それをやはりGoogle Earthのストリートビューの画像で紹介しよう。現代のテヴェレ川の湾曲部の凹の地点にコンクリートを15m×10m の長方形に平打ちした感じの簡易船着き場がある。そこから下流にさらに175m 歩くと葦に遮られて道が途絶えてしまう。地図的にはその葦原を250m 突破するとヨットハーバーに出ることできるようにおもえるのだが、その時の私はそれを試みる体力が奪われていたので、オスティア遺跡に帰り着くべくUターンした(グーグル・アースで後からみると、船着き場に降りないでそのまま遺跡の北側にそって河口方向に向かう道もあるようだ。次回があれば試してみたいが、それにしたところでヨット・ハーバー目前で「Da qua nun se passa,toma indietro」とわざわざ表記されているので行き止まりとなっているのだろうし、藪を突破したところでヨット・ハーバーの柵があるだろう)。その船着き場から約1km 弱のところに例の石柱が立っているわけだが、まずは船着き場から140m 戻ると左側に2軒ほど民家があり(番犬がいてやたら吠える)、右側はオスティア遺跡事務所(コ字型のピンクの天井)の裏口といった趣の三叉路に出る。そこから川筋を遡上すると来た道になるが、今回の復路は三叉路の右であった。そこをものの20m も歩かないうちに,私は道路面の変化に気付いてしまったのだ。
また、この石が敷きつめられているのが、現在の道幅の半分、せいぜい2m なのはなぜか、これも疑問である。もともと2m 幅だったのが、現代生活で不可欠な自動車の普及で道幅を拡張したのではないか、というのがど素人の私の思い付きなのだが、どうだろう。川端近くの三叉路付近には先に述べたように1、2軒の民家しかないが、オスティア遺跡の裏口として物品の運搬時に8トン・トラックにしたところで車幅は2m強なので、この道の使用も十分可能だからである。この件は、遺跡内を避けてその東西大通りdecumanus maximus の北側を遺跡入場口受付から事務棟、さらにはその奧の収蔵庫にむけて走っている舗装道路の道幅も4.4m とほぼ同じことも、それを傍証しているように思える)。
船着き場から人家まで約500m のこの道は、おそらくかつて大湾曲していたFiume Morto 沿いの道にほぼ相当していたのではという私の直感が正しければ、往時、奴隷や牛に曳かせてテヴェレ川を平底船が帝都ローマまで遡上していた運搬路があったことは確かで、しかし、その時のものと断言するのはさすがに勇気がいるが、大湾曲部分が洪水でFiume Mortoとなってしまった1557年まで、この道は河沿いの道路として機能していたのは確実といっていいように思うが、どうだろう。
かのお屋敷(といってもそれほどの豪邸にはみえないが)は、オスティア遺跡だと以前このウェブで扱ったことのある「御者たちの浴場」Terme dei Cisiarii (II.2.I3) の北側真裏になる。今から20年も前そういえば、ミトラエウムを探しあぐねて格子越しにのぞき込んで、境界に設置された頑丈な金属製の柵に寄りすがって「ここにあるんだろう。入りたい」と嘆息したことを思い出してしまった。
堀賀貴編著『古代ローマ人の都市管理』九州大学出版会、を読んでいて、関連でちょっと調べたら、アルドブランディーニ家がらみで偶然2、3つの事例が引っかかってきた。
ことの発端は以下である。ティベリス川の洪水に古来悩まされ続けたローマは、河岸河床監督官を定めたというくだりで、その官職名curatores riparum et alvei Tiberis をググっていて(それはそれで、「使徒行伝」13.4-12に登場するキプロス総督[正確には騎士身分から派遣される管理官procuratorのはず]Lucius Sergius Paulus/Paullusと関係あるかものという名前も出てきて、知らなんだ〜と大いに興奮したのだが、念のためと田川建三大先生の注解書を開いてみたら、すでにK.Lakeが1933年の注解書でちゃんと説明しているように同一人物とはいえない、とそっけなく却下なさっていて、私はエウセビオス研究がらみでかねてK.Lake先生のご研究を尊敬してきたので、こりゃもうあかんとガックリ)、たまたまなんと、curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica もヒットした。
