投稿者: k.toyota

ウクライナのバンクシー

2022/12/15毎日新聞有料記事掲載「バンクシー、貫く哲学 ウクライナで作品7点 弱者側に立ち続け」(https://mainichi.jp/articles/20221215/dde/012/040/009000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article&cx_mdate=20221218

 「難民に自由を」Free Refugees という落書き(日本)はダメで、なぜバンクシーのそれはアートとして容認されるのか、という問題提起も出てくる。むき出しの直截的な主張よりも、一呼吸おいて一ひねりしたゆとりのほうが、われら衆生にも芸術性を感じさせるのかもしれない。まあ才能ないとできない技ですが。

そこにすでにあるモノを利用しての風刺性、かな:右の落書き、わかりますよね。男根ミサイル
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古代ローマの伝説の植物「シルフィウム」再発見?

 ナショジオから本年の「驚くべき発見22」という記事が送られて来た(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/stories/22/120800098/?P=4)。念のため見ていて、その中にとんでもない情報があって、私は大興奮した。「絶滅と思われた「幻の植物」をおそらく再発見」。

 これは古代ローマ史にとってきわめて重要なので、元情報(2022/10/9:但し、日本語:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/092900445/)のほうも是非読んでほしい。 

 古代ローマには、黄金と同じくらいの価値があり、宝物庫に貯蔵されるほどの植物があった。その植物「シルフィウム」silphium(ギリシャ語:Silphion)は、病をいやし、料理の味を引き立てるとされ、古代の地中海世界で大いにもてはやされたが、あまりの人気のため、そして動物に好んで食べられていたので2000年近く前に食べつくされ、絶滅したと考えられていた(文書記録的に最後の一本を食したのは、皇帝ネロだったことになっている)。この伝説の植物の容姿はリビアのキュレナイカ・コインにも打刻されているし、あの著名なアキピウス『料理書』にもしばしば登場していて、ガルムともどもそれ抜きに古代ローマの料理を語れない存在であった(とはいえ、ガルムはともかくとしても、富裕層に限定しての話だ、という指摘はしておかないといけないだろう)。

 トルコのイスタンブール大学教授で生薬学を専門とするMahmut Miski氏は、学位論文の続きでセリ科オオウイキョウ属(Ferula)の研究を継続中の1983年に、カッパドキアのとある農村に赴いた際、石壁に囲まれたささやかな土地で、それに出会い第一報として1985年に生薬学的観点からの簡単な報告をしていたが、その植物はすでに1909年に採取され新種記載されていて、フェルラ・ドルデアナFerula drudeanaと名付けられていた。今回、それが古代ローマで知られていた「シルフィウム」と同一物ではないかとして改めて問題提起したわけである。

 分布地域や外見は古代の文献記述と一致していたが、さらに確信を得るために、氏はこの現代の植物を、シルフィウムを用いる古代のレシピに使用してみることにした。その結果生み出されたすばらしい味わいは、ローマ人もきっと好んだだろうと納得できるものだった、との由。

 彼が選んだ調理人は、料理史研究家として著名なサリー・グレンジャーSally Grainger女史。彼女はこう述べている。「伝説のシルフィウムを発見し、それを使って古代のレシピを再現できるとは、まるで聖杯を見つけたような気持ちです」(以上:「絶滅とされた古代ローマ「幻の植物」をおそらく発見、食べてみた」

 私見としては、トルコにはキュレナイカから持ちこまれたとの仮説があるが、たとえ北アフリカ原産と同一品種でないとしても、トルコ・アナトリア土着の近縁種のセリ科と考えればいいのでは。Mahmut Miski氏も古来種との同定にはあくまで慎重で、考古学的な出土との比較研究が必要と考えているが、はたしてそれがいつ可能になるというのであろうか。

 それにしても19世紀半ばに北アメリカからヨーロッパに渡来したフィロキセラ(Phylloxera)によって、ヨーロッパ原産のブドウの木は全滅したとされているが、ヨーロッパ原産のブドウがイタリアの孤立した山間部では生き延びているとまことしやかに囁かれているようで、これと同類の話題には違いないが、本当であってほしいと思うのは私だけではないはずだ。

 やっと元論文を見つけたので、興味お持ちの方はご覧下さい。Mahmut Miski, Next Chapter in the Legend of Silphion: Preliminary Morphological, Chemical, Biological and Pharmacological Evaluations, Initial Conservation Studies, and Reassessment of the Regional Extinction Event, Plants, 2021,10,102(https://doi.org/10.3390/plants10010102)

 なお、種子を収めている子房の形がハート型であることでも世人の興味を惹いてきたらしい。

【補遺】「【シルフィウム】絶滅してしまった幻のハーブの謎」(https://www.myherb.jp/main/contents/rilax/silphium.html)

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ロシアの兵器の現状

 今頃になって、以下のようなウェブ記事が掲載された。「ロシアの最新兵器はどこへ消えたのか、統計数字の謎を暴く:野ざらしでさびて使用不能、他国への横流し、分解され売却・・・」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73107):2022/12/14

