、重さ各三〇〇リブラ、容量一〇メデムヌス medimnus[1 μέδιμνος = 6 Roman modii ≒ 54リットル];

真鍮製の燭台七灯、諸々の祭壇(pl.)前に、それら[qui]は[幅?、長さ?]一〇ペース(1 pes = 29.6cm)で、預言者たちの小像 sigillis で縁取りされた銀製の装飾付きで、重さは各三〇〇リブラ;

 12. これら照明の維持のため彼は定めた constituit:

大所領 massa* Gargiliana**、スエッサ地域で territurio Suessano、(以下、年間?)収益 plaest. 四〇〇ソリドゥス;

大所領 Bauronica、スエッサ地域で、収益三六〇ソリドゥス;

大所領 Auriana、ラウレントゥム地域で territurio Laurentino、収益五〇〇ソリドゥス;

大所領 Vrbana、アンティウム地域で territurio Antiano、収益二四〇ソリドゥス;

大所領 Sentiliana、アルデアトゥム地域で territurio Ardeatino、収益二四〇ソリドゥス;

大所領 Castis、カティーナ地域で territurio Catenense、収益一〇〇〇ソリドゥス;

大所領 Trapeas、カティーナ地域で、収益一六五〇ソリドゥス;

最高純度の金製香料容器 thymiamateria (Du Cangeによると、thymiamaterium = thuribulum : vas, in quo thymiama sevatus[香料を入れる容器])二器、重さ(各)三〇リブラ;

諸祭壇の御前に ante altaria お香の奉納 donum aromaticum、毎年一五〇リブラ。

  * massae (large estates composed of a series of fundi ) https://www.jstor.org/stable/41933702 p.9 (ANNA LEONE, “Bishops and Territory: The Case of Late Roman and Byzantine North Africa”, Dumbarton Oaks Papers , 2011-2012, Vol. 65/66 (2011-2012), pp. 5-27):農地で構成された「大所領」。

  ** cf., Edward Champlin, Saint Gallicanus (Consul 317), Phoenix, 36-1, 1982, pp.71-76;Anthony Alcock, Liber Pontificalis Silvester 1 (314-335), ?, ?, Pp.27 : オスティアがらみでもあるので、この人物についてはいずれ触れてみたいものだ。

 13. 聖なる泉水を fontem(彼は寄進した)、そこで正帝コンスタンティヌスが受洗したのだが、それは赤紫色斑岩製で lapide porfyretico、そしてすべての部分が覆いかぶされ coopertum、内部も、そして外側も、そして上部も、そして水を張る continet 限りにおいて、最高純度の銀で、重さ三〇〇八リブラ。

https://www.romanoimpero.com/2022/03/sotto-battistero-lateranense.html

 泉水の真ん中には、赤紫色斑岩製の一本の柱があり、それには蝋燭が立てられる金製の(一つの)平皿がfiala (= φιάλη)設置されていて、最高純度の金で、重さ五十二リブラ、そこで ubi 復活祭の日々に二〇〇リブラのバルサム(油)が焚かれる、まさしく uero 純粋な麻屑を用いて nixum uero ex stippa amianti (Du Cangeによると、mixum vero ex stupa amianta:amianthus = Ἀμίαντος) 。洗礼堂の泉水の縁には in labio fontis baptisterii、水を注ぐ金製の(一頭の)小羊、重さ三〇リブラ;

小羊の右側には最高純度の銀製の救世主(の立像)、(高さ)五ペース、重さ一七〇リブラ;

小羊の左側には、銀製の洗礼者聖ヨハネ(の立像)、(高さ)五ペース、(それには)以下の碑銘が刻まれ保有されていた:「見よ、世の罪を取り除く神の子羊を」ECCE AGNUVS DEI, ECCEQV I TOLLIT PECCATGA MVNDI(ヨハネ福音書、1.29)、重さ一二五リブラ;

水を注ぐ七頭の銀製の雄鹿、重さ各八〇リブラ;

最高純度の金製の(一つの)香料容器 tymiamaterium、四十九個のネギ色の貴石付き cum gemmis prasinis、重さ一五リブラ。

 14. 聖なる泉水への寄進:

  神聖侍従長官の praepositi sacri cubiculi フェストゥス Festus の大所領 massa 、それを正帝コンスタンティヌスが寄進した、 ペネストリウム地域で territurio Penestrino、(年間?)収益 praest. 三〇〇ソリドゥス ;

  所領 Gaba、ガビイ地域で territurio Gabinense、収益二〇二ソリドゥス;

  所領 Pictas、前述の地域で、収益二〇五ソリドゥス;

  所領 Statiliana、コーラ地域で territurio Corano、収益三〇〇ソリドゥス;

  所領 intra Sicilia Taurana 、 パラムネニウム地域で territurio Paramnense 、収益五〇〇ソリドゥス;

  首都ローマ内での邸宅 (pl.) と倉庫 (pl.) 、収益二三〇〇ソリドゥス;

  バッススの農場 fundum Bassi、収益一二〇ソリドゥス;

  所領ラニナエ、カルティオリ地域で territurio Cartiolano、収益二〇〇ソリドゥス;

  カクラエ農場 fundum Caculas、 ノメントゥム地域で territurio Nomentano、収益 五〇ソリドゥス;

  所領スタティウス、サビーニ地域で territurio Sabinense、収益三五〇ソリドゥス;

