投稿者: k.toyota

久々にトイレ噺:室内用便器、実証される

 このような素朴な素焼きのテラコッタ容器は、古代においてごくありふれているもので、これまでほとんど穀物などの貯蔵用と安直に判断されてきた。上掲は、シチリア島のど真ん中のGeraceの古代ローマ時代の別荘跡で2019年に見つかった5世紀頃のもの(高さ31.8センチ、縁の直径34センチ)で、上記写真左は出土時の状況、右はそれを修復・整形したもの。

右写真の左下の赤丸が発掘地点:たぶん写真に写っていない左隣りがトイレかと 

 それの出土場所がトイレ近くだったことにケンブリッジ大学の研究チームが注目して、容器の内側にへばりついていた鉱物性付着物を調査したら、そこから腸管寄生虫の鞭毛虫の卵が確認された。

左、容器内側   右、発見された寄生虫の卵

こうして1500年前のテラコッタ製容器で排便(もちろん排尿も)していたことが今回初めて実証されたわけである。おそらくこのテラコッタ容器は室内に持ち込まれ、強度の関係もあって直接跨がってというよりも、下図のような穴の開いた箱か椅子の下に置いて使用されていたのであろう。いわば室内便器chamberpotであった。後始末はいうまでもなく奴隷の仕事で、汚物を棄て、水洗いして、倉庫に入れて次の使用のために準備されていたものが今回発掘されたわけなのであろう。

 これにより、これまで単純に貯蔵用と考えられて処理されてきたテラコッタ容器に、室内便器だった可能性も出てきたことを、私は高く評価したい。

 以下参照:Sophie Rabinow et al., Using Parasite Analysis to Identify Ancient Chamber Pots: An Example of the 5th Century CE from Gerace, Sicily, Italy, Journal of Archaeological Science, February 2022:DOI: 10.1016/j.jasrep.2022.103349

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コンスタンティヌス家3代の貨幣入手

 私は現役の後半にはCNGのオークションに参加してきたのだが、それ以前にはときどきAgoraでもやっていたので、今でもむこうからオークションの連絡がある。リタイアしてからはいって見ることもなかったが、今回はどういうものか出品を眺めたのである。そしたら以下の連番の3点が眼にとまった。いずれもそう高価ではなかったし、競争になったら降りればいいと気楽に最低価格で入札した。なんとそれがそのまんま入札終了となった。それが以下である。

 いずれも打刻場所は上パンノニア(現クロアチア)のSiscia造幣所、打刻時期もいずれもコンスタンティヌス大帝時代に属する317-318年と大帝晩年の334-335年にあたるが、となると、317-318年のほうはリキニウス統治時代となる。これらは、大帝(272?-:在位306−337)と父コンスタンティウス1世・クロルス(250?-:在位293-306)、そして大帝が祖先としたとされるクラウディウス・ゴティクス(214?-:在位268-270)を表面に打刻しているので、コンスタンティヌス朝の始祖(伝説上にしろ:SHA, v. Claud. 13.1-3)を含めての3名の揃い踏みなので(但し大帝のコインの表面の像はコンスタンティノポリスであって大帝ではない)、つい (^^ゞ。

 伝説時代を含めて、コンスタンティヌス王朝の男系はユリアヌス(331?-:在位360?-363)までの約100年間で絶える運命を辿る。

 さてこのコインたち、送料・手数料込みで約175ドルの請求がきた。リタイアした年金生活者はもうこういう所有欲は断捨離しないといけないのだが・・・。

151                          152          
153

151:コンスタンティノポリス創建記念BI 半centenionalis貨幣:表面刻文は「CONSTAN-TINOPOLIS」、左向きのコンスタンティノポリス、月桂冠型ヘルメットと皇帝式服着用、左肩背後に例の十字型帝笏;裏面は左を向いたウィクトリア女神、右脚を戦艦船首の上に置き、右手に長めの帝笏を携え、左手を楯に添え、下刻銘部に「BSIS」=シスキア造幣所第二工房

152:コンスタンティウス・クロルス死後記念BI半follis貨幣:表面刻文「DIVO CONSTANTIO PIO PRINCIPI」(神君コンスタンティウス・元首に)、頭部をヴェールで覆い月桂冠で押さえたコンスタンティウスの右向き;裏面刻文「REQVIES OPTOMORVM MERITORVM」(最良の諸善行の安息)、皇帝が左を向いて高官椅子に座し、右手を挙げ、左手に帝笏、下刻銘部に「SIS」

153:神君クラウディウス・ゴティックス死後記念BI半follis貨幣:表面刻文「DIVO CLAVDIO OPTIMO IMP」(神君クラウディウス・最高軍司令官に)、頭部をヴェールで覆い月桂冠で押さえたクラウディウスの右向き;裏面刻文「REQVIES OPTIMO-RVM MERITORVM」、高官椅子に左向きで座した皇帝は、右手を挙げ、左手に帝笏、下刻銘部に「SIS」

【付論】今日連絡あったCNG(http://www.cngcoins.com/)に、なんと8枚ほど151と同様の貨幣が出品されているが(LOT838-845)、うち1枚はTrier造幣所打刻で、できばえもコンスタンティノポリスと比べるとかなり劣る(私だったら偽造と判定する)。また、まさしく同じシスキア造幣所第二工房打刻とされているLOT841(Æ Follis)ではあるが、我らの151とは印象がかなり異なっていて(当然材質も)、これだと私の食指は動かない。あとの6枚はいずれも「Contemporay imitation (hybrid)」とされている。

LOT841

 これらのうちLOT841以外はいずれも1989年にイギリスのNether Compton (Dorset) で発見された22670枚の退蔵貨幣の一部で、1994年に競売に付されて散逸したものらしい(そのせいか、出品者評価よりもかなり高めの値がついていたりする)。最終日まで13日間あるので、興味ある向きはご覧いただきたい。cf.,https://www.bacas.org.uk/wp-content/uploads/2017/08/NComprint.pdf

発見状況

 個人的興味としてはこの退蔵中どれほどがイミテーション貨幣で占められていたかであるが、もはやせんない妄想かもしれない。

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『ローマ教皇列伝』Liber Pontificalis 解読:第1章〜第33章

【解題、第1章からの試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにエウトロピウスとアウレリウス・ウィクトルの訳もそちらに移管した】

 この基本史料に邦訳あっていいのでは、というのが私の動機である。本日から初期中世ラテンに疎い5名で読みはじめたが、えてしてそういうものだが、初っぱなから大苦難の様相である。どなたか助っ人お願いできればと切望しておりますので、お声を上げていただければ幸甚です。隔週火曜日、午後18:30より90分程度。Zoomでやっています。参加希望者はk-toyota@ca2.so-net.ne.jpにご連絡ください。

【第34章以降は、本ブログ2023/12/7に移行しています】

使用ラテン語底本:一応MGHを底本としてますが、読解には便利なので以下のThe Latin LibraryのDIGITAL版を使用しています。

 https://www.thelatinlibrary.com/liberpontificalis1.html

 Th.Mommsen, Liber Pontificalis ,Pars Prior, MGH, Gesta Pontificvm Romanorvm, vol.1, Berlin, 1898.

 Louis Duchesne, Le Liber pontificalis, tom.1, Paris, 1886(https://books.google.co.jp/books/about/Le_Liber_pontificalis.html?id=_gAXCJUWI0UC&redir_esc=y ; https://archive.org/details/duchesne01/page/n429/mode/1up?view=theater#page/n337/mode/1up)

翻訳:

Louise Ropes Loomis, The Book of the Popes, New York, 1916(https://books.google.co.jp/books/about/The_Book_of_the_Popes.html?id=Q3CxAAAAMAAJ&redir_esc=y)

 Raymond Davis, The Book of Pontiffs, Liverpool UP, revised third edition, 2010.

 Nathalie Desgrugillers, Liber Pontificalis 1.Des Origines au pontificat de Sylvestre (30-355), L’Éncyclopédie médiévale, 2012:発注中

参照辞書

 Du Cange, et al., Glossarium mediæ et infimæ latinitatis. Niort : L. Favre, 1883-1887: http://ducange.enc.sorbonne.fr/

 de Daremberg et Saglio, Le Dictionnaire des Antiquités Grecques et Romaines, Paris, Hachette, 1877-1919(http://dagr.univ-tlse2.fr/)

Hrsg. von Engelbert Kirschbaum SJ, Lexikon der christlichen Ikonographie, 8 vols., Rom/Freiburg/Basel/Wien, Herder, 1968-1976

 Sir William Smith and Samuel Cheetham;introduction by Michael Ledger-Lomas, A Dictionary of Christian Antiquities,2020(1876).
Vol.1:a-j
https://www.google.co.jp/books/edition/A_Dictionary_of_Christian_Antiq
uities_A/3t0UAAAAQAAJ?hl=ja&gbpv=1&dq=bibliogroup:%22A+Dictionary+of+C
hristian+Antiquities%22&printsec=frontcoverver
Vol.2:k-z
https://www.google.co.jp/books/edition/A_Dictionary_of_Christian_Antiq
uities/a4UP1z6f6YoC?hl=ja&gbpv=1&dq=bibliogroup:%22A+Dictionary+of+Chr
istian+Antiquities%22&printsec=frontcover

 Mediae Latinitatis lexicon minus, Leiden, 1984.

文法書

 國原吉之助『新版中世ラテン文法』大学書林、2007.

 なお、現在教皇へのカトリック的な一般的敬称表記は「聖下」がよく使われているが、ここでは試しに伝統的な「猊下」としてみた。またbeatusは現在では、「聖人」sanctusと差別化して「福者」と訳されるが、ここではあえて冗長ながら「祝福された」と訳した。

地図:

 上記R.Davisの末尾に掲載されているものを二点転載しておく。

地図1

地図2

ーーー

献辞 

 至福なる beatissimo 教皇ダマスス(猊下)に、ヒエロニムスが(献じます)。

 猊下の聖性の栄光に鑑み、我ら謹んで次のごとく哀願いたします。我らが猊下の聖性のおかげで司られることを知ったところの使徒座の apostolicae sedis(権威)に基づき、これに対し深く頭を垂れて hoc curui、我らは祈ります、祝福された beati 使徒ペトルスの首位権の(時代)から、猊下の(使徒)座の中で行われた猊下たちの諸時代までずっと usque ad 諸事績を、平和の秩序のために、我らに詳述するのを猊下が決心させられますように、と。我ら謹んで、上述の聖座 sanctae sedis の諸司教のうち誰が殉教の冠を得たか、それどころか uel 誰が諸使徒の諸規範に canones 反して逸脱したかさえ知られているのかを、思量することを知る限りにおいて、我らのために祈りたまえ、至福なる beatissimae 教皇(猊下)よ。

 首都ローマ司教ダマススが、司祭ヒエロニムスに(与う)。

 貴下の(知識の)泉によって満たされた教会は喜び、そしてより多く、諸々の時代の祭司職の sacerdotalis 好奇心は以下を渇望するものである、すなわち、何が価値あるものかが知られ、そして何が無価値であるので退けられるべきかを。さらに tamen 何がなされるのか、我らがみつけえたものが何かを、我らの(聖)座の sedis 研究を、汝の隣人愛において享受することを、我らは(これまでも)導いてきたのである。我らのために(キリストの)聖なる復活のゆえに祈りたまえ、兄弟よ、同僚司祭よ。ご機嫌よう Vale、我らの主、神、キリストにおいて。五月二十三日に与う。十月二十六日に受領、ローマからヒエロソリマに送付(書簡)。

 

第一章 ペトルス PETRVS [- 64/67年]

 1. 祝福された beatus ペトルス、使徒にして使徒たちの筆頭者 princeps、アンティオキアの人、ヨアンネスの息子、ガリラヤ属州のベトサイダ村 vico(出身)で、アンドレアの兄弟が、最初 primum アンティオキア内で司教のカテドラに cathedram 七年の間着座した sedit。このペトルスは帝都ローマに皇帝ネロの時に入って、そこで ibique 司教のカテドラに cathedram 二十五年二か月三日間着座した sedit。それはまた fuit autem 皇帝ティベリウスの、そしてガイウスの、そしてティベリウス・クラウディウスの、そしてネロの諸時代である(後一四-六八年)。

 2. 彼は、二つの書簡を epistulas 書いた、それらは公同 catholicae(書簡)と呼ばれている、そしてマルクス(マルコ)の福音書を(書いた)。なぜならマルクスは彼(ペトルス)の聴聞者 auditor であった、そして受洗によって(ペトルスの)息子だったので、その後 post (マルクスの福音書は)四福音書すべての源泉で、それらが吟味された ad interrogationemとき、そして彼の証言によって testimonio、それはペトルスのそれであり、あるものはギリシア語、あるものはヘブライ語、あるものはラテン語で表明されていても consonent、さらに tamen それらは彼の証言によって testimonium 立証されたのである sunt firmatae。

 3. 彼は、二人の司教、リヌスとクレトゥスを叙階した ordinauit。彼らは自らあらゆる聖職的奉仕を ministerium sacerdotale 首都ローマで会衆 populoや、それどころか uel やって来た人々にさえ示したexhiberent。またautem 祝福されたペトルスは祈祷や説教を会衆に対して教育すべく専念した。

 4. 彼が、会衆の前のみならず皇帝ネロの前でも同様に、魔術師シモンと多くの議論を持ったとき、すなわちut 彼らを祝福されたペトルスがキリスト教信仰に集め adgregabat、後者(魔術師シモン)が魔術と欺瞞をもって散らしたので segregabat、そして彼らはかなり長く diutius 討論したが、シモンは神のご意向で diuino nutu 殺された。

