投稿者: k.toyota

騎兵用フェイス・マスク出土

 Paphlagoniaというと小アジア半島の黒海側でBithyniaとPontosの間の地域名であるが、そこのHadrianopolis(現Karabük県のEskipazar付近)では2003年以来発掘がおこなわれていたが、このたび約1,800年前のローマ軍騎兵がパレード用に着用したフェイス・マスクが出土した(但し、鉄製)。その場所は前1世紀から後8世紀まで居住されていたと考えられており、これまで、浴場2,教会、劇場、岩窟墓、記念碑的ニッチ、ヴィラ、そして正方形の要塞化された建物など、14の構造物が発見されているが、今般の騎兵用マスクは要塞化された建造物から出土した。2021/11/23(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/10/why-was-ancient-city-of-hadrianopolis.html)

右は出土場所の要塞施設

  というわけで、この地はローマ軍守備隊が軍事拠点にしていた可能性が大。

 今回のは断片だが、この種の完品はオランダ出土のNijmegen Helmetなどから(青銅製)色々出土しているようで(下図左がそれ、右は近衛軍騎兵用のレプリカ)、青銅製であれば当時はキンキラキンで、鉄製の場合は金か銀メッキされていたり、別に真鍮(別名:貧者の金)製もあったので、パレードにおいてきらびやかな光彩を放っていたと思われる。

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ユスティニアヌス時代の「疫病」再検討

 史料の再検討と、最近の遺伝子研究に基づいて、新たな見解が提出されているようだ。私にとっては少し間遠い時代のことだが、ケンブリッジ大学のPeter Sarris教授の論文を掲載した研究雑誌が”Past & Present”の今月号なので、なんとも懐かしい。

 まだ論文本体を見ていないが、「Archaeology New Network」によると(2021/11/18:https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/11/justinianic-plague-was-nothing-like-flu.html)、2018年にイギリスのEdix Hillのアングロ・サクソン時代初期の埋葬地で発見された遺骸のDNA調査から、Yersinia pestis株が発見されたが、それは6世紀のパンデミックに関与したものの中でも最も早い時期の系統であった。これを根拠に、サリス教授は「従来の研究は、新しい遺伝子の発見を無視または軽視し、誤解を招くような統計分析を行い、古文書が提供する証拠を誤って伝えている」、また「歴史家の中には、病気のような外的要因が人類社会の発展に大きな影響を与えたと考えることに深い敵意を持っている人もいて、『ペスト懐疑論』が近年注目を集めている」とも指摘している。

 教授がもっとも注目するのは、542年から545年の間に行われた重要な法律の乱発で、それらは「ペストによる過疎化に直面し、土地所有者の組織にペストが与えたダメージを抑えるために出された一連の危機管理措置」だったとする。

 従来の「疫病がエジプトのペルシウムPelusiumに到着してそこから広がっていく様子を描いた文学的な史料から始めて、考古学的・遺伝学的な証拠をそれらの史料に基づいた枠組みや物語にはめ込んでいくという方法」はもはや通用しない、541年に紅海経由で地中海に伝播したペストとは別の、もう一つのそれは、それよりもやや早く、おそらくバルト海とスカンジナビアを経由してイギリスに達して、そこから大陸の一部に向かった可能性が出てきたわけだ。

 最後に教授の印象的な言葉を記しておきたい。「遺伝学的証拠の増加は、我々がまだ予想できない方向に導くでしょう。歴史家は防御的に肩をすくめるのではなく、積極的かつ想像力豊かに対応する必要があります」。

 そうありたいものだ。

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ローマ・フィウミチーノの船舶博物館新装開館

 長らく閉鎖されていたMuseo delle Navi di Fiumicinoが10月12日に新装開館されて、現在は火曜〜日曜。10:00−16:00に無料公開されている由。https://www.ostiaantica.beniculturali.it/it/aree-archeologiche-e-monumentali/museo-delle-navi-di-fiumicino/?fbclid=IwAR19lGBmgWdVJyUdCGlTTHi2wwBDqKwj39Kpb-4qg9FrJz7peJfNGHF4h7s

