投稿者: k.toyota

ローマでテラコッタ製の犬の置物出土

 タイムリー的に今年が戌年でないのが残念である。今回の置物を年賀状に利用するにはあと8年待たねばならないが、果たして生きているだろうか。無理だろう。

 2022/1/1発信:ローマではよくあることだが、アウレリアヌス城壁のポルタ・ラティーナ門から南に1マイルのルイジ・トスティ通りVia Luigi Tostiで、電力会社Acea社のパイプ敷設工事中に、地表からたった50cm掘ったところから、2,000年前に建てられた葬祭施設に属する3つの構造物が発見され、考古学調査がおこなわれた。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2022/01/work-on-romes-water-system-uncovers.html

 これらの墓は、紀元前1世紀から紀元後100年の間に、ローマ最古の道路の1つであるラティーナ通りVia Latinaに沿って建てられていたが、現代の遺跡保存の法律が登場する前の地下公共工事によって損傷を受けていた由。

Via Luigi TostiとVia Latinaの交差点付近にある発掘現場

 3つの墓はいずれもコンクリートの土台の上に建てられている。1つは黄色凝灰岩の壁、2つ目は網目状opus reticulatum(菱形の凝灰岩のレンガ)の構造で、3つ目の墓は火災の痕跡がある基部だけが残っていたという。

 また興味深い出土品として、骨片と犬の頭のテラコッタの置物が入った無傷の陶器の骨壷を発見した。手のひらに収まるほどの小さな犬の胸像は、ドムスのアトリウムの天井部分のcompluviumに設置された吐水口の装飾部品に似ているが、水を通す穴が開いていないので、純粋に美的な目的のために作られたものだと思われる。なにぶん小型なので、犬種を特定するには至らなかったようだが、ローマ人はペットとして、また財産や家畜を守るために犬を飼っており、人気のある犬種の一つに古代ギリシアから来た大型犬のモロシアンハウンドがある。また、アイリッシュ・ウルフハウンド、グレイハウンド、ラーチャー、マルチーズなど、現代の犬に似た外見の犬も飼っていたらしい。

これが今回出土の塑像
吐水口に使用された場合はこんな感じ:後1世紀初期

 その他に、大量の色のついた石膏の破片や、近くから地面に埋まっていたと思われる若い男性の遺体も発見されたとのこと。都市郊外の街道沿いといえば墓地群なのに、墓地に埋葬されていないとすればなぜなのか、否応なしに想像力が刺激される。犯罪の被害者か、それとも奴隷だったのか。

 ところで、ポンペイ遺跡からは番犬のモザイクが出土し、そこに「cave canem」(猛犬注意)というキャプションが埋め込まれていたりするが、この警告は、実際には訪問者のため(あるいは歓迎されない者への抑止力として)ではなく、足元で危険にさらされる可能性のあるデリケートな小型犬を守るためのものだったのではないかと主張する学者もいる由だが、下図のような獰猛そうなモザイクを見る限り、私を納得させることはできそうもない。

しかし、ポンペイのCaecilius Iucundusの家(V.1.26)の犬ならありかも:「cave canem」の警告はないが暗黙の内に「おとなしい犬がいますのでご注意くださいね」という表示にはなっていたかも。

https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-10364395/Archaeology-Funerary-complex-dating-2-000-years-dug-Rome-included-dog-statue.html

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Meta Sudansの3D

 他をググっていたら、もっともらしい復元想像図を見つけてしまったので、紛れて失念しないうちにアップしておきます。新味は噴水として水の流れがちゃんと表現されていることで、3Dも年々もっともらしくなりますね。

https://gigazine.net/gsc_news/en/20210203-rome-in-3d/

 以下、参照。「太陽神としてのネロ貨幣」(2020年4月11日)

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古代ローマ船着き場の秘密・係留装置:オスティア謎めぐり(19)

