投稿者: k.toyota

アウグスティヌスの内妻だった女

 アウグスティヌスは、親元を離れてのカルタゴでの遊学生活の中で16,7 歳で同棲していた女性がいて、18歳で一子を得ていたが、14年後にミラノで望外の立身出世を果たした彼は母の強い意向で内縁関係を解消した経緯があった。この事情は彼の『告白』(IV.2, VI.13-15)から伝えられてるわけだが、なんとその離別から10年以上経って、ヒッポの司教になっていたアウグスティヌスに、かの女性から書簡が送られてきていたという。それが”Floria Aemilia Aurelio Augustino epistcopo Hipponiensi Salutem”であることを、私はググっていて初めて知ったのである。

 もちろん歴史学的にそんなものが残っているわけではない。ノルウエー人作家Jostein Gaarderの創作小説なのだが、その邦訳が1998年に堂々たる出版社から出されていたことを今頃になって知ったのは、私の不覚である。

 ヨースタイン・ゴルデル(須田朗監修・池田香代子訳)『フローリアの「告白」』日本放送出版協会、1998年、¥1600。

 あまり売れているようには思えず、今でもアマゾンで定価よりも安く売りに出ているので、興味ある人は急いで購入すれば破格の値段で入手できるはず。

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テヴェレ川の戦略地点を探る

 今、法事絡みでちょっと早めに帰省している。ヒマというわけではないが、実家に置いてあるiMacのデスクトップをいじっていると、以前の仕事で集めたけど忘れ果てていた史資料が埋もれていて、なんだかもったいないネタがあれこれ転がっていたりする。研究雑誌には野放図に画像を掲載できない事情があるが、その落ち穂拾いで論文に掲載したかったものを、ひとつ紹介したい。

 以前『軍事史学』第54−2、2018年に、「三一二年のコンスタンティヌス軍」を書いたことがあった。その時の私の論述のキモのひとつは、312年10月28日のミルウィウス橋決戦において、迎え撃つマクセンティウス側にとってテヴェレ川の蛇行が重要な防衛拠点になっていたはず、という着想にあった。私は幾度か現地を訪れ、最終的には歩道のない自動車道をひやひやしながら歩き通して自分なりの確信をえた(せめて自転車で軽快に移動したかったのだが、実際にそんなことしたら車が文字通り疾駆しているので危険きわまりない冒険になっていただろう)。論考では地図でそれを簡単に示しておいたが、今般その時のGoogle Earth画像が出てきたので、それを開示する。ただし2013年段階の画像なので(我ながらこのネタ長く寝せていたんだなあ)、現在のそれとは表示が異なっていることをお断りしておく。どなたでもグーグルで距離も測ったりして追体験できるので、実際に試して頂ければと思う。

 フラミニウス街道Via Flaminia を一路南下してきたコンスタンティヌス軍は、決戦を前に帝都から20キロ直前のMalborghetto付近の丘陵地に数日間滞留していたが、28日早朝に進軍を開始する。直線で約6km緩い坂を下ったところで、かつてのアウグストゥスの皇后リウィアの別荘に至るのだが、ここまでくるとそれまで左手に見え隠れしていたテヴェレの流れをようやく手近に見ることができたはずだ。この別荘は舌状台地の南端に位置していて、そこを下る街道は現在でもやたら狭い切り通しで(だから自動車道は東でトンネルにもぐっている)、その真下がPrima Portaであり(このあたりのことは、このPHでの、「【余滴】コンスタンティヌス大帝1700周年記念関連貨幣・切手資料紹介:今年は何の年?」、p.16-17;上記『軍事史学』の画像補遺、p.7-10に、かつて書いた)、そこにはテヴェレ川に注ぐ支流が西から流れてきていて、現在の鉄道ノルド線のプリマ・ポルタ駅はその上をまたいでいる。実際にはおそらく前日までにそこまで進出してきていたマクセンティウス軍はコンスタンティヌス軍進発に呼応してその台地を急登し、現在の大ローマ市民墓地Cimitero付近で東西に展開して布陣し、コンスタンティヌス軍を待ち受けていたと考えられる。テヴェレ川はこのあたりで大きく東側に蛇行しているので、マクセンティウス軍からみて右には広い空間が開けていたことになる。但し当時は遊水池の河原の不毛の湿地帯だったかもしれないが(当然、往時に川筋が今のままだったと考える必要はないが、今と似たようなものだったと想定しての話である。以下同様)。

中央やや左に見える眼鏡状の自動車道の立体交差(その北の先ですぐにトンネルにもぐっていることにも注意)のすぐ左上が別荘、その左にPrima Portaのアーチ遺跡がある。

 その後テヴェレ川の川筋は西に動き、フラミニア街道に接してくる。そして、街道と川筋が最も接近する箇所が下図付近。現在は両脇を自動車道で挟まれて鉄道線路も平行しているが、昔の街道筋がどちらにあったのかは不分明だが、いずれにせよ、西側はちょっとした崖なので、川筋と街道はかなり接近していたことは確か。そこで私はマクセンティウス軍の防御線がここに置かれたと想定した。崖から川まで最短で40mほどしかない。そしてその手前(南)にはやはり蛇行しての若干の空き地があるので、そこにそれなりの軍勢を待機させることも可能だったはず。

