投稿者: k.toyota

トスカーナの温泉跡から青銅像24体その他出土

 在伊の藤井慈子さんから速攻で情報が届いた。以下の叙述はhttp://www.thehistoryblog.com/による。

 こういう遺物ははたして、冥界に通じる聖なる温泉・鉱泉に奉献されたものか、それともキリスト教勢力によって忌むべき異教の聖泉をつぶすべく廃棄されたものか、判断がむつかしい。発掘者たちは立像等の破損がわずかなので、前者とみているようだが、どうだろう。上からの命令でしかたなく地元民が形だけ埋め立て、それへの信仰はその後も絶えることなく継続された、少なくともしばらくは、と考えたいところだ。実際には、うまく立ち回って、キリスト教の聖人がらみの聖泉だとでっち上げて生き残った聖所もあるのだし。

 生真面目に伝統信仰に固執するのではなく、新興勢力を受け入れて、キリスト教の祠をぶっ立てるなり、聖母顕現の噂を振り撒けば生き残れたかもしれないのだ。なにしろ聖地は移動せず、なのだから(ケルト世界のフランスの例だが、以下参照:https://www.koji007.tokyo/wp-admin/post.php?post=632&action=edit)。

 そもそもオルビエトやビテルボ付近は火山地帯なので、温泉・鉱泉が多く存在している。私も滞伊の長い邦人の方に連れて行ってもらい、下着で入浴したことがある。そばに遺跡があったりして野趣にあふれるものや、プールなどちゃんと色んな設備が整ったテルメだったり、得がたい体験だった。もっとも後者では、浴後に体を流す冷水かと思ったシャワーが、そのまんまの熱水だったのには不意打ちでビックリしたことあるが。お気をつけください。

イタリア最大の古代青銅器群が聖なる浴場から発見される    2022年11月8日

場所は、フィレンツェとローマの中間のようだ

 シエナ近郊のサン・カッチャーノ・デイ・バニSAN CASCIANO DEI BAGNIにある古代の神聖な浴場の発掘調査で、極めて状態の良い24体のブロンズ像群が発見されました。紀元前2世紀から紀元1世紀にかけてのもので、古代イタリアで発見されたブロンズ像の収蔵品としては最大級。これは、1972年にRiace海岸で発見された紀元前5世紀のブロンズ像に匹敵するほど重要な発見だと、マッシモ・オザンナ美術館総監督官は述べている。

 サン・カッチャーノ・デイ・バニーニの温泉と鉱泉は、ヒギア(健康の女神)、アポロン(治癒と病気の神)、アスクレピオス(健康の神)といった医術に長けた神々の介入により、あらゆる病気や状態を治癒すると信じられていた。信心深い人々は、温泉に入ることで、神々と直接触れ合うことができると信じていた。余裕のある人々は、体の不調を表すブロンズやテラコッタの置物や、聖域の公式造幣局で鋳造されたピカピカのコインをお供えしていったのです。すでに6,000枚以上の硬貨が発見されている。

 少なくとも紀元前3世紀には、エトルリア人がこの地に最初の聖域を建設し、1世紀初頭にはローマ人によってより大きな複合施設に拡張された。紀元5世紀には閉鎖され、この浴槽は倒壊した柱で塞がれた。しかし、代々の礼拝者が残した神々の肖像や奉納品の数々は、そのまま残された。

 2019年に聖域の発掘が始まって以来、考古学者たちは、治癒を求める請願者が聖地に残した身体の一部(子宮、ペニス、腕、脚、耳)の形をした例の奉納物を数多く発見している。10月の最初の数週間には、より大きな全身像が池から現れました。熱く濁った池は金属を保存し、多くの像が無傷で残った。大きな像の中には、腕に蛇を巻き付けたヒギエイアの像、アポロの裸体像、髷を結った若者の像などがあります。

 ブロンズ像のほとんどは古代に破壊され、再利用のために溶かされていたため、20数点の発見は非常に重要である。また、エトルリアの影響力の衰退とローマの支配の間の変遷を示すユニークな記録でもある。エトルリア人は、ローマとの戦い(軍事、政治、文化の対立)に敗れた他のイタリヤ民族と同様に、ローマ文化を同化し、ローマの生活様式を取り入れたのである。これらの彫像は、そのデザイン様式と、ブロンズ像に刻まれたラテン語とエトルリア語の碑文が、この過渡期を物語っているのです。碑文には、ペルージャのヴェリンナ家Velimnaやシエナ郊外のマークニ家Marcniなど、エトルリアの有力者が聖なる池に彫像を奉納したことが記されている。

 サン・カッチャーノの町は、このユニークな聖域に大きな計画を立てている。この聖域は考古学公園として整備され、池を見下ろす16世紀の宮殿は、この地から出土した何千もの考古学上の宝物を展示する博物館となる予定である。