 厳密にはオスティアでは未だ見つかっていないのだが、忘れないうちに。

 現在、ローマのカピトリーニ博物館で修復完了展示会がおこなわれている「トルロニア大理石」展であるが、以下はトルロニア博物館所蔵の「Portus 風景のレリーフ」。色々と謎に包まれた意味深な作品であるが(たとえば、今まさに港内に到着した左の大きな船と、うり二つの右の接岸して帆を下ろしたやや小ぶりな船は遠近表現による同一の船と考えられる、等々など:これもいずれ触れたかったテーマだ)、今はその右下隅にご注目いただきたい。

左のレリーフの欠損部分を付加補正した図が右画像である。

  右隅に四角の石(補正図では平たい丸石に変じているが)に丸い穴がみえるだろう。今日はこれが課題である。実は同様のものがポンペイやPortusで見つかっているのだ。

が、ポンペイのマリーナ門外浴場の西に広がる風景、はポルトゥスからの出土物

 レリーフの石も、これら長方形に丸穴のものも同一で、特にポンペイの段丘状の構造物はずらりと並んでいて、そこがかつての船着き場で、そこまで海が接してきていたわけである。で、あの石と穴は要するに接岸した船の係留装置ということになる。私は他に、帝都ローマのテヴェレ川左岸のEmporiumやリビアのLeptis Magnaで同様のものを目撃している。

Roma, Emporium ここを歩く時は女性は一人を避けたほうがいい:https://exhibits.stanford.edu/nash/catalog/ry842qz2076
Libya, Leptis Magna こっちは珍しくたて穴だ:https://www.ancientportsantiques.com/a-few-ports/leptis-magna/

  ポンペイのようにずらりと並んでいる様子から、当時の船の接岸方法は現在のように横付けではなく、船の先端部で係留されていたと想像するのが自然かと。その場合、船尾からは錨が海に投げ落とされたはずである(もちろん横付けしてその近くの係留装置にロープで固定する可能性も否定できはしないが)。

Leptis Magnaの港の想像図:船舶は船首か船尾かはともかく、横付けされていない

 従って埠頭に横付けした以下のような復元図は一般論としては疑問となる。この図では、右端にみえる件の係留装置はもっともらしく小舟用として描かれているが、これでは小舟からの人員や物資の荷揚げなどどうしていたというのだろうか。かくのごとく二次元だとなんでも可能となるが。

THROCKMORTON, P. (1987). The Sea Remembers: From Homer’s Greece to the Rediscovery of the Titanic. London.

 この接岸について実際にはどうかというと、当時の画像諸資料ではどうやら船首での接岸だったようで、そこに移動式と思しきタラップが描かれている。次のヴァティカン博物館所蔵のフレスコ画では船首からの荷揚げ作業を描いている。

 以下は、Portus出土のレリーフで、これまたTorlonia博物館所蔵。左に見えている帆の形から、コビタ船の船首部分のフォアマスト(アーテモン)と想定していいと判断してなのだが、いかが。

https://www.ostia-antica.org/vmuseum/marble_reliefs.htm

 他にも、トラヤヌス円柱のレリーフとかシケリアのウィッラ・アドリアーナのモザイクとかで同様の描写を得ることができるだろう(もちろん、船尾からと描かれている事例も混じっているが)。この悉皆調査ももう若い人にお任せせざるを得ないが。

【補論】ポンペイのPorta Marina近くの係留石群については、最近の研究であそこが港ではない、という見解も出ていることを知った。じゃあ、なんなんだあれは。後日より詳しく触れることできればと思う。cf., Descoeudres, J.P, The  so-called quay wall north-west of Pompeii’s Porta Marina, Rivista di Studi Pompeiani, 9, 1998, pp.210-217.