右の写真の自動車道は2車線ずつ左右に見えるが、その左にさらに鉄道線路ともう一つ道路が平行して走っている

 この防御線から南に直線で約270mの地点でテヴェル川はまたもや右に急激に蛇行し始め、現況では約110mを経てまた戻って来る。この北側の隘路を採るか南側を採るかが問題だが、私は背後の空き地に部隊を配置することできるので、北側に防御線を張ったのではないかと想定してみたが(川まで260m)、どうだろう。南側も場所によっては西を塞ぐ丘もあって北側に比べると60mは幅が短くなっているのだが。

 ところで、Aurelius Victor,40.23には以下のようなくだりがある。マクセンティウスは「首都からサクサ・ルブラへと9ローマ・マイルほど辛うじて進んだところで、戦列がacie 粉砕され caesa」た、と。ここでのSaxa Rubraとは元来このあたりを示す地名と考えられているので(現在のノルド線の駅名と合致しているわけではない。また上記【余滴】で触れたピウス10世による顕彰ラテン語碑文設置場所はプリマ・ポルタ駅近くなのだ)、一説にはマクセンティウスはこのあたりで敗北を喫したとされる場合もあるが、地形的に決定的戦場とは思われない。

 その防御線を突破されたとき、帝都ローマの城壁以前の最後の守りはいうまでもなくテヴェレ川を渡河するミルウィウス橋ということになるが、そこに至るまでにテヴェル川はまたもや大きく東側に蛇行して、ローマ・オリンピックの時に陸上競技場などが設置された広大な平地を提供している。ここは現在Tor di Quito公園となっていて、古来幾度か戦場となった場所である。コンスタンティヌス軍とマクセンティウス軍が激突した主戦場がここだったと考える研究者もいるほどなのだが、私はむしろマクセンティウス軍壊滅の場所だったのではと考えている。その後のミルウィウス橋の戦闘とは、潰走するマクセンティウス軍を追撃するコンスタンティヌス軍の掃討戦にすぎない。とはいえ敵将マクセンティウスをそこで溺れ死にさせたという記念すべき戦場ではあった。

フラミニウス街道はローマ市内から北上し、左隅でミルウィウス橋(赤丸1つのほう)を渡り、一旦北上したあと右折して川筋にいたる

 というのは、これは論文に書いていないのだが、コンスタンティヌスはプリマ・ポルタ攻防戦のあと、自軍の出血を避ける手立てとして、マクセンティウス軍がフラミニウス街道に幾重も仕掛けた防御線を迂回すべく、軽騎兵連隊を放って西側の間道を疾駆させ敵の背後をついて、一挙にこのTor di Quito地区に殺到させ、いち早くミルウィウス橋を渡河して対岸に達しせしめたのではと密かに思っているからだ(それをうかがわせる文書史料など一切ないが、マクセンティウス側の内通者の存在は別途指摘しておいた:たぶん彼らが詳細な間道情報をコンスタンティヌス側に漏らしたのでは:「裏切り者は誰だ!――コンスタンティヌス勝利のゲスな真実――」『地中海学会月報』389, 2016/4)。こんな突飛とも思われかねない仮説を本気で考えざるを得なかったのは、コンスタンティヌスのアーチ門の南面右のレリーフ右端で、合図のラッパを吹いているあの二人の兵士をどう解釈すべきか、に関わっての想定なのである。あれはどう見てもコンスタンティヌス側の進軍ラッパである。それが橋を潰走するマクセンティウス軍より先に渡河しているのだから、奇妙なわけなのである。

 このような私の間道仮説の当否は別にして、テヴェレ川の複雑な蛇行を利してのマクセンティウス軍の防御線構築論は納得頂けたであろうか。

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金子史朗を読む

 といっても私はそんなに熱心な読者ではない。かつて旧約や新約に出てくる大災害に触れた聖書関係や、専門に関わる『ポンペイの滅んだ日』(1988)や『レバノン杉のたどった道』(1990)をざっと読んだことあるくらいで、まあ内容が内容だけに、天変地異をテーマにした一種のきわものを扱う理系の人、といった印象だった。

 最近になって、ポンペイがらみでウェスウィウス火山についてちょっと知りたくなって文献検索していたら、氏の『火山大災害』古今書院、2000年、がヒットし、我が図書館の所蔵を借り出したかったけど、返却日失念しての罰則期間だったりして(最近これ多くなってまして (^^ゞ:連絡ないので一ヶ月も放り投げてた)、関係箇所(第1,2章)だけコピーしてこのところ読んでいる。そして、誠に遅ればせながら、おやっと思ったのである。

 改めて著者紹介を眺めた。1929年東京都生まれ、東京文理科大学地学科卒業、都立高校教師の後、科学ジャーナリストに転身、これまで実に多くの著作を書いている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%8F%B2%E6%9C%97)。

 ご存命とすれば93歳、書かれた最近のものは2004年のようだ。そしてHP「金子史朗の足跡」(http://wwwc.dcns.ne.jp/~dende/top.html)もみつけたが、表紙だけの作成でおわってしまったようで、残念至極。その更新履歴は2009/1/19となっている。80歳でHP作成を思い立ったその気概には敬服する。出版社が本を出してくれなくなった(これまでの編集者もリタイアするし)、本が売れなくなったというような事情もあったのかもしれない。

