投稿者: k.toyota

「焼き場に立つ少年」の検証をめぐって

 米軍海兵隊第5師団所属軍曹のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル Joe O’Donnell氏(1922-2007)が長崎で撮影した私的写真(1989年公開:そもそも第5師団は福岡・佐賀県占領を担当だった由:長崎県は同第2師団管轄)をもとにしたNHK ETV特集「“焼き場に立つ少年”をさがして」をみた。これも昨年の再放送だが、未見の人にはお勧めする。NHKオンデマンド(単品¥220)で見ることできる。

彼は7か月(1945/9-1946/3)の任務を終え帰国、1949年からホワイト・ハウス専属カメラマンとして勤務、トルーマンからジョンソンに至る四代の大統領を撮影する任務に就いていて、ケネディ国葬の日が3歳の誕生日だったJFKジュニアの敬礼写真を撮ったのも彼だそうで、その筋では著名人だったようだ(但し、異論・反論あり:【補遺4】参照)。

 NHKのそこでの追跡の仕方が歴史学研究に通底していて、そっから始めるか、といささか興奮。米軍が北九州で撮影した4000枚の中から、まずオダネル撮影分127枚を摘出。それを時系列的に並べて、彼が担当地福岡・佐賀以外の長崎へ行った可能性(写真のない空白期日)を割り出すと、1945年10月13−17日あたりが該当。夕方でフラッシュを焚いているので曇りの日となり、気象台資料から15、17日にさらに特定【後日談:でも彼の上陸港は佐世保で、大村に師団本部があったという記述もあり・・・。参照、【補遺1】の吉岡、それにオダネル『トランクの中の日本』】。

 写真の分析はさらに進み、洋服だと男性は右前のところそうなっていないし、胸の名札は普通左胸に位置していたので、あの写真は左右反転であること(住所や名前は読み取れず:後から考えてみると、意図的に消された可能性あるかも)、さらにはカラー化のプロセスで、少年の鼻の中に布片の詰め物が認められ、また写真の左目の白眼の様子から出血痕が見て取れるとし、そういった白血病(血小板減少)の症状の被爆量(含む、2次被爆)の想定から被爆後2か月あたりまでと判定。

、反転させた写真;、カラー化したもの(いずれもウェブから入手)

 回りの風景からも焼き場の位置を想定する。背景は段々畑風。石柱に刻まれた字は旧字体「縣」と思われるがそれ以上の追求はできなかった由(この石柱は何らかの公的な境界表示と思われるので、その意味で重要証拠のはず。よって私にはあの程度の調査では納得できない)。足元の電線は電車用の通信ケーブルで、その手前の石垣は線路沿いによくあった加工石材と鉄道関係者が証言を寄せる。こういう風景全体から旧国鉄長崎本線の大草・長与駅と道ノ尾駅の間の線路の上側に少年が立ち、被写体までの距離1.8mで撮影、と絞られていく。となると当然、長崎の爆心地(浦上)付近での撮影ではなくなる、はず(すなわち、NHK想定撮影地は爆心地から直線で3.4〜5.1kmと距離がある:少年たち兄弟はもちろんそこで被爆したわけではなく、どこかで被災して移り住んできて暮らしていたにすぎなかったのかもしれない)。

、3Dでの環境再現;、放送製作者が撮影現場と同定しているかのような映像(NHKオンデマンドより:著作権的にやばいですが、参考までに一時的に掲載してみました)

 別情報では、少年の名前も実名候補が挙げられているが、どうも間違いだったようだ。上述の想定場所とすると、撮影者オダネル氏がどうして長崎の手前で列車から降りて(ないしは帰り際途中下車して)、高台から見下ろして焼き場を見つけえたのか、そして線路の下側すぐに焼き場があったことになるが、はたしてそんなことあるのだろうか、私には謎である(http://leoap11.sakura.ne.jp/iroiro/new/yakibanitatushounen.pdf)【後から入手した『トランクの中の日本』によって、ジープや馬を使っての撮影行と判明】。また、オダネル氏の手記によると、血が滲むくらいきつく唇を噛みしめていたのなら、なぜその出血(これも口内出血を含め白血病の症状)をカラー復元していないのか、疑問(これはたぶん、出血が認められなかった、すなわちオダネル氏の報告が誇張だった、との判断か)。

以下は、2019/8/10 日テレのもの(ウェブから入手)。

 いずれにせよ、オダネル氏のシナリオに従うと、この少年も弟も、おそらく以前紹介した戦災(原爆)孤児だったのでは。敗戦後2か月、とうとう弟は死んだ。そして彼自身も白血病でおそらくは・・・。https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_22.html;http://www.kirishin.com/2019/11/22/39020/;https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2019/08/c06351757f3044e5ff1ed8f8da500642.pdf

【補遺1】2021/8/17:ようやく入手できた吉岡栄二郎『「焼き場に立つ少年」は何処へ』長崎新聞社、2013/8/9、p.28掲載の図版2「オリジナル密着プリント」をスキャンし、反転させ、露出を明るめに加工したもの。

 吉岡氏は、オダネル氏の数々の矛盾する証言を(上掲のp.24-5で早くも「一説に、オダネル氏は一九九〇年ごろより認知症の兆候が見られたという記述がある」と紹介:そこまで言わなくても、45年間という歳月は、健康人でも記憶の混濁は生じて不思議はない。但し、1990年ごろというと彼が写真の封印を解いた直後からとなる。彼が国の裏切り者と非難され出し、それらに対する抗弁のあげくの言説の揺れだったのかもしれない)、現地調査や地元の生存者の証言とつき合わせて5年間かけて検証し、結果、場所も個人も特定できず、この写真の意義を「写された特定の場所や人にあるのではなく、時間を超越した”象徴的な含意”にある」と結んでいる(p.104)。私もそれでいいのだろうと思う。そもそも、米軍や日本の撮影隊によって写された被爆者の姿は、ほとんど身元が判明しているが、ことこの写真に限っては、写真集やテレビでも紹介され全国的に反響を呼んだにもかかわらず、少年も場所も未だ特定されていない。彼が地元民ではなく敗戦間際の戦災移住者で、戦後まもなく死亡したかどこかに移動した可能性すらある、はずだ。

 結局、2019年のNHKの特集での新味は、場所を旧国鉄長崎本線の道ノ尾駅から大草駅間に想定している点にある。あらかたのことはすでに吉岡氏叙述の中で検討されていた。

現在発注中の以下がまだ未入手だが(ジョー・オダネル著/ジェニファー・オルドリッチ(聞き取り)/平岡豊子訳『トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録』小学館、1995年;ジョー・オダネル写真・坂井貴美子編著『神様のファインダー:元米従軍カメラマンの遺産』いのちのことば社、2017年)、参考までにこれもやばい写真を一時アップしてみる。オダネル氏に同行した通訳が(あるいは、役回りは逆か)釣り竿を持った少年に振り付けしている場面のように思われる。ここでも少年は軍隊式にピシッとみごとなまでに直立不動を決め、素足である。彼の名前は判明し、生存も確認された:西依政光くん。ただ撮影場所は長崎市内ではなくなんと佐世保(長崎県内ではある)のようで、西依くんは6月にそこで空襲を受けずっと防空壕住まいをしていた戦災孤児だった(https://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=KDT0401600)。となると、オダネル氏がたとえ「NAGASAKI」といっていたとしても(日本の現地名にうとい米人による聞き取り調査・編集の場合だと一層)、それは長崎県域の佐世保、大村、諫早などを意味している可能性は十分あったはずだ(それを吉岡氏も指摘している:pp.52-56)。

「原爆の夏 遠い日の少年:元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い」BS-i、2004年制作より。このとき西依さんは67歳の由で、だったら1945年は8歳となる勘定。オダネルとの再会後の彼の言葉があまりに印象的なので、無断引用で孫引きします。(https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=790&id=21960869)

覚えてるっちゅうより その この人たちが こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに 全然そこまで考えんちゅうか ただ 家が焼けたちゅうことだけですよね
進駐軍が敵ちゅうことなんか ぜんぜん考えんですもんね その時分は この人のために 家が焼けたとなんたちゅう
そしてもう 遠か親戚ば頼って あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっと 
とにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね 着替えもなんもなし 下は履くもんもなしですね
もうほんと しかし あの時期がいちばんよかったですよ
今の時分でなく あの時期がいちばんよかったですよ なんも心配しなくてですよね

【補遺2】 以下をみつけた。2006年製作・NHKスペシャル「解かれた封印:米軍カメラマンがみたNAGASAKI」49分(http://kazh.xsrv.jp/?p=9068;https://ameblo.jp/creopatoran/entry-12503687701.html)。この録画も是非みるべきだろう。そこでは、オダネル氏の離婚した最初の妻との間の長男タイグTyge O’Donnell 氏が登場し、1989年以降の写真公表による父の苦悩がより深く描かれている。そこで強調されていたことに、彼が第5師団管轄外の長崎県域(さらには廣島、宮崎)で軍に無断で私的に写真を撮影し、密かに持ち帰っていた(公用写真はすべて軍に提出が義務づけられていたので、有り体に言って,軍規違反)、ということがある。戦場や冷戦下での情報秘匿という意味もあったのだろうが、そういう状況下で彼が撮影した写真はネガ状況で300枚はあったらしいが【『トランクの中の日本』p.4-5】、帰国後母に見せようと点検し、あまりにも悲惨なものは捨て、トランクを封印した【『神様のファインダー』p.43-45】。また、米国内で彼を非難する声もかなりあって彼を精神的に追い込んでもいたし、それが原因で離婚に繫がった由。

【補遺3】コメントで寄せられた高橋様のご指摘に導かれ、私なりにGoogle Earthで想定場所を眺めてみた(3D)。土地勘のまったくない私でも臨場感が味わえる、ありがたい時代になったものだ。

線路の手前は現ローソンとその駐車場:撮影場所は建物の右あたりかも
あの写真だと、単線の線路のすぐ上の段に少年は立っていた、はず。焼き場は線路を越えて現在ローソンの駐車場となっているあたりだったのかもしれない。踏切左の箱に「西高田踏切」の表示が読める。テレビ撮影時に向こうの山裾にあった2階建ての家がすでになくなっていて、その変化に驚かされる。手前中央の小川(用水路?)は手前方向に135m流れて(一部暗渠化?され)浦上川に至っているようだ。

 2021/8/19 0時 原爆孤児のことをNHK ETV1「ひまわりの子どもたち:長崎・戦争孤児の記憶」でやってます。例の銭田兄弟たちが出演して、例の向陽寮(長崎市岩屋町666番地)での生活を話しているが、被災孤児の生き抜くための生き様がきれいごと抜きで述べられていて(盗みとか)興味深い。また、出演者たちはある意味勝ち組であり、いずれも男性のみということから、一人も登場しない女性孤児たちのその後の運命の苛酷さをつい想像してしまった。

【補遺4】オダネル氏認知症ないし「妄想虚言癖」疑惑問題

 aburaya氏のブログ(2013/10-2015/11)を見つけてしまった。彼は写真資料に興味をお持ちの方のようだ。以下はその最初あたりからの転載:https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11634614592.html?frm=theme

 aburaya氏は最初は単に焼き場に立つ少年の子守姿や直立不動を他の写真と比較することから始められたようだが、それからじゃんじゃん思索が深まっていっているのが興味深い。たぶんオダネル氏の写真を求めてググっているうちに米国ウィキペデイアに行きつき、禁断の文言を知ってしまったのだろう(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11647428622.html?frm=theme)。そっからは一気呵成で、日本のメディアが(実は知っていて、だが視聴者を意識して美談仕立てにするために)触れるのを避けてきた問題に容赦なく突入する。いや単に邦訳しただけなのだが,その破壊力たるやメガトン級である(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11666636231.html)。そのへんをオダネル氏の息子や4度目の再婚者坂井紀美子氏がどこまで事実に肉薄して書いているのか、発注中の本が届くのが待ち遠しい・・・【本が届いて読んだのだが、まったく触れていなかった。彼の死後のことなので、後書きとかで触れてほしかったのだが、売れ行きにも関わるので出版社は触れてほしくなかっただろうが】。

 実はいつもの悪いクセで、私も弟はただ寝ているだけじゃないか(だって、aburaya氏の写真のように、生きていても背後に首折れて口も開けて寝ているのが普通なんだし)、とか、戦災孤児であれば栄養失調で足がむくんでいても当たり前だろう、といった疑問は思いついていたが、そんな突っ込みをみだりにおこなってオダネル氏を誹謗するのは避けたいとの「忖度」がこれまで働いていたのだが、さてさて。いつもながら事実は残酷である。

 現代史ではかくのごとく、否応なく本人にとって知られたくなかったり、痛くもない腹を探られたりして、有象無象の「事実」があぶり出されてくる。なにしろ当事者や利害関係者がまだ生存しているのだから、異論が出てこないはずはない(事実は一つではなく、目撃者の数だけある)。オダネル氏の言動への疑惑が表面化したのは、なんと新聞に彼の訃報が生前の業績とともに掲載されて、それを読んだ読者から、あれは違う、自分が撮った写真だ、おかしい!という投書が寄せられたことが発端だった由)。

 2000年前の古代ローマにおいても実情は同じはずなのだが、すでに都市伝説化し俗耳にはいりやすい言説や美談が再生産されている面もあることを失念してはならない。証拠がないのではなく、失われてしまった、ないし抹殺されてしまったに過ぎないのだ。史料が「ない」がゆえに、そんな事実が本当になかったとはいえないのである。むしろ仮説的にではあれ、複数の「あった」可能性を常に念頭に置きつつ、周辺情報を突き合わせて「より」客観的な「事実」をめざすべきなのである。さらにややこしいことをいえば、史料が残っていたとしても、それは意図的偽造ないし意図せざる誤解だった場合もあるのだ。プロの歴史学徒であれば「事実」を暴く勇気を持たねばならない、はずだ。それは同時に自らの足元を崩すことにも繫がりかねない営みなので、凡百の徒は足を踏み入れることなどせず美談に逃げ込んでお茶を濁すのが通例となる、のだが。

【後日談:2022/7/12】なぜかここ数日この記事が読まれているようなので、あれから一年また敗戦記念日が近づいたせいなのかと思ったりもしたが、関係記事を追跡する気になってググってみたら、上記検証でお世話になった高橋さまのブログを見つけることができたので、関心お持ちの方はご一読ください。M高橋「「焼き場に立つ少年」の謎の撮影場所を徹底検証する」2021/8/19(https://nagasaki1945.blog.jp/archives/10658149.html)。新事実を含め執念の論究と拝見しました。高橋さまとの往時のやり取りは「コメント」をご覧ください。2021/8/25あたりでこの問題への私の仮説を提示しています。

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ナスジオでの剣闘士新見解

 『ナショナル・ジオグラフィック日本版』2021年 8月号の宣伝がメールで送られて来た。いつも突っ込みの甘さで騙されるので無視するのだが、特集のひとつが「グラディエーター」だったので今回は騙されたと思って、Kindle版を購入してみた。

 ま、そこでの売りは、ここ20年の新たな証拠を加味しつつ、実験考古学的に、実際に剣闘士の武具のレプリカを着装しての体験からの見解で、これはまあ我々がこれまで目にしてきた学者先生の机上の空論にはない、現実感があったので、1000円超の値段もよしとしよう、という気にさせられた。

 たとえば、レポーターが試しに被った青銅製の兜は6kgだったとか、別の箇所ではローマ兵との比較で、完全武装の兵士は25kgのところ、剣闘士は7-20kg(剣闘士の種目によって重量は異なってくる)だとか、ローマ兵の兜は厚さ1mmで2kg、それが魚兜闘士のものは厚さ2mmで重さ4kgで、視野も限られ音も聞こえにくかった、といった実体験が報告されていて、私にとってきわめて参考になる内容だった。

 その重装備を一つの根拠として(そのくせ、彼らが手にした獲物は多くの場合せいぜい30cmのナイフ:だけどこれでは絵にならないので復元想像図ではどうしても長めにグラディウスなんかとして描かれてしまう)、剣闘士競技では負傷はつきものだったにしても致命傷はまれで、おそらく10人に一人くらいだったのではないか、とか、もし死亡した場合、主催者は剣闘士のオーナーに補償せねばならなかった、とか、要するに現代のレスリングなどの格闘技と同じレベルの興行だった(ま、露骨にいうと八百長の、ショー・ビジネスだった)という方向で捉えるべきだ、というわけで、まずまず納得の結論といえよう。とはいえ、現代格闘技で10人に一人死んだらおおごとであるが。

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囚人の落書き?:オスティア謎めぐり(11)

 あれはいつのことだったか、例年恒例になっていた夏のオスティア遺跡調査での現地遺跡管理事務所との打ち合わせの時、たぶん落書き調査で奥山君が加わったせいか、あちら側から「実は、ここは昔監獄になっていて、その時の囚人の落書きも残っている」という話が出た。え、監獄?、囚人の落書き?

 そのときは、あれやこれやの断片情報で、オスティア・アンティカ遺跡に書き込まれた落書きとなんとなく思い込んでいたのだが、偶然目にした断片情報からどうやらそうではなく、オスティア・アンティカ遺跡発掘に投入されていた囚人たちが、遺跡から東に徒歩10分のボルゴ(新オスティアの集落)に併設されていた教皇ユリウス2世が枢機卿時代に創建した砦に収容されていて、そこに落書きを残していたということらしい。時代はまだこの遺跡の所有者がバチカンだった19世紀のこと。ローマ教皇ピウス7世(1800年~1823年)やピウス9世(1846年~1878年)の時代に、古代オスティアの遺跡発掘のために強制労働を強いられた囚人たちの宿舎としてこの砦は使用されていた、ということがわかった(cf.,

https://www.ia-ostiaantica.org/news/il-castello-di-giulio-ii/)。当時バチカンは一丁前に領土国家だったから、罪人も普通にいたわけである(ま、現在でも枢機卿なんかの高位聖職者で裁判沙汰の御仁もいらっしゃるのだから、驚いてはおれません)。そして1915年から1918年にかけての第一次世界大戦中には、ローマ-オスティア間の鉄道工事に使用されたオーストリア・ハンガリー帝国とスラブ人の捕虜が、この城に収容されていたらしい。なので落書き解読はかなりややこしいことになる、はず、だよね。

その一例

【余談】この城にはやっぱり古代ローマ時代以来の伝統的な形態のトイレがあるらしい(とはいえ、木製便座はなんとなく怪しいけど)。

床が、水場用のヘリンボーンとなっているのがもっともらしい
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100年振りの発見:ローマ市域石標pomerium cippus

 2021年7月16日公開。これまでローマで10個しか発見されていなかった市域表示のトラバーチン製境界石pomerium cippus が100年振りにみつかった(前回発見は1909年)。それはアウグストゥス霊廟で下水道工事の作業中に地面から約3.5メートル下で見つかり、現在、霊廟すぐ隣のアラ・パチス博物館で、皇帝クラウディウス像のそばに展示中とのこと。

 クラウディウスはローマ周辺に140以上のチッポを置いたとされているが、見つかったのは今回のものを含めて11個だけ。そのうち4つは元の位置に残されており、一部はバチカン博物館に所蔵されている由。

今回発見のもの

 研究者によると、後49年のクラウディウス帝によるローマ市域の拡大時のもので、その全文は、以下の通り。

たとえばCIL. VI. 1231 = ILS. 213:右の境界石の写真は、バチカン博物館所蔵のもの

 今回の出土物は下から2行目までが完全に、その上2行が部分的に残っていた。カイサルCaisarという古色蒼然とした表記やFの逆転文字使用など、いかにもエトルリア語に暁通していたクラウディウスらしいこだわりが見てとれる。

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ヴェネツィアのラグーン上をローマ道が走っていた!

2021/7/22 Scientific Reports掲載:

https://www.nature.com/articles/s41598-021-92939-w

 最近別件で知ったのだが、古代ローマ時代のテュレニア海の水位は今より1m低かったのだそうだ。こういった事情も加味して2000年前の状況を考える必要がある。古代ローマ時代、現在水没してしまったヴェネツァ・ラグーンの古ビーチの尾根を伝って、ローマ道がAltinumからClodiaに走っていたと研究者たちは長年想定してきた。今回の調査はその北端のTreporti水路でのもので、水深4.3-5.3mの尾根上に1140mにわたって12の起伏構築物も確認された。

赤線が想定ローマ道;今回の調査地点は上記右の短い紫部分
左が構造物確認地点、右がローマ道の復元・構造図

 私見ではこれが本来的なローマ(軍)道なのか、若干疑問。むしろ海からの侵入への対抗施設のように思える。それはともかくとして、この存在は、この地域にローマ時代の安定した集落システムがあったという仮説を裏付けているのは確かとされている。

【私はグラドーが好きだ。あそこで食した魚料理とヴィーノ・ビアンコが忘れられない】

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新刊紹介二点

 知人の手になる書籍が最近手に入ったので、ここでも周知する。

① ピーター・G・ストーン/ジョアンヌ・ファルシャフ・バッシャーリー編(江添誠他、監訳)『戦争と文化遺産:イラク戦争による文化遺産の破壊』白峰社、2021/3、¥2000.

② 堀賀貴編著『古代ローマ人の都市管理』九州大学出版会、2021/8、¥1800.

 後者についてはまた触れる機会があると思うので、ここでは特に前者について触れておこう。2003年に開始されたイラク戦争のどさくさの中で、古代遺跡や博物館が略奪された(それに先行して2001年にはタリバンによるバーミヤン大仏像破壊が話題となった:え、あれからもう20年? 早いなあ)。それには世界中の骨董趣味の億万長者たちの意向をうけての窃盗・盗掘団の仕業も含まれていたことを、私は本書で初めて知った。かくして、バクダード博物館から略奪された1万5000点の収蔵品のうち、2年後までに発見された4000点の内、1000点はアメリカで、1067点はヨルダンで、600点はイタリアで、そして残りは近隣諸国で発見された。本書の意義は大きい。

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エウトロピウス『首都創建以来の略史』新訳

 【解題、試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにアウレリウス・ウィクトルと教皇列伝の訳もそちらに移管した】

 なんだかウェブソフトの更新機能が不調なので、ここに暫定新訳を転載しておく(こういった不調によって思わぬ脱文とか、訳語の不統一が生じていないことを祈るしかない:実際、修正したはずのものが前のままになっている実例を目にしている)。昨日の輪読会では単数と複数、性別の不一致をどう整序するかでえらく手間取った。第9巻になって私どもの理解している文法知識が通用しがたい現実にぶつかって、手こずっている。「単純なことを見落としてるよ」といったアドバイスを求めております。

 2021/11/2に一応改訳が終了した。これから二か月の予定で全体を見直す作業に入る。

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エウトロピウス『首都(ローマ)創建以来の略史』全一〇巻

【前口上】これまで『上智史學』第五二(二〇〇七年)〜第五九(二〇一四年)に全訳を訳註つきで掲載しているが(依拠した底本はMGH版:上智大学図書館の「学術情報リポジトリ」から入手可)、このたび全面的見直し作業を開始した(但し、本文のみ)。ただ、まだ訳語確定には至っておらず、現在進行形中とご認識ありたい。

 今般の翻訳では、関係版本の最新と思われるBudé版(初版一九九八年、第二版二〇〇二年)に依拠して見直すことにした。その際、愚直なまでに直訳を試みること、すなわち、可能な限り語順も変えない、可能な限り同一訳語を当てる、単数・複数も明記することを旨とする。ただたとえば、民族・部族名等は、概ね複数形で表記されていてたとえば「サムニテス人たち」Samnitesとしたが、我が国で一般に流布した慣用にしたがって、たとえばRomaniを「ローマ人たち」、Veientesを「ウェイイ人たち」と表記した場合もあるので、了解願いたい。またUrbs は通例「首都」としたが、ローマ以外のそれは「主都」(初出II.i.2)と訳し分けた。

 訳文中において、( )は翻訳者による付加部分、および本文中ではルビ部分、[ ]は引用典拠がらみの註記、< >は、版本上の異読箇所、である。

 なお、テレワークでの参加者は現段階で、三井、江添、桒原、豊田、ポーランドから林、の五名。

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【翻訳】

(我らが)主ウァレンス、

ゴート人の偉大なる(征服者にして)、永遠なる正帝陛下に、

 クラリッシムス級文書記録局長エウトロピウスが(奉る)。

献辞:小官は、ローマの諸事績を、慈悲深き陛下の意向に従い、首都創建以来ab urbe condita 我らの時代までad nostram memoriam[この訳語は、あとI.6.1のみのもの:他は「記録」]、実にそれらは諸々の戦時にもvel bellicis 諸々の平時にもvel civilibus 諸々の事柄において卓抜しておりましたがeminebant、時代順に簡潔な記述で集約しました。小官はざっとではありますがstrictim そのうえetiam、元首たちのprincipum 生涯において卓越したものとしてegregia 目を引く諸々の事柄を付加しました。これは、静謐なる陛下の神的精神が、光輝なる人々のinlustrium 諸行動に軍事命令権遂行の中でin administrando imperio 準拠なさっていたことを、(より詳細な歴史書の)読書によってお知りになる以前に、陛下が欣快とされんがためであります。

第一巻

Ⅰ.1:(1) ローマ帝国Romanum imperium、これよりも始まりにおいて小さく、拡張の際に大きくなったものを全世界で人間の記録はほとんど思い出すことはできない。それはロムルスを始祖としている。彼はウェスタの巫女である処女レア・シルウィアと、伝えられるところでは、マルス(神)の息子であり、兄弟レムスとともに双子の片割れとして誕生した。 (2) 彼が羊飼いの中にあって追い剥ぎを生業としていた十八歳のとき、取るに足らぬ首都をurbem パラティヌス山にmonte 建てた。それは四月二十一日、第六オリュンピア期の第三年目にして、トロイアの滅亡後、人々が長短いろいろ伝えているがtradunt、三九四年目のことであった(前七五三年)。

Ⅰ.2:(1) 都市をcivitate 創建すると、それを彼は自らの名前にちなみローマと呼んだ。おおよそ彼は次のことを行なった。彼は近隣の群衆をその都市にcivitatem 受け入れ、より年長の者たちからex senioribus 一〇〇名を選抜したlegit[ここのみ]。彼らの助言でconsilio[初出、VI.12.3, IX.25.1, 27.1では「賢慮」]あらゆることを彼は行おうとした。彼は彼らを年長senectutem であるがゆえに元老院議員たちsenatores と名付けた。 (2) そのときtum 彼自身と彼の民衆はpopulus suus 妻たちを持っていなかったので、彼は祝祭の見世物へとad spectaculum ludorum 首都ローマに近隣諸部族を招待し、かつまたatque 彼らの処女たちをearum virgines 掠奪した。掠奪の復讐のために諸々の戦争が起こったが、彼はカエニネンセス人たち、アンテムナエ人たち、クルストゥミニ人たち、サビニ人たち、フィデナエ人たち、ウェイイ人たちを打ち負かしたvicit。これらすべての(諸部族の)町々はoppida 首都の周りに位置している。そして、突然嵐が生じた後、彼が姿を見せなくなったので、王位のregni 三十七年目(前七一六年)に彼は神々のもとへと渡ったと信じられ、そして神格化された。それからdeinde、ローマでは五日ごとに元老院議員たちが命令権を行使しimperaverunt、そしてまた-que 彼らが諸統治権をregnantibus 保持して一年が完了した。

Ⅰ.3:(1) その後postea、ヌマ・ポンピリウスが王とされたrex creatus est(前七一五年)。彼は無論quidem 一度も戦争をしなかったが、都市にとってcivitatiロムルスに劣らず有意義であった。 (2) というのも、彼はローマ人たちに諸々の法令leges[初出、あとIV.2.1, 7.3, X.8.1]そしてまた-que道義をleges moresque 制定したからである、(それは)彼らが好戦的な習慣により今や追い剥ぎおよびac 半野蛮人と見なされてしまっていたからだった。そして彼は一年を十か月に区分した、以前prius 何も計算法がなくて混乱していたのだが。そして彼は、ローマで数え切れないほどの宗教儀礼およびac 諸神域を制定した。彼は病気で死没したdecessit[あと、VIII.19.2,X.18.2のみ]、軍事命令権のimperii 四十三年目のことだった(前六七三年)。

Ⅰ.4:(1) この者を継承したのがトゥルス・オスティリウスであった(前六七三年)。彼は諸戦争を再開し、首都ローマから第十二里程標にmiliario[初出、他は同所, 5.2, 8.3, 15.2, 17.1, 19.2, 20.3, II.5, 8.1, 12.1, III.14.1, VI.13, VII.15.1, VIII.8.4, IX.2.3]いるアルバ人たちを打ち負かしvicit、ウェイイ人たちとフィデナエ人たち、それらのひとつが首都ローマから第六里程標、ひとつが第十八(里程標)離れているがabsunt、彼らを戦争で破ってsuperavit、彼は首都を拡張し、カエリウス山を加えたadiecto。 (2) 彼は三十二年間統治したregnasset 時、雷に打たれて自分の邸宅もろとも燃えてしまった(前六四二年)。

Ⅰ.5:(1) 彼の後、母方を通じでマヌの孫nepos にあたるアンクス・マルキウスが軍事命令権をimperium 受け取ったsuscepit(前六四二年)。彼はラティニ人たちと干戈を交えdimicavit[初出、他にI.9.5, II.8.3, 11.1,など多数 ]、(2) アウェンティヌス山とヤニクルム(山)を都市にcivitati 加え adiecit、そしてティベリス河の河口にostium ひとつの都市(オスティアOstia)をcivitatem 海に面して、首都ローマから第十六里程標に創建した。軍事命令権のimperii 二十四年目に、彼は病気で亡くなったperiit(前六一六年)。

Ⅰ.6:(1) それからdeinde、王位をregnum プリスクス・タルクイニウスが受け入れたaccepit(前六一六年)。彼は元老院議員たちの数を倍増し、ローマに競技場を建設し、ローマ祭をludos Romanos 定めた。それは我々の時代まで続いている。彼は同様にidem そのうえetiam サビニ人たちを打ち負かしvicit、そして諸々の農耕地のagrorum 少なからぬ部分を彼らから差し出させsublatum、首都ローマの領域に併合した。そしてまた-que彼は凱旋式を挙行して首都に入城した最初の人物であった。 (2) 彼は諸城壁と諸下水道を作り、カピトリウム(神殿)を(建設し)始めた。彼は軍事命令権の三十八年目にアンクスの息子たちにより殺されたoccisus est(前五七九年)。彼(タルクイニウス)自身が彼(アンクス)の王位を継承していたためであるsuccesserat。

Ⅰ.7:(1) 彼の後、セウィウス・トゥリウスが軍事権を受け取ったsuscepit(前五七九年)。彼は貴顕な女性から生まれた、(母は)それでもtamen[初出] 囚われて婢女となっていたのだが。彼もまたquoque サビニ人たちを押さえ込みsubegit、クィリナリス、ウィミナリス、エスクィリヌスの三つの山を首都に加え、諸々の壕を城壁の周りにめぐらした。彼はあらゆる者の中で初めて人口調査を定めた。これはそのときまでadhuc 世界中で知られていなかった。 (2) 彼の下で、ローマは全員が人口調査において付託されdelatis[初出、II.3, V.1.3, VI.12.2, VIII.5.3]、八万三〇〇〇の頭数のローマ人たちの市民をcivium 持った、(但し)農耕地内にin agris いた人々を含めて(の話)だったが。彼は自分の娘婿で、自分が継承していたsuccesserat 王(プルスクス・タルクイニウス)の息子タルクイニウス・スペルブスと、タルクイニウスが妻としていた(自分の)娘の犯罪行為によりscelere[初出、他はVII.1.1, VII.1.1, 12.1, 23.6, VIII.16, IX.19.1, X.2.4 ]殺されたoccisus est(前五三四年)。

Ⅰ.8:(1)ルキウス・タルクイニウス・スペルブス、王たちの中の第七代目で、かつまたatque 最後の者が、ウォルスキ人を打ち負かしvicitーーその部族はgens カンパニアへと赴く際に首都からさほど遠くないところにいるーー、都市civitatem ガビイそしてスエッサ・ポメティアを征服したsubegit。彼はトゥスキ人と和平を結び、カピトリウムにユピテルのために神殿を建設した。その後、首都ローマから第十八里程標の位置にあった都市civitatem アルデアを攻囲しているときに、彼は軍事命令権を失った。 (2) というのも、彼の息子で自身も小タルクイニウスなる者がきわめて貴顕なnobilissimam 女性ルクレティア、そしてまた-queコラティヌスの非常に貞淑な妻であるこの女性を凌辱し、そしてまた-que彼女が侮辱行為について夫と父と友人たちに訴えて、皆の目の前で自殺したからである。それが原因で、自身もまたタルクイニウスの一族であったブルトゥスが市民をpopulum 煽り立てconcitavit[初出、あとIV.4.3, 16.2, VII.23.1, IX.20.3]、そしてタルクイニウスから軍事命令権をimperium 剥奪したademit。 (3) すぐにmox、都市アルデアを王自身とともに包囲していた軍隊exercitus もまたquoque、彼を残し(て去っ)た reliquit。そしてまた-que首都へとやって来たものの諸門が閉じられていたので、王は閉め出されてしまった。そしてまた-que 二十四年間命令権を行使したとき、彼は自分の妻と息子たちとともに逃亡したfugit(前五〇九年)。したがってローマでは七名の王を通じて二四三年間統治が行われたregatum est。それは、そのときまでadhuc ローマが最大でplurimum かろうじてvix (首都から)第十五里程標に至るまでusque ad[初出、あと多数]quintum decimum miliarium 保持していたときのことである。

Ⅰ.9:(1) ここからhinc 執政官職が始まり、一人の王に代わり、次の理由で二人が選出された。すなわち、もし一人が不正な者たろうとしても、もう一人同様の職権をpotestatem 持ち、その者を抑えるようにするためである。(2) そして、彼らが一年以上長く軍事命令権を持たず、職権の長さゆえにあまり傲慢になることなく、一年後には私人となることを知って、常に市民的であるように、と決めたのだった。 (3) こうして、王たちが追放されたのちab expulsis regibus 一年目に執政官となったのは、タルクイニウスが放逐されるpelleretur よう殊にmaxime 活動したルキウス・ユニウス・ブルトゥスと、ルクレティアの夫タルクイニウス・コラティヌスであった(前五〇九年)。 (4) しかし、タルクイニウス・コラティヌスからすぐに顕職が委ねられた。たしかにenim、何者であれ首都にタルクイニウスと呼ばれる者が残留すremaneret[あとII.21.2, III.11.2, VII.3.1, 8.3]べきではないとされたからである。 ゆえにergo、彼は自分の全財産を(持ち出すことを)認められて首都から移住し、彼の代わりにルキウス・ウァレイウス・プブリコラが執政官とされた(前五〇九年)。 (5) それでもtamen、首都ローマに対する戦争を追放されたfuerat expulsus タルクイニウス王は扇動し、多くの部族をgentibus 集め、王位をin regnum 取り戻さんものと干戈を交えたdimicavit。

Ⅰ.10:(1) 最初の闘いpugna【あとI.10.1, 16.3,他多数】で執政官ブルトゥスとタルクイニウスの息子アルンスは相討ちで死んだが、ローマ人たちはそれでもtamen 闘いから勝利者として撤退した。 (2) ブルトゥスをローマの婦人たちは、彼女らの貞操の擁護者として、まるでquasi[初出、あとI.13.2, 20.2, 5, II.25.1, IV.7.2, VII.2.1, IX.13.2](彼女たち)共通の父であるかのように一年間喪に服した。ウァレリウス・プブリコラはスプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌス、すなわちルクレティアの父を自分の同僚としたが、彼が病気により死に至ると、再度iterum ホラティウス・フルウィウスを自分の同僚として採用したsumpsit[初出のここだけこう訳し、IX.4以降5箇所は「僭称する」]。 (3) かくしてita 初年度は五人の執政官たちを持った。たしかにenim、タルクイニウス・コラティヌスは名前のために首都から去り、ブルトゥスは戦闘中にin proelio 死んでいたし、スプリウス・ルクレティウスは病気により死に至っていたからである。

Ⅰ.11:(1)(王たちが追放されたのち=共和政開始後)二年目(前五〇八年)にもまたquoque、再度iterum タルクイニウスは王位にin regnum 復帰すべく、ローマ人たちに戦争を仕掛けintulit、トゥスキア(エトルリア)王ポルセンナが彼に支援をauxilium 提供したので、ローマをほとんどpaene 捕獲しかけたcepit。だがverum そのときもまた tum quoque 彼は打ち負かされた。 (2) 王たちが追い出されたexactos のち三年目(前五〇七年)にタルクイニウスは王位にin regnum に受け入れられなかった、(というのは)彼にポルセンナも支援をauxilium 送らず、和平をローマ人たちと結んだからで、彼(タルクイニウス)はトゥスクルムに向かった、その都市civitas は首都からab urbe 遠くないところにあるが、かつまたatque そこで十四年間私人として妻と共に老い朽ちた。 (3) 王たちが追い出されたxactos のち四年目(前五〇六年)に、サビニ人たちがローマ人たちに戦争を仕掛けたがintulissent、打ち負かされた。そして彼らに対し凱旋式が挙行された。 (4)(王たちが追放されたのち)五年目(前五〇五年)に、あのルキウス・ウァレリウスが、ブルトゥスの同僚で、執政官職四度を務めて、天命を全うして死んだ。彼はそれほど貧しかった、市民からa populo 浄財を募って葬式の費用とsumptum[他は、VII.14.1, 18.3(以上、浪費), VIII.13.2, X.1.1]せねばならなかったほどだった。彼に婦人たちはまさしくsicutiブルトゥス同様一年間喪に服した。