 内容は、副題に羅列されていることで尽きている。要するに数的な統計は信用できない、というわけである。こんなことは日常的に兵器というものに触れていて実態を把握しているはずの専門家にとって今さらの話ではないはずなのだが(実はそうでなかったと、今回化けの皮がはげてしまったわけだが)、私が記憶する限り10ヶ月前にそれを指摘するマスコミ登場専門家は皆無だった。状況がロシアに不利に展開している現状から、やっとなぜだということになり表に出てきた事実なのであろう。ことほど左様に、研究者や評論家の説の多くは後付けが得意で、先見の明を発揮することはほとんどない。

野ざらしの兵器は錆びちゃうのは常識として、保管されていても実戦使用するには日頃の保守管理が重要なのだそうだ

 これは一人ロシアの問題だけでなく、我が国においても、どれほどミサイルを購入したところで、年々劣化・陳腐化していくわけで、それをどう維持・管理していくつもりなのだろうか。維持経費もバカにならないはずだ。私など転売先どこにしようかと考えちゃうけど。

 関連で、私的に納得できるのが以下である。2022/12/8:市岡繁男「「誰しもが敗者になる」,ウクライナ戦争の行く末はシカゴ大学教授の預言通りか:どちらが勝っても待っているのは混沌、投資家はいまから備えを」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73019)。私は投資には興味がないが、そもそも今回のウクライナ戦争の原因を作ったのはNATOであり米国である、という点には同意せざるを得ないのだ(皆さん、バイデンの息子がらみでのウクライナ疑惑をもうお忘れのようで)。

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最新発掘情報一覧

 年末になったせいでもないのだろうが、あれこれ押し迫ってきてきちんと報告できそうもないので、とりあえず一覧を。これはポーランドの「IMPERIUM ROMANUM」というブログからの転載である。それ自体はごく短い報告だが、そこで得た情報でググってみると、一層詳しい情報源に遡及することができる。

 今回、私的に興味深いのはコロッセオの地下での出土関係関係と、NHKで放映されたこともあるチュニジアでの津波の話である。ところでコロッセオのトイレ問題はいまだ私にとって未解決課題である。だれか教えて、いや研究して頂戴。

News from world of ancient Rome
03/12/22

Remains of small dogs were discovered under Colosseum

In the sewers under the Colosseum, researchers found the remains of small dogs – up to 30 cm in height. According to specialists, the Romans could use such small dogs (similar in size to dachshunds) for example for acrobatic performances, hunting or fights with wild animals. More »

Five Roman tombs have been discovered in Egypt

In 2017, in the necropolis of Beir Al-Shaghala (Egypt), in the Western Desert, five tombs from the Roman period of Egypt, made of mud and bricks, were discovered. The find was made by an Egyptian archaeological mission. The discovered tombs have different shapes and structures. The first one has an entrance leading to a rectangular […] More »

Skeleton of woman with preserved hair and eyebrows

The skeleton of a woman was discovered in a marble sarcophagus, which dates back to the 3rd century CE. Interestingly, the hair and eyebrows of a woman who probably died at the age of 50-60 are still preserved. The discovery took place in 1962 in Roman Thessalonica, and the woman came from a high social […] More »

Remains of Roman city devoured by tsunami have been discovered

In 2017, the remains of a lost Roman city were discovered on the northeastern coast of Tunisia. The ruins are underwater. Scientists suspect that these may be traces of the Roman city of Neapolis, which was devoured by a tsunami in the 4th century CE. This centre was famous throughout the Mediterranean for the production […] More »

Rare Roman mosaic has been discovered in southern England

In southern England, in Berkshire, a Roman mosaic has been discovered that shows the Greek hero Bellerophon riding a pegasus. It is one of the most interesting finds in Britain in the last 50 years. The object is dated to around 380 CE. The find is a floor mosaic 6 meters long. The work in […] More »

Emperor Sponsian’s coin is not counterfeit

A mysterious Roman coin depicting Emperor Sponsian was found in Romania at the beginning of the 18th century. In the 19th century, researchers found that it was a fake, which was made either in ancient times or even later when such artefacts were extremely fashionable. In recent weeks, the coin, which is housed in the […] More »

Roman fresco showing island of Laestrygonian giants

Roman fresco showing the island of the Laestrygonian giants-cannibals when Odysseus arrives. Interestingly, the Greeks identified this mythical place with either Sicily or Formia in Latium. The object was discovered in a domus on what is now the Roman road Via Cavour; now in the Vatican Museums in Rome. Dated to the 1st century BCE. More »

Further excavations are underway in Roman bath at Carlisle

In the north of England, in the city of Carlisle, further excavations begin to reveal more secrets of the Roman bath. The ruins of the building were discovered in May this year. At the moment fragments of weapons, pottery and coins have been found. Further excavations are possible thanks to the financial support of a […] More »

Roman snacks discovered under Colosseum

Numerous traces of ancient snacks have been discovered under the Colosseum – figs, grapes, cherries, blackberries, walnuts and others. Bones of dogs, bears and large felines were also found. The discovery was made during excavation works in sewers, which were carried out in 2021 and aimed at cleaning outflows and channels under the Colosseum. Among […] More »