  所領ムリナエ、アルバヌムのアッピア地域で territurio Appiano Albanense、収益三〇〇ソリドゥス;

  所領ウィルゴ、コーラ地域で territurio Corano、収益二〇〇ソリドゥス;

 15. 海外:

 アフリカの諸部分partes内:

  所領イウンキス Iuncis、ムカリオ地域で、八〇〇ソリドゥス;

  所領カプシス Capsis、カプシタ−ノ地域で、収益六〇〇ソリドゥス;

  所領 Varia Sardana、ミムネンセ地域で、収益五〇〇ソリドゥス;

  所領カマラス Camaras、クリプタルーピ地域で、収益四〇五ソリドゥス;

  所領ヌマス Numas、ヌミディア地域で、収益六五〇ソリドゥス;

  所領スルフォラータ Sulphorata、ヌミディア地域で、収益七二〇ソリドゥス;

  所領ワルザリ・オリーブ園 Walzari oliaria、ヌミディア地域で、収益八一〇ソリドゥス;

諸ギリシア内 in Grecias:

   所領ケファリナ Cefalina、収益五〇〇ソリドゥス;

 Mengaulum*内:

 * これはどうやら現在のマルタ諸島のことらしい。有り体に言えば、マルタ本島(=Melite)とGozo島(= Gaulos)の両島表示か。cf., Mario Buhagiar, Gozo in Late Roman, Byzantine and Muslim Times, Melita Historica, 12(2), 1997, pp.113-129(https://www.um.edu.mt/library/oar/handle/123456789/42390). CIL, X, 7492 : Chrestion, proc(urator) Melite et Gaul ;Louis J. Scerri, Medieval Malta in the Vatican archives, The Sunday Times, 2005/10/16, pp.22-24(http://ofm.org.mt/downloads/ahbar/ahbar2005/ahbarnov05.pdf). ちなみに新約聖書「使徒行伝」28.1-10に登場する ‘Μελίτη’ は通常マルタ(島)と訳されている。

 所領アマゾン Amazon、収益二二二ソリドゥス。

 16. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは、(ひとつの)バシリカを basilicam 祝福された使徒ペトルスのために アポロの神殿内に作り(サン・ピエトロ大聖堂のこと:LP, 22. 4の図参照)、聖ペトルスの遺骸(を収めたそ)の柩を loculum 以下の如く安置した。まさにその柩を loculum 至る方向から undique キプロスの青銅で囲ったのである、(それによって)それは不動となる:

 頭部側に、五ペース;両足側に、五ペース;右側面に、五ペース;左側面に、五ペース;低面に、五ペース;上面に、五ペース;

 こうして sic 彼は祝福された使徒ペトルスの遺骸を閉じ込め、そして安置した[要するに296cmの青銅の立方体で囲われたという記述になるが、20世紀前半の発掘では青銅は確認されていない]。そして上部には赤紫色(斑岩)の柱(pl.) そして別の蔓巻状の柱(pl.) で装飾した、それらを彼はギリシア(各地)から運んだのだ[東部のギリシア世界からのスポリアとしている言及は、cf., Jaś Elsner, From the Culture of Spolia to the Cult of Relics: The Arch of Constantine and the Genesis of Late Antique Forms, Papers of the British School at Rome, Vol. 68 (2000), p.154, n.15。このように物的証拠と発掘報告があるが、それらは必ずしも LP の記述の正確さを立証してはいない:参照、P.ザンデル『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』上智大学出版、2011年]。

左、コンスタンティヌス帝の大聖堂司祭席を描いた Samagner(クロアチアのプーラ)の象牙製小箱の部分:五世紀作成;右、それに基づいた「コンスタンティヌスの記念物」Memoria Constantiniana の再現図(アポッロ−ニ・ゲッティ他「報告書」による):赤紫色の「円柱」は確認されていないが、蔓棚 pergola を構成していた白大理石の螺旋柱のうち八柱は、現在は教皇専用高祭壇が位置する大クーポラを支える四つの構造体の上部に二本づつ保存されている(下写真の大天蓋の上部左右ニッチに注意)他、私は宝物殿(大聖堂内から入る:有料)でも少なくとも一柱が展示されているのを身近で見たことがある。それと、象牙の図像には祭壇上部に吊り下げられた王冠型のシャンデリアも見えている。
 ⬆                ⬆  :なお、サン・ピエトロ大聖堂のベルニーニ作の大天蓋を支えている四柱も螺旋状である。

 17. 彼はまたそして autem et バシリカの basilicae 光り輝く丸天井を金箔で trimma(cf., 10 = trimia)作った、そして祝福されたペトルスの遺骸の上部、それを囲った青銅の上部に、純金製の十字架を作った、重さにして一五〇リブラで、寸法に合わせて in mensurae locus、そこに ubi この文章がある:「コンスタンティヌス正帝そしてヘレナ・アウグスタが、この王者にふさわしい家を同じ輝きによってきらめく広間で取り囲んでいる」CONSTANTINVS AVGVSTVS ET HELENA AVGVSTA HANC DOMVM REGALEM SIMILI FVLGORE CORVSCANS AVLA CIRCVMDAT と、黒っぽい諸文字によって十字架そのものの中に刻まれていた[文法的におかしな文章]。

 18. (彼は)また autem 一〇ペースの燭台を candelabra 数にして四灯設置した、(それは)銀で覆われており conclusa、銀製の「使徒行伝」の諸小像 sigillis (pl.)*、重さ各三〇〇リブラを伴っている;