Ⅰ.12:(1) 王たちが追い出されたexactos のち 九年目(前五〇一年)に、タルクイニウスの女婿が義父への不正行為へと復讐すべく並はずれた軍隊をingentem exercitum 集めたとき、ローマで新たな顕職がdignitas 創設された。それは独裁官職dictatura と呼ばれ、執政官職よりも上位である。同年そのうえetiam、騎兵長官がmagister equitum 創られた、それは独裁官にdictatori従っていた。 (2) 古の独裁官職以上に類似して呼ばれることのできるものは、今や静謐なる陛下がお持ちのこの軍事命令権のimperii 職権よりありますまい。殊にmaxime アウグストゥスまたはquoque オクタウィアヌスーー我々は彼について後述するがーー、そして彼以前にガイウス・カエサルが、独裁官職の名、かつまたatque 顕職の下でhonore 統治したregnaverint。 (3) ところでautem ローマ最初の独裁官は<ティトゥス・>ラルキウスで、最初の騎兵長官はスプリウス・カッシウスであった。

Ⅰ.13:(1) 王たちが追い出されたexactos のち十六年目に(前四九四年)、暴動をseditionem ローマ市民populus が起こした、あたかもtamquam[初出、あとVII.22.2, IX.15.2, X.3.2]元老院、かつまたatque 執政官たちに抑圧されていたかのように。 (2) そのときtum そして彼ら自らが自分たち自身のために護民官たちをtribunos plebis まるでquasi 自分らの審判者たちiudices そして擁護者たちとして創設した。彼らにより(民衆が)元老院と執政官たちから護られることを可能とするためである。

Ⅰ.14翌年(前四九三年)、ウォルスキ人たちがローマ人たちに対し戦争を再開し、そして野戦でacie打ち負かされvicti、そのうえetiam 彼らが最高(の格式)を与えていた都市civitatem コリオリを失ってしまった。

Ⅰ.15:(1) 王たちが駆逐されてeiecti erant 十八年目(前四九二年)に、首都から追放されたexpulsus ローマの将軍dux クィントゥス・マルキウスは、ウォルスキ人たちの都市コリオリを捕獲したceperat(のにそんな目にあったので)、怒りに駆られてまさしくウォルスキ人たち自身へと進んで赴きcontendit、そしてローマ人たちに対する援軍をauxilia 受け取った。 (2) 彼はローマ人たちをしばしばsaepe 打ち負かしvicit、首都の第五里程標に至るまでusque ad 近づいたがaccessit[他は、III.14.1, 18.3, IV.18, VI.11.3, VII.19.3(以上、加わる), VIII.3.2, IX.1(近づく), 17.1, X.2.1(加わる)]、彼はそのうえetiam 彼の祖国をpatriam suam 包囲したはずである、彼は和平を要請していたpetebant[初出、他は、II.12.4, 15, 21.4, など多数(VI.20.1, 21.3, X.17.3は、駆けつける)]使節団をlegatis[legatusが複数形の場合、こう訳してみた]拒絶していたので、もし彼のところへと母ウェトリアと妻ウォルムニアが首都からやって来なければ。彼女たちの悲嘆と懇願に負かされてsuperatus、彼は軍隊をexercitum 引いたのである(前四八八年)。かつまたatque タルクイニウス後に祖国に敵対した将軍dux として、彼は二人目であった。

Ⅰ.16:(1) ガイウス・ファビウスとルキウス・ウィルギニウスが執政官時に(前四七九年)、ファビウス氏出身だった三〇〇人の貴族nobiles の男たちが、ウェイイ人たちに対する戦争をbellum 彼らだけで企て、元老院と市民にpopulo 独力であらゆる抗争をcertamen[初出、他は「会戦」]完了させることを約束したのである。 (2)そしてかくしてitaque 彼らは出発したのだがprofecti、貴族全員が、そして彼ら一人一人が大軍のmagnorum exercituum 将軍たちduces であったが、戦闘中にin proelio 倒れたのである。(3) たった一人が氏族familia全体から生き残った。その彼は未成年のゆえにpropter aetatem puerilem 戦いへとad pugnam 連れて行かれることができなかったのである。これらののち、人口調査が首都で執り行われ、そして市民たちのcivium 頭数が十一万七三一九名であることが明らかになった。

Ⅰ.17:(1)翌年(前四七八年)アルギドゥス山の中で、(それは)首都から約ferme 第十二里程標で、ローマ軍はRomanus exercitus 包囲されたので、ルキウス・クインティウス・キンキナトゥスが独裁官とされた。彼は四ユゲルムの農耕地をagrum 所有し、自分の両手で耕していた。 (2) 彼は、野良仕事に従事している最中に見いだされ、汗をぬぐい、(高級政務官用の)紫縁飾付上着をtogam praetextam 受け取り、そして敵たちを倒すと、軍隊をexercitum 解散した。

Ⅰ.18:(1) 首都創建以来三〇二年目(前四五二年)に、執政官軍事命令権がimperium consulare 中断した。そして、二人の執政官の代わりに十人が作られた。彼らは最高権力を保持することになり、十人委員会decemviri と名付けられた。 (2)しかしsed、一年目は首尾よく振る舞ったものの、二年目にsecundo 彼らの中の一人、アッピウス・クラウディウスが、ウィルギニウス某ーー彼は、まさにiam 誉れ高き兵役(複数)にstipendiis[初出、あとVI.17.3(租税), VIII.8.3(俸給)]あって、ラティニ人たちに対してアルギドゥス山の中で軍務に服していたーーの未婚の娘を堕落させることをcorrumpere[初出:IV.26.1, IX.9.3, 19.1 ]望んだ。彼女を父は殺した、(それはかの)十人委員による恥辱をもって生きていかなくていいようにと、そして兵士たちのところへとad milites 帰還してregressus 騒乱をtumultum 起こした。十人委員たちから職権がpotestas 差し出され、そしてまた-que彼ら自身も罰せられた。

Ⅰ.19:(1) 首都創建以来三一五年目(前四三七年)に、フィデナエ人たちがローマ人たちに対して反乱を起こした。支援をauxilium 彼らに与えたのはウェイイ人たちとウェイイ人たちの王トルムニウスだった。 (2) 彼ら両者の諸都市はそれほどまでにtam 首都(ローマ)に近く、フィデナエに第六(里程標)、ウェイイに第十八里程標離れている。これらの者たちとウォルスキ人たちも同盟を結んだ。しかしsed 彼らは独裁官アマメルクス・アエミリウスと騎兵長官ルキスス・クインティウス・キンキナトゥスにより打ち負かされ、そのうえetiam 王を失ってしまった。

Ⅰ.20:(1) 二十年後(前四一七年)、ウェイイ人が反乱を起こした。独裁官として彼らに送られたのはフィリウス・カミルスだった。彼はまずprimum 彼らを戦列でacie 打ち負かしvixit、すぐにmox そのうえetiam その都市を長期間diu[初出]包囲した後に捕獲したcepit(前三九六年)、そこはイタリアで最古そしてまた-que最も豊か(な都市)だった。 (2) その後にpost eam 彼はフェリスキ人たちにも(勝利し)、やはり名高さで劣ることのない(一つの)都市も捕獲したcepit(前三九四年)。しかしsed、まるでquasi 彼が戦利品を不正分配したかのごとく彼への嫉妬心が扇動され、そしてまた-que 彼はそれを理由に断罪されdamunatus、都市からcivitate 追放された(前三九一年)。 (3) ただちにstatim ガリア(地方)のセノネス人たちが首都へとやって来て、そしてローマから第十一里程標のアリア河畔で打ち負かしたローマ人たちを追って、そのうえetiam 首都までも占領した。(ローマは)カピトリウムを除いて何も防衛することができなかった。彼らが長期間diu 攻囲し、そしてまさにiam ローマ人たちが飢餓に瀕していたとき、[版本の混乱あり:彼らは黄金を受け取ってカピトリウムを占領せずに(軍を)撤退したrecesserunt]。しかしsed 近隣の都市にcivitate 亡命していたカミルスにより、ガリア人たちは奇襲されsuperventum est 、そしてまた-queきわめて由々しきほどにgravissimeque打ち負かされた。 (4) その後、やはりtamen そのうえpostae tamen etiam、追跡したカミルスは彼らを打ち倒しcecidit、彼らに与えられていた黄金もet、彼らが捕獲していたcepetrant すべての軍旗もet 奪還したrevocaret[あとは、VIII.6.2, IX.13.2のみ]。 (5) かくしてita 三度目にtertio 凱旋式を挙行しながら彼は首都に入り、そしてまるでquasi 彼自身もまた、祖国の創建者であるかのように、第二のロムルスと呼ばれたappellatus。

第二巻

Ⅱ.1:(1) 首都創建以来三六五年目、(すなわち、首都)占領後、ところでautem 最初(の年)にprimo(前三八九年)、諸々の顕職がdigniates 取り替えられた、そして二名の執政官の代わりに執政官権限付軍隊司令官たちがtribuni militares consulari 定めおかれた。ここからまさにhinc iam、ローマ人の国家が大きくなり始めた。 (2) というのもnam、カミルスがその年に、七十年間戦争を行っていたウォルスキ人たちの都市を打ち負かし、そしてアエクイ人たちの主都urbem、そしてストリウム人たちの(主都)、かつまたatque 同じ彼らのすべての軍隊がexercitibus 殲滅され、彼は(それらを)占領した。そして三つの凱旋式を同時に挙行したからである。

Ⅱ.2:(1) そのうえetiam ティトゥス・クインティウス・キンキナトゥスは、戦争と同時に首都ローマの諸城門に至るまでusque ad 来襲していたプラエネステ人たちを、アッリア河まで追撃し打ち負かした。(こうして彼は)彼ら自身の下にあった八都市をローマ人たちの下に加え、プラエネステそれ自体に迫って降伏を受け入れた。 (2) 彼によるそれらすべてのことは二十日の間に行われ、そしてまた-que彼自身に対し凱旋式が決議された(前三八〇年)。 

Ⅱ.3:とはいえ軍隊司令官たちの顕職は長期間diu 続かなかった。というのもnam しばらくして誰も(その職に)任命されないことが決まったからである。そして首都で四年間が過ぎた、そこに上級権限(を持つ政務官)が存在することなく。それでもtamen 執政官権限付軍隊司令官たちは再度iterum 権威を回復し、そして(彼らは)三年間継続した。またもやrursus 執政官たちが採用された(前三六七年)。

Ⅱ.4:ルキウス・ゲヌキウスとクイントゥス・セルウィリウスの執政官時に(前三六五年)、カミルスが死んだ。彼にロムルスに次ぐ二番目の名誉がhoror 付託されたdelatus est。

Ⅱ.5: 独裁官dictatorティトゥス・クインティウスが、イタリアへと襲来していたガリア人たちに向けて派遣された(前三六一年)。彼らは首都から第四里程標でアニオ川対岸に陣取っていた。そこで、元老院議員たちの中できわめて貴顕なnobilissimus de senatoribus 青年iuvenis ルキウス・マンリウスは一騎打ちへとad singulare certamen 挑発するあるガリア人に進みでて、(彼を)殺し、そして黄金の首輪をtorque aureo奪いsublato、そしてまた-que自分の首につけたので、永遠にトルクアトゥスの添え名をcognomen 彼自身にも子孫にも受けた。ガリア人たちは追い払われfugati sunt[fugo]、すぐにmox 独裁官ガイウス・スルピキウスにそれでもついにtamen 打ち負かされた(三五八年)。ほどなくしてnon multo post[初出、あとIX.19.1, X.12.1]ガイウス・マルキウスによりトゥスキ人たちが打ち負かされ、そして彼らの中から捕虜八〇〇〇名が凱旋式へと連行された(前三五六年)。

Ⅱ.6:(1) 人口調査がcensus 再度iterum もたれた。そしてラティニ人たちはローマ人たちによって屈従させられていたsubacti erant のだが、兵士たちを提供することを望まなかったので、ローマ人たちからのみ新兵たちは選抜されたlecti sunt[初出、あとはX.17.1のみ]。そしてまた-que 十個軍団が編成され、その規模は武装兵たち六万かそれともvel それ以上に達した。 (2) そのときまでadhuc ローマ人たちの諸資源は貧しかったが、それでもtamen 軍事においてはin re militari 高い武徳があった。諸軍団がガリア人たちに向かって将軍duce ルキウス・フリウスにより進発させられたときprofectae essent、ガリア人たちの中のある者がローマ人たちの中に最強の人をと(一騎打ちを求めて)挑発した。 (3) そのときtum、我こそはと軍団将校tribunus militum マルクス・ウァレリウスが名乗り出て、そして武装した彼が進み出た時、一羽のカラスがcorvus 彼の右腕の上に止まった。 (4) すぐにmox(一人の)ガリア人との闘いがpugna 始まると、その同じカラスは両翼と(両足の)爪でガリア人の両眼をまっすぐに見れないように遮った。こうしてita 彼(ガリア人)は、(軍団)将校tribuno ウァレリウスによって殺害されinterfectus、勝利だけでなく彼(ウァレリウス)にそのうえetiam 名前もnomen 与えたのだったdedit[初出、他はII.11.3, ]。というのもその後nam postae 同人はコルウィヌス(カラス男)と呼ばれるようになったからであるest dictus。およびac この功績により、彼は二十三歳でもって執政官とされた(前三四八年)。

Ⅱ.7:(1) ラティニ人たちは兵士供出を望んでいなかったが、(以下の)このこともまたquoqueローマ人たちから求め始めた、 一人の執政官が彼らから、もう一人がalter ローマ人たちの民衆からpopulo 選出されるべきである、と。 (2) それが拒否され、彼ら(ローマ人たち)に対する戦争がbellum 企てられ、諸々の並はずれた闘いによってingenti pugna、彼ら(ラティニ人たち)は負かされたsuperati sunt(前三四〇年)。およびac 彼ら(ラティニ人たち)を完全に屈服させて凱旋式が挙行された。諸立像がstatuae 執政官たちのために戦勝の功績によって、演壇にRostris 置かれた。 (3) その年にそのうえeo anno etiam、アレクサンドリア(アレクサンドレイア)がマケドニア人アレクサンデル(アレクサンドロス)により創建された(前三二一年)。

Ⅱ.8:(1) まさにiam ローマ人たちは強力になり始めた。そのうえetiam、戦争は首都からほぼ第一三〇里程標にあるサムニテス人のところで行われていた。彼らはピケヌム、カンパニア、アプリアの間にいた。 (2) ルキウス・パピリウス・クルソルが独裁官の顕職をもってcum honore その戦争へと進発したprofectus est(前三二五年)。彼がローマへと帰ろうとしたrediret 際、彼が軍隊にexercitum 残したreliquit 騎兵長官magistro equitum クイントゥス・ファビウス・マクシムスに、自分の不在中には闘わないようにne pugnaret と指示していた。  (3) かの者(ファビウス)はille機に乗じて最上の幸運に恵まれて干戈を交えdimicavit、そしてサムニテス人たちを殲滅した。このことによってquam rem、彼は独裁官により格頭刑にcapitis断罪されたdamnatus、というのは彼が禁止されて(いたにもかかわらず)闘ったpugnasset からであるが、兵士たちと市民のpopuli 並はずれた好意により解放された。パピリウスに対し大規模な暴動がseditione 扇動され、ほとんどpaene 彼は殺されかけた。

Ⅱ.9:(1) その後postea、サムニテス人たちはローマ人たちへ、ティトゥス・ウェトゥリウスとスプリウス・ポストゥミウスの執政官時に(前三二一年)、並はずれた名誉失墜によってdedecore[初出、他はVII.12.1, 14.2, 18.2, 5, 23.6]勝利し、そして軛の下に送ったmiserunt。和平はそれでもtamen 元老院と民衆にpopuloよって破棄された、それは彼らと必要に迫られてpropter necessitatem[初出、あとIX.23, X.17.2]結ばれていたが。その後postae サムニテス人たちは執政官ルキウス・パピリウスに打ち負かされ、彼らの(うちの)七〇〇〇名が軛の下に送られた。パピリウスはサムニテス人たちに対し凱旋式を挙行した[最初の人物であった:トイプナー版](前三一五年)。 (2)その頃eo tempore(前三一二年)、監察官censor アッピウス・クラウディウスがクラウディウス水道を引いて、アッピウス街道を敷設した。サムニテス人たちは、戦争が再開されて、クイントゥス・ファビウス・マクシムスを打ち負かし、三〇〇〇名の男たちを殺した(前二九二年)。その後postea、彼の父ファビウス・マクシムスが副官legatus となった時(前二九一年)、一方でサムニテス人たちを打ち負かし、他方で彼ら自身の多くの町を捕獲したcepit。 (3) それからdeinde、両執政官のプブリウス・コルネリウス・ルフィヌスとマニウス・クリウス・デンタトゥスが、サムニテス人たちに対して送られ、並はずれた諸戦闘で彼らと決着をつけたconfecere(前二九〇年)。 (4) そのときtum、彼らはサムニテス人たちと四十九年間にわたって行われた戦争を終えた。一つたりとも、ローマ人の武徳をより以上にmagis 憔悴させるがごときfatigaverit[初出、あとIX.19.1, X.8.2]敵は、イタリア内に存在しなかった。

Ⅱ.10:数年が経過して(前二八四年)、再度iterum ガリア人たちの軍勢がcopiae 自らをローマ人たちに対して、トゥスキ人たちそしてまた-queサムニテス人たちと同盟を結んだ。しかし、彼らがローマを掌握したとき、執政官グナエウス・コルネリウス・ドラベラにより消滅させられた(前二八三年)。

Ⅱ.11:(1)同じ頃eodem tempore、まさにiamイタリアの最遠部にいるタレントゥム人たちに戦争が通告されたindictum est(前二八二年)。なぜならquia、彼らがローマ人の使節団に対しlegatis 愚弄したからであった。彼らは、エピルス(エペイロス)の王ピュルス(ピロス)にローマ人に対する支援をauxilium 要請した、それは彼がアキレス(アキレウス)の後裔に由来する血統を結びつけていたからだった。彼はすぐにmoxイタリアへとやって来て(前二八一年)、そしてまたそのとき初めてtumque primum、ローマ人たちは渡海してきた敵と干戈を交えることになったdimicauerunt。 (2)  彼に対し送られたのが、執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスであった(前二八〇年)。彼はピュルスの斥候たちを捕獲したときにcepisset(以下を)命じたiussit、彼らを陣営を(くまなく)案内させ、すべての軍隊をomnem exercitum 見させ、そしてまたそれからtumque 釈放するように、と。これは彼らがピュルスにローマ人たちによってなされたことすべてを報告させるようにするためであった。すぐにmox 闘いのpugna 火ぶたが切られたため、まさにiam ピュルスは(戦いを)避けようとしたのだがfugeret【fugioここのみ、あとは逃亡する】、象たちの支援によりelephantorum auxilio、(ローマ軍を)打ち負かした。ローマ人たちは象など未知の存在でビックリ仰天したのである。 (3) しかし夜が戦闘に終わりを告げたfinem dedit。ラエウィヌスはそれでもtamen 夜陰に乗じて逃亡したfugit。ピュルスはローマ人たち一八〇〇名を捕獲しcepit、そして彼らを最高の名誉でsummo honore 遇しtractavit、戦死者たちを葬った。彼は向こう傷とそのうえetiam 恐ろしい形相をして横たわっている死者たちを見て、天へと両手を差し伸べて、こう言ったといわれている。自分を全世界の主人とすることができたであろうに、もしこれほどの兵士たちが自分に託されたならcontigissent[あと、II.11.3,III.3,IX.28]、と。

Ⅱ.12:(1) その後、ピュルスは自分をサムニテス人たち、ルカニ人たち、そしてブルッティア人たちと結んで、ローマへ出陣し、あらゆる(場所)を鉄そしてまた-que火でもって荒らしvastavit、カンパニアを冦掠しpopulatus est[初出で3箇所のみ]、かつまたatqueプラエネステへとやって来た、そこは首都から第十八里程標だった。  (2) すぐにmox、彼は(ローマの)軍隊exercitus への恐怖によって、それが彼を執政官とともに追跡していたからだが、カンパニアに退いた。(ローマの)使節団は、ピュルスへと捕虜たちの身請けについて(話し合うために)送られたが、彼により丁重に受け入れられた。彼は捕虜たちを身代金なしでローマへと送った。 (3)(ピュルスは)ローマ人たちの使節団の内の一人ファブリキウスが貧乏だと知った時、以下のことで彼に驚嘆した。それは、王国のregni 四分の一で約束してpromissa(ファブリキウスを)惑わせて、彼へと寝返らせようtransiret と望み、そしてまた-que ファブリキウスによって無視されたからである。 (4) そのゆえにquare、ピュルスはローマ人たちへの並はずれた称賛でとらえられ、和平を公平なaequis[初出、他はIV.6.2, V.31, VIII.1.1, 4, 8.2, 9.2, 12.1, X.8.1]諸条件で要請して、一人の使者をlegatum 送った、(その使者は)優れた男で、名をキネアスと(言った)。かくしてita、ピュルスは彼がまさにiam 兵力でもって占領していたイタリアの地方を、得ようとしたのであったobtineret。

Ⅱ.13:(1) 和平は不調に終わった、そしてまた-que ピュルスに元老院によって以下が返答された、彼とローマ人たちとは、彼がイタリアから撤退recessisset しない限り、和平をもつことはできぬ、と。 (2) そのときtum、ローマ人たちはピュルスが返還していたreddiderat すべての捕虜たちについて、彼らは恥ずべき者たちとみなされると、決した、なぜなら彼らは武器を持って闘うことができたのに捕虜になったからで、また、彼らが殺された二名の敵の戦利品を持ち帰ることなしに、以前の状態へとad veterem statum 帰還できないreverti、と。かくしてピュルスの使者は帰還したreversus est。 (3) 彼にピュルスがローマをいかに見たかと問うたので、キネアスは、王たちの住まう場所のように私には見えました、と言った。まさにscilicet そのようにそれがほぼfere 全員(が王のごとく)であったのである、一人ピュルスがエピルスとギリシアの残り(の地方)ではreliquam(そう)思われているが。 (4) ピュルスに対し送られた将軍たちはduces、執政官のプブリウス・スルピキウスとデキウス・ムスであった(前二七九年)。会戦がcertamine 始まると、ピュルスは負傷し、象たちは殺され、敵たちの二万名が打ち倒され、そしてローマ人たちからはわずかtantum 五〇〇〇名だった。ピュルスはタレントゥムに追い払われたfugatus。

Ⅱ.14:(1) 一年をおいてinteriecto anno、ピュルスに対しファブリキウスが送られた(前二七八年)。彼は以前prius 使節団の中にあって、王国のregni 四分の一を約束されてもpromissa、惑わされなかった(人物である)。 (2) そのときtum、近くに(それぞれ)陣を彼自身と王は張っていたが、ピュルスの侍医medicus がある夜、彼の所へとやって来て、薬物でveneno 自分がピュルスを殺すと約束したpromittens、もし自分と何らかの誓約をしてくれるならpolliceretur、と。その彼をファブリキウスは、拘束し、主人の所へと帰還させreduci、そしてまた-que ピュルスに以下を言うように命じたiussit、侍医が彼の首級に対して約束したspopondisset ことどもを。 (3)そのときtum、彼に驚嘆した王が言ったと噂されているfertur[初出、あとVIII.5, IX.24]。「まさしくファブリキウスこそ、太陽がその軌道から逸らされるよりも、名誉から逸らされうるほうが難しい」と。そのときtum 王はシキリアへと進発した(前二七八〜二七六年)。ファブリキウスは、ルカニ人たちとサムニテス人たちが打ち負かされたのでvictis、凱旋式を挙行した(前二七八年)。 (4) それからdeinde、執政官たち、マルクス・クリウス・デンタトゥスとコルネリウス・レントゥルスがピュルスに対し送られた(前二七五年)。クリウスは彼に対して闘いpugnavit、彼の軍隊をexercitum 打ち倒しcecidit、彼自身をタレントゥムへと追い払いfugavit、陣営を捕獲したcepit。 (5) その日一日で敵の二万三〇〇〇名が打ち負かされた。クリウスは執政官中に凱旋式を挙行した。彼は初めてローマに象を四頭連れて帰った人物だった。ピュルスはそのうえetiam タレントゥムからすぐにmox 撤退しrecessit(前二七四年)、そしてギリシアの都市civitatem アルゴスで殺されたoccisus est(前二七二年)。

Ⅱ.15:ガイウス・ファビウス・リキニウスとガイウス・クラウディウス・カニナの執政官時で(前二七三年)、首都創建の四六一年目(前二九三年)に、アレクサンドリア人たちの使節団がプトレマエウス(プトレマイオス)から送られ、そしてローマにやって来て、ローマ人たちから彼らが要請していたpetierant[初出、あとII.21.4:2箇所, 24.2, 27.4:2箇所, III.21.1, 22.2, IV.4.3, VI.20.1と21.3は例外訳「急行する」, X.1.2]友誼関係をamicitiam[初出、あと、III.14.4, 17, 22.2, VI.21.3]得たのだった。

Ⅱ.16クイントゥス・オグルニウスとガイウス・ファビウス・ピクトルの執政官時に(前二六九年)、ピケンテス人たちが戦争を扇動したが、そして次の執政官のプブリウス・センプロニウスとアッピウス・クラウディウスにより(前二六八年)、打ち負かされた。そして彼らに対し凱旋式が挙行された。ローマ人たちにより創建されたのは、ガリアでアリミヌス、サムニウムでベネウェントゥムの諸都市civitates だった(前二六八年)。

Ⅱ.17マルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・ユリウス・リボの執政官時(前二六七年)に、アプリア内のサレンティニ人たちに対し戦争が通告され、そしてまた-que プルデンシニ人たちは同時にsimul 都市と共にcum civitate 占領され、そして彼らに対し凱旋式が挙行された。

Ⅱ.18:(1)(都市創建以来)四七七年目(前二七七年)、まさにiam 首都ローマの令名冠たるものがあった時、それでもtamen 軍勢arma がイタリア外へ動員されたことはなかった。 (2) こうしてigitur、どれほどローマ人たちの軍勢copiae があるかということを確認するために、人口調査が執り行われた。そのときtum 明らかになった市民の頭数は二十九万二三三四名であった、首都創建から決してnumquam[初出、あと、II.27.2, III.10.3, IV.16.2, VI.21.1, VII.11.2, X.6.2, 17.2]諸々の戦争がbella 中断したことはないにもかかわらず。そして、アフリ人たちに対して戦争がbellum 初めてprimum 企てられた、アッピウス・クラウディウスとクイントゥス・フルウィウスの執政官時(のこと)だった。シキリアで彼らに対して闘いが行われpugnatum est、そしてアッピウス・クラウディウスがアフリ人たちとシキリア王ヒエロ(ヒエロン)に対し凱旋式を挙行した。

Ⅱ.19:(1) 翌年insequenti anno、ウァレリウス・マルクスとオタキリウス・クラッススの執政官時に(前二六三年)、シキリアでローマ人たちにより数々の偉業が達成された。タウロメニタニ(タウロメニオン)人たち、カティネンセス(カタネ)人たち、そして加えてpraeterea 五〇の諸都市が誓約をもってin fidem (ローマによって)受け入れられた。 (2)三年目(前二六二年)に、シキリア内でのシクリ人たちの王ヒエロに対する戦争が準備されたparatum est[初出]。彼はシュラクサエ人たちの全貴族ともどもomni nobilitate 和平をローマ人たちから達成しimpetravit[初出、他はIII.2のみ ]、そしてまた-que 銀二〇〇タラントゥムを与えたdeditque。アフリ人たちはシキリア内で打ち負かされ、そして彼らに対しローマで二度目にsecundo 凱旋式が挙行された。

Ⅱ.20:(1) アフリ人たちに対して行われていたポエニ戦争の五年目(前二六〇年)、初めてprimum ローマ人たちはガイウス・ドゥイリウスとグナエウス・コルネリウス・アシナの執政官時に(前二六〇年)、(ローマ人たちは)海で干戈を交えることとなったdimicaverunt。彼らがリブルナと呼んでいる衝角を付けた軍船が準備されたからであるparatis[第2節の叙述から、ここでは衝角よりもむしろ「カラス corvus」のほうがふさわしいかもしれない]。

corvus戦術

(2) 執政官コルネリウスは欺瞞によりfraude[初出、あとはIX.2.3,15.2のみ]欺かれた。ドゥイリウスは戦闘をproelio 始めて、カルタゴ人たちの一人の将軍をducem 打ち負かし、彼は三十一艘の軍船を捕獲しcepit、十四艘を沈め、七〇〇〇名の敵を捕獲しcepit、三〇〇〇名を殺した。にもかかわらずneque ローマ人たちにとってこれ以上に満足できる勝利は何もなかった。というのも、陸で無敵の彼らが、まさにそのうえiam etiam 海上でも優勢となることができたからである。 (3) ガイウス・アクイリウス・フロルスとルキウス・スキピオの執政官時に(前二五九年)、スキピオはコルシカとサルディニアを荒らしvastavit、そこから何千もの捕虜を引っ立て、凱旋式を行った。

Ⅱ.21:(1) ルキウス・マンリウス・ウルソとマルクス・アティリウス・レグルスの執政官時に(前二五六年)、戦争がアフリカに移された。カルタゴ人たちの将軍ハミルカルに対し海で闘いが行われpugnatum、そしてまた-que 彼は打ち負かされた。というのもnam 六十四隻の軍船を失って、後方にretro 彼は退いたからである。ローマ人たちは二十二を喪失したamiserunt[初出、あと8箇所]。 (2) しかしsed 彼らがアフリカに渡っていて、最初のアフリカの都市クリュペアを降伏へと受け入れた。執政官たちはカルタゴへ至るまでusque ad 進軍し、そしてまた-que 多くの砦を荒らしvastaris、勝利者マンリウスはローマへと帰りrediit、そして捕虜たちの二万七〇〇〇名を連れ帰りreduxit、アティリウス・レグルスはアフリカ内に残留したremansit。 (3) 彼はアフェル人たちに対し戦列をaciem 整えた。三名のカルタゴ人たちの将軍たちducesに対し干戈を交えdimicans,勝利者となった。彼は敵たちの一万八〇〇〇名を打ち倒しcecidit、五〇〇〇名を十八頭の象と共に捕獲しcepit、七十四都市を誓約をもってin fidem 受け入れた。 (4) そのときtum、打ち負かされたカルタゴ人たちは和平をローマ人たちに要請したpetiverunt。それをレグルスはきわめて苛酷な条件でなければ与えることを望まなかったので、アフェル人たちは支援をauxilium ラケダエモニ人たちに要請したpetiverunt。そして、ラケダエモニ人たちから送られていた将軍duce クサンティップス(クサンティッポス)によりローマ人たちの将軍dux レグルスは徹底的にultima 打ち負かされた(前二五五年)。 (5) というのもnam 全ローマ軍omni Romano exercitu のうちわずか二〇〇〇名が退却しrefugerunt[ここのみ]、五〇〇名が最高軍司令官imperatore レグルスもろとも捕らえられ,三万名が殺され、レグルス自身鎖の中に繫がれたからである。

Ⅱ.22:(1) マルクス・アエミリウス・パウルスとセルウィウス・フルウィウス・ノビリオルの執政官時に(前二五五年)、両ローマの執政官たちはアフリカへと三〇〇隻の軍船の艦隊と共に進発した。 (2)まず彼らはアフリ人たちを軍船の会戦でnavali certamine 負かしたsuperant。執政官アエミリウスは敵たちの船一〇四隻を撃沈し、三〇隻を戦闘員たちpugnatoribus もろとも捕獲しcepit、敵たちの一万五〇〇〇名をあるいは殺しあるいは捕獲するcepit かし、彼自身の兵をmilitem 並はずれた利得で豊かにしてやった。そして、アフリカはこのときにtunc 屈従させられていたsubactaであろう、もしより長く軍隊がexercitus 待てないほどの飢餓がなかったならば。 (3) 執政官たちは、勝利を得た艦隊と共に帰還していてredeuntes、シキリア付近で難破した。そして非常に激しい嵐だったので、四六四隻の軍船のうちわずかtantum 八〇隻しか救えなかったservari。にもかかわらずneque いかなる時にもそれほどに猛烈な海の時化は耳にされたことはなかった。 (4) ローマ人たちは、それでもtamen ただちにstatim 二〇〇隻の軍船を再建造し、にもかかわらずneque 誰においても精神はanimus[初出、ほかはIII.15.3, 18.3, VI.18.2, IX.13.1, X.5, 6.3, 7.1, 16.3]これらの出来事により打ちのめされなかった。

Ⅱ.23:(1) 執政官のグナエウス・セルウィリウス・カエピオとガイウス・センプロニウス・ブラエススが二六〇隻の軍船と共にアフリカへと進発した(前二五三年)。若干のaliquot 諸都市を彼らは捕獲したceperunt。彼らは莫大な戦利品を持ち帰るreducentes 最中に、難破した。 (2) そしてかくしてitaque、たび重なる損害はローマ人たちにとって好ましいものではなかったので、元老院は以下を決議した。諸々の海戦からは手を引かざるを得ないこと、そして僅か六十隻の軍船がイタリア守備のためにad praesidium[初出、あとIX.25.1のみ]とっておかれること、を。

隻の軍船と共にアフリカへと進発した(前二五三年)。若干のaliquot 諸都市を彼らは捕獲したceperunt。彼らは莫大な戦利品を持ち帰るreducentes 最中に、難破した。 (2) そしてかくしてitaque、たび重なる損害はローマ人たちにとって好ましいものではなかったので、元老院は以下を決議した。諸々の海戦からは手を引かざるを得ないこと、そして僅か六〇隻の軍船がイタリア守備のためにad praesidium[初出、あとIX.25.1のみ]とっておかれること、を。

隻の軍船と共にアフリカへと進発した(前二五三年)。若干のaliquot 諸都市を彼らは捕獲したceperunt。彼らは莫大な戦利品を持ち帰るreducentes 最中に、難破した。 (2) そしてかくしてitaque、たび重なる損害はローマ人たちにとって好ましいものではなかったので、元老院は以下を決議した。諸々の海戦からは手を引かざるを得ないこと、そして僅か六〇隻の軍船がイタリア守備のためにad praesidium[初出、あとIX.25.1のみ]とっておかれること、を。

Ⅱ.24:(1) ルキウス・カエキリウス・メテッルスとガイウス・フリウス・プラキドゥスの執政官時に(前二五一年)、メテッルスはシキリアで、アフリ人たちの一将軍をducem一三〇頭の象と大部隊とともにやって来たが負かしsuperavit、敵の二万人を打ち倒しcecidit、二十六頭の象を捕獲しcepit、残りのreliquod うろついていたerrantes[ここのみ](象たち)を集めたが、それは彼が支援の中にin auxilium 持っていたヌミダエ人たちの手を借りてのことだった、そしてローマへとそれらを並はずれた行列に従えて護送したdeduxit[初出、原型deduco、あとIV.21導入, 22護送, 23導入, VIII.19.1拡げる, IX.18.2拡げる]。というのも、一三〇頭という象の数が、道中を埋め尽くしたからである。 (2) これら諸々の惨事の後、カルタゴ人たちは彼らが捕獲していたceperant 将軍ducemレグルスに以下を要請したpetiverunt。ローマへと進発し、そして和平をローマ人たちから得て、およびac 捕虜たちの交換を行うように、と。

Ⅱ.25:(1) 彼がローマへとやって来たとき、元老院内に通された彼は、まるでquasi ローマ人ではないかのように振る舞い、そしてまた-que 言った、自分はアフリ人たちの権力内に落ちたあの日から、ローマ人であることを止めたのだ、と。そしてかくしてitaque et 妻をもet 抱擁から遠ざけ、元老院にもet、和平がポエニ人たちと結ばれてはならない、と説得した。たしかにenim 彼らは多くの災難で意気消沈しており、もはやなんの希望もspem[初出、あとはX.2.3のみ]持っていないからだ、自分はそれのほどの者ではない、何千もの(カルタゴの)捕虜たちが(交換で)、彼一人の老人やローマ人たちで捕らえられていた僅かな者たちのために戻されるほどの。 (2) そしてかくしてitaque 彼は(望んだとおりの結果を)得た。というのも和平を要請するアフリ人たちを誰も聞き入れなかったからである。 (3) 彼は自分からカルタゴへと帰ったrediit、そしてまた-que 彼にローマに居続けるようにと申し出たローマ人たちに対し、自分がその首都に滞在することを断った、そこの中においては、アフリ人たちに服した後では、名誉ある市民の尊厳を保持できないからである、と。彼はこうしてigitur アフリカへと帰還しregressus、あらゆる拷問により葬り去られたextinctus est【初出、他はVII.20.2, VIII.5.2, IX.6, X.13】(前二五〇年)。

Ⅱ.26:(1) プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ユニウスの執政官時に(前二四九年)、クラウディウスは鳥占いに反してcontra auspicia 闘いpugnavit、そしてカルタゴ人たちにより打ち負かされた。というのもnam、二二〇隻の軍船のうち三〇隻と共に彼(クラウディウス)は逃亡しfugit、九〇隻は戦闘員たちpugnatoribus もろとも拿捕され、残りは沈められたからであるdemersae。 (2) もう一人の執政官もまたquoque 難破により艦隊を喪失したがamisit、それでもtamen 軍隊をexercitum 無傷で保持した、なぜならquia 近くに浜辺があったからである。