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ポンペイにおける親ローマ派プロパガンダと、地元民の反骨精神のせめぎ合い:アエネアス神話をめぐって

 某講演会の準備をしていて見つけた論点です。欧米ではすでに指摘されてますが、銘文とフレスコ画、落書きを関連的に扱った内容は、本邦ではたぶん初演かと(違う!というご指摘お待ちしてます:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。以下、その時のレジメ改訂拡大版を掲載します。

 複雑な前史を持つポンペイは、前1世紀にローマの勢力圏に組込まれ、ローマからかなりの植民を受け入れたことで(一説に4000名と)、住民の中で対ローマに関して微妙な感情のズレが生じていたようで、それが通りに面した表側での皇帝家顕彰と、民家の室内で密かで露骨なパロディー描写の併存というねじれ現象となったのでしょう。

ローマ建国神話の系統図

 女神ウェヌス[アフロディテ]とトロイア貴族アンキセスの間に誕生した英雄アエネアスが都市ローマの始祖で[彼の息子IulusがAlba Longaを創建:イウルス死後、異母弟Silviusが王位を継ぎ、その17代後がRomulusとRemus]、同時にユリウス家(Iulius Caesar, その相続人Octavianus= Augustus)の祖神に位置づけることで、皇帝権の正統性を喧伝していた。

(1)帝都ローマにおけるアウグストゥス家プロパガンダ

 ① Foro Romano北側の「アウグストゥスの広場」Foro di Augusto(アウグストゥスの自弁で建設し、前2年に落成式)

 ② 顕彰記念祭壇「アウグストゥスの平和の祭壇」Ara Pacis Augusti(前9年に元老院奉献)の正面左右の浮彫

左、色彩復元図             ;右、正面図像解説
左上段:マルス神、雌狼とロムルスとレムス;右上段:犠牲を捧げるアエネアス(ないし第二代王ヌマ)

(2) Pompeiiでの皇帝家顕彰の公的建築群

① Forum東南隅、Edificio di Eumachia(VII.9.1)の正門(G)北エクセドラ

  Forum東側の「ウェスパシアヌス神殿」は以前は「アウグストゥス神殿」で、歴代皇帝のゲニウス(守護神)に順次捧げられてきた神殿だった。そして「エウマキアの建造物」は帝都ローマの、アウグストゥスの妻の「リウィアの柱廊」を真似ていたと考えられている。要するにこの界隈はあからさまに皇帝一族顕彰公共建造物地帯だったわけである。

左、 Forum     ⬆  ;右、 H: アエネアス像  J:ロムルス像 
⬆ H       ⬆ J          ;右、⬆  Jの復元碑文

ニッチJの碑文(CIL X 809):Romulus Martis / [f]ilius urbem Romam / [condi]dit et regnavit annos / duodequadraginta isque / primus dux duce hostium / Acrone rege Caeninensium / interfecto spolia opi[ma] / Iovi Feretrio consecra[vit] / receptusque in deoru[m] / numerum Quirinu[s] / appellatu[s est]

「マルス神の子ロムルスは、首都ローマを建設し、38年間統治した。彼は敵の将軍カエニネンセス人の王Acroを殺害し、敵の戦利品をJupiter Feretriusに捧げた最初の将軍だった。そして、神々の中に迎え入れられ、クイリヌスQuirinusと呼ばれた」

② アエネアス一族のトロイア脱出図像

左、Iulus, Aeneas, Anchises;中、背後の女性は母Venus女神;右、Anchises捧持神像はPenates

(テラコッタ製:Pompeii,VII.2.16);(大理石製:Aphrodisias出土);(描画: 16世紀半ば)

(3)Pompeii, IX.13.5:Casa dei M.Fabius Ululitremulus

左、1913年発掘当時の写真;右、1961年の写真:フレスコ画は既にほとんど剥落
左、中央出入口(未発掘)の左右の壁にフレスコ画;中、Romulus図像;右、Aeneas一族のトロイア脱出図

  -1:出入口の左側の絵の下に選挙推薦文:CIL IV 7963

   C(aium)  Cuspium  Pansam  et / L(ucium)  Popidium  L(uci)  f(ilium)  Secundum  aed(iles)  o(ro)  v(os)  f(aciatis) / Fabius  Ululitremulus  cum  Sul(l)a  rog(at) 

  「Gaius Cuspius PansaとLucius Popidius Secundus, Luciusの息子を、造営官にするよう皆様方に懇願する。Fabius UlulitremulusがSullaと共に推薦する」

  -2:出入口の右側の絵の下に落書き:CIL IV 913

   Fullones ululamque cano non arma virumq(ue) 