 5. 彼は、祝福された司教クレメンスを聖別した consecravit。かつまた -que 彼にカテドラを cathedram、それどころか uel 教会を ecclesiam さえすべて管理させるべく disponendam 委ねて commisit、言う:私に舵を取り、結びかつまた -que 解く権能が potestas 我が主イエスス・クリストゥスによって授与されているので sicut、そして私は汝に委ねる committo、種々のことどもの管理人たちを dispositores 叙階する ordians ことを、彼らにより聖教会の活動は actus ecclesiasticus 達成され、そして汝は少しも世俗の諸々の世話に in curis saeculi 気をとられないように、むしろただ sed solummodo 祈祷のためだけに、そして会衆に説教するために自由であるべく専念せよ、と。

  6.  この管理の dispositionem 後に、彼は殉教によりパウルスとともに花冠を受ける coronatur、(それは)主の受難後三十八年に(あたった)。彼はアウレリア街道でアポロ神殿内に埋葬された、(それは)磔刑にされた場所の近くで、ネロの宮殿の近くで、ウァティカヌス丘の内へと、凱旋(街道)地域 territurium の近くで、六月二十九日に[参照、XXII.4]。彼は、十二月における諸叙階式で ordinationes、司教を三名、司祭を一〇名、助祭を七名(の叙階を)執り行った fecit。

第二章 リヌス LINVS [c.70年]

 1. リヌスは、生まれは nationeトゥスキア[エトルリア]街区 regionis Tusciaeのイタルス(イタリキ=イタリア)人 Italusで、父はヘルクラヌス Herculano、(司教座に)十一年三か月十二日間着座した。それはまた autem ネロの諸時代(五四-六八年)、Saturninus とScipioの執政官職(後五六年)から CapitoとRufusが執政官職(後六七年)に至るまでずっとで usque ad、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、女性は教会内では in ecclesia 頭部をヴェールで覆って入るべしと定めた constituit。彼は、二回の叙階式で、司教十五名、司祭十八名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに iuxta corpus beati Petri、ウァティカヌス(の丘)の中に in Vaticano、九月二十三日に埋葬された。

第三章 クレトゥス CLETVS [Anencletus, c.85年]

 1. クレトゥスは、生まれはローマ人で、パトリキウス街 vico Patricii 出身で、父はアエミリアヌス Aemiliano、(司教座に)十二年一か月十一日。それはまた autem ウェスパシアヌスとティトゥスの諸時代(六九 〜八一年)、ウェスパシアヌス七回目とドミティアヌス五回目の執政官職(七七年)からドミティアヌス九回目とルフスが執政官職(八三年)に至るまでずっと usque ad だった。(彼は)殉教により花冠を受ける。

黄色の矢印間がVicus Patricius:現在のサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の西南にあたる

 2. 彼は祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、司祭二十五名を首都ローマで urbe Roma 叙階した ordinauit。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 四月二六日に埋葬された。そして司教職は二十日間空座だった。

第四章 クレメンス一世  CLEMENS I [c.95年]

 1. クレメンスは生まれはローマ人で、ケリオモンティウム(=Caelimontium、下図の第二) 街区 regione (出身)で、父はファウスティヌス、(司教座に)九年二か月一〇日間着座した。

それはまた autem ガルバとウェスパシアヌスの諸時代に(六八〜七九年)、トラカルスとイタリクスの執政官職(六八年)からウェスパシアヌス第九回目とティトゥス[第七回目執政官職](七九年)に至るまでずっと usque adだった。彼はその間 dum 多くの書物を libros キリスト教の信仰の熱意により書き記したが、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は(帝都ローマに)七つの街区を regiones 作り、教会に忠実な書記たちを notariis 割り当てた。彼は殉教者たちの諸事績に細心かつ好奇心をもっていたからで、かつまた -que 各々(の書記)が自身の街区について regionem、入念に diligenter 問い質すようにそうしたのである。

 3. 彼は二通の書簡を epistulas 書いた。それらは公同 catholicae(書簡)と呼ばれている。彼は祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、教会の司牧職を pontificatum 舵取りすべく授かった。ちょうど sicut 彼(ペトルス)に主イエス・キリストからカテドラが託されていた、それどころか uel 委ねられていたごとく。さらに tamen ヤコブに対して書かれた書簡の中で in epistula、等しく qualiter 彼に祝福されたペトルスによって教会が委ねられたことをあなたはみつけ出すであろう。それゆえに ideo そのために propterea リヌスとクレトゥスが彼(クレメンス)以前に登録されており、こうして eo 使徒たちの筆頭者である彼自身から、交付さるべき聖職的な職務へと ad ministerium sacerdotale、司教たちは叙階されているのである。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭一〇名、助祭二名、様々な場所のため司教十五名(の叙階)を執り行った fecit。彼は殉教者としてトラヤヌスの(執政官職)三回目に逝去した(後一〇〇年)。かくして etiam 彼はギリシア人たち(の地)に十一月二四日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第五章 アナクレトゥス ANACLETVS [第三章と同一]

 1. アナクレトゥスは、生まれはギリシア人、アテナエ(出身)で、父はアンティオクス、(司教座に)九年二か月一〇日着座した。それはかくしてautem ドミティアヌスの諸時代に(八一〜九六年)、ドミティアヌス第一〇回目とサビヌスの執政官職(八四年)から、ドミティアヌス第十七回とクレメンスの執政官職(九五年)に至るまでのことだった。

2. 彼は、祝福されたペトルスの記念碑を memoriam[サン・ピエトロ大聖堂地下から出土したカンポPの祠のことか]建設した、そして、彼は祝福されたペトルスによって司祭にされていた間に dum、あるいは seu 司教たちが安置されるべき他の諸々の埋葬場所を配置した conposuit。そこにさらにとはいえ ubi tamen et、彼自身も埋葬された、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、七月十三日に。

3. 彼は十二月に二回の叙階式で、五名の司祭、三人の助祭、様々な場所のため六名の司教(の叙階)を執り行った。そして司教職は十三日間空座だった。

第六章 エウァリストゥス EVARISTVS [c.100年]

 1. エバリストゥスは生まれはギリシア人で、父はユダヤ名でユダス、ベツレヘム市出身で de ciuitate Bethleem、(司教座に)九年十か月二日着座した。それはまた autem ドミティアヌスとネルウァ・トラヤヌスの諸時代(八一〜一一七年)、ウァレンスとウェトゥスの執政官職(九六年)からガルスとブラドゥアに(一〇八年)至るまでずっとusque ad だった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、首都ローマ内の諸々の名義教会を titulos 司祭たちに割り当て、そして七名の助祭たちを叙階した、彼らが真理の鉄筆のために propter stilum ueritatis 説教する praedicantem 司教に近侍するためだった[司教の説教を速記するためだったのだろうか;それに以下に示される叙階助祭と数が異なっていることにも注目]。

 3. 彼は十二月に三回の叙階式で、十七名の司祭、二人の助祭、様々な場所のため十五名の司教たち(の叙階)を執り行った fecit。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum、一〇月二七日に埋葬された。そして司教職は十九日間空座だった。

第七章 アレクサンデル ALEXANDER [c.110年]

 1.アレクサンデルは生まれはローマ人で、父はアレクサンデル、カプト・タウリ街区の出だったが de regione Caput tauri[教皇レオ八世作成の文書に、「雄牛の頭地区(ティブルティーナ門)」が明記されている]、(司教座に)一〇年七か月二日着座した。それはまた autem トラヤヌスの諸時代から(九八〜一一七年)へリアヌスHelianoとウェトゥスVetere(の執政官職の時:一一六年)に至るまでだった。

 2.彼は主の受難を、諸ミサが行われる際の聖職者たちの sacerdotum 説教 praedicationeの中に、組み入れた。彼は殉教により花冠を受け、そして彼と共に司祭エウェンティウス Euentius と助祭テオドルス Theoldolus も(殉教した)。彼は、人々の諸住居内で(祝別する場合は)水を撒き塩で浄められるべきである、と定めた constituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、六名の司祭、二名の助祭、様々な場所のため五人の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam ヌ[ノ]メンタナ街道 uia Numentana に埋葬された。彼はそこで首をはねられた decollatus est、首都ローマからさほど遠くない第七里程標で、五月三日のことだった。そして司教職は三十五日間空座だった。

第八章 クシュストゥス一世  XYSTVS I [c.120年]

 1.クシュストゥスは、生まれはローマ人で、父はパストル、ラタ通り街区[上図のVII]出身で de regione Via Lata、一〇年二か月一日着座した。それはまた autem ハドリアヌスの諸時代(一一七〜一三八年)、ウェルスとアンニクルス(の執政官職:一二六年)に至るまでずっとのことだった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2.彼は、以下を定めた constituit。諸々の聖具 ministeria sacrata は奉仕者たち ministeris 以外によって触れられてはならない、と。彼は以下を定めた constituit。使徒座へと召喚された司教たちは誰でも、自らの司教区へと parrociam 帰ることは、フォルマータ forumata なる市民宛ての plebi 挨拶の salutationis 使徒座の書状を litteras 携えずには、受け入れがたい non susciperetur、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十一名、助祭四名、様々な場所のため司教四名を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum、四月三日に埋葬された。そして司教職は二ヶ月間空座だった。

 4.彼は以下を定めた constituit。(ミサの)司式中に intra actionem、それを始めている聖職者は sacerdus、会衆に polulo (以下の)聖歌を唱和させるように、と。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主」Sanctus, sanctus, sanctus, Dominus Deus Sabalot[序誦中の文言]、そしてなどなど。

第九章 テレスフォルス TELESPHORVS [c.130年]

 1.テレスフォルスは、生まれはギリシア人、隠修士出身で ex anachorita [= ἀναχωρητής]、(司教座に)十一年三か月二十一日着座した。それはまた autem アントニヌスとマルクスの諸時代のことだった(一三八〜一八〇年)。

 2.彼は、以下を定めた constituit:復活祭前の七週間に断食が挙行され、そして主の御降誕では natalem Domini 夜間に noctu ミサ聖祭 missas が挙行されるように、と。というのも nam あらゆる時代において、誰も三時課[午前九時]より前に ante horae tertiae cursum ミサ聖祭を missas 挙行することを企図しなかったのだが、(それは)その時間に我らの主が十字架にお登りになったからで ascendit、そしていけにえの前に ante sacrificium 天使の讃歌 hymnus angelicus[栄光頌(グロリア)のことか]、すなわち hoc est:「天のいと高きところに神に光栄あれ」Gloria in excelsis Deo が奉献された diceretur。彼は殉教により花冠を受けた。

 3.彼は、たしかに uero 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 一月二日に埋葬された。彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭八名、様々な場所のため司教十三名を(任命した)。そして司教職は七日間空座だった。

第十章 ヒギヌス YGINVS [c.140年]

 1.ヒギヌスは、生まれはギリシア人、アテナエ出の哲学者の出で、彼の系譜は判明していない。(司教座)に四年三か月四日着座した。それはまた autem ウェルスとマルクスの諸時代(一六一〜一八〇年)、マグヌス[執政官表ではCanus Iunius Niger]とカメリヌスの執政官職(一三八年)からオルフィトゥスとプリスクス(一四九年)にいたるまでずっとだった[明らかに数字が合わない]。

 2.彼は牧者(階級)を clerum 規定し conposuit、諸々の段階を gradus 割り当てた distribuit。彼は、十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十五名、助祭五名、様々な場所のため司教六名を(任命した)。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 一月十一日に埋葬された。そして司教職は三日間空座だった。

第十一章 ピウスPIVS [c.145年:写本によってはこの章と次の第十二章が入れ替わっているのもある由]

 1.  ピウスは、生まれはイタルス(イタリア)人で、父はルフィウス、バルトルの兄弟で、アクイレギア(アクイレイア)市の出身で de ciulitate Aquilegia、(司教座に)十九年四か月三日、着座した。それはまた autem アントニヌス・ピウスの諸時代(一三八〜一六一年)、クラルスとセウェルスの執政官職(一四六年)からであった。

 2.彼の司教下で、彼はヘルマスの書を Hermis librum 書いた scripsit、その中で彼はひとつの命令を mandatum 保持しているが、それは、彼に主の天使(s.)が指示した praecepit もので、それは天使が彼の所に羊飼いの服装でやってきて、そして彼に過越しの主日に[復活祭が]祝われるようにと指示した praecepit からである。

 3.彼は(以下を)定めた constituit、ユダヤ人たちの異端からやってきた異端者(s.)が受け入れられ、そして洗礼を授けられるべし、と。そして教会に関する規定を constitum (s.) おこなった fecit[16.2参照]。†[以下の第四節は写本によって挿入あり]

 †4. 彼は、祝福されたプラクセデスの要請により、ひとつの教会をノウァトゥス浴場に奉納した dedicauit、それはパトリキウス街に uico(cf., chap.III.1)あり、彼女の姉妹の聖ポテンティアナの名誉のため、そしてそこに ubi et 彼(彼女?)は多くの寄進を提供した dona obtulit[次に出るのは34.19以降]。彼はそこに ubi より煩瑣に sepius 主に捧げる犠牲を sacrificium[ミサ聖祭のことか]奉仕した ministrabat。そしてそれどころか inmo et 洗礼盤を fontem baptismi 組み立てさせて construi fecit、彼自身の両手で manus suas 祝福しbenedixit そして聖別した consecrauit。そして信仰のためにやって来た多くの人々を、三位一体の名において授洗した。