Beautiful ship for Verres

In Roman times, it was very expensive and a lot of effort to put up a naval fleet. If the governor of the province received an order from the senate or decided that it was necessary to build, equip ships and train new crews, the entire financial burden naturally went to the cities of the […] More »

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NHK Eテレ:「ポンペイの起源」放映に寄せて

 2022/11/19 午後7時から「地球ドラマチック」で、44分間「ポンペイの起源:もうひとつの埋もれた歴史」が放映された。

 ポンペイ前史を要領よくまとめた2022年フランス制作のもの。内容的にはちょっと引っかかる所もあるが(水の供給をAugustusの水道橋としている箇所とか)、ポンペイが多様な民族によって形成された前史を持っていた、という件はおおむねきちんと報告されていたと思う。

 私的には、番組の中でちょっとだけ触れていた、港の問題とか、昔は北側をサルノ川が流れていたとかいったあたりをもっと丁寧に検証してやってほしかったのだが(いずれもこの春の学会で私が試論的に発表した論点がらみ)、44分間ではしょうがないか。

 現在、以下で、11/26午後7:44まで「NHK+」での見逃し配信があって見ることできる。https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2022111920171

 残念なのは、なぜか画像をスクリーンショットできないこと。なんでや。iPhoneで撮るしかないか。

【追記】しょうがないから、見逃しがある間にと慌てて調べて(実はiPhoneのホルダーも購入してしまった)「CleverGet」というソフトを購入して録画に成功した。これは色んなところのストリーミング動画をダウンロードすることできる、という触れ込みなのだが、3本まではお試しできて、それで納得した私は「動画」と「NHK Plus」だけ選んだので、永久使用料が1件ごとに9870円かかるところ、50%引きで、消費税込みで10858円かかった。自分の心覚えだけにしか使わないのだから、それでも物入りなことだ。

【追記2】上記放映について、ほとんど日本唯一のポンペイ考古学者のS氏からは以下のようなコメントが届いた。

 「門が8つありそのうち7つが見つかっている」,「小さな町を取り囲む城壁があった」,「前6世紀から既にフォルムを貫く直線的幹線道路が敷設されていた」等々,突っ込みどころが満載でしたが,中でも問題だと思ったのは,ご指摘にもある「ポンペイ城壁北部を流れる川」に触れた箇所でした」。

 我々は画像を見て解説聞くのに忙しいのだが、やっぱり専門家はめざとく問題点に気付いている、その注意力はさすがである。

 たしかにこの作品の内容は、えっと思うほど学問的に古い知見が多かった(映像も使い回しの繰り返しが多かった)。2022年制作となっているのに何故か。それは登場した研究者が本当の専門家でないのでそうだった場合と、ディレクターが事前調査した内容的に古い情報(一般向けの経年書籍はおおむねそう)を骨格にしてシナリオを書き、それを解説部分で音声で流し、研究者が色々喋った内容から自己都合に合致する箇所だけ抜き出した場合もあるからだ。本当は専門の研究者たちへの取材を重ねて最新情報を盛り込むべきなのだが、経費問題とか起案書作成とかで手軽な方に走ってしまう事情があるのだろう。底の浅さが透けてみえるのだが、しかしそれがむしろ一般的な視聴者には受けはいいのも事実で(だから視聴率も上がるし、まあそれが商売人ディレクターの本領発揮というわけだろうが)、肩が凝らずに見ることできるからだろう。

 その点、2022/9/15掲載したNHK BS4K プレミアム「最強の帝国ローマ」の出来は出色だった(古色蒼然たるテーマ名はどうせなんたら女史かぶれの日本人ディレクターの命名なのだろうから無視)。また、国際共同制作と銘打った2019年フランス製作の「よみがえるポンペイ」(NHKオンデマンド)もよかった。もちろんこういう力作を高く評価する視聴者も多いはずだ。最後のものを私は上のソフトで録画に成功した。1時間半近くの長丁場だったが。

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アウグストゥスの家系をめぐって

 読書会での準備で調べ出したアウグストゥスの出自・家系問題だったが、アウグストゥスについての後世の評価が実像より高くなってしまったせいか、あまり触れられることのないテーマのようなので、ここに知りえたことをまとめて、過大評価を排して、彼の実像らしきものを探る手立てとしたい。

[アウグストゥスの家系問題]:誇るべき祖先を持っていなかった(以下の情報は、スエトニウス『皇帝伝』「アウグストゥス」1-3に依拠:これにはスエトニウス叙述の信憑性問題が絡むが、別件での調査から、こういった内容に関して私は信頼できると考えている)

 ・オクタウィウス氏Octavia gens はネミ湖の東南Velletriの地方名士で、王政時代元老院に抜擢され、平民から貴族に移籍されたが、時を経て自ら平民となった(いかにも嘘くさい)。この氏は2系列に分かれ、一方は元老院身分だったが、オクタウィアヌスが属する方は彼の父の代まで騎士身分であった。

