私のゼミ生で現在ポーランドに在住しているH君経由で、以前お願いしていたポーランド語の本が、彼が一時帰国したので、届けられた。新コロナの関係で郵送もままならず、送料もバカにならなくなるとのことで、一時帰国での持ち帰りをお願いしていたものだった。その書籍は以下。Andrzej Wypustek, Imperium Szamba ścieku i wychodka :Przyczynek do historii życia codziennego w starożytności, Warszawa, 2018, Pp.223. だいたいの訳は「(ローマ)帝国の下水とトイレ:古代における日常生活」といったところか(ただしグーグル翻訳からの想定。古代ローマトイレ研究の先進国はオランダなので、これまでそっちは若干集めてきたが、ポーランド語はまあお愛嬌ということで)。
その防御線を突破されたとき、帝都ローマの城壁以前の最後の守りはいうまでもなくテヴェレ川を渡河するミルウィウス橋ということになるが、そこに至るまでにテヴェル川はまたもや大きく東側に蛇行して、ローマ・オリンピックの時に陸上競技場などが設置された広大な平地を提供している。ここは現在Tor di Quito公園となっていて、古来幾度か戦場となった場所である。コンスタンティヌス軍とマクセンティウス軍が激突した主戦場がここだったと考える研究者もいるほどなのだが、私はむしろマクセンティウス軍壊滅の場所だったのではと考えている。その後のミルウィウス橋の戦闘とは、潰走するマクセンティウス軍を追撃するコンスタンティヌス軍の掃討戦にすぎない。とはいえ敵将マクセンティウスをそこで溺れ死にさせたという記念すべき戦場ではあった。
というのは、これは論文に書いていないのだが、コンスタンティヌスはプリマ・ポルタ攻防戦のあと、自軍の出血を避ける手立てとして、マクセンティウス軍がフラミニウス街道に幾重も仕掛けた防御線を迂回すべく、軽騎兵連隊を放って西側の間道を疾駆させ敵の背後をついて、一挙にこのTor di Quito地区に殺到させ、いち早くミルウィウス橋を渡河して対岸に達しせしめたのではと密かに思っているからだ(それをうかがわせる文書史料など一切ないが、マクセンティウス側の内通者の存在は別途指摘しておいた:たぶん彼らが詳細な間道情報をコンスタンティヌス側に漏らしたのでは:「裏切り者は誰だ!――コンスタンティヌス勝利のゲスな真実――」『地中海学会月報』389, 2016/4)。こんな突飛とも思われかねない仮説を本気で考えざるを得なかったのは、コンスタンティヌスのアーチ門の南面右のレリーフ右端で、合図のラッパを吹いているあの二人の兵士をどう解釈すべきか、に関わっての想定なのである。あれはどう見てもコンスタンティヌス側の進軍ラッパである。それが橋を潰走するマクセンティウス軍より先に渡河しているのだから、奇妙なわけなのである。