 HP掲載のお写真

 氏が東京教育大学出身というのはなんとなく記憶があったのだが(実は何を隠そう、はるか昔そこの受験を考えたこともあったりしまして)、卒業学科が地学科というのはまったく失念していた。今回業績一覧を拝見すると、30台半ばからの論考類はあたりまえのことだが地理や地質学的な内容で、最初の著作も『構造地形学』(古今書院、1967)であった。業績リストに「1962 北海道大学提出学位請求論文」とあったので、気になって北海道大学で調べたら「理学博士(旧制)、学位授与年度1961」とあって(主査はたぶん火山学の大家・横山泉氏だったのだろう)、だけど彼は著作の履歴にそれを全然書いていない。体制順応型の私など、そこから氏の在野研究者としての反骨気質を感じてしまう。提出したらくれるというから出しただけで、だからどうなのさ、というような。

 それはともあれ、『火山大災害』を読んでいると彼の専門分野が遺憾なく発揮され、歴史系の私にとって重箱の隅で若干引っかかる箇所がなきにしもあらずとはいえ(p.71以降で、ポッツオリの遺跡を「セラピス神殿」としているが、あれは正確には神殿ではなく「市場」macellumとすべき;p.73の「ベスゼオ」って誤植?)、たいへん勉強になった。というよりも、第2章でカムピ・フレグレイに関して邦語でこれほど紹介しているのは、彼が初めてではないか。後進としてはあらかた書かれてしまった感じで、今後、火山学・地質学的な知見では隅の親石と定めざるをえないだろう(ま、年月経ているので研究の進展はあるだろうが)。

 ところでカンピ・フレグレイをググっていたら、以下の記事をみつけた。「超巨大火山に噴火の兆候、イタリア:イタリア国立地球物理学研究所が発表」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/122700499/)。この記事の発信は2016年12月28日である。あれから5年半。何も起こっていない(Solfataraで家族3名が転落事故死したのは翌年の9月だったが)。火山学にはこのような間尺が長く時間的偏差がつきもので、となると非科学的とのレッテルも貼られやすくなる。一方で気を緩めていると福島原発みたいに「想定内」だった津波に襲われて大惨事となるわけで、万一をおもんばかって警告は発しないといけないし、狼少年になりかねないし、難しいところだ。

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古代ローマ史最新情報

 久々に気持ち的に余裕が生じたので「The History Blog」に行ってみたら面白いニュースがてんこ盛りだった。色々ありすぎて時間をかなりとられてしまった。

ここでは、ポンペイ遺跡から発掘された亀と、ローマでの新たな観光バスの話を紹介しておく。

 まず、2022/6/24発信の亀の死骸。これまでもポンペイからは亀は発見されてきたが、それらは金持ちの家や庭からで、後79年での死亡だった。今回紹介する亀は後62年の地震と後79年の破壊までの間に自然死し、スタビア浴場の発掘で出土したものである。これはどういう意味を持つのか。

 発掘場所は、地震で倒壊した建物が整地され浴場付属の店舗として再建された、その店の南西の角で、地震にも耐えた四角い水盤の奥から、考古学者が雌の遺骨を発見した。彼女は卵を産むために安全な場所を探して、トンネルを掘って部屋に侵入したのだが、難産になり、そこで死んでしまったのだろう。卵を産み落とさない限り(あるいは人の手で取り除かない限り)、動物は死んでしまう。成体の甲羅は8〜10センチ程度であるが、この個体の甲羅の長さはわずか5.5インチで、まだ未熟であることがわかる。この若さが卵を産めなかった一因かもしれない。卵は甲羅と一緒に取り出された。

 この亀の発見は、震災で瓦礫と化した街の中心部の家屋が、すぐに再建されたわけではないことを示すという意味で重要だ。今の福島と同じく、人影のない廃墟と化し、野生動物が住み着くようになった。そして店舗が再建されたとき、その隅にいた亀の死骸に誰も気づかず、床を高くする工事の盛り土の中に埋もれてしまった、というわけ。

 次に、6/23発信の「VRバスで古代ローマにタイムスリップ」

 ローマで、バーチャル・リアリティ・バスがデビューした。トラヤヌスの円柱からフォーラム、コロッセオ、パラティーノ、チルコ・マッシモ、マルケルス劇場まで、古代ローマの最も重要な場所を最大14人の乗客で30分かけて周遊する小型完全電気バス。車で移動中、VRの魔法で乗客はタイムスリップし、遺跡が遺跡である以前の街の様子を見ることができる。

 各窓の前には透明な4K有機ELスクリーンが、スクリーンと窓の間には電動カーテンが設置されている。乗客は、古代ローマのモニュメントを見たいときはカーテンを上げ、現在の姿を見たいときはカーテンを下げる。

 遺跡に同期しての画像はもちろん、香りを放出する「フレグランスデリバリーシステム」も予定されている由。すなわちバスが神殿や広場、コロッセオ、チルコ・マッシモのそばを通るとき、古代ローマの香りを呼び起こすため、神々に捧げられた供物や乳香、没薬などの香料、闘技場で使われた様々な香料など、その場所に合った香りが通過するたびに放たれる、と。

 バスは午後4時20分から午後7時40分まで40分間隔で運行。英語での案内は5:00、6:20、7:40のバスのみで、他はすべてイタリア語。通常チケットは16ユーロで、オンラインまたはトラヤヌスの円柱のチケット売り場で購入できる。 6歳以下のお子様は無料でご乗車いただけます、とのこと。