 *下図のような「使徒行伝」由来のエピソードが描かれていたのだろう。

大英博物館所蔵、42 × 98 mmの象牙板製、430年作成(https://www.nasscal.com/materiae-apocryphorum/ivory-plaques-with-apostle-scenes/)

金製カリックスを三客、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.) を伴い、それぞれ四十五個の貴石を持ち、重さ各十二リブラ;

銀製の壺を metretas 二個、重さ各二〇〇リブラ;

銀製のカリックス二十客、重さ各一〇リブラ;

金製のハマ(手桶)二個、重さ各一〇リブラ;

銀製のハマ(手桶)五個、重さ各二〇リブラ;

金製パテナ(一皿)、一羽の鳩付きの純金製鳩小屋(s.) 付き、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.) で装飾され、それらは数にして二一五個の真珠付き、重さ三〇リブラ[Michek Fixot, Turris et reliques, in:C.Carozzi, H.Taviani-Carozi, Le pouvoir au Moyen Âge, PU PROVENCE, 2005, pp.31-50, n.59 付近では、この教会をラテラノとしているが受け入れがたい];

銀製のパテナ五皿、重さ各十五リブラ;

遺骸の前方に(一つの)金製冠(型シャンデリア) coronam auream、それは farus cantarus (≒ LP. 34. 11 : fanum cantharum )で、イルカ五〇頭付き、重さ三十五リブラ;

銀製 fara、バシリカ中央に in gremio basilicae、三十二灯、イルカ(pl.) 付き、重さ各一〇リブラ;

バシリカの右側に、銀製 fara 三〇灯、重さ各八リブラ;

金メッキの auroclusum 銀製祭壇自体には、ネギ色とヒヤシンス色と白色の貴石(pl.) により至るところ装飾されていて、貴石の数にして四〇〇、重さ三五〇リブラ;

純金製の香料容器 tymiamaterium( = LP, 34,13) 、至るところ貴石(pl.) 、数にして六〇を伴い、重さ十五リブラ。

 19.  同様に item 収入について in reditum、正帝コンスタンティヌスが祝福された使徒ペトルスに提供した obtulit オリエンス管区からの寄進 donum(は以下の通り):

  都市アンティオキア内でのダティアヌスの邸宅、収益 praest. 二四〇ソリドゥス;

  カエネ内での小邸宅 domunula、収益二〇ソリドゥスと一トレミスス;

  アフロディシア内での諸倉庫、収益二〇ソリドゥス;

  ケラテアス内の浴場、四十二ソリドゥス;

  上記の場所の製粉所、収益二十三ソリドゥス;

  上記の場所の小料理屋、収益一〇ソリドゥス;

  マロの庭園、収益一〇ソリドゥス;

  上記の場所の庭園、収益十一ソリドゥス;

 都市アンティオキア近郊:

  正帝に奉納された所領 possessio シュビレス、収益三二二ソリドゥス、紙 charta 一五〇デカデス(一〇枚一セット)、香料 aromata 二〇〇リブラ、ナルドの香油二〇〇リブラ、バルサム三十五リブラ;

 都市アレクサンドリア近郊:

  正帝コンスタンティヌスへのアンブロシウスから奉納された所領ティミアリカ、収益六二〇ソリドゥス、紙三〇〇デカデス、ナルドの香油三〇〇リブラ、バルサム六〇リブラ、香料一五〇リブラ、イサウリカの蘇合香五〇リブラ、相続者無しのエウテュムスの所領、収益五〇〇ソリドゥス、紙七〇デカデス;

20. エジプトに関して、都市アルメニア近郊:

  正帝コンスタンティヌスに奉納されたアガプスの所領;

  所領パッシオノポリス、収益八〇〇ソリドゥス、紙四〇〇デカデス、胡椒五〇メデムノス、サフラン五〇リブラ、蘇合香一五〇リブラ、シナモン香二〇〇リブラ、ナルドの香油三〇〇リブラ、バルサム一〇〇リブラ、リネン一〇〇麻袋 saccus、丁香一五〇リブラ、Cypris油一〇〇リブラ、清浄なパピルスの茎一〇〇〇本;

  正帝コンスタンティヌスにHybromiusが奉納した所領、収益四五〇ソリドゥス、紙二〇〇デカデス、シナモン香五〇リブラ、ナルドの香油二〇〇リブラ、バルサム五〇リブラ;

  属州ユーフラテス内で、都市キュロ近郊:

  アルマナゾンの所領、収益三八〇ソリドゥス;

  所領オバリア、収益三六〇ソリドゥス。

21. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは一つのバシリカを basilicam 祝福された使徒パウルスへ、司教シルウェステルの提案で作ったが(San Paulo fuori le mura大聖堂のこと)、彼(コンスタンティヌス)は、彼(パウルス)の遺骸を以下の如く ita 青銅の中に in aere 密封しrecondit、そして封印したconclusit、ちょうど sicut 祝福されたペトルス(の遺骸)のように。そのバシリカに basilicae 彼(コンスタンティヌス)は以下の寄進を提供した obtulit:

 キリキアのタルスス近郊:ゴ(コ)ルディアノン島、収益八〇〇ソリドゥス

 すなわち enim すべての神聖なる諸々の器(pl.)、金製もしくは銀製、または青銅製のものを、以下のごとく ita 供し posuit、祝福された使徒ペトルスのバシリカ内に in basilica 置いたのと同様に sicut 、祝福された使徒パウルスの(バシリカ)にも彼(コンスタンティヌス)は整えた ordinauit。そしてしかし、金製の十字架を祝福された使徒パウルスの場所の上に置いた、重さ一五〇リブラ。