  「洗濯屋どもと一羽のふくろうを、私は歌う;戦いと英雄ではなく」

  元歌:Vergilius, Aeneis, I.1:arma virumque cano 「戦いとひとりの英雄を、私は歌う」

  解釈:この家の主人が、その時代にローマ皇室が大々的に宣伝していたプロパガンダに追従してわざわざ玄関の外壁に麗々しく描いているのを見て、反骨精神旺盛な根っからのポンペイ住民が、明らかにアイロニカルな意図で書きつけた落書き。なお、この家の主人の洗濯・縮絨業者Ululitremulusの名前と、洗濯・縮絨業者の守り神のミネルウァ女神の聖鳥が「ふくろう」ululaをかけた言葉遊び。また、フォルムの壮麗な建築物を奉献したエウマキアも洗濯・縮絨業者だったこととも関連していたのだろう。

 [参考図版]Pompeii, VI.8.20「L.ウェラニウス・ヒュプサエウスの洗濯・縮絨工房」Fullonica di L.Veranius Hypsaeus 出土の角柱に描かれたフレスコ画。正面上段に、布を脱色するため籐製のかごの中で硫黄を焚く段取の絵に聖鳥のふくろうが描かれている。現在は国立ナポリ考古学博物館所蔵。このフレスコ画についていずれ多少論じたいと思っている。そのキモは、この下段のフレスコ画なので、先のない身でもあり、おまけついでに併せてアップしておこう。

右が復元図版:足で踏んだりして縮絨ないし洗濯している場面だが、描かれた作業従事者(奴隷)4名中なんと幼そうな子供が3名を占めている。これに注目しないでどうする!

(4)アエネアス一族を皮肉って笑い飛ばすフレスコ画:Pompeii, VI.17 Insula Occidentalis, Diego Cuomo所有農地masseriaの遺跡の室内から1760年出土(スタビアエ出土としている叙述があるのは、以下の【ポンペイ小史】末尾参照)

左、アエネアス一族の脱出   ;右、その修復図(部分的に不正確)
ロムルスの凱旋:背中にトロパイオン等を背負っているのだろうし、像の前後に文字らしき痕跡も見えるが、いずれも不明瞭

「脱出」フレスコ画での露骨な二つのパロディー:

  •  巨大男根をぶら下げた犬頭猿人chynocephalus(頭が犬、体が猿、足は人間):それが、自制心のない非理性的存在をイメージすると同時に、「犬」(canis) からの連想で、ウェルギリウス『アエネーイス』冒頭の一句「私は歌う」(cano)から「汝は歌う」(canis) の、かなり高度な駄洒落ともなっている。ちなみに、カエサルもアウグストゥスも、同性愛を含む性的不行跡については民衆の揶揄の対象だった(スエトニウス『ローマ皇帝伝』(上),岩波文庫:Suetonius, De Vita Caesarum, I.49-52;II, 65-71) 。
  •  父アンキセスは、頭にヴェールをかぶり(礼拝時の所作か)、家の守護神像の代わりにサイコロを振る箱を持っている:賭博好きなアウグストゥスへの皮肉(Suetonius, De Vita Caesarum, II, 71.2-4)であると同時に、賭け事で高い賽の目「アタリ」をVenus(ユリウス家の祖神)といい、低目「スカ」をcanisと称していた、とも。

通説によるポンペイ拡張図(異説あり)

赤、サムニウム時代の街;青、前4世紀の最初の拡張;緑、二度目の拡張;黄、前89年以降のローマ帝国による拡張
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古代ローマの未解決遺物:spintriae【閲覧注意(^_^;】

 「spintria」とは、辞書的にはこの言葉は「男色」とか「男娼」といったきわものめいた名称だが、英訳では「セックス・トークン」。この貨幣型をしたトークン、実は私もおそらく模造品ながら(新品同様の輝きだったので)ebayでの出物をみつけ、教材としてチェコから6枚ほど入手している。価格は購入時で¥5620。

 上掲のように、20ミリから23ミリのやや小型の貨幣状の裏表に数字とセックス体位の図像が打刻されているのが通例である(なぜかほとんどが男女ペア:これを根拠にローマ世界ではギリシアと異なり同性愛は実際には低調だったという研究者もいるようで、私などすぐさま納得されそうになる)。数字と図像がどれでも共通していないので、相関関係はない。数字はI からXVIまで確認されている(ごく少数ではあるがそれ以上もある)。また図像には以下のような男根とか動物同士の獣姦を描いたものもあるらしい。材質は通常真鍮か青銅製。

 解説によると、発行年代はティベリウス帝代(治世は後14-37年)の22-37年と、ごく限られていたと言われている(もちろん、別説あって、70-75年発行や75-90年発行もあったとする者もいる)。

 最大の謎は、なんのために制作されたのか、それがよく分かっていない。

数字が体位による値段であるという説もあるが、数字が同じでも図像が違っていたりするので、却下(ただし、当時の娼婦の相場は2-10/20アスらしかったので、 一応XVIまでの数字なのはリーゾナブルであるが)。