 5. 彼は十二月に三回の叙階式で、十九名の司祭、二十一名の助祭、様々な場所のため数にして numero 十二名の司教たち(の叙階を)を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 、七月十一日に埋葬された。そして司教職は十四日間空座だった。

第十二章 アニケトゥス ANICETVS[c.160年]

 1.アニキトゥス Anicitus は、生まれはシルス(シリア)人で、父はヨハンネス、フミサ村 uico Humisa[Emesaかもしれない;cf., 第一章第一節]出身で、(司教座に)十一年四か月三日、着座した。それはまた autem セウェルスとマルクスの諸時代(?〜一八〇年)、ガッリカヌスとウェトゥスの執政官職(一五〇年)からプラエセンスとルフィヌスに至るまでずっとであった(一五三年)。

 2.彼は、聖職者は clerus 髪を手入れしてはいけないと定めた constituit、使徒(s.)の指示に praeceptum 従ってのことだった。彼は十二月に五回の叙階式で、十九名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にして numero 九名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam 殉教者として逝去し obiit、そしてカリストゥスの Calisti 墓地に cymiterio 四月二十日に埋葬された。そして司教職は十七日間空席だった。

第十三章 ソテル SOTER [c.170年]

 1.ソテルは、生まれはカンパニア人で、父はコンコルディウス、フンディ市出身で ciuitate、(司教座に)九年四か月二十一日、着座した。それはまた autem セウェルス[正しくは、ルキウス・ウェルスか]の諸時代(一六一〜一六九年)、ルスティクスとアクイリヌスの執政官職(一六二年)からカテグスとクラルスに至るまで(一七〇年)ずっとであった。

 2.彼は、いかなる修道士も monachus 聖なる教会内で聖別された布に触れたり、香を焚いたりしてはならない、と定めた constituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、十八名の子細、九名の助祭、様々な場所のため数にして numero 十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道にあるカリストゥスの墓地に、四月二十二日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第十四章 エレウテリウス ELEVTHERIVS [c.180年]

 1.エレウテルは、生まれはギリシア人で、父はハブンディウス、ニコポリスの町出身で de oppido、(司教座に)十五年三か月二日着座した。彼はまた autem アントニヌス(=マルクス)とコンモドゥスの諸時代(一六一〜一九二年)、パテルヌスとブラドゥスの執政官職(一八五年)に至るまでずっとだった。

ニコポリスは幾つもあるが、ギリシアの、となるとここだろう

 2.彼は、ブリタニア人の王 Britanio rege ルキウスから一通の書簡で epistula 、(それはルキウスが)彼(エレウテル)の命令によって mandatum キリスト教徒とされるように(という内容を)受け取った。そして彼は以下を再度 iterum 確認した firmauit、いかなる食物もキリスト教徒たちによって、特に maxime 信心深い者たちによって fidelibus 退けられるべきではない、なぜなら神が創造したものであるから、それはさらに tamen 理にかなっており rationalis、そして人間のためのもの humana だからである、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十二名、助祭八名、様々な場所のための数にして十五名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内に in Vaticano、五月二十四日に埋葬された。そして司教職は十五日間空座だった。

第十五章 ウィクトル VICTOR [c.195年]

 1. ウィクトルは生まれはアフリカ人で、父はフェリクス、(司教座に)一〇年二か月一〇日間(着座した)。それはまた auem カエサル(=コンモドゥス)の諸時代(一八〇〜一九二年)、コンモディウスの二回目そしてグラウィオの執政官職(一八六年)からラテラヌスとルフィヌスに至るまで(一九七年)ずっとだった。

 2. 彼は、聖復活祭が主日に祝われるように定めた constituit:エレウテルと同様に sicut。彼は[ローマ教会で彼に]捧持する者たちを sequentes 牧者たちに cleros した。彼は殉教により花冠を受けた。そして彼は(以下を)定めた constituit、必要とあらば、(洗礼用の水が)どこで ubiubi 見つけられようとも、あるいは siue 川において、あるいは海において、あるいは諸々の泉において、さらに tantum キリスト教への信仰箇条の告白を confessione credulitatis(=XVIII.3)明らかにすることにより、洗礼を受けたいと異教からやって来る者には誰でも quicumque(洗礼を授けていい)、と。

 4a. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭四名、助祭七名、様々の場所のための司教十二名の(叙階を)執り行った。

 3. 彼は、復活祭の周期についての聖職者たちの sacerdotum 問いに対し、[復活祭の主日であると]規定をおこなった fecit constitutum[11.3参照]。それは、司祭たち presbiteris そして司教たちとともに討議が行われ、そしてアレクサンドリア司教テオフィルスが召喚され、集会が行われた時のことだったが、その月の最初の月齢十四日から二十一日までの間の主日を、聖復活祭が遵守されるというものだった。

 4b. 彼は祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)の中に七月二十八日に埋葬された。そして司教職は十二日間空座だった。

第十六章 ゼフィリヌス ZEPHYRINVS[198/199-217年]

 1. ゼフィリヌスは、生まれはローマ人で、父はハブンディウス、(司教座に)八年七か月十日間(着座した)。それはまた autem アントニヌス(=コンモドゥス)とセウェルス(=カラカッラ)の諸時代(一八〇〜二一七年)、サトゥリヌスとガリカヌスの執政官職(後一九八年)からプラエセンテスとストリカトゥスの執政官職(二一七年)に至るまでずっとだった。

 2. 彼は、すべての牧者たち clericus そして信心深い平信徒たちのいる前で、牧者も siue clericus、祭司も siue leuita、聖職者も siue sacerdos 叙任されるよう定めた constituit。そして彼は教会に関する規定をおこなった fecit constitutum ecclesia[11.3参照]、そして諸々のガラス製の[聖餅を入れる]平皿 patenas[33.3参照]を聖職者たちの前で ante sacerdotes 教会内で従者たちが ministros が運び、司教が諸々のミサを挙行している間に、彼の前で聖職者が sacerdos 補佐し adstantes、このようにして諸々のミサが挙行されるべきである、と;司教の権限が jus ただ tantum 関与する場合を除外して、牧者階級が clerus すべてを統轄すべく支えている;司教の手から、かの(平皿)聖別 consecratio によりすでに iam 聖別された輪を consecratam coronam[聖餅=ホスティアのこと] 司祭は presbiter 受け取り、会衆に polulo 渡すのである。

 3. 彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭七名、様々な場所のために数にして十三名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam、彼の墓地に cymiterio 埋葬された。[それは]アッピウス街道のカリストゥスの墓地の傍らで iuxta cymiuterium、八月二十五日のことだった。そして司教職は六日間空座だった。

第十七章 カリストゥス一世 CALISTUS I [217-222年]

 1. カリストゥスは、生まれはローマ人で、父はドミティウス、ウルブス・ラウェンナンティウム街区の出身で de regione Urberauennantium[第十四街区のトラステウェレ内で、ラウェンナからの移住者居住にちなんだ地区か]、(司教座に)六年二か月十日間着座した。それはまた autem マクリヌスとテオドリオボッルス Theodoliobolli (=ヒエロガバルス)の諸時代(二一七〜二二二年)、アントニヌス(=ヒエロガバルス)とアレクサンデル(・セウェルス)の執政官職(二二二年)からであった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は断食を ieiunium 安息日(=日曜日のことか)に die sabbati 年三回することを定めた constituit、それは穀物、ワイン、そしてオイル(断ちのこと)で、予言に従ってのことだった。彼はバシリカをティウェレ川の向こう側に建設した[この聖堂はサンタ・マリア・イン・トラステウェレと思われる]。

 3. 彼は十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十六名、助祭四名、様々な場所のため司教たち数にして八名の(叙階を)執り行った。

 4. 彼はかくして etiam アウレリウス街道の第三里程標にあるカレポディウスの墓地の中に in cymiterio Calepodi 十月十四日に埋葬された。彼は別の墓地をアッピウス街道に建設した、そこには多くの聖職者たち sacerdotes と殉教者たちが永眠している。そこは qui 今日に至るまで usque in hodiernum カリストゥスの墓地と呼ばれている。そして司教職は十六日間空座だった。

47がカレポディウス、31がプラエテクスタトゥス、32がカリストゥスの墓地

第十八章 ウルバヌス VRBANVS [222-230年]

 1. ウルバヌスは、生まれはローマ人で、父はポンティアヌス、(司教座に)四年一〇か月十二日間着座した。

 2. 彼はすべての諸々の聖具 ministeria sacrata(=VIII.2)を銀となし、銀皿二十五皿を用意した。

 3. 彼はかくして etiam 明確に(信仰)告白者 confessor で、(彼は)ディオクリティアヌスの Dioclitiani 諸時代だった[ディオクレティアヌスの迫害期の告白者ウルバヌスとの混同による時代錯誤表記]。彼は彼の(教えの)授受によって sua traditione 多くの人々を改宗させた conuertit、洗礼と信仰箇条へと(導き)ad baptismum et credulitatem(= XV.2)、かくしてそして etiam et 最も高貴な男性ウァレリアヌス、聖カエキリアの婚約者をも(洗礼に導いた)。彼らを彼はかくして etiam 殉教の棕櫚へと palmam 至るまでずっと導いた;そして彼の諸々の戒めによって per eius monita 多くの者たちが殉教により花冠を受けた。

 4. 彼は五回の叙階式を十二月に、(ローマ教会の)司祭十九名、助祭七名、様々な場所のための司教たち数にして八名(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道にあるプラエテクスタトゥスの墓地[XVII.4参照]に埋葬された、彼を祝福されたティブルティウスが五月十九日に埋葬した。そして司教職は三十日間空座だった。

第十九章 ポンティアヌス PONTIANVS [230-235年]

 1. ポンティアヌスは、生まれはローマ人で、父はカルプルニウス、(司教座に)九年五か月二日間着座した。彼は殉教により花冠を受けた。それはまた auem アレクサンデル(・セウェルス:在位二二二〜二三五年)の諸時代で、ポンペイアヌスとペリニアヌスの執政官職からであった(二三一年)。

 2. 同じときに、司教ポンティアヌスと司祭ヒッポリュトゥスは、追放により exilio 流刑に処され sunt deportati 、アレクサンデルによってサルディニア内のブキナ島に、セウェルスとクインティアヌスの執政官職時のことだった(二三五年)。同じ島の中で、痛めつけられた彼は adflictus、棍棒(pl.)で衰弱させられ maceratus、一〇月三〇日に亡くなった。そして彼の地位にアンテロスが十一月二十一日に叙階された。

 3. 彼は十二月に二回の叙階式で、六名の司祭、五名の助祭、様々な場所のため数にして六名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼を祝福されたファビアヌスは一人の牧者と共に cum clero 船で運び、アッピウス街道のカリストゥスの墓地の中に埋葬した。そして司教職は十日間空座だった。

左、カリストゥスのカタコンベ:L1が教皇が葬られたいわゆる「諸教皇のクリプト」で、右がたぶん発掘直後の様子

第二十章 アンテロス ANTEROS [235-236年]

 1. アンテロスは生まれはギリシア人で、父はロムルス、(司教座に)十二年一か月十二日着座した。彼は殉教により花冠を受ける、(それは)マクシミヌスとアフリカヌスの執政官職の諸時代(二三六年)のことだった。

 2. 彼は殉教者たちの諸事績を入念に diligenter 書記たちから a notariis(= IV.2)探し求めた、そして教会内で、殉教により花冠を受けたとある quodam マクシミヌスなる司祭(の墓の)の傍に保管する。

 3. 彼は一人の司教をカンパニアの都市 ciuitateフンディの中で十二月に(叙階)した。彼はかくして etiam アッピウス街道にあるカリストゥスの墓地の中に一月三日に埋葬された。そして彼は司教職を episcopatum 十三日間空座にした。

左、「諸教皇のクリプト」出土のポンティアヌスの墓碑;右、アンテロスの墓碑:両方ともギリシャ語表記であることに注目

第二十一章 ファビアヌス FABIANVS[236-250年]

 1. ファビアヌスは生まれはローマ人で、父はファビウス、(司教座に)十四年十一か月十一日着座し、殉教により花冠を受ける。それはかくしてマクシムスとアフリカヌス(が執政官職:二三六年)で、デキウス二回目そしてクアドラトゥス(が執政官職:二五〇年)に至るまでずっとの諸時代で、そして一月一九日に受難した。

 2. 彼は、(帝都ローマ内の)諸地区を助祭たちに割り当て、そして副助祭七名に与えた、(それは)彼らが七名の書記たちに、彼らが殉教者たちの諸事績をもれなく忠実まとめるよう、心をくだくようにとしたことだった。そして多くの作業場を諸々の墓地のために per cymiteria 造るように指示した praecepit。

 3. そして、彼の殉教のあと、司祭モイセスとマクシムス、そして助祭ニコストラトゥスが捕らえられ conprehensi sunt、そして彼らは牢獄へと送られた missi sunt。

 4. 同時代に、ノウァトゥスがアフリカから到着し、そして教会からノウァティアヌスとある告白者たちを引き離した、それはモイセスが牢獄内で死に果てた後のことで、彼(モイセス)はそこに ibi 十一か月いた。そしてこうして sic 多くのキリスト教徒たちが逃亡した。

 5. 彼は十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭二十二名、助祭七名、司教たちを様々な場所のため十一名、(叙階式を)執り行った。彼がかくして etiam アッピウス街道にあるカリストゥスの墓地の中に一月一九日に埋葬された。そして司教職は七日間空座だった。