左、概観                        右、館内

 1957年からの、フィウミチーノ地区でのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港新設工事を契機に、1058−1961年にかけて8隻の船舶の残骸が発見された。主体は商船で、中には生け簀をもった漁船や、近隣輸送に従事した小型帆船も含まれている(損傷がひどく保存放棄されたものもある由)。うち三艘は河川運搬船のcaudicarieで、それぞれ積載量70,50,30トンで大いに当時の造船研究に寄与することになる。すなわち必要に応じて大きさの異なる中央の胴体を船首と船尾の周りに組み立てていたことが判明したのである。

 見つかった場所にそれらを保管した格納庫がまず建てられ、それは後に博物館として1979年に開館されたが、建築上と船体修復上の問題があって2002年には閉館され、以来20年間閉鎖されてきた。

 私は20世紀末にかろうじて見ることができたが、そのとき他に見物人はいなかった。目撃した職員は少なくとも三人はいたので、保存・公開する遺跡が多いイタリアは人件費もたいへんだなあ、と思ったことだ。

 そのあと外に船が接岸した突堤ないし船着場の遺跡がありそれの写真を撮っていたら、どこからともなく鋭い笛が聞こえたので周りを見回したら、100mくらい向こうの空港のフェンスから兵士が自動小銃を構えているのが見えた。角度によって軍事施設である空港を写していると思われたらしい(実際は、歩哨の兵隊さん、暇を持てあまして東洋人を脅しただけだろうが)。テロが頻発していた時期でもあり平和ボケのかの日本人は慌てて撮影をやめたことは言うまでもない。・・・

 マルチメディアルームも設置されているようだが、イタリアではおなじみのしばらくしたら機器が故障して動かない(たぶん修復の予算がないせいだろう。完動している例はほとんどない)ことが予想されるので、早めに見に行くにこしたことはないだろう。

【付加情報】遺跡公園東のユリウス2世創建の砦Castello di Giulio II情報が、Parco Archeologico di Ostia Anticaのブログにあったので、周知します。

毎週末、って土曜のことかと思うが、午前10時から午後4時まで、10.20、11.40、午後2、午後3時に開いています。各訪問の参加者上限は12名まで。 予約は不必要、とのこと。

入口はボルゴ側から入る

  

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最近の発掘報告等若干:オスティア、エルコラーノ、Civita Giuliana

 このところちょっと学会発表とかで立て込んでいて、万事他が疎かになってましたので、落ちはあるでしょうが、まとめて掲載します。

1)10/7:トルコの旧ニカイア(現イズニック)のネクロポリスから後2世紀の石棺2つの中からミイラ化した骸骨発見。ここからはこれまで計6つの石棺が発見されていた。

 実は今回発見されたものは両方ともエロスが描かれていて、その1つは以前盗掘を受けていたらしい(2008年に遡るペットボトルのキャップが見つかっている由)。そちらからは女性と男性の骨格が発掘され、未盗掘の方は一人の女性が見つかった。

 2019年発見のものからは「アスティリスが母ニグレニアと自分のために造った」とギリシア語で碑文があり、内部には2人の女性の骸骨が入っていた。床には後4-5世紀頃のモザイクが張られていたので教会だったことが判明。

 ということで世紀は前後するが、異教とキリスト教が同所から出土したわけである。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/10/two-roman-era-sarcophagi-found.html

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2)10/15 アウグストゥスからコンスタンティヌス11世までのローマ皇帝は175人の男性だった(自力で統治しなかった皇帝は除く)。それを、研究者は地震などの現象での80/20ルールに生存率が従っていると結論付けた。

 帝国西部の69名中自然死した者は24.8%、残りは戦死・宮廷陰謀死だった。175名全員だと非自然死は30%。

 また、皇帝死亡の時間分析から、即位時が高いこと、その後、在位期間が13年になるまでは低下するが、その時点で急激に上昇し、その後再びリスクは低下する。

 13年目の危機の原因はまだ答えがでていないが、こういった統計分析が歴史研究の重要な補完となりえることは確かであろう、と記事は結んでいる。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/10/only-one-in-four-western-roman-emperors.html