 旅人や兵士が言葉の通じない異境の地で買春する場合に、なにかの符丁として使ったというのも、そういう界隈では当然ラテン語であれば娼婦も学習するのは、戦後日本で確認済みであるはずだ。まあゲルマン人や東方諸民族の雑多な補助軍兵士であればそうはいかないかもしれないが。いずれにせよ現金使用が避けられる事情が説明されないと納得できないわけであるが。

 また一説には類例として、こういうのは近代でも、アメリカの辺境、ボーア戦争時代の南アフリカ、世紀末のマンハッタンの例でたくさんあった由で、1919年、Upton Sinclairは、売春宿の利用者が前金で出納係に支払い、いわゆる「ブラス・チェックbrass check」を受け取り、その後に風俗嬢のサービスと交換できるトークンを受け取るシステムについて、若い頃に学んだと述べている、らしい。

ともかく しかし考古学的に出土してはいるが(とはいえ、浴場からで、肝心の売春宿から出ていないという事実もあるらしい)、文献学的には正確に触れられることがないことも解せないわけだ。確かにスエトニウス「ティベリウス伝」43にはその単語が出てくるが、これは3人一組の性技を示したものだし(これがspintriaのそもそもの原意である:なのに、男子の同性愛と示していた語がなぜ男女の営みに転嫁してしまったのか、私は疑問視せざるをえない)、同じく「ティベリウス伝」58の文言は、前後の文脈からして現在のトークンと関連付けるのは、無理筋といわざるをえない:ティベリウスが厳格な法規実施を命じたので、「あげくに、アウグストゥスの像の前で奴隷を殴っても,着物を着替えても,アウグストゥス像を刻印した貨幣や指輪を公衆便所や淫売屋へ持ちこんでも、・・・このようなことまで死刑の対象となったのである」。著作年代がドミティアヌス期のマルティアリス『エピグランマタ』8.78.9のほうはもっと信頼できない。

 実際のコインにはごく一部とはいえローマ皇帝の図像が打刻されているので、買春といった特殊な商取引でのその使用を避けるためだった、という説もあるが(例証として挙げられるのは、Dion Cassios,78.16.5;これはカラカッラ時代のことになる)、当時買春は決して卑下すべき職業ではなかったので、ちょっと納得しがたいものがある。

 ただ私的には、現金を持たせることを避けるために、何らかの報酬対価としてのセックス券だったとするなら、奴隷用だったというのなら納得できようが、その場合こんな込み入った貨幣状のものを与えるとも思えないわけで。むしろ図像に目を奪われるのではなく、まったく別の視点、ゲームで使用されていたのでは、という考えも当然あるし、ちょっと前にアップしたポンペイの郊外浴場脱衣所での脱衣箱の数字とその奧の体位図との関連で、脱衣籠の預かり証だったという説まである。

 いずれにしても、私としてはこれくらいにしておく。心ある人が以下の最新刊を読破して納得いく結論なり仮説を提示してくれることを期待したい。Webからただで降ろせるのだし。Filippo Pietro Alessandro Cislaghi, Lasciva Numismata :Le tessere erotiche romane, Anno Accademico 2019/2020.

 これを書いた直ぐ後に、以下を知った。色々新知見を手際よくまとめて提示しているので全文差し替えしたいところだが、私に手直しする余裕が残されているだろうか–ないような気がする。

 Franco Guillermo Mazzanti, Alla scoperta di storia e segreti di una serie di intriganti oggetti para numismatici, le spintriae della prima età imperiale con scene erotiche:2022/2/2(https://www.cronacanumismatica.com/cli-speciali-di-cn-spintriae-le-tessere-erotiche-dellantica-roma/)

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私には見ることが叶わない「明日」のローマ遺跡

 社会人対象の読書会の準備でググっていたら、たぶん2016年の同じコンペの受賞グループの報告と、参加したあるグループのHPを見つけた。おそらく二,三十年あとのVia dei Fori imperiali周辺の風景はこんなになるのだろうなと思うのだが、残念ながら私には見ることできない「明日」の遺跡風景なのである。

http://www.linazasorosanchez.com/?portfolio=2016concurso-internacional-para-la-puesta-en-valor-de-los-foros-imperiales-en-roma&lang=en

https://www.metalocus.es/en/news/three-winners-competition-dei-fori-imperiali

 しかし、約100年前のこの付近の景観はこうだった。

 それがIl Duceムッソリーニの大号令で、1922年10月の「ローマ進軍」の10周年記念に間に合わせるべく11ヶ月で、黄色の建造物を排除して赤色線の道路を作ったわけだが、そこに埋まっていた中世以降の建物は破壊され、辛うじて古代ローマ時代のものは残されたり埋め戻されたわけだが、なにせ独裁者のお声がかかりの突貫工事だったので、オスティア同様考古学的にはまったく杜撰な作業となった。
この写真をよくよくみると、簡便鉄道の線路上のトロッコを実際に引いていたのはロバ・ラバだったようだ。なるほど。線路を付設しての動力が動物だったのは、私にとって新知見だった。