 ・アウグストゥス自身は「由緒ある騎士身分の資産家に生まれ、自分の家系で元老院議員となったのは父が最初であった」としか記していない。

 ・のちの政敵のマルクス・アントニウスは「彼の曾祖父は解放奴隷で」「Thurii(半島南端)出身の綱作り職人で、祖父は両替屋であった」とけなし、彼を幼称のThuriusと呼んで憚らず、のみならず母方についても「曾祖父はアフリカの土着民で、Aricia(ネミ湖とアルバノ湖の中間)でときに香油屋を営み、ときにパン屋をしていた」とくさしている。

                      Aricia ↑      ↑ Velletri          ↑ Thurii

 ・別情報でも「父は両替商であった」とか「選挙のとき、候補者に雇われて選挙区民に賄賂を配る下働きの一人だった」と言われていた、などなど。

 要するに、父ガイウス・オクタウィウスがカエサルの姪アティアと結婚したので、表舞台に登場できる道筋が敷設されたわけのようだ。         

 というわけで、次により詳細にOctavia gens の系図を調べ出したのだが、ようやくそれがだいたい完成した段階で、以下のウィキペディアで明快に図示されていることが判明 (^_^; 。 やれやれ、とんだくたびれもうけだった。https://en.wikipedia.org/wiki/Template:Family_tree_of_the_Octavii_Rufi

 王政時代のうさんくさい伝説的な系図話はさておき、さかのぼり知られる最古の祖先グナエウス・オクタウィウス・ルフスは財務官=元老院身分有資格者で(前230年頃)、長男系は、法務官、執政官等を輩出して元老院身分としてそれなりの位置を占めていたが(カエサル時に平民から貴族に昇格)、次男ガイウス・オクタウィウス系はずっと騎士身分に属し、アウグストゥスの父がようやく法務官格でマケドニア属州総督、即ち元老院身分に登り詰めることができた「新人」家系だった。後日談としてその息子ガイウス・オクタウィウス(前64年生まれ:彼は生涯自分から「オクタウィアヌス」と称したことはなかった、らしい)が、さしたる政務官経歴もないのに、元老院から元老院議員とされたのは前43年、19歳の時のことだった。

 彼を養子に抜擢したガイウス・ユリウス・カエサルの家系については、以下のウィキペディアをご参照のこと。https://en.wikipedia.org/wiki/Julii_Caesares(より詳しくは、https://en.wikipedia.org/wiki/Julio-Claudian_family_tree)

  

【成人してからも、実際に毀誉褒貶相半ばする評価】これも、スエトニウス『ローマ皇帝伝』「アウグストゥス」に依拠

  16:シケリア海戦で、戦いが始まろうとしていたとき、突然アウグストゥスは猛烈な睡魔に襲われ、その結果、幕僚に呼び起こされて初めて戦闘開始の号令を下したほどである。これがアントニウスに意地悪い非難の材料を与えたものと、私には思われる。「奴は戦列を整えた敵の艦隊をまともに正視できず、仰向けにのけぞり、空を睨んだまま、この阿呆は眠りこけてしまい、とうとうマルクス・アグリッパが敵の艦隊を潰走させてしまうまで、目を覚まさなかったし、兵たちから見える所までやってこなかった。

  68:アウグストゥスは若い頃から早々と、いろいろの不行跡をめぐる世間の悪評に耐えた。ポンペイウスは彼の柔弱を嘲り、アントニウスは「大叔父カエサルとの汚らわしい関係で養子縁組をせしめた」とののしり、同じくアントニウスの弟ルキウスも「カエサルに童貞を奪われ、ヒスパニアでも、ヒルティウスにすら30万セステルティウス[約1億円]で操を売った。そしていっそう柔らかい毛を生やしたいため、いつもすねをまっ赤に焼いた胡桃で焦がしていた」と。

  89:アウグストゥスがせっせと間男をしたことは、友人といえども否定していない。・・・アントニウスは・・・(あれこれ中傷したあげく)・・・まだはっきり敵でなかった頃に、次のようなあけすけな手紙を書いた。「何がそなたの考えを変えたのか。私が女王クレオパトラとねてるためか。彼女は私の妻だ。今に始まったことではない。9年も前からではないか。そしたらそなたはリウィアとだけねているのか。この手紙を読むころ、テルトゥラとねていなければ結構なことだ。それともテレンティラとか、サルウィア・ティティセニアか、いやそいつらみんなと一緒にねているかな。しかるに、そなたならば、どこでどの女に対して勃起させようと問題にはならんのかね」

  71:奔放な情欲に関する非難は彼にしがみついて離れなかった。伝えるところによると、後年になっても処女を辱める方をいっそう好み、そのような女があらゆる所から妻リウィアによってすら探され提供されたという。

    賭事はいろいろ取り沙汰されても、アウグストゥスは決して尻ごみしなかった。・・・「私は私の名儀で2万セステルティウス[640万円]失った」。・・・「そなたに250デナリウス[32万5千円]送ります。これは饗宴の席で・・・賭をしようと思ったら、一人一人に私が与えていたかもしれない金額です」

 病弱で肝心の時腑抜けであった彼がまだ10代に、なぜ大叔父カエサルが遺言書で養子に指名していたのか(本人はそれを知らなかったらしい)は論議の的である(スエトニウス、8参照:直系男系として、ローマで散々叩かれた「愛人」クレオパトラ7世との間に前47年生まれのCaesarionがいたが、それは論外にしても)。