Ⅱ.27:(1) ガイウス・ルタティウス・カトゥルスとアウルス・ポストゥミウス・アルビヌスの執政官時、プニキ(ポエニ)戦争のbelli 二十三年目(前二四二年)に、カトゥルスにより戦争がbellum アフリ人たちに対して始められた。彼は三〇〇隻の軍船と共にシキリアへと進発し、アフリ人たちは彼に対し四〇〇隻を準備したparaverunt。(2) 決してnumquam 海においてこれほどの諸部隊によるcopiis 闘いが行われたことはpugnatum est なかった。ルタティウス・カトゥルスは病んだまま一つの軍船に乗船した、たしかにenim 彼はさらに以前の闘いでin pugna sueriore 負傷していたのである。シキリアの都市リリュバエウム(現マルサラ)に対し、ローマ人たちの並はずれた武徳で戦われたpugnatum est。 (3) というのもnam、六十三隻のカルタゴ人たちの軍船が拿捕され、一二五隻が沈められdemersae、敵たちの三万二〇〇〇名が捕らえられ、一万三〇〇〇名が倒され、数え切れないほどの金、銀、戦利品が、ローマ人たちの権限の中に置かれた。ローマ艦隊のうち、十二隻の軍船が沈められたdemersae。それが戦われたのはpugnatum est 三月十日のことだった(前二四一年)。 (4) ただちにstatim 和平をカルタゴ人たちは要請しpetiverunt、そしてまた-que 彼らに和平が許諾された。ローマ人たちの捕虜たちーーカルタゴ人たちの下に掌握されていたーーが返還されたredditi sunt。そのうえetiam、カルタゴ人たちは捕虜ーーアフリ人たちの中(の捕虜)でローマ人たちが掌握していたーーを買い戻すことを許可するよう要請したpetiverunt。 (5) 元老院は以下の事を命じたiussit、代価なしでsine pretio 誰でも、国家の管理下にある者たちは与えられる、ところでautem 私人たちによって掌握されている者たちは、主人たちに代価がpretio 返還されればreddito カルタゴへと帰されredirent、かつまたatque その代価はpretium カルタゴ人たちより以上magis (ローマの)国庫から支払われること、と。

Ⅱ.28:クイントゥス・ルタティウスとアウルス・マンリウスが執政官たちに選出され(前二四一年)、(彼らは)ひとつの戦争をファリスキ人たちに仕掛けた[・・・に兵を挙げた]intulerunt。彼らの都市はcivitas かつてquondam イタリアで富裕だったopulenta fuit[初出、あとIV.17.1,VIII.8.3, X.7.2 ]。その(戦争)を両執政官はやって来てから六日以内に片付け、敵たちの一万五〇〇〇人を倒し、他の者たちには和平が赦し与えられたがconcessa[初出、あとIV.4.3, VII.14.5(以上、譲渡され), IX.27.1, 2(引退する)]、それでもtamen 農耕地は半分ほど差し出されたsublato。

第三巻

Ⅲ.1:(1) こうしてigniter 二十三年にわたり続いた(前二六四〜二四一年)プニキ(ポエニ)戦争が終結するとfinito ・・・tractum est、ローマ人たちはまさにiam 傑出した栄光によって知られるようになったが、アエギュプトゥス王プトロマエオスへと使節団をlegatos 送ってmiserunt、援軍をauxilia 約束した、なぜならquia シュリア王アンティオクスが彼に戦争を仕掛けていたからであるintulerat。彼はローマ人たちに感謝をしたが、ローマ人たちからの援軍はauxilia 受け入れなかった。 (2) まさにiam たしかにenim 闘いはugna 終わっていたからだった。同じ頃、強勢を誇るシキリア王ヒエロがローマを競技を見物すべく訪れ、そして二十万モディウスの小麦の贈り物を民衆にpopulo提供したexhibuit[他は、VII.18.3, VIII.14.1のみ]。

Ⅲ.2:ルキウス・コルネリウス・レントゥルスとフルイウス・フラックスの執政官時に(前二三七年)、この時ヒエロがローマに来ていたのだが、そのうえetiam イタリア内でリグレス人たちに対しても戦争が行われ、彼らから凱旋式が挙行された。カルタゴ人たちは、それでもtamen 戦争を再開しようと試み、サルディニア人たちに反乱を起こすように唆した、彼らが和平の条件によってローマ人たちに服属しなければならなかったからだ。それでもtamen ローマへとカルタゴ人たちの使節団が訪れ、そして和平を達成した。

Ⅲ.3ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスとガイウス・アティリウス・ブルクスの執政官時に(前二三五年)、サルディニア人たちからの凱旋式が挙行され、そして和平が全地で達成され、ローマ人たちはまったく戦争をしなかった。それは彼らにとってローマ創建後に、ヌマ・ポンピリウスによる統治時にregnante たった一度semel tantum 生じたcontigerat だけである。

Ⅲ.4ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスとグナエウス・フルウィウス・ケントゥマルスが執政官として、戦争をイリュリア人たちに対しておこなった(前二二九年)、そして多くの都市をciuitatibus 攻略し、そのうえetiam 諸王から降伏までも受け入れた。およびac そのときtum 初めてイリュリア人たちからの凱旋式が挙行された。

Ⅲ.5:ルキウス・アエミリウスが執政官時に(前二二五年)、ガリア人たちのおびただしい軍勢がcopiae アルペス(山脈)を越えてやって来たtransierunt。しかし、ローマ人たちのために全イタリアが一致協力し、そしてまた-que 伝えられているところではtraditum[初出:III.8.1, IV.8.1, IX.22.1;但しV.6.1, X.14.1, X.17.1は「委ねら(嫁がさ)れる」とすべきか]、かの戦争に居合わせたinterfuit[初出、他はX.16.1のみ]歴史家ファビウスによると、八十万の人々がこの戦争のために準備されたparata。しかしsed 事態はかの執政官のためにこれほど上首尾に運ばれた、(すなわち)四万人の敵兵が殺害され、そして凱旋式がアエミリウスのために決議された。

Ⅲ.6:(1) それからdeinde 数年後にaliquot annis post、ガリア人たちに対してイタリア内で闘いが行われpugnatum est、そしてまた-que 戦争はbellum マルクス・クラウディウス・マルケッルスとグナエウス・コルネリウス・スキピオの執政官時に(前二二二年)終結した。そのときtum マルケッルスはわずかな騎兵の手勢で干戈を交えdimicavit、そしてガリア人たちの王、ウィリドマルスという名前の者を彼自身の手で殺した。 (2) その後postea 彼は同僚(スキピオ)とともにガリア人たちのおびただしい軍勢をcopias 殲滅し、メディオラヌム(現ミラノ)を攻略しexpugnavit、莫大な戦利品をローマへともたらしたpertulit[perfero,初出であと2例:IX.10;IX.15.2]。そしてかつac 凱旋式を挙げるとき、マルケッルスはガリアの戦利品を棒で彼自身の両肩に担いで運んだ。

Ⅲ.7:(1) マルクス・ミヌキウス・ルフスとプブリウス・コルネリウス(・スキピオ)の執政官時に(前二二一年)、ヒストリ人たちに対して戦争が仕掛けられた。なぜならquia 穀物を提供したexhibebant ローマ人たちの船(pl.)に対して彼らが海賊行為を働いていたからである。そしてまた-que 彼らすべてが完全に征服された。 (2) 同年、第二次プニキ(ポエニ)戦争が、ローマ人たちに対してカルタゴ人たちの将軍ハンニバルによって仕掛けられた。彼はヒスパニアのローマの友邦都市ciuitatem amicam サグントゥムを攻囲しobpugnare 始めたが、二十歳という時期を過ごしていて、十五万もの部隊が召集されたのである。 (3) その彼に対し、ローマ人たちは使節団を介して戦争をbello 自粛するようabstineret[初出、後はX.16.3のみ]警告したdenuntiaverunt[初出、他はX.8.3]。彼は使節団を引見するのを望まなかった。ローマ人たちはそのうえetiam カルタゴにも(使節団を)送ったがmiserunt、これはローマ市民のpopuli Romani 同盟者たちにsocios 対して戦争をbellum しないようにと、ハンニバルに命じられるためであった。冷淡な諸回答がカルタゴ人たちから返ってきた。サグントゥム人たちはその間にinterea 飢餓のために打ち負かされ、そしてまた-que ハンニバルによって占領され、極刑に処される(前二一九年)。

Ⅲ.8:(1) そのときtum プブリウス・コルネリウス・スキピオは軍隊exercitu と共にヒスパニアへと、ティベリウス・センプロニウスはシキリアへと進発した。戦争がbellum カルタゴ人たちに対して通告された。 (2) ハンニバルは、兄弟ハスドルバルをヒスパニアに残してrelicto ピュレネーを越えた。アルペスはそのときまでadhuc その当時 tum その部分に道がなかったので、(彼が)自ら切り開いた。伝えられているところではtraditur、彼はイタリアへ歩兵八万、騎兵一万、そして三十七頭の象を率いてきた。その間にinterea 多くのリグレス人たちやガキア人たちがハンニバルと同盟を結んでいた。センプロニウス・グラックスは、イタリアへとハンニバルが到着したことを知ると、シキリアから軍隊exercitum をアリミヌム(現リミニ)へと移動させた。

Ⅲ.9:(1) プブリウス・コルネリウス・スキピオがハンニバルに初めてprimus 対峙した。戦闘がproelio 始まると、彼の兵士たちは追い払われfugatis suis、自身も負傷して陣営へ帰ったrediit。センプロニウス・グラックス自身もトレビア河畔で奮戦するconfligit(前二一七年)。彼もまたquoque 打ち負かされる。ハンニバルに多く(の部族)がイタリア内で降伏した。 (2) そこからinde トゥスキアへと行くと、ハンニバルは執政官フラミニウスに対峙した。フラミニウス自身を彼は抹殺しinteremit【初出、あとは、IV.26.1, VI.1.2, VII.7, X.9.2】、ローマ人たちの二万五〇〇〇人が倒され、残りは散り散りになった。ハンニバルに対してその後postea ローマ人たちによって派遣されたのが、クイントゥス・ファビウス・マクシムスだった。彼は彼を、闘いをpugnam 避け逸る気持ちを抑えて、機会を見いだすとすぐにmox 打ち負かした。

Ⅲ.10:(1) 首都創建から五四〇年目(前二一六年)に、ルキウス・アエミリウス・パウルスと プブリウス・テレンティウス・ウァッロがハンニバルに対して送られる、そしてまた-que ファビウスを継ぐ。そこでqui ファビウスは両執政官に、抜け目ないが性急な将軍ハンニバルを打ち負かすには、戦闘をproelium 避ける以外にお前たちに勝利はない、と戒めた。 (2) だがverum 執政官ウァッロの性急さにより、もう一人の執政官、すなわちアエミリウス・パウルスが反対したにもかかわらず、アプリアのカンナエと呼ばれている村でvicum 闘いが行われpugnatum esset、両執政官はハンニバルによって打ち負かされる。 (3) この闘いでpugna、アフリ人たちの内の三〇〇〇が命を落とし、ハンニバルの軍隊exercitu の大部分が負傷を受ける。それでもtamen ポエニ戦争でのproelio Punico 戦闘においてbello ローマ人たちがこれ以上に由々しかったgravius ことはなかった。たしかにenim この(戦いで)、執政官アエミリウス・パウルスが亡くなりperiit、執政官級あるいはaut 法務官級で二〇名、元老院議員三〇名が捕虜とされたりあるいはaut 殺され、貴族の人物たち三〇〇、兵士四万、騎兵三五〇〇にのぼったからである。かくのごとき逆境に遭っても、それでもtamen ローマ人たちの中で誰ひとりとして和平を口にしようとする者はいなかった。奴隷たちが、以前にはante 決してnumquam なかったことだが、解放されそして兵士とされた。

Ⅲ.11:(1) この闘いの後post eam pugnam、ローマ人たちに従っていた多くのイタリア諸都市がハンニバルへと鞍替えしたtranstulerunt。ハンニバルはローマ人たちに捕虜たちを買い戻すよう提案したが、そしてまた-que 元老院から返答されたのは、武装していながら捕虜とされてしまうような者たちは必要ない、と。彼はすべての者をその後postea さまざまな責め苦を与えて殺害し、そして指輪の金三モドゥスをカルタゴに送ったが、それはローマ人たちの騎士身分たち、元老院議員たち、そして兵士たちの手から奪ったものだった。 (2) この間にinterea ヒスパニアでは、ハンニバルの兄弟ハスドルバルがその(スペイン)全土をアフリ人たちに従わせるために[初出、あとIX.20.3のみ]、大軍magino exercitu とともに残留していたが、ローマの将軍たちである二人のスキピオたちによって打ち負かされる。彼はその闘いでpugna 三万五〇〇〇の兵を失う。すなわち、彼らのうち一万が捕らえられ、二万五〇〇〇が殺される。彼にカルタゴ人たちから、戦力補充のため一万二〇〇〇の歩兵と四〇〇〇の騎兵、二十頭の象が送られる(前二一八〜二一五年)。

Ⅲ.12:(1) イタリアへとハンニバルが来て四年目(前二一四年)、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスが、カンパニアの都市ciuitatemノラでハンニバルに対して善戦したbene pugnavit。ハンニバルはアプリア、カラブリア、ブリッティイのローマ人たち(側)の多くの諸都市をciuitates 占領した。 (2) この時、そのうえetiam マケドニアの王フィリップス(フィリッポス)も彼へと使節団を送った。彼がローマ人たちに対する援軍をauxilia 以下の条件下で約すためだった、すなわちローマ人たちを殲滅したら、彼(フィリップス)自身もまたquoque  ギリシア人たちに対してハンニバルから援軍をauxilia 受ける、と。 (3) こうしてigitur フィリップスの使節団は捕まってしまい、そしてことが露見すると、ローマ人たちはマケドニアにマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスを、サルディニアに前執政官proconsulem ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスを行かせることを決した。というのもnam そのうえetiam そこ(サルディニア)もハンニバルによって惑わされ、ローマ人たちを見限っていたからである。

Ⅲ.13:(1) かくしてita、一度に四箇所で闘いが行われていたpugnabatur。イタリアではハンニバルに対して、ヒスパニア諸州では彼の兄弟ハスドルバルに対して、マケドニアではフィリップスに対して、サルディニアではサルディ人たちそして別のカルタゴ人ハスドルバルに対して。 (2) 彼(ハスドルバル)は、サルディニアへと派遣されていた前執政官のティトゥス・マンリウスによって生きたまま捕らえられたが、彼とともにいた一万二〇〇〇人が殺され、一五〇〇人が捕虜とされ、そしてローマ人たちによってサルディニアは屈従させられたsubacta。勝利者マンリウスは捕虜たちとハスドルバルをローマに連れ帰った。 (3) この間にinterea そのうえetiam フィリップスはラエウィヌスによってマケドニアで打ち負かされ、そしてヒスパニアではスキピオたち(兄弟)によってハスドルバルとマゴ、(すなわち)ハンニバルの三番目の兄弟が(打ち負かされる)。

Ⅲ.14:(1) ハンニバルがイタリアへやって来てから十年目、プブリウス・スルピキウス・とグナエウス・フィルウィウスの執政官時に(前二一一年)、ハンニバルは首都の第四里程標に至るまでusque ad、彼の騎兵隊は一つの市門に至るまでusque ad portam 近づいたaccessit。すぐにmox 執政官たちは軍隊をexercitu 率いて来て、(その)脅威のためハンニバルはカンパニアへと退いた。 (2) ヒスパニアでは、(ハンニバルの)兄弟ハスドルバルによって、両スキピオ、彼らは長年にわたって勝利者たちであったが、殺害される。軍隊はexercitus それでもtamen 手つかずでinteger[初出、あとIII.14.2, IV.7.1, VI.20.3, VIII.23, IX.21, X.17.2]存続したmansit。たしかにenim 彼ら(両名)は不運のゆえにcasu 武徳より以上にmagis 欺かれたからである。 (3) この頃、そのうえetiam 執政官マルケッルスによってシキリアの大部分が占領された(前二一四〜一年)、(それは)そこをアフリ人たちが掌握しようとしていたので、そしてきわめて名高いnobilissima シュラクサエの主都urbs が(占領され)、莫大な戦利品がローマに持ち去られた。 (4) ラエウゥヌスはマケドニアでフィリップスとそして多くのギリシアの諸市民、アシア王アッタルス(アッタロス)と友誼をamicititiam 結ぶと、シキリアへと進発し、ハンノ某、アフリ人たちの将軍を都市ciuitatem アグリゲントゥムで、その町oppido ともども捕獲したcepit(前二一〇年)。そしてまた-que(ラエウィヌスは)彼をローマへと捕虜になった(アグリゲントゥムの)貴族たちとともに送った。彼は四十の諸都市のciuitates 降伏を受け入れ、二十六(の諸都市)を攻略したexpugnavit。 (5) かくしてita 全シキリアは取り戻されrecepta[初出、他五箇所]、マケドニアは押さえ込まれ、彼(ラエウィヌス)は並はずれた栄光と共にローマへと帰還したregressus est。ハンニバルはイタリアで執政官グナエウス・フルウィウスを急襲し、八〇〇〇の兵士たちともども彼を殺害した。

Ⅲ.15:(1) その間にinterea ヒスパニア諸州へと、二人のスキピオが殺されてローマの将軍が誰もいなくなったので、プブリウス・コルネリウス・スキピオ、(すなわち)同じ場所でibidem 戦争を遂行していたプブリウス・スキピオの息子が送られる(前二一〇年)。(息子の)彼は二十四歳だったが、あらゆるローマ人たちのうちで、そして彼の時代においてもより後代においても、ほぼfere 第一の者である。  (2)  彼はヒスパニアのカルタゴ(カルタゴ・ノヴァのこと)を占領する、その地にあらゆる物、すなわち金、銀そして戦闘の支度をbelli apparatum[初出、他はIV.7.3, IX.3, X.5, X.16.1]アフリ人たちは持っていたし、きわめて貴顕な人質たちnobilissimos obsides をもまたquoque 持っていた、(アフリ人たちは)彼らをヒスパニア人たちから受け取っていたのだ。 (3) ハンニバルの兄弟マゴをそのうえetiam 彼は同じ場所でibidem 捕らえて、彼をローマへ他の者たちと共に送る。ローマではこの上ない歓喜がその通知の後にpost hunc nuntium[初出、あとIV.6.4, 25, VII.22.2, IX.18.1, X.2.3]あった。スキピオはヒスパニア人たちの人質たちを親元へと返還したreddidit。それゆえにquare ほぼfere すべてのヒスパニア諸州が精神を一つにしてuno animo 彼へと寝返ったのであるtransierunt。これらの後に、ハンニバルの兄弟ハスドルバルを、彼(スキピオ)は打ち破って、追い払ったfugat、そして多くの戦利品を獲得する。

Ⅲ.16:(1) その間にinterea イタリアでは、執政官クイントゥス・ファビウス・マクシムスが、タレントゥムを取りもどした(前二〇九年)、(がイタリアにはまだ)ハンニバルの夥しい軍勢copiae がいた。そこでibi 彼はハンニバルの将軍カルタロをも殺し、捕虜二万五〇〇〇人を売却し、戦利品を兵士たちに分配して、(捕虜の)人々を売った代金を国庫へと納めた。そのときtum ハンニバルへと以前寝返っていたtransierant ローマの多くの都市が、またもやrursus ファビウス・マクシムスに身を委ねた。 (2) 翌年insequenti anno(前二〇八年)、スキピオはヒスパニアで自らも、そして彼の兄弟ルキウス・スキピオによっても、卓越したegrerias 諸業績をあげた。(すなわち)七十の諸都市を取り戻したのである。イタリアではそれでもtamen 戦いは不首尾だったmale pugnatum est。というのもnam、執政官クラウディウス・マルケッルスがハンニバルによって殺されたからであるoccisus est。

Ⅲ.17:スキピオがヒスパニア諸州へと進発してから三年目に(前二〇六年)、彼はまたもやrursus 人口に膾炙したことどもを行う。(すなわち)あるヒスパニア(部族の)王を大きな戦闘でproelio 打ち負かし、友誼へと受け入れ、そして敗者から人質たちを要求しなかったすべての人々の最初となった。

Ⅲ.18:(1) ハンニバルはヒスパニア諸州をスキピオに対してこれ以上保持することはできないと絶望し、自分の兄弟ハスドルバルをイタリアへと全部隊とともに召喚した。 (2) 彼は、ハンニバルが到来したその同じ経路でやって来て、執政官たちアッピウス・クラウディウス・ネロとマルクス・リウィウス・サリナトルによってピケヌムの都市セナで取りまとめられたcompositas[初出、他はVI.1.1, 25, ]諸々の奸計にinsidias 陥ってしまった(前二〇七年)。彼は即座にstrenue それでもtamen 闘ってpugnans 殺されたoccisus est。彼の夥しい軍勢は捕虜とされたりあるいはaut 殺害されたりして、かなりの重さの金、かつまたatque 銀がローマへと運ばれた。 (3) それからpost hac ハンニバルはまさにjam 戦争の行く末に疑念を抱き始めた。ローマ人たちの間では並はずれた精神がingens animus 加わったaccessit。そしてかくしてitaque 彼ら(ローマ人たち)がet ipsi ヒスパニアから プブリウス・コルネリウス・スキピオを召喚した(前二〇六年)。彼はローマへと並はずれたingenti 栄光と共にやって来た。

Ⅲ.19:クィントゥス・カエキリウスとルキウス・ウァレリウスが執政官時に(前二〇六年)、ブリッティイの中でハンニバルによって掌握されていた全都市が、ローマ人たちに引き渡されたtradiderunt。

Ⅲ.20:(1) ハンニバルがイタリアへとやって来てから十四年目に(前二〇五年)、スキピオは、多くのことを上首尾にヒスパニア内で成し遂げていたので、執政官とされ、そしてアフリカへと送られた。この人物には神的な何かが内在していると考えられており、そのうえetiam 彼は神霊らと会話すると思われていたほどだった adeo ut 。 (2) 彼はアフリカで、アフリ人たちの将軍ハンノと闘いpugnat、彼の軍隊をexercitum 滅ぼす(前二〇四年)。二度目の戦闘でproelio 彼は陣営を四五〇〇人の兵士もろとも占領し、そして一万一〇〇〇人を殺し(前二〇三年)、ヌミディア王シュファックスを、彼がアフリ人たちと同盟を結んでいたが、捕らえ、そして彼の陣営を襲う。シュファックスは、きわめて高貴なnobilissimis ヌミディア人たちと数え切れない戦利品とともに、ローマへとスキピオにより送られる。 (3) このことを聞くと、ほぼfere すべてのイタリアがハンニバルを見捨てる。彼(ハンニバル)自身は、カルタゴ人たちにより、スキピオが荒らしていたvastabat アフリカへと帰還するようredire に命じられる。

Ⅲ.21:(1) かくしてita 十七年目にしてハンニバルからイタリアは解放された(前二〇三年)。カルタゴ人たちの使節団が和平をスキピオに要請したpetiverunt。 (2) 彼(スキピオ)により彼ら(使節団)はローマ元老院へと送られた。四十五日間にわたり、休戦が承諾されたが、それは彼らがローマへと行ってそして帰還してくるregrediことができる程度の期間で、そして三万ポンドの銀が彼ら(使節団)によって受け入れられた。元老院は、スキピオの判断で和平をカルタゴ人たちとなすよう、命じたiussit。 (3) スキピオは以下の諸条件で(和平を)承諾した:(カルタゴ人たちは)三十隻より多くの(軍)船を保有しないこと、そのためut (カルタゴ人たちは)五十万ポンドの銀を与えdarent、(ローマ軍の)捕虜たちと脱走兵たちを返還することredderent、である。

Ⅲ.22:(1) とかくするうちにinterim ハンニバルがアフリカへとやって来たため、和平はかき乱され、アフリ人たちから多くの敵意が生じた。 (2) 使節団はそれでもtamen 首都から戻ってきて、ローマ人たちによって捕らえられ、そしてスキピオが命じて放免された。ハンニバルもまたquoque たびたび諸戦闘でproeliis 打ち負かされ、スキピオからそのうえetiam彼自身和平を要請するpetit。会談へとad colloquium[初出、他はV.7.2,のみ]至ると、以前と同じ諸条件で(和平が)承諾された、(ただし)以前の銀五十万ポンドに、十万リブラ(≒ポンド)が加えられることになった、新たな背信のゆえに。(これらの)諸条件はカルタゴ人たちには気に入らず、そしてまた-que ハンニバルに闘うようpugnare 彼らは命じた。スキピオとマシニッサ、もう一人のヌミディア人たちの王で、彼はスキピオと友誼をamicitioam 結んでいたが、彼らによってカルタゴへの戦争がbellum 勃発した。ハンニバルは、三名の斥候たちをスキピオの陣営へと送ったが、捕らえられた彼らを、スキピオは(以下のようにするように)命じたiussit、陣営中連れ回し、そして彼らに全軍をtotum exetcitum みせ、すぐにmox そのうえetiam 食事を与えて、そしてまた-que 釈放するように、と。(それは)彼らがハンニバルにローマ人たちの所で見たことを伝えるようにするためだった。

Ⅲ.23:(1) その間にinterea 戦闘がproelium 両将軍によって準備されていたが、(その準備は)ほとんどuix 何らulla 記録が(残されてい)ないほどのものだった。というのも最も熟練した人物たちが自身の軍勢を戦争へと率いていたからである。スキピオは勝者として帰還し、ハンニバルはほとんどpaene 捕虜になりかけた。彼は初めは多くの騎兵たちとともに、次いで二十騎とともに、最終的にpostremo 四騎とともに脱出しえたevasit[初出、原語はevado、あとVI.20.2, X.1.3]。 (2) ハンニバルの陣営内で銀二万ポンド、金八十(ポンド)の他cetera さまざまの装備品が見つかった。この会戦certamen の後、和平がカルタゴ人たちとなされた。スキピオはローマへと帰りrediit、並はずれた栄光で凱旋式を挙行し、かつまたatque アフリカヌスとこのことゆえに呼ばれ始めた。 (3) 第二次ポエニ戦争はbellum 勃発から十九年目を経て終幕を迎えた。

第四巻

Ⅳ.1ポエニ戦争が片付いて transacto、続けて行われたのはマケドニア(戦争)で、フィリップス王に対して、首都創建以来五五一年目のことだった。

Ⅳ.2:(1) ティトゥス・クインティウス・フラミニウスは、フィリップスに対して上首尾に事を運んだ rem prospere gessit(前一九七年)。和平が彼(フィリップス)に対して以下の諸法令でhis legibus 与えられた、(すなわち)ローマ人たちが彼に対して防衛したギリシア諸都市に戦争をbellum 仕掛けないことinferret、彼は(ローマの)捕虜たちと脱走兵たちを返還すること、五十隻の軍船だけsolas naues を持ち、残りをreliquas ローマ人たちに与えることdederet、十年間にわたり銀四〇〇〇ポンドを提供し、そして人質として彼の息子デメトリウス(デメトリオス)を差し出すこと。 (2) ティトゥス・クインティウスはそのうえetiam ラケダエモニイ人たちにも戦争をbellum 仕掛けたintulit(前一九五年)。彼は彼らの将軍ナビスを打ち負かし、そして彼が望んだ諸条件で誓約をもってin fidem受け入れた。彼は並はずれた栄光により、戦車の前にきわめて貴顕な人質たちnobilissimos obsides 、フィリップスの息子デメトリウスとナビスの(息子)アルメネスを引き立てたのである。

Ⅳ.3:(1) マケドニア戦争がbello 片付いてtransacto、続いて行われたのがシュリア(戦争)で、アンティオクス(アンティオコス)王に対するものだった。プブリウス・コルネリウス・スキピオとマニウス・アキリウス・グラブリオの執政官時(前一九一年)のことである。 (2) このアンティオクスにハンニバルは結びついていた。(ハンニバルは)自身の祖国カルタゴをローマ人たちに引き渡されtradereturないかと心配して、捨てていたのである。マニウス・アキリウス・グラブリオはアカイアで善戦したbene pugnavit。アンティオクス王の陣営は夜戦でnocturna pugna 占領され、彼自身は追い払われたfugatus。フィリップスは、アンティオクスに対峙しローマ人たちに支援auxilio を提供したのでquia、息子デメトリウスは返還されたredditus est。

Ⅳ.4:(1) ルキウス・コルネリウス・スキピオとガイウス・ラエリウスの執政官時に(前一九〇年)、スキピオ・アフリカヌスは、自身の兄弟である執政官ルキウス・コルネリウス・スキピオの代理官legatus として、アンティオクスに対して進発した。ハンニバルは、アンティオクスとともにいたが、艦隊戦でnauali proelio 打ち負かされた。 (2) その後postea、アンティオクス自身もアシアの都市、マグネシア・<アド>・シピュルスで、執政官コルネリウス・スキピオによって並はずれた戦闘の末ingenti proelio、撃破された。ローマ人たちにこの戦いでpugna 支援したauxilio fuit アッタルス(アットロス)王の兄弟エウメネスは、フリュギアにエウメニアを創設した。五万の歩兵、三〇〇〇の騎兵がその会戦でeo certamine(アンティオコス)王側で殺された。 (3) そのときtum 、王は和平を要請したpetit。(和平が)以前示されたのと同じ諸条件で元老院から与えられた、(王が)打ち負かされたにもかかわらず、である。すなわち、(王は)エウロパとアシアから引き下がり、かつまたatque タウルス(タウロス山脈)内にとどまること、一万タレントゥムと二十人の人質を差し出すこと、ハンニバル、戦争の扇動者を[s.]concitatorem belli 与えることdederet、である。エウメネス王には元老院によって、アンティオクスが戦争でbello 喪失したアシアの全都市が送られたdonatae、そしてet ロドゥス(ロドス)人たちには、支援をauxilium ローマ人たちにアンティオクス王に対抗して提供したので、多くの主都urbes が譲渡されたconcessae sunt。(執政官の)スキピオはローマへと帰りrediit、並はずれた栄光でingenti gloria 凱旋式を挙行したtriumphauit。彼自身も兄弟に倣ってアシアゲネスという名前を受け取った、なぜならquia(彼が)アシアを打ち負かしたからである、ちょうどsicuti 彼自身の兄弟がアフリカ(を征した)のでアフリカヌスと呼ばれていたように。

Ⅳ.5:(1) スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスとクイントゥス・マルクウス・フィリップスの執政官時に(前一八六年)、マルクス・フルウィウスがアエトリア(アイトリア)人たちからの凱旋式を挙行した。 (2) ハンニバルは、アンティオクスが打ち負かされたので、ローマ人たちに引き渡されtradereturないようにビテュニア王プルシアス(のもと)へと逃亡していたがfugerat、そのうえetiam 彼(プルシアス)からティトクス・クイントゥス・フラミニヌスの(もとへ降るようにと)繰り返し求められrepetitus、そしてet ローマ人たちに引き渡されそうになったtradendus時、毒をあおった、そしてet ニコメディア人たちの領域内のin finibus[初出、他は]リビュッサ近郊に葬られた(前一八三年)。

Ⅳ.6:(1) マケドニア王フィリップスは死んだが、(彼はそれまでに)ローマ人たちに対して戦争をbellum 起こしもし、その後postea ローマ人たちのためにアンティオクスに対抗して支援をauxilium 提供しもしたが、彼の息子ペルセウスがマケドニアで反乱を起こし、並はずれた軍勢が戦争へとad bellum 準備されたparatis(前一七年)。 (2) というのもnam 、彼は助力者たちとしてトラキア王コテュスそしてイリュリクム王で名をゲンティウスを持ってたからである。ところでautem ローマ人たちの側に支援していたのがin auxilio erant、アシア王エウメネスやカッパドキア(王)アリアラトゥス、シュリア(王)アンティオクス、アエギュプトゥス(王)プトレマイウス、ヌミディア(王)マシニッサがいた。ビテュニア(王)プルシアスはところでautem ペルセウスの姉妹を妻としていたとはいえ、両者に公正さをaequum 示した。 (3) ローマ人たちの将軍、執政官プブリウス・リキニウスが、彼(ペルセウス)に対して派遣された、そして王によって由々しき戦闘でgravi proelio 打ち負かされたvictus(前一七一年)。にもかかわらずそれでもneque tamen ローマ人たちは、(戦闘で)負かされたがsuperati、和平を要請する王に対し、(それを)保障することをpraestare 望まなかったneque。彼(ペルセウス)が自身と彼の部下たちsuosをローマの元老院と民衆にpopulo 引き渡すdederet という諸条件でなければ。 (4) すぐにmox 彼に対して送られたのは執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスで、そしてイリュリクムには法務官ガイウス・アニキウスがゲンティウスに対して(送られた)(前一六八年)。しかしsed ゲンティウスはたやすくfacile 一度の戦闘でuno proelio 打ち負かされ、すぐにmox 降伏したse dedidit。彼の母や妻(s.)、二人の息子、一人の兄弟もまたquoque 同時にsimul ローマ人たちの手に落ちたin potestatem Romanorum uenerunt。かくしてita 三十日以内で戦争がbello 終結したので、戦争のbellum 開始が通知されるnuntiaretur よりも前にゲンティウスへの勝利が確認されたcognitum est[cognosco]。 

Ⅳ.7:(1) ペルセウスとは、ところでautem、執政官アエミリウス・パウルスが九月三日に干戈を交えdimicavit、そしてまた-que 彼を打ち負かし、その歩兵二万を殺した(前一六八年)。騎兵隊は王とともに、手つかずでinteger 逃亡したfugit。ローマ人たちの兵士一〇〇人が喪失されたamissi sunt[初出、他にVII.2.1, IX.8.2]。王が掌握していたマケドニアの全主都がurbes ローマ人たちに降伏したse dediderunt。王自身は、友人たちから見捨てられ、パウルスの手に落ちたuenit in Pauli potestatem。  (2) しかし栄誉をhonorem 彼に執政官アエミリウス・パウルスは持たせた、まるでquasi(王が)打ち負かされたわけではないように。というのもnam (王が執政官に向けて)足下へと跪こうとしたにもかかわらず、それを許さなかった、そして自身のそばで椅子に座らせたのである。  (3) マケドニア人たちとイリュリア人たちには、ローマ人たちによって以下のような諸法令がleges 与えられたdatae、すなわち、彼らは自由であり、彼らが王たちに払っていた貢税の半分を(ローマに)支払う、というものである。それは、ローマ市民populum Romanumが貪欲ゆえというよりも対等さのためにpro aequitate 干戈を交えるのだdimicareと示すためだった。そしてかくしてitaque 数え切れないほど多くの市民たちのpopulorum 集会でパウルスはこのことを宣言し、そして彼(のもと)へと来ていた諸部族のgentium 使節団をきわめて豪華に宴会で楽しませ、「戦争でbello 打ち勝つことも、宴会の支度apparatu も同一人物の優雅さであらねばならぬ」と言う。

Ⅳ.8:(1) すぐにmox 彼は、反乱を起こしていたエピルスの七十都市を捕獲しcepit、戦利品を兵士たちに分配した。彼はローマへと並はずれた豪華さで(飾った)ペルセウスの軍船に乗って帰ったrediit。その軍船は櫂ごとに(漕ぎ手が)十六列sedecim ordines・・・remorum あったと言われるほど、異例なほどの大きさinusitatae magnitudinis[初出、あとX.8.3]だったと伝えられているtraditur。彼は、ところでautem きわめて豪華に黄金の戦車に乗って、両脇に二人の息子を立たせ凱旋式を挙行した。戦車の前に連行されたのは、王の二人の息子たちとペルセウス自身だった、彼は四十五歳だった。 (2) 彼の後、アニキウスはそのうえetiam イリュリア人たちからの凱旋式を挙行した。ゲンティウスも一人の兄弟や息子たちともども戦車の前を引っ立てられたductus est。この見世物へと、多くの部族の王たちがローマへとやってきた。とりわけinter alios そのうえetiam アシア王たちのアッタルス、かつまたatque エウメネス、ビテュニア(王)プルシアスもやって来た。多大なる栄誉でhonore (王たちは)遇され、そして元老院の許可のもと、彼らは持参した奉納物をカピトリウム(の神殿)に納めた。プルシアスはそのうえetiam 自身の息子ニコメデスを元老院に委ねもしたのである。

Ⅳ.9:翌年(前一五三年)、ルキウス・メンミウスはルシタニアで善戦したbene pugnavit。その後、執政官マルケッルスがその同じ場所でibidem 思い通りの諸成果をあげた(前一五二年)。

Ⅳ.10:(1)  それからdeinde カルタゴに対する三度目の戦争が企てられ、首都創建以来六〇二年目、ルキウス・マンリウス・ケンソリヌスとマニウス・マニリウスの執政官時に、第二ポエニ戦争以来五十一年目のことであった(前一四九年)。  (2)  彼らが進発して、カルタゴを包囲したoppugnauerunt。彼らに対してカルタゴ人たちの将軍 dux ハスドルバルが干戈を交えたdimicabat。別の将軍ファメアがカルタゴ人たちの騎兵隊を率いていた。  (3)  このときにtunc、スキピオ・アフリカヌスの孫nepos のスキピオ(・アエミリアヌス)が、軍団将校tribunusとしてかの地で軍務に服していた。彼に対する多大な畏敬、そして尊敬は、あらゆる者たちに存在していた。というのもそしてnam et、彼は戦闘行為についてad dimicandum 非常に長けており、きわめて思慮深いとされてもいたからである。そしてかくしてitaque 彼のお陰で、多くのことが執政官たちによって上首尾に行われた、(というのは)にもかかわらずneque ハスドルバルにもvel ファメアにもvel、ローマ人たちのその部分、スキピオが干戈を交えようとしていたdimicaret まさに(その部分)に対して関わることを避けることより以上のことをしなかったからだ。