 私が毎年通っていたころは「アルケオ・ブス」が走っていた。これはアッピア街道あたりの要所を走っていて、途中下車・乗車が可能だったので、遺跡めぐりには大変便利だったのでよく使ったのだが、間引き運転もよくあったりして、このあたりはいかにもイタリアだなと。それがいつの間にかなくなってしまい、大変がっかりしたものだ。だから、今回の試みはかなり複雑な構造なので、さていつまで続くのかはなはだ疑問だが、なくなるまでに一度は乗ってみたいものだ。来年までもってほしいものだ。

 以下、余りに豊富な情報なので、題目をリストアップするだけにとどめる。興味ある人は「The History Blog」に行ってみてください。

7/5:「カラカラ浴場地下に埋没していたドムスのフレスコ画が公開」

7/1:「トルコ出土のローマ時代石棺から切り落とされたエロス頭部をイギリスが返還」

6/22:「アンティキティラ島のヘラクレスの頭部が胴体から120年後に発見された」

6/21:「オランダで1世紀のローマ時代の聖域が発見」:ファルスも出ている

6/19:「ポンペイ、「ケレスの家」と出土馬骨格が再公開」

6/10:「ガロ・ローマ時代の聖域でブロンズの鷲と稲妻のカップが発見」:把手のユピテルのアトリビュートの雷鳴が興味深い

6/6:「フランスのル・マンのローマ時代の城壁」

6/4:「出土品の再生鋳造工場Fonderia Chiurazziのコレクション1650以上がポンペイ遺跡公園に寄贈さる」

6/1:「イギリスのケント付近からファルス出土」

5/23:「サルデーニャのPorto Torres出土のローマ後期夫婦の葬祭用モザイク画が復元展示」

5/21:「2018年コモ出土の水差し内からちょうど1000枚の金貨、その他出土」:これの重要性は、金貨の発行年代が後395−476年であり、うち744枚が455年以降(西部帝国滅亡末期)の打刻、という点にある。

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ポンペイの遺骨からゲノム解析に成功

 ポンペイ遺跡の中でも保存状態の良い建物の一つであるCasa del Fabbro(鍛冶屋の家:I.10.7)で、1932-33年にかけて行われたAmedeo Maiuriによる調査で発見されていた2名の骨格を、あらためて生物考古学と古生物学の学際的アプローチで分析したらしい。一人目は死亡時35歳から40歳の男性で、身長は約164.3cm。二人目は女性で、死亡時50歳以上、身長153.1cmだった。この身長はいずれも当時のローマ人の平均的な身長と一致するが、保存がよかった男性のほうからのみ全ゲノム配列を決定することができた。5/26にScientific Reportsで公開。

2遺体は、平面図の9から出土した。右写真は発掘直後のもの。左が男性

これまでは高熱に曝された遺骨ではDNAは破壊されていて調査不能とされていたが、最近の調査方法の進歩により解析が可能となった、らしい。

 男性のDNAを他の古代人1,030人および現代の西ユーラシア人471人から得られたDNAと比較したところ、現代の中央イタリア人およびローマ帝国時代にイタリアに住んでいた他の人々と最も類似していること、この男性のミトコンドリアとY染色体DNAを分析からは、サルデーニャ島出身者に共通する遺伝子群も確認された。これはローマ帝国時代にイタリア半島全体で住民の移動がなされていたことを示唆しているが、かの男性の場合はイタリア半島的特徴が強いので外国からの奴隷ではなかったと考えられている。

 また、この男性個体の骨格とDNAを追加解析したところ、脊椎骨のひとつに病変があり、結核の原因菌であるマイコバクテリウムが属する細菌群によく見られるDNA配列が確認された。このことは、この人物が生前に結核に罹患していた可能性を示唆している。この病気は、Celsus、Galen、Caius Aurelianus、Areteus of Cappadociaの著作で報告されているように、ローマ時代には風土病であったが、ごく一部の人にしか骨格変化が起こらないため、考古学的記録ではまれな病気であった。こうして、人間の移動にともなっての結核の蔓延も同時に立証されたわけである。

 こういう科学的調査を徹底的に行うことで、古代ローマ帝国のライフ・スタイルの実際が再構築されてゆくのが期待できそうである。

【余談】

ここの玄関の外に落書きがあった(CIL, IV.8364).

Secundus

Prim(a)e suae ubi-

que i<p=S>se salute(m) Rogo domina

ut me ames         

Secundusは、彼のPrimaに、彼女がどこにいようが、挨拶します。願わくば、女ご主人様よ、私を愛してちょ。

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遅ればせですが:水中考古学の本

 以前、山舩晃太郎氏の本とサイトを紹介したが、今年の2月になんと別の若者?が同種の著作を公表していたことを最近知った。

佐々木ランディ『水中考古学:地球最後のフロンティア』エクスナレッジ、2022/2。

 山舩君よりは8歳年上で、今から12年前にすでに一書『沈没船が教える世界史』メディアファクトリー、2010(ここでの著者名は「ランドール・ササキ」となっている:ちなみに彼は母親がアメリカ人のハーフ)をものにしている。テキサスA&M大学でも同門のようだが、お互いに面識はないらしい(そんなはずはないような気がするのだが、ま、いいか)。

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古代ローマ帝国の繁栄とは

 こんなブログがすでに5/12付でアップされていたのをご存知だろうか。浜田和幸「どうして? ゼレンスキー大統領の懐が侵攻後も膨らみ続けている謎」(https://www.mag2.com/p/news/538575)。