 都市ティルスの近郊:

  所領コミトゥム、収益五五〇ソリドゥス;

  所領テュミア、収益二五〇ソリドゥス;

  所領フロニムサ、収益七〇〇ソリドゥス、ナルドの香油七〇リブラ、香料五〇リブラ、シナモン五〇リブラ;

 都市アエジプティア近郊:

  所領キュリオス、収益七一〇ソリドゥス、ナルドの香油七〇リブラ、バルサム三〇リブラ、蘇合香三〇リブラ、没薬一五〇リブラ;

  所領バシレア、収益五五〇ソリドゥス、香料五〇リブラ、ナルドの香油六〇リブラ、バルサム二〇リブラ、サフラン六〇リブラ;

  所領マッカベス島、収益五一〇ソリドゥス、清浄なパピルスの茎五〇〇本、リネンの麻袋三〇〇。

 22. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは(一つの)バシリカを basilicam セッソリアヌム宮殿内に建てたが、そこには ubi かくして etiam、我らの主イエスス・クリストゥスの聖十字架の木(片)のために de ligno、金と貴石で(彼は)密封し recondit、そしてそこに ubi et 教会の ecclesiae 名前を奉献した、それは以来今日もなお usuque in hodiernum diem ヒエルサレムと添え名されてきている[Santa Croce in Gerusalemme 教会のこと];

その場所に以下の寄進を(コンスタンティヌスは)定めた constituit:

 聖なる木(片)の前に、銀で輝いている燭台 candelabra 四灯、それらは四福音書にちなんだもので、重さ各八〇リブラ;

現在のイエスス受難の聖遺物棚と、聖十字架の木片を収めた十字架型聖遺物顕示台

 銀製カンターラ五〇灯、重さ各一五リブラ;

 金製スキフォス、重さ一〇リブラ;

 陪席司祭用の金製カリックス五客、重さ各一リブラ;

 銀製スキフォス三客、重さ各八リブラ;

 陪席司祭用の銀製カリックス一〇客、重さ各二リブラ;

 金製パテナ(一皿)、重さ一〇リブラ;

 金メッキの銀製パテナ(一皿)、貴石付き、重さ五〇リブラ;

 銀製祭壇(一基)、重さ二五〇リブラ;

 銀製ハマ(手桶)三個、重さ各二〇リブラ;

 そして、宮殿自体に隣接する土地凡てを教会の寄進に ecclesiae dono 彼は与えたdedit;

 同様に item 所領スポンサス、ラビカナ街道、収益二六三ソリドゥス;

 都市ラウレントゥム近郊、所領ファトラス、収益一二〇ソリドゥス;

 都市ネペシナ近郊、所領アンジェレシス、収益一五〇ソリドゥス;

 上述の都市近郊、所領テラガ、その収益一六〇ソリドゥス;

 都市ファリスカ近郊、所領ニュンファス、収益一一五ソリドゥス;

 同様に item 都市ファリスカ近郊、ヘルクリウスの所領、そこを彼は正帝に寄進し donauit 、そして正帝がエルサレム教会に ecclesiae 提供した obtulit 、収益一四〇ソリドゥス;

 都市テュデル近郊、所領アングラス、収益一五三ソリドゥス。

 23. 同じ頃 Eodem tempore、彼(コンスタンティヌス帝)は、聖なる殉教者アグネスのバシリカを basilicam 彼の娘の懇願によって建て[Sant’Agnese fuori le mura のこと]、そして同じ場所に洗礼堂を baptisterium(建て)、そしてそこで ubi et 彼の姉妹のコンスタンティアが正帝の娘と共に、司教シルウェステルによって洗礼を授けられ、そしてそこで ubi et 彼は以下の寄進を donum 定めた:

 純金製パテナ二皿、重さ各二〇リブラ;

 金製カリックス、重さ一〇リブラ;

 純金製冠型シャンデリア coronam farum cantharum、イルカ三〇頭付き、重さ一五リブラ;

 銀製パテナ二皿、重さ各二〇リブラ; 

 銀製カリックス五客、重さ各一〇リブラ;

 銀製シャンデリア farum cantarum 三〇灯、重さ各八リブラ;

 真鍮製シャンデリア四〇灯、浮き彫りが彫刻された銀メッキの真鍮の燭台四〇台;

 十二の灯心の金製オイルランプ、泉水の上、重さ一五リブラ;

そして収益としての寄進:

 都市フィグリナエ周辺の凡ての耕地 agrum、収益一六〇ソリドゥス;

 サラリア通り、旧市壁近隣、聖アグネスの耕地凡てに至る、収益一〇五ソリドゥス;

 ムスクスの耕地、収益八〇ソリドゥス;

 所領ウィクス・ピシオニス、収益二五〇ソリドゥス;