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ロンギヌスの聖槍の俗説排すべし

 2021/12/30発信のNHK BSプレミアム「ダークサイド・ミステリー」(初回は5/13)で、ロンギヌスの槍をコンスタンティヌス大帝が奉じて異教徒の皇帝(マクセンティウス)に勝利した、と言っていたが、そのような事実を記す同時代史料は皆無である。ウィキペディアにすらそれは確言されていない(そこの叙述は正当にも「要出典」とされている)。解説者の一人に杉崎泰一郎氏が登場していたので、きちんと訂正すべきなのになあ、と思わざるを得ない。

 こういう企画は欧米の制作会社のものの売り込みがあって、それを邦訳し自社制作を装って多少手を加えるくらいのことなので、たぶん著作権の問題とかあって、大筋を変えることはできないのだろうが。我が国の研究者を結果的に愚弄しているという認識がないのが残念である。こういう番組って、かつて現役時代の私をだまくらかしていた「ヒストリーチャンネル」や「ディスカバリーチャンネル」並にセンセイショナルで雑な造りが多いのだが、今日日の手抜きディレクター諸氏には手軽で、重宝しているのだろう。

 上掲写真は、ウィーンのホーフブルク宮殿所蔵のそれであるが、2003年および2004年の調査によると、早くても7世紀、まあ8世紀のものという結論となった。伝説が発生したのが6世紀とかなので、妥当な線であろう。

 ただ、聖槍は世界中に幾つもあって(他の聖遺物も同様で、『黄金伝説』中の「聖十字架の発見」の註記には、ある人の試算では聖十字架の「現存する全断片をあつめると900万立方センチ以上にもなるという[高さ3〜4メートル」の十字架の容積は、5700立方センチ前後である]」、すなわち十字架1579本分になるという。バンガロー1軒分は十分あるだろう。2階建ても可能かもしれない。それほどあるなら私も話題のネタ、いや教材用に断片一つほしくなってしまうというもの)、以下の写真は、アルメニアのエチミアジン大聖堂が保存している聖槍と、右は十字架の下に敷かれている木製部分が、ノアの箱船の断片である。アララト山出土というわけか。

 時節柄、もっと強調してほしかったのは、アルメニア王国の4世紀初頭の改宗がらみでエチミアジン大聖堂が保存している聖槍の奇跡譚として、王の病を癒したという件である(番組ではアルメニアが世界最初のキリスト教改宗国として紹介されていたが、3世紀半ばのエデッサ王国のほうが早かったという説もある)。当時持っていたキリスト教の治癒能力が布教の核心であったわけで、それが新コロナ騒ぎでも立証されたように現在はまったく失われてしまっている、ということはもはやキリスト教は歴史的役割を終えつつある、という証しといわれても仕方ないわけで。

【付記】同様の聖遺物崇敬では、コンスタンティヌス大帝の皇母ヘレナの「聖十字架、聖釘、聖茨棘、聖罪状札」(要するに、ローマのBasilica di Santa Croce in Gerusalemme 保管)の発見譚がある。いずれ触れようと思ってきたが、もう後進に譲りたい(私はモンツァ大聖堂も訪れ、所蔵の鉄王冠Corona Ferrea関係の貴重本も入手している)。まずは聖釘のその後の遍歴が一番興味深いのではないだろうか。聖釘は世界中に30本は残っているようなので、全部本物だったらイエスは体中に打ち込まれて、聖セバスティアヌス並の無残さだったはずだ。

歴代イタリア王に戴冠されてきた「ロンバルディアの鉄王冠」(現在はモンツァ大聖堂所蔵):裏側に聖釘が棒状に打ち伸ばされて張り付けられているのがミソ
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Pontius Pilatus関連の2つの発掘報告

 イエスを死刑にしたことで著名なポンティウス・ピラトゥス(ユダヤ総督在職:c.26-36AD)がらみで、2つの比較的最近の発掘情報がある。

 ひとつが、彼が関わったとされるエルサレムの地下水道渠調査の報告である。ヘブライ大学による調査では、水道渠の漆喰壁から放射性炭素のサンプルを採取して分析した結果、水道渠は紀元前1世紀初頭に建設され、エルサレム神殿が破壊された後の2世紀に改修された可能性が高いことが判明した。さらに研究チームは傍証として、ユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスが、ピラトゥスが神殿の宝物庫からの資金を使ってビエル水道渠を建設したため、街で暴動が起きたと記していることを挙げ(『ユダヤ古代誌』18.60-62)、この水道渠のこととして時代策定したようである。