 私は明日、某読書会で標記のテーマで話をするのだが、その結論とゼレンスキーの内実があまりに合致するのに、あきれているのである。

 おそらくオランダ経由の情報に基づいて、上記ブログではいわく、実はヨーロッパではウクライナは最も腐敗の蔓延した国家として以前から悪評ふんぷんだった。それをテレビドラマで主人公が演じたように是正してくれると期待されていた彼がやっぱり同じ穴のむじなだったことが露呈し、ロシア軍侵攻直前は政権崩壊直前の支持率30%だったこと、彼の蓄財の手法がまったくプーチン流の独裁政治によってもたらされていること、などが述べられているのだが、その中で具体的に数字を挙げてこう指摘されている。彼は大統領になって「2年間で8億5000万ドルもの蓄財をなしたことが暴露」され、しかも侵攻後も「毎月1億ドルのペースで膨れあがっている」し、彼とその家族で立ち上げたテレビ制作会社の「組織犯罪汚職」が明らかにされ、挙げ句ノーベル平和賞獲得をめざして関係方面に根回しもしている、と。

 他情報でも、EU加盟候補国になったところでたぶん加盟条件を満たすことはできない、とはもっぱらの評判である。

 要するに、彼はウクライナ人民への国際世論の同情論を一身に受けることで、戦争を継続すればするほど私服を肥やすことができるので、すでに敗北が決定的な戦争を絶対にやめようとはしない、彼は「ぶっちゃけ、プーチン大統領に頭が上がらないのではないでしょうか」というわけである。

 こういう情報抜きでも、私にとって彼はアメリカの傀儡にすぎないし、戦後は世界中からかき集めた武器・弾薬をブラックマーケットに流して大もうけする図式がすでに予想されているわけなのだが。そのツケを延々と払うのは国民なのだ。最近まで私は知らなかったが、第2次世界大戦の時、英国はアメリカから多額の軍事援助を得たのだが、その返済に最近までかかってようやく完済したのだそうで、ウクライナとて同じ運命が待ち受けているわけで、今般の戦争で結局得するのはアメリカの軍事産業、といういつもの構図なのである。

 古代ローマ帝国の繁栄の実態は、一部の研究者が得々として世情に流布させているような決して立派で明るい話ではない。いわば「欲望の資本主義」よろしく、上から下までカネに群がった挙げ句の戦争バブル、そしてなけなしの資産を食い潰しての没落・崩壊だった、ように私には思えてならないのだ。

 ところで帝国崩壊の裏話に、自然界の予期せぬ異変があって(後2,3世紀の天候異変と疫病流行)、それに適切に対応できなかったからだ(あの時代どうあがいても誰にもできるわけもないが)となると、二年来のコロナ騒ぎを露払いに、今年の夏の猛暑=電力不足と、早すぎる梅雨明け=水不足は(6/27毎日新聞有料記事「電力も水も足りない?…「異例」の夏 厳しい暑さのワケは」https://mainichi.jp/articles/20220627/k00/00m/040/262000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=article&cx_mdate=20220628)、あたかも黙示録的な前兆に思えてならない、と思うのははたして私の妄想なのだろうか。

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エルコラーノのトイレ事情

 以下の論述は欧文某論文からの抜き書きに私的コメントを加えたものであるが、特に再現画像で著作権問題が生じかねないので、横文字での典拠はここでは公表しない(この判断が正しいかどうかも私には疑問ではあるが)。それを含めて、その情報をご希望の向きは以下宛てにお求めいただければ開示しますので、ご遠慮なく。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 紀元後79年のウェスウィウス山の噴火で約20mの厚さで泥溶岩流に呑み込まれたエルコラーノは、以前の火山噴火でできた、海面と約15mの落差のある海岸段丘上に位置していて、町の東西を川で囲まれていたとの史料が残っている。街全体が掘り出されたわけではないが(なにしろ南側を除いてまだ現代の家屋が埋没遺跡の上に建っているようなことで)、調査から、町には東西3本のデクマヌス通り、南北には少なくとも5本のカルド通りで規則正しい碁盤目状の町並みだったことが判明している。ここには約4000人の住民が住んでいたと想定されている。ポンペイと違って17年前の地震で大きな影響を受けたように見えない。というか、そんなはずはないので、すでに修復が完了していたと言うべきか。下図はGoogle Earthからの西向き3D画像で、遺跡は現在の海辺から450mほど内陸に位置しているが、当時は海岸線に接していて、船着き場や船舶格納庫も存在していたことは、皆さんすでに御承知かと。

左上はナポリ湾、中央右がエルコラーノ遺跡:現在の地面から10-20m掘り込んで遺跡が出現している。

 エルコラーノから東南に直線で13km離れたポンペイは、同時に被害に遭ったが、まず軽石が降り注ぎ、最後に火砕流に襲われ、4−8m内外の埋没だった。これからもエルコラーノとは遺跡の残り方が色々違ってきていることも見当がつくはず。私にとっての新事実、もっぱらプテオリの専売特許として地面の緩慢な上昇・下降のいわゆる「bradisismo」現象が言われてきているが、ここエルコラーノでも1980年代から指摘されていた件については、後日アップ予定。

 エルコラーノはじわじわ迫ってきた比較的低温の泥溶岩流に密閉されたので、上階部分も多くが崩壊を免れて残り得たし、木造部分も炭化して残存している箇所が多い。それに海への傾斜がポンペイに比べると急でなかったので、埋没以前にすでに地下下水溝が完備していて、個人宅のトイレの多くはそれに直結していた。逆にポンペイは、大部分の上階部分は軽石の堆積で崩落し、木造部分は蒸し焼き状態で空洞化し、傾斜が急だったので基本的に下水溝は構築されておらず、街路がその役割を果たしていたがゆえのステップ・ストーンの例外的存在だった。その場合、雨水の急激な集中を避けるため止水堤の役割が重要だったはずだ。