 耕地カスラエ、一〇〇ソリドゥス。

24. 同じ頃 Eodem tempore、彼は一つの聖堂を basilicam 祝福された殉教者ラウレンティウスのためにティブルティーナ街道の所領ヴェラヌスの、砂岩製の地下礼拝所の上に supra arenario ctyptae 建てた[San Lorenzo fuori le Mura 教会のこと]。そして、聖なる殉教者ラウレンティウスの遺骸まで、上がり降りするための階段(pl.) を作った。その(聖堂の)場所に、彼はひとつのアプスを建設し、そして赤紫色の大理石[斑岩]で装飾し、そして上方からその場所を銀で覆い conclusit、そして、複数の柵を純銀で装飾した、それらは重さ一千リブラ;

そして、地下礼拝所内のその場所自体の前に、彼は以下を供えた posuit:

 一〇の灯心の純金製オイルランプ、重さ二〇リブラ;

 純銀製の冠、五〇のイルカ付き、重さ三〇リブラ;

 金製燭台二台、高さ一〇ペース、重さ各二〇〇リブラ;

 祝福された殉教者ラウレンティウスの遺骸の御前に、銀メッキの小像群で彼自身の受難(を描いた)、二つの灯心の銀製オイルランプを複数伴い、重さ各一五リブラ。

 彼が提示した obtulit 寄進:

 金製パテナ一皿、重さ二〇リブラ;

 銀製パテナ二皿、重さ三〇リブラ;

 純金製スキュフォス、重さ一五リブラ;

 銀製スキュフォス二客、重さ各一〇リブラ;

 陪席司祭用銀製カリックス一〇客、重さ各二リブラ;

 銀製ハマ(手桶)二個、重さ各一〇リブラ;

 銀製 fara 三〇灯、重さ各二〇リブラ;

 銀製の壺/甕 metreta 、重さ一五〇リブラ、容量 portante 二モディウス medemnos;

25. 同じ場所で;

 キュリアカなる信心深い女性の所領、そこを国庫が迫害の際に占領していたのだが、農場ヴェラヌス、収益一六〇ソリドゥス;

 所領アクア・トゥティア、それに並んで、収益一五三ソリドゥス;

 正帝の所領、サビネの領地、収益、キリスト教徒たちの名義で一二〇ソリドゥス;

 スルフラタエの所領、収益六十六ソリドゥス;

 所領ミキナス・アウグスティ、収益一一〇ソリドゥス;

 所領テルムラス、収益六〇ソリドゥス;

 所領アラナス、収益七〇ソリドゥス;

 セプティミトゥスの所領、収益一三〇ソリドゥス。

 26. 同じ頃 Eodem tempore 、正帝コンスタンティヌスはひとつの聖堂を basilicam 祝福された殉教者たちの司祭マルケッリヌスと祓魔師ペトルスのため建てた、そこは「二本の月桂樹の中」 Inter Duos Lauros(という地名)の地域で[通称は以下の表記:Chiesa dei Santi Marcellino e Pietro ad Duas Lauros]、そしてひとつのmysileum(=mausoleum:初出でここのみだが語義典拠は不明)を、そこには彼自身の母アウグスタ・ヘレナが埋葬されていて、ラビカナ街道で第三里程標である。

その場所に、そして彼の母への愛のために、そして諸聖人への崇敬のため、彼の祈願の(以下の)諸寄進を供えた posuit:

 純金製パテナ、重さ三十五リブラ;

 金メッキの銀製燭台、十二ペースが四台、重さ各二〇〇リブラ;

 金製冠(型シャンデリア)、それは一二〇のイルカ付きシャンデリアで、重さ三〇リブラ;

 金製カリックス三皿、重さ各一〇リブラ、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.) を伴う;

 金製ハマ(手桶)二個、重さ各六〇リブラ;

 純金製の祭壇、重さ二〇〇リブラが、祝福されたヘレナ・アウグスタの埋葬墓 sepulchrum(初出)の前に、その埋葬墓 sepulchrum は石材製で ex metallo、赤紫斑岩が purphyriticus、諸小像で彫刻されている;

 銀製 fara canthara 二〇灯、重さ各二〇リブラ。

 27. 同様に、聖ペトルスと聖マルケッリヌスのバシリカの中に、寄進として彼は(以下を)与えた dedit:

 純銀製の祭壇、重さ二〇〇リブラ;

 純金製のパテナ二皿、重さ各十五リブラ;

 銀製のパテナ二皿、重さ各十五リブラ;

 純金製の大きめのスキュフォス、そこには ubi 正帝の名前が記されている、重さ二〇リブラ;

 小さめの金製のスキュフォス、重さ一〇リブラ;

 銀製のスキュフォス五客、重さ各十二リブラ;

 陪席司祭用銀製カリックス二〇個、重さ各三リブラ;

 銀製のハマ(手桶)四個、重さ各十五リブラ;

 毎年、純粋なナルドの香油九〇〇リブラ、バルサム一〇〇リブラ、薫香用香料を上述の聖なる殉教者、祝福されたマルケッリヌスとペトルスに一〇〇リブラ; 

 農場ラウレントゥム、水道渠 forma * 、近くに浴場 balneum と凡ての土地、(それは)セッソリアーナ門からペネストリーナ街道に至るまでずっと、(そして)旅行者用の itineris ラティーナ街道からガブス山まで、ヘレナ・アウグスタの所領、収益一一二〇ソリドゥス;

   * なぜか英訳者たちは forma をこう訳している。場所問題については下図と、cf., Loomis, p.65, n.1.