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3)10/17:エルコラーノから新たな骨格が出土。40-45歳の男性遺体が火山岩の中から発見された。その回りからは組織や金属の痕跡も見つかっているので、今回発見された人物のバッグ、仕事道具、あるいは武器や硬貨などではないかと想定されている。

            写真で、遺骨の先端が切断されているのは発掘時のものだろう

 ヘルクラネウムは町としてポンペイよりは裕福だったが、ポンペイの場合熱せられたパーミスpumiceという小さな軽石が降り注いだのと異なり、ウェスウィウス火山からまず500度の火砕流で襲われ、その後溶岩泥流で密閉されたので、発掘は一種の硬く締まった溶岩を掘削しなければならず、一層困難である。ただその代償として、2階建てはそのまま出てくるし、木製部分は木炭化して出土してくれるわけである(ポンペイの場合、上階部分は軽石の重みで崩壊し、木製は完全に蒸し焼き状になって空洞化してしまう)。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/10/new-skeleton-find-could-reveal-more.html

2021/12/2により詳しい紹介が、頭部まで露わになって、そばから出てきた袋の中身までも、ちょっと残酷な写真ともどもなされた。少しづつ慎重に発掘が進んでいるのだろう。http://www.thehistoryblog.com/archives/date/2021/12

 以下はその頭部付近の写真:

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4)以前、ローマ時代の儀式で使用されたと思しき戦車がこれまでにない保存状態で出土したCivita Giulianaのヴィッラから(2021/2/28報告)、今度は奴隷が居住したと思しき納屋が発見された。

、発掘完了区域      、今回発掘の納屋の状況

 これまで奴隷の居住区については仮説以上のものは発見されていなかったが(彼らの作業空間で寝泊まりしていたか、家内奴隷の場合は、仕えるご主人様の寝室の床に寝ていたのが普通とされてきた)、今般の発掘で大人用の木製ベッド2つと子供用のそれが1つ、そのほか日常品も出てきたので、その部屋は奴隷一家(法的建て前では、基本奴隷は結婚はおろか家庭を営めないことになっているが、この場合は実際よくあった繁殖事例ととるべきか、ベッド2つが夫婦の男女の存在を示しているわけではないと考えるべきでしょうね)の居住家屋と発掘者は考えているようだ。私は力点を置き換えて納屋に奴隷たちが住んでいた、とまあ微妙な違いに過ぎないが、そう考えているが、家内奴隷の常態解明に大いに役立つ出土には違いない。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/11/slave-room-discovered-at-civita.html

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5)東京を留守にしている間にイギリスから展示会のカタログが送られて来ていた。現在ローマのカピトリーニ博物館で展示中のトルロニア博物館所蔵品である(2020/10/14-2022/1/9)。Ed. by Salvatore Settis & Carlo Gasparri, The Torlonia Marbles:Collecting Masterpieces, Electa, 2020. もちろんイタリア語版もあるし、短縮版もある。

 この博物館は逸品を所蔵しているが現在非公開で、その中に私的に見逃しがたい1864年ポルトゥス出土の港湾風景のレリーフがあって、もちろん公開中に見ることできそうもないわけだが、その一葉ほしさに発注した。もちろん郵送料込みでいい値段だったが、生涯ない、もとえ、しょうがない。予想通りとはいえ、pp.175-178に解説と見開きでの写真が一葉載っているだけだったが。画像そのものはググればいくらでも手に入る。以下のごとし。このレリーフには港湾関係以外にも、なぜか4頭の象が曳く戦車も登場するかと思えば、唐突に邪視も登場する。ちなみに中央上部の灯台の炎や、左の大型船の帆の裏側の人物とかで明白なように、もともと色彩も施されていた。あれやこれや図像の詳細な謎解きは優に卒論に値すると思うのだが、誰かやらんかい。