 あげく、1963年制作のイタリア・フランス合作映画「昨日・今日・明日」IERI, OGGI, DOMANI(ビットリオ・デ・シーカ監督:主演ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ)のように、イエッリとオッジの景観は以下のごとし。

 こうして建設された諸皇帝広場通りをファシスト軍が国威発揚で堂々行進した。以下はいずれも1938年の写真。

 このプロセスについての優れたブログをみつけた。今から7年前の投稿だが、学ぶべき事が多い。Jonathan Rome & Gretchen Van Horne「The Life and Death of Via dei Fori Imperiali: 1932-2015」(https://romeonrome.com/2015/02/the-life-and-death-of-via-dei-fori-imperiali-1932-2015/)。全文引用したいほどの内容だ。是非ご一読を。なお参考までに。最後あたりで登場するローマ市長イニャツィオ・ロベルト・マリーア・マリーノは、2013年から2015年10月30日までその職にあった。

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ポンペイ、郊外浴場「脱衣場」の特殊フレスコ画【18禁(^^)】

 読書会での準備でまとめた成果を公表する。もうひとつ、アエネイアス関係画像も面白かったので、生きていたらいずれ。

 私はポンペイの「郊外浴場」(VII.16a)にこれまで三回以上は立ち入っている。最初、考古管理事務所の許可を得たのが一回、あとはなぜか行ってみたら自由に入れて(2016年11月23日から一般見学が可能になったからだが、そんな情報事前に得られてなかったので:そして例のごとくイタリアなので、所長が替わったこともあり、現在も公開されているかどうかは不明)、あるときなどは先生に引率されたイタリア人男女高校生のご一行様と一緒のことあって、彼らが大騒ぎしているのを見聞したので、あっち方面には限りなく開放されていると思われる彼らにとっても、かなり面白い見学だったようだ。

左、郊外浴場を東側から見る                  右、平面図

Room d:脱衣場 apodyterium の入口から見た右壁:この部屋は奥行きのある長方形であるが、件の壁画は奥まったほうにのみ描かれている。手前半分以上の壁の現況には、上部に茶色の枠組みと花綱模様めいた図案が描かれ、下部は黒色に塗られている。

想像図:John R.Clarke, Looking at Laughter, U. of California Press, 2007, Plate 23.
右下にわずかに見えるのは、部屋dの右出入口

 下図は、部屋の奥の3面の写真

向かって左壁の中・上部はすべて剥落、正面は脱衣籠部分と格子模様の下部のみ残存

 フレスコ画がほぼ完全に残っているのは右壁だけで、しかもそれを子細に眺めてみると最初の絵の上に格子模様を重ね描きしたような痕跡もあるし、発掘時にはその上にさらに塗りつぶしの重ね塗りがされていたらしい。

 その右壁の奥の問題の絵画の全景が以下。全体の描き方の流れとして左下から右上となっていて、手前に衣服を入れる脱衣籠が縦長に、ローマ数字でIからVIIIまで番号が振られ、その奧にベッド上での男女の性的体位が描かれている。黒色の縦・横の区切り線等は後からの重ね描きと思われる。

以下、詳細に見る。最初にNo.IとNo.II:以下、画像は番号順に右から左に見ていく。

No.Iが女性上位(騎乗位)で、ローマでは好まれた画題、No.IIは男性がバックから

次にNo.IIIとNo.IV:

No.IIIが乳バンドした女性によるフェラティオ、No.IVは着衣の男性によるクンニリングス(男の視線が面白い)

次は問題の箇所、No.VとNo.VI:

No.Vは、後からの重ね描きがかなり邪魔であるが、私は頭髪に注目して女性同士のレスビアンと考える。しかし左側を男性とみなす説もある:以下の線描画はたぶんそういう解釈か;No.VIはバックから攻める男・尻を差し出す男と後背位の女の3連性交図

No. Vの部分拡大図

後に付加された黒枠が邪魔であるが、左に立っている人物の左肩に相方の足が持ち上げられているのが特徴的

次も問題の、No.VIIとNo.VIII:

No.VIIは後背位でつながった男・男と、右の男にフェラしている女とベッドの端からその女にクンニしている女の四連性行図
左図はそれを図示したもの

さて、No.VIIIはというと、これがいささか場違いな画題なのだが・・・:

ベッドに座り、冊子本を開いて見物人の方に示している若者のように見えるが(文字で格言が書かれていたかも知れない)、より問題なのは彼の股間で、ささやかな男根と大きくふくらんだ睾丸が描かれている。睾丸水腫か、脱腸(鼠径ヘルニア)のように思えるのだが、一説に、彼は知性を象徴してる人物で、だから本を示し、男根もそれを象徴して理性的という意味で小さい包茎で示されている、と解釈されてもいるが、さてさて。