第二十二章 コルネリウス CORNELIVS[251-253年]

 1. コルネリウスは生まれはローマ人で、父はカスティヌス、(司教座に)二年二か月三日間着座した。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼の司教職下で、ノウァトゥスはノウァティアヌスを教会(の了解)抜きで叙階した。そしてアフリカでニコストラトゥスを(叙階した)。このことが起こって、告白者たちが、彼らはモイセスと共にいた司祭マクシムスと共に自らコルネリウスから分離していたのであるが、教会へと復帰し、そして彼らは信心深い告白者たちとなった。

 3. この後、司教コルネリウスは、ケントゥムチェッラエ(現在のCivitavecchia)に追い出された pulsus est。そしてそこで ibidem 彼の激励のために書かれ送られた一通の書簡を epistulam キプリアヌスから受け取った。それをキプリアヌスは牢獄の中で書いた。そして読師 lecture ケレリヌスによって(もたらされたのである)。

 4. 彼は、彼の諸時代において、ある既婚婦人ルチナによって懇請され、祝福された使徒たちペトルスとパウルスの遺骸を夜間にカタコンベから持ち去った。最初に primum まさに quidem 祝福されたパウルスの遺骸が受け取られ、祝福されたルチナは(それを)オスティエンセ街道にある彼女の地所に praedio suo 供えた posuit。それは(パウルスが)首をはねられた decollatus est そこの場所の傍らで iuxta locum ubi。祝福されたペトルスの遺骸を祝福された司教コルネリウスは受け取り、そして(ペトルスが)磔にされた場所の傍らに供えた。彼(コルネリウス)は、聖なる司教たちの遺骸の間に、ネロの宮殿のアポロ神殿内、ウァティカヌス(丘)の中のアウレウスの丘の中に(埋葬された)[以下参照、第一章6]、六月二十九日のことだった。

Tempio di Apolline=M、Monte Vaticao=R、Monte Auro=S(中央下の山裾部分)、Neroの宮殿は意味不明(おそらく競技場のことか)
参照:ピエトロ・ザンデル『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』上智大学出版、2011年、pp.6-7.

 5. この後、(コルネリウスは)夜間にケントゥムケラエへ歩いて行った ambulavit。同じ時に、デキウスは聞いた、彼(コルネリウス)について、カルタゴ司教の祝福されたキプリアヌスから一通の書簡を epistolam 受け取っていたことを。(デキウス)はケントゥムケラエに(使者を)送り、そして祝福された司教コルネリウスを(ローマへ)連行した exhibuit。彼がさらに tamen 自分(デキウス)の面前に来るように、と命じた。テッルスで Tellure、夜間にパッラディス Palladis の神殿前で、と。彼へと(デキウスは)たいそう近づいて言う。「神々も、父祖たちの命令も顧みず、我らの脅しも怖れることなく、国家に敵対して書状を litteras 受け取り、そして(そのように)導いたのはお前か」。司教コルネリウスは答えて、言う「私は主の花冠に関して書状を litteras 受け取りましたが、国家に対してではなく、むしろ magis 諸々の魂の贖いへと(導いた)のです」。

 6. そのとき tunc、デキウスは怒りで満たされ、祝福されたコルネリウスの口を諸々の鉛玉のついた鞭で打つように命じ、そして彼をマルス神殿へと引っ立てて caedi、そして(彼が)礼拝するように指示した praecipit。だが、もしそのようにしなかったなら、斬首するぞ capite truncari と言って。このことはまた autem 行われた。彼はかくして etiam 上述の場所で首をはねられ decollatus、そして殉教が成し遂げられた。彼の遺骸を夜間に祝福されたルチナが集め、そしてカリストゥスの墓地の傍らの地下礼拝堂に crypta 埋葬した、(その礼拝堂は)アッピウス街道の彼女の地所に in praedio suo あった。九月十四日のことだった。そして司教職は六十六日間空座だった。

第二十三章 ルキウス LVCIVS [253-254年]

 1. ルキウスは、生まれはローマ人で、父はプルフリウスで、(司教座に)三年三か月三日間(着座した)。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem ガッルス(執政官職第二回目)とウォルシアヌス(が執政官職の年:二五二年)の諸時代から、ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(Gellienusの誤記:二五五年)に至るまでずっとusque ad であった。

 2. 彼は追放された in exilio fuit;その後 postea 神のご意向によって nutu Dei、無傷で incolumis 教会へと帰還した reuersus est。

 3. 彼は、司祭二人と助祭三人はいかなる場所であっても司教を見放してはならない、と指示した praecepit、それは聖教会の証言のためだった propter testimonium ecclesiasticum。彼はかくして etiam ウァレリアヌスによって三月五日に斬首された capite truncatus est。

 4. 彼は(ローマの)凡ての教会への omni ecclesiae 権能を彼の助祭長 archidiacono ステファヌスに与えた dedit、彼(ルキウス)が受難へと進んでいる間に。

 5. 彼は十二月に二回の叙階式で、四名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にして七名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地に八月二十五日に埋葬された。そして司教職は三十五日間空座だった。

第二十四章 ステファヌス一世 STEPHANVS I[254-257年]

 1. ステファヌスは、生まれはローマ人で、父はヨビウス、(司教座に)七年五か月二日間(着座した)。それはまた autem ウァレリアヌスとガッリカヌスとマクシムスの諸時代から[二五四年と、二五三ないし二五六年]ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(執政官職)第二回目[二五五年:この章での年代表記は混乱している]に至るまでずっとであった。

 †2. その諸時代に、彼は追放されたが exilio est deportatus、その後 postea 神のご意向によって、教会へと無傷で incolomis 帰還した。そして三十四日目後に、彼はマクシミアヌスによって捕らえられ tentus、牢獄へと送られたのだが missus est、それは九名の司祭たち、二名の司教、ホノリウスとカストゥス[この両名はなぜか対格表示]、そして三名の助祭クシュストゥス、デイオニシウス、ガイウスを[ここでも対格表示]伴ってのことだった。ちょうどその時 ibidem 彼は牢獄の中で、(そこは)ステラ門 ad arcum Setllae そばだったが、(そこで)会議を synodo おこない、そして教会のすべての用具について uasa 彼の助祭長クシュストゥスに、権限を与えたばかりか uel dedit、金庫についても arcam pecuniae そうしたのだった。そしてその四日後に、彼自身は監視下で sub custodia 軟禁状態から sig 出ていって exiens、斬首された capite truncatus est[cf., XXII.6 ; XXIII.3]。

冒頭の地図2より:ここではステラ門は46に措定されている

 †3. 彼は聖職者たちや祭司たち leuitas [XVI.2参照]が聖別された衣服(pl.)を日常的に使用して教会内以外で用いてはならないと、定めた constituit。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭六名、助祭五名、様々な場所のために数にして三名の司教たちの(叙階を)執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地に八月二日に埋葬された。そして司教職は二十二日間空座だった。

第二十五章 クシュストゥス二世 XYSTVS II [257-258年]

 1. クシュストゥス(シクストゥス二世)は、生まれはギリシア人、哲学者の出で、(司教座に)一年一〇か月二十三日間(着座していた)。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem ウァレリアヌスとデキウスの諸時代で、この(デキウスの)時代に最大の迫害があった。[ここでは奇妙なことに、在位二五三-二六〇年のウァレリアヌスと在位二四九-二五一年のデキウス(21.1に初出)を逆転して記述している]

 2. 同時に、彼はウァレリアヌスによって捕らえられ tentus、そして諸悪霊へ犠牲を捧げるべく連れて行かれた ductus。彼はウァレリアヌスの諸指示を praecepta 無視した;彼は斬首され capite truncatus est、そして彼とともに他に六名の助祭たち、フェリキッシムスとアガピウス、ヤヌアリウス、マグヌス、ウィンチェンティウス、そしてステファヌスが八月六日に(斬首された)。そして司祭たちは、マクシムスとグラウィオの第二回目(の執政官職:二五六年だとすると、執政官職第二回目はマクシムスのほう)から、トゥスクスとバッスス(二五八年)に至るまで、トゥスクスとバッススの執政官職から七月二十日に至るまでずっと、(教会を)管理した。この時代に最も厳しい迫害がデキウス下で苦しめた[記述が再度デキウス時代にさかのぼっていて、不可解]。

 3. そして祝福されたクシュストゥスの受難の後、一〇日後に、彼の助祭長、祝福されたラウレンティウスが八月一〇日に、そして副助祭クラウディウス、そして司祭セウェルス、そして読師 lector クレシェンティウス、そして門番ロマヌスが(受難した)。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、司祭たち四名、助祭たち二名、様々な場所のために司教二名(の叙階式)を執り行った。彼はたしかに uero アッピウス街道のカリストゥスの墓地に埋葬された。上記の六名の助祭たちはアッピウス街道のプラエテクタトゥスの墓地[XVII.4掲載の地図参照]に埋葬された。また autem 上記の祝福されたラウレンティウスはウェラヌムの農地内 in agrum Veranum のキュリアケスの墓地内に[上記地図参照:以下はその部分図]、他の殉教者たちとともに地下礼拝堂に crypta[埋葬された]。そして司教職は三十五日間空座だった。

第二十六章 ディオニシウス DIONYSIVS [260/7/22-267/12/26]

 1.ディオニシウスは修道士出身で、彼の系譜を我々は見つけていない。彼は(司教座に)六年二か月四日着座した。それはまた autem ガッリエヌスの諸時代、七月二十二日のエミリアヌスとバッススの執政官職(二五九年)から、クラウディウスとパテルニウスが執政官職の十二月二十六日までずっとだった。

 2. 彼は司祭たちに諸教会を ecclesias 与え dedit、そして教区の諸々の墓地 cymiteria と諸々の小教区を parrocias 定めた constituit[各小教区所属墓地を確定したということだろう]。

 3. 彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭六名、様々な地のために数にして八名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地内に十二月二十七日に埋葬された。そして司教職は五日間空座だった。

第二十七章 フェリクス FELIX [269-274年]

 1. フェリクスは生まれはローマ人で、父はコンスタンティウスで、(司教座に)四年三か月二十五日着座した。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem クラウディウスとアウレリアヌスの諸時代、つまりクラウディウスとパテルニウスの執政官職(二六九年)からアウレリアヌスとカピトゥリヌスの執政官職(二七四年)までずっとだった。

 2. 彼は、先に supra 殉教者たちの諸記念ミサを memorias martyrum missas 挙行することを定めた constituit。彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭九名、助祭五名、様々な地のために数にして五名の司教たち(の叙階)を執り行った。

 3. 彼はアウレリウス街道に in uia Aurelia ひとつのバシリカを basilicam 造り、そしてそこに五月三十日に埋葬された。それは首都ローマから二里程標(の所)にあった。そして司教座は五日間空座であった。

第二十八章 エウティキアヌス EVTYCHIANVS [275-283年]

 1. エウティキアヌスは生まれはトゥスキアで、父はマリヌスで、(司教座に)一年一か月一日着座した。それはまたアウレリアヌスの諸時代、アウレリアヌス三回目とマルケリヌスの執政官職(二七五年)からカルス二回目とカリヌスが執政官職(二八三年)の十二月十三日までずっとだった。彼は、祭壇上で super altare 祝福される benedici 諸生産物は fruges(pl.) 豆とブドウに限る tantum fabae et uuae、と定めた constituit。

 2. 彼は彼の諸時代に様々な地の三四二人の殉教者たちを彼手ずから埋葬した。そして彼は以下を定めた constituit、信者たちのうちだれでも(s.) quicumque de fidelium 殉教者を埋葬したとき、(華やかな)ダルマティカ dalmaticam(助祭用の祭服:下図左)や、紫で染めたコロビウムを colobium(希:κολόβιον = kolobion = short-sleeved tunic:下図右) 着せることなしに、理由なく埋葬していたら、そのことをさらに tamen 情報として彼(エウティキアヌス)に告知されるべきである、と。

 3. 彼は、十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭五名、様々な地のために数にして九名の司教たち(の叙階)を執り行った。そして彼は殉教により花冠を受ける。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地の中に七月二十五日に埋葬された。そして司教職は八日間空座だった。

第二十九章 ガイウス GAIVS [283-296年]

 1. ガイウス、生まれはダルマティア人で、(そこは)皇帝ディオクレティアヌスの一族の出であるが、父はガイウス、(司教座に)十一年四か月十二日間(着座した)。それはまた fuit autem、カリヌスの諸時代、十二月十七日、カルスの第二回(執政官職)とカリヌス(二八三年)から、四月二十二日のディオクレティアヌス第四回(執政官職)とコンスタンティウス第二回目(二九六年)に至るまでずっとであった。

 2. 彼は教会内のあらゆる諸位階を ordines 以下のように上昇していくよう定めた constituit :司教を受けるに値する者は誰でも、門番 ostiarius、読師 lector、祓魔師 exorcista、侍祭 sequens、副助祭 subdiaconus、助祭 diaconus、司祭 presbiter となって、そして続いて exinde 司教が叙階されるべきである、と。

 3. 彼は諸街区を regiones 助祭たちに分担させる。彼はディオクレティアヌスの迫害を逃れるため、諸々の地下礼拝堂内に in criptis 居住し、八年後に殉教により花冠を受ける。

 4. 彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)二十五名の司祭、八名の助祭、様々な場所のために五名の司教たち(の叙階)を執り行った。[彼は十一年後に、彼の兄弟ガビニウスと共に、司祭ガビウスのスザンナという名前の娘のために、殉教により花冠を受ける。]彼はたしかに uero、アッピウス街道のカリストゥスの墓地内に四月二十二日に埋葬された。そして司教職は十一日間空座だった。