 もうひとつは、これもヘブライ大学の発掘により実は今を遡ること50年以上も前の1968年に、エルサレムから南11Kmにあるヘロデ大王の名を冠した宮殿と彼の要塞兼墳墓からなるヘロディオンで発見されていた指輪をめぐってのもので、シンプルな銅合金製のそれが最近になって徹底的に洗浄され、同時に写真技術の進歩により、興味深い事実が明らかとなった。すなわち指輪の中心には、大きなワイン混酒器であるクラテルが刻まれており、その回りを右回りで、ギリシャ語でΠΙΛΑΤΟ(PILATO)と刻まれていたことが判明したのであるが、これはポンティウス・ピラトゥスの名前である、と。命名法からポンティウスはごくありふれているが、ピラトゥスのほうは稀なので、そう断定されたわけ。

手前が宮殿、背後の巨大な塚が要塞・墳墓

 この指輪の所有者について、研究者は指輪の稚拙な細工からみておそらく総督の下僚だったのではと想像している。そしてこのギリシア語はおそらく、ラテン語のPilatusの与格形(PILATO)をそのままギリシア語表記したものであり、また属州総督は、エルサレムと同様にヘロディオンの砦や宮殿を占拠使用していて、分遣隊も送り込んでいたことは確かなので、そこで総督に(すなわち「ピラトゥスに」=与格)向けて物資を送る職務に就いていた官吏ないし軍人が封印印章として使用していたものではないか、と想定している。なかなか込み入って面白い指摘だ、と私は思う。https://www.biblicalarchaeology.org/daily/biblical-artifacts/inscriptions/pontius-pilate-ring-herodium/

 この新約聖書に登場して悪名名高いユダヤ総督の考古学的実在は、1961年にカエサレイアの劇場ないし闘技場で発見された唯一のラテン語献辞碑文から初めて立証されてきたが、今回の指輪の銘文がどうやら第二の実在証明ということになりそうである。

 

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カエサレイア沖で「善き牧者」を刻んだ指輪発見

 2021/12/22に、イスラエルの考古遺物局が、ローマ時代の難破船からイエス・キリストの最古のシンボルのひとつである「善き牧者」像を刻んだ金の指輪を発見した、と公表した。八角形の金の指輪は後3世紀のもので、緑色の貴石がはめ込まれており、そこに若者が小羊を両肩に担いだ「善き羊飼い」が掘られていたので、研究者はそれをイエスの姿と主張している。

 この遺物は同時に発見されたカエサレイア沖の2隻の沈没船のうち、ローマ時代のほうから発見された遺物(数百枚の銅貨や銀貨、いずれもブロンズの、ローマの支配を象徴する鷲の形をした置物、喜劇の仮面をかぶったローマのパントミマスの置物、悪霊を追い払うための鐘、など)とともに見つかった。

 もう一艘は14世紀のマムルーク朝時代のもので、600枚近くのコインが発見され、2つの沈没船の間には、水深4mほどの浅い海底に散らばって、陶器の容器、鉄製釘、鉛のパイプ、大きな鉄の錨、複雑な彫刻が施された赤い貴石なども発見された。

 研究者は、赤の貴石も指輪にはめられていたもので、緑の指輪と同じ持ち主のものではなかったか、黄金の指輪が小さかったので女性用で、彼女はキリスト教徒だったのだろうと想定しているが、さてはたしてそんな偶然があるだろうか。

 赤の貴石:これもキリスト教的デザインのダビデないしオルフェウスの竪琴を連想させる。

 同時に、悪霊を追い払うための風鈴風の鐘も出てきてことも興味深い。

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「よみがえるポンペイ」をオンデマンドで見た

 今年の1/25放映されたという(私は迂闊にも放映そのものにまったく記憶にない)国際共同制作と銘打 った2019年製作の「よみがえるポンペイ」をNHKオンデマンドで見たが、 これがなかなかすぐれもので、前の遺跡管理所長のマッシモ・オサンナが例のごとくうれしそうに登場して(えらく目立っていたが、これも才能の一種かと) 、当時発掘していた第5区の現場を発掘プロセスからきちんと見せて、続々発見された驚嘆モノの遺物紹介もリアリティあってとてもよかった。盗掘による攪乱層問題も出てきて、ミステリー小説風でもあったし。