 サルディニア島、同島に属する凡ての所領付きで、収益一〇二四ソリドゥス;
 メセノ島[Duchesne,p.199,n.93 では、ミセノ半島のこととしている]、同島に属する諸所領付きで、収益一一二〇ソリドゥス;

 マッティディア島、そこにはモンス・アルゲンタリウムがある、収益六〇〇ソリドゥス;

  領地サビーニ内の所領、それは「二軒屋」Duas casas と呼ばれ、ルクレティウス山の麓、収益二〇〇ソリドゥス。

28. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは(ひとつの)バシリカを basilicam 首都ローマの Portus に隣接する都市オスティアの中に建てた。(それが)祝福された使徒たちペトルスとパウルスそして洗礼者ヨハネで、そしてそこに ubi et 彼は以下の諸寄進を提供した obtulit[offero]:

 銀製パテナ、重さ三〇リブラ; 

 銀製カリックス一〇客、重さ各二ブラ;

 銀製ハマ(手桶)二個、重さ各一〇リブラ;

 銀製シャンデリア fara cantara 三〇灯、重さ各五リブラ;

 銀製スキュフォス二客、重さ各八リブラ; 

 一皿の銀製の特別な聖油用パテナ、重さ一〇リブラ;

 洗礼用の銀製小鉢、重さ二〇リブラ;

 アッシスと呼ばれる島 insulam、それはポルトゥスとオスティアの間にあり、Digitum Solis に至るまでの凡ての海岸の omnes maritimas 諸所領、収益六五五ソリドゥス;

 グラエキの所領、アルデアティノの領地内 in territurio、収益八〇ソリドゥス;

 クイリトゥスの所領、オスティアの領地、収益三一一ソリドゥス;

 所領バルネオルム、オスティアの領地、収益四十二ソリドゥス;

 所領ニュンファス、収益三〇ソリドゥス。

29. 同様に item、ガッリカヌスが上述の聖なる使徒たちペトルスとパウルスそして洗礼者ヨハネのバシリカに提供した obtulit 諸寄進;以下を彼が提供した obtulit:

 複数のイルカ付きの銀製の冠(型シャンデリア)、重さ二〇リブラ;

 浮き彫り入り anaglyfum 銀製カリックス、重さ十五リブラ;

 銀製ハマ、重さ十八リブラ;

 大所領 massam マッリアヌム、地域サビネンセ、収益一一五と三分の一ソリドゥス;

 農場ピクトゥラ、地域ウェッリテルノ、収益四十三ソリドゥス;

 スリの農場、クラウディア街道、地域ウェゲンタノ、収益五十六ソリドゥス;

 大所領ガルギリアナ、地域スエッサノ、収益六五五ソリドゥス。

30. 同じ諸時代に、正帝コンスタンティヌスは、都市アルバヌム内に、洗礼者聖ヨハネのバシリカを建て、そこに(以下を)供えたposuit:

 銀製パテナ、重さ三〇リブラ;

 金メッキの銀製スキュフォス、重さ十二リブラ;

 陪席司祭用銀製カリックス、十客、重さ各三リブラ;

 銀製ハマ二個、重さ各二〇リブラ;

 所領トゥルヌス湖[Laghetto di Turno:17世紀に干拓されてしまったが、アルバノ湖の西二マイル]とその周辺の諸平原、収益六〇ソリドゥス;

https://www.academia.edu/38387730/Emissario_del_Lago_di_Turno_o_di_Pavona_Castel_Gandolfo_RM_Indagini_speleologiche_e_analisi_delle_antiche_fonti_iconografiche

 モラ農場、収益五〇ソリドゥス;

 所領アルバヌス湖、収益二五〇ソリドゥス;

 ムクスの大所領、収益一六〇ソリドゥス;

 都市 urbe アルバヌスの中の凡ての空き家の兵舎をomnia scheneca deserta[セプティミウス・セウェルス以来アルバーノに駐留していた第二パルティカ軍団 Legio II Parthica も四世紀には縮小された]、それどころか uel 諸邸宅を、正帝がコンスタンティヌスの聖なるバシリカに寄進として提供した obtulit;

 ホルトゥスの所領、収益二〇ソリドゥス;

 ティベリウス・カエサルの所領、収益二八〇ソリドゥス;

 所領マリナス[現Marino:アルバノ湖の北500m]、収益五〇ソリドゥス;

 大所領ネムス[ネミ湖と関連?]、収益二八〇ソリドゥス;

 所領アマルティアナス、地域コラーノ、収益一五〇ソリドゥス;

 所領スタティリアナ、収益七〇ソリドゥス;

 所領メディアナ、収益三〇ソリドゥス。

31. 同じ頃 Eodem tempore 、正帝コンスタンティヌスは使徒たちの聖堂をカプア市内に intra urbe Capua に作った。それを彼[コンスタンティヌス]はコンスタンティナと呼んだ。そしてそこに ubi et 彼は諸寄進を提供した obtulit dona:

 銀製パテナ二枚、重さ各二〇リブラ;

 銀製スキュフォス三客、重さ各八リブラ;

 陪席司祭用カリックス十五客、重さ各二リブラ;

 青銅製シャンデリア、数にして三〇;

 そして彼は(以下の)諸所領を possesiones 提供した:

 大所領 massa Statiliana、メントゥルナエ地域で収益三一五ソリドゥス;

 ガエタ地域内の所領、収益八十五ソリドゥス;

 所領パテルヌム、スエッサ地域で収益一三〇ソリドゥス; 

 ad Centumの所領、カプア地域で収益六〇ソリドゥス;

 スエッサ・ガウロニカ地域の所領、収益四〇ソリドゥス;