Ⅳ.11:その同じ頃per idem tempus[初出、あとIX.23のみ]、ヌミディア人たちの王マシニッサが、ほぼfere 六十年にわたってローマ市民のpopuli Romani 友人であったが、九十七年の生涯の年齢で死んで、四十四人の息子たちが残されたが、彼はスキピオを彼の息子たちの間で王国のregni 分割者と命じていたiussit。

Ⅳ.12:(1) こうしてigitur スキピオの令名冠たるものとなっていたので、彼は依然としてadhuc 青年だったがiuvenis 執政官とされ、そしてカルタゴに対して送られた(前一四七年)。彼はそこを捕獲しcepit、およびac 打ち壊した。戦利品がそこでibi 発見された、それらはさまざまな都市を荒らしてカルタゴが集めてきていたものだったが、そして諸主都urbium (を象徴するような)諸装飾品ornamenta を、シキリア、イタリア、アフリカの諸都市にcivitatibus (諸都市が)自分のものと認識していたものについては、彼は返還したreddidit。かくてita カルタゴが抹殺されたのは、その創建の七〇〇年目だった。 (2) スキピオは彼の祖父が受けた名を得てmeruit、まさにscilicet その武徳のゆえに、そのうえetiam 自身もipse 小アフリカヌスと呼ばれた。 

Ⅳ.13:とかくするうちにinterim マケドニアで偽フィリップスなる者が兵力をarma 動かしたmovit、そしてローマの法務官プブリウス・ユウェンティウスが彼に対して送られたが、(偽フィリップスは)完膚なきまでにad internicionem[初出、あとはV.1]打ち負かしたvixt(前一四九年)。彼の後、クイントゥス・カエキリウス・メテッルスが将軍dux としてローマ人たちによって偽フィリップスに対して送られ、そして彼(偽フィリップスの兵)二万五〇〇〇を殺し、マケドニアを再占領し、偽フィリップス自身をipsum そのうえetiam 彼の手中にin potestatem suam 移したredegit(前一四八年)。

Ⅳ.14:(1)  コリントゥス(コリントス)人たちに対してもまたquoque、戦争が通告された(前一四六年)。(それは)ギリシアできわめて名高い都市nobilissimae civitati だったのだが、ローマ人たちの使節団への不当行為ゆえのことだった。そこを執政官ムンミウスが捕獲しcepit、そして破壊した。  (2)  こうしてigitur ローマで同時に三つの非常に華々しい凱旋式があった。アフリカヌスのアフリカからの(凱旋式)では、彼の戦車の前を引っ立てられたのはductus est ハスドルバルだった。メテッレスのマケドニアからのでは、彼の戦車を先行したのが偽フィリップスことアンドリスクス(アンドリスコス)だった、ムンミウスのコリントゥスからのでは、彼の前を諸々の青銅像や諸々の板絵pictae tabulae、そして主都(コリントゥス)のurbis(s.) 非常に輝かしいclarissimae 他の諸装飾品alia ornamenta が(見物人の前を)運び示された。

Ⅳ.15:再度iterum、マケドニアでは偽ペルセス、彼はペルセウスの息子と自称していたが、(彼が)奴隷たちを集めて反乱を起こし、そして一万六〇〇〇の兵力を擁したが、財務官トレメッリウスによって負かされたsuperatus est(前一四三年)。

Ⅳ.16:(1) 同じ頃(前一四三年)、メテッルスがケルティベリアでヒスパニア人たちのところで卓越したegregias 諸業績を挙げた。彼を継いだのがクイントゥス・ポンペイウスだった(前一四一年)。(2)ほどなくしてnec multo post クイントゥス・カエピオもまたquoque 同じ(ヒスパニアでの)戦争へと送られた。その(戦争は)ウィリアトゥスなる者がローマ人たちに対してルシタニアで起こしたものだった。その(クイントゥス・カエピオが到来したという)恐怖のため、ウィリアトゥスは自らの配下たちによって殺害されたinterfectus est、彼は十四年にわたってヒスパニア諸州をローマ人たちに対しかき乱していたmovisset。彼は、最初はprimo 羊飼い、すぐにmox 追い剥ぎどもの首領dux、最終的にpostremo 多くの民衆をtantos populos 戦争へと煽り立てたがconcitavit、それほどにローマ人たちに対抗してヒスパニアの解放者とみなされていた。そして彼の殺害者たちがinterfectores 執政官カエピオからの褒賞をpraemium 要請したとき、返答されたのは、最高軍司令官たちが自身の兵士たちによって殺害されるinterfici などということが、ローマ人たちに喜ばれたことなど決してないnumquam、と。

Ⅳ.17:(1)  それからdeinde 執政官クイントゥス・ポンペイウスがヌマンティア人たち、(彼らの)都市はヒスパニアでもっとも富裕だったfuit opulentissimaが、その彼らに負かされ、屈辱的なignobilem 和平を結んだ(前一四〇年)。彼の後には執政官ガイウス・ホスティリウス・マンキヌスが再度iterum ヌマンティア人たちと不面目な和平を結んだが、それを市民と元老院は破棄されるべし、かつまたatque マンキヌス自身を敵たちに引き渡されるべしtradiと命じたiussit。というのは、(ヌマンティア人たちが)約定の張本人である彼を持つことで、約定の解消という不正行為に報復することができるためだった(前一三七年)。  (2)  こうしてigitur これほどの恥辱ignominiamの後に、ヌマンティア人たちによって二度もローマ軍Romani exercitus(pl.) が軛の下を歩まされたわけで、 プブリウス・スキピオ・アフリカヌスが二度目の執政官とされ、そしてヌマンティアへと送られた(前一三四年)。彼はまずprimum 、潰乱しそして弱体化した兵を罰するよりも、むしろ鍛錬し、なんらの過酷さも伴わずsine aliqua acerbitate[初出、あとはVIII.8.2, X.3]矯正し、そのときtum 彼は、多数のヒスパニアの諸都市を、あるものは捕獲しcepit、あるものは降伏を受け入れて、最終的にpostremo ヌマンティア自体を長期間diu 囲って飢えさせ、そして土台から倒壊し尽くしevertit、残りの属州(s)を誓約をもってin fidem 受け入れた(前一三三年)。

Ⅳ.18: 同じ頃(前一三三年)、アシア王アッタルス、(すなわち)エウメネスの兄弟がなくなり、そしてまた-que 彼は相続人としてローマ市民に populum Romanum (彼の王国を)残したreliquit。かくしてita ローマ帝国に遺言に従ってアシアが加わったaccessit。

Ⅳ.19すぐにmox、そのうえetiam デキムス・ユニウス・ブルトゥスはカラエキア人たちとルシタニア人たちから、大いなる栄光をgloria もって凱旋式を挙行し(前一三六年あるいは前一三三年)、そして プブリウス・スキピオ・アフリカヌスはヌマンティア人たちからの二度目の凱旋式を行った、彼がアフリカから初めて(凱旋式を)行って以来一四年目のことであった(前一三二年)。

Ⅳ.20:(1)  とかくするうちにinterim アシアで戦争がアリストニクス(アリストニコス)によって引き起こされた、(彼は)エウメネスの息子で、妾腹の生まれだった。このエウメネスはアッタルスの兄弟であった。彼(アリストニクス)に対して送られた プブリウス・リキニウス・クラッススが、王たちの数え切れないほどの援軍をauxilia 指揮した(前一三一年)。というのは、ビテュニア王ニコメデスはローマ人たちを支持し、ポントゥスのミトリダテスーーこの男との戦争はその後postea 非常に由々しくgravissimum なるのだがーーも、カッパドキアのアリアラテスも、パフラゴニアのピュラエメネス(ピュライメネス)も、だった。それでもtamen クラッススは打ち負かされ、そして戦闘中に殺害された。彼自身の首級はアリストニクスに差し出され、胴体はスミュルナで葬られた。  (2)  その後、ローマ人執政官ペルペルナが、クラッススの後継者となることになるのだが(前一三〇年)、戦争の成り行きを聞くとアシアへと急ぎ、そして都市civitatemストラトニケア(ストラトニケイア)近郊の戦列(戦線)acieでアリストニクスを打ち負かし、彼が逃げ込んでいたそこ(の都市)を、飢餓で降伏へと強いた。アリストニクスは元老院の命令により、ローマで牢獄内で絞殺された。というのもenim 彼に関して凱旋式を挙行することができなかったからである、なぜならquia ペルペルナはペルガムム(ペルガモン)でローマへと帰ろうrediensとして死を迎えてしまったからである。

Ⅳ.21:ルキウス・カエキリウス・メテッルスとティトゥス・クインティウス・フラミニヌスの執政官在職時に(前一二三年)、カルタゴがアフリカで元老院の命令により再建された、それは今なお存続していてmanet、スキピオによって完全に倒壊し尽くされてからfuerat eversa 二十二年後のことだった。そこにローマ市民たちが護送されたdeducti sunt(前一二二年)。

Ⅳ.22:首都創建以来六二七年目(前一二四年)、執政官ガイウス・カッシウス・ロンギヌスとセクストゥス・ドミティウス・カルウィヌスが、アルペス(山脈)の向こう側のガリア人たちに対して、戦争を仕掛けたintulerunt、そしてアルウェルニ人たちのこのときにtunc きわめて名高い都市nobilissimae civitati、かつまたatque 彼らの首領duciビトゥイトゥスに対しても(仕掛け)(前一二三年)、そしてまた-que 数え切れないほど大勢をロダヌス(現ローヌ)河付近でiuxta 殺害した。ガリア人たちの首輪(トルクイス)からなる膨大な戦利品がローマへと持ち去られたperlata est 。ビトゥイトゥス(王)はドミティウスに降伏しse dedit、かつまたatque 彼によりローマへと護送されdeductus est(前一二一年)、そしてまた-que 大いなる栄光で両執政官は凱旋式を挙行した(前一二〇年)。

Ⅳ.23マルクス・ポルキウス・カトーとクイントゥス・マルキウス・レックスの執政官在職時、(すなわち)首都創建以来六三三年目に(前一一八年)、ガリア内のナルボに植民都市coloniaが導入されdeducta est、そしてまた-que 翌年に(前一一七年)執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルスとクイントゥス・ムキウス・スカエウォラによって、ダルマティアに関する凱旋式が挙行された。

Ⅳ.24:首都創建以来六三五年目(前一一四年)、執政官ガイウス・カトーはスコルディスキ人たちに戦争をbellum 仕掛けintulit、そしてまた-que 恥辱的にignominiose 闘ったpugnavit。

Ⅳ.25:ガイウス・カエキリウス・メテッルスとグナエウス・カルボの執政官在職時(前一一三年)に、二人のメテッルス兄弟は、同じ日に、一方はサルディニアから、他方はトラキアからの凱旋式を行った(前一一一年)。そしてまた-que ローマに通知されたのは、キンブリ人たちがガリアからイタリアへ越えてきたことだった。

Ⅳ.26:(1) プブリウス・スキピオ・ナシカとルキウス・カルプルニウス・ベスティアの執政官在職時(前一一一年)に、ヌミディア王ユグルタに対して戦争が仕掛けられたinlatum est。というのも彼(ユグルタ)はアドヘルバルとヒエムプサルーー彼(ユグルタ)自身の兄弟ミキプサの息子たちで、王たちにしてローマ市民の友人たちーーを抹殺したからであるinteremisset。彼(ユグルタ)に対して送られたのが、執政官カルプルニウス・ベスティアだった。彼は王の金銭によって堕落させられcorruptus、彼(ユグルタ)ときわめて破廉恥なflagitiosissimam[ここのみ]和平を結んだが、それは元老院によって拒否された。  (2)  その後postea、まさにその彼(ユグルタ)に対して、翌年(前一一〇年)、スプリウス・ボストゥミヌス・アルビヌスが進発した。彼もまたquoque兄弟(アウルス)を介してヌミディア人たちと恥辱的にignominiose闘ったpugnavit。

Ⅳ.27:(1)  三度目に送られたのが、執政官クイントゥス・カエキリウス・メテッルスだった(前一〇九年)。彼は軍隊exercitum を並はずれた厳格さと控え目さでmoderatione[初出、他はVII.8.4, 21.1, 8.4, VIII.4, 12.2, 13.1, IX.9.1, 12]矯正させcorrectum、誰に対しても何ら残虐なことをcruentum せず、ローマ的規律へと連れ戻した reduxit。彼(メテッルス)はユグルタをあまたの戦闘でpproeliis 打ち負かしvicit、彼(ユグルタ)の象たちを殺したりそれともvel 捕獲したりしてcepit、彼の多くの都市を降伏により捕獲したcepit。そしてまさにjam 彼(メテッルス)が戦争に決着をつけようとしていた時、彼を継いだのがガイウス・マリウスだった(前一〇七年)。  (2)  彼はユグルタとマウレタニア王ボックスーー彼はユグルタへの支援をauxilium し始めていたーーを、双方ともpariter 負かしたsuperavit。ヌミディアの多少の町をaliquanta oppida 彼はまたもや捕獲しcepit、そしてまた戦争にbelloque 結末をつけたが、それは、並はずれた男にして彼の財務官であるコルネリウス・スッラを介してユグルタが捕らえられたからで、それはボックスがユグルタを引き渡したからであった、前にante 彼のために闘ったpugnaverat にもかかわらわず。  (3)  マルクス・ユニウス・シラヌスーー彼はクイントゥス・メテッルスの同僚だったがーーによって、キンブリ人たちはガリアで打ち負かされ(前一〇九年)、そしてミヌキウス・ルフスによってマケドニアでスコルディスキ人たちとトリパリ人たちが(前一〇九年)、そしてセルウィリウス・カエピオによってヒスパニアでルシタニア人たちが屈従させられたsubacti(前一〇七年)。  (4)  そして行われたのが、ユグルタからの二度の凱旋式で、まずprimus メテッルスによって(前一〇六年)、第二がsecundus マリウスによってだった(前一〇四年)。マリウスの戦車の前にそれでもtamen、ユグルタは二人の息子と共に鎖で繫がれて引っ立てられductus est、そしてすぐにmox 執政官の命令により牢獄内で絞殺された。

第五巻

Ⅴ.1:(1) 戦争がbellum ヌミディアでユグルタに対して行われている間にdum[初出、他にV.7.3,など7箇所]、ローマの執政官たちマルクス・マンリウスとクィントゥス・カエビオは、キンブリ人たちとテウトネス人たちとティグリニ人たちとアムブロネス人たちーー彼らはゲルマニアとガリアの諸部族だったーーによってロダヌス河畔で打ち負かされ、そして並はずれた皆殺しでinternicione、そのうえetiam 彼らの陣営と軍隊exercitus の大半を失った(前一〇五年)。  (2)  恐怖はローマで大変なもので、それはほとんどハンニバルのポエニ戦争時に匹敵した、再度iterum ガリア人たちがローマへと戻ってきた(時)ほどではないにしろ。  (3)  ゆえにergo、マリウスは、ユグルタからの勝利の後、二度目にsecundo 執政官とされ(前一〇四年)、そしてまた戦争がbellumque 彼にキンブリ人たちとテウトネス人たちに対して決議された。彼には三度目tertio と四度目quarto もまたquoque 執政官職が付託されたdelatus est(前一〇三年と前一〇二年)、なぜならquia キンブリ戦争がbellum 長引いていたからである。  (4)  しかし、四度目の執政官在職に、彼は同僚としてクイントゥス・ルタティウス・カトゥルスを持った。そしてかくしてitaque 彼はキンブリ人たちに奮戦しconflixit、そして二度の戦闘でproeliis 二十万の敵を打ち倒しcecidit、八万と彼らの首領ducem テウトボドゥスを捕獲しcepit、この功績のため、(ローマ)不在のまま五度目にquinto 執政官とされた(前一〇一年)。

Ⅴ.2:(1)  その間にinterea キンブリ人たちとテウトネス人たちは、彼らの兵力copiaは依然としてadhuc 数え切れないほどだったが、イタリアへと(アルペス山脈を)越えてやって来たtransierunt。再度iterum ガイウス・マリウスとクイントゥス・カトゥルスによって彼らに対し干戈が交えられたdimicatum est、しかしカトゥルスのほうがより幸運であった。  (2)  というのもnam、同時に両者が行った戦闘によってproelio、一四万人があるいはaut 闘いの中でin pugna、あるいはaut 逃亡中にin fuga 倒され、六万人が捕らえられた。ローマ兵たちは両軍で三〇〇人を失った。三十三の軍旗がキンブリ人たちから差し出されsublata sunt、これらのうちからマリウス軍は二つを持ち帰り、カトゥルス軍は三十一だった。これが戦争のbelli 終わりであった。凱旋式が両者に決議された。

Ⅴ.3:(1)  セクストゥス・ユリウス・カエサルとルキウス・マルキウス・フィリップスの執政官在職時、首都創建以来六五九年目(前九一年)に、ほとんどprope 他の全ての諸戦争はbella 終結していたが、イタリアで極めて由々しき戦争へとgravissimum bellum ピケンテス人たち、マルシ人たち、そしてまた-que ペリグニ人たちが動いたmoverunt、彼らは長年にわたってまさにローマ市民にpopulo Romano 従っていたが、そのときtum 公正のaequam 自由を我が物にしようとし始めた。この戦争はbellum まったくもってadmodum 致命的でperniciosum[初出、IX.7, 8, 19.1]あった。  (2)  執政官プブリウス・ルティリウスがこの(戦争)で殺されoccisus est(前九〇年),貴顕な青年juuenis カエピオ、もう一人の執政官ポルキウス・カトーも(殺された)(前八九年)。ところでautem ローマ人たちに対峙するピケヌム人たちとマルシ人たちにとっての将軍たちducesは、ティトゥス・ウェッティウス、ヒエリウス・アシニウス,ティトゥス・ヘレンニウス、アウルス・クルエンティウスだった。  (3)  ローマ人たちにとって、彼らに対する闘いは上首尾に行われたbene pugnatum est、(それは)六度目に執政官であったガイウス・マリウスによって、そしてグナエウス・ポンペイウスによって、殊にmaxime それでもtamen ルキウス・コルネリウス・スッラによって、であった。彼(スッラ)は、他のことどもでも諸々の卓越したegregia(成果)を挙げたが、敵の将軍ducem クルエンティウスを大兵力magnis copiis ともども撃破しfudit[初出、あとVI.21.3(落涙し), IX.18.1, X.4.3]、自軍からは一人しか失わなかった。 (4)  四年にわたって由々しきgravi 損害を伴いながら、それでもtamen この戦争はbellum 続いた。五年目にやっとdemum 執政官ルキウス・コルネリウス・スッラにより終結を迎えた(前八八年)が、それ以前にantea 同じ戦争でbello 彼は多くのことを活発にstrenue 成し遂げたが、それは法務官としてだった。

Ⅴ.4:(1) 首都創建の六六二年目(前八八年)、初めてローマで内戦が引き起こされ、同年そのうえミトリダテス戦争も(引き起こされた)。  (2)  内戦にbello civilis [初出、あとV.4.2, VI.25, VII.1.1, 9]原因を与えたのは、ガイウス・マリウスが六回執政官だったからである。というのもnam 執政官スッラが、アシアとアカイアを占領していたミトリダテスに対し、戦争をbellum 行うべく送られ、そしてまた-que 彼は軍隊をexercitum カンパニア内にしばらくの間paulisper 居続かせていたが、それは我々がすでに述べていたイタリア内で行われていた同盟市戦争の残党どもをreliquiae 引き揚げさせるためだったtollerentur[初出、他はIX.23, X.15.1]のだが、マリウスは自分自身がミトリダテス戦争へと送られることを熱望したadfectavit[初出、X.1.2, 5, 7.2のみ]。そのことでスッラは怒りに駆られて軍隊exercitu とともに首都へとやってきた。そこでillic マリウスとスルピキウスに対して彼は干戈を交えたdimicavit。彼は首都ローマに武装したまま入った最初(の人物)で、スルピキウスを殺害し,マリウスを追い払ったfugavit。かつまたatque かくしてita 翌年(前八七年)の執政官たちにグナエウス・オクタウィウスとルキウス・コルネリウス・キンナを定めてordinatis、彼はアシアへと進発した。

Ⅴ.5:(1)  たしかにenim ミトリダテスはポントゥス王で、かつまたatque 小アルメニアと全ポントゥス海(黒海)をボスフォルス(ボスフォロス)を含む周辺を掌握していたが、まずprimum ローマ市民の友人amicum populi Romani ニコメデスをビテュニアから追放することを欲し、そしてまた-que 元老院に彼が彼に戦争をbellum 行うであろうと通告した、(それは)彼が受けた数々の不正行為ゆえである、と。元老院からミトリダテスへの返答は、もしそんなことをするならローマ人たちへの戦争にbellum 自身も晒されることになろう、というものであった。  (2) それゆえにquare 怒った彼はカッパドキアをただちにstatim 占領し、そしてかの地から王でローマ市民のpopuli Romani 友人アリオバルザネスを追い払ったfugavit。すぐにmox そのうえetiam ビテュニアとパプラゴニアを強奪しinvasit、かの地(s.)からex ea 王たちでローマ市民の友人たちamicis populi Romani ピュラエメネスとニコネデスを撃退したpulsis。そこからinde エフェスス(エフェソス)へ彼は進んで赴いたcontendit,そして全アシアに向けて諸書簡を送った、(それに書かれていたのは)そしてまたどこであれubicumque 発見されれば、ローマ市民はciues Romani 即日uno die 殺されるべきである、と。

Ⅴ.6:(1)  その間にinterea そのうえetiam アカイアの都市ciuitas アテナエ(アテナイ)がアテナエ人アリスト(アリストン)からミトリダテスに委ねられたtradita est 。たしかにenim すでにiam アカイアへとミトリダテスが自身の将軍ducem アルケラウス(アルケラオス)を十二万の騎兵およびac 歩兵とともに送っていたしmiserat、彼(アルケラウス)によってそのうえetiam 残るグラエキアも占領されていたoccupata est。スッラはアルケラウスをアテナエから遠くないピラエウス(ペイライエウス)で攻囲し、アテナエ自体も捕獲したcapit。 (2)  その後posteaアルケラウスに対する戦闘がproelio 始まり、次のように彼を打ち負かしたuicit(前八六年)。(すなわち)十二万人のうち、かろうじてuixアルケラウス側で一万人が生き残りsuperessent、スッラの軍隊のうちexercitu 殺害されたのはたった十三人だった。この闘いpugna が知られると、ミトリダテスは最精鋭七万をアシアからアルケラウスに送り、彼に対して再度iterum スッラは戦った。最初の戦闘でproelio 一万五〇〇〇人の敵とアルケラオスの息子ディオゲネスが殺害された。二度目(の戦闘)で、すべてのミトリダテスの諸部隊copiae が消滅しextinctae sunt、アルケラウス自身は三日間無防備(裸)でnudus[初出、あとVII.15.1, VII.18.5, X.3.1]沼地に隠れた。このことを聞いて、ミトリダテスはスッラと和平を結ぶように命じたiussit。

Ⅴ.7:(1)  とかくするうちにinterim このとき、スッラはそのうえetiam ダルダニ人たち、スコルディスキ人たち、ダルマティア人たち、そしてマエディ人たちをも、一部はpartim 打ち負かしvicit、他の者たちは誓約をもってin fidem 受け入れた。  (2)  しかし、ミトリダテス王から(送られて)和平を要請していた使節団が来たときは、以下のようにスッラは返答した、もし王が占領していた諸処を放棄して自分の王国へとregnum 帰らredisset ないのならば、何も与えられないであろう、と。その後postea それでもtamen 会談へとad colloquium 両者はやってきて、和平が彼らの間で定められた(前八五年)。スッラは内戦へと急いでいたので、背後からの危険を持たないようにするためだった。  (3)  というのもnam スッラがアカイアかつまたatque アシアでミトリダテスを打ち負かしているvincit 間にdum、追い払われていたfugatus erat マリウスと執政官の一人であるコルネリウス・キンナが戦争をbellum イタリアで再開し、そして首都ローマへ入ると(前八七年)、元老院のきわめて貴顕な人々nobilissimos e senatu と執政官級の人物たちをconsulares viros 殺害し、多くの人々の公権を剥奪し、スッラ自身の邸宅を倒壊し尽くしeversa、息子たちと妻を逃亡へとad fugam 追い込んだ。  (4)  残る元老院すべて(s.)が、首都から逃亡しfugiens、グラエキアのスッラのもとへと行き、祖国を助けるように懇願する。彼(スッラ)は、イタリアへと渡った(前八三年)、内戦を執政官ノルバヌスとスキピオに対して行うためだった。最初の戦闘でproelio ノルバヌスに対し、カプアからそれほど遠くない所でno longe 彼は干戈を交えたdimicavit。そのときtum 彼(ノルバヌス)方の六〇〇〇を打ち倒しcecidit、六〇〇〇を捕獲しcepit、自軍は一二四を喪失したamisit。そこからinde そのうえetiam スキピオへと転進し、そして戦闘に先立ちante proelium 彼のすべての軍隊をexercitum 流血なくして降伏でin deditionem 受け入れた。

Ⅴ.8:(1) しかし、ローマで執政官たちが取り替えられ、マリウスの息子マリウスおよびac パピリウス・カルボが執政官職を引き受けた時に(前八二年)、スッラは小マリウスに対して干戈を交えdimicavit、彼(マリウス方)の一万五〇〇〇を殺し、自身からは四〇〇を失った。すぐにmox そのうえetiam 彼(スッラ)は首都へと入った。マリウスの息子マリウスを追跡して、プラエネステを攻囲し、死へと追い込んだ。再びrursus、きわめて由々しき闘いをpugnam gravissimam マリウス派の将軍たちduces ランポニウスとカリナスに対してコッリナ門でもった。敵七万がその戦闘でproelio スッラに対峙したと言われている。一万二〇〇〇がスッラに降伏したが、残りの者たちは、戦列内でacie、陣営内で、逃亡中にin fuga、勝利者たちの飽くなき怒りによって(生命を)奪い尽くされたconsumpti sunt 。 (2) 執政官グナエウス・カルボ もまたquoque 、アリミヌムからシキリアへと逃亡したfugit、そしてそこでグナエウス・ポンペイウスによって殺害された。スッラはかつまたatque 二十一歳の未成年であるadulescentem[初出]彼(ポンペイウス)に、その精励ぶりをindustria[初出]認めて諸軍隊exercitibus の指揮を任せており、スッラにより二番目としてみなされていた。

Ⅴ.9:(1) ゆえにergo カルボは殺され、シキリアをポンペイウスは取り戻した(前八二年)。そこから彼はアフリカへと渡り、マリウス派の将軍ducemドミティウスと、マウレタニア王ヒエルダを殺した。彼がドミティウスを支援auxilium していたからである。これらの後に、スッラはミトリダテスから並はずれた栄光ingenti gloria とともに凱旋式を挙行した(前八一年)。そのうえetiam グナエウス・ポンペイウスは、ローマ人たちの誰にもこのようなことは認められたことはなかったが、二十四歳になっていた彼が、アフリカからの凱旋式を挙行した。 (2) かくて非常に不幸な二つの戦争がbella 終局を迎えた。同盟市戦争とも言われるイタリア(戦争)と、内(戦)ciuile で、両者(の戦争)は十年にわたって続いた。ところでautem(それらの戦争が)奪い尽くしたconsumpserunt のは、十五万人以上で、執政官級の人物二十四名、法務官級七名、按察官級六十名、元老院議員約二〇〇名であった。

第六巻

Ⅵ.1:(1) マルクス・アエミリウス・レピドゥスとクィントゥス・カトゥルスの執政官職時(前七八年)、スッラが国家を取りまとめたcomposuisset 時に、新たな諸戦争がbella nova 勃発した。一つはヒスパニア、もう一つはパンフュリアとキリキア、三つ目はマケドニア、四つ目はダルマティアだった。 (2) というのも、マリウス派だったセルトリウスが、抹殺されていたinterempti 他の者たちの運命を恐れて、戦争へとad bellum ヒスパニア諸州を扇動したからだった。彼に対し送られたのは将軍たちduces、ユグルタ王を打ち負かしたvicit人物の息子クイントゥス・カエキリウス・メテッルスと、法務官ルキウス・ドミティウスだった。 セルトリウスの将軍duce ヒルトゥレイウスにより、ドミティウスは殺されたoccisus est。メテッルスは紆余曲折の経過によりuario successu セルトリウスに対し干戈を交えたdimicavit。その後postea 闘いにpugnae 単独は不利であると思われたので、グナエウス・ポンペイウスがヒスパニア諸州へと送られた。 (3) かくして、二人の将軍たちにducibus 対峙されて、セルトリウスは運命の浮き沈みとともにfortuna uaria(s.)、しばしばsaepe 闘ったpugnauit。八年目についにdemum 彼は自分の部下たちによって殺されoccisus est(前七二年)、そしてこの戦争にei bello 終止符が打たれたのはfinis datus、未成年のadulescentem グナエウス・ポンペイウスとクイントゥス・メテッルス・ピウスによってであった。かつまたatque 全ヒスパニアはほとんどprope ローマ市民populi Romani の主権の中にin dicionem[初出、あとはVI.3,IX.13.1のみ]置かれた(前七一年)。

Ⅵ.2:(1) マケドニアへと送られたのは、執政官職(前七九年)後post consulatum のアッピウス・クラウディウスだった(前七八年)。諸々の小競り合いをleuia proelia 彼は属州ロドペに居住していたさまざまな諸部族gentes とし、かつまたatque その地で病死した(前七六年)。 (2) そこに送られたのは、後継者ガイウス・スクリボニウス・クリオで、執政官職(前七六年)後post consulatum のことだった。彼はダルダニ人たちを打ち負かしvicit、そしてダヌビウス(河:現ドナウ河)に至るまでusque ad Danubium 入り込みpenetravit[初出]、そしてまた-que 凱旋式を得てmeruit、そして三年のうちに戦争にbello 終止符をもたらしたfinem dedit(前七四年)。

Ⅵ.3:キリキアとパンフュリアへと、送られたのは、元執政官ex consule(在職:前七九年)のプブリウス・セルウィリウスだった。彼は活発なstrenuus 人物だった。彼はキリキアを押さえ込みsubegit、リュキアで最も傑出していた諸主都をurbes 攻囲しそして捕獲したがcepit、それらの中には、ファセリスやオリュンプス(オリュンポス)、キリキアでコリュクス(コリュコス)がある。彼はイサウリ人たちもまたquoque 襲撃し、主権内にin dicionem 移しredegit、かつまたatque 三年のうちに戦争にbello 終止符をもたらしたfinem dedit(前七四年)。彼は全ローマ人の中で初めて、タウルス(タウロス)(山中)に道をつくった。(ローマに)帰還したrevertens 彼は凱旋式を受け入れ、そしてイサウリクスの名を得たmeruit。

Ⅵ.4イリュリクムへと送られたのは、執政官相当pro consuleのガイウス・コスコニウスだった。彼はダルマティアで広範な部分を押さえ込んだsubegit。彼はサロナエを捕獲しcepit、そして戦争を処理して、ローマへと二年後に帰ったrediit。

Ⅵ.5:(1) 同じ諸時期にisdem temporibus (pl.)、執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥスが、カトゥルスの同僚だったが、内戦を引き起こすことを望んだが(前七八年)、それでもtamen 一夏のうちに彼の動きは鎮圧された(前七七年)。 (2) こうして、短期間にuno tempore(s.)、多くの凱旋式が同時に[次々と]simul 挙行された、すなわち、メテッルスのヒスパニアからの、ポンペイウスの二度目がヒスパニアからの、クリオのマケドニアからの、セルウィリウスのイサウリアからの、である。

Ⅵ.6:(1) 首都創建六七六年目に、ルキウス・リキニウス・ルクッルスとマルクス・アウレリウス・コッタの執政官在職時に(前七四年)、ビテュニア王ニコメデスが死去し、そして遺言でローマ市民をpopulum Romanum 相続人とした。 (2) ミトリダテスは和平を破り、ビテュニアとアシアをまたもやrursus 強奪することをinvadere 望んだ。彼に対して両執政官が送られ、彼らは運命の浮き沈みを体験したuariam habuere fortunam。コッタは、カルケドン付近において、彼(ミトリダテス)により戦列でacie 打ち負かされ、そのうえetiam 町の中にintra oppiodim 追い込まれ、そして包囲された。 (3) しかし、そこからinde ミトリダテスが自らキュジクス(キュジコス)へ移動したときにtranstulisset、キュジクスを占領した上で、全アシアを強奪しようinvaderet としたので、もう一人の執政官ルクッルスが彼に対峙した。およびac、ミトリダテスがキュジクスの包囲に手間取っている間にdum、彼自身(ルクッルス)が彼を背後から包囲し、そしてまた-que 飢餓で疲弊させ、そして多くの諸戦闘によってmultis roeliis 打ち負かし、最終的にpostremo ビュザンティウム(ビュザンティオン)へと追い払ったfugauit が、そこは今やnunc コンスタンティノポリスである。(一度のs.)艦隊戦でもまたnauali quoque proelio 彼の将軍たちをルクッルスは制圧した。かくしてita、一冬と一夏でuna hieme et aestate ルクッルスによってだがad 王のおよそfere 十万が消滅したextincta sunt。

Ⅵ.7:(1) 首都ローマの六七八年目に(前七二年)、マケドニア属州をマルクス・リキニウス・ルクッルスが受け取った、彼は、ミトリダテスに対して戦争をbellum おこなっていたルクッルスの従兄弟である。 (2) そして、イタリア内で新たな戦争がnovum bellum すぐにsubito 引き起こされた。というのもenim 七十四人の拳闘士たちが、指導者duce(s.)スパルタクス、クリクスス、そしてオエノマウスによって、カプアの(剣闘士)養成所を打ち壊して逃亡したfugerunt。そして彼らはイタリア中を動き回り、そこでin ea ハンニバルが(以前)起こしたmoveratのにほとんどpaene 劣ることのない戦争をbellum 準備したparaverunt。というのもnam、彼らは多くの将軍たちducibus、そしてローマ人たちの二人の執政官たちを同時にsimul 打ち負かしuictis、ほぼfere 六万の武装者たちの軍隊をexercitum 集めたからである。そしてまた-que 彼らはアプリア内で執政官格のpro consule マルクス・リキニウス・クラッススによって打ち負かされuictis、そしてイタリアでの多くの災禍の後に、三年目にこの戦争にbello 終止符が定められたest finis inpositus(前七一年)。(ティグラネスのアルメニア王国最大時、BC69年:基本的に「小アルメニア」はローマ帝国内の地域名で、「大アルメニア」はペルシアとの緩衝王国)

Ⅵ.8:(1) 首都創建六八一年に、プブリウス・コルネリウス・レントゥルスとグナエウス・アウフィディウス・オレステスの執政官在職時に(前七一年)、わずかに二つの由々しき戦争がgravia bella ローマ帝国内であった。ミトリダテスのと、マケドニアの、である。それら(の戦争)に二人のルクッルスたち、ルキウス・ルクッルスとマルクス・ルクッルスがあたっていた。 (2) ゆえにergo、ルキウス・ルクッルス は、キュウジクスでの闘いでpugnam、ミトリダテスを打ち負かし、そして彼の将軍たちを制圧した海戦navalemの後で、彼を追跡した、そしてパフラゴニア、かつまたatque ビテュニアを取り戻しrecepta、そのうえetiam 彼の王国をregnum 強奪しinvasit、ポントゥスのきわめて名高い諸都市civitates nobilissimas シノペとアミスス(アミソス)を捕獲したcepit。 (3) 第二の戦闘のためproelio、都市カビラ(カベイラ)近郊で、そこに ミトリダテスは並はずれた軍勢を全王国からex omni regno 率いていたが、王の最精鋭三万はローマ人たち五〇〇〇の兵によって荒らされたのでvastata essent、ミトリダテスは追い払われfugatus est、彼の陣営は略奪された。彼が掌握していた小アルメニアもまたquoque 同じ人物(ルクッルス)に差し出された。 (4) それでもtamen ミトリダテスは逃亡後post fugam、アルメニア王ティグラネスに保護された。彼(ティグラネス)はそのときtum 並はずれた栄光で支配していた人物で、ペルシア人たちをしばしばsaepe 打ち負かし、メソポタミア、そしてシュリア、そしてフォエニケ(フォイニケ)の一部を占領していた。

Ⅵ.9:(1) ゆえにergo、ルクッルスは追い払われたfugatum 敵を再攻撃して、アルメニア人たちに命令権を行使していたimperabat ティグラネスの王国へと進撃した。彼はアルザネア(地方)のティグラノケルタという、アルメニア人の王国のきわめて名高い都市civitatem nobilissimam を捕獲しcepit(前六九年)、王自身を、(彼が)七五〇〇の重装騎兵たちclibnariis、そして弓兵たちsagittariorum と武装兵たちのarmatorum 十万と共にやって来たので、彼(ルクッルス)が手持ちの一万八〇〇〇の兵でもって打ち負かしvicit 、アルメニア人たちの(軍隊の)大部分を抹殺した。そこから、彼(ルクッルス)はニシビスへと進発すると、この都市をもまたquoque 王の一人の兄弟とともに捕獲したcepit(前六八年)。 (2) しかし、かの輩ども、即ちポントゥスにルクッルスが軍隊のexercitus の一部と共に残しておいた者たちなのだが、それは打ち負かされかつ今やiam ローマ人たちのものとなった諸地域を防衛するためであったが、自らを省みることなく、そして強欲に振るまったために、再びiterum ミトリダテスがポントゥス内に押し入るinrumpendi[初出、あとVII.5のみ ]機会を与えることになり、かつまたatque かくしてita 戦争がbellum 再開された。ルクッルスが獲得されたニシビスで、彼がペルシア人たちに対する遠征を準備していてparanti、後任が送られたのである。