第三十章 マルケリッヌス MARCELLINVS [296-304年]

 1. マルケリッヌスは、生まれはローマ人で、父はプロイェクトゥス、(司教座に)九年四か月十六日間(着座した)。それはまた fuit autem、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの諸時代、六月一日のディオクレティアヌスの執政官職第六回目とコンスタンティウス第二回目(二九六年)から、ディオクレティアヌスの第九回目とマクシミアヌスの第八回目(三〇四年)に至るまでずっとであった。

 2. その時代には以下のごとき大迫害が persecutio magna あった。三十日間で一万七千名の男女が promiscui sexus 様々な属州においてキリスト教徒たちとして、殉教により花冠を受けた。このことによって、そしてマルケリッヌス自身が、香を捧げるべく犠牲へと導かれ ductus est、それをやってしまった。

 3. そして数日後に、改悛へと導かれ paenitentiam ductus、同じくディオクレティアヌスによってキリスト教信仰のために、クラウディウス、キュリヌス、アントニヌスと共に首を切り落とされ capite sunt truncati、そして彼らは殉教の花冠を受ける。

 4. そしてそれが行われた後、聖なる諸遺体は路上に in platen キリスト教徒たちへの見せしめに exemplum 二十五日間、ディオクレティアヌスの布告により iussu、放置された iacuerunt。そして続いて exinde 司祭マルケッルスは、夜間に諸遺体を司祭たちや助祭たちと共に、諸々の賛美歌と共に集め、そしてサラリア街道にあるプリスキッラの墓地[冒頭地図1参照]の中に、今日もなお hodiedum ずっと公開されているクビクルムの中に in cubiculum 埋葬した。(それは彼が)殺害へと連れて行かれていた traheretur 間に、改悛した彼自身が(そうするようにと)命じたとおりに、聖クリスセンティオの遺体のすぐ近くの地下礼拝堂内に in crypta (司祭マルケッルスが埋葬した)、四月二十五日のことだった。彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)四名の司祭、二名の助祭、様々な場所のために五名の司教たち(の叙階)を執り行った。その同じ日から、司教職は七年六か月二十五日間空座だった。ディオクレティアヌスがキリスト教徒たちを迫害したからである。

第三十一章 マルケッルス MARCELLVS  [308-309年]

 1. マルケッルスは生まれはローマ人で、父はベネディクトゥス、ラタ通り街区(出身)で regione 、(司教座に)五年七か月二十一日着座した。それはまた fuit autem マクセンティウスの諸時代、マクセンティウス第四回目そしてマクシムスの執政官職から(その)執政官職後までずっとだった usque post consulatum[この表現は意味不明]。

 2. 彼はノヴェッラの墓地をサラリア街道に建設し、そして首都ローマ内に in urbe Roma 二十五の名義教会を定めた constituit。(これらは)管区 dioceses に準じるもので、異教徒たちから改宗させられる多くの人々の洗礼と改悛のために、そして殉教者たちの埋葬のためである propter sepulturas martyrum。彼は、首都ローマの in urbe Roma 司祭二十五名、そして助祭二名を十二月に叙階し、諸々の地のために二十一名の司教たちを叙階した。

 3. 彼は閉じ込められ coartatus、そして捕らえられた tentus、教会を管理した ordinaret という理由で eo、そしてマクセンティウスによって逮捕された conprehensus。それは自身が司教であることを否定し、そして自身を悪霊たちの供犠へと卑しめられるためだった。というのも常にマクセンティウスの言葉や指図を praecepta 軽蔑、嘲笑していたためで、catabulum[駅舎*]行きを言い渡された。彼は多くの日々にわたりカタブルム内で隷属している間にも、諸々の祈祷そして断食によって主に熱心に仕えることが途絶えることはなかった。

  *https://romanchurches.fandom.com/wiki/San_Marcello_al_Corso:カタブルム (紀元前 一 世紀にアウグストゥスの下で建設された) は、ローマが建設し、維持した道路の複合体全体または公用馬車 cursus publicus の世話を目的としたオフィスを含む構造の複合体。 ローマから始まり、さまざまな地域や州につながるすべての道路、すべての馬の交換所、休憩を可能にするすべての農場、それらの道路に沿って建設され設立されたすべての町、この巨大で基本的な側面ローマの生活と政治は、サン・マルチェロ・アル・コルソ教会のほぼ下にあるヴィア・ラタ(今日の私たちにとってはヴィア・デル・コルソ)にある「オフィス」で管理されていた。

サン・マルチェロ・アル・コルソ教会

 4. また autem 九か月目に夜間にすべての彼の牧者が clerus eius omnisやって来て、そして彼をカタブルムから夜間に引っ張り出した eruerunt。ある既婚婦人、ルチナという名の未亡人が、彼女は彼女の夫と共に十五年間おり、そして未亡人状態で十八年過ごしたのであるが、祝福された人を引き受けた。彼女は自身の家を祝福されたマルケッルスの名のもとに、名義教会として奉納した。そこで彼女は昼夜を分かたず諸々の讃歌をそして祈祷によって主イエス・キリストに対して信仰告白していた。

 5. このことを聞いて、マクセンティウスは(人を)送り、そして祝福されたマルケッルスを再逮捕し、そして命じた、同教会の中に、(囲いのための)外壁の板(pl.) そしてそこに ibidem カタブルムの動物たち[たぶん馬やラバ]を集めておき、そしてそれらに対して祝福されたマルケッルスが熱心に仕えるように、と。彼はまた autem 、山羊の毛で作られた衣服を裸でまとって動物たちの世話をしている時に(生命を)全うした[cf.,洗礼者ヨハネは「ラクダの毛衣」を着ていた(マルコ1.6;マタイ3.4)]。彼の遺骸を祝福されたルチナが引き取り、そしてサラリア街道にあるプリスキッラの墓地に一月十六日に埋葬した。

 6. そして司教座は二十日間空座だった。そして一方で vero ルチナは令状により有罪とされた。

第三十二章 エウセビウス EVSEBIVS   [308年]

 1. エウセビウスは、生まれはギリシア人で、医者出身、(司教座に)六年一か月三日着座した。それはまた fuit autem コンスタンスの諸時代であった[この時代表記は間違っている]。

 2. 彼の諸時代において、主イエス・キリストの十字架が五月三日に発見され、そして(それを発見した)ユダスは洗礼を受けた。彼はまたキュプリアクス(という名)でもある[別説では、発見者はコンスタンティヌス大帝の母ヘレナ]。彼(エウセビウス)は異端者たちを首都ローマでみつけ inuenit、彼らを手を上に置いて(=按手により)和解させた。

 3. 彼は十二月に一回の叙階式で(ローマ教会の)司祭十三名、助祭三名、様々な地のために十四名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam、アッピウス街道のカリストゥスの墓地に十月二日に埋葬された。そして司教職は七日間空席だった。

第三十三章 ミルティアデス MILTIADES [年]

 1. ミルティアデスは、生まれはアフェル(アフリカ)人で、(司教座に)四年七か月八日、マクセンティウスの九回目の執政官職の七月七日から、マクシムスの二回目(の執政官職)まで、それはウォルシアヌスとルフィヌスの執政官職の九月まで[C.Caeionius Rufus Volusianusは、執政官職にマクセンティウス帝下で三一一年、そしてコンスタンティヌス大帝下の三一四年に第二回目を拝命している]、ずっと着座した。

 2. 彼は(主の受難の聖週間において)主の日 dominico または木曜に quinta feria、断食を信徒たちのうち誰にとってもなんら行う理由はない、と定めた constituit。なぜならば、それらの日々を異教徒たち[実際には過越祭でのユダヤ教徒と思われる]はあたかも聖なる断食として祝っていたからである。そして(同様に断食の習慣を持っていった)マニ教徒たちが首都でみつけられた inuenti sunt。同日から ab eodemi die、彼は以下を認めた fecit、聖別された諸奉献物 oblationes consecratas、それは諸教会のために per ecclesias(ローマ)司教によって聖別されたものだが、それがあてがわれるべきである dirigerentur、と。これは「種有りパン」 fermentum として周知されている[共同体意識を高めるために、ローマ司教が配下の聖職者=献身者たち用にパンの配布を行った故事を示しているのだろう]。

 3. 彼は十二月に一回の叙階式で(ローマ教会の)司祭七名、助祭五名、様々な地のために数にして十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼は、アッピウス街道のカリストゥスの墓地に十二月一〇日に埋葬された。そして司教職は十六日間空座だった。

【第34章以降は、本ブログ2023/12/7に移行しています】

  

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アレクサンドロス・モザイクの秘密

 本日、いやもう昨日か。NHK BSプレミアムで、13:30から「古代ローマ・ポンペイ遺跡が日本にやってきた!」(90分)が放映された。その予告では、あのモザイクの秘密を明らかにするといった言い方されていたので、どこまで突っ込んでやってくれるのかとおおいに期待していたのだが、あれ〜?見落としたのか、気付かなかった。よもや楯に写った自分の顔を見ながら死にゆくペルシア兵のことだったのか? あれは秘密でもなんでもない、と私は思っているが。それと、4Kスペシャルの「よみがえるポンペイ」(これ、2/6の13時から再放送あり )での放映映像(再現映像)が使い回されていることに気付いた。これはまあ出来がよいものだったので、再見できて個人的にはよかったのだけど。

 それで若干欲求不満になり、次回の勉強会の予習を兼ねて記憶を呼び起こすことにした。

 昔、ファウノの邸宅(VI.12.2)のエクセドラの床を飾っていたこのモザイクを卒論で取り上げた学生がいたので(テキストは、Ada Cohen, The Alexander Mosaic:Stories of Victory and Defeat, Cambridge UP, 1997;Paolo Moreno, Apelles:The Alexander Mosaic, Skira, 2002)、若干お付き合いして調べた時に、お〜〜〜という驚きを体験したことがあって。

 ところでファウノの邸宅は、優に2軒分の敷地を占めていて、なんとアトリウムとペリステリウムと呼べる空間が2つあるのだ(上の図だと、27と7、54と39)。おそらく右の52から入って7,そしてズスっと奥の広いほう(39)にいたる区画が主として家族用と考えると、今問題のエクセドラExedra(37)はおそらく限られた賓客用だったかもしれない。というのはその豪華さが尋常でないからで、ナイル河畔風景のモザイクもここの敷居に埋め込まれていた。エクセドラとは本来は談話室であるが、私はこれだけのモザイクを使っているので、夏の食堂tricriniumを兼ねていたのではと考えている;ただその場合、部屋の周辺空間をかなり占める食事用寝椅子を置くにはちょっと手狭で、舗床モザイク全体を眺めることができなくなってしまうのが難点だが。実はこの邸宅の舗床モザイクはおおかた剥ぎ取られて国立ナポリ博物館の中二階左翼に展示され、現場にちょっとだけレプリカで復元されているのだが(29など)、このエクセドラでも壁を含めて再現してほしいと思わざるを得ないのだ(3Dであるはずなのだがじっくり再現したものに行き当たっていない):ついでに言っておくと、アレクサンドロス・モザイクの舗床の傷みが左側の大王側に著しく、後79年当時にも補修されていなかったことから、このモザイクの主題は自ずと中央から右にあったということの暗黙の証言、と私には思えるのだが。

 おもわず前口上が長くなってしまったが、まずは全体写真。

このモザイクに限って1cm平方に15-30個のテッセラ(石片)という緻密さで描かれたOpus vermiculatum技法:普通はそれでも5,6個だとか。

 そもそもファウノの家は、ナイル河畔風景や静物画で、Opus vermiculatum技法のモザイクだらけの豪華さなのだが、かのモザイク舗床の来歴とかなんかのご紹介はまあ他にお委せするにして(だいたい単なる画材に歴史事象を重ねてどうのこうのと言いつのるのは、研究者のサガとはいえ、お門違いとも思えるが:あ、本ブログも同罪でした(^^ゞ)、一挙に核心に触れることにする。

 昔ちょっと勉強した時に何に驚いたかというと、画面中央の以下の図の解釈だった。

 それとの関連で大王の背後の以下の図の左にもご注目ください。

大王の後のヘルメットの兵士:銀のボイオティア・ヘルメット、金のリース、白い馬毛の飾りは上級将校を示す(『アレクサンドロス大王の軍隊:東征軍の実像』新紀元社、2001年、p.14より)

 まあ、事前に「アレクサンドロス・モザイク」という予備知識を吹き込まれて普通に鑑賞すれば、おのずと構図的に主役の大王とダレイオス3世に目が引かれてしまうし、左3分の1が剥落しているし、背景となっている群像などそれでなくとも乱戦の中にまぎれているので、いちいち見ているわけではない(否、一応見ているのだがぼ〜と見ているだけの「ちこちゃん状況」にすぎないわけな)ので、つい見落としがちになるのだが、中央から右はペルシア軍兵士の群像が描かれているのだが、その中の異質な存在に気付いた研究者がいた。それがギリシア・マケドニア系ヘルメットを着用した兵士である。上の部分図では正面に目線を流している者ともう一人ヘルメットの羽根飾りが見えている。さて下の部分図にも同様のギリシア的ヘルメットが。剥落が目立つモザイク左側はギリシア・マケドニア系兵士が描かれている区画なので、下のほうの部分図のそれは大王麾下の騎兵と考えていいのだが(実際そのように後世において修復再現されている)、じゃあ中央の彼らは何だという件で、画面上部に林立する長槍の実にダイナミックな動きから、前進していたダレイオス3世軍(画面中央)が動揺して逃走に移っている(画面右)様子が歴然で、その研究者は、中央の二名、それとその左のペルシア兵が右向きであることに注目して、その三名を敗走を始めたペルシア側兵士で、あのヘルメット着用の二名をペルシア軍に傭兵として参加していたギリシア人たちとしたのであ〜る。これには私は本当に驚いてしまった。観察眼と構想力の勝利である。