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世界のトイレ事情紹介記事

 参考までに。たまたま見つけた記事です。2年前の情報。「日本人が海外でやりがちな「トイレ」でのNG行動」(https://tripeditor.com/359132)。

 最後にイタリアが出てきますが、便座がない場合、まああれは中腰でやるしかないでしょうね。

 それと路上なんかの有料の公衆便所は用心したにこしたことはない。というよりやめたほうがいい。壊れていて入れない、入れても出れなくなる、用が済んでも水が流れないなどなど。私は最後の件では、ナポリの国立美術館近くの地下鉄に向かう地下の若干安すぎる有料トイレで遭遇しました。ええ、もちろんそのままとんずらしましたよ。

 ともかく、だれか一緒でないとやばいです。有事の場合、外で見張っていてもらわないと、文字通り長時間の雪隠詰めになる危険性が。

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オスティアのHP:オスティア謎めぐり(17)

 オスティアに関しては無類に充実したHPがある。それが「Ostia:Harbour City of Ancient Rome」(https://www.ostia-antica.org/)で、常時アップグレードしているので、オスティア研究する時にはまずこのHPを精読すればなにかと便利である。その管理人がJan Theo Bakker氏である。オランダのLeiden 大学関係者(卒業生なのは確か)らしい。彼のオスティア研究は1983年にはじまり、おそらく遅くとも1999年ごろから構築されたようだ。同志・友人たちの援助があるにしても、彼の継続的な熱意がなければとうていなしえなかった快挙である。

1998/11撮影

 ググっても彼の個人情報はそんなに公表されていないようだが(かろうじて、以下で多少書かれている:

https://www.ostia-antica.org/dict/intro.htm)、最初のローマ滞在が1987年、最初の著書を1994年に出版しているので、60歳前後あたりかと想像している。末永いご活躍を祈らざるを得ない。

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古代ローマ関係食材2点

 日頃イタリア食材でお世話になっている「ベリッシモ」(https://www.bellissimo.jp/c/new)から新入荷情報が来て、それを見ていたら、古代ローマの食材として以下2点が。ま、もちろんそのまんま古代のものであるはずはないけれど、少なくとも教材にはなるはず。

(1)古代小麦が原料のパスタ3種:古代ローマにパスタはなかったはずだがまあいいか。

 最近、グルテンによる小麦アレルギーが出るようになったせいで、それが発症しない品種改良されていない古代小麦への関心が高まっているようで、ググってみると「スペルト小麦」の広告販売、確実に多くなっている。私は昔、滋賀県産のそれを購入して学生に教材として渡したことがある。その一人は母にクッキー状に焼いたものを造らせてもってきてくれたので有難く賞味したことがあった。自作したら満点だったのに。

粉だと面倒だという横着な人向け(実は私もそう)には以下で焼いたパンを売ってくれる。(https://item.rakuten.co.jp/hamunder/kodai_set/)。ただし製品に「グルテン少なめ」とあったりするので、一応ご了解を。100%は600円高くなる。

 今回のは、ギリシャ時代からシチリアで生産されている古代硬質小麦「トゥミニア」とのこと。

【食後感】パサパサ感がなかなかいい、それに慣れるとグルテン系がねちこく感じられる。それに気のせいか食後にお通じもよくなっているような。

 以前見つけていたシチリア産古代小麦生地の現地情報:https://www.pokkasapporo-fb.jp/plyuki/column/20.html

(2)古代ローマの魚醬の中世・近世での発展形「コラトゥーラ」、それの日本・新潟産。

左、チェラータ産            右、新潟産

 本来はカタクチイワシが原料で、これまでイタリアだけでなく日本でも幾つか購入したが、教材用だったこともあり使い切ったことはない。新潟産は原料が鮭で、「チャーハンやパスタ、スープ、炒め物、煮物等日常的に」隠し味にお使いください、とのこと。まあアンチョビ代わりの隠し味といったところか。日本産の商品名「Ultima Goccia」(最後の一滴)が気に入ったのでどっかでパクりたい。

 あと、こういった話題では、古代ワインの件もあるが、それは改めていつか。先日、通販でギリシアの松ヤニ込みも飲んでみたが、・・・あんまし違いは分からなかった。ま、ものにもよるのだろうが。やっぱり現地で購入するのが一番だろう。

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エルサレムの王宮?遺跡から個人用トイレ発掘!