 レオの所領、収益六〇ソリドゥス。

32. 同じ頃、正帝コンスタンティヌスは一つのバシリカを都市 ciuitate ナポリの中に作り、以下を提供した obtulit:

 銀製パテナ二枚、重さ各二十五リブラ;

 銀製スキュフォス二客、重さ各一〇リブラ;

 陪席司祭用カリックス十五客、重さ各二リブラ;

 銀製ハマ(手桶)二個、重さ各十五リブラ;

 銀製ファラ二〇灯、重さ各八リブラ;

 青銅製ファラ二〇灯;

 彼はまた送水路のようなものを八マイルにわたり作り、またそして同じ都市の中に in eadem ciuitatem フォルムを作り、そして以下の寄進を donum hoc 提供した obtulit:

 マカルスの所領、収益一五〇ソリドゥス;

 所領キンブリアナ、収益一〇五ソリドゥス;

 所領スキリナ、収益一〇八ソリドゥス;

 所領アフィラエ、収益一四〇ソリドゥス;

 所領ニュムフラエ、収益九〇ソリドゥス;

 砦を伴う[Nisida]島の所領、収益八〇ソリドゥス。

33.  同じ諸時代に Hisdem temporibus、祝福されたシルウェステルは、首都 urbe ローマ内で自身の名義(教会)を第三街区に、トラヤヌス浴場とも呼ばれるドミティアヌス浴場の隣りに建てた、それはシルウェステルの名義(教会)で、そこに正帝コンスタンティヌスは(以下の)寄進をした[=XXXIV.]:

 銀製パテナ、重さ二〇リブラ;

 銀製ハマ(手桶)、重さ一〇リブラ;

 銀製スキュフォス二客、重さ各八リブラ;

 銀製シャンデリア一〇、重さ各五リブラ;

 青銅製蝋燭用カンターラ(燭台)十六台、重さ各四〇リブラ;

 銀製陪席司祭用カリックス五客、重さ各二リブラ;

 ペルキリア農場、サビーニ地域、収益五〇ソリドゥス;

 バルバティア農場、フェレンス地域、収益三十五ソリドゥスと一トレミッシウム;

 スタティア農場、トリブラ地域、収益六十六ソリドゥスと一トレミッシウム;

 ベルクラエ農場、コラ地域、収益四〇ソリドゥス;

 スルピキア農場、コラ地域、収益七〇ソリドゥス;

 タウルスの農場、ウェイイ地域、収益四十二ソリドゥス;

 センティア農場、ティブール地域、収益三〇ソリドゥス;

 ケイア農場、ペネストレ[パエストリーナ]地域、収益五〇ソリドゥス;

 テルムラエ農場、ペネストレ地域、収益三十五ソリドゥス;

 所領サイロン、ベネストレ地域、収益五十八ソリドゥス。

そしてエクイティウスの名義(教会)のために必要なあらゆるものを彼は提供した obtulit。

34. 彼、シルウェステルは、十二月に六回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭四十二名、助祭二十六名;様々は場所のための司教六十五名(の叙階)を執り行った。

 彼は、プリスキッラの墓地に cymeterio、(それは)首都ローマから三里程標のサラリア街道にあるが、十二月三十一日に埋葬された。彼はたしかに公同的で、そして告白者で生涯を終えた quieuit。そして司教職は十五日間空座だった。

第三十五章 マルクス MARCVS【336年】

 1. マルクスは、生まれはローマで、父はプリスクス、(司教座に)二年八か月二十日間[この期間はおかしい]、着座した。それはまた、コンスタンティヌスの諸時代、そしてナポティアヌスとファクンドゥスの執政官職[Virius Nepotianus,Tettius Facundus:336年]の二月一日から一〇月一日に至るまでであった。

 2. 彼は定めた constituit、(ローマ司教を)聖別するオスティア司教はパッリウムを使用し、そして彼から首都ローマの司教は生別されるべきである、と。そして凡ての教会に関する定めを constitutum 規定した ordinauit。

 3. 彼は二つのバシリカを建てた、一つはアルディアティナ街道にあり[本翻訳冒頭の地図1参照:アッピウス街道のひとつ南を走っていて、バシリカは番号1]、そこに彼は埋葬されていて、そして他の一つは首都ローマ内のパラッキニス近くにある[同じく地図2参照:ティベレ河の中の島のちょっと北]。彼の示唆で suggestione 、正帝コンスタンティヌスは一つのバシリカを提供した obtulit、そこを彼(マルコ)はアルディアティナ街道で墓地と定めていた constituit:農場ロサリウム、平地の凡ての農地ともども、収益四〇ソリドゥス。

 4. 首都内のひとつのバシリカに彼が提供したのは以下の通り:

    銀製パテナ、重さ三〇リブラ; 

    銀製ハマ二個、重さ各二〇リブラ;  

    銀製スキュフォス一個、重さ一〇リブラ;

    銀製陪席司祭用カリックス三客、重さ各二リブラ;

    銀製の冠(型シャンデリア)、一〇リブラ;

    農場アントニアヌム、クラウディウス街道、収益三〇ソリドゥス;

    農場バッカナス、アッピウス街道、収益四〇ソリドゥスと二トレミッシウム;  