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トスカーナの温泉跡から青銅像24体その他出土

 在伊の藤井慈子さんから速攻で情報が届いた。以下の叙述はhttp://www.thehistoryblog.com/による。

 こういう遺物ははたして、冥界に通じる聖なる温泉・鉱泉に奉献されたものか、それともキリスト教勢力によって忌むべき異教の聖泉をつぶすべく廃棄されたものか、判断がむつかしい。発掘者たちは立像等の破損がわずかなので、前者とみているようだが、どうだろう。上からの命令でしかたなく地元民が形だけ埋め立て、それへの信仰はその後も絶えることなく継続された、少なくともしばらくは、と考えたいところだ。実際には、うまく立ち回って、キリスト教の聖人がらみの聖泉だとでっち上げて生き残った聖所もあるのだし。

 生真面目に伝統信仰に固執するのではなく、新興勢力を受け入れて、キリスト教の祠をぶっ立てるなり、聖母顕現の噂を振り撒けば生き残れたかもしれないのだ。なにしろ聖地は移動せず、なのだから(ケルト世界のフランスの例だが、以下参照:https://www.koji007.tokyo/wp-admin/post.php?post=632&action=edit)。

 そもそもオルビエトやビテルボ付近は火山地帯なので、温泉・鉱泉が多く存在している。私も滞伊の長い邦人の方に連れて行ってもらい、下着で入浴したことがある。そばに遺跡があったりして野趣にあふれるものや、プールなどちゃんと色んな設備が整ったテルメだったり、得がたい体験だった。もっとも後者では、浴後に体を流す冷水かと思ったシャワーが、そのまんまの熱水だったのには不意打ちでビックリしたことあるが。お気をつけください。

イタリア最大の古代青銅器群が聖なる浴場から発見される    2022年11月8日

場所は、フィレンツェとローマの中間のようだ

 シエナ近郊のサン・カッチャーノ・デイ・バニSAN CASCIANO DEI BAGNIにある古代の神聖な浴場の発掘調査で、極めて状態の良い24体のブロンズ像群が発見されました。紀元前2世紀から紀元1世紀にかけてのもので、古代イタリアで発見されたブロンズ像の収蔵品としては最大級。これは、1972年にRiace海岸で発見された紀元前5世紀のブロンズ像に匹敵するほど重要な発見だと、マッシモ・オザンナ美術館総監督官は述べている。

 サン・カッチャーノ・デイ・バニーニの温泉と鉱泉は、ヒギア(健康の女神)、アポロン(治癒と病気の神)、アスクレピオス(健康の神)といった医術に長けた神々の介入により、あらゆる病気や状態を治癒すると信じられていた。信心深い人々は、温泉に入ることで、神々と直接触れ合うことができると信じていた。余裕のある人々は、体の不調を表すブロンズやテラコッタの置物や、聖域の公式造幣局で鋳造されたピカピカのコインをお供えしていったのです。すでに6,000枚以上の硬貨が発見されている。

 少なくとも紀元前3世紀には、エトルリア人がこの地に最初の聖域を建設し、1世紀初頭にはローマ人によってより大きな複合施設に拡張された。紀元5世紀には閉鎖され、この浴槽は倒壊した柱で塞がれた。しかし、代々の礼拝者が残した神々の肖像や奉納品の数々は、そのまま残された。

 2019年に聖域の発掘が始まって以来、考古学者たちは、治癒を求める請願者が聖地に残した身体の一部(子宮、ペニス、腕、脚、耳)の形をした例の奉納物を数多く発見している。10月の最初の数週間には、より大きな全身像が池から現れました。熱く濁った池は金属を保存し、多くの像が無傷で残った。大きな像の中には、腕に蛇を巻き付けたヒギエイアの像、アポロの裸体像、髷を結った若者の像などがあります。

 ブロンズ像のほとんどは古代に破壊され、再利用のために溶かされていたため、20数点の発見は非常に重要である。また、エトルリアの影響力の衰退とローマの支配の間の変遷を示すユニークな記録でもある。エトルリア人は、ローマとの戦い(軍事、政治、文化の対立)に敗れた他のイタリヤ民族と同様に、ローマ文化を同化し、ローマの生活様式を取り入れたのである。これらの彫像は、そのデザイン様式と、ブロンズ像に刻まれたラテン語とエトルリア語の碑文が、この過渡期を物語っているのです。碑文には、ペルージャのヴェリンナ家Velimnaやシエナ郊外のマークニ家Marcniなど、エトルリアの有力者が聖なる池に彫像を奉納したことが記されている。

 サン・カッチャーノの町は、このユニークな聖域に大きな計画を立てている。この聖域は考古学公園として整備され、池を見下ろす16世紀の宮殿は、この地から出土した何千もの考古学上の宝物を展示する博物館となる予定である。

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ポンペイにおける親ローマ派プロパガンダと、地元民の反骨精神のせめぎ合い:アエネアス神話をめぐって