2021/10/8公表
Biblical Archaeology Societyからの情報(http://reply.biblicalarchaeology.org/dm?id=7F1C0DB737796CF5408185192138D194EAA4B20683170824)。

 イスラエル考古局の発掘チームは、第一神殿時代末期(紀元前7世紀頃)のもので、ユダ王国最後の王の一人が所有していた可能性があるトイレを発掘した。今日ではトイレは家庭の必需品だが、古代ではトイレは富や地位、特権の象徴で、それは古代ユダにおいても同様であった。出土場所の周辺の状況から、王の個人的な個室トイレだったと考えられている。素材は石灰岩らしい。

 この時期の「トイレ」は私が知る限り、このような丸い穴が開いているだけで、大するにせよ小するにせよちょっとどうかなと思わざるを得ないのだが、そんなこといえば、古代ローマ時代の便座だって、小には対応していない、と私は思っている。この上に別に椅子形の便座なんかがあって下に伸びる土管を固定するだけの機能かも、とつい思ってしまうのだが、さてどうだろうか。

 以下も参照。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/10/2700-year-old-toilet-found-in-jerusalem.html

当時のトイレ環境の想像図

【追記】2021/11/12公開 このトイレから採取された土砂を分析した結果、回虫、サナダムシ、鞭虫、ギョウ虫の4種類の寄生虫の卵が確認された(残存できなかった寄生虫の卵もあったはずである)。これらは腹痛、吐き気、下痢、かゆみなどの症状を起こす寄生虫で、特に子供にとって、栄養失調や発達の遅れ、神経系の損傷、そして極端な場合には死に至ることもあった。

 

Armon Hanatzivの石造りの便座の下にあった堆積物から回収された腸内寄生虫の卵。(a). ギョウ虫Enterobius vermicularis;(b).回虫Ascaris lumbricoides;(c).豚鞭虫Trichuris suis;(d). 鞭虫Trichuris trichiura;(e).サナダムシTaenia sp. 各バー=25μm。写真はEitan KremerとSasha Flit(拡大率X400)

 以上、https://doi.org/10.1016/j.ijpp.2021.10.005

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もうひとつの「死の川」fiume mortoみっけ:オスティア謎めぐり(16)

 テヴェレ川関係をググっていて、以下の書き込みを発見(https://www.montinvisibili.it/Ansa%20morta%20Tevere)。表題は「テヴェレ川の死の曲がり角」Ansa morta del Tevere

 てっきりオスティア・アンティカ付近の1557年の大湾曲部分の切断のことだと思って読み出したのだが、・・・なんか変だ・・・。

 掲載のGoogle Earthの地図がなぜか湾曲が真逆になっているしと思っていると、測量図的な地図も出てきて湾曲部分の真ん中を「G.R.A.」が横切っているではないか。それは首都ローマの回りを走る高速道路「ローマ大環状線」のことなので、こりゃ違うぞと。

 調査の結果、この場所をテュレニア海の河口から遡上させると、下記の画像の右上となり、遺跡から直線距離で11.5km、逆にそこからローマ市内のフォロ・ロマーノまで直線距離で11km。まあ、帝都ローマから河口までの中間点。現在自然公園化されていて、この湾曲に沿ってサイクリング道があるそうで、それ関連の写真もいっぱい出てきた。こんな場所があったこと、これまで全然しらなかった。

                     右上の青色に注目せよ ↑

 ところで、先にこの「もう一つ」に触れてしまったが、我らの本命の「死の川」についてはまた別に紹介したい。

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