 実は、エルコラーノ遺跡は現在の地面より10−20mも掘り込んでいるので、雨が降ると水が溜まってせっかくの遺跡を痛めるという問題が発掘開始時から存在した。だから1930-40年代に排水のためかつての下水道が再利用されたのも当然だが、遺跡から海へのトンネルは1920年代にアメデオ・マイウリ時代の作業員が火山岩を、古代さながらに、高さ2.5m、幅1.3m、長さ450mにわたって手掘りしたものだった。その後のメンテナンス不足で再度閉塞した部分が最近補修され、現在は遺跡内のかつての下水溝を使って、そのうえポンプを設置して海への排水が可能となったのである(それで当時の海岸付近の調査が進んだらしい)。

 さてこの遺跡にはなかなか隅に置けないトイレが幾つもある。まずは中央浴場付設の公衆トイレ(VI.1)。これを浴場の男子専用とするのがどうやら通例のようだが、下右写真をごらんいただくなら自明のように、そもそも浴場内から直接行ける構造になっていないので(手前に写っているカルド III通りから入るしかない)、私には一般的な公衆トイレとしか思えないのだが、まあ風呂に入る前に済ませておきなさい、ということだろうか。それにしてもこの区画、奥まったトイレ部分に至る空間が不必要に広くて、私は気になっている。このトイレ便座の下を浴場からの排水が滔々と流れ、手前のカルドIII通りの排水路に繫がっていたのだろうが(下図参照)。

右現況写真の、奥の壁際が件のトイレ、中央通路の奥が浴場

 次に某邸宅の台所トイレ(「2つのアトリウムの家」:VI.29)。壁に沿った逆L字型調理台の角っこに小型のオーブンが設置されているのが珍しい。私は2019年にもこの邸宅を見学したはずなのだが、他の写真はあってもなぜかこの台所トイレの写真がない。謎である。それにググって入手した写真だとオーブンの天井が崩壊しているようなので、以下左の写真は発掘後かなり初期のものと見た。

 現段階で私はまだ詳細を検討できていないが、以下のような数字が提示されているので参考までに列挙しておく。これまで発掘されたエルコラーノ遺跡で、合計88の便所が確認されている。ということは、エルコラーノのほぼすべての邸宅に1つ以上の便所があったことになり、いかに便所が都市全体に広がっていたかがわかろうというもの。(邸宅)41戸のうち28戸に1つ以上の便所があり、合計39の便所が確認された。このうち、玄関脇にあるのは一箇所だけで、14が台所に隣接しており、24は邸宅の奥にある、ということは使用人の部屋やサービスエリアに設置されているのが通例ということになる。後述との関連で付言しておく。ここでのトイレは固定設置型を意味している。

現段階でこの図のすべてを解読できていないが、たった1つしかない緑のマルが公共トイレ(先に触れたVI.1)、赤マルが固定トイレを示しているのだろう。その中には上階トイレも含まれているが、これについては詳しく個別事例に触れる機会があることを念じている(別情報から、左右の青線が調査済みの下水溝、中央の緑線がカルドIVの未調査下水溝、上部に見える黄土色がデクマヌス・マクシムスの両側を走る下水溝、を示していることが判明)。

 邸宅で未だトイレが確認できていないのは、以下の四戸のみの由。Casa dell’ Apollo Citaredo(V.11)、Casa del Sacello di legno(V.31)、Casa del Mobilio carbonizzato(V.5)、Casa dell’ Erma di Bronzo(III.16)。そこでは、上階(の特に階段踊り場隅)にその設備があった可能性は否定しがたいとしても、とりあえず地階での可動式トイレの使用が考えられるはずだ。

左端は可動式便座トイレ。その中に、右側のような容器が入っていた:直接容器に座る女性用オマルもあった。詳しくは、以下参照。https://www.koji007.tokyo/atelier/column_roma_toilette1/

 とまれ、邸宅でのトイレはいずれもサービスエリアに位置していることから、それらの使用は主として奴隷用であったと断定してよい(よって犬ころ同様プライバシーも、臭気を考慮する必要もなかったにしても、可能性としてカーテンや扉の設置が付言されている場合もあるが、私見では望み薄かと)。そもそも地階は基本的に奴隷の活動エリアであった、というのは私の確信である(もちろんアトリウム周辺の接客部分を除いての話だが)。主人の家族はおそらく上階の自分の部屋に箱形の可動式便座(sella pertusa)を持ち込んで、箱の中に容器を置いて用を足し、それを奴隷が毎日処理していたと思われる(上図参照)。

 商業・製造業の家屋68の内、27は入り口近くにトイレがあって、これは従業員(基本、奴隷・解放奴隷のことかと)のみならず緊急事態の顧客にとっても利用可能だったはずである(こらえ性のなくなった老人の私もコンビニのトイレをちょくちょく利用させていただいている。ありがたいことだ)。

 また公共建造物はエルコラーノにおいて未だ部分的にしか発掘されていないが、11の公共建造物から9の便所が発掘されている(「中央浴場」VI.1,4-10に4、以下に各1:南東テラスの「郊外浴場」Terme suburbane と「聖所」Area sacra、いわゆる「Augustales礼拝所」Sede degli Augustali VI.21-24、「製パン業者の家」Ins. Or. II.1a)。