以上が右壁で、次に、奥の壁の脱衣籠図の下部が(上部に描かれていたはずの体位図は消失)、ローマ数字でX-XVI と、7つ描かれている。但し、描き方の方向が左上から右下となっていて、右壁とは違うのは若干私には違和感ある。

 おそらくこの調子だと、すべて消失してしまった左壁にも右壁同様に8つの衣類籠が描かれていたのかもしれないが、いずれにせよ、失われてしまった空間にどんな性的体位図が描かれていたことやら。日本ではその類いの体位48手と称しているようだが(その場合、男女は一対一であろうが)、ここで合計23手が描かれていたとすると、かなり壮観だったと思われる。

 しかし、最終的にすべて塗り込まれていたり、それ以前にも黒い太線で何ごとか描き直されている様子から察するに、この画題が利用者すべてから賛同を得ていたようには思えない節が感じられもする。部屋手前部分の茶色の格子模様との関連性の可能性にも気付かざるをえない。

【付録】さて、最初に示した平面図をご覧いただくと、この脱衣場「d」の外の壁沿いの右通路に沿って逆「く」の字型に階段が描かれている。そこを登ると崖を利用した二階に通じるのだが(崖の斜面を利用しているので、二階だからといってその下に一階があるわけではない)、そこがこの「郊外浴場」付設の売春宿だった(それがnと水色に塗られたo)。私はトイレつながりで許可を得て二階を訪問したことがある。そこは平面図で「n」の三角空間で、入口から入って左の壁に、例のトイレの神様のフォルトゥーナ女神が描かれていた。

右がトイレの入口から中を覗いた写真で、向かいの壁の右下に便座下の溝がみえる:左が件のフレスコ画

【2021/5/15のブログ参照】

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ローマの水・イギリスの水

 画像チェックしていたら偶然1995年のサバティカル時の写真が出てきた。ローマに滞在したとき、しょっぱな何に驚いたかというと、お茶を飲もうと水道水を湯に沸かすととんでもない現象に出会ったことだ。湯に雪が降ったようになるのである。

白い粒子は言うまでもなく石灰である

 そしてこれは写真に撮ってはいないが、紅茶や緑茶の葉っぱやティバッグを入れると、湯が対流しているのが目視できる、あれはなんだろうか「かす」みたいなものが水中をぐるぐる回り、あろうことか湯の表面に虹色に光る金属膜みたいなものさえ。

 もちろん飲んでおいしいものではなかったので、母が持たせてくれた緑茶はすべて捨てた。そのあとで在伊が長い邦人に聞いた所によると、日本茶は、一度湧かした湯の上澄みをとって、それをも一度湧かし、その上澄みで淹れると飲めるようになるのだそうだ。・・・なるほど。

 それで体感的に、あの石灰分の多いイタリアの水に合うのがエスプレッソなんだろう、と思ったわけ。そうそう思い出した。アルル方面めざして鉄道でアルプスの西の国境を越えた所の、フランスのChambéry駅だったと記憶するが、深夜にそこの自販機でエスプレッソ飲んでみたが、すでに美味しくなかった。コクと香りがない。またスペインの東海岸を列車で南から北上していくにつれ、徐々にエスプレッソらしくなってきたのもいい体験だった。要するにエスプレッソの世界はアルプス山脈の南側なのであろう。

 そして、サバティカルの1年間、例のマッキネッタBialettiを使っていると内側に石灰の成分が付着して純白の膜がキラキラ光るようになる。それを帰国して日本の水道水で使っているとぬるっとしたきたない象牙色に澱んでくる。それを見て郷愁に駆られてしまっている自分がいる。

 日本では自宅での水道水はもとより、なぜかイタリア製のミネラル水でも、またどんな本格的なリストランテでもエスプレッソ飲んで美味しいと感じたことはない。すべては水なのだ。

【付論】では「紅茶文化」のイギリスの水はどうなのかと気になって、ちょっと調べてみたら、硬水の地区と軟水の地区に分かれていた(https://www.bristan.com/hard-water-map;https://japanesewriterinuk.com/article/water-in-uk.html)。

 なんと案に相違して、イングランドは硬水が主体の地区なのだ。ということは、そこでは紅茶はどうやって淹れていたのか・・・。答はどうやら葉っぱのブレンドと軟水の入手、にあったらしい(https://ringtons-japan.jp/hpgen/HPB/entries/39.html)。