 例のウェスウィオ山噴火の日付変更の根拠となる落書きも、再現シナリオとか映像は納得できるものだったが、リタイアして久しい専門家A.ヴァローネも登場させ、しかし木炭で 書いた落書きは1週間ももたないと言っているのには、私は未だ納得できないでいるのである。 たとえば壁のモルタル修復後間もなくに書かれていたから一年間もったということもありえるような気がするのだ。

Massimo Osanna:1963-;Antonio Varome:1952- なんと両人とも私より若かった。特に後者は大先達だと思っていたのだが・・・

 220円で3日間見ることできます。是非みたほうがいいです、これは。誰か録画しないかな。

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ミルウィウス橋コインまた出たけど、さて

 以前紹介したことのある330年打刻のコンスタンティノポリス記念コイン、またCNGのオークションに出ていた。今回は、業者想定価格$200のところ、あと19日間あるのにすでに$225がついている。さてもう、このあたりできまりかな。

 お品書きには「コンスタンティノープル造幣局、第11オフィキナ打刻」、すなわち裏面の数字を「IA」と読んでいるが、しかし、私には「A」としか見えない。https://www.koji007.tokyo/pdf/atelier/constantinus_1700.pdfでの「IA」を見ても両文字の間隔はかなり開いている打刻なので(01、12、17)、ここは素直に「A」、すなわち第一工房ととるべきだろうと思うのだが。

【追記】3日後にみてみると、10 Bidsでなんと$325に高騰していた! この程度の不鮮明で稚拙な刻印のコインだったら私なら購入しないのだが。年を越して覗いて見たら、13 Bidsで$400になっていた。

 

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イギリスで磔刑の証拠が出土!

 2021/12/8 ケンブリッジシャーのHuntingdon近くのFenstanton村で2017年に、新住宅開発地からローマ時代の紀元4世紀の5つの墓地が発見され、そこから大人40人と子供5人の遺体が出てきていたが、遺骨をラボで洗浄していて、一人の遺骨のかかとに釘が刺されていたことが判明した。その遺体は25-35歳の男性で、身長は当時の平均の5フィート7インチだった。放射性炭素年代測定法によると、彼はAD130からAD360の間に死亡した。磔刑=十字架刑に処された遺体とすると、もちろんイギリスでは初出である。

 磔刑の証拠は残りにくい状況にあるが(普通、共同墓地にちゃんとした埋葬はされなかった、等)、今回は一般の墓地に埋葬され、その遺骸は12の釘に囲まれ、13番目の鉄釘が右脚の踵の骨の中に5cm水平に打ち込まれて残っていたので、それと判明したわけ。彼は刑の執行直前に手荒く扱われたようで肋骨は6本折れていたし、脛の骨が細くなっていたので長期間拘束されていたと考えられている。

https://www.bbc.com/news/uk-england-cambridgeshire-59569629

 磔刑の証拠とすると、私が知る4番目の考古学的遺物である。その1番目のものには、以前以下で触れたことがあるが、それは1968年にイスラエルからのものだった。「ローマ時代の落書きが語る人間模様」上智大学文学部史学科編『歴史科の散歩道』上智大学出版、2008年、pp.292-295.。他は、イタリアのガベロGavelloにあるラ・ラルダ La Lardaで発見されたもの、エジプトのメンデスMendesで発見されたもので、これらにも機会があれば触れたいと思っている。

 フェンストンは、趣のある歴史的な街道沿いの村で、ハイストリートはローマ時代の町ケンブリッジとゴッドマンチェスターを結んでいたVia Devanaのルートに沿っている。この集落は、旅人にサービスを提供するための道路沿いの正式な停留所として維持されていた可能性があり、村はその周辺で発展し、十字路で発展したことを示唆するいくつかの証拠がある。

 骨格の古代DNA調査では、多くの人が親戚関係にあると思われる小さな田舎の集落であるにもかかわらず、2つの家族グループしか確認できなかった。磔刑の彼のDNAはそのいずれとも無関係だった。

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