 さて、いよいよ上階トイレである。私の参考にした文献にはあちら風に「地階」「一階」「二階」と表記されているが、以下これを我が国の表記に準じて「一階」「二階」「三階」とすることにする。次の復元画像はアメデオ・マイウリによるインスラ・オリエンタリスIIのもので、表記では赤い矢印が「三階のトイレへの道を示している」とされているが、私見では日本語で普通「中二階」と訳されるmezzanino の上の階なのでこれをどう表記すればいいのかちょっと迷うが、いずれにせよ、これが古代ローマ時代の現存する最も高いトイレ事例となるらしい(もちろんもっと上階では可動式が使用されていたはず)。

 ちなみにこの区画、残りがよくてその上階(3階というべきか4階というべきか)もあったことが確認されているので、一世紀半ばに帝都ローマ風な高層集合住宅らしきものが、ここエルコラーノではすでに存在していたことになる(https://donovanimages.co.nz/proxima-veritati/Herculaneum/Insula_Orientalis_II/HTML5_panos/F02-05/F02-05.html)。こうしてみると、ポンペイではそういった高層建築物が見当たらないのをどう考えたらいいのか、いささか気になるところではある。現段階の私見として、ポンペイはおそらく62年の地震の後、都市パトロンだった有力者層の流出で再建が遅々として進まず、もちろん商業活動も停滞し、要するに発掘されて数的には隆盛を誇っていたように見えるバールや商店街も、現代の我が国地方都市のように、あらかた閉店のシャッター街となっていたのではないだろうか。それに比してエルコラーノは小ぶりながら順調に復興・成長していた地方都市だった、のかもしれない。

左、現状:左から9,8,右端7番地;中央、アメデオ・マイウリの模式図;右、いわゆる8番地の3階トイレ

 エルコラーノには、2階には24箇所、3階には3箇所のトイレが発見され、テラコッタのパイプで地下の下水溝へと接続されている由で、となると汚水枡を介すことなく直接垂れ流ししていたということになる。

 上記インスラ・オリエンタリスIIの事例でみると、9番地1階の入り口右隅にトイレが設置されているが(以下のview 360°画像で辛うじて確認できる:https://donovanimages.co.nz/proxima-veritati/Herculaneum/Insula_Orientalis_II/HTML5_panos/F02-01/F02-01.html)、8番地の3階のそれ(以下同様:https://donovanimages.co.nz/proxima-veritati/Herculaneum/Insula_Orientalis_II/HTML5_panos/F01-08/F01-08.html)とはテラコッタ製パイプで繋がって両方の排泄物が下水溝に流れ込むという構造になっている。これは以前ポンペイでの事例で指摘したのと同じ計画的設計である(その時はV.1.30-31で、1階と2階だったが:https://www.koji007.tokyo/atelier/column_roma_toilette1/)。ということは、現在まで残りえなかったにせよ、計画性ある集合住宅では建築段階でこのような共有設備は、少なくともナポリ湾地区では常識だったとも想定可能のはずだ。

 念のため再言しておく。とりわけ大の事後処理としては、バケツ代わりの土器に入れてある台所などでの使用済みの汚水を、ばしゃっとぶちまけて洗い流す。このとき台所トイレなどでは、野菜くずその他のゴミも一緒に流し込んでいたはずなので、となると、かつて目詰まりして水はけが極度に悪かったイタリアの安ホテル(しか私は宿泊したことがなかったのでよく遭遇した)同様の現象が生じたであろう、たぶん。定期的な煙突掃除ならぬトイレ掃除が必要だったろうが、それも奴隷のお仕事のはず。

左、9番地1階のトイレ跡を上階から見た写真;中央、構造模式図(1階と2階で表記されているが);右、8番地3階のトイレ(上記写真と90度角度を変えている)

 まだまだエルコラーノのトイレ噺は続くのだが(それだけこの遺跡のトイレの残り方がすばらしい、というわけだ)、今回はこれまでとしておこう。

【追記】mezzanino であるが、私はこれをあちら風には「中階」と呼称することにする。よってあちら風には「地階」「中階」「一階」・・・、我が国風には「一階」「中階」「二階」・・・、となる。我が国では「中階」ってそう見かけないけど。となると表記はあちら風に統一した方が無難かもしれんなあ、とうろうろ。

 ちなみに、九大堀研究室の小川助教への問い聞きでは「中二階で大事なのは、 ①付随する階の、床と天井の間に作られていること ②中二階の床面積が、付随する階の床面積の1/2以下であること」、だそうです。

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ポンペイにロボット考古学者登場:だけど兵器にもなる・・・

 実家に帰省する途中で京都に寄って、京セラ美術館で開催中のポンペイ展を見てきた。それは東京でなぜか未展示だったフレスコ画がそこで展示されていることを知人から教えてもらったからだ。

 かの美術館は京都市立らしいが、外見をみるととても立派で重厚な造りだった。外壁なんかはなんとなくイタリア・ルネサンスを思い出させる(というより、一橋大学といったほうが分かりがいいかも)。大いに期待して中に入ったら、肝心の展示室は古い構造をそのまま使っているのだろう、狭苦しくて期待外れだったのは、見学前に使ったトイレのせせこましい印象で増幅されたせいもあったかもしれない。