Ⅵ.10:ところでautem、別のルクッルスはマケドニアを管理していたがadministrabat、ローマ人たちの中でベッシ(ベッソイ)人たちに戦争をbellum 仕掛けたintulit 最初の人であり、かつまたatque 彼らをハエムス(ハイモス)山中での並はずれた戦いでproelio 負かしたsuperavit。ベッシ人たちが住んでいた町oppidum ウスクダマを、彼が襲撃したのと同日に 打ち負かしvicit 、カビュレを捕獲しcepit、 ダヌビウス(河)に至るまでusque ad 入り込んだpenetravit。そこからinde ポントゥス(海沿岸)にある多くの諸都市をcivitates 襲撃した。そこでアポロニアを完全に倒壊し尽くしevertit、カラティス、パルテノポリス、トミイイ(トミス)、ヒストルム、ブルジアオ(ブルジアオン)を捕獲しcepit、そしてまた戦争にbelloque 決着をつけconfecto、ローマへと帰ったrediit (前七一年)。両者は(別々に)凱旋式を挙行したが、それでもtamen ミトリダテスに対して闘っていたpugnaverat ルクッルスがより大きな栄光をgloria 伴った、というのも、これほどの諸王国の勝利者として帰ったredisset からである。  

Ⅵ.11:(1) マケドニア戦争はbello 決着しconfecto、ミトリダテス(戦争)が存続していてmanente、ルクッルスが戻った後、王が援軍をauxiliis 集めて再開し、クレタ戦争がbellum 始まった。 (2) そこへと送られたクイントゥス・カエキリウス・メテッルスは、並はずれた諸戦闘によってproeliis 三年のうちに属州全体を捕獲したcepit(前六七ないし六六年)。そしてまた-que 彼はクレティクスと呼ばれ、かつまたatque(クレタ)島に関する凱旋式を挙行した(前六二年)。 (3) この頃リビュアもまたquoque ローマ帝国に、そこの王だったアッピオ(アピオン)の遺言により、加わったaccessit。その中にはよく知られていた諸主都urbes、ベレニケ、プトレマイス、キュレネがあった。   

Ⅵ.12:(1) これらのことがなされている間にdum、海賊たちがあらゆる海域を脅かしていたので、全世界の勝利者たるローマ人たちにとって、唯一船旅が安全でなかった。そのゆえに、その戦争がbellum グナエウス・ポンペイウスに(元老院によって)決議された(前六七年)。それを彼はわずか数ヶ月のうちに、並はずれた幸運にも迅速さにも(恵まれて)決着をつけたconfecit。 (2) すぐにmox 、彼にはミトリダテス王とティグラネス(王)に対する戦争もbellum そのうえetiam 付託されたdelatum(前六六年)。それを受領した彼は、ミトリダテスを小アルメニア内で夜の戦闘でnocturno proelio 打ち負かしvicit、陣営を掠奪しdiripuit、彼の四万を殺したが、自分の軍隊からはexercituたった二十人、そして二人の百人隊長を失ったのみだった(前六五年)。ミトリダテスは妻[s.]と二人の側近とともに逃亡したfugit。 (3) ほどなくしてneque multo post、彼は自分の部下たちに怒りをぶちまけsaeviret[初出、VII.12.3]、彼の息子ファルナケスによって、兵士たちの面前で暴動でseditione 死へと強いられ、毒薬をあおった。かくのごとき最期をミトリダテスは迎えたのである(前六三年)。ところでautem 彼が亡くなったのはperiit ポスフォルス(王国)においてで、この人物は並はずれた精励ぶりindustriae そしてまた賢慮をconsiliique[初出、] もっていた。彼は六十年間統治し、七十二年間生きvixit、ローマ人たちに対して戦争をbellum 四十年間行なった。

Ⅵ.13:ティグラネスにそれからinde ポンペイウスは戦争をbellum 仕掛けたintulit(前六六年)。その者(ティグラネス)は彼に降伏しse dedidit、そしてポンペイウスの陣営にアルタクサタから第十六里程標に赴き、およびac 彼のディアデマ(冠帯)を、ポンペイウスの膝下へと平伏した時に、彼(ポンペイウス)自身の両手の中に置いた。それをポンペイウスは彼に返還し、そしてまた-que 名誉をもって彼を遇したが、それでもtamen 王国の一部と多額の(賠償)金で罰した。彼(ポンペイウス)に剥奪されたのはadempta、シュリア、フォエニケ(フォイニケイア)、ソファネネ(ソフェネ)であった。加えてpraeterea 銀六〇〇〇タレントゥムが、ローマ市民populo Romano に支払うように通告されたindicta、なぜならquia 彼が戦争を理由なくローマ人たちにもたらしたためだった。

Ⅵ.14:(1) ポンペイウスはすぐにそのうえmox etiam アルバニア人たちに戦争をbellum 仕掛けintulit、そして彼らの王オロデスを三度打ち負かしvicit、最終的にpostremo 諸書簡およびac 諸々の献上品によって懇請されたので、そして彼に赦免およびac 平和とを与えた。ヒベリアの王アルタケスもまたquoque 彼(ポンペイウス)は戦列でacies 打ち負かしvicit、そして降伏を受け入れた。彼は小アルメニアをタラティア王デイノタルス(デイオタロス)に贈ったdonavit、なぜならquia 彼がミトリダテス戦争で同盟者socius だったからである(前六四年)。彼は、アッタルスとピュラエメネスにパフラゴニアを返還したreddidit。アリスタルクス(アリスタルコス)をコルキス人の王に据えた。すぐにmox、彼はイトゥラエア人たちとアラビア人たちを打ち負かしたvicit(前六三年)。 (2) そして、シュリアに到着すると、アンティオキア(アンティオケイア)近隣の都市セレウキア(セレウケイア)に自由を贈ったがdonavit、それは(セレウキアが)ティグラネス王を受け入れなかったからである(前六三年)。アンティオキア人たちには人質たちを返還したreddidit。かなりの農耕地をダフネ人たちには引き渡したが、それはそこの聖なる森がより広大になるようにするためだった。彼は、(その)土地の心地よさamoenitate[初出、他はX.2.3のみ]と水の豊富さに魅了されていたのである。そこからinde ユダエアへと彼は移動すると、(その)部族の首都capto gentis ヒエロソリュマ(エルサレム)を三ヶ月で捕獲しcepit、一万二〇〇〇のユダエア人たちを殺し、残りの者たちを誓約をもってin fidem 受け入れた。これらのことをなして、彼はアシアへと立ち帰り、そして(ミトリダテスとの)非常に古くからの戦争にbello 終焉をもたらした。

Ⅵ.15:弁論家マルクス・トゥッリウス・キケロとガイウス・アントニウスの執政官在職時、首都創建以来六八九年目(前六三年)に、ルキウス・セルギウス・カティリナ、きわめて貴顕な一族の人物nobilissimi generis vir、しかしながら生来並はずれて堕落した人物が、祖国を破滅へと、幾人かのquibusdam 無論quidem 傑出してはいるがclaris、しかし無謀な人物たちとともに、共謀したconiuravit[初出、他はVI.25のみ]。キケロによって彼は首都から追放されたexpulsus est 。彼の相棒たちはsocii 牢獄に捕らえられて絞殺された。もう一人の執政官アントニウスによって、カティリナ自身は戦闘でproelio 打ち負かされ、そして殺害された(前六二年)。

Ⅵ.16:首都創建の六九十年目、デキムス・ユニウス・シラヌスとルキウス・ムレナの執政官在職時に(前六二年)、メテッルスはクレタからの、ポンペイウスは海賊とミトリダテスの凱旋式を挙行した。かつて(この)凱旋行進に同様なsimilis(ほど盛大な)ものはなかった。彼(ポンペイウス)の戦車の前を連行されたのは、ミトリダテスの息子たち、ティグラネスの息子、そしてユダヤ人たちの王アリストブルスであり、並はずれた財宝、量りきれないほどの重さの金、かつまたatque 銀が(見物人の前を)運び示されたpraelata est。このときに、全世界を通じて深刻な戦争はbellum なくなった。

Ⅵ.17:(1) 首都創建六九三年目に、後にpostea 命令権を行使したガイウス・ユリウス・カエサルが、ルキウス・ビブルスとともに執政官とされた(前五九年)。彼に(元老院によって)決議されたのはガリアとイリリクムで、十個軍団付きだった。 (2) 彼は最初のヘルウェティイ人たちーーいまやnunc セクアニ人たちと呼ばれているーーを打ち負かしvicit (前五九年)、それからdeinde きわめて由々しき諸戦争を通じてper bella gravissima 勝利することによって、ブリタンニアの大海(オケアヌス)に至るまでusque ad 進軍した(前五六年)。 (3) ところでautem 彼は、九年間ですべてのガリアをほぼ押さえ込んだdomuit[初出、IX.20.3, 23]、それは、アルペス(山脈)、ロダヌス河、レヌス(河:現ライン河)、そして大海(オケアヌス)の間にあり、その周囲については三百二十万バッススに及ぶ。ブリタンニア人たちにすぐにmox 彼は戦争を仕掛けたbellum intulit(前五五、五四年)、 彼らには彼以前にローマ人たちの名は無論quidem 知られていなかった。そしてまた-que 彼らを打ち負かしvicit、(カエサルは)人質たちを受け入れた上で貢納をstipendiarios[ここのみ]課した。ガリアではところでautem 貢税の名のもとにtributi nomine 年間四十(四千)万セステルティルスの租税stipendium を命じ、そしてまた-que ゲルマン人たちをレヌス(河)を越えて襲撃し、きわめて凄惨な諸戦闘でproeliis 打ち負かした(前五五、五三年)。この合間にそれほど成功した彼は、三度不首尾な闘いをしたpugnavit、一度はsemel 彼がいるときにアルウェルニ人たちのところにおいて(前五二年)、そして彼の不在時にゲルマニアにおいて二回bis あった。というのも彼の二人の総督代理たちlegati、ティトゥリウスとアルンクレイウスが諸々の奸計によって per insidias 倒されたからである(前五四年)。

Ⅵ.18:(1) ほぼ同じころ、首都創建六九七年目にマルクス・リキニウス・クラッススがグナエウス・ポンペイウス・マグヌスの同僚として、二度目の執政官職在職時に(前五五年)、パルティア人たちに対して送られた。そして彼はカッラエ付近で一つの前兆と(幾度かの)鳥占いに反して干戈を交えたdimicasset ときに、オロデス王の将軍duce スレナ(スエナス)によって打ち負かされ、最終的にad postremum きわめて傑出しclarissimo そしてきわめて注目すべきpraestantissimo 青年iuvene であった息子とともに殺害されてしまった(前五四年)。 (2) 軍隊exercitusの残りは、財務官ガイウス・カッシウスによって救われたservatae sunt[初出、あとIX.11のみ]。彼は特異な精神によってsingulari animo、絶望的諸状況を多大な武徳によって回復させたrestituit。つまりペルシア人たちをエウフラテス河を越えて帰るrediens 途中の彼が幾多の戦闘でproeliis 打ち負かしたのである(前五二〜五一年)。

Ⅵ.19:(1) ここからまさにhinc iam 、忌まわしく悲しむべき内戦が続き、それによってquo 諸戦闘内でin proeliis 生じた災禍に加えて、そのうえetiam ローマ市民populi Romani の運命まで取り替えられてしまった。 (2) というのはカエサルがガリアから勝利者として帰りrediens、二度目の執政官職を、かつまたatque(誰からも)疑われることなく、彼にもたらされるようにと求め始めたからである(前五一〜五〇年)。そのことは執政官のマルケッルス、ビブルス、ポンペイウス、カトーによって反駁され、そしてまた-que 彼は諸々の軍隊exercitibus を解散した上で首都に帰るredire よう命令された。その侮辱行為のゆえに、彼はアリミヌム(現リミニ)から、彼がそこに兵士たちの集めていたのだが、祖国へ向けて軍隊とともにexercitu 到来した(前四九年)。 (3) 執政官たち、ポンペイウスそしてまた-que 全元老院、かつまたatque あらゆる貴顕階級nobilitas が首都から逃亡しfugit (s.)、グラエキアへと渡ったのであるtransiit (s.)。エピルス、マケドニア、アカイアで、ポンペイウスを将軍としてduce、元老院はカエサルに対して戦争を準備したbellum paravit。 

Ⅵ.20:(1)  カエサルは人気(ひとけ)のない首都に入り、独裁官に自らを任じた。それからinde ヒスパニア諸州へと急行したpetiit。その地でポンペイウスの諸軍隊の中でexercitus もっとも精強で勇猛な者どもを、三人の将軍たちdubious 、ルキウス・アフラニウス、マルクス・ベトレイウス、マルクス・ウァッロもろとも負かしたsuperavit。 (2) そこからinde 帰還したregressus 彼はグラエキアへ渡り、ポンペイウスに対して干戈を交えたdimicavit。最初の戦闘でproelio 彼(カエサル)は打ち負かされ、そして追い払われたがfugatus、脱出しえたevasit。それでもtamen なぜならquia、夜になり、ポンペイウスが追跡しようとしなかったからである。そしてまた-que カエサルは言った、「ポンペイウスは勝つすべを知らない」、そして「彼はその日十分にtantum 自分を負かすことができたのに」と。 (3) それからdeinde テッサリアのパラエオファルサルス(ファルソス)で、彼らは双方とも並はずれた諸軍勢をcopiis 率いて干戈を交えたdimicaverunt。ポンペイウスの戦列はacies 四万の歩兵、騎兵が左翼に六百、右翼に五百、 加えてpraeterea 全東方からの援軍auxiliis、あらゆる貴顕階級nobilitatem、数え切れない元老院議員たち、法務官格たち、執政官格たちがいた、そして彼らはまさにiam (過去の)大いなる諸戦争のmagnorum bellorum 勝利者たちだった。カエサルは自身の戦列に in acie sua 無傷とはいえないnon integra 歩兵三万、騎兵一〇〇〇を保持していた。

Ⅵ.21:(1) そのときまでadhuc これほど大勢のローマの諸軍勢copiae がひとつの場所に、これほど優れた将軍たちによってdubious 集まったことは決してなかったnumquam、全世界をたやすくfacile 屈従しえたsubacturaeであろうに、もしも(これらの軍勢が)蛮族たちに対して率いられたのならば。 (2) それでもtamen 並はずれた激烈さでもって闘いが行われpugnatum est、そしてまた-que 最終的にpostremum ポンペイウスは打ち負かされ、そして彼の陣営は掠奪されたdirepta sunt。 (3) 彼自身は追い払われてfugatus アレクサンドリアへと急行したpetiit、なぜなら彼は、アエギュプトゥス王から援軍をauxiliis 受け取るためであった。かつて(ポンペイウスは)後見人に元老院によって彼(エジプト王)の若さiuvenilem ゆえに任じられていたのである。友誼amicitiam よりも運命につき従った彼(エジプト王)は、ポンペイウスを殺した。彼の首級と指輪をカエサルに彼は送った。これを見て、カエサルはそのうえetiam 落涙したfudisse と言われている、偉大な人物にしてかつてquondam 彼の義理の息子(だった人物)の首級を見つめながら(前四八年)。

Ⅵ.22: (1) すぐにmox そのうえetiam カエサルはアレクサンドリアにやって来た。彼に対してもまたquoque プトレマエウスは諸々の奸計をinsidias 準備することをparare 望み、これが原因で、戦争が王に対して起こされたinlatum est。打ち負かされた彼はニルス(ネイロス)河中で亡くなりperiit、そしてまた-que 彼の遺体は金製の甲冑とともに見つけられた(前四七年)。 (2) カエサルはアレクサンドリアを得て、王位をregnum プトレマエウスの姉クレオパトラに引き渡したが、彼女と恥ずべき情交を交わしていた。そこからinde 帰るrediens 途中、カエサルはファルナケス、つまり大ミトリダテスの息子が、ポンペイウスを支援してin auxilium fuerat 、テッサリアにいたのだが、ポントゥスで反乱を起こし、そしてローマ市民populi Romani の多くの諸属州を占領していたのを、戦列でacie 打ち負かしvicit,その後postea 死へと追い込んだ(前四七年)。

Ⅵ.23:(1) そこからinde 彼(カエサル)はローマへと帰還するとregressus(前四七年)、マルクス・アエミリウス・レピドゥスーー前年に独裁官の騎兵長官だったーーと共に、自らを三度目のtertio 執政官に任じた(前四六年)。そこからinde アフリカへと進発したが、その地で数え切れないほどの貴顕階級nobilitas がマウレタニア王ユバと共に戦争をbellum 再開していたからである。 (2) ところでautem ローマの将軍たちはduces、スキピオ・アフリカヌスの非常に古い家系出身であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ(彼はポンペイウスの義父でもあった)、マルクス・ペトレイウス、クイントゥス・ウァルス、マルクス・ポルキウス・カトー、独裁官スッラの息子ルキウス・コルネリウス・ファウストゥスだった。 (3) 彼らに対して戦闘がproelio 始まり、多くの激戦の後にpost multas dimicationes 勝者となったのはカエサルだった。カトー、スキピオ、ペトレイウス、ユバ、この者たちは自殺した。ファウストゥスはかつてのquondam 独裁官スッラの息子で、ポンペイウスの娘婿だったが、カエサルによって殺害された。

Ⅵ.24:一年後、カエサルはローマへと帰還しregressus、四度目の執政官へと自らを任じ、そしてただちにstatim ヒスパイニア諸州へと進発した(前四六年末)。そこでubi ポンペイウスの息子たちグナエウス・ポンペイウスとセクストゥス・ポンペイウスが大がかりなingens戦争を前もって準備していたからである。多くの戦闘がproelia あり、最後のそれは都市ciuitatem ムンダだった(前四五年)。そこでとりわけadeo カエサルはほとんどpaene 打ち負かされ、自軍が逃亡したためにfugientibus 自殺を望んだほどであった。そのことはこれほどの軍事的栄光のgloriam後、五十六歳で未成年たちのadulescentium 手中に堕ちることのないようにするためだった。結局のところdenique 彼は自軍を再結集し、打ち負かしたvicit。ポンペイウスの年上は殺されoccisus est、年下は逃亡したfugit。

Ⅵ.25: そこからinde カエサルは、全世界での諸々の内戦を処理したのでcompositis、ローマへと帰ったrediit。彼はより傲慢に振る舞い始め、そしてローマの自由の慣習に反するようになった。ゆえにergo そしてそれ以前にantea 市民populo によって与えられていた諸顕職をhonores 彼の意向で授けたり、元老院(議員)が彼へとやって来ても立ち上がらなかったり、そしてまた-que 他の事どもでも王のごとく、そしてほとんどpaene 暴君のごとく行ったので、彼に六十人それともvel それ以上のローマの元老院議員そしてまた-que 騎士身分たちによって共謀が企てられたconiuratum est。共謀者たちの中の主要人物たちは、二人のブルトゥスーー彼らはローマで最初の執政官でそして王たちを追放したかのブルトゥス氏の出身であるーー、そしてガイウス・カッシウスもセルウィルウス・カスカもだった。ゆえにergo カエサルは元老院の(開催)日に他の者たちの中でクリアへとやって来た時、二十三箇所の傷で刺し殺された(前四四年三月一五日)。

第七巻

Ⅶ.1:(1) 首都の七〇〇とほぼfere 七〇九年目(前四四年)、カエサルが殺害され,諸々の内戦が再開された。というのもenim カエサルの暗殺者たちに元老院が好意的だったからである。カエサル派の執政官アントニウスは、諸々の内戦で彼らを制圧しようとしていた。ゆえにergo 国家が混乱に陥り,多くの犯罪行為をscelera アントニウスは犯していたので、元老院によって敵であると審判された。 (2) 追跡するために彼へと送られたのが、二人の執政官パンサとヒルティウス、そして十八歳の未成年adulescens オクタウィアヌスであった(前四三年)。彼はカエサルの孫nepos (実際は大甥)であり、彼をかの者(カエサル)は遺言状によって相続人として残し、そして自らの名を称するよう命じていた。彼こそがその後postea アウグストゥスと呼ばれ、そして国権を握ったのである。そのゆえにquare アントニウスに対し進発した三人の将軍たちはduces 彼を打ち負かした。それでもtamen 勝利者である両執政官は没してしまった。そのゆえにquare 三者の諸軍隊はexercitus 一人カエサル・アウグストゥスに従うことになったのである。

Ⅶ.2:(1) 追い払われたfugatus アントニウスは軍隊をexercitu 喪失してamisso、レピドゥスへと逃げ込んだconfugit。彼はカエサルの騎兵長官だったが、そしてそのときtum 兵士たちの大軍勢を保持していた。その者(レピドゥス)によって彼(アントニウス)は受け入れられた。すぐにmox レピドゥスの尽力で、カエサル(アウグストゥス)は和平をアントニウスと結び、そしてまるでquasi 彼の父の死を復讐しようとするかのようにーーその彼によって遺言状を通して養子とされていたのでーー、ローマへと軍隊exercitu と共に進発し、自分に二十歳で執政官職が与えられるよう強要した。 (2) 彼は元老院を公権剥奪に処しproscripsit、アントニウスおよびac レピドゥスと共に国家を軍事力によって掌握し始めた。彼らによってそのうえetiam 弁論家キケロが殺されoccisus est、そしてまた-que 多くの他の貴顕階層もalius nobilis そうされたのだった。

Ⅶ.3:(1) その間にinterea カエサルの殺害者たちブルトゥスとカッシウスが並はずれた戦争を引き起こしたmoverunt。というのもenim、マケドニアとオリエンスには、彼らが掌握していたoccupaverant 多くの軍隊exercitusがいたのである。こうしてigitur、彼らに対して、カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥスとマルクス・アントニウスが進発した、たしかにenim イタリアを守るためレピドゥスは残留していた。マケドニアの主都urbem フィリッピ(フィリッポイ)で彼らに対して、彼らは闘ったpugnaverunt(前四二年)。 (2) 最初の戦闘でproelio 打ち負かされたのはアントニウスとカエサルだったが、それでもtamen 貴顕階級のnobilitatis 将軍カッシウスは亡くなりperiit、二度目には、ブルトゥスと、打ち負かされた彼ら(カッシウスとブルトゥス)と共に戦争をおこなった数え切れないほどの貴顕階級をinfinitam nobilitatem 、彼ら(アントニウスとオクタウィアヌス)は打ち負かし殺害した。 (3) およびこうしてac sic 彼らの間で国家は分割された、すなわちut アウグストゥスはヒスパニア諸州、ガリア諸州、そしてイタリアを掌握し、アントニウスはアシア、ポントゥス、オリエンスだった。 (4) しかしイタリアでは、執政官ルキウス・アントニウスが内戦を引き起こした(前四一年)。彼はカエサル(オクタウィアヌス)と共に、ブルトゥスそしてカッシウスと干戈を交えたdimicaverat 人物の兄弟である。彼はトゥスキアの都市ciuitatem ペルーシア(現ペルージャ)で打ち負かされ、そして捕らえられたが、にもかかわらずneque 殺されなかった(前四〇年)。

Ⅶ.4:とかくするうちにinterim グナエウス・ポンペイウス・マグヌスの息子セクストゥス・ポンペイウスによって並はずれた戦争がシキリアで引き起こされ、生き残っていたブルトゥスそしてまた-que カッシウスの党派の者たちが彼へと合流した。戦争が、カエサル・アウグストゥス・オクタウィアヌスとマルクス・アントニウスによって、セクストゥス・ポンペイウスに対して行われた(前四〇年)。和平が最終的にpostremo 成立した(前三九年)。

Ⅶ.5: その頃、マルクス・アグリッパはアクイタニアで事を上首尾にrem prospere 運んだ(前三八年)。そしてルキウス・ウェンティディウス・バッスス はシュリア内に押し入っているペルシア人たちを三度の戦闘でproeliis 打ち負かしたvicit(前三九〜前三八年)。(彼は)オロデス王の息子パコルス(パコロス)を殺害したが、まさにその日は、過日olim ペルシア王オロデスが将軍ducem スレナを介してクラッススを殺した日であった。彼はパルティア人たちからのきわめて正当な凱旋式をローマで挙行した最初の人物であった(前三八年)。    

Ⅶ.6:(1) とかくするうちにinterim ポンペイウスは和平を破り、そして海戦でnavili proelio 打ち負かされて(前三六年)、アシアへと逃亡してfugiens 殺された(前三五年)。アントニウスはアシアとオリエンを掌握していたが、カエサル・アウグストゥス・オクタウィアヌスの姉妹が離縁され、アエギュプトゥス女王クレオパトラを妻へと迎えた(前三二年)。 (2) ペルシア人たちに対して、そのうえetiam 彼自身も闘ったpugnavit。最初の諸戦闘でproeliis 彼らを打ち負かしvicit、帰還中のregrediens 彼はそれでもtamen 飢えと疫病に苦しみ、そしてパルティア人たちが逃亡するfugienti 彼(アントニウス)に迫っていたので、彼自身は打ち負かされたかのように撤退することになったrecessit(前三六年)。

Ⅶ.7:彼もまたquoque 並はずれた内戦を引き起こしたが、妻アエギュプトゥス女王クレオパトラがせがんだからだった(前三二年)。(それは)彼女が女性的な功名心でそのうえetiam 首都(ローマ)内でin urbe 統治することをregnare 求めた間のことだったdum。彼はアウグストゥスにより、アクティウム(アクティオン)での傑出しそして光輝ある海戦でnavali pugna 打ち負かされた(前三一年)。その場所はエピルスに位置しているが、その(海戦)から彼(アントニウス)はアエギュプトゥスへと逃亡したfugit、そして状況が絶望的になって、皆がアウグストゥスへと鞍替えしてしまったので、彼自身自らを抹殺したinteremit(前三〇年)。クレオパトラは自身に蛇を受け入れ、その毒によって消滅したextincta est 。アエギュプトゥスはオクタウィアヌス・アウグストゥスによってローマ帝国に加えられadiecta est、そしてまた-que そこに配置されたのがガイウス・コルネリウス・ガッルスであった(前三〇年)。ここに初めてprimum アエギュプトゥスはローマの審判者iudicem を持つことになった。

Ⅶ.8:(1) かくしてita 諸戦争がbellis 全世界で決着しconfectis、オクタウィアヌス・アウグストゥスがローマへと帰ったがrediit、それは彼が執政官になってから十二年目のことであった(前二九年)。 (2) その年から国家を四十四年間彼一人がsolus得たobtinuit。というのもenim その前の十二年間アントニウスとレピドゥスとともに掌握していたからであるtenuerat。 (3) かくしてita 彼の元首政はprincipatus[初出]始まりから終わりに至るまでusque ad 五十六年間だった。 (4) ところでautem 彼は七十六歳で自然死によってカンパニアの町opiduo アテラで崩御したobiit(後一四年)。ローマで彼はマルスの野の中にin campo Martio 埋葬され、かの人物はきわめて不当ではなくほとんど神deo に同様なものとsimilis みなされた。にもかかわらずnequeというのもenim あるいはaut 諸戦争においてin bellis 彼よりも幸運で、あるいはaut 平時においてより控えめな者はmoderatior たやすくはfacile いなかったからである。四十四年間ただ一人彼がsolus 軍事命令権をimperium[この意味ではI.18以来初めて登場]行使したが、彼はきわめて一市民らしくciuilissime 生きたvixit。万人に対してきわめて気前よくliberalissimus[初出、他はVII.19.2, ]、友人たちに対してきわめて誠実でfidissimus、彼らを諸々の顕職でtantis honoribus 高めたが、それはほとんどpaene 自らの高位fastigio[初出、ほかはVIII.12,1, IX.28, X.2.3, 8.1] suo と同等視するaequaret ほどだった。

Ⅶ.9:彼以前にいかなる時代もそれ以上magis ローマ国家が繁栄したことはなかった。というのもnam 彼が不敗だった諸々の内戦を除き、ローマ帝国に彼が加えたのはadieit、アエギュプトゥス、カンタブリア、ダルマティアーーそれぞれしばしばsaepe 以前においてante 打ち負かされていたが、徹底的にpenitus[初出、あとX.3.2, 17.2]そのときtum 屈従させられたsubactamーー、パンノニア、アクイタニア、イリュリクム、ラエティア、アルプス山脈の住民たちの中でin Alpibus ウィンデリキ人たちとサラッシ人たち、ポントゥスの沿岸の都市すべて、それら(諸都市)の中できわめて名高いのがnobilissimas、ポスフォルス(ボスフォロス)とパンテイカパエウム(パンテイカパイオン)である。ところでautem 彼は多くの諸戦闘でmultis proeliis ダキ人たちを打ち負かしたvicit。彼はゲルマン人たちの並はずれた軍勢をcopias 打ち倒しcecidit、彼らをもまたquoque アルビス河(現エルベ河)の向こうに追い払ったsummovit、そこ(アルビス河)は諸々の蛮族(の土地) で、レヌス(河)を越えたはるかに遠くにある。それでもtamen この戦争をhoc bellum 彼は自身の継息子ドルススを通じて管理したadministravit、ちょうどsicut 別の継息子ティベリウスを通じてのパンノニア(の戦争)と同様で、その戦争でbello 彼は四万の捕虜をゲルマニアから移動させtranstulit、そしてレヌス(河)の岸を越えてガリア内に植民させた。彼はアルメニアをパルティア人たちから取り戻した。人質たちを、それ以前になかったことだが、ペルシア人たちは彼に与えた。そのうえetiam 彼らは、ローマの諸軍旗をsigna 返還したreddiderunt、それらは打ち負かされたクラッススから彼らが剥奪していたものであったademerant(前二〇年)。

Ⅶ.10:(1) スキュタエ(スキュタイ)人たちとインディ(インド)人たちーー彼らに以前にはantea ローマ人たちの名前は知られていなかったのであるがーー が、献上の品々と使節団を彼へと送ったmiserunt。 (2) ガラティアもまたquoque 彼のもとで属州にされたが(前二五年)、それは以前antea 王国であった、そしてまた-que 最初にprimus それをマルクス・ロッリウスが法務官格で管理したadministravit。 (3)  ところでautem 多くの好意をそのうえetiam 彼は蛮族たちの間で持たれていたので、ローマ市民のpopuli Romani amici 友人たちであった王たちは、彼の栄誉のため諸々の都市を創建し、それらを彼らはカエサレアと名付けた。まさしくsicut マウレタニアでユバ王によって、そしてパラエスティナ(パライスティネ)でも(創建され)、後者は今やnunc きわめて傑出した主都urbs である。 (4)  ところでautem 多くの王たちがreges 自分たちの王国からex regnis suis 彼に従うべくやってきて、そしてローマ人の習慣にしたがって、まさにscilicet トガをまとって、彼(=アウグストゥス)の乗り物、それともvel 馬へと(候伺のために)走り寄ったものである。(5) 彼は死ぬと神君Divus と呼ばれたappellatus(在位:前二七年一月一六日〜後一四年八月一九日)。彼は非常に恵まれた国家を後継者ティベリウスに残したreliquit。彼(ティベリウス)は、彼にとって継子だったが、すぐにmox 婿となり、最終的にpostremo 養子縁組によって息子となっていた。    

Ⅶ.11:(1) ティベリウスは並はずれた怠惰で軍事命令権をimperium 行使した、由々しきgravi 無慈悲さcrudelitate[初出、VII.12.3, 13.1, 23.1, IX.13.1, 14, X.9.4]、悪しき貪欲さscelesta avaritia、恥ずべき色欲でturpi libidine。というのもnam どこにおいても、自ら闘うことはせずpugnavit、諸戦争をbella 自身の代理人たちを[例外訳:以後使節団は登場しない]通してper legatos suos 行ったからである。  (2) 幾人かの王たちを自分のところへと甘言を弄して呼び出し、決してnumquam 戻さなかった、彼らの中でカッパドキアのアルケラウス(アルケラオス)について言えば、そのうえetiam 彼の王国を属州の形に移しformam redegit、そして最大の都市を自分の名で呼ばれるよう彼は命じたiussit。それは今やカエサレアと呼ばれているが、以前はマザカと呼ばれていた。 (3) 彼は、軍事命令権のimperii 二十三年目、生涯の七十八年目に皆の並はずれた歓喜の中で、カンパニアで死去した(在位:後一四年〜三七年三月一六日)。

Ⅶ.12:(1) 彼を継承したのがガイウス・カエサル、添え名はカリグラで、アウグストゥスの継子であるドルススの、そしてティベリウス自身の孫nepos であった。彼はきわめて犯罪的sceleratissimus およびac きわめて破滅的でfunestissimus、そして彼はそのうえetiam ティベリウスの名誉失墜的な諸行すらかき消してしまった。 (2) 戦争をゲルマン人たちに対して彼は開始した、そしてスエビアに入った後、活発になにごとも行わなくなったnihil strenue。 (3) 陵辱を姉妹たちに仕掛けintulit、そのうえetiam 彼女たちの中の一人から生まれた娘を認知した。彼が万人に対して並はずれた貪欲、色欲、無慈悲さでcrudelitate 荒れ狂ったのでsaeviret、殺害されたのはパラティウムの中で、生涯の二十九年目、軍事命令権のimperii 三年十か月そしてまた-que 八日目のことであった(在位:三七年三月一六日〜四一年一月二四日)。

Ⅶ.13:(1) この者の後は、クラウディウスだった。彼はカリグラの叔父で、ドルススーーモゴンティアクム(現マインツ)に記念建造物があるーーの息子で、そしてカリグラは、彼(ドルスス)の孫nepos だった。この者は、功罪相半ばする統治をしたが、それは多くのことを静謐に、かつまたatque 控えめにmoderate、いわば無慈悲にcrudeliter そして無味乾燥にinsulse 行ったからである。 (2) ブリタンニアで彼は戦争を仕掛けたintulit bellum、そこにはローマ人たちの誰もガイウス・カエサルのあと侵入していなかった。そしてまた-que そこは、グナエウス・センティウスとアウルス・プラウティウスという光輝あるinlustres およびac 貴顕なnobiles 人物たちによってviros 制圧され、彼(クラウディウス)は賑々しいcelebrem 凱旋式を挙行した(四四年)。 (3) ある島々、すなわちブリタンニアを越えた大海に位置する、オルカデスと呼ばれているそれらを、彼はローマ帝国に加え、ところでautem 自身の息子にブリタンニクスの名を与えた。 (4) それほどまでにtam ところでautem 彼はとても一市民らしくあることを幾人かの友人たちの間で示したが、それはオプラウティウス、貴顕な人物で、ブリタンニア遠征において多くの事績を卓越してegregie 行った(人物)を、凱旋式を挙行した際に自ら同行しprosequeretur、そしてカピトリウムに登る際には、彼は左側を歩んだほどであった。 (5) 彼は六十四年間生き、十四(年間)統治した。死後彼は神格化されconsecratus est、そしてまた-que 神君Divus と呼ばれたappellatus(在位:四一年一月二四日〜五四年一〇月一三日)。

Ⅶ.14:(1)  この者を継承したのがネロだった。彼は自分の伯父のカリグラに非常によく似ていて、ローマ帝国を汚しもしet、弱体化させもしet、異例なほど贅沢そしてまた-que 諸々の浪費のくせがあり、ガイウス・カリグラの例にならって、温められたcalidis[ここのみ]そして冷やされたfrigidis[ここのみ、類例でX.18.1にfrigore]諸々の香油の中で体を洗い、緋色の綱で引き上げる金糸の漁網で魚を獲っていたほどだった。元老院の数え切れないほどのinfinitam 部分を殺害し、あらゆる良き人々にとって敵であった。  (2) 最終的にad postremum 彼は自分自身を大きな名誉失墜でさらした。つまり、踊りもしet 歌いもしたet ほどであった、舞台上でキタラ奏者それともvel 悲劇役者の振る舞いで。  (3)  彼は多くの親族殺人を犯し、一人の弟、一人の妻、一人の妹、一人の母を殺害した。彼は首都ローマに放火した、あたかもそれは過日olim 占領されたトロイが炎上したときのような、その見世物的な光景を思い浮かべるためであった。 (4)  軍事においてはin re militari まったく彼はなにもする気がなく、ブリタンニアをほとんどpaene 喪失したamisit。というのも彼の(治世)下で、二つのきわめて名高い町々がnobilissima oppida そこで占領され、かつまたatque 倒壊し尽くされた eversa sunt。アルメニアをパルティア人たちが奪い取り、そしてまた-que ローマの諸軍団を軛の下に送ったmiserunt。 (5)  それでもtamen 彼の下で二つの属州が作られた。ポントゥス・ポレモニアクスはポレモ(ポレモン)王が譲渡しcocedente、そしてアルペス・コッティアエはコッティウス王が死去後に(譲渡したからである)。