 それでじっくり考えてみたら、あの画面上部に林立する長槍であるが、あれこそギリシア・マケドニア系のファランクスの特徴とするなら(長さ4-6mのSarissa)、ギリシア系とペルシア系の闘いなのに、ダリウス3世軍にファランクスが見えるのは一見奇異で、しかしそれがギリシア傭兵の歩兵だとすると納得できるわけである。ちなみにペルシア軍の主力は弓兵や騎兵で、1万人の重装兵「不死隊」(歩兵と騎兵がいた)は有名だったが、大きな楯と2mの槍で武装した歩兵の基幹部隊Sparabaraは決して決戦兵器ではなかった。下図参照。

A、Sparabara;B、弓兵;C、不死隊;D、旗手:大王の東征をまとめたYouTubeを参照(https://www.youtube.com/watch?v=K7lb6KWBanI)

 ただし、イッソスの敗北後に、ダレイオス3世は自軍に長槍部隊を創設してきたるべき決戦に備えていた、という情報もあって、となると事態はまた複雑になるが。

 ところで1831年に発見されたモザイクを、その直後に剥落部分を含めて油絵に描ききったものが、モザイクが展示されいる国立ナポリ博物館中二階のモザイクの左壁に掲示されていることはご存知だろうか。それが下図である。かつて私はこの復元想像図を舐めるようにながめ、写真に収めたものだ。

この画像、実は明度をだいぶあげている
モザイク修復中のNHKの映像に、展示されている件の油絵が写っている

 今日では色々な復元画像もウェブ上で得ることできる。以下はその一例。

 さて今回ググっていたら、またまた驚くべき説を唱えている人物に行き当たった。Werner Kruckの英語版ウェブ「Reconstruction of the mosaic」(http://alexandermosaik.de/en/interpretation_of_the_mosaic.html)に寄せられた、Justin Woodのコメントである(2015/02/05)。中央から右の背後に見える長槍をギリシア系と見るところまでは同じなのだが、それをアレクサンドロス大王麾下のファランクスとみなす。即ち、ペルシア軍本陣はこの絵での背後からギリシア歩兵に追い立てられ、左からは突撃してくる大王の騎兵隊に不意を突かれ、この時点でダレイオス3世は大王軍に包囲されつつあった。それでダレイオス3世がまさに逃走を図った瞬間を描いているのだ(戦車の前の尻を見せている馬は王の逃走用だったと、もっともらしく言われている)、と。

 客人を前に主人が蘊蓄と謎解きを披露している光景が目に浮かぶ。それを我々がどう読み解くか、おそらく正解などありようもないが、深読みの楽しさがここにある。

【付記】最近このモザイクの研究書というか写真集が出ていたことにようやく気付いた(なんと、Fausto Zevi御大が寄稿者の一人としてご登場だ!:Photography by Luigi Spina et als., The Alexander Mosaic, 5 Continents Editions Srl, 2021)。しかしさて2021年開始で今年中には終わる修復結果とどう整合するか見ものである。なにしろこれまで塗られていたニスを取り除くというので、光沢など変わる可能性が高い。逆にいうと、未だにほかにそんなに専門研究書がないので、ねらい目のテーマではある。

【追記】上記の本が届いた。ちょっとビックリしたのだが、この本にはページ数が打ち込まれていない。100ページの画像と、10ページの概説・文献目録だけなのである。だから写真集という感じかと。

【追記2】ぐうぜんみつけた論文に面白い「秘密」が暴露されているような予感が。興味ある向きは、2023/2/22掲載のブログ「アレクサンドロス・モザイク再論」をご覧下さい。

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Pompeii 雨のアトリウム

 これは私が写した写真ではないが、別件ググっていたら出くわした。私もアボンダンツァ通りを歩いていた時、雷を伴ったたいへん激しい夕立に遭遇し、近くの邸宅に避難したときに似た写真を撮ったことあるのだが、とりあえず捜し出していないので、忘れないうちに代わりに拝借しておいた。

この邸宅に逃げ込んだ人々は、みな喜んで笑っている。雨宿りも普通じゃなくて天井にcompluviumの穴が空いていて、雨水が床ではねるので、壁際まで避難しないといけない。乾期の夏期に訪問すると雨に遭うこと自体めったにない僥倖なのである。

こんな調子で写真のような現状だとアトリウムはびちゃびちゃになるが、古代においては、屋根に落ちてきた雨水を下で受け止めるimpluviumに流し込むべく、天井の矩形空間compluviumに吐水口があったので、少しは効率的だったかもしれない。ところで、この吐水口、中世教会建築ではやたら魔界の魔モノ的なおどろおどろしい装飾物でおなじみだが、古代ローマでは2022/1/5にアップした犬の塑像関係で触れたような毒気のない動物が多い。

左、アトリウム風景   中、compluviumに設置された吐水口       右、動物たちをかたどった吐水口

 以下はおまけであるが、今般の東博のポンペイ展で展示物の中に伝エルコラーノ、パピルス荘出土の吐水口で、造形は雌ライオンとのこと。テラコッタ製の管の先に青銅製のこれが接続されているわけだが、さすがにパピルス荘、こんなところまで凝っていたとは。

 なお、Impluviumに溜まった雨水は、その下に掘られている貯水槽に流れ込ませる集水口があって貯水され、それ用に傍に設置された井戸からくみ上げて使用されるのだが、ほとんど井戸水で生活したことのない私としては、こんな水、何にどう使用するのか、どうしても気になってしまう。直接はいうまでもなく、たとえ砂などで濾過した水にしても、飲料としての利用は勘弁してほしいと思ってしまうのだ。はたしてあの水をどうしていたのだろうか。現代のマンションでも屋上の貯水槽内にはネズミや昆虫の死骸が浮いていたりするのだそうだし。その時代、水を行商販売していた水売り人がいたし、街角には公共の泉水もあったので、飲料水はそれでまかない、貯水槽の水は生活用水に使用していたと思いたいのだが・・・。

左、手前がアトリウム(客間)、そしてタブリヌム(当主の執務室)、その奧に青天井で列柱のペリステリウム(中庭)が見える;右、地下の貯水槽の図式:このように直接水をくみ上げるのが普通だったようだが、中には砂に浸透させる方式もあったらしい。
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「特別展ポンペイ」を見てきた

 2022/1/21に、めったにないことだが知人から無料鑑賞券を2枚もらったので、某読書会の予習を兼ねて、これもめずらしく妻と2人で東博に「ポンペイ展」を、念のため事前予約して見に行った。会場の平成館は奥にあるので、上野駅公園口からそこまで行くのが寒かったが、駅前の自動車道がなくなっていたり、西洋美術館が改修中とかで、上野は久し振りだったのでその変わりように驚いてしまった。

 14時半予約していたのだが、それ以前に検札を通ろうとしても、入場者はそんなに多くなかったのに、待合室で待たされてしまった(たぶん予約してなければ直に入れたと思う)。今回は、空間構成にかなり余裕があって、鑑賞者もそう多くなかったので、気分的にゆっくり見ることできた。写真が自由に撮れたのもイタリア的でよかったが、これって日本ではいつものように人が多いとはた迷惑になるはず。以下の動画がある。

 「ファウノの邸宅」「キターラ奏者の邸宅」「悲劇詩人の邸宅」に焦点合わしているのはいい試みだった。私的には「Julia Felixの邸宅」関係があちこちに、特にあの有名な「賃貸広告文」があったのも嬉しかった。

 また「Lucius Caecilius Iucundusの邸宅」(V.1.26)関係の4点が出品されていて、これはまさにちょうどその遺跡の出土品を別件で扱っていたので、その偶然が嬉しかった。とりわけ、玄関を入ってアトリウムを直進するとタブリヌム(家長の執務室)に至るが、その両脇に設置されたヘルマ柱の左側のほうには、青銅製胸像が載っていて、柱に「GENIO・L[uci]・NOSTRI ・FELIX・L[ibertus]」(我らのLucius(Caecilius)の守護霊に、Felix L.が[献じた])と刻まれている(本物はナポリ博物館に展示されているし、これまで日本にも来たことあるが、今まで無関心で気付かなかったのだ)。なお、1930年代から1970年代までこの原位置には青銅レプリカを載せたヘルマ柱が設置されていたようだ。また、簡単に往年の様子を想像したい向きには、以下があります。https://www.youtube.com/watch?v=ETd7pszxhnc

 その末尾の刻文「L(ibertus」(=解放奴隷)から、解放奴隷のFelixが、たぶんご主人様のLucius Caeciliusへの敬愛の念から胸像を守護霊に寄進したと考えるのが順当なのだが、研究者たちは必ずしもそのようにとっていない。それはなぜか。今回のカタログではこの家で出土した最古の後15年の書字板にLucius Caecilius Felixが登場しているので、それが解放奴隷Felixと同一人物なのでは、というわけである。こうなると、献呈されたLucius Caeciliusは、このLucius Caecilius Felixと、そして当時の当主Lucius Caecilius Iucundusと、そして解放奴隷Felixは、どういう関係になるのか、これが当然問題になる。もちろん、あくまで解放奴隷Felixは主家と血縁関係なく、解放時に当時の当主Felixの名前を頂戴しただけ、ととることもできるはずだ。

 ところが今般のカタログではそう考えていない(p.106:署名RC=Rosaria Ciardiello)。Iucundusの祖父なり父が解放奴隷Felixであり、胸像そのものもFelixだった可能性を指摘している。かなり入り組んだこの解釈もまんざら無視できはしない。このようにたかだか2行足らずの刻文なのだが、なかなか決着がつきそうもない。問題解決にタブリヌムの右に設置されていたもう一柱は参考にならないのだろうか。Fausto & Felice Niccolini(1816?-1886?)によると、右のヘルマ柱は、噴火後に穴を掘った盗掘者たちによって頭部が破壊されてしまい、発掘時にそのまま見つかった由だが(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2001%2026.htm)、破壊された胸像のほうはともかくとしてヘルマ柱上に何の痕跡(刻文)もないのだろうか、気になるところである。もうひとつ、同家から出土した書字板史料の詳細な検討から何かヒントが見つからないだろうか。いずれにせよ、今後のさらなる検討対象となりそうなテーマではある。

左、東博で撮影;右、写真の左隅のヘルマ柱にレプリカが置かれていた写真もみつけた
携帯で撮ると歪みますね

 もうひとつ興味あったのはこの家から153点出土した書字板のひとつのレプリカだったのだが、これは薄暗い照明の中では真っ黒の炭板としか見えなかったのが残念。実はそれらの中に「円形闘技場の乱闘」のフレスコ画関係の傍証記述を記載したものがあるのだが(H69-82)、それの展示だと連携的でよかったのだが。

 炭化といえば、炭化したパンも展示されていたが、どうせなら刻印stampを押してあるものにしてほしかったのも、一時それを調べていたことあるからだが(これも余談だが、なんでパンに刻印押したのかが問題で諸説ある。私は誰が無料配布したのかを示すため、というのが一番当たっているように思ったのだが、奴隷の名前が多く押されているので、一般化は無理でしょうね。どなたかいい知恵出してください)。

 私的に今回一番の収穫は「奴隷の拘束具」だった。この種の拘束具は初見だったので驚いたこともある(ちなみに、2010年の京都・古代学協会主催の横浜美術館の時は、ポンペイ郊外出土の給湯システムが初見で、たいへん興奮したものだ。なにしろ私はそれまでドイツ出土のものを写真でしか見たことなかったので(その経験が、オスティアでも役立った、といってもそこでは金属は回収されたあとの単なる空間が残っていただけだったが)。蛇足だが、このときのグッズ売り場は私にとって実に充実していて、18禁の品々をいっぱい教材用に購入したことを思い出してしまった、もっとも刺激的すぎるそれらは実際には研究室に死蔵してしまったのだが)。

上がピラネージのエッチングを使っての解説文:件の拘束具は大劇場の回廊から出土とのことだが、農業奴隷ではあるまいし、本当にこんな拘束をしていたのだろうか、いささか疑問。農業奴隷だってだいたいは円形の足枷だったはず。新人奴隷の調教ないし懲罰用?
 ところで、全部で158を数える展示物のうち、「東京のみ」が34もあるのは、展示空間の問題だということだが、立像「ビキニのウェヌス」、モザイク画「辻音楽師」、フレスコ画「円形闘技場の乱闘」「賃貸広告文」「サッフォー」「パン屋の店先」などはせっかくの貴重な逸品なのに、東京以外では見られないのは残念なことだ。私だったら他を省いてもこれらをとるのだが。特に私は今般モザイク画で署名を、フレスコ画で落書きを自力で確認できたのも収穫だった。たぶん、ナポリ博物館よりも低く私の目線に設置されていたので、容易に気付けたのだろう。

 上記ギリシア語:ΔΙΟΣΚΟΥΡΙΔΗΣ ΣΑΜΙΟΣ ΕΠΟΙΗΣΕ「サモスのディオスクリデスが[これを]作成す」。だが、といって彼がこのモザイクを実際作成したかどうかは不明、というよりこの署名すら原作品からの模写だろう。