おいおいこれはなんなんだ、そんな官職オスティアにあったって聞いてないよ〜とそっちをググり出すと、Mauro Greco氏が2018/2/4にアップされた「Il cippo dei Curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica」(http://visiteromeguide.altervista.org/cippo-dei-curatores-riparum-alvei-tiberis-ostia-antica/)が引っかかった。最近クラウディウス帝のローマ市域石標pomerium cippus を紹介していたので、あれれこんなものオスティアにあったかいなと、レジメ作成作業を中断してとうとう大幅に横道にそれることに。Mauro Greco氏によるその紹介文に「オスティア・アンティカをよく知る人なら、遺跡の左側にあるアルドブランディーニ家の敷地に沿った未舗装の道を散歩したことがあるだろう。アルドブランディーニ家の敷地に通じる大通りから数十メートルのところにある分かれ道で、2つの大きな石柱に出会う」とあって、これまたはじめて知った「アルドブランディーニ家」Aldobrandini という存在(ググってみれは、これはフィレンツェ起源の大変な名家だった。以下の[付記]参照)や、それが遺跡の左側にあるという叙述に、どっちから見て左側なんだ、現在牧場風の空間が広がっている右側の間違いじゃないの〜、と首を傾げながら、Google Earthで検索したりググってみたりする中で、今度は「Mithraeum Aldobrandini」なんてものもヒットして(http://www.visitostiaantica.org/en/2017/07/02/the-mithraeum-aldobrandini/:但し、Stefania Gialdroni女史撮影の掲載写真は表紙の1枚を除きすでに見ることできなくなっている)、これはひょっとして20年も前に気になって探していた19番目のミトラエウムのことでは、と。
昔、オスティア遺跡にあるミトラエウムに興味を持ち調べたときの知識では、オスティアのローマ側からの入城門 Porta Romana門の右側城壁をテヴェレ川方向に辿ると塔があって、そこがミトラス教の祠だった、というごく簡単な説明しかなかったと記憶しているが、現地で遺跡とテヴェレ川の間のそれらしい場所を見当つけて道伝いに探し歩いたこともあったのだが、農地と私有地だらけで、その上甲高い番犬どもに吠えられたりで目的を果たせなかった過去があった。今回みつけた写真はあのとき探せなかったのも道理で、「塔」というにはおこがましい小型の構造遺物で、しかも「アルドブランディーニ家」の私有地の中にあって非公開ということも分かり、まあこれで一応積年の疑問を解消することができただけでなく、上記ウェブ掲載のリンク先に飛んでみるとなんとそれは例の「OSTIA:Harbour City of ancien Roma」で、いつの間にか充実した記事となってアップされていて(https://www.ostia-antica.org/regio2/1/1-2)、めでたく写真や碑文も入手できたのである。そのウェブの管理人Jan Theo Bakker氏の尽力はかくも偉大なのである。これはこれで十分紹介する内容を備えているので、誰か手早く紹介すればいいのになと思わざるを得ない。ああ、天我をして十年の命を長らわしめば・・・。
さて本論のcippusに話を戻したいが、それは続きで。最後にGialdroni女史撮影の「塔」の表紙写真を転載させていただこう。
ところでこの項目、なんど段落切っても修正されない。どうしたことか。読みづらくて申し訳なし。
[付記]2021/11/24 帝都ローマのトラヤヌス市場の3D画像をGoogle Earthで切り取ろうとしたら、そのすぐ北に「Villa Aldobrandini」を見つけてしまった。これは今は庭園だけのようだが、フラスカーティには文字通りの豪邸があるようだ。
この数字をみて、フォロ・ロマーノには「黄金の里程標」Miliarium Aureum なる里程標基準点があって(これは俗称で、「帝都里程標(基準点)」Miliarium Urbis が正式名称だった由)、ロストラ(演説台)の左側に位置しているという私のこれまでの常識が揺らいでしまったのだ(なお、対照的にロストラの右側には「帝都ローマ基準点」Umbilicus Urbis Romae があった:これも里程標基準点とよく誤解されているのでご注意ください)。
いったいどういうことなんだと、逆走しての到達点、ヴェネツィア広場と大競技場手前をしばし眺めているうちに ・・・ おおひょっとしたら、と思いついたのがRomaのpomerium、具体的には前6〜4世紀初頭にかけて建築されたセルウィウス王のそれじゃないかと。で、それを地図で重ねてみると、あ〜ら不思議、まさしく合致しちゃったのであった。