Ⅶ.15:(1)  これらのことによってローマ世界であらゆる者たちから呪われ、同時に見捨てられ、そして元老院により敵と宣告されたiudicatus。彼は処罰のために捜索されたが、その処罰とは次のようなものであった。すなわち、無防備(裸)でnudus 公衆の面前を引っ立てられductus est 、首かせがfurca 彼の頭にはめ込まれ、鞭で死に至るまでusque ad 屠殺されcaederetur[初出、あとIX.23, X.11.2]、かつまたatque(タルペイアの)断崖からa saxo 突き落とされるpraecipitaretur[ここのみ、関連でIX.23, X.10.1]、というものであったが、彼はパラティウムから逃亡しfugit、そして彼の解放奴隷の郊外別荘、それはサラリウス街道とノメンタヌス街道の間にあり、首都から第四里程標だったが、そこで自殺した。  (2)  彼はローマで諸浴室をthermas 建設したが、これは以前ネロの(浴場)と言われ、今やnunc アレクサンデルのと呼ばれているものである。  (3)  彼が崩御したのはobiit、生涯の三十二年目で、軍事命令権の十四年目だった。かつまたatque 彼でもってアウグストゥスの全家系は消滅した consumpta est(在位:五四年一〇月一三日〜六八年六月九日)。

Ⅶ.16:(1)  彼をセルウィウス・ガルバが継承したが、彼はきわめて古い貴顕階級のnobilitatis 元老院議員であったが、それは人生の七十三年目の時のことで、ヒスパニア人たちとガリア人たちから最高軍司令官として選ばれelectus、すぐにmox 軍隊exercitu 全体から歓呼をもって受け入れられた。  (2)  というのもnam 彼の私人としての生活ぶりはprivata eius vita もろもろの軍務と市民生活できわだっていたからである。しばしばsaepe 執政官として、しばしばsaepe 執政官格として、たびたびfrequnter きわめて由々しき諸戦争でgravissimis bellis 将軍dux であった。彼の軍事命令権は短命であった、そしてより厳格な傾向とpropensior[初出、IX.13.1,X.15.2のみ]見なされなかったならば、よき始まりであったかもしれない。  (3)  オトの諸々の奸計によりinsidiis それでもtamen 軍事命令権の七ヶ月目に殺されたoccisus est。彼はローマ広場で喉を掻き切られ、そしてまた-que 彼の公園(pl.)内に埋葬されたが、そこはアウレリウス街道にあって首都ローマからそう遠くない(在位:六八年六月九日〜六九年一月一五日)。

Ⅶ.17:(1) オトはガルバを殺して軍事命令権を強奪したがinvasit、彼は母の一族のほうが父方よりより貴顕とはいえ、それでもtamen どちらも胡散臭いobscuro[初出、あとVII.19.1, IX.2.1, 6(2箇所), 9.1, 19.2, X.2.2](出自)ではなかった。 (2) 彼は私人時代においてはin privata vita 軟弱者で、そしてネロに親密であったがfamiliaris【初出、他はVII.231.2, VIII.4、】、軍事命令権にある間何も記録することをなしえなかった。 (3) というのもnam オトがガルバを殺したのと時を同じくして、そのうえetiam ウィテッリウスがゲルマニア駐屯の諸軍隊から最高軍司令官とされたからであるが、彼に対して戦争をbello 企てたものの、彼(オト)はイタリア内のベトリアクムで軽微な戦闘でproelio敗れたvictus esset 時に、それでもtamen 並はずれた軍勢copias を(その後の)戦争のためへとad bellum 保持していたが、自分から自由意志でsponte[初出、あとIX.28のみ]自殺してしまったからである。諸戦争のbelli 結果にそんなに早く絶望しないようにと兵士たちに嘆願されたのだが、自分は私のために内戦が引き起こされるほどの値打ちはない、と言って、彼は自発的にvoluntaria 崩御してしまったobiit、それは生涯の三十八年目にして、軍事命令権の九十五日目であった(在位:六九年一月一五日〜四月一六日)。   

Ⅶ.18:(1)  それからウィテッリウスが軍事命令権を握った、家系的に貴顕というよりもむしろ(顕職による)栄誉が優っていた。というのも、彼の父はまったくもってadmodum 傑出したclare 生まれではなかったが、 それでもtamen 三度正規執政官職をordinarios consulatus 担っていたのである。  (2)  彼は大きな名誉失墜で命令権を行使した、そして由々しき獰猛さでgravi saeuitia [初出、あと6箇所]目立っていた、とりわけpraecipue[初出、あとVII.19.2, X.1.3、類語で「家人たち」はX.15.2に二箇所]暴飲暴食によってで、実際quippe、一日にしばしばsaepe 四度かそれともvel 五度も宴会を催したepulatus[初出、他はX.1.2, 類例としてX.18.1]、と噂されているferatur。  (3)  その上さらにcerte[初出、他はIX.20.2のみ]きわめて悪名高い晩餐がcena[初出、他にVII.21.3, X.18.1]記録されていてmomoriae mandata est、それを彼のため兄弟のウィテッリウスが提供したexhibuitのだが、そこでは他の諸々に加えて二〇〇〇尾の魚を浪費し、七〇〇〇羽の鳥が供せられたadposita[ここのみ]ことが伝えられているtraduntur。  (4)  彼はネロと同様にsimilis なることを望み、かつまたatque それほどまでにadeo そのうえetiam みすぼらしく埋葬されていたネロの遺体に栄誉を与えてhonoraret 見せびらかしたほどだったので、ウェスパシアヌスの将軍たちによってducibus 殺されたのだがoccisus est、(そうなる)以前にprius 彼は首都において最高軍司令官imperatoris ウェスパシアヌスの兄弟サビヌスを殺害し、彼をカピトリウムもろとも焼き殺していた。 (5)  ところでautem 彼が殺害されたのは、おおいなる名誉失墜でだった:首都ローマを公然と引きずり回され、無防備(裸)にされてnudus、髪の毛を掴んで顔を上げさせられ、そして剣を喉元へとあてがわれ、糞で顔と胸めがけて、通りかかったすべての人々によって襲われ、最終的にpostremo 喉を掻っ切られ、そしてティベリス(河)へと投げ捨てられ、そのうえetiam 共同墓地すらなしであった。  (6)  ところでautem 彼が亡くなったのはperiit 生涯の五十七年目にして、軍事命令権のimperii 八か月目と一日であった(在位:六九年四月一六日〜一二月二〇日あるいは二一日)。

Ⅶ.19:(1) ウェスパシアヌスが彼を継承し、パラエスティナで最高軍司令官とされ、無論quidem 胡散臭いobscure 生まれの元首であったが、しかし門閥の人々とoptimis 同列におかれ、私人の時期も光輝あるinlustris(存在) だった。そして彼はゲルマニアへとクラウディウスによって、それからdeinde ブリタンニアに派遣され、三十二回敵と奮戦し conflixerit、二つのきわめて精強な諸部族gentes、二十の町々、ブリタンニアにきわめて近いウェクタ島をローマ帝国に加えたadiecerit。 (2) ローマで彼は軍事命令権にある間、きわめて控えめに振る舞った。金銭に対してはより貪欲avidior[初出、あとX.16.3のみ]だったが、それでもtamen 誰のそれをも不正に奪い取りはしなかった。それをあらゆる入念さでdiligentiae[初出、他にVII.20.1, VIII.7.2, IX.26, X.16.3, 18.3]先を見通して集めたのだが、それでもtamen きわめて熱心にstudiosissime、とりわけpraecipue 必要としている人たちへ施しをしていたlargiebatur。そして彼以前のいかなる元首たちのprincipis[本文中での初出]気前よさもliberalitas、(ウェスパシアヌスより)より偉大またはより公正であるとみなすのは容易でないnec facile。 彼はきわめて穏やかで温厚だったので、自分に対する大逆罪の咎すらもまたquoque、犯罪者たちを流刑以上に罰することはほとんどなかったnon facile。 (3) 彼の下でユダエアがローマ帝国に加わりaccessit、そしてヒエロソリュマも(加わった)。そこはパラエスティナのきわめて名高い主都urbs nobilissima だった。 (4) アカイア、リュキア、ロドゥス(ロドス)、ビュザンティウム、サムス(サモス)、それらはその時代以前は自由だったが、同様にitem トラキア、キリキア、コンマゲネ、それらは友人の王たちの支配下にあったが、彼は諸属州の形に移したformam redegit。

Ⅶ.20:(1)  彼は諸々の侮辱と敵意を忘れ(ることができ)た。弁舌の徒たちや哲学者たちによる彼に向かって言われた諸々の罵詈雑言を軽く受け流し、それでもtamen 軍規のdisciplinae militaris[初出、あとはVIII.7.2,23,IX.14]入念なdiligens 強制者coercitor[ここのみ]だった。彼は息子のティトゥスと共にヒエロソリュマ人たちからの凱旋式を挙行した(七一年六月)。 (2)  これらのことのために、元老院と市民populo、最終的にはpostremo すべての人々にとって人好きのするamabilis[初出、あとIX.14, X.1.3, X.10.2]およびac 感じがよかったがiucundus[初出、X.10.2]、サビニ近くの私有の別荘で下痢によって葬り去られたextincta est。生涯の六十九年目を過ごしていて軍事命令権の九(年)目と七日目だったが、かつまたatque 神君たちの間に列せられたinter Divos relatus est[初出](在位:六九年一二月二三日〜七九年六月二二日)。 (3) 息子たちの(誕生時の)星位によりgenituram、以下のごとく確信していた、彼に対する多くの共謀がconiurationes[初出、あとVII.21.2, 23.6]なされて、それらが露見しても素知らぬ顔でingenti 無視したcontempsit。元老院において彼は言ったものだ、息子たちが自分を継ぐかaut、誰もいないかだaut、と(スエトニウスVIII.25に類似文:de sua suorumque genitura semper fuisse,tu post assiduas in se coniuratiounes ausus sit adfirmare senatui aut filios sibi successuros aut neminem)。

Ⅶ.21:(1)  彼を息子ティトゥスが継承した。彼は自身もウェスパシアヌスと呼ばれた。かの人物は生来あらゆる武徳(ウィルトゥス)を備え、驚異的人物であり、人間種族の愛とお気に入りとまで言われていたほどであった。そしてきわめて雄弁で、きわめて勇敢で、きわめて控え目であった。彼は諸々の訴訟をラテン語で行い、諸々の詩や悲劇をギリシア語で取りまとめたcomposuit。  (2)  ヒエロソリュマの攻囲では、父の下で軍事活動に従事し、十二人の籠城兵たちに対して十二本の矢を放って的中させた。ローマでは軍事命令権の中でin imperio 非常に市民的ciuilitatis(キウィリタス)[初出、あとVIII.2.1, 4, IX.12, 17.3, 28,X.1.2, 3.2, 11.2]であり、まったく誰も罰せず、彼に対して共謀のconiurationis 有罪者たちを放免し、そして以前に持っていたのと同様の親密さで接したほどであった。  (3)  彼は愛想よくfacilitatis、そして気前よくliberalitatis、誰にも何ごとも拒絶せず、そして友人たちから(そのことを)非難されたときも、「悲嘆にくれたまま誰も最高軍司令官からab imperatore 去ることはない」と答えたほどであった。加えてpraeterea ある日の晩餐の中でin cena、その日誰に対しても何も与えなかったことを思い出した彼はこう言った。「友人たちよ、私は今日一日を無駄にしてしまった」と。 (4)  彼はローマに円形闘技場を建設し、そして五〇〇〇頭の野獣をその奉献式で殺した。

Ⅶ.22: (1)  このため彼は異常なほど好意的にinusitato fauore 扱われたが、病気で父(が亡くなった)その別荘で亡くなったperiit。それは最高軍司令官にされてから二年と九ヶ月と二十日後のことで、生涯の四十二年目だった。  (2)  彼の死で公にされた哀悼は大きく、皆があたかもtamquam近親者を失って嘆き悲しむかのようであった。元老院は、彼自身の崩御をobitu 夕暮れごろに通知されたが、夜に元老院議事堂(クリア)へと押し入り、そして死んだ彼に生前にすら面と向かって決して行われなかったほどの多大な称賛laudes そしてまた-que 感謝を積み重ねた。彼は神君たちの間に列せられた(在位:七九年六月二四日〜八一年九月一三日)。

Ⅶ.23: (1)  ドミティアヌスがすぐにmox 軍事命令権をimperium 受け取った。彼は(ティトゥス)自身の弟frater iunior だった。その彼はネロ、あるいはaut カリグラ、あるいはaut ティベリウスに自分の父それともvel 兄弟よりも似ていた。それでもtamen 軍事命令権において最初の数年は控え目でmoderatus あったが、すぐにmox 色欲libidinis、怒りっぽさiracundiae、無慈悲さcrudelitatis、貪欲auaritiae の並はずれたingentia 諸悪徳へと進み、多くの憎しみを自分へと煽り立てたconcitavit 結果、父のも et 兄弟のもet 功績を無にしてしまうほどだった。 (2)  彼は元老院でのきわめて貴顕な人々をnobilissimos 殺害した。自身を主にして神dominum et deum と呼ばれることを初めてprimus 命じたiussit。自分に対して金か銀でなければ一体の立像といえどもカピトリウムに置くことを許さなかった。 (3)  彼の(父方の)従兄弟たちを殺害した。またquoque 彼に備わっている傲慢さによっても忌み嫌われた。 (4)  彼は四回の遠征を行った。一回はサルマタエ(サルマタイ)人たちに対するもの、もう一回はカッティ人たちに対するもの、(あとの)二回はダキ人たちに対するものであった。ダキ人たちそしてまた-que カッティ人たちからの二重凱旋式を行った。サルマタエ人たちについては月桂冠のみを獲得した。それでもtamen サルマティアでは彼の一軍団が将軍duce もろとも壊滅し、そしてダキ人たちによって執政官オッピディウス・サビヌスと近衛軍長官コルネリウス・フスクスが多数の軍隊exercitibus と共に殺された。  (5)  ローマでもまたquoque 多くの公共事業を行った。それらの中には、カピトリウムと通路のフォルムForum Transitorium、諸神君の柱廊Divorum Porticus、イシスおよびac セラピス(神殿)Isium ac Serapium、そして競技場Stadium がある。

マルスの野の建物

Forum Transitorium

 (6) だがverum 並はずれた諸々の犯罪行為のためscelera 彼は皆に嫌われる存在になり始め、自分の部下たちの共謀によりconjuratione、パラティウム内で殺害された、それは生涯の四十五年目にして、軍事命令権の十五年目ことだった。彼の遺体はfunus 並はずれた名誉失墜をdedecore 受けながら死体処理夫たちによりvespillones 運び出され、そして屈辱的にignobiliter 埋葬された(在位:八一年九月一四日〜九六年九月一八日)。

第八巻

Ⅷ.1:(1)  首都創建以来八五〇年目、ウェトゥスとウァレンスの執政官在職時に(九六年)、国家はきわめて繁栄する状態へと帰ったrediit、(国家が)善き元首たちにprincipibus 並はずれた ingenti 幸運によってfelicitate[初出]託されたためである。というのもenim 破滅的なexitiabili[初出、あとIX.7のみ]暴君ドミティアヌスに対し、ネルウァが継承したからである。この者は私人時代においてはin privata vita 控え目で活発でstrenuus 、中くらいの貴顕階級にnobilitatis 属していた。彼はまったくもってadmodum 高齢で、近衛軍長官ペトロニウス・セクンドゥスが謀って、同様にitemドミティアヌスの殺害者パルテニウスにより、最高軍司令官imperator とされた。彼は自身きわめて公平でaequissimum そしてきわめて市民性を示していたからである。  (2)  国家に神的予見力によりトラヤヌスを養子にすることで彼は配慮した。彼が死んだのはローマで、彼の軍事命令権のimperii 一年四か月およびac 八日の後、生涯の七十二番目の年で、かつまたatque 神君たちの間に列せられた(在位:九六年九月一八日〜九八年一月二八日)。

Ⅷ.2:(1) 彼を継承したのはウルピウス・クリニトゥス・トラヤヌスで、彼はヒスパニアのイタリカ生まれだった。家系は傑出している(クララ)clara というよりも古いものであった(アンティクワ)antiqua。というのも、彼の父が初めて執政官となった。ところでautem 彼が最高軍司令官imperator にされたのはガリア諸州のアグリッピナ(現ケルン)でだった。彼は国家を管理したadministravit、それはすべての元首たちをprincipibus 功績において凌駕するほどで、異例なほどinusitatae 市民的で(キウィリタス)そして勇敢だった。  (2)  ローマ帝国の(諸領土)は、アウグストゥス以降目覚ましく拡張するよりも、むしろみごとにnobiliter 防衛的であったが、彼はその諸国境をfines 長くそしてまた-que 広く拡大した。彼はゲルマニア内でレヌス(河)の向こう側の諸主都をurbes 得た。彼はダキアをデケバルスを打ち負かすことによって押さえ込みsubegit、属州がダヌビウス(河)の向こう側に作られた、それらの農耕地は今やnunc タイファリ人たち、ウィクトアリ人たち、テルウィンギ人たちが持っている。その属州は周囲一〇〇万バッススを掌握していたのであるtenuit。

Ⅷ.3:(1)  パルティア人たちが占領していたoccupaverant アルメニアを、彼は取り戻し、それを掌握していたtenebat パルトマシリスを殺し、アルバニア人たちに王を与えた。彼はヒベリア人たちの王を、そしてサウロマタエ人たちの、そしてボスポラニ人たちの、そしてアラビア人たちの、そしてオドロエナ人たちの、そしてコルキス人たちの(王を)誓約をもってin fidem 受け入れた。彼はカルドゥエニ人たち、マルコメディ人たちを占領したoccupavit、そしてアンテムシウム、ペルシアの重要地域を、セレウキア(セレウケイア)、クテシフォン、バビュロン、メッセニイ人たちを打ち負かしvicit、およびac 掌握したtenuit。  (2) 彼は、 インドの諸国境finesに至るまでusque ad、そして紅海に近づいたaccessit、かつまたatque そこでibi 、アルメニア、アッシュリア、メソポタミアという三属州を作った、マデナ地域に接しているそれらの諸部族gentibus ともどもにだった。その後postea アラビアを属州の形に移したformam redegit。紅海で艦隊を編成し、それによりインドの諸国境をfines 荒らそうとしていたのであるvastaret。

  Madena地方は、Cyrus川とAraxe川の間と思われる

Ⅷ.4それでもtamen、軍事的栄光をgloriam 市民性(キウィリタス)と控え目さでmoderatione、彼は負かしたsuperavit。ローマで、そして諸属州に対し、公平な自らをaequalem se 万人に示しexhibens、友人たちを挨拶をするために病床時でも祭の日々でもしばしば訪れ、気の置けない諸々の宴会を同じ人々と順々にvicissim[ここのみ]開催し、しばしばsaepe 彼らの乗物に同乗し、元老院議員たちの誰をも害せず、何らの不正も元首金庫をfiscum 富ますためになさず、誰に対しても気前よくliberalis、公的そしてまた-que 私的にも、すべての人々を豊かにし、そしてさほど親しくなかった人々ですら名誉によって高め、世界中に多くの建物を建て、免除特権を諸都市に認めて、静謐でないこと、そして温和ではないことを何も行わなかったので、とりわけ彼の全生涯において、たった一人の元老院議員のみが断罪されたがdamnatus、かつまたatque それでもtamen それも元老院によりなされたのであり、トラヤヌスは知らなかったことなのである。それらの結果として、彼は世界中で神にもっとも近く、生前も死後もet vivus et mortuus 崇拝に値しないことは何もなかった。 

Ⅷ.5:(1) 他に噂されているfertur ことの中で、次のように彼自身の偉業egreium が示されている。たしかにenim すべての人々に対して分け隔てなさで過剰ではnimium[初出、他にIX.9.3, X.15.2, 16.3, 18.1に2箇所]と咎めた友人たちに次のように答えたからだ。私人であった私が最高軍司令官たちにimperatores そうあれかしと思ってたように、最高軍司令官とimperatoremなった私は私人たちにかくあるのだ、と。  (2)  彼は並はずれた栄光をpost ingentem gloriamこうしてigitur 戦時そしてまた平時にbelli domique 勝ち得た後に、ペルシアから帰るrediens 途中で、イサウリアのセレウキアで胃の洪水によりprofluvio ventris 葬り去られたextincta est。ところでautem 彼が崩御したobiit のは、生涯の六十三年と九か月と四日目、軍事命令権のimperii 十九年と六か月と十五日目であった(在位:九八年一月二八日〜一一七年八月七日)。彼は神君たちの間に列せられ、そしてまた-que 全員のうち首都内に埋葬された唯一の者と言われている。遺骨は金の壺へ入れて(彼が)建設した広場に運ばれ、円柱の下に置かれたが、その(円柱の)高さは一四四ペースである。  (3)  彼の記憶の多くは付託されてきていてdelatum est、我らの時代に至るまでusque ad 全く同じくnon aliter 元老院内で元首たちにprincipibus(次のように)歓呼されないことはない。「アウグストゥスよりも幸運で、トラヤヌスよりも善くあれかし」と。とりわけadeo 彼の中には善意の栄光gloria が保たれていたのだがobtinuit、それは追従者たちにもvel、真に称賛に値する者たちにもvel、最も豪華な事例の機会をoccasionem maginificentissimi exempli 示しているのである。

Ⅷ.6:(1) トラヤヌスが死去し、アエリウス・ハドリアヌスが元首にprinceps 選出されたcreatus est、しかし(それは)無論quidem トラヤヌスの何らかの意向ではなく、トラヤヌスの妻プロティナの尽力で、というのも彼をトラヤヌスは、彼自身の従姉妹の息子であるにもかかわらず、生前に養子にするのを望んでいなかったからである。彼自身も生まれはヒスパニアのイタリカだった。  (2) 彼は、トラヤヌスの栄光にgloriae 嫉妬して、ただちにトラヤヌスが加えた三属州を放置しreliquit【例外訳】、そしてアッシリア、メソポタミア、アルメニアから諸々の軍隊をexercitus 奪還しrevocavit、およびac 軍事命令権のimperii 境界をfinem エウフラテスでよしとした。同様にダキアについて試みることを、友人たちは阻止した。(それは)多くのローマ人たちが諸蛮族に引き渡されないためだった。というのはpropterea なぜならquiaトラヤヌスがダキアを打ち負かして、全ローマ世界からそこに数え切れないほどの歩兵部隊をinfinitas copias hominum 諸々の農耕地や諸都市へと居住させるために移動(鞍替え)させていたからであるtranstulerat。ダキアはたしかにenim 長きにわたる戦争により、デケバルスの男たちを(人的資源的に)消耗させられていた。[この箇所は写本的に問題とされている]           

Ⅷ.7:(1) それでもtamen 平和を彼は彼の軍事命令権のimperii すべての時代において維持していて、一度だけ一人の属州長官を通じてper praesidem 干戈を交えたことがあったdimicavit。 (2) 彼はローマ世界を巡回し、多くのものを建設した。ラテン語の演説においてきわめて流暢で、ギリシア語についてきわめて博識であったeruditissimus[初出、他はVIII.11.1, X.16.3(同所にeruditio)]。寛容さについては大いなる栄光をgloriam 持っていなかったが、それでもtamen 国庫(アエラリウム)と軍規にmilitum disciplinam 関してはきわめて入念だったdiligentissimus。 (3) 彼が崩御したobiitのはカンパニアで 、六十歳より上で、軍事命令権のimperii 二十一年十か月二十九日目のことだった。元老院は彼に神君たちの名誉を認めるのを望まなかった。それでもtamen 彼の後継者ティトゥス・アウレリウス・アントニヌス・フルウィウスは、これを熱心に要求し、すべての元老院議員たちがおおっぴらにpalam 抵抗したが、結局のところtandem 彼(ハドリアヌス)は得たのだったobtinuit(在位:一一七年八月一〇日〜一三八年七月一〇日)。

Ⅷ.8:(1) ゆえにergo ハドリアヌスを継承したのが、ティトゥス・アントニヌス・ボイオニウスで、そのうえetiam 同じ人がピウスと名付けられた。出自的に傑出していた(クラルス)claro が、しかしまったくもってadmodum 古くはなかったが、際立った人物でvir insignis、そして功績によりヌマ・ポンピリウスに託されているconferatur[初出、他はVIII.12.2, X.12.1]。かくしてita トラヤヌスがロムルスに対等視されるようにaequetur。  (2)  彼は並はずれたingenti 清廉さで私人として生きたがvixit、軍事命令権中にはin imperio 一層そうで、誰に対しても厳しくなく、すべての者たちに対して気前よくbenignus、軍事においてin re militari ほどほどの栄光gloria があり、諸属州を拡張するよりもむしろ防御することに熱心で、もっとも公平な人物たちをviros aequissimos 国家を管理するためにadministrandam 求め、善き人々に対して栄誉をもち、無節操な人々をなんらの過酷さも伴わずsine aliqua acerbitate 避け、友好的な王たちには恐怖よりも少なからぬ尊敬をもたせ[初出、あとX.1.3]、その結果、蛮族たちのうち多くの種族(ナティオネス)が武器を捨てdepositis[初出、あとX.2.3, 11.1]、彼のところへと自分たちの諸々の係争と、そしてまた-que 訴訟沙汰を持ち込み、そしてまた-que (彼の)裁定に従ったほどだった。 (3) 彼は、軍事命令権以前にante imperium とても裕福でditissimus【=dives】、無論quidem 彼のすべての資力をopes[初出、あとX.1.2, 2.4]兵士たちの俸給stipendiis そして友人たちに関しての諸々の贈与liberalitatibus によって減らした、だがuerum 富裕なopulentum 国庫(アエラリウム)aerarium を残したreliquit。彼は寛容さのゆえにピウスと呼ばれた。 (4) 彼はロリウムで崩御したobiit、そこは彼の別荘で、首都から第十二里程標で、生涯の七十三年目、軍事命令権のimperii 二十三年目だった。かつまたatque 神君たちの間に列せられ、そして功績によって神格化された(在位:一三八年七月一一日〜一六一年三月七日)。

Ⅷ.9:(1) 彼の後、命令権を行使したのはimperauit マルクス・アントニヌス・ウェルス(M・アウレリウス)だった。彼は紛うかたなくhaud dubie[ここのみ] きわめて貴顕nobilissimus(ノビリッシムス)であった。実際quippe 彼の父方の祖先はヌマ・ポンピリウスから、母方はソレンティニ人の王から繫がっていたからである。そして彼とともにルキウス・アンニウス・アントニヌス・ウェルスが(帝位に就いた)。  (2)  かつそのとき初めてtumque prinum ローマ国家は、公平の権利でaequo iure[この熟語初出、他はVIII.12.1]軍事命令権をimperium 管理するadministrantibus 二人に従うことになった。彼に至るまでusque ad 一人づつ常にsemper 正帝たちを戴いていたのだが。

Ⅷ.10:(1)  彼らは互いに血縁でもet 姻戚でもet 結びつけられていた。ところでautem マルクス・アントニヌス(ウェルス)はアントニヌス・ピウスの娘婿で、彼の従姉妹である妻ガレリア・ファウスティナ・ユニオルを通してだった。  (2) 彼らはパルティア人たちに対して戦争をbellum 行ったが、彼ら(パルティア人たち)はトラヤヌスの勝利以後そのときtum 初めて反乱を起こしていたのである。ウェルス・アントニヌスはそれへと進発した。彼はアンティオキアとアルメニア周辺で、彼の将軍たちをduces 介して多くのことを成し遂げ、そして並はずれたことを達成した。彼は、セレウキア、(即ち)アッシリアのきわめて名高い主都をurbem nobilissimam、四十万の兵士たちもろとも捕獲したcepit。彼はパルティア人たちからの凱旋を持ち帰った。彼は兄弟でそしてまた-que 同じく舅(であるマルクス・アウレリウス)とともに凱旋式を挙行した。  (3)  それでもtamen 彼が崩御したのはobiit、ウェネティアにおいて、都市コンコルディアからアルティヌムへ進発していて、そして兄弟とともに馬車に同乗していた時に、彼は突然subito 血で打たれた、ギリシア人たちが卒中(’αποπληξία/-πλήξις)と呼んでいる病気の不運casu だった。  (4) かの人物は生まれつき市民性が不十分で、それでもtamen 兄弟への畏敬により、いかなる粗暴さもあえてしなかった。彼は軍事命令権のimperii 十一年目に崩御したobisset 時に、神々の間に列せられた(在位:一六一年三月六日〜一六九年一/二月)。

Ⅷ.11:(1)  彼の後に、マルクス・アントニヌスが単独でsolus 国家を掌握したtenuit、かの人物は誰もが称賛するlaudare よりも驚嘆することができるほうがより簡単である。彼は生涯の初めからa principio きわめて静謐で、幼少期からもex infantia またquoque 歓喜でも悲嘆でも顔色ひとつ変えないほどだった。彼はストア派哲学に身を捧げ、そのうえetiam 自身は生活習慣のみならず、博識でもsed etiam eruditione 哲学者であった。  (2)  彼は青年にしてiuvenis それほどまでにadhuc これほど感嘆すべきadmirationiだったので、彼を後継者として残すように準備しようとしたparaveritのはハドリアヌスだった。それでもtamen アントニヌス・ピウスが養子とされていたので、(ハドリアヌスは)彼(マルクス・アントニヌス)が彼(ピウス)の娘婿になることをあんなこんなでidcirco [初出、あとⅧ.18のみ]望み、(その結果)この順番でhoc ordine 彼(マルクス・アントニヌス)は軍事命令権へとad imperium 到達したのであるperveniret。

Ⅷ.12:(1)  彼が教育されたのは、哲学に関してはカルケドンのアポッロニウス(アポッロニオス)によってであり、ギリシア文学の知識に関してはad scientiam 、プルタルクス(プルタルコス)の孫カエロネア(カイロネイア)のセクストゥス(セクストス)によってだった。ところでautem ラテン文学を彼に教授したのは、きわめて名高いnobilissimus 弁論家フロントだった。彼はローマでは皆と共に公平の権利でaequo iure 振る舞った、(こうして)彼は傲慢さがinsolentiam[初出、VIII.12.1, IX.24, X.6.3]ないことで軍事命令権の高みにimperii fastigio 昇らされたのである。(彼は)贈与においてliberalitatisきわめて抜かりなかったpromptissimae[初出、他はX.16.3のみ]。  (2)  諸属州を並はずれたingenti 慈愛benignitate[初出、他はX.18.2] と控え目さでmoderatione 遇したtractavit。ゲルマニア人たちに対しては、彼が元首principe であるうちは物事が幸運の内にfeliciter 運んだ。彼自身はマルコマンニ戦争をbellum おこなったが、しかしこれほどの(戦争)は記録になく、ポエニ人たちとの(諸戦争)に託されるconferaturほどだった。というのもその時に、より由々しきことがgravius 起こったからで、つまりローマの軍隊exercitus 全体が万事休すだったのであるperierant。 というのもenim 彼の下で疫病の不運がcasus ひどく、(ウェルスによる)ペルシア勝利後に、ローマで、およびac イタリアそしてまた-que 諸属州においても、住民たちの大部分、兵士たちのほぼすべての諸軍勢がcopiae 無力化されてしまっていたlanguore defecerint。

Ⅷ.13:(1)  ゆえにergo 並はずれた労苦と控え目さでmoderatione、彼はカルヌントゥムに三年間ずっとそこにいて、マルコマンニ戦争にbellum 決着をつけconfecit、その戦争を、彼ら(マルコマンニ人たち)と共に、クァディ人たち、ヴァンダル人たち、サルマタエ人たち、スエビ人たち、かつまたatque 野蛮の地全体が揺れ動いていたのである。彼は何千人もの人々を殺害し、およびac パンノニア人たちを隷属から解放し、ローマでまたもやrursus 彼の息子コンモドゥス・アントニヌスーー彼をまさにiam 副帝にしていたのだが ーーと共に凱旋式を挙行した(一七六年)。  (2)  この戦争の出費のために国庫(アエラリウム)が使い果たされて、帝室資金largitiones がまったくなくなり、にもかかわらずneque 属州民たちあるいはaut 元老院に何ごとも通告するindicere ことを望まなかったので、(彼の)日常使いのcultus王宮のregii備品を、神君トラヤヌスの広場で競売でして、売り払った。(すなわち)金製の諸容器、水晶と蛍石の諸々の杯、妻およびac 自分の絹と金糸の衣服、多くの貴石の装飾品類ornamenta。およびac 二ヶ月間続けてこの売却はeo venditio 行われ、そしてまた-que 大量の黄金を回収した。勝利後に、それでもtamen、入手した諸々のものを返還することを望んだ買い手たちに、価値相当のものを取り戻させた。いったん購入したものを保持することを込んだ人は誰に対しても彼は煩わさなかった。

Ⅷ.14:(1)  彼はより傑出した(クラルス)人物たちに、諸々の宴会を彼自身(が催しているもの)と同じ日常使いでcultu[初出、他はVIII.14.1, X.1.2(生活様式)]、そして似ている従者たちによって彼らが提供するのを許した。勝利後の諸々の見世物の開催に際しては、彼は豪華でmagnificus fuit、一〇〇頭のライオンたちが同時にsimul 提供されたと伝えられているほどであるtradatur。 (2)  こうしてigitur 彼は幸運な状態を武徳(ウィルトゥス)によっても慈悲深さによっても取り戻してreddidisset、軍事命令権のimperii 十八年目、生涯の六十一(年)で崩御しobiit、そして皆が競って尽力して、彼は神君たちの間に列せられた(在位:一六一年三月七日〜一八〇年三月一七日)。

Ⅷ.15: 彼の後継者、ルキウス・アントニヌス・コンモドゥスは、ゲルマン人たちに対するそれ(戦争)を幸運のうちに feliciter、そして自身で闘ったpugnavit ことを除いて、何ら父親的(なところ)はなかった。九月(セプテンブレ)を自分の名前へと替えてコンモドゥスと言われるよう企てた。 しかし贅沢と好色によって堕落した彼は、剣闘士たちの諸々の武器でarmisきわめてしばしばsaepissime 訓練所内でin ludo、続いてdeinceps[初出、IX.25.2, X.4.4, 6.1]そのうえetiam 円形闘技場内でこの類いの人間たちとしばしばsaepe 干戈を交えたdimicavit。彼は突然死により崩御したobiit。いなむしろatque adeo[初出、他はX.16.3のみ]絞殺されたかそれともvel 毒殺されたと考えられている。それは父の後、十二年と八か月間命令権を行使したimperasset 時のことで、あらゆる人々の呪詛によって、人類の敵として死後もそのうえetiam 審判されたiudicareturほどだった。

Ⅷ.16彼を継承したのは老齢のペルティナクスだった。そして彼は七十歳に達していたにもかかわらず、そのときtum 首都長官職を勤めており、元老院決議により命令権を行使することをimperare 命じられた。彼は軍事命令権のimperii 八十日目に近衛軍兵士たちの暴動seditione とユリアヌスの犯罪行為によってscelere 殺されたoccisus est(在位:一九三年一月一日〜同年三月二八日)。

Ⅷ.17:彼の後、サルウィウス・ユリアヌスが国家を強奪したinvasit。彼は貴顕な人物で、そして法律にiure【この訳では初出、あとVIII.23】きわめて習熟していて、サルウィウス・ユリアヌスの孫nepos だった。その彼(サルウィウス・ユリアヌス)は神君ハドリアヌスの下で永久告示をperpetuum 取りまとめたcomposuit。彼はセウェルスにムルウィウス橋で打ち負かされ、パラティウムで殺害されたinterfectus。彼は命令権を行使しimperare 始めた後七か月間を生きたvixit(在位:一九三年三月二八日〜同年六月一日)。   

Ⅷ.18:(1) ここからhinc ローマ帝国のimperii Romani 管理をadministrationem セプティミウス・セウェルスが受け取ったが、彼は、アフリカ、トリポリス属州、レプティスの町にoppido 由来していたoriundus[初出]。すべての記録上、後にも先にもante et postea アフリカ出身のただひとりの最高軍司令官imperator だった。  (2)  彼は、初めはprimum 元首金庫代訴官fisci advocatus(フィスキ・アドウォカトゥス)であったが、まもなくmox 軍団将校militaris tribunus となり、それからdeindeそして多種多様の役職、かつまたatque 諸々の顕職をhonores 経て、全国家の管理に至るまでusque ad administrationem 到達した。 (3)  彼は、ユリアヌスによって殺されたペルティナクスと自身を呼ばれることを望んだ、かのペルティナクスの栄誉の中で。彼はまったくもってadmodum 吝嗇で性格的にnatura【初出、他に,IX.27.1, X.13, 18.2】獰猛saeus だった。  (4)  彼は多くの戦争をまた幸運の内にfeliciter 行った。彼はペスケンニウス・ニゲルーー彼はアエギュプトゥスとシュリアで反乱を起こしていたーーを、キュジクスで殺害した。彼はパルティア人たちを打ち負かしvicit、そして内アラビア人たちそしてアディアベニ人たちも(打ち負かした)。アラビア人たちを、そのうえetiam 属州を作るほどそれほどまでにeo usque 打ち負かしたsuperavit。そんなこんなでidcirco 彼はパルティクス、アラビクス、アディアベニクス(パルティア、アラビア、アディアベネの征服者の意)と言われた。彼は多くのものを全ローマ世界で修復した。彼の下でそのうえクロディウス・アルビヌスーー彼はペルティナクス殺害の時にユリアヌスにとっての相棒socius だったーーは、彼自身をガリアで副帝となしたがfecit、そしてまた-que ルグドゥヌムで打ち負かされ、そして殺害されたinterfectus。 