 それで思い出した。大昔、ロンドンのホテルで部屋に置いてあったリプトンの一番安いティーバックを水道水で淹れて飲んだ紅茶のおいしかったこと! ブレンドがロンドンの水道水に合わせて調合されていたのだろう。それで感激して、そのティーバッグを日本に持って帰ったのだが、日本の軟水で淹れても再現できなかった理由もそこにある。だからイギリス直輸入の葉っぱを無自覚で飲んでいる限り、ひょっとすると思い出を飲んでいるだけのことなのかもしれない。味が違う!、というわけでミルクいれて流し込むのが落ちか(じゃあ、ヨーロッパ渡りの硬水のミネラル水で淹れたらどうだ、というとこれでもだめらしい。水に含まれる空気が重要で新鮮な「汲みたての水」でなければいけないらしい:これはイタリアのそれでエスプレッソ淹れても同じことでありんしたねえ、と納得)。すべては水なのだ。

 これは東京も広島もだが、嫁さんお好みで、百貨店の地下なんかで英国渡りのアフタヌーン・ティーなんかに行ったことあるが、スコーンやサンドイッチはともかく、ブラックティーがはそんなに抜群とは感じなかった。もともと私は紅茶が体質的に若干難があるので(妙な覚醒反応があるのだ)、ストレートではなくミルクでごまかす方なのだが。

 うちの嫁さん、大きな缶でイギリス紅茶をありがたく飲んでいるので、こんど軟水用のを買ってあげて男を上げようかな。

【後日談】日本の水でおいしいという触れ込みの「ヨークシャー」のリーフカートンとティーバックを試しに買った。試供品のティーバッグを試して見ると、気のせいかソフトな口当たりでいい感じなのだが、嫁さんは無反応。あ、もともと不反応なのか。でも、コーヒー飲んでもエスプレッソは飲んでいないなあ。

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NHK BS4K プレミアム「最強の帝国ローマ」再放送

 2022/9/15(木)午後16:17-17:47の再放送を見ている。これは2021/1/25に初回放映され、何度か再放送されてきたものであるが、なかなかよくできている。ちょっとだけ旧来の臭さを感じさせるが(題名の「最強の帝国」なんて命名がまさしくそれである)、なにしろ、チュニジア、ロンドン、オーストリア、ドイツなどなどの最新の発掘情報満載で、随所で従来定説を覆している構成がいい。

 ここまで出来がいいと、制作NHKとなっているが、おそらくヨーロッパの制作をもとにしているのだろうと、つい思ってしまう私がいる。

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コイン上のカエサル像をめぐって

 先日の読書会で最近発見されたカエサル像や復元像を提示したら、参加者の中から、イメージがえらく違うといった反応があった。何ごとによらず英雄は後世理想化されて描かれやすく、見る側でも集合無意識的に英雄は美男美女であってほしい心理がなぜかあって、相乗して美化されがちである。いわば歴史による整形手術の施工である。

左、2008年ローヌ川底より出土、生前制作されたものと想定されている(あまりの異像にもちろん反論あり(1));中、Leiden国立古代博物館所蔵品のカエサル像;右、Leiden博物館所蔵品から2018年に公開復元されたカエサル像(2)
  • (1) Lorenz E.Baumer, Forme, fonction, identité ? Une approche du <César d’Arles>, dir. per Vassiliki Gaggadis-Robi et Pascale Picard, La sculpture romaine en Occident*Nouveaux regards.Actes de Rencontres autour de la sculpture romaine, 2012, Arles, 2016, pp.75-81.
  • (2) 当然別の復元例もある。cf., Amelia Carolina Sparavigna, A possible reconstruction of the face of Julius Caesar using a marble head from Smyrna conserved by the Rijksmuseum van Oudheden in Leiden, 2019/3/18(https://www.researchgate.net/publication/331833760

 そんな中で、あの時期、コイン上の肖像はかなり自然主義的に実像を反映しているといわれていることを知った(後代になると、すでにアウグストゥスで明らかなように、おおむね若振りに表現するようになったが)。それでちょっと調べてみた。意外と奥行きあるみのり多い内容であった。

 古代ローマにおいても、ブロンズ像や大理石像、蝋人形、カメオ、宝石、凱旋門などに、生前の人物の姿を飾る肖像画の伝統は長く続いていたが、ことコインに関しては、前44年にユリウス・カエサルがデナリウス貨幣に描かれるまで、ローマのコインには生身の人間の肖像画はなかった、と通説的に言われてきた。

 実は、カエサルはそれまで自分の名前を打刻した多くの貨幣を発行していたが、たしかに自分の肖像を描いた貨幣はなかった。

このような貨幣は、軍団兵に給金を払うべく戦地で随時打刻されていた。さてその権限はどうなっていたのやら。

 彼の肖像が登場するのは、彼が暗殺される前44年3月15日の直前3ヶ月の発行分のみなのである。以下がその一例。問題はこれがカエサルの指示によるものか、貨幣造幣三人官の権力者への忖度なのか。いずれにせよ、このような従来のローマ的伝統の一線を越えた行動が、彼の暗殺への動機とされてきたのだが、案外、下っ端の陣笠連中の突出行為が親分カエサルの命を危うくしたのかもしれない。