    農場オッレア、アルディアティナ街道、収益五十五ソリドゥスと一トレミッシウム。

 3. 彼は首都ローマにおいて十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭二十五名、助祭六名を執り行った;様々の場所のため司教たちを二十七名(の叙階を執り行った)。彼はかくして、バルビーナ墓地、アルディアティナ街道に、自分自身の意向によって一〇月六日に埋葬された。そして司教職は二十日間空座だった。

第三十六章 IVLIVS 【337-352年】

 1. ユリウスは生まれはローマで、父はルスティクス、(司教座に)十三年二か月六日間着座した。それはまた antem、コンスタンティヌスの息子の異端者コンスタンティヌス(二世)[彼はアレイオス派だった]の諸時代、フェリキアヌスとマクシミヌスの執政官職からであった[両者の同時就任はなかった]。彼は多くの苦難に会い、そして一〇か月追放された。そしてこのコンスタンティヌスの死後に、栄光と共に祝福された使徒ペトルスの座へと復帰した。

 2. 彼はバシリカを二つ建てた。一つは首都ローマの中のフォルムの近隣、もう一つはティベレ河の対岸で、そして墓地を三つ、一つはフラッミニネア街道、別の一つはアウレリウス街道、そしてもう一つはポルトゥエンシス街道だった。

 3. 彼は以下の規定を作った constitutum fecit、聖職者はだれも訴訟をいかなるものであれ quamlibet 公に起こしてはならない、教会内でのみ以外(ありえない)、そして凡ての者たちに関する教会の信仰についての知見は notitia、書記たちによって per notarios 収集され、そして教会内の凡ての諸文書についてはmonumenta 書記たちの最上位者によって per primicerium 作成が公表されるべきこと confectio celebraretur、あるいは siue 証文 cautiones もしくは uel extrumenta または aut 寄進 donationes もしくは uel 交換 conmutationes もしくは uel 譲渡 traditiones または aut 遺言 testamenta もしくは uel 申し立て allegationes または aut (奴隷)解放 manumissiones は、教会内の聖職者の clerici 神聖文庫局経由で per scrinium sanctum 公表されるべきこと celebrarentur。

 4. 彼は首都ローマにおいて十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十八名、助祭四名、様々な場所のため司教たち九名の(叙階を)執り行った。彼はかくして etiam アウレィウス街道で(首都ローマから)三里程標にあるカレポディウス墓地に、四月十二日に埋葬された。そして司教職は二十五日間空座だった。

第三十七章 LIBERIVS 【352-356年】

 1. リベリウスは,生まれはローマ人で、父はアウグストゥス、(司教座に)六年三か月四日間着座した。それはまた autem、コンスタンティヌスの息子コンスタンティヌス(二世)の、正帝コンスタンティウス三世【正確には二世】に至るまでの諸時代だった。

 2. 彼(リベリウス)はコンスタンティウスによって追放刑に処された、そうなったのは、彼がアッリアヌスの異端に合意するのを consentire 拒んだからで、そして彼は追放刑に三年間服した。そして聖職者たちを集合させて congregans 彼らの協議で consilio リベリウスは[追放中の]彼の代わりに in loco eius、尊者で uenerabilem uirum 司祭のフェリックスを司教に任命した。そしてフェリックスは教会会議を concilium 行い、そして二人の司祭を見つけた。彼らはアッリアヌス派の正帝コンスタンティウスに合意する consentientes 者たちで、ウルサキウスとウァレンスという名前だった。そして彼は四十八名の司教たちの教会会議の中で in concilio 彼らを弾劾した damnauit。

 3. 数日後にまた autem 、嫉妬心でウルサキウスとウァレンスは駆り立てられて、正帝コンスタンティウスに以下を懇願した:リベリウスを追放から呼び戻し reuocauit、彼が一度だけ unam tantum 聖餐を共にするように、(ただ)第二の洗礼はなしとする。それから tunc 決議が auctoritate 急使 agens in rebus のカトゥリヌスによって送付され、そして同時にウルサキウスとウァレンスがリベリウスのもとへとやって来た。とにもかくにも qui リベリウスは正帝の以下の諸指示に合意した consensit、一度だけ unam tantum 聖餐を共にするため異端者たちと会合するように conueniret(=convenio)、ただ tantum 彼らは再洗礼はしない(という条件で)。それから tunc 彼らはリベリウスを追放から呼び戻した reuocauit。

 4. また autem リベリウスは追放から戻ると、聖アグネス(Basilica di Sant’Agnese fuori le mura)の墓地の中で in cymiterio 正帝コンスタンティウスの姉妹のそばに留まり、あたかも quasi 彼女の保証、あるいは auto 懇願によって、リベリウスは都市内に戻ろうとした。それから tunc コンスタンティア・アウグスタは、主イエス・キリストへの信心が深いのだが、彼女は彼女の兄弟の正帝コンスタンティウスに懇願するのを拒んだ、なぜなら、彼女は(彼らの)協議に consilium 感づいていたからである。

この教会やカタコンベ、コスタンツァ霊廟はアウレリアヌス城壁のピア門からノメンターナ街道を北上して2Kmにある。昔はバスで行ったものだが、最近は地下鉄でも行けるようになった。

 5. 同じ頃、コンスタンティウスはウルサキウスとウァレンスと共に、アッリアヌス派の屑どもだった他の者たちを召集し conuocauerunt(=convoco)、そしてあたかも教会会議が行われると報知し、そしてリベリウスを祝福されたアグネスの墓地から(ローマ市内に)呼び戻した reuocauit。

 

 

 

 

 

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