【以下、これまでの定訳が通用しなくなる例が頻出。正直困ること多し】

Ⅷ.19:(1) それでもtamen セウェルスは、戦争の栄光gloriam に加えて、そのうえetiam 市民的諸熱意においても ciuilibus studiis 傑出(クラルス)しており、そして文学に精通して、哲学の知識を豊富に会得していた。彼は最後の戦争をbellumブリタンニアで行い、そしてまた-quo(ブリタンニアの)取り戻されたreceptas 諸属州を完全な安全性で護ろうとして、防塁を十三万二〇〇〇バッススにわたって海から海へと拡げたdeduxit。  (2)  彼はエボラクムでまったくもってadmodum 高齢で死没したがdecessit、それは軍事命令権のimperii 十六年と三か月目のことであった。彼は神君と呼ばれたappellatus est。  (3)  さて(というもの)nam 彼は二人の息子たちを後継者に残した。バッシアヌスとゲタであるが、しかしバッシアヌスにアントニヌスの名を元老院から与えられるのを望んだ。そしてかくしてitaque 彼はマルクス・アウレリウス・アントニヌス・バッシアヌスと言われ、そしてまた-que 父を継承した。というのもnam ゲタは公敵と通告され、遅滞なくconfestim[初出、あとIX.18.1,X.4.2,17.2のみ]亡くなったからであるperiit(在位:二一一年二月四日〜二一一年一二月二六日、あるいは二一二年二月二七日)。

Ⅷ.20:(1) こうしてigitur マルクス・アウレリウス・アントニヌス・バッシアヌス、そしてまた同様にidemque カラカッラは、父の諸性向をほぼfere 備え、幾分paulo より苛酷で、そして威嚇的だった。彼はローマで浴場のlauacri 卓越した(偉業の)egregium 建造物opus を作った。それら(諸々の浴室termae)はアントニヌスのと呼ばれている。加えてpraeterea 記憶すべきものは何もなかった。彼は抑えきれないほどの色欲を持ち、自身の継母ユリアを妻に娶ったとされている。 (2) 彼が死去したdefunctus est のは、オスドロエナの中のエデッサで、パルティア人たちに対する遠征を目論んでいるmoliens[初出] 最中のことで、軍事命令権の六年と二か月目、かろうじてuix 四十三歳目になったばかりだった。公の葬儀によって彼は葬られた(在位:二一一年二月四日〜二一七年四月八日)。

Ⅷ.21:それからdeinde オピリウス・マクリヌス、彼は近衛軍長官だったが、息子ディアドゥメヌスとともに最高軍司令官たちとされfacti imperaatores、彼らは記憶すべきことは短期間であったため何も行わなかった。さて(というのも)nam 彼らの軍事命令権はimperium 一年と二か月だった。軍隊の暴動でseditione 両者は双方ともambo pariter 殺されたoccisi sunt(在位:二一七年四月一一日〜二一八年六月中頃)。

Ⅷ.22: 彼らの後に選出されたのがcreatus est、マルクス・アウレリウス・アントニヌスだった。彼は、アントニヌス・カラカッラの息子と考えられていて、ところでautem 彼はヘリオガバルス神殿の祭司だった。彼は、ローマへと兵士たちやet 元老院の et 並はずれたingenti 期待とともにやって来たのであるが、あらゆる醜聞により自身を汚した。彼はきわめてふしだらそしてきわめて淫らに生きたvixit、そしてまた-que 二年と八か月後に軍隊の騒乱によってtumultu 殺害されinterfectus est、そして彼と共に母シュミアセラも(在位:二一八年六月〜二二二年三月一一日)。

Ⅷ.23: 彼を継承したのがアウレリウス・アレクサンデルで、軍隊からexercitu 副帝に、元老院から正帝に指名された彼は、 まったくもってadmodum 青年だったがiuuenis、そしてまた-que ペルシア人たちに対する戦争がbello 始まると、彼らの王クセルクセスをきわめて華々しく打ち負かした vicit。彼は軍規をmilitarem disciplinam きわめて厳しく糺した。騒乱を起こしたtumultuantes 諸軍団をひとつ残らずintegras 解体した。助言者それともvel 尚書長官scrinii magistrum(マギステル・スクリニイ)として法律のiuris 編纂者ウルピアヌスを彼は持っていた。彼はローマでもまたquoque 人気があった。彼が亡くなったのはperiit ガリア内での軍隊の騒乱によってでtumultu 、軍事命令権のimperii 十三年と九日目のことだった。彼は自身の母ママエアをことのほかunice[初出、あとIX.12のみ]敬慕(ピウス)していた(在位:二二二年三月十一日〜二三五年三月一八日、あるいは一九日)。

第九巻 

Ⅸ.1:彼の後、マクシミヌスが一兵卒の出で初めてprimus 軍事命令権へとad imperium 兵士たちの意向voluntate のみでsola 近づいたがaccessit、(それに)何ら元老院の権威は介在しなかったし、彼自身元老院議員でなかったにもかかわらずだった。彼はゲルマニア人たちに対する戦争をbello 幸運の内にfeliciter 遂行し、兵士たちにより最高軍司令官imperator と呼ばれていたが、プピエヌスによりアクイレイアで殺されたoccisus est。(それは)彼の兵士たちが彼を見捨てたからで、依然として少年だった息子ともどもcum filio adhuc puero 、その彼とともに三年と若干の日々に命令権を行使してきていたimperaverat(在位:二三五年三月あるいは四月〜二三八年四月から六月末)。

Ⅸ.2:(1) その後、三人の正帝たちが同時にsimul 存在した。プピエヌス、バルビヌス、ゴルディアヌスで、前者二人はきわめて胡散臭いobscurissimo 出自であるが、ゴルディアヌスは貴顕(ノビリス)であった。実際quippe 彼の父、大ゴルディアヌスは、兵士たちの合意で、アフリカの属州総督職を務めていた時に、マクシミヌスが命令権を行使していたがimperante、元首としてprinceps 選ばれていたからであるfuisset electus(在位:二三八年三月下旬〜四月中旬)。  (2)  そしてかくしてitaque 彼らがローマへやって来たとき、バルビヌスとプピエヌスはパラティウムで(兵士たちによって)殺害されinterfectus sunt、ゴルディアヌスのみに軍事命令権がimperium 取っておかれたreservatum[初出](バルビヌスとプピエヌスの在位:二三八年四月中旬〜七月下旬)。ゴルディアヌスはまったくもってadmodum 少年puer だったが、トランクイリナをローマで妻に娶り、ヤヌス・ゲミヌス(神殿の扉)を開き、そして東方(オリエンス)へと進発してパルティア人たちに戦争をbellum 仕掛けたinfulit。彼らがまさにiam 出撃を目論んでいたからであるmoliebantur。それを彼は無論quidem 幸運の内にfeliciter 遂行しgessit、そしてまた並はずれた諸戦闘によってingentilbus proeliisque ペルシア人たちを打ち砕いたadflixit[ここのみ]。 (3)  彼は、ローマの領域からa Romanis finibus それほど遠くないhaud longe[初出、あとIX.13.2, 22.1, X.9.4]ところに帰りrediens、フィリップスの欺瞞でfraude 殺害されたinterfectus est。その彼(フィリップス)は彼(ゴルディアヌス)の後、命令権を行使したimperavit。軍はmiles[ここでのみ登場]彼(ゴルディアヌス)のために一つの記念墓をtumulum キルケシウムから第二十里程標に建設した[Ammianus Marcellinus, 23.5.7ではZaitha]。そこ(キルケシウム)は今やnunc ローマ人たちの砦があり、エウフラテス(河)に張り出しているが、(軍は)遺骨をローマへと持ち帰り、彼自身を神君と呼んだ(在位:二三八年五月〜二四四年三月)。

Ⅸ.3:二人のフィリップス、息子およびac 父は、ゴルディアヌスを殺しocciso、軍事命令権を強奪しimperium invaserunt、かつまたatque 無傷の軍隊exercitu incolumi を連れ戻すべくreducto、イタリアへとシュリアから進発した。彼らの命令権行使下でimperantibus、首都ローマ(創建)一千年目が諸競技そしてまた-que 諸々の見世物の並はずれた支度でingenti apparatu 祝賀された。それからdeinde 両者は軍隊によってexercitu 殺害されたinterfecti sunt、大フィリップスはウェロナで、ローマで小(フィリップス)が。彼らは五年間命令権を行使したimperaverunt。彼らは神君たちの間にそれでもtamen 列せられたinter Divos relati sunt(在位:二四四年初頭〜二四九年九月ごろ)。

Ⅸ.4彼らの後、下パンノニア出身でブダリア生まれのデキウスが軍事命令権をimperium 僭称したsumpsit[マイナスイメージか]。彼はガリア内で起きていた内戦を制圧した。自身の息子を副帝としたローマで彼は浴場をlavacrum 建設した。二年間彼自身と息子が命令権を行使していたimperassent 時に、両者ともuterque 蛮族の地で殺害された。彼らは神君たちの間に列せられた(在位:二四九年九月ごろ〜二五一年六月ないし八月)。   

Ⅸ.5:すぐにmox 最高軍司令官たちがimperatores 選出されたcreati sunt、ガルス・ホスティリアヌスとガルスの息子ウォルシアヌスである。彼らの下でアエミリアヌスがモエシア内で諸変革を目論んだres novas molitus est[初出]。彼を制圧するために両人が進発しようとした時に、彼らはインテラムナで殺害された。(統治すること)二年に満たなかった。彼らはあらゆる点で傑出したこと(クラルス)をclarum 何も行わなかった。ただ疫病そして諸々の病気、かつまたatque 諸々の苦痛で有名だったのが、彼らの元首政だったeorum principatus fuit(在位:二五一年六月か八月〜二五三年七月末か八月初頭)。

Ⅸ.6: きわめて胡散臭いobscurissime 生まれのアエミリヌスが、より胡散臭くobscurius 命令権を行使しimperavit、およびac 三か月目に葬り去られたextincta est(在位:二五一年七月末ないし八月初頭〜同年一〇月ごろ)。

Ⅸ.7: ここからhinc リキニウス・ウァレリアヌスが、ラエティアとノリクムで(総督として)職務遂行中で、軍隊によりexercitu 最高軍司令官imperatorに、そしてすぐにmox(元老院によって)正帝とされた。(息子)ガッリエヌスもまたquoque ローマで元老院から副帝と呼ばれたappellatus。彼らの軍事命令権はimperium ローマの名声にとり致命的でperniciosum、そしてほとんどpaene 破滅的でexitiabile あったが、(それらは)元首たちのprincipum 不運さでinfelicitate[ここのみ]でもありvel 無策ゆえでもあったvel ignavia[初出]。ゲルマニア人たちは、ラウェンナにまでusque やってきた。ウァレリアヌスは、メソポタミア内で戦争にbellum 従事中にペルシア人たちの王サポル(シャープール一世)により圧倒されsuperatus est、すぐにmox そのうえetiam 捕らえられて、パルティア人たちのもとで屈辱的なignobili 隷属下で老い朽ち果てた(在位:二五三年一〇月ごろ〜二六〇年六月?/死去は二六二年以降のことか)。  

Ⅸ.8:(1) ガッリエヌスは、未成年(レベル)でadulescens 正帝とされ、軍事命令権をimperium 始めは幸運の内にfeliciter、すぐにmox 相応に、最後には致命的にperniose 行使した。というのも、青年期iuvenis(の彼は)、ガリアとイリュリクムで多くのことどもを活発にstrenue 行った。(すなわち)ムルサで紫衣を僭称していたpurpuram sumpserat インゲヌスを、そしてトレベッリアヌスも殺した。長期間diu 温和でそして平穏だった彼は、すぐにmox まったくの放蕩三昧へと解き放たれて、掌握すべきtenendae 国家の手綱を恥辱的probrosa[ここのみ]無策ignavia と絶望のゆえにdesperatione[ここのみ]手放した。 (2)  アラマンニ人たちは、ガリア諸州を荒らしてからvastatis、イタリア内に入り込んだ penetraverunt。ダキアは、トラヤヌスによりダヌビウス(河)を越えて(属州に)加えられていたがadiecta、そのときtum 喪失されamissa、グラエキア、マケドニア、ポントゥス、アシアは(おのおの)ゴート人たちによって荒らされたvastata est。パンノニアは、サルマタエ人たちそしてまた-que クアディ人たちにより冦掠されpopulata est、ゲルマニア人たちはヒスパニアに至るまでusque ad 入り込みpenetraverunt、そして著名な都市タッラコを攻略しexpugnaverunt、パルティア人たちはメソポタミアを占領してoccupata、シュリアを自身のものと主張し始めた。

Ⅸ.9:(1) まさにiam 諸状況が絶望的で、そしてローマ帝国がほとんどpaene 消滅に瀕したときに、ポストゥムスがガリア内で、きわめて胡散臭いobscurissime 生まれながら紫衣を僭称した purpuram sumpsit、そして一〇年間かくして ita 命令権を行使しimperavit、ほとんどpaene 疲弊しつくした諸属州を並はずれた武徳(ウィルトゥス)と控え目さでmoderatione 再建しようとした。彼は兵士たちの暴動でseditione 殺害されたが、それは[女性名詞civitasを補う]モゴンティアクム(現マインツ)で、ラエリアヌスが諸変革をres novas 目論んでmoliente 彼(ポストゥムス)に対して反乱を起こしていたのだが、兵士たちに掠奪さるべきdiripiendam (その都市)を引き渡さなかったからだったtradere noluisset(ガリア皇帝在位:二六〇〜二六九年)。 (2) 彼の後、きわめて卑賎なvilissimus[初出、他はIX.21のみ]職人opifex[ここのみ]マリウスが紫衣を受け取ったpurpuram accepit[ここのみ]、そして二日目に殺害されたinterfectus est(ガリア皇帝在位:二六九年中頃)。 (3) ウィクトリヌスがその後postea 軍事命令権を受け取った imperium accepit。彼はきわめて活発な人物vir strenuissimus であったが、過度な色欲のnimiae libidinis[ここのみ] (人物)で、そして他人の妻女たちを堕落させたのでcorrumperet、アグリッピナ(現ケルン)で殺されたoccisus est、とある主計担当官がactuario quodam[ここのみ]悪企みをdolum[初出、他はIX.9.2, X.3.2] めぐらしたからであるmachinante[ここのみ]。彼の(言うところの)sui 軍事命令権のimperii 二年目だった(ガリア皇帝在位:二六九年中頃〜二七一年初頭)。

Ⅸ.10: 彼を継承したのは元老院議員テトリクスで、アクイタニアを彼は地方総督のpraesidis 栄誉で管理していたがadministrans、不在中に兵士たちによって最高軍司令官imperatorとして選ばれ、そしてブルディガラで紫衣を僭称したpurpuram sumpsit。彼は兵士たちの多くの暴動をseditione 甘受したpertulit[perfero,III.6.2では「もたらした」]。しかしこのような事どもがガリア内で行われている間にdum、東方ではオデナトゥスによってペルシア人たちが打ち負かされた。シュリアを防衛し、メソポタミアを取り戻しrecepta、クテシフォンに至るまでusque ad オデナトゥスは入り込んだのであるpenetravit。 

Ⅸ.11:(1) かくしてita ガッリエヌスが国家を放ったらかしにしている間に、ローマ帝国は、西方ではポストゥムスにより、オデナトゥスによって東方で救われたのであるservatum est[初出はVI.18.2、あとここのみ]。ガッリエヌスは、その間にinterea メディオラヌム(現ミラノ)で兄弟ウァレリアヌスともども殺されたoccisus est、軍事命令権のimperii 九年目のことだった(在位:二五三年一〇月頃〜二六八年九月頃)。そしてまた-que クラウディウスが兵士たちに選ばれて彼を継承し、元老院により正帝と呼ばれたappellatus 。  (2)  彼はイリュリクムそしてまた-que マケドニアを荒らしていたvastantes ゴート人たちを並はずれたingenti (一回の)戦闘で打ち負かしたvicit 。彼は質素でparcusかつac 控え目でmodestus、そしてet 公正さに忠実かつac 国家の運営にふさわしい人物idoneus[初出、IX.16, 27.1, X.12.1,]であった。彼はそれでもtamen 軍事命令権のimperii 二年目の内に病死した。彼は神君と呼ばれたappellatus est。元老院は彼を並はずれたingenti 名誉で飾り、まさにscilicet 元老院議事堂内に彼自身のために黄金の円楯(クリペウス)が、同様にitem カピトリウム内に黄金の立像が置かれたponeretur(在位:二六八年九月〜二七〇年八月)。

Ⅸ.12: 彼のあと、クラウディウスの兄弟クインティッルスが、兵士たちの合意によりconsensu 最高軍司令官imperatorとして選ばれた。その者はことのほかunicae 控え目さmoderationis と市民性(キウィリタス)をもっており、兄弟と対等であるaequandus か、それともvel 凌駕していたpraeferendus。元老院の合意によってconsensu 正帝と呼ばれappellantes、軍事命令権のimperii 十七日目に殺されたoccisus est(在位:二七〇年九月)。 

Ⅸ.13:(1)  彼のあと、アウレリアヌスが軍事命令権をimperium 引き受けたが、彼はダキア・リペレンシス由来でoriundu、戦争においてbello 有能な人物であったが、それでもtamen 常軌を逸した精神のanimi immodici[ここのみ]、そして無慈悲な傾向があったpropensior[VII.16.2,X.15.2]。<彼>もまたquoque ゴート人たちをきわめて活発にstrenuissime 打ち負かしたvicit。ローマの主権をdicionem[他は、VI.1.3, VI.3のみ]往時のpristinos[ここのみ]諸国境へとad fines 諸戦争でbellorum 種々の幸運によってuaria felicitate 奪還したrevocauit。ガリアでテトリクスをカタラウニ人たちの(地=Châlon-sur-Marne)で負かしたsuperavit。それはテトリクス自身が自らの軍隊をexercitum 見捨てたからで、その軍隊の絶え間ない諸暴動にseditiones 彼(テトリクス)が対処できなくなっていたからである。そればかりかそのうえquin etiam[初出、あと、X.17.2のみ]、彼は密書によってper litteras occultas[ここのみ]アウレリアヌスへと以下のように懇願していた、すなわち他の事どもの間にウェルギリウスの一句「予を救い出せ、不敗の者よ、かの悪しき事どもから」Eripe me his inuicte malis を用いてのことだった(ガリア皇帝在位:二七一〜二七四年)。  (2) ゼノビアもまたquoque、夫オデナトゥスが殺されたので東方を掌握していたがtenebat、アンティオキアからそれほど遠くないところでhaud longe ゆゆしきgravi 戦闘もなく彼は捕獲しcepit、そしてまた-que ローマへと入った際に著名なnobilem 凱旋式を、まるでquasi 東方そしてまた-que 西方の回復者receptor であるかのように行ったが、戦車をテトリクスとゼノビアに先導させたのである。無論quidem かのテトリクスは、のちにルカニア県監督官corrector となり、およびac 私人として非常に長く生きたvixit。ところでautem ゼノビアは、依然としてadhuc ローマに存続している manent子孫たちを残したreliquit。 

Ⅸ.14: 彼が命令権を行使しているimperante 時に、そのうえetiam 首都で貨幣製造者たちが反乱を起こし、諸々の金銭が偽造され、そして貨幣鋳造担当者のrationali フェリキッシムスが殺害された。彼らは打ち負かされ、アウレリアヌスは究極の無慈悲さでcrudelitate 根絶したconpescuit[ここのみ]。彼は多くの貴顕な人々をnobiles 頭格刑に断罪したdamnauit。彼は獰猛saevus そして血に飢えsanguinarius[初出、あとX.1.3のみ]、およびac 誰かにとり人好きするamabilis よりも、誰彼となくin quibusdam 必要とされているnecessarius 最高軍司令官imperator だったのである。いつでも情け容赦なくtrux[ここのみ]そのうえetiam 姉妹の息子の殺害者でもあり、それでもtamen 軍規のdisciplinae militaris そしてet 弛緩した諸慣習の大部分に関する矯正者corrector であった。

Ⅸ.15:(1)  彼は首都ローマをより堅固な城壁で囲んだ。彼は神殿を太陽神(ソル)のために建設し、その中に数え切れないほどのinfinitum 黄金そしてまた-que 諸々の貴石を置き、属州ダキアーーそれをトラヤヌスがダヌビウス(河)を越えて作っていたーーを放擲したがintermisit[ここのみ]、それは全イリリュクムとモエシアが荒らされてvastato、彼はそれを保持することができないと絶望したから、そしてまた-que ダキアの諸主都と諸農耕地(アゲル)からex urbibus et ageris 引き揚げさせられたabductos[ここのみ] ローマ人たちをモエシア中部に据え置きcollocauit[ここのみ]、そしてまた-que それをダキアと呼んだ。それは今やnunc 二つのモエシアに分割し、そして海へと注ぐダヌビウス(河)の右岸にある。以前は左岸にあったのであるが。  (2)  彼は自分自身の奴隷の欺瞞fraude によって殺される。彼(その奴隷)は彼(アウレリアヌス)自身の友人たちの、ある将官たちへとad quodam militares uiros、彼らの名前を書き付けてadnotata もたらしたpertulit、虚偽で彼の筆跡を模倣して、あたかもtamquam アウレリアヌスが彼ら自身たちを殺そうと準備しているかのようにpararet、そしてかくして itaque 彼は先手をとられてpraeueniretur[初出、あとIX.16,X.4.4]、まさにその彼らによって旅の途中で殺害されたinterfectus est、そこはコンスタンティノポリスとヘラクレイアの間の旧道にあたり、その場所はカエノフルリウムと呼ばれていたappellatur。それでもtamen 彼の死は復讐を免れることはなかった。彼もまたquoque 神君たちの間へと列せられることを得たmeruit(在位:二七〇年秋〜二七五年秋)。

Ⅸ.16: タキトゥスが彼のあと軍事命令権をimperium 引き受けた。彼は卓越したegregie 性向のmoratus[初出、IX.26, X.2.1には二箇所]人物で、そして国家の運営にふさわしかった。それでもtamen 彼は何も傑出さ(クラルス)を示すことができず、軍事命令権のimperii 六ヶ月の内に死に先手をとられてしまったpraeventus(在位:二七五年冬〜二七六年六月)。フロリアヌスが彼を継いだが、二ヶ月と二十日間軍事命令権の中にin imperio あったが、にもかかわらずneque 彼も記憶に値するようなことを何もなさなかった(在位:二七六年夏)。

Ⅸ.17:(1)  彼の後、プロブス、軍事的栄光において光輝ある人物vir inlustris が国家の管理へとad administrationem 加わったaccessit。蛮族たちによって占領されていたoccupatas 諸ガリアを、彼は諸戦闘でのproeliorum 並はずれた幸運のうちにfelicitate 取り戻したrestituit。軍事命令権をimperium 僭称しようと企てたある者たち、まさにscilicet 東方でのサトゥルニヌス、アグリッピナ(現ケルン)でのプロクルスとボノススを、諸会戦でcertaminibus 制圧した。 (2)  ブドウの木々をガリア人たちとパンノニア人たちが持つことを許可して、軍隊動員によりopere militari シルミウムのアルマ山と上モエシアのアウレウス(山)でブドウの木々を植え、そして属州民たちに植民すべき(土地)を与えたdedit。 (3)  彼は、数えきれないほどの戦争をbella 遂行したので、平和がもたらされたら、やがてbreui 兵士たちは不必要になるだろう、と言った。かの人物vir は鋭敏なacer、敏腕なstrenuus、活発でstrenuus、公正で、そして彼はアウレリアヌスと軍事上の栄光では対等視されaequaret、ところでautem 性格の市民性(キウィリタス)においては負かしていたsuperaret。それでもtamen 彼は殺害されたinterfectus est、シルミウムで軍隊の騒乱でtumultu 鉄塔の中でin turri ferrata(在位:二七六年夏頃〜二八二年秋)。

Ⅸ.18:(1)  彼の後、カルスが正帝とされたが、彼はガリアのナルボ生まれだった。彼は遅滞なくconfestim 息子たちであるカリヌスとヌメリアヌスを副帝とした。しかし彼がサルマタエ人たちに対する戦争をbellum 遂行していた間にdum、ペルシア人たちの騒乱がtumultu 通知されて、東方へと進発し、ペルシア人たちに対して顕著な(ノビリス)な諸事績を挙げた。彼ら自身を戦闘でproelio (s.) 撃破し、コケ[クテシフォンの対岸のセレウキアのこと]、クテシフォンというきわめて名高い(ノビリッシマ)諸主都を urbes nobilissimas 捕獲したcepit。そしてティグリス(河)を越えて陣営を張った時に、神的な雷の力により亡くなったperiit(在位:二八二年秋〜二八三年夏頃)。  (2)  彼の息子ヌメリアヌスもまたquoqueーー彼を(カルスは)自分とともに副帝としてペルシア人たちへと連れてきていたがーー、卓越したegregiae 諸々の素質をindolis[初出、他はX.6.3, 9.1]持った未成年adulescens であったが、 両眼の痛みに襲われて小さな輿で運ばれていたときに、彼の義父であった扇動者アペルに諸々の奸計によりper insidias 殺された occisus est。そして悪企みによりdolo 彼の死は、アペルが軍事命令権を強奪できるinvadere ようになるまで隠されたのだが、死体の悪臭で露見した。というのもenim 彼に随行していた兵士たちが腐敗臭に刺激されて、小さな輿の幕を拡げdeductis、数日後に彼の死に気がつくことができたからであった(在位:二八三年夏〜二八四年秋)。      

Ⅸ.19:(1)  その間にinterea カリヌスはーー彼を副帝としてパルティア人たちへと進発したカルスが、イリュリクム、ガリア、イタリアのために残していたがreliqueratーー、あらゆる諸々の犯罪行為でsceleribus 自らを汚した。これは多数の罪なき者たちをinnoxios、諸々の罪をcriminibus[ここのみ]でっち上げて殺し、貴顕な(ノビリス)婦人たちを堕落させcorrupit、学友たちにとってcondisciulisもまたquoqueーー彼(カリヌス)を講堂(アウディトリウム)でたぶんvel 軽いいじめでfatigatione けなしたことがあったtaxaverant[ここのみ]ーー、彼は致命的perniciosus であった。それらのことであらゆる人々に嫌われた彼は、ほどなくしてnon multo post 諸々の罰を受けた。  (2)  というのもnam ペルシアから勝利者として帰還したrediens 軍隊exercitus が、正帝カルスを雷で、副帝ヌメリアヌスを奸計でinsidiis 失っていたので、ダルマティア出身のディオクレティアヌスを最高軍司令官としてimperatorem 選出したからである。彼はきわめて知られざるobscurissime 素性の人物で、多くの者からは書記(スクリバ)のscribae 息子と、少なからぬ人々からはa nonnullis[初出、あとX.7.2, 8.1, 16.3, 17.1]元老院議員アヌッリヌスの解放奴隷libertinus(リベルティヌス)と信じられているほどである。   

Ⅸ.20:(1). 彼は最初の軍隊集会でexercitus contione[初出、X.3.1に類似表現in contione exercituum]誓った、ヌメリアヌス殺害は自分自身の悪企みにdolo よるものではない 、そしてそのとき彼の横にいたアペルこそが、ヌメリアヌスに奸計をinsidias 仕掛けていたのだ、として、彼(アペル)は軍隊の目の前でディオクレティアヌスの手で長剣(グラディウス)により刺殺された。  (2)  その後postea あらゆる者たちの敵意と嫌悪でもって生きていたカリヌスを、彼はマルグス(河)で並はずれた戦闘によりproelio 打ち負かしたvicit。彼(カリヌス)は自身の軍隊exercitu にーー彼は(ディオクレティアヌスより)より強力な(軍隊)を持っていたのだがーー裏切られ、その上さらにcerte 見捨てられた。それはウィミナキウムとかつまたatque アウレウス山の間でのことだった(在位:二八三年夏〜二八五年夏か秋)。 (3)  かくしてローマ人たちの事ども(権力)を得た彼は、騒乱をtumultu 農夫たちがガリアで煽り立てconcitassent、彼ら自身の党派にバガウダエの名を付け、ところでautem 彼らはアマンドゥスとアエリアヌスという将軍たちduces(ドゥクス)を持っていたので、 彼らを従わせるためにad subigendos eos 副帝マクシミアヌス・ヘルクリウスを送った。彼は農民たちを軽微な諸戦闘でproeliis 押さえ込んでdomuit、そしてガリアの平和を回復させたreformauit[ここのみ]。

Ⅸ.21:これらの諸時代にper haec tempora[初出、他はX.13のみ]そのうえ、カラウシウスーー彼はきわめて卑賎なvilissime 生まれであったが、活発なstrenuae 軍務の連続によりordine 卓越したegregiam 名声を得ていたーーは、ボノニア[ここのみ:現Boulogne-sur-Mer]あたりでベルギカとアルモリクスの(海岸)線に沿ってper tractum[ここのみ]、そこをフランク人たちとサクソネス人たちが脅かしていたが、彼は海域平定を引き受けていたので、多くの蛮族をしばしばsaepe 捕らえたにもかかわらず、手つかずの戦利品をpraeda integra (s.) あるいはaut 属州民たちに返還するreddita こともせず、あるいはaut 最高軍司令官たちにimpeatoribus 送りもしなったために、以下の疑いが生じ始めた、(すなわち)故意に彼によって蛮族たちが戦利品praeda (s.) とともに通過するのを見逃し、かつまたatque この機会に私服を肥やしているのではないか、と。それでマクシミアヌスによって殺害が命じられと、彼(カラウシウス)は紫衣を僭称しpurpuram sumpsit、そしてブリタンニア諸州を占領したoccupavit。

Ⅸ.22: (1)  このように全世界にわたって諸事態が混乱に陥っていたとき、ブリタンニア人たち(の地)ではカラウシウスが反乱を起こしており、アキレウスがアエギュプトゥスで(反乱を起こし)、アフリカをクインクエゲンティアニ(十五部族)たちが脅かし、ナルセウスが東方で戦争をbellum 起こしていたので、ディオクレティアヌスはマクシミアヌス・ヘルクリウスを副帝から正帝とし、コンスタンティウスとマクシミアヌス(・ガレリウス)を副帝たちとした。彼らのうち、コンスタンティウスは娘を介したクラウディウスの孫nepos と伝えられていてtraditur、マクシミアヌス・ガレリウスはセルディカからそれほど遠くないhaud longe ダキア生まれだった。 かつまたatque、彼(ディオクレティアヌス)がそのうえetiam 彼らを婚姻によってもつなげるために、コンスタンティウスはヘルクリウスの義理の娘テオドラを受け入れ、彼女からのちにpostea コンスタンティヌスの兄弟である六人の子どもたちを持ち、ガレリウスはディオクレティアヌスの娘ウァレリアを(受け入れ)、両者とも彼らが持っていた妻たちを離縁することを強いられたのである。  (2)  カラウシウスとは、それでもtamen 諸々の戦争がbella 無益にかの百戦錬磨の人物に対して試みられた挙げ句に、最終的にad postremum 和平が成立した。彼(カラウシウス)を七年後に彼の相棒socius のアレクトゥスが殺した、かつまたatque 彼(アレクトゥス)自身が 彼(カラウシウス)の後、ブリタンニア諸州を三年間掌握したtenuit。彼(アレクトゥス)は(コンスタンティウスの)近衛軍長官アスクレピオドトゥスの指揮により制圧された。かくしてブリタンニア諸属州は十年目に取り戻されたreceptae。

Ⅸ.23:その同じ頃per idem tempus[あと、IV.11のみ]、副帝コンスタンティウスによって、ガリア内では上首尾に戦いが行われたpugnatum est。リンゴネス(現Langres)では一日で逆境と順境を彼(コンスタンティウス)は経験した。というのもnam 不意にrepente[ここのみ]急襲してきたingruentibus[ここのみ]蛮族たちによって都市の中へと彼が追い込まれたとき、それほどまでにtam 火急のpraecipiti [初出、他はX.10.1]必要でnecessitate 、(すなわち) 諸城門が閉じられていたので城壁内に綱(pl.)で引き上げられたのだった。かろうじてvix 五時間を介してmediis 軍隊がexercitu 到着して、彼はほぼ六万のアラマンニ人たちを打ち倒したcecidit。正帝マクシミアヌスもまたquoque アフリカで戦争を征しprofligavit[初出、あとX.7.1, 12.1]、クインクエゲンティアニを押さえ込みdomitis、そして和平へと至らせることによって、である。ディオクレティアヌスはアレクサンドレイアで包囲されたアキレウスをほぼfere 八か月目に負かしてsuperavit、そしてまた-que 彼を殺害した。彼は勝利を存分にacerbe[ここのみ]利用した。(すなわち)全アエギュプトゥスを由々しきgravibus 公権剥奪公告でproscriptionibus(プロスクリプティオネス:別に、X.11.2)、そしてまた-que もろもろの屠殺によってcaedibus 辱めたfoedavit[ここのみ]。この機会に彼はそれでもtamen 先見の明をもって多くのことを整えそして定めた、それらは我々の時代にまで存続しているmanent。  

Ⅸ.24:ガレリウス・マクシミアヌスは最初にprimum ナルセウスに対して不首尾な戦闘をproelium 行った。それはカリニクムそしてまた-que カラエの間で交戦した彼が、無気力というより無思慮に干戈を交えたdimicasset からであった。というのもenim まったくもってadmodum 多勢に無勢で敵と(闘い)始めたからである。こうしてigitur 彼は撃退され、そしてディオクレティアヌスへと進発させられ、行軍中の彼(ディオクレティアヌス)に遭遇した際に、たいそう傲慢にinsolentia 迎えられたと噂されているfertur。すなわちut 数千バッススにわたり紫衣を着たまま(ディオクレティアヌスの)乗物へと伴走したと伝えられているほどであるtradatur。

Ⅸ.25:(1)  すぐにそれでもmox tamen イリュリクムそしてまた-que モエシアを回って軍勢がcopiis 集められ、またもやrursus ホルミスダとサポルの父祖であるナルセウスと、彼(ガレリウス)は大アルメニア内で並はずれたingenti 成功で闘ったのだがpugnavit、少なからぬ賢慮consilio と同時にsimul 勇敢さでおこなった、実際quippe、彼はそのうえetiam 偵察兵の役割を、二番目あるいはaut 三番目の騎士身分[単数なので、おそらく彼の五名配属されていたとされる騎士身分幕僚たちtribuni angusticlavii 内での序列を示していると解釈する;もう一人いたtribunus laticlavius は元老院身分]とともに引き受けたのである。彼はナルセスを撃退して、彼の陣営を掠奪したdiripuit:妻たち、姉妹たち、子供たち、その外にextrinsecus[ここのみ] ペルシア人たちの数え切れないほどの貴顕階級infinitam nobilitatem、ペルシアのきわめて莫大な宝物をgazam[ここのみ]捕獲したcepit 。彼(ナルセウス)自身を王国の最果ての荒野へと彼は追いやった。それゆえにquare、メソポタミアにそのときtum 諸守備隊とともに滞在していたディオクレティアヌスにより、欣喜雀躍してovans[ここのみ]帰還したregressus 彼は並はずれた名誉で受け入れられた。  (2)  つづいてdeinceps 彼らは一緒にsimul、そして個々にviritim[ここのみ]、さまざまな戦争を行い、カルピ人たち(m.)、そしてバスタルナエ人たち(m.)を屈従させsubactis、サルマタエ人たち(m.)を打ち負かし、それらの(f.)諸種属をnationum 並はずれた捕虜たちの軍勢copias としてローマの領域内にin Romanis finibus 配置した。

Ⅸ.26: ディオクレティアヌスは抜け目ないcallide[ここのみ]性向だった、加えてpraeterea 生まれた時から鋭敏でsagax[ここのみ]そしてまったくもってadmodum 明敏でsubtilis[ここのみ]、そして彼は自身の厳格さを、他の嫉妬によって和らげることを望んでいたet qui severitatem suam aliena invidia vellet explere[ここの意味はとりづらい]。それでもtamen 彼はきわめて入念でdiligentissimus そしてきわめて聡明なsollertissimus[ここのみ]元首であり、そして彼はローマ帝国に初めてprimus ローマの自由よりも王風の慣習形式を持ち込み、そしてまた-que 彼に跪拝することをadorari[ここのみ] 命じたiussit。彼以前にすべての者(皇帝)たちは挨拶(のみ)されていたsalutarentur[ここのみ]にもかかわらず、である。彼は諸々の貴石で装飾されたornamenta 衣服、そしてまた-que 履物さえ採用した。というのも以前はnam prius 軍事命令権のimperii 標章はinsigne 紫色の外套においてin chlamyde[ここのみ]のみtantum で、残りは(他の者たちと)共通だったのだが。

Ⅸ.27:(1) ところでautem ヘルクリウス(マクシミアヌス)は明白にpropalam [ここのみ]生来粗野でferus[初出、あとX.13のみ]、そして非市民的でincivis[ここのみ]、そのうえetiam 自身の粗暴さをasperiatem[ここのみ] 形相の恐ろしさで示していた。 彼は自身の性格をnaturae suae 気遣って、ディオクレティアヌスにおしなべてin omnibus きわめて獰猛なsaevioribus 賢慮でconsiliis 従っていた。それでもtamen 歳を重ね、ディオクレティアヌスは軍事命令権を指揮するには自身が(もはや)ふさわしくidoneum ないと感じてsentiret[初出、他はX.2.1のみ]、ヘルクリウスに対し(ディオクレティアヌスが)説いたのは、(両者とも)私人の生活へと引退しconcederent、そして国家を維持する立場をより活力があり、そしてまた-que より若い者たちに委ねることであった。彼(ディオクレティアヌス)にしぶしぶaegre[ここのみ]同僚(マクシミアヌス)は従った。 (2)  それでもtamen 両者とも同日に私人の衣服に軍事命令権の標章をimperii insigne 変化させたmutauit【初出、他はX.6.2】、ニコメディアでディオクレティアヌスが、メディオラヌム(現ミラノ)でヘルクリウスが、周知の凱旋式後に(行った)。数多くの諸部族gentibus からのそれ(凱旋式)を彼らはローマで諸々の山車のferculorum[ここのみ]光輝ある行列をinlustri pompa 伴って行った。その行列ではナルセウスの妻たち、そしてまた-que 姉妹たち、そして子どもたちが、戦車の前を引っ立てられ、それでもtamen 一人はサロナへ、他はルカニアへと引退したconcesserunt。