 下記の2つの落書きは、Casa di Anicetus(I.3.23)のペリスタイル(中庭)の後壁に描かれていた壁画「円形闘技場の乱闘」に刻まれていたもの。

  ラテン語:D(ecimo) LVCRETIO FE[L]ICETER「デキムス・ルクレティウスに幸運を」

  ギリシア語:ΣΑΤΡΙΩ / OYΑΛΕΝΤΙ / OΓΟΥΣΤΩ / ΝΗΡ ΦΗΛΙΚΙΤΕΡ「サトリウス・ウァレンス、アウグストゥス・ネロ[の奴隷]に幸運を」(他の読み方もあるので検討中)

 これら2つの落書きに通底する同一意図を想定するとき、後59年のヌケリア市民との乱闘の後始末として、元老院が一旦定めた10年間剣闘士競技禁止令を、皇帝ネロが早くも数年後に解除した件で(この後段は、なぜか誰も触れようとしないのはなぜ)、そのために奔走し関わった人物たちを顕彰してのもの、という仮説もなりたつであろう。ここらにも宝の山が埋もれている予感がする。

 主催者が宣伝している「アレクサンドロス大王のモザイク」については、一時期博物館で舐めるように詳細を観察したり、文献もちょっと調べたことあったし、現地「ファウノの家」でレプリカ再現の作業中に薄い石片を張り付けていた(本式のモザイク埋め込みではなく)のに遭遇した経験もあるので、感激はそうなかった。ただ現在修復中であの周辺の部屋も閉鎖中なのが奏功してか、そこの展示物がたくさん送られて来ていたのは思わぬ僥倖である。

あとは感想:  

 いつも思うのだが、館内で鑑賞できるビデオを編集・販売してくれると、教材とかで大いに役立つのにと。

 各々の展示物の傍に、出土場所を示したカードがあったが、カタログにあるような地図を配布解説文の裏面にでも印刷してくれていると、手軽に参照できてよかったような気がする。 

 部屋が暗いこともあって、音声ガイドのポイント(場所)が分かりにくく、手こずった(ガイドリストには書いてあったにしても)。  

 それと、あろうことか図録に4箇所間違い(ないし、展示物の差し替え?)の修正が挟み込まれていて、これは責任者の芳賀女史の律儀な性格のせいかなと。  

 ミュージアムグッズ売り場で、関係図書の販売を期待していたが、はずれだった。そのくせポンペイと無関係なもの、無意味なものがたくさん売られていたのは、私的にはいかがなものかと(ワイン、菓子、クッション、キャラその他:すでにメルカリに山ほど出品されているじゃないか:本来あるべきガルムがなぜないのだっ)。・・・とはいえ、うちの嫁さん、指輪だっけを嬉々として買っていたようでして (^^ゞ、ったくもう。

 新コロナ下でもあり博物館の推奨見学時間90分となっていたが、ゆっくり見てもその時間内でまずまず見学できる感じかと。

【追記】3/10午前中に2回目の見学を10:30から90分間にした。この時は別件でこれも頂戴した無料鑑賞券で、事前予約していなかったが、検問で予約せよとご指導いただいてしまったので、事前にしておいたほうが面倒がないだろう。とはいえたかだか数分のことだが。

 というのも、前回にくらべて今回は人出がかなり多く、展示物の前に人がいてなかなか前に進めないことが多くなったし、12:30頃、帰り際に見ていると例のごとく並ばされている人数も相当いたからである。

【追記2】なぜか東京で掲示不可だったものが京都では掲示されているというので、6/2の帰省の折、途中下車して行ってきた(交通費が直行より7000円余分にかかったのはこたえた)。新幹線で降りる人がほとんどいなかったのでしめしめと思っていたが、駅前のバス停では長蛇の列となりびっくり。といっても同胞ばかりだったが。ま、会場の市京セラ美術館での人出はまずまずだった。

 お目当てはカタログのNo.147(2022/6/3のブログ参照)の「キターラ奏者の家」(Casa del Citarista:I.4.5)で、あの背景の山をウェスウィウス山とする説に出会い、かなり急な坂道の果てに平たい頂上が見えるわけだが、おそらくそれがストラボン叙述「山頂以外は非常に美しい畑地が取り巻く。山頂は大半が平らだが全体が不毛の地で」との関係でそう注目されているのだろうが、単にそれを確認するための寄り道であったのだが、残念ながら19世紀半ばのN.La Volpeによる描画のようには明確に認識することはできなかった。それに、天空を飛翔するクピド?は別として、頂上にどっしり根付いた樹木をどう解釈するのかも問題だろう。以下、左が描画、中が今回撮った全景写真、右がその頂上と裾野の部分の拡大合成図である。

現状況では頂上付近に顕著な剥落、右端下図で坂道は明確ではないが、かすかにその痕跡らしきものがあるといえばあるような(^_^;。

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トンガ沖火山爆発に触発されて:後62年の地震とポンペイ

 大型の火山爆発の影響は、直後の被害のみならず、後に尾をひくことはもう常識だろう。たかだか1時間の爆発での噴煙は成層圏に達した(とはいえ今回はそれほどでもないと見積もられているが:https://mainichi.jp/articles/20220125/k00/00m/040/310000c)。

1/15:トンガ沖の海底火山爆発

 たまたま別件で予習をしていたので、イタリアのヴェスヴィオ火山関連のものを紹介しておく。といっても当時は写真があるわけではないが。以下のレリーフは、後62年の地震によりポンペイ市内の建造物が破損した情景を描いたものとされる貴重な証言である。場所は、ポンペイ遺跡のV.1.26「Lucius Caecilius Iucundus の邸宅」の玄関入ってすぐのアトリウム(下2つめの平面図の番号1)左角隅に設置された家庭祭壇 lararium にそれはあった。この家の主人は銀行家で、そのため敷地内から多くの書字板文書も出土したらしい(そのレプリカが今般のポンペイ展に来るそうだ)。祖父ないし父 Lucius Caecilius Felix の青銅胸像はヘルマ柱ともどもナポリ博物館所蔵されている。実は2022/1/5にアップした犬の塑像関係で紹介したモザイク舗床がまさにこの家の玄関を飾っていたのである。

第5区に注目。その西の第6区との境界で城門が途切れている所がヴェスヴィオ門;件の邸宅は第6区と第9区との交点角地(要するに南西端)のブロックの中頃に位置する。この邸宅をヴィジュアルに見たい向きには、以下がある。
https://www.youtube.com/watch?v=ETd7pszxhnc
出典は、Pompeiiinpicturesより

 正面上下それぞれに、上がヴェスヴィオ門付近(左端は配水塔でこれは頑丈で地震でも残った、次が崩壊した門、それの下敷きになった感じの荷馬車と輓獣2頭)、下が forum 周辺の被害状況を描いたものだろう(現在ではこの2枚は取り去られている:上のは盗まれ、下のは国立ナポリ博物館所蔵)。

 それにしてもこんな場面、どういうつもりで家庭祭壇の装飾に採用したのやら。肉親から犠牲者が出たからというわけでもなかろうに。その意味で、この屋敷が第5区第1街区という立地条件を考慮に入れると、ヴェスヴィオ門や配水塔(それに背景となっている城壁)は身近なご近所だった。そしてフォルムはまあどう言っても都市の中心地で公共建築物も集中しているわけで、そこの惨状を記録に残して、日々神々とご先祖様に無事息災を祈っていたということかもしれない。

 上記写真は、下の方のレリーフを彷彿させるフォルムのユピテル神殿を正面から見たもの(https://3dwarehouse.sketchup.com/model/23b4c5433946fdffdfd89dd71a555b12/Pompeii-Temple-of-Jupiter)。こうしてレリーフと現況を眺めてみると、傾きのひどいこの神殿は、現況でも円柱の残りが悪いので、地震で少なくとも柱廊部分は解体されて再建されなかったかも知れない、と思い出した。なお神殿の左側でやや傾いている構造物は、神殿両脇前後に互い違いに設置されていた2つのアーチ門の1つで、右側のそれはなぜか省略されている。そこから右寄りの構造物は、広場の東側の「公設市場」「ウェスパシアヌス神殿」「ラレス神殿」「エウマキア会館」、またはアーチ門を越えて北に1ブロック行った角の「Fortuna Augusta神殿」(VII.4.1)のいずれかだったように思えるが、わざわざ右アーチ門を省略していることを勘案すると、案外最後の「Fortuna Augusta神殿」の蓋然性が高いかもしれない(参照、サルバトーレ・ナッポ(横関裕子訳)『ポンペイ:完全復元2000年前の古代都市』Newton Press、1999年、pp.92-115)。下の方のレリーフの右側はそこで牡牛の犠牲を捧げる様子が描かれているのだろう。
西側から見たフォルム周辺の発掘時模型(http://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/r7/7%2008%2000%20East%20p1.htm):関係建造物が一瞬であるが再現されて登場しているのが、以下:https://www.youtube.com/watch?v=IDCVcuVR5w8;終盤にフォロ周辺が出てくるこっちのほうがより正確でいいかも、https://www.youtube.com/watch?v=IGuIL3gjIbA

 風景の細部について改めて論じる機会がさて私に残されているかどうか・・・。とりあえず、共に右隅に描かれているものが何を意味しているのか。特に上のレリーフの方がよくわからない。

左(上のレリーフ)は、私には散乱した武器庫に見える。そうだとすると、城壁近くのご近所の未発掘地区にまだ埋まっているかも・・・;右(下のレリーフ)は神殿で犠牲を捧げる時の道具のようだ(たぶんお盆ないし碗と、包丁と、水差しか;右ブロックに patera も)。

 発掘の結果、後79年の大爆発によってポンペイが完全に埋没するまでの足かけ17年をかけて、だがしかし街の修復はさしたる進展も見ないまま打ち過ぎていたことが、そこかしこいまだ工事中で散見され判明している。インフラの復旧すら達成されていないということで、後62年のあとポンペイの有力住民をはじめ逃げ出せる者の多くが街を放棄したので、都市としても復興資金不足となってという事情もあったのだろう。そして行き場のなかった居残り組が79年の犠牲者となったわけだ。それにしても、地震で崩壊したヴェスヴィオ門が17年後に修復されていなかったとすると、最後の第4サージで怒濤の如く迫ってきた火砕流の恰好の城内への突破口となったはずだ。その意味で、現在でもまさしくヴェスヴィオ門周辺が妙に平べったい印象あるのは、示唆的ではなかろうか[後62年の地震とその影響については、以下参照:金子史朗『ポンペイの滅んだ日』原書房、1988年、pp.69-75]。

 うん、こりゃあれこれエピソード豊富でまとめるのにいいテーマだ。なんだかオリジナルの論文書けそうな気がしてきた。しかし私でも思いつくこの程度のことは、目端の利く欧米の研究者がすでに言っていないはずはない。

【追記】上の不明イメージについて複数の美術系知人に問聞きの回状メールを送付したところ、間髪入れずにある人物から返答があった。さすがである。

A cura di Filippo Coarelli, Divus Vespasianus:Il bimillenario del Flavi, Ministero per i beni e le attività culturali, Soprintendenza speciale per i beni archeologici di Roma, Electa, Milano, 2009, pp.484-5 からのスキャンが送られて来た。本書はたぶん展覧会のカタログで、項目執筆者は Fabrizio Pesando。以下、レリーフのイメージ関連部分だけを紹介する。

85:62年の地震の影響を示すレリーフ:フォーラムの建物

ポンペイ、カエキリウス・イクンドゥス家のララリウムより(V.1.23)

ルナー(イタリア・トスカーナ)製大理石

高さ16.5cm、長さ97cm Inv. SANP 20470

86:62年の地震の影響を示すレリーフ:Porta Vesuvio 付近の建物

ポンペイ、カエキリウス・イクンドゥス家のララリウム(?)より(V.1.23)

石膏模型

高さ18cm、長さ86cm、厚さ6cm

ローマ、ローマ文明博物館。 inv.M.C.R.1368

 「フォーラムの建物」を描いたレリーフ(A, cat.85)は、アトリウムの北西隅に位置し、全体が大理石の板で覆われた石積みのララリウムの南側の上部帯を飾っており、一連の動物を描いた2つ目のレリーフがそれに連結されている。

(中略)