いずれも、独裁官ないし終身独裁官DICT PERPETVOと刻印されている:このあたりが本人の実像に近かったのでは

 ところが、以上は共和政ローマの国家貨幣製作についてであって、確認される最古のカエサルの肖像画コインは、前47/6年に、小アシア半島のビテュニアの都市ニカイアで打刻されたものだった。ローマからの旧領土奪回めざしたファルナケス2世Pharnaces II(ポントス・ボスポロス王、在位:前63-47年)がゼラの戦いでカエサルに敗れた(この時、カエサルの有名な言葉「来た、見た、勝った」Veni, vidi, vici が発せられた)。その戦勝を記念しての発行。

表面刻印:NIKAIEΩN、カエサル像、裏面:EΠI ΓAIOY OYIBIOY ΠANΣA(=Gaius Vibius Pansa)、右手に花冠、左手に棕櫚を持ったニケー、下部刻銘ϛΛΣは日付236(=前47/6年)

 裏面打刻のGaius Vibius Pansa Caetronianus(前43年没)は、カエサル派で、前47年にBithynia et Pontus属州総督(??:彼の執政官就任は前43年で、当時は法務官格なので、カエサル下でのlegatus職をこう表現したのか)、翌年ローマに帰国した人物なので、パンサの手配での属州都市打刻貨幣かと。

 実はもうひとつ、このコインの1年後の前45年に同じく小アシアのMysiaのLampsacus打刻都市貨幣があることを知った。それが以下である。

表面:月桂冠のカエサル像、裏面:神官が牡牛の鋤でポメリウムを掘っている。銘文には都市二人官の名前などが打刻されている。
   ⇧ Lampsacus    Nicaiaの位置↗

 ところで皮肉なもので、則を超えた生存者肖像掲載はカエサル横死ののちは反カエサル派=ポンペイウス派にとっても当たり前のこととなって、盛んに活用され出すのだが(もちろん伏流水としてカエサル同様先行例はあった)、それは別の機会があれば触れたいと思う(というか、この時代は私の射程外なのでもうないかもしれない)。それまで以下の著作が参考になるだろう。比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史:権力と図像の千年』中公新書、2018年。但し私がここで言及したカエサル関係についてはなぜか触れられていないのだが。

【補遺】上記註(1)の論文にカエサルの肖像を種々の角度から撮った写真があるので、参考までにアップしておく。それにより、通常の単独胸像でないことは明白かと。やはり何ごとも表ばかりでなく裏も、上からも下からも見ないといけませんね。

Fig.5は下から、Fig.6は上から撮ったもの

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今度は中流階級の住居出土:ポンペイ

  継続発掘されているポンペイ近隣のCIVITA GIULIANAで、奴隷の部屋が出土したという報告があったが(2021/11/6:http://pompeiisites.org/en/comunicati/the-room-of-the-slaves-the-latest-discovery-at-civita-giuliana/)、今度はポンペイで、中流階級の家が発掘されたとの報告が、2021/8/6になされた。

 このところ継続的に発掘がなされているポンペイの第5地区で、2018年に豪華なララリウムの祠と驚くべきフレスコ画が出土した「魅惑の庭の邸宅」(https://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2003%2012.htm#lararium)の奥を掘っていたら、予想外に質素な部屋が4つ出てきた。発掘者たちはそれを中流ないし下層民の住居と断定した。例によって発掘地点は明示されていないが、V.3.12.13付近と思われる。

今回の質素は部屋は破線の凸部分付近と思われる

 従来豪華な邸宅に目がいっていた研究者たちも、最近は中・下層民や奴隷の日常生活に興味を持つようになってきていたが、そこに今回の発掘は絶好の傍証となったわけである。これらの部屋の壁は漆喰だが剥き出しで、床も土間のままだった(こういった部屋は従来もポンペイから出土していたはずだが、出土品も日常使いのものだったのでこれまでは美術的に無価値と断じられ蔑ろに扱われ、特に発掘初期には処分されてきていたのだろう:処分の内実とは、例によって闇市場に横流しされ、好事家やマニアの手に渡っていったことを含めてのこと)。

 ある部屋には、2000年間開けられなかった食器棚があり、中にはガラスの皿や陶器の鉢、花瓶などの食器がそのまま入っていた。別の部屋には、装飾品が残されたテーブル、ベッド、トランク型の箪笥があり、その中からみつかったものの中には、古代ギリシアの神ゼウスが鷲に変身した姿を描いた浮き彫りが施されたオイルランプがあった。

たぶん食器棚からの出土品:日常品のガラスや陶器の器類
この写真はたぶん「寝室」かと;右は上から部屋全体を俯瞰した写真
左写真の左側が、石膏で復元され蓋のない箪笥、右側が三脚の円卓:右写真、箪笥から出てきたオイルランプ

 以下も参照。https://karapaia.com/archives/52315493.html

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