Ⅸ.28:ディオクレティアヌスは私人として別荘villaーーそれはサロナからそれほど隔たっていないhaud procul【初出、他はX.2.3のみ】所にあるーーの中で、充実した余暇をotio[ここのみ]伴って老いたのだが、彼は異例なほどのinusitata 武徳(ウィルトゥス)を示したが、すなわち彼のみがあらゆる者たちの中でローマ帝国創建後、これほどの高みからex tanto fastigio 自由意志でsponte 私人生活の立場へと、そしてまた-que 一市民(キウィリタス)へと戻ったremearet[初出、他はX.16.2のみ]からであった。こうしてigitur 彼に生じたcontigit のは、人類誕生後誰にもなかったこと、すなわち彼は私人として崩御したとき、それでもtamen 神君たちの間に列せられたのである。

第十巻 

Ⅹ.1:(1) こうしてigitur、彼らが国家の管理からadministratione 去り、コンスタンティウスとガレリウスが正帝たちに選出され、そしてまた-que 彼らの間で次のようにローマ世界は分割された。ガリア諸州、イタリア、アフリカをコンスタンティウスが、イリュリクム、アシア、オリエンスをガレリウスが得てobtineret、二人の副帝たちが採用されたsumptis。 (2) コンスタンティウスはそれでもtamen 正帝の顕職で満足して、かつまたatque 管理すべきadministrandae イタリアとアフリカの配慮をsollicitudinem[ここのみ]固辞したrecusauit[ここのみ]。彼は卓越しegregius 、そしてきわめて注目すべきpraestantissimae 市民性(キウィリタス)の人物で、諸属州民およびac 私人たちの富裕化にdiuitiis[ここのみ]熱心で、元首金庫(フィスクス)のfisci 利益を得ることをまったくもってadmodum 熱望せずadfectans、そしてまた-que 彼は言うには、公の資産がopes ひとつの囲いclaustrum[ここのみ]の中に残されるよりも私人たちによって取っておかれるreservari ほうがよりよい、と。とりわけadeo ところでautem (彼の)生活様式はcultus 控え目modici[初出、あとX.14.1のみ]だったので、祝祭の日々に、もしかなり数多くの友人たちのために宴会を催さねばならないepulandum としても、彼によって一軒一軒ostiatim[ここのみ]要請されたpetito 私人たちの銀製品で諸食堂がtriclinia[ここのみ]覆われるほどであったsternerentur[ここのみ]。 (3) 彼は人好きがするamabilis だけでなく、ガリア人たちにより尊敬されていてuenerabilis、とりわけpraecipue ディオクレティアヌスの猜疑心に満ちた目配りsuspectam prudentiam[ここのみ]とマクシミアヌスの血に飢えたsanguinariam 無分別をtemeritatem[ここのみ]、彼(コンスタンティウス)の軍事命令権によってimperio 彼ら(ガリア人たち)が脱出できたからであったevaserant。(彼が)ブリタンニア内のエボラクム(現ヨーク)で崩御したobiit のは、元首としてprincipatus 保持すること十三年目の年で、かつまたatque 神君たちの間に列せられた(副帝在位:二九三年三月一日〜三〇五年四月三〇日;正帝在位:三〇五年五月一日〜三〇六年七月二五日)。

X.2:(1)  ガレリウスは適切なprobe[ここのみ]性向moratus の人物で、軍事でも卓越していてegreius、彼はイタリアもまたquoque コンスタンティウスが彼(ガレリウス)自身の管理にadministrationi 加わえられることをaccessisse 放置したsinente[初出、他はX.9.1, 15.2]と感じたのでsentiret、二人の副帝たちを選出したcreauit、(すなわち)彼(ガレリウス)がオリエンスへの長官職に任じたマクシミヌス(・ダイア)、そしてセウェルスーー彼に彼(ガレリウス)がイタリアを与えたーーを。彼自身はイリュリクムに滞在したmoratus est[=moror]。 (2) だがverum、コンスタンティウスが死ぬと、コンスタンティヌス、きわめて胡散臭いobscuriore 婚姻から生まれた彼の息子が、ブリタンニアで最高軍司令官imperator に選ばれ、そして父の地位へときわめて望ましい調整者exoptatissimus moderator[ここのみ]として加わったaccessit。 (3)  ローマではその間にinterea 近衛兵たちが、騒乱をtumultu 引き起こしexcito[ここのみ]、ヘルクリウスの息子マクセンティウスーー彼は首都ローマからそれほど隔たっていないhaud procul 公共別荘内にin uilla publica[初出、他はX.8.2](ウィラ・プブリカ)滞在していたmorabaturーーを正帝に指名したnuncupaverunt[ここのみ]。その通知によりnuntio マクシミアヌス・ヘルクリウスは、高みを取り戻すresumendi fastigii 希望へとad spem 鼓舞されてarrectus[ここのみ]ーー彼はそれを不本意ながらinvitus[ここのみ]喪失してしまったamiserat のだがーー、ローマへとルカニアから飛ぶようにやって来たaduolauit[ここのみ]、彼はそこの座を私人として選択していてelegerat[ここのみ]、きわめて心地よいamoenissimis 田園の中で老い朽ちていたのだが、そしてまた-que そのうえディオクレティアヌスを数々の書簡を通じて、あたかも捨てた職権をpotestatem 回復するよう駆り立てたのだがadhortatus est[ここのみ]、それらをかの男(ディオクレティアヌス)は一顧だにしなかったinritas habuit[ここのみ]。 (4) しかし近衛兵たちの、かつまたatque マクセンティウスの動きに対抗して、副帝セウェルスはローマへとガレリウスから送られて、軍隊とともにやってきて、そしてまた-que 首都を攻囲中に彼自身の兵士たちの犯罪行為のためscelere 見捨てられた。マクセンティウスの権勢がopes[初出はVIII.8.3、通例はX.1.2のように「資力」]ふくらんでauctae[原形はaugeo, ここのみ]、そしてまた-que 軍事命令権が確立されたのであるconfirnatum[ここのみ]。セウェルスは逃亡してfugiens、ラウェンナで殺害された(副帝在位:三〇五年五月一日〜三〇六年;正帝在位:〜三〇七年)。

X.3:(1) ヘルクリウス・マクシミアヌスは、それでもtamen それらのあと軍隊集会でin contione exercituum 息子マクセンティウスを丸裸にするnudareことを企てたが、兵士たちの暴動と諸々の誹謗を引き起こすことになった。  (2) そこからガリア諸州へと彼は進発した、悪巧みがdolo 仕掛けられて、あたかも息子から追い払われたかのように(取り繕い)、それで娘婿コンスタンティヌスと結ぶためであったが、それでもtamen 彼はコンスタンティヌスを機に乗じて殺害することを目論んでいたのであるがmolierns、彼(コンスタンティヌス)はガリア諸州内にも属州民たちにもすでにiam 並はずれた好意で統治していたので、フランク人たち、かつまたatque アラマンニ人たちは倒され、彼らの王たちは捕らえられ、そのうえetiam 彼は 彼らを野獣どもへと、彼が豪華な見世物を奉納するために準備していたのでparasset、差し出したのだった。こうしてigitur 諸々の奸計はinsidiis 娘ファウスタにより暴露されdetectis、というのは、彼女は悪巧みをdolum かの人物(コンスタンティヌス)に漏らしていたからだったがenuntiauerat[ここのみ]、ヘルクリウスは逃げおおせ、そしてまた-que マッシリア(今のマルセイユ)で制圧された、(というのもenim そこから息子(マクセンティウス)へと渡航すべく前もって準備していたからだがpraeparabat)、諸々の罰をきわめて正当な結末によって受けたのであるdedit、かの人物はあらゆる過酷さへとacerbitatem、そしてまた獰猛さへとsaevitiamque 傾きがちで、不誠実でinfidus[ここのみ]、非友好的で、徹底的にpenitus 市民性(キウィリタス)を欠いた人物だった。

Ⅹ.4:(1) この時期にper hoc tempus[ここのみ]、ガレリウスによりリキニウスが最高軍司令官imperator とされたが、彼はダキア由来でoriundus、彼は彼(ガレリウス)との古き交際で知られており、そしてナルセウスに対して行っていた戦争で精力的strenuus であるとして、諸々の精勤laboribus と諸々の職務によって受け入れられていた。 (2) ガレリウスの死が遅滞なくconfestim 続いた(副帝在位:二九三年春〜三〇五年五月一日;正帝在位:〜三一一年五月五日)。こうして国家はそのときtum 新たな四人の最高軍司令官たちによってImperatoribus 掌握されたtenebatur。コンスタンティヌスとマクセンティウス、彼らは正帝たちの息子たちで、リキニウスとマクシミヌスは新人たちだった。 (3)  それでもtamen コンスタンティヌスは、自らの軍事命令権のimperii 五年目に、マクセンティウスに対する内戦をbellum ciuile 引き起こしcommouit、彼の軍勢copias を多くの戦闘で撃破しfudit、最終的にpostremo ローマで貴顕階級に対しあらゆる諸々の災厄によってexitiis[初出、他はX.4.4, 11.2]獰猛を発揮するsaevientem 彼自身(マクセンティウス)を、ムルウィウス橋で打ち負かしvicit(マクセンティウス在位:三〇六年一〇月二八日〜三一二年一〇月二八日)、そしてまた-que イタリアを得ることになった。 (4)  ほどなくして non multo deinceps オリエンス内でもまたquoque リキニウスに対してマクシミヌスが諸変革を目論んだのだがres novas molitus、間近の災厄がexitium タルスス(タルソス)での思いがけないfortuita[ここのみ]死によって先手をとったのであるpraevenit(副帝在位:三〇五年五月一日〜三一〇年;正帝在位:〜三一三年夏)。

Ⅹ.5: コンスタンティヌスはそれでもtamen 並はずれた人物で、そして胸中でanimo[例外訳、他は精神]前もって用意をしていたpraeparasseすべてのことを成し遂げることにおいて際立ちnitens、同時にsimul  全世界の第一人者をprincipatum[例外訳、他は「元首」]熱望しadfectans、リキニウスに戦争をbellum 仕掛けたintulit、彼(リキニウス)と親しい間柄で、そして姻戚関係にあったにもかかわらず、というのも姉妹コンスタンティアが、リキニウスにとって妻だったからである。およびac 最初にprimo 彼をパンノニア・セクンダにおいて、並はずれたingenti 装備でinstruentem 支度された戦争をapparatu bellum キバラエで奇襲してrepentinus 制圧し、そしてまた-que ダルダニア、モエシア、マケドニアすべてを得て数々の諸属州を占領したoccupavit。

Ⅹ.6:(1)  続いてdeinceps 様々な戦争がbella 彼らの間であり、そして和平が回復したりそしてまた-que 破られたりした。最終的にpostremo リキニウスは海・陸の戦闘proelio (s.)で打ち負かされて、ニコメディアで降伏し、そして神かけての誓いにもかかわらずcontra religionem sacramenti[ここのみ]、テッサロニカで私人(だった)のに殺されたoccisus est(在位:三〇八年一一月一一日〜三二四年九月一九日)。  (2) その時にはeo tempore、ローマ国家は一人の正帝そして三人の副帝たちの下にあり、そのことは決してnumquam その他の時にはalias[初出、他はX.15.2, 17.3]なかったことで、コンスタンティヌスの子供たちが、ガリア諸州、オリエンス、そしてまた-que イタリアを統括していたのであるpraeessent[ここのみ]。  (3) だがverum かなりの順境で傲慢になってinsolentia、コンスタンティヌスは好ましい精神のanimi かの従順性からdocilitate[初出、他はX.7.2]変化させてしまったmutauit。まずprimum 親戚たちを迫害した彼は、卓越したegrerium 人物である息子を(クリスプス、副帝在位:三一七〜三二六年)、そして姉妹の息子で、よき素質のindolis 青年をiuvenem 殺害し(リキニウスの息子リキニウス二世、副帝在位:三一七〜三二四年九月一九日)、すぐにmox 妻(ファウスタ)を、その後post 多くの友人たちを(殺害した)。

Ⅹ.7:(1) かの人物(コンスタンティヌス)は軍事命令権のimperii の最初の時期においては、最良の元首たちにprincipibus、終わり(の時期)には並の(元首たち)と比較すべきconparandus(存在)である。彼の中で精神そしてまた肉体のanimi corporisque 無数の武徳は明白であった。 彼は軍事的栄光gloriae をきわめて渇望しadpetentissimus、幸運は諸戦争の中でin bellis 望み通りになった、だがverum またita,ut(幸運は彼の)精励ぶりをindustriam 負かしてはいなかったのであるsuperaret。というのもnamそのうえetiam 彼はゴート人たちを様々に征してprofligavit、和平が彼らに最終的に与えられ、そしてまた-que(ゴート人に苦しめられた)蛮族の諸部族gentes の間で、並はずれた感謝を記憶に残したからである。  (2) (彼は)市民的諸学芸そして自由諸学科への熱意にcivilibus artibus et studiis liberalibus 身を捧げdeditus、当然与えられるべき愛の熱望者adfectator[ここのみ]で、その愛をあらゆる人々から自分自身に対し贈与でもliberalitate そして従順性docilitate でも求め、ちょうどsicuti 少なからぬ友人たちにはnonnullos amicos 彼は疑いをもったもののdubius、まさしくita 残りの多くの(友人たち)には卓越したegregius (存在)であった、(というのも彼は)諸々の機会を看過することなくpraetermittens[初出、他はX.18.3]、それにより彼らをより富裕にしopulentioresそしてまた-que より傑出した(身分=元老院身分)にclarioresしようとしたからであるpraestaret。

Ⅹ.8:(1) 多くの諸法令をleges 各々のそれらについてquasdam 良きそして公平な(精神spirito)によりex bono et aequo 、彼は提議したがrogavit[ここのみ]、きわめて多くが過剰でsuperfluas[ここのみ]、少なからず厳格でnonnullas severas、そしてまた-que 彼は最初の人物primus だったのだ、自分自身の名前の首都をurbem 大いなる高みへとad tantum fastigium 持ち上げることをevehere 目論んだmolitus est、ローマに張り合わせたいがために。 (2) パルティア人たちに対する戦争をbellum 彼は目論んでいてmoliens、というのは彼らがまさにiam メソポタミアを憔悴させていたからだがfatigabant、軍事命令権の三十一年目の年uno et tricesimo anno、生涯の六十六年目に、ニコメディアの公的別荘内でin villa publica(ウィラ・プブリカ)崩御したobiit。 (3) 彼の死は、そのうえetiam 長い髪を持つ星によってper crinitam stellam[ここのみ]警告されていたdenuntiata est。その星は異例なほどの大きさでinusitatae magnitudinis かなり長い間aliquamdiu[初出、あとX,9.3, 16.1]輝いていたのだったfulsit[ここのみ]。それをギリシア人たちは彗星とcometes[ここのみ]呼んでいる。かつまたatque 彼は神君たちの間に列せられることを得たmeruit(在位:正帝歓呼三〇六年七月二五日〜;ガレリウスにより副帝承認同年夏〜;マクシミアヌスにより正帝昇格三〇七年晩夏〜;カルヌントゥム会議により副帝降格三〇八年一一月〜;正帝公称三一〇年五月〜三三七年五月二二日)。

Ⅹ.9:(1) 彼は、後継者たちとして三人の息子たちを、かつまたatque 兄弟の息子一人を残したreliquit。だがverum、副帝ダルマティウスは非凡な素質によってindole、伯父に似てなくもなかったがneque absimilis[初出、他はX.16.3のみ]、その後ほどなくしてhaud multo post[ここのみ]、軍のある党派factione によって、そして彼の従兄弟コンスタンティウスによって制圧されたのだが、それは(コンスタンティウスの)命令でというよりも放置によってsinente だった(副帝在位:三三五年九月一八日〜三三七年九月初頭)。 (2) なおかつporro【ここのみ】戦争を兄弟(コンスタンス)に仕掛けてinferentem【ここのみ】、そしてアクイレイアでかなり無謀なinconsultius[初出、他にX.16.2]戦闘に着手したコンスタンティヌスを、コンスタンスの将軍たちがduces 抹殺したinteremerunt。 (3) かくしてita 国家は二人の正帝たちへと戻されたredacta。コンスタンスの軍事命令権はimperium かなり長い間aliquamdiu 活発でstrenuum そして公正だった。すぐにmox 病弱な健康状態になったこととet より堕落した友人たちを用いたことで、由々しきgravia 悪徳へと向いた彼は、属州民たちにとっては耐えがたい者、軍にとっては感じのよくないiniucundus 者となったので、マグネンティウスの党派によってfactione 殺されたoccisus est。 (4) 彼が崩御したのはobiit、ヒスパニア諸州からそれほど遠くないhaud 、ヘレナという名である陣営内で、帝権のimperii 十七年目、生涯の三十番目の年のことであった。それでもtamen 彼は数多くの事どもを活発にstrenue 軍務において実行し、そしてまた-que 軍隊にはexercitui 全生涯を通して由々しきgravi 無慈悲さcrudelitate なしで、畏怖感を抱かしめていた(在位:三三七年九月九日〜三五〇年一月一八日)。

Ⅹ.10:(1)  異なっていたのがコンスタンティウスの運命である。ペルシア人たちによってたしかにenim 多くのそして由々しきgravia 事どもを味あわされたからである。(すなわち)しばしばsaepe 町々がoppidis 占領され、諸主都がurbibus 包囲され、諸々の軍隊がexercitibus 倒され、そしてまた-que 彼にとってサポルに対する上首尾な戦闘はまったくなかった。シンガラで疑いのない勝利を兵隊たちの暴走でferocia[ここのみ]喪失したamisitことを除けばであるが。彼らは闘いをpugnam 暴動的にseditiose そして愚かしくもstolide[ここのみ]戦争の原則に反して、まさにiam 日が暮れつつあるにもかかわらず、要求したのである。 (2) コンスタンスの殺害necem 後、マグネンティウスが、イタリア、アフリカ、ガリア諸州を得てobtinente、そのうえetiam イリュリクムは諸変革がres novas あり、ウェトラニオが軍事命令権へとad imperium 軍隊の合意で 選ばれた。彼らは、まさにiam 老齢でそしてすべての人々により人好きのするamabilem 彼を、軍歴の長さと幸運の内にfelicitate イリュリクムを防衛するため元首としてprincipem 擁立したのであるcreaverunt。彼は高潔な、そして古い習慣の、およびac 感じよいiucundus 市民性(キウィリタス)の人物で、しかし一切の自由諸学科を欠いていて、読み書きの始めの初歩さえも無論quidem なかった程であったが、しかし彼は老齢にかかわらず、まさにiam 最高軍司令官imperator を受諾したのである。

Ⅹ.11:(1) しかしコンスタンティウスーー彼は(マグネンティウスによる)兄弟殺害の復讐のためultionem[ここのみ]内戦を引き起こしていたーーにより、ウェトラニオの軍事命令権は剥奪された。新しくそしてまた-que 異常なやり方によって、兵士たちの合意により彼(ウェトラニオ)は(皇帝の)徽章を捨てることを強いられた(在位:三五〇年三月一日〜十二月二五日)。 (2)  ローマでもまたquoque ネポティアヌスによる騒乱を起こしたtumultus。彼はコンスタンティヌスの姉妹の息子であり、剣闘士たちの手勢によってmanum 軍事命令権を主張したのである。彼は獰猛なsaevis もろもろの端緒によりそれにふさわしい災厄にexitium 至った。というのもenim 二十かつまたatque 八日目にマグネンティウス派の将軍たちによりducibus 制圧された彼はもろもろの罰を受けた。彼の首級はcaput eius 投げ槍にpilo(突き刺されて)首都中をper urbem 引き回されcircumlatum est、そしてまたきわめて由々しきgravissimaeque もろもろの公権剥奪公告proscriptiones と貴顕な者たちのもろもろの屠殺がcaedes あった(在位:三五〇年六月三〜三〇日)。

Ⅹ.12:(1) ほどなくしてnon multo post マグネンティウスは、ムルサにおいて戦列でacie 征せられ、およびac ほとんどpaene 捕らえられるところだった。ローマ帝国の並はずれた国力vires がかの激戦でdimicatione 疲弊させられたconsumptae sunt。それはいかなる諸々の対外戦争に対してもふさわしくidoneae 、それら(国力)は多くの凱旋式そしてまた-que 安全を託してconferre きたのだが。 (2) オリエンスにまもなくmox コンスタンティウスにより副帝として与えられたのは、叔父の息子ガッルスだった。そしてまた-que マグネンティウスはさまざまな戦闘によって打ち負かされ、暴力を自分の生命にルグドゥヌムで加えた。軍事命令権の三年目と七か月目のことであった(在位:三五〇年一月一八日〜三五三年八月一〇日)。彼の兄弟もまたquoque セノネスで(自殺した)。彼(マグネンティウス)は副帝である彼を、ガリア諸州を防衛するために送っていたmiserat のである。  

.13: これらの時期を通じてそのうえetiam 多くの非市民的なことが行われたので、コンスタンティウスにより副帝ガッルスは殺されたoccisus est、かの人物(ガッルス)は性格的にnatura 粗野でferus、そして自分の権利iure【この単独訳はここのみ】として軍事命令権を執行するimperare ことが許される限りにおいては、暴君的へとよりなり勝ちだった(在位:三五一年三月一五日〜三五四年末)。シルウァヌスもまたquoque ガリア内で諸変革を目論んでres novas molitus 三〇日目の前に葬り去られextinctus est(三五五年八月一一日〜九月七日)、そしてまたただ一人solusque、 ローマ帝国内でその時コンスタンティウスが元首にして正帝となったのである。     

Ⅹ.14:(1) すぐにmox 彼は副帝ユリアヌスをカリア諸州へと派遣した。彼(ユリアヌス)は彼(コンスタンティウス)の従兄弟で、ガッルスの兄弟で、彼(ユリアヌス)に妻として委ねられたtraditaのは、姉妹(ヘレナ)で、というのも多くの街を蛮族たちが攻略しexpugnassent、他(の町々)を攻囲していたからで、どこでも忌むべき荒廃がfoeda vastitas あってvastitas esset、そしてローマ帝国はまさにiam 災難により傾いていたからであった。彼(ユリアヌス)によりわずかな軍勢copiae でガリアの主都(ウルプス)アルゲントラトゥム(現ストラスブール)で、並はずれたアラマンニ人たちの軍勢がcopiae が消滅しextinctae sunt、きわめて貴顕な王rex nobilissimus(クロドマル)は捕らえられ、ガリア諸州は取り戻されたrestitutae。 (2)  その後postea 同じユリアヌスによって諸々の偉業egregiaが実行され、 そしてまたレヌス(河)の向こう側へとゲルマン人たちは追い払われsunt summotique、そしてその領域をfinibus ローマ帝国は取り戻したrestitutum。

【ここまでで、先行諸文献からの明確な引用は終わる】

Ⅹ.15:(1) にもかかわらずほどなくしてneque multo post ゲルマニア(駐留)の諸軍隊がexercitus がカリア諸州の守備から引き揚げたとき、兵士たちの同意によりユリアヌスは正帝とされ、そしてまた一年をおいて彼はイリュリクムへと支配するため進発した、というのもコンスタンティウスがパルティアとの諸戦闘に忙殺されていたocccupato からである。 (2) 彼(コンスタンティウス)はこれらのことを知ると内戦へと転進したが、行軍中にキリキアそしてまたカッパドキアの間で崩御したobiit 、軍司令官の三十八年目、生涯の四十五年目で、そしてまた神君たちの間に列せられる価値ありとされたmeruitque。かの人物は卓越したegregius 静謐さをtranquillitatis 備え、温和で、過剰にnimium 友人たちや家人たち(ファミリアリス)にfamiliaribus【初出、他は、同所もうひとつのみ】信頼を置き、すぐにmoxそのうえ etiam 妻たちにかなり尻敷かれ、それでもtamen 軍事命令権の始めの数年には並はずれて慎み深く振る舞い、そのうえ etiam 家人たちをfamiliarium 富ませ、名誉を奪われた人々を放置せずneque sinens、彼らの苦労の多い諸職務を確認した場合、そのときtum より厳格になりがちだったのは、軍事命令権への疑念によって動かされた場合で、その他の時にはalias 穏やかでmitis【ここのみ】、そして諸々の外征よりも諸々の内戦の中で、彼の幸運は称賛すべき laudanda かもしれない(在位:三三七年九月九日〜三六一年一一月三日)。

Ⅹ.16:(1) ここからhinc ユリアヌスは事態を掌握し、そしてまた並はずれた支度でingentique apparatu パルティア人たちに戦争を仕掛けたintulit が(三六三年)、その遠征に私もまたquoque 居あわせたinterfui。ペルシア人たちのいくつかの町々と諸城塞を、降伏で受け入れるか、それともvel 力づくで攻略しexpugnavit、そしてまた-que アッシュリアを冦掠してpopulatus est、常設の陣営をクテシフォンにかなり長い間aliquamdiu 置いた(が攻略できなかった)。 (2)  そしてまた-que 勝利者として戻っていてremransque、彼は自身をかなり無謀にinconsultius 諸戦闘の中に入り込ませている間にdum、敵(sing.)の手により殺害されたinterfectus est、六月二十六日のことで、軍事命令権の七年目、生涯の三十二年目のことだった。かつまたatque 神君たちの間に列せられ、彼は卓越したegregius 人物だったので、そして国家を顕著にinsigniter[ここのみ]指導したことであろう、もし運命の女神たちによりper Fata 許されたならば。 (3) 自由諸学科の教養ですこぶるadprime[ここのみ]博識な彼はeruditus、ギリシア的な(事ども)により習熟していてGraecis doctior、いなむしろatque adeo ラテン語の博識eruditio たるや、ギリシア的な知識scientia に決してnequaquam ふさわしくなく、並はずれたingenti そして抜かりないprompta 雄弁さでfacundia、きわめて確かな諸々の記憶力でmemoriae、いわばquidam 哲学者により近かったpropior[初出、あとX.18.2のみ]。友人たちに対しては気前がよくliberalis、しかしこれほど偉大で元首にprincipem ふさわしかったdecuit 彼でも、入念さにおいてdiligens 不十分だったminus。いなむしろたしかにenim 彼の栄光にgloriae 対し傷を与える人が少なからずnonnulli いた。属州民たちにはきわめて公正で、そして租税の抑制者repressor だった、許容できる限りではあるが。すべての者たち(pl.m.)に市民的(キウェリス)で、国庫のaeranii ほどほどの管理をおこない、栄光にはgloriae 貪欲でavidus、およびac そのためにはほとんどplerumque[ここのみ]節度のない精神でanimi inmodici 、キリスト教の過剰なnimius 攻撃者insectator であったが、同程度にperinde[ここのみ]それでもtamen 流血については自粛していてabstineret、マルクス・アントニウスと似てなくもなくnon absimilis、そのうえetiam 彼を真似ようと努めていた。     

Ⅹ.17:(1) 彼のあとpost hunc、ヨウィアヌスーー彼はこのときにtunc 皇帝直近警護兵domesticusとして軍務に就いていたのだがーーが、軍事命令権を得るべくobtinendum 軍隊exercitus の同意により選抜されたlectus est、彼は彼のそれ以上に父の美点によってcommendatione[ここのみ] 兵士たちに知られていた。彼は、すでに諸々の事態が混乱に陥って、軍隊もまたquoque 欠乏で窮していたので、ペルシア人たちに一つuno、かつまたatque二つ目のaltero 戦闘(s.)で打ち負かされ、サポルとの和平を、無論quidem 必要に迫られしかし屈辱的なignobilem(和平を)結んだ。彼は領域finibus(の割譲)で懲らしめられmultatus[ここのみ]、および(すなわち)ac ローマ帝国の少なからぬnonnulla 一部が(ペルシアに)委ねられることになったtradita。 (2) そのことは彼以前においては、ローマ帝国が創建されて以来約fere 1118年の間、決してnumquam 起こった事がなかった(後三六四年:計算はVII.1あたりから二年ずれている)。そればかりかそのうえquin etiam 我々の諸軍団が、ポンティウス・テレシヌスによってカウディウムでもet(II.9)、ヒスパニアのヌマンティアでもet(IV.17)、ヌミディアでもet (IV.26)軛の下に送られたときでさえ、それでもtamen 諸国境のfinium うち何も引き渡されtraderetur なかったほどなのだが。かの和平条件は徹底的にpenitus 非難されるべきではなかったであろう、原状復帰integrumが(可能に)なった時に、もし条約の強制をfoederis necessitatem そのときtum 改善することmutareができさえすれば、ちょうどローマ人たちによって、私が述べてきたこれらすべての諸戦争においてなされたように(なるはずだからである)。というのもnam サムニウム人たちへもet、ムマンティア人たちへもet、ヌミディア人たちへもet、遅滞なくconfestim 諸戦争が起こされ、和平(遵守)など考慮されなかったからであるneque rata fuit[ここのみ]。 (3) しかし、軍事命令権の競争相手(s.)を恐れている間にdum、オリエンス(道)内で引きこもっていたresidens 彼は、あまり(対外戦争の)栄光gloriae に配慮することはなかった。そしてかくしてitaque 行軍を始めて、かつまたatque イリュリクムへと駆けつけたpetens 彼は、ガラティア(属州)の領域でfinibus 不意の死によって崩御したobiit。彼はその他の時にはalias 無能iners[ここのみ]でも無分別inprudens[ここのみ]でもない人物だった。

Ⅹ.18:(1) 多くの者たちは、彼が過剰なnimia 消化不良でcruditate[ここのみ]生命を奪われたexanimatum[ここのみ]と思量しているopinantur[ここのみ](晩餐を催すたびに、たしかにenim もろもろのご馳走にepulis 耽っていたからである)。他の者たちは、寝室の臭気のせいだとodore cubiculi、なぜなら(その寝室は)石灰の新しい上塗りで眠る者たちに由々しかったgrave からだが、ある者は木炭(pl.)のprunarum[ここのみ]過剰のせいnimietate だと。それ(ら)を由々しきgravi 寒さのせいでfrigore 彼が多く燃やすよう命じたからであると。 (2)  彼が死没したdecessit のは、軍事命令権の七ヶ月目、二月十七日のことで、人々が長短いずれも伝えているtradunt 生涯の三十三年目であった。およびac 彼を継承した元首たちのprincipum 慈愛によってbenignitate、神君たちの間に列せられた。というのも、彼は市民性(キウィリタス)においてより近いpropiorもあり、性格はまったくもってadmodum 気前よくliberalisもあったからである(在位:三六三年六月二七日〜三六四年二月一七日)。  (3) これが、同じヨウィアヌスとウァロニアヌスの執政官在職年、首都創建の一千一一八年目のローマ国家の状況だった(この数字掲載は西暦三六五年になるが、史実は三六四年のこと)。なぜならquia ところでautem 周知のin clitos そしてまた-que 畏敬すべき元首たちにprincipes 到達したのでperventum、さしあたりinterim 本書に限度を与えることにしよう。なぜなら、残りの事どもはreliqua より高尚な文体で記述されるべきだからである。それらのことどもをいまやnunc 我々は看過するpraetermittimus というよりむしろnon tam、叙述のより大いなる入念さのためdiligentiam 取っておくためであるreservamus。       

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少しだけ進んだ?、欧米のコンスタンティヌス観

 別件をググってて以下のウェブ論文が偶然ヒットした。Rebecca Denove, Constantine’s Conversion to Christianity(https://www.worldhistory.org/article/1737/constantines-conversion-to-christianity/)。

 著者は合衆国のペンシルベニア州にあるUniversity of PittsburghのSenior Lecturerらしい。なにしろ簡単な叙述なので、意を汲む方向で、細かいことはご容赦ください。

 冒頭で、コンスタンティヌスはキリスト教を受け入れた最初の皇帝として称賛されているが、彼はキリスト教を合法化した最初の皇帝ではなかった、と喝破していて、これで私は彼女の所説に関心をもったわけ。女史はその理由として、軍人不足に悩んだ紀元3世紀の様々の将軍たち(これに正規ないし簒奪の諸皇帝も含まれるはず)がキリスト教徒採用のため統治領域内で寛容令を発布していたが、彼らが戦闘で殺害されると、それら勅令は道端に捨てられてきたのだ、と主張していて、この解釈は要点で正鵠を射ていると、私は思う。もっといえば、彼らは自分の兵士がキリスト教徒であるかどうかなんか問題にしなかっただけのことだろう。生きるすべとしてキリスト教徒で兵士になった者たちにしても兵士と信者であることの葛藤なんかほとんど感じなかったに違いない。

 313年のミラノ勅令の評価にしても、それでキリスト教は許容されていた帝国内の幾千もの帝国先住民たちnativesの信仰の一つに過ぎなかった、としていて、この理解もおおむね正しいと思う。あえていえば、その時々の事情で乱発されていた勅令(というよりももっと軽い、現在日本での政令、といったほうがいいはず)を、いずれにせよ金科玉条のごとく奉って捉えるべきではない、と私は思っている。ま、他に史料がないのだからそれなりに検討しなければならないが。

 女史は、当時の帝国民6000万のうち、300万がキリスト教徒だったにすぎないが、他方、ユダヤ教徒は1100万人[も!]いた、という数字を挙げ、コンスタンティヌスが変化の風を予見してたと主張する研究者もいるが、彼には事前になんらかの信念があってのキリスト教公認だった可能性がある、としていて、このくだりには私も「おおっ」と思わず前のめりになったものだが、その根拠が父コンスタンティウスと同様に彼も不敗太陽神信仰に帰依し、それを父に同行しての従軍中に受け継いだのだろう、と想定していて、このあたりから、私はちょっと女史と距離をとりたくなってしまった。

 だがまあ、コンスタンティヌスはすべての帝国住民の諸宗教を受け入れていたし、彼のアーチ門には異教的モチーフしかないし、死に至るまで洗礼はうけていない、として彼は敬虔なキリスト教徒とは言えなかったとしていて、まあここまでは私も受け入れることができたとしても、だが、ドナティスト問題やニカイア公会議などを論じた後半の論述は、私には大いに不満で異を唱えたくなる内容だった。すべてが彼個人の宗教観に求められていて平板だからである。

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水中考古学のウェブ発見!:遅報(79)

 別件でググっていたら偶然見つけてしまった。山舩(ふね)晃太郎「水中考古学者と7つの海の物語」(https://suichukoukogaku.com/athlit-ram/)。

 ごく最近本も出版されたようだ。さっそく注文しなくては。『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』新潮社、2021/7/15。この分野ではちょっと前に元寇関係が話題となっているが、地中海が主体なようなのでうれしい。

 このウェブ、まだ少し覗いただけであるが、老人にはときに目がちらちらして刺激的な漫画チックな色彩もあるが、なかなか意欲的な内容である。私も現役時代から沈船研究の重要性については学生にそれなりに熱っぽく述べてきていたつもりなのだが、誰も飛び込んでくれなかったので、わが日本にいつの間にかここまでやっている人物がいたとは驚きだった。気になったので著者をググって、二度驚いたことに研究上の知人の教え子だった(https://yab.yomiuri.co.jp/adv/hosei/graduate/vol32.php)。私には感化力がなかったということかぁぁ。

 山舩氏は1984年生まれの、まだ37歳。若いだけにこれからが楽しみである。三Dモデル関係で会社も設立しているようで、抜かりもない。というか目先が利いている。アメリカでの修士論文(2012年)はなんと南蛮屏風、これは三度目のビックリだった。一面識もないけれど、影ながら応援したいと思うが、すでに世界的に実力が認められているらしいので、なにをか言わんやだ。

 とりあえず以下でベネツィアでの沈船調査が読める。https://bunshun.jp/articles/-/46647

【追記】水中考古学に関しては大先達がいらっしゃった。私も持っていた中公新書の著者で、井上たかひこ氏。私より4歳年上で、あれれ、出身大学は山舩くんと同じ法政大学、ただし経済学部だが、なんと留学先も同じだったとは(https://koken-publication.com/archives/653)。ご両人に共通するのは、一念発起したからには体当たりで突き進む馬力のような気がする。

 また書籍をググっていたら、以下も見つけた。そろそろこの分野、旬なのかもしれない。いやそうであってほしい。中西 裕見子・片桐 千亜紀『地中海の水中文化』(世界の考古学)、同成社、2020年。これは大学図書館にもあった。

【関連で】

 古代ローマの商船の3D画像作成。いい時代になったものだ。

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ヴェローナで今度は火災に遭った邸宅出土。

 昨年紹介したかものヴェローナから(郊外のNegrar di Valpolicellaで後3世紀にさかのぼるヴッラからモザイク発見:

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/05/roman-floor-mosaics-brought-to-light-at.html)、今回は、1930年代の映画館で、20年以上放置されていて改装中のAstra cinemaの地下室から紀元後2世紀の大規模な構造物がフレスコ画の残った壁とともに出土した。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/06/ancient-roman-building-with-magnificent.html

 発掘者たちは、屋根が崩壊し焦げた木製家具が出てきたので、火災後放棄されたと見ている。

 以下、動画参照:

 映画館建てたとき、地下室掘ったわけだから、遺跡があるのは当然分かっていたわけであろう。

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