 予約していったのだがする必要もない感じでスムースに入場。それでもまずまずの人出でポンペイへの関心の高さはそれなりに納得できたが、いまどき一眼レフぶら下げてのご入場は私くらいなもので、しかも会場を3度は行きつ戻りつしたこともあり、さぞや監視人さんの不審を買ったことだろう。

 無料配布の展示リストによると30点あまりが抜けているようだ。私が途中下車してまで見たかったのはNo.147の見学だった。写真は撮ったものの背後の山にのぼる道は確認できなかった。それについてはいずれここで触れるかもしれない【本ブログの1/23に付加しました】。

 最後に見たミュージアムグッズ売り場も、あきれ果てた東博のそれに比べると学術性が若干高い好印象を受けた。そのせいもあって私はつい未購入だった『プリニウス完全ガイド』と「アーモンド・ビスコッティ」を購入してしまった。

 ところで、そのあとたどり着いた広島の実家のパソコンをいじっていて、かつて広島で保存しておいてすっかり忘れ果てていた情報を見つけ、もとの情報データを得んものとググったら、表題のニュースを見つけた次第。

 

ポンペイのロボット考古学者(2022年5月17日発信):https://the-past.com/news/pompeiis-robot-archaeologist/

「スポット」Spot君は、定期的な検査と遺跡の安全性を監視する機能を備えている。彼はボストン・ダイナミクスが製作した四足歩行ロボット。このような技術的ソリューションを利用しての考古学公園管理支援を目的とした「Smart@Pompeii」プロジェクトの一環として行われている、らしい。

 スポット君は、日常的な点検や遺跡の安全監視を行うためのいくつかのモードを備えているが、同公園のGabriel Zuchtriegel事務局長は、ポンペイ周辺での違法な掘削業者による地下トンネルを調査するためのソリューションとして、彼に期待している、らしい。これらの盗掘トンネルは安全性が極めて低いため、ロボットを使用することで、より迅速かつ低リスクでトンネルを探索することが可能になる画期的な方法として期待されているのだ。

 こういう電子機器を投入しても、アフターケアの不足からか早晩元の木阿弥になるのがイタリアの常であった。立派な国立博物館にIBMなんかの寄贈の機器が寂しく放置されているのをどれほど見てきたことか。さて今回はどうだろうか。

【追記】2022/7/23

 以前から予測されていたが、ロシア発の犬型ロボットを兵器に使用する画像が投稿されて波紋を呼んでいる(https://karapaia.com/archives/52314587.html)。スポット君とよく似ているので、類似品が開発されてのようだ。実射画像を見る限り、銃の反動がかなり大きいので、兵器としての実戦登用はまだまだ先のようではある。

 実はそれ以前からアメリカ軍やフランス軍ではその試験的運用が行われているという情報があった(https://karapaia.com/archives/52306815.html;https://karapaia.com/archives/52301181.html)。上記ボストン・ダイナミック社製をそのまま使用しているのはフランス軍で、ただもっぱら偵察用で、市街戦では有効という結果が出ているらしい。会社も殺戮兵器ではなく偵察用であれば問題ないとしているようだが、さて(それ以前から、色々活用が考えられていたようだ。新コロナでの監視用とか:https://karapaia.com/archives/52295095.html)。

【追記】2023年夏の訪問時にはくだんのスポット君を目撃することは出来なかった。もっぱら夜間巡回なのだろうか。

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Solidus金貨の相場

 コンスタンティヌス大帝が導入した流通貨幣ソリドゥス金貨を一つはほしいものだと常々思ってきたが(大帝以外のものは二つ持っている)、今般のCNGのオークションに比較的多くの金貨が登場していて、ま、入手するには高額すぎたが、いい機会なので他との比較がしやすかった。

 ちなみに出品されたコンスタンティヌス大帝のソリドゥス金貨は、20mm、4.27g、11h、324-5年ニコメディア打刻で、裏面図像は着座の女神ウィクトリアであるが、業者表示価格2500ドルのところ、現在入札数1で1500ドルとなっていた。あと12日間あるので、どこまであがることやら。だからというわけではないが、こういった金貨が流通貨幣だったとは、私には正直いってにいまだに信じられないわけで。

  1世代前のディオクレティアヌスの294年ローマ打刻のアウレウス金貨(19.5mm、5.69g、7h)は、業者表示価格2000ドル、入札者2名段階で1300ドル。それ以前の諸皇帝は1500〜2000ドル(現在900〜1300ドル程度)、高くて3000ドル(現在2000ドル付近)が多い。

  コンスタンティヌス以後だと、5世紀初頭打刻のホノリウスの、ラヴェンナ打刻ソリドゥス金貨(21mm、4.46g、6h)は、業者価格400ドル、入札数5ですでに475ドル。その後も、500〜750ドル(現在350〜475ドル)と、他に比べると比較的お手頃の価格になっている。

 それにしても、流通貨幣にしてはコンスタンティヌス大帝のSolidus金貨がコイン市場になかなか出ないのはどうしたことか。・・・疑問である。

【追記】締切まで5時間を残す時点で再訪してみたら、ほとんどの金貨は業者想定価格を超える値段になっていた。ちなみに私が着目していたコンスタンティヌス大帝のソリドゥス金貨は、入札者10名で$4250、ディオクレティアヌスのアウレウス金貨は$2750。締切直前の駆け込み入札が常態なのでさてどこまで行くことやら。とほほ。

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