 レリーフAには一連の公共および聖なる建物が描かれており、そのうちのいくつかは確実にフォルム地区に位置している。左側には大きな単一アーチがあり、西(見る人の左)に向かって強く傾いている。これは、いわゆるドルスス Drusus のアーチで、79年の噴火後に行われた剥ぎ取りにより、今日では大理石が全くないように見えるが(コーニスの断片とスラブを接着するためのダボがわずかに残っているだけ)、地震の後に南東側の上部を統合する工事で部分的に修復された。アーチの隣には、同じく西に傾いた大きな神殿が描かれている。ここでは四柱式 tetrastilo として描かれているが、フォルムの北側の短い部分を中心に閉じていた都市の Capitolium(実際に前面に6本のコリント式円柱がある)と同一視することができる。この神殿の特徴は、階段の中央にある祭壇と、両端にある2つの彫像の台である。今はもう存在しないこの像は騎馬像で、ユピテルの子孫である騎士の守護者ディオスクリを表していたのかもしれない。ウルセウス urceus=水差しとパテラpatera=供物皿は、フォルムとは限らない別の記念建造物で行われた具象的なシーンを紹介している。右側には他の生け贄の道具(トレイ vassoio、ナイフ coltello、シトゥラ situla=手桶)が並んでおり、犠牲式で使うバイペン bipenne(=諸刃の斧)を持った犠牲執行吏 victimarius が、雄牛の角を引きずって祭壇に向かって押している。祭壇のテーブルにはベールを被った女性の頭が、前面には動物(確実に子豚 porcellino)が描かれている。他の記念建造物とは異なり、このモニュメントは完全に無傷である。このため、このシーンは、地震の後、フォルム地区の聖なる建物の一つ(おそらく、いわゆる「公共のラレスの聖域」Santuario dei Lari Pubblici)で行われたテルスTellusへの贖罪の犠牲式を表していると考えられている。しかし、ポンペイにテルスの儀式を示す証拠がないため、この識別は不確かなものとなっており、シーンの解釈(地震の際にそこで行われていた儀式行為のために、まさに無傷で残った建物のプロディギウム prodigium=瑞祥)や、崇拝されていた神の識別(重要な聖域が捧げられ、非常に権威のある公の神権を持っていたウェヌスVenere[ポンペイの守護女神だった]やケレースCerere[ローマ古来の豊穣地母神]など)など、他の可能性が残されている。

 浮き彫りBは、浮き彫りAとのテーマ的・様式的な類似性から、ララリウムの装飾そのものを指すと考えられているが、帝政期のポンペイの有名な建物も描かれている。配水塔 castellum aquae とヴェスヴィオ門は、実際に左手に完全に識別できる。前者は、都市に面した正面を示す3つのブラインド・ブリック・アーチ tre archi ciechi が、細部に至るまでごくわずかな誤差で再現されており、レリーフAの祭壇と同様、建物は無傷のようで、現存する遺構にも大きな損傷や修復の跡は見られない。それとは全く異なる運命を辿ったのが、近くにあるヴェスヴィオ門 Porta Vesuvio である。Porta Vesuvio は現在ではほとんど消滅しており、西側の角柱 piedritto だけが残っている。レリーフでは、ほぼ完全に右(東)に傾いており、巨大な両扉は開け放たれている。そう離れていないところに、牛かロバ buoi o asini[複数表記]のような動物が2匹で引っ張っている荷車があり、揺れで身動きが取れなくなりそうになりながら、町に向かっているようだ。その後ろには、盛り土 agger と城壁の上部が見える。城壁は整然とブロックを積み上げ、一連の狭間胸壁 merlature(CIL X,937の碑文に記されているように、スッラの植民都市 colonia sillana の初期に再建された plumae)で覆われている。Aのレリーフと同様に、右端には祭壇が置かれているが、ここでも完全な形で現わされている。構図の最後にある大きな木(樫)や、テーブルの上に置かれた供物(花輪corona vegetale、灌奠用のパテラ patera per le libagioni、初物を詰めた[豊穣の]角 corni riempiti di primizie)から、この祭礼の素朴さがうかがえる。 祭壇の前には、諸々の祭具 oggetti cultuali(おそらくリトゥウスlituus = ラッパ)のほか、動物が大きな杯 coppa = 酒杯をひっくり返している。なんの動物かは不明だが、上を向いた長い尻尾があることから、子羊は除外される。鼻の形や長い耳は、齧歯科やイタチ科の動物を表現するのに適している。後者の場合、イタチの可能性がある。イタチは、古代ローマの豊穣の神 Mutunus Titinus と結びついた、繁殖能力の高い動物である。

  また、地震で破壊された建物と免れた建物が交互に現れるのは、こうした自然災害には必ず prodigia = 諸々の瑞祥が現れることを暗示しているのかもしれない(上記「Pesando」参照)。」

 繰り返す、さすがである。私見では部分的に言いたいことあるけれど、この学的厚みと説得力に極東の老書生は太刀打ちできない。

【追記】なんと盗まれたほうが50年振りに発見された。本ブログ2024/1/3をご覧下さい。

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中世ヨーロッパの軍馬は意外と小型

 1/10発の表記を考古学新情報の書き込みを見て、だったらローマ時代だって同様のはず、というわけで、紹介しようと思ったのですが・・・。念のためウィキペディアの「中世の馬」の項目に行ってみたら、案に相違して冒頭に「中世ヨーロッパの馬は、大きさ、骨格、品種が現代のとは異なり、平均して小型だった」とあっけらかんに書いてあって、脱力。だがまあ新事実あるかもと転載します。

 ま、ナチスドイツの戦車が全部ティーゲルだと思っちゃうのと同じ思い込みというものだろう。新しい研究で、現代の基準ではポニーサイズにも満たないものが多かったことが明らかになった。この時代の馬の体高は14.2ハンズ(=144cm超)以下が大部分だったが、実際、馬の価値とは馬体の大きさがすべてではないことは明らかで、むしろ種々様々な戦闘場面に適合的な繁殖・飼育・訓練が試みられていたことのほうに注目すべきなのだ。

これまで軍馬の代表みたいに言われてきた大型のデストリエdestriers種

 今般、研究者たちはイギリスの171の遺跡で発見された後300年から1650年までの馬の骨格データを分析した(International Journal of Osteoarchaeology, 31-6, 2021, pp.1247-1257)。その結果は、記録に残っている最も背の高いノルマン馬はウィルトシャー州のトロウブリッジ城で発見されたもので、約15ハンズと推定され、現代の小型軽乗用馬の大きさに近い。中世後期(西暦1200年〜1350年)になると、初めて16ハンズ前後の馬が登場するが、中世後期(西暦1500年〜1650年)になると、馬の平均体高が大幅に高くなり、ようやく現代の軍馬や輓馬のサイズに近づいてくる。こうして、中世の時代を通じて、戦場での戦術や文化的な好みの変化に応じて、さまざまな形態の馬が望ましいとされていた可能性の方がはるかに高い事が判明した。

 ただ、出土骨格で軍馬かどうかを判定することはできないこと、どうやら馬は死後に解体されて皮や肉は利用されたので完体での出土はまれ、といった分析上の根本的な問題が残っているようである。

 ちなみに、以下の古代ローマのコインの裏面には副帝ドミティアヌスの騎馬像が打刻されているが、騎手の足がほとんど地面につきそうに描かれている。ただし貨幣に写実性を求めすぎるのも問題だが。

 先日NHK総合で大河ドラマ「鎌倉殿の13名」第1回を偶然見たとき、北條義時役の小栗旬が伊東から帰る場面で騎乗していたのが小型の馬でとことこと走っていたので(彼が185cmと長身のせいではないと思う)、おや、やるなと思ったが、他は普通のサラブレッドとみた。

要は、馬脚の長さの違いのように思えるがどうだろう

【追記】以下の本が届いた。送料込みで¥12012かかった。これからはロバdonkeyとラバmuleだ。

 Peter Mitchell, The Donkey in Human History: An Archaeological Perspective,‎ Oxford UP, 2018, Pp.360.

 1ページ当たり33.4円か。かなりのものだ。

【追記2】2022/1/14発:こんな情報も。「馬以前に、家畜のロバdomestic donkeysと野生のロバwild assesを掛け合わせたスーパー・ロバ「クンガ」kungaが、戦車に使われていた」(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2022/01/before-horses-ass-hybrids-were-bred-for.html)。

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後6世紀に被解放奴隷がいた

 2022/1/10公表。2007年にトルコ南部ハタイHatay県アルスーズArsuz地区で、自宅のオレンジ畑に苗木を植えていて遺跡が見つかり(たぶんそれ以前に見つけていたが、今回届け出たということかも)、発掘調査されてきていたが、今回の発掘シーズンにそこから6世紀の聖使徒教会の舗床モザイクが出土した。その銘文から奴隷が解放された後、神に感謝するためにその舗床なり建造物を寄進したことも判明。

シリアとの国境近くに位置する著名なアンタルキア(Antiocheia)の北西海岸線にArsuzがある

 以下、発掘者の言。「ここでは3廊式のバジリカ教会が出土していて、舗床にモザイクが施され、その碑文から、この教会が3人の使徒教会と名付けられたことが分かった。今年行われた発掘では、別のモザイク部分が出土し、孔雀と碑文が描かれていた。モザイクには天国が描かれ、銘文から奴隷が解放された後、神に感謝するために寄進したことが判明した」(https://arkeonews.net/a-mosaic-made-by-the-freed-slave-to-thank-god-was-found-in-the-church-excavation/)。

中央に教会遺跡。今回の出土モザイク場所は右上隅

 明快なギリシア語残存文字なので読解を試みたくなる。いずれにせよ、後6世紀段階でも奴隷や被解放奴隷が存在していたわけだ、それもキリスト教信者に。

【追記】こう書いたら、某君が速攻で銘文を解読して送ってくれた。私は目前に急ぎの仕事あるので、後日検討させていただくが、ざっとみて私見とは読みが違う箇所もあるようだ。ご意見ある人は遠慮なく。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

原文:

某君試訳:

我らの最も神聖な監督 Zosimianos と我らの敬虔な長老 Christianos の下で、最も高貴で、 彼の力で解放となった Ioulitta が、自身とその子孫の救いのために、Kosmas と Timotheos によるこのモザイク舗装の仕事の世話をした。

【追記】これに限らず、トルコからはあれこれ興味深い碑文が出土しているようだが、ウェブでの情報は発掘関係者のインタビュー記事レベルに留まり、碑文の具体的内容に触れることがまれなので、私は欲求不満である。以下はほんの一部:1/10掲載も参照。

 2015年8月:トルコのラオディキアで1900年前の大理石板に、水道管理法文が書かれていた(https://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/marble-slab-inscribed-1900-year-old-water-law-unearthed-turkey-003682)。

 2016年10月:トルコのイズミル県内の古代都市Teosで発掘された2200年前の碑文に、58行からなる古代の契約書が書かれていた。それには、土地のリースやレンタル奴隷をどう扱うべきかについて書かれていたとのことだが(http://arstechnica.com/science/2016/10/2200-years-ago-in-turkey-this-insane-rental-agreement-was-inscribed-in-stone/)、レンタル奴隷の件への銘文の言及はない・・・。

石碑洗浄中

 2019年9月:トルコ西部カラジャスの古代都市アフロディシアス発見の、これまでになく多くの断片からなるディオクレティアヌス最高価格令勅令(https://call-of-history.com/archives/21846)。これはイギリス隊なので早晩公表予定とされているが。

これだけで勅令全文とは思えないのだが・・・
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名誉除隊証明板diploma出土をめぐって

 前年年末にトルコ南東部のアドゥヤマン県にある古代都市ペッレPerre(ないし、Perrhe / Pirin)から1898年前の青銅製の「名誉除隊証明板」 diploma 発見の報告がなされた。

 このかつてのコンマゲネ王国の5大都市のひとつは、2001年以降断続的に発掘調査がおこなわれ、ローマ時代の水道や噴水、155平方メートルの床モザイク、それに岩をくり抜いた様々な建築物が出土している(https://www.youtube.com/watch?v=kFzflnFUXEU)。この町はMelitene (Malatya) と主都 Samosata (Samsat)を結ぶ街道筋に位置していたし、325年のニカイア公会議に当地の司教も参加しているので、地政学的にも宗教的にも重要でそれなりに栄えたが、ビザンツ時代になると重要性を失い、再び興隆することはなかった。

小アジア半島の根本にコンマゲネ地方、中央のADIYAMANの直ぐ北の赤字のPerreがそれ

 「名誉除隊証明板」diplomaとは、元首政下(後52-3世紀末)で非ローマ市民が補助軍Auxilia、海軍、皇帝特別警護騎兵連隊equites singulares Augusti、帝都治安維持大隊cohortes urbanaeに採用されて、25(海軍は26)年間の兵役を終えて満期除隊したことを証明するもので、ラテン語で書かれており、ローマ市民権を保証するもの。ローマ正規軍の軍団兵たちlegionesはローマ市民が採用されていたので基本発行されていないし、212年のカラカラッラ帝発布「アントニニアーナ勅令」で全帝国の自由身分にローマ市民権付与されて後は不要となったが(現段階で知られる補助軍の最後のそれは203年発行;但し帝国居住民以外が採用された海軍、皇帝特別警護騎兵連隊、帝都治安維持大隊には3世紀末まで発行され続けた)、今回のものは皇帝ハドリアヌス時代の後123年にシリアで軍務に従事したCalcilius Antiquusに付与されたもの(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/12/1898-year-old-bronze-military-diploma.html)。

 銘文の読み下しが公表されていないようで内容は確かめることできない。発掘者の言として、この種の証明板は10万部は作成されたと思われるが(cf., Wikipedia:私的にはもっとだろうと納得いかない)、大部分は最終的には炉で溶かされてしまい(所有者の没後にだろうが)、現在800部しか発見されておらず、うち650部が研究されてきた、などと紹介されている。

https://arkeonews.net/a-2000-year-old-bronze-military-diploma-was-discovered-in-turkeys-perre-ancient-city/

 ディプロマには、発行日の皇帝護民官職権回数、執政官名、属州総督名、同時に一括発行された補助軍名(4−25記載の例あり)が記載されているので、当時の各州の補助軍配備を知る重要なデータだった。受領兵士個人の記録としては、所属連隊名、連隊長名、受領兵士の階級、姓名、出身地、妻の名前とその父の名前と出身地、市民権を得た子供の名前が書かれていた(基本本来現役中に持てなかったはずの妻や子をめぐっての詳細については、とりあえず以下参照:http://www.romancoins.info/MilitaryDiploma1a.html)。

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