 某講演会の準備をしていて見つけた論点です。欧米ではすでに指摘されてますが、銘文とフレスコ画、落書きを関連的に扱った内容は、本邦ではたぶん初演かと(違う!というご指摘お待ちしてます:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。以下、その時のレジメ改訂拡大版を掲載します。

 複雑な前史を持つポンペイは、前1世紀にローマの勢力圏に組込まれ、ローマからかなりの植民を受け入れたことで(一説に4000名と)、住民の中で対ローマに関して微妙な感情のズレが生じていたようで、それが通りに面した表側での皇帝家顕彰と、民家の室内で密かで露骨なパロディー描写の併存というねじれ現象となったのでしょう。

ローマ建国神話の系統図

 女神ウェヌス[アフロディテ]とトロイア貴族アンキセスの間に誕生した英雄アエネアスが都市ローマの始祖で[彼の息子IulusがAlba Longaを創建:イウルス死後、異母弟Silviusが王位を継ぎ、その17代後がRomulusとRemus]、同時にユリウス家(Iulius Caesar, その相続人Octavianus= Augustus)の祖神に位置づけることで、皇帝権の正統性を喧伝していた。

(1)帝都ローマにおけるアウグストゥス家プロパガンダ

 ① Foro Romano北側の「アウグストゥスの広場」Foro di Augusto(アウグストゥスの自弁で建設し、前2年に落成式)

 ② 顕彰記念祭壇「アウグストゥスの平和の祭壇」Ara Pacis Augusti(前9年に元老院奉献)の正面左右の浮彫

左、色彩復元図             ;右、正面図像解説
左上段:マルス神、雌狼とロムルスとレムス;右上段:犠牲を捧げるアエネアス(ないし第二代王ヌマ)

(2) Pompeiiでの皇帝家顕彰の公的建築群

① Forum東南隅、Edificio di Eumachia(VII.9.1)の正門(G)北エクセドラ

  Forum東側の「ウェスパシアヌス神殿」は以前は「アウグストゥス神殿」で、歴代皇帝のゲニウス(守護神)に順次捧げられてきた神殿だった。そして「エウマキアの建造物」は帝都ローマの、アウグストゥスの妻の「リウィアの柱廊」を真似ていたと考えられている。要するにこの界隈はあからさまに皇帝一族顕彰公共建造物地帯だったわけである。

左、 Forum     ⬆  ;右、 H: アエネアス像  J:ロムルス像 
⬆ H       ⬆ J          ;右、⬆  Jの復元碑文

ニッチJの碑文(CIL X 809):Romulus Martis / [f]ilius urbem Romam / [condi]dit et regnavit annos / duodequadraginta isque / primus dux duce hostium / Acrone rege Caeninensium / interfecto spolia opi[ma] / Iovi Feretrio consecra[vit] / receptusque in deoru[m] / numerum Quirinu[s] / appellatu[s est]

「マルス神の子ロムルスは、首都ローマを建設し、38年間統治した。彼は敵の将軍カエニネンセス人の王Acroを殺害し、敵の戦利品をJupiter Feretriusに捧げた最初の将軍だった。そして、神々の中に迎え入れられ、クイリヌスQuirinusと呼ばれた」

② アエネアス一族のトロイア脱出図像

左、Iulus, Aeneas, Anchises;中、背後の女性は母Venus女神;右、Anchises捧持神像はPenates

(テラコッタ製:Pompeii,VII.2.16);(大理石製:Aphrodisias出土);(描画: 16世紀半ば)

(3)Pompeii, IX.13.5:Casa dei M.Fabius Ululitremulus

左、1913年発掘当時の写真;右、1961年の写真:フレスコ画は既にほとんど剥落
左、中央出入口(未発掘)の左右の壁にフレスコ画;中、Romulus図像;右、Aeneas一族のトロイア脱出図

  -1:出入口の左側の絵の下に選挙推薦文:CIL IV 7963

   C(aium)  Cuspium  Pansam  et / L(ucium)  Popidium  L(uci)  f(ilium)  Secundum  aed(iles)  o(ro)  v(os)  f(aciatis) / Fabius  Ululitremulus  cum  Sul(l)a  rog(at) 

  「Gaius Cuspius PansaとLucius Popidius Secundus, Luciusの息子を、造営官にするよう皆様方に懇願する。Fabius UlulitremulusがSullaと共に推薦する」

  -2:出入口の右側の絵の下に落書き:CIL IV 913

   Fullones ululamque cano non arma virumq(ue) 

  「洗濯屋どもと一羽のふくろうを、私は歌う;戦いと英雄ではなく」

  元歌:Vergilius, Aeneis, I.1:arma virumque cano 「戦いとひとりの英雄を、私は歌う」

  解釈:この家の主人が、その時代にローマ皇室が大々的に宣伝していたプロパガンダに追従してわざわざ玄関の外壁に麗々しく描いているのを見て、反骨精神旺盛な根っからのポンペイ住民が、明らかにアイロニカルな意図で書きつけた落書き。なお、この家の主人の洗濯・縮絨業者Ululitremulusの名前と、洗濯・縮絨業者の守り神のミネルウァ女神の聖鳥が「ふくろう」ululaをかけた言葉遊び。また、フォルムの壮麗な建築物を奉献したエウマキアも洗濯・縮絨業者だったこととも関連していたのだろう。

 [参考図版]Pompeii, VI.8.20「L.ウェラニウス・ヒュプサエウスの洗濯・縮絨工房」Fullonica di L.Veranius Hypsaeus 出土の角柱に描かれたフレスコ画。正面上段に、布を脱色するため籐製のかごの中で硫黄を焚く段取の絵に聖鳥のふくろうが描かれている。現在は国立ナポリ考古学博物館所蔵。このフレスコ画についていずれ多少論じたいと思っている。そのキモは、この下段のフレスコ画なので、先のない身でもあり、おまけついでに併せてアップしておこう。

右が復元図版:足で踏んだりして縮絨ないし洗濯している場面だが、描かれた作業従事者(奴隷)4名中なんと幼そうな子供が3名を占めている。これに注目しないでどうする!

(4)アエネアス一族を皮肉って笑い飛ばすフレスコ画:Pompeii, VI.17 Insula Occidentalis, Diego Cuomo所有農地masseriaの遺跡の室内から1760年出土(スタビアエ出土としている叙述があるのは、以下の【ポンペイ小史】末尾参照)

左、アエネアス一族の脱出   ;右、その修復図(部分的に不正確)
ロムルスの凱旋:背中にトロパイオン等を背負っているのだろうし、像の前後に文字らしき痕跡も見えるが、いずれも不明瞭

「脱出」フレスコ画での露骨な二つのパロディー:

  •  巨大男根をぶら下げた犬頭猿人chynocephalus(頭が犬、体が猿、足は人間):それが、自制心のない非理性的存在をイメージすると同時に、「犬」(canis) からの連想で、ウェルギリウス『アエネーイス』冒頭の一句「私は歌う」(cano)から「汝は歌う」(canis) の、かなり高度な駄洒落ともなっている。ちなみに、カエサルもアウグストゥスも、同性愛を含む性的不行跡については民衆の揶揄の対象だった(スエトニウス『ローマ皇帝伝』(上),岩波文庫:Suetonius, De Vita Caesarum, I.49-52;II, 65-71) 。
  •  父アンキセスは、頭にヴェールをかぶり(礼拝時の所作か)、家の守護神像の代わりにサイコロを振る箱を持っている:賭博好きなアウグストゥスへの皮肉(Suetonius, De Vita Caesarum, II, 71.2-4)であると同時に、賭け事で高い賽の目「アタリ」をVenus(ユリウス家の祖神)といい、低目「スカ」をcanisと称していた、とも。

通説によるポンペイ拡張図(異説あり)

赤、サムニウム時代の街;青、前4世紀の最初の拡張;緑、二度目の拡張;黄、前89年以降のローマ帝国による拡張
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古代ローマの未解決遺物:spintriae【閲覧注意(^_^;】

 「spintria」とは、辞書的にはこの言葉は「男色」とか「男娼」といったきわものめいた名称だが、英訳では「セックス・トークン」。この貨幣型をしたトークン、実は私もおそらく模造品ながら(新品同様の輝きだったので)ebayでの出物をみつけ、教材としてチェコから6枚ほど入手している。価格は購入時で¥5620。

 上掲のように、20ミリから23ミリのやや小型の貨幣状の裏表に数字とセックス体位の図像が打刻されているのが通例である(なぜかほとんどが男女ペア:これを根拠にローマ世界ではギリシアと異なり同性愛は実際には低調だったという研究者もいるようで、私などすぐさま納得されそうになる)。数字と図像がどれでも共通していないので、相関関係はない。数字はI からXVIまで確認されている(ごく少数ではあるがそれ以上もある)。また図像には以下のような男根とか動物同士の獣姦を描いたものもあるらしい。材質は通常真鍮か青銅製。

 解説によると、発行年代はティベリウス帝代(治世は後14-37年)の22-37年と、ごく限られていたと言われている(もちろん、別説あって、70-75年発行や75-90年発行もあったとする者もいる)。

 最大の謎は、なんのために制作されたのか、それがよく分かっていない。

数字が体位による値段であるという説もあるが、数字が同じでも図像が違っていたりするので、却下(ただし、当時の娼婦の相場は2-10/20アスらしかったので、 一応XVIまでの数字なのはリーゾナブルであるが)。

 旅人や兵士が言葉の通じない異境の地で買春する場合に、なにかの符丁として使ったというのも、そういう界隈では当然ラテン語であれば娼婦も学習するのは、戦後日本で確認済みであるはずだ。まあゲルマン人や東方諸民族の雑多な補助軍兵士であればそうはいかないかもしれないが。いずれにせよ現金使用が避けられる事情が説明されないと納得できないわけであるが。

 また一説には類例として、こういうのは近代でも、アメリカの辺境、ボーア戦争時代の南アフリカ、世紀末のマンハッタンの例でたくさんあった由で、1919年、Upton Sinclairは、売春宿の利用者が前金で出納係に支払い、いわゆる「ブラス・チェックbrass check」を受け取り、その後に風俗嬢のサービスと交換できるトークンを受け取るシステムについて、若い頃に学んだと述べている、らしい。

ともかく しかし考古学的に出土してはいるが(とはいえ、浴場からで、肝心の売春宿から出ていないという事実もあるらしい)、文献学的には正確に触れられることがないことも解せないわけだ。確かにスエトニウス「ティベリウス伝」43にはその単語が出てくるが、これは3人一組の性技を示したものだし(これがspintriaのそもそもの原意である:なのに、男子の同性愛と示していた語がなぜ男女の営みに転嫁してしまったのか、私は疑問視せざるをえない)、同じく「ティベリウス伝」58の文言は、前後の文脈からして現在のトークンと関連付けるのは、無理筋といわざるをえない:ティベリウスが厳格な法規実施を命じたので、「あげくに、アウグストゥスの像の前で奴隷を殴っても,着物を着替えても,アウグストゥス像を刻印した貨幣や指輪を公衆便所や淫売屋へ持ちこんでも、・・・このようなことまで死刑の対象となったのである」。著作年代がドミティアヌス期のマルティアリス『エピグランマタ』8.78.9のほうはもっと信頼できない。

 実際のコインにはごく一部とはいえローマ皇帝の図像が打刻されているので、買春といった特殊な商取引でのその使用を避けるためだった、という説もあるが(例証として挙げられるのは、Dion Cassios,78.16.5;これはカラカッラ時代のことになる)、当時買春は決して卑下すべき職業ではなかったので、ちょっと納得しがたいものがある。

 ただ私的には、現金を持たせることを避けるために、何らかの報酬対価としてのセックス券だったとするなら、奴隷用だったというのなら納得できようが、その場合こんな込み入った貨幣状のものを与えるとも思えないわけで。むしろ図像に目を奪われるのではなく、まったく別の視点、ゲームで使用されていたのでは、という考えも当然あるし、ちょっと前にアップしたポンペイの郊外浴場脱衣所での脱衣箱の数字とその奧の体位図との関連で、脱衣籠の預かり証だったという説まである。

 いずれにしても、私としてはこれくらいにしておく。心ある人が以下の最新刊を読破して納得いく結論なり仮説を提示してくれることを期待したい。Webからただで降ろせるのだし。Filippo Pietro Alessandro Cislaghi, Lasciva Numismata :Le tessere erotiche romane, Anno Accademico 2019/2020.

 これを書いた直ぐ後に、以下を知った。色々新知見を手際よくまとめて提示しているので全文差し替えしたいところだが、私に手直しする余裕が残されているだろうか–ないような気がする。

 Franco Guillermo Mazzanti, Alla scoperta di storia e segreti di una serie di intriganti oggetti para numismatici, le spintriae della prima età imperiale con scene erotiche:2022/2/2(https://www.cronacanumismatica.com/cli-speciali-di-cn-spintriae-le-tessere-erotiche-dellantica-roma/)

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私には見ることが叶わない「明日」のローマ遺跡

 社会人対象の読書会の準備でググっていたら、たぶん2016年の同じコンペの受賞グループの報告と、参加したあるグループのHPを見つけた。おそらく二,三十年あとのVia dei Fori imperiali周辺の風景はこんなになるのだろうなと思うのだが、残念ながら私には見ることできない「明日」の遺跡風景なのである。

http://www.linazasorosanchez.com/?portfolio=2016concurso-internacional-para-la-puesta-en-valor-de-los-foros-imperiales-en-roma&lang=en

https://www.metalocus.es/en/news/three-winners-competition-dei-fori-imperiali

 しかし、約100年前のこの付近の景観はこうだった。

 それがIl Duceムッソリーニの大号令で、1922年10月の「ローマ進軍」の10周年記念に間に合わせるべく11ヶ月で、黄色の建造物を排除して赤色線の道路を作ったわけだが、そこに埋まっていた中世以降の建物は破壊され、辛うじて古代ローマ時代のものは残されたり埋め戻されたわけだが、なにせ独裁者のお声がかかりの突貫工事だったので、オスティア同様考古学的にはまったく杜撰な作業となった。
この写真をよくよくみると、簡便鉄道の線路上のトロッコを実際に引いていたのはロバ・ラバだったようだ。なるほど。線路を付設しての動力が動物だったのは、私にとって新知見だった。

 あげく、1963年制作のイタリア・フランス合作映画「昨日・今日・明日」IERI, OGGI, DOMANI(ビットリオ・デ・シーカ監督:主演ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ)のように、イエッリとオッジの景観は以下のごとし。

 こうして建設された諸皇帝広場通りをファシスト軍が国威発揚で堂々行進した。以下はいずれも1938年の写真。

 このプロセスについての優れたブログをみつけた。今から7年前の投稿だが、学ぶべき事が多い。Jonathan Rome & Gretchen Van Horne「The Life and Death of Via dei Fori Imperiali: 1932-2015」(https://romeonrome.com/2015/02/the-life-and-death-of-via-dei-fori-imperiali-1932-2015/)。全文引用したいほどの内容だ。是非ご一読を。なお参考までに。最後あたりで登場するローマ市長イニャツィオ・ロベルト・マリーア・マリーノは、2013年から2015年10月30日